一七五一年四月二十二日、イングランド南部ハートフォードシャーの田舎道を、触れ役が歩いていた。ウィンズロウ、レイトン・バザード、ヘメル・ヘムステッド、三つの町に同じ文句が貼り出され、同じ声で読み上げられた。魔女とその亭主を、ロング・マーストンの池で水責めにかける。日時はいつ、場所はどこ。要するに公開イベントの告知だ。
入場無料、見物歓迎。
集まったのは数千人、同時代の報告は五千人と書いている。人口数千人の町の話である。つまり、そのへんの村が丸ごと空になって池のふちに立っていた。
これは中世の話ではない。バッハが死んだ翌年で、ベンジャミン・フランクリンが凧を揚げる前年だ。イングランドではすでに一七三五年に法律が変わり、「魔女なんてものは存在しない」と国が公式に決めていた。魔女術で人を告発することのほうが犯罪になった。にもかかわらず、五千人が池のふちに立っていたわけだ。
この記事は、その池に至るまでの五百年の話をする。冷水神判という中世の発明が、どうやって教会から追い出され、どうやって魔女狩りの道具として復活し、どうやって国家が手を引いたあとも村の中で生き延びたのか。そして、人間の身体に「悪魔の印」を探すという、もうひとつの検査装置の話も。
最初に結論めいたことを言っておく。この装置は、精度が低かったから残酷だったのではない。どう転んでも同じ結論に着地するように設計されていたから残酷だったのだ。
池のふちの一日――ルース・オズボーンに起きたこと
話を一七五一年に戻す。
きっかけは六年前にさかのぼる。トリング近郊のガブルコートに、ジョン・バターフィールドという農場主がいた。あるとき、ルース・オズボーンという貧しい老女がバターミルクを分けてくれと頼み、断られた。ルースはぶつぶつ何か言って去ったのだ。ジャコバイトの僭称者がどうこう、という趣旨だったと伝わる。
当時のイングランドで、これは政治的にきわどい捨て台詞だ。
そのあとバターフィールドの仔牛が病気になった。さらに本人が発作を起こすようになった。今日の目で見れば、てんかん様の症状だ。だが村の理屈では、あの婆が呪ったのだ、で話が終わる。
ルースとその夫ジョンは救貧院に暮らしていた。つまり教区の扶助を受ける、村でいちばん立場の弱い夫婦である。噂が固まっていく数年のあいだ、二人には抵抗する手段がなかった。
四月二十二日、群衆が救貧院に押しかけた。教区の役人たちは夫婦を教会の香部屋にかくまっていたのだ。群衆は救貧院の管理人ジョン・トムキンズを締め上げ、居場所を吐かせた。ここが肝心なところで、地元の行政と教会はちゃんと止めようとしている。止めようとして、押し切られている。
夫婦は香部屋から引きずり出され、衣服を剥がれ、縛られ、ロング・マーストンの池に投げ込まれた。記録には、ルースが浮き上がってこないように棒で突かれた、とある。彼女は泥の中で息を詰まらせて死んだ。同時代の言い方では「素っ裸で、泥にほとんど窒息して」。夫のジョンは生き延びたが、あとで証言できる状態ではなかった。
この日、群衆から金を集めて回った男がいた。トマス・コリー、煙突掃除職人、見物料である。彼は「見せ物を提供した礼」として金を受け取った。ここに、この装置のいちばん醜い部分が出ている。神判は宗教儀式の顔をしているが、現場では興行だった。
コリーは殺人で起訴された。ほかにも二十人以上が訴追対象になったが、実際に絞首刑になったのは彼一人だ。七月三十日、ハートフォード巡回裁判で有罪。八月二十四日、ガブルコート・クロスで処刑され、遺体は鎖で吊るされて晒された。
処刑の前、彼の懺悔文が読み上げられた。「魔女などというものがこの世に存在するとは、私は信じない」。本人が心からそう思ったかは分からない。国家が村に向けて読ませた台詞だと考えたほうが自然だ。
そして群衆の反応がすごい。同時代の報告によれば、見物人たちは不満そうにぶつぶつ言っていた。魔女を殺したくらいで人間を吊るすのは酷い話だ、と。
国家は「魔女はいない」と宣言した。村は「いや、いる」と答えた。一七五一年の池は、その二つの答えが正面衝突した現場だったのだ。
神は水に宿っていた――冷水神判という中世の発明
では、この装置はどこから来たのか。
いちばん古い先祖はメソポタミアにいる。ハンムラビ法典の第二条に、告発された者を川に投げ込む手続きが書かれている。証明の難しい罪、たとえば呪詛や姦通の告発に対して、川が判定する。ここでは沈んで死ねば有罪、生きて上がれば無実だ。ヒッタイト、エラム、アッシリア、バビロニアの法文にも同種の規定があり、この発想はおよそ二千年ものあいだ、セム語圏とインド・ヨーロッパ語圏の両方で使われ続けた。
つまり「水に人を放り込んで神に決めさせる」というアイデアは、キリスト教の発明ではまったくない。人類がやたら長いこと手放せなかった、かなり普遍的な癖である。
ヨーロッパで冷水神判が制度として姿を現すのは九世紀ごろ、カロリング朝の時代だ。ラテン語で言うところの冷水の審判、ユーディキウム・アクアエ・フリギダエ。これは決闘裁判や熱鉄神判、熱湯神判と並ぶ、いわゆる神判、ユーディキウム・デイの一種だった。神が直接介入して有罪無罪を示す、という建前である。
決定的なのは、これが教会の儀式として整備されたことだ。司祭が水を祝別する。ミサが立てられる。祈祷文が唱えられる。場所は洗礼盤のそば、あるいは川岸で、その川はヨルダン川に見立てられる。
要するに、冷水神判は洗礼の劇的な再演として設計されていた。
そして、ここでメソポタミアの論理が反転する。
洗礼の水は清い。清い水は、悪しきものを受け入れない。だから、水が受け入れて沈めた者は清い。水が拒んで浮かせた者は汚れている。沈めば無実、浮けば有罪、ハンムラビの川と正反対の判定になったのは、神学が上書きしたからだ。
イングランドではこれが世俗法にきっちり組み込まれた。アゼルスタン王の法(十世紀前半)、エゼルレッド王の法(十一世紀初頭)、征服王ウィリアムの法(十一世紀末から十二世紀初頭)に神判の規定がある。運用の痕跡も残っていて、一一六六年と一一七六年の財務府記録には二十件を超える神判の実施が記録されている。神判は特殊な奇談ではなく、日常業務だった。
なぜこんなものが機能したのか。ひとつには、証拠法が未熟だったからだ。目撃者もいない、物証もない、当事者の言い分が真っ向から対立する。こういう事件を放っておくと、共同体の中で私闘が始まる。神判は「誰も納得していないが、全員が受け入れる終わり方」を人工的に作る技術だった。
決着させることそのものに価値があった。
もうひとつ、身も蓋もない事情がある。神判にかけられると分かった時点で自白する者が相当いた、という指摘がある。神が本当に見ていると信じている社会では、神判の予告そのものが自白剤として働く。装置は、実施される前から仕事をしていた。
一二一五年、教会が手を引いた日
だが十二世紀から十三世紀にかけて、教会の内部でこの装置への疑いが膨れ上がる。
理屈は二段構えだった。第一に、聖書のどこにも神判の根拠がない。第二に、そして本質的に、神判は神を試す行為である。人間の都合で「さあ神よ、いま奇跡を起こしてください」と要求するのは、敬虔ではなく傲慢だ。
決着がついたのが一二一五年、第四ラテラノ公会議だ。教皇インノケンティウス三世が招集したこの巨大な会議は、告解の義務化など後世に効く決定を大量に出したが、そのひとつが神判の切断だった。
条文でいうと第十八条。中身は聖職者と流血の切り離しで、聖職者は流血を伴う判決を下してはならない、そういう刑の執行に立ち会ってもならない、傭兵を率いてもならない、焼灼や切開を伴う外科術を行ってもならない、と並ぶ。そして最後に、熱湯・冷水・熱鉄のいずれの神判にも祝別を与えてはならない、と書かれている。
ここが要点であり、公会議は「神判は禁止する」とは言っていない。「聖職者は関わるな」と言ったわけだ。
だが実質的にはこれで死んだ。冷水神判は司祭の祝別があってはじめて成り立つ儀式だった。水を清めるのは司祭で、清められた水だからこそ判定ができる。祝別なしの池はただの池である。宗教的な意味を抜かれた瞬間、装置はただの水責めになった。
各国の反応は速かった。イングランドではヘンリー三世が一二一九年に令状を出し、神判を使うなと巡回裁判官に通達したのだ。困ったのは裁判官のほうで、これまで神判に投げていた事件をどう処理すればいいのか分からない。この空白を埋めるために発達したのが陪審制だ。イングランドの陪審裁判は、神判が消えた穴に流れ込んで大きくなった。
世界史の教科書に載る話が、この禁令から生まれている。
大陸では、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世が一二三一年のメルフィ憲章で神判を否定した。彼の言い分は神学ではなく自然哲学に寄っていて、熱した鉄や煮え湯が人の罪を見分けるというのは物の道理に反する、という調子だった。中世の皇帝が十三世紀に言っていることが、四百年後の魔女狩り批判者の言い分とほぼ同じだ、というのが皮肉な事実である。
こうして十三世紀のうちに、冷水神判はヨーロッパの公式な司法から退場した。三百年ほど、記録の表舞台から消える。
三百年後、それは別の顔をして帰ってきた
再登場は十六世紀後半だ。しかも今度は、魔女という新しい罪名に貼り付いて戻ってくる。
魔女術という犯罪には、致命的な捜査上の特徴があり、物証がない。悪魔との契約という核心部分は、目に見えない場所で起きたことになっている。誰も見ていない、書類もない、被害の因果関係も証明できない。中世に神判が担当していた「証明不能な事件」のカテゴリーが、そっくりそのまま復活したわけだ。
装置が呼び戻されたのは、必要な穴が再び開いたからだった。
理論化の現場をひとつ押さえておきたい。一五八三年の秋、現在のドイツ北西部リッペのレムゴーで魔女裁判が行われた。三人の女性が処刑され、別の三人が水審にかけられた。これを見物していたのが、ヴィルヘルム・アドルフ・スクリボニウスという学者である。
彼は最初、懐疑的だった。ところが現場を見て、意見をひっくり返す。そして翌年以降、水審の理論的擁護者としてヨーロッパじゅうに知られることになる。
彼の理屈が面白い。悪魔と契約した者は、身体そのものが変質する。霊的な軽さを帯びて、水に浮くようになる。しかもこれは悪魔が許しているのだ、と彼は言う。悪魔は隠れて活動するものだが、神の許しの範囲内で、自分の存在を可視化する印を残す。
水審は、その印を読み取る手続きなのだ、と。
彼の記述には手続きも書いてある。右手と左足、左手と右足を交差させて縛り、水に三度沈める。浮けば有罪、沈めば無罪、この「交差縛り」の記述は、以後ヨーロッパ各地の記録に繰り返し出てくる。対角に縛ることで人体を丸めた形にし、泳いで抵抗する余地を奪う発想だ。建前としては腰に綱を回して引き上げるので死なない、ということになっていた。
建前としては。
面白いのは、当時の学界がスクリボニウスにかなり冷淡だったことだ。翌一五八四年、ヘルマン・ノイヴァルトが真正面からの反論書を出す。医師ヨハン・エヴィヒも批判に加わった。魔女の実在を信じる学者たちのあいだですら、水審は評判が悪かった。それでもスクリボニウスは一五九〇年ごろまで擁護論を書き続けたのだ。
つまり水審は、当時の知的エリートの合意によって復活したのではない。むしろ学者の多数派が「それは違う」と言い続けるなか、現場と権力の側が採用したから広まった。装置の普及は、理論の正しさとほとんど関係がなかった。
洗礼の水は魔女を吐き出す――王が書いた理屈
そして、決定的な後押しをした人物がいる。スコットランド王ジェームズ六世、のちのイングランド王ジェームズ一世だ。
一五八九年、彼はデンマーク王女アンとの結婚のために海を渡った。帰りの航海が荒れに荒れ、一行はノルウェーに何週間も足止めされる。この嵐が、ヨーロッパ史のかなり大きな分岐点になった。
コペンハーゲンでは魔女が嵐を起こしたという告発が始まった。スコットランドに戻った王は、同じ発想を持ち帰る。こうして始まったのがノース・バーウィック魔女裁判だ。一五九〇年から二年にわたり、七十人以上が関与を疑われ、百人を超える者が逮捕された。
名前が記録に残っている人々がいる。ジェイリス・ダンカンという若い召使いは、不思議な治癒の腕前と夜の外出を怪しまれ、身体を検められて「魔女の印」を見つけられ、拷問のすえに大量の名前を吐いた。アグネス・サンプソンという年配の女性は苛烈な扱いを受けたのち、絞められてから焼かれた。学校教師のジョン・フィアンは十二月十六日に火刑、ユーフェイム・マッカルジャンは一五九一年六月二十五日に焼かれたのだ。
バーバラ・ネイピアも訴追されたが、最終的な処遇ははっきりしない。
王は取り調べに直接関与した。これは異例中の異例だ。国王が魔女の供述を自分の耳で聞き、質問を投げ、納得したりしなかったりしている。
その経験を踏まえて、一五九七年に王が書いた本が『デーモノロジー』である。対話形式で書かれた薄い本だが、影響力は本の厚さと無関係だった。
この本の中で、王は水審に神学的なお墨付きを与えている。論理はこうであり、魔女は悪魔と契約するとき、自分の洗礼を否認する。水は洗礼の元素であり、だから水は、自分を拒んだ者を胸に受け入れることを拒む。
ゆえに魔女は浮く。
美しい理屈であり、そして完全に反証不能である。
面白いのは、彼がイングランド王になったあと、この原則を法として強制した形跡がないことだ。水審はイングランド法の手続きではなかったし、王が全国に命じたわけでもない。にもかかわらず、王の本に書いてあるという事実だけが独り歩きした。四十年後、イングランドの田舎で人を池に投げ込む男たちは、王の名前を引用することになる。
実務としての水審――どう転んでも助からない設計
ここで、装置の設計思想を冷静に見ておきたい。
まず、判定の非対称性がひどい。浮いたら有罪であり、有罪ならその先に待つのは裁判と、多くの場合は処刑である。では沈んだらどうか。無罪だ。
ただし、沈むというのは水中にいるということである。
建前上は綱で引き上げることになっていた。実際に引き上げられて助かった記録もある。一七七六年七月二十日にサフォークのファーナムで水審にかけられた男は、沈んだところを見物人の一人が救い出している。一七九二年にサフォークのスタニングフィールドで沈んだ老女は、ほとんど息のない状態で引き上げられた。命は助かった。
助かったが、その代償は生涯続くことがある。
そして、ここからが本当の問題だ。沈んで無実と出ても、村の側の疑いは消えない。魔女の疑いは行政的な認定ではなく、社会的な評判である。池から引き上げられた老女に、翌日から近所づきあいが戻ってくるかというと、そんなわけがない。
第三に、浮力の物理が全部を台無しにしている。人間は肺に空気が入っていれば、だいたい浮く。厚手の毛織物の衣服は空気を含む。恐怖で息を詰めれば浮力が増す。冷水に落とされた瞬間の呼吸反射も浮きやすさに働く。
つまりこの検査は、有罪の者を浮かせる検査ではなく、着衣の人間を浮かせる検査だった。
同時代の証言がそれを裏づけている。一七一七年のレスターシャーの事件では、水に入れられた三人が「コルクか空樽のように」浮いたと証言されている。一八二五年のサフォークの事件では、六十七歳の男が水面に十分間仰向けで浮いたまま、手足ひとつ動かさなかったと記録されている。「まるで水に浮かんだコルクのようだった」。彼らは魔女だったのではない。
人間だったのだ。
第四に、この装置は被験者の側から要求されることがあった。ここが理解しにくいが、決定的に効いている。魔女の噂を立てられた人間にとって、噂は生活を破壊する。商売ができない、隣人が口をきかない、子どもが石を投げられる。潔白を証明する公的な手続きが存在しない以上、水に飛び込んで見せるのが唯一の反撃手段になる。
マシュー・ホプキンズの相棒ジョン・スターンは、水審は被疑者自身が求めたときにしか使わなかった、と主張している。自己弁護なので割り引いて読むべきだが、そういう構図が実在したのは確かだ。一八二五年のサフォークの男は、自分から水審を要求した。オランダでは一八二三年になってもなお、ある女性が名誉回復のために当局に水審を実施してくれと要求している。
装置は、それを恐れる者だけでなく、それに救いを求める者によっても生き延びた。ここが恐ろしいところだ。
なお、よく混同されるが、椅子に縛って水に浸ける「ダッキング・スツール」は別物である。あれは口喧しい女という罪状に対する刑罰で、有罪が決まったあとに執行される。水審は判定装置、ダッキング・スツールは刑罰、目的がまるで違う。絵面が似ているせいで、後世の本でしばしば混ぜられている。
身体に印を探す――「魔女の印」という第二の装置
水審と並んで使われたのが、身体検査だ。
理屈の骨格はこうなっている。悪魔と契約すると、身体のどこかに契約の印が残る。大陸とスコットランドの理論では、それは痛みを感じない皮膚の一点だとされた。イングランドでは少し系統が違って、使い魔に乳を与えるための余分な乳首だ、という発想が強かった。使い魔というのは猫や蟇や鼠の姿をした小さな悪魔で、魔女はそれを飼っていることになっていたわけだ。
どちらの理論も、共通する構造を持っている。人間の身体には、ほくろ、母斑、瘢痕、いぼ、あざが必ずある。老人ならなおさら多い。つまり「印を探す」検査は、探せば必ず見つかる検査だった。
そして、探す側は専門職になった。スコットランドではこれをプリッカー、あるいはブロダーと呼んだ。彼らは細い針を使って、痛みを感じない箇所を探す仕事をしていた。ここでは手続きの詳細には踏み込まない。踏み込む必要もない。
制度として見るべきなのは、この職業に報酬が付いていたという一点だ。
トラネントのジョン・キンケイドは、一六四九年から一六六二年までスコットランド各地を巡回した。ダルキース、ダーリトン、フォーファー、キンロス。マーガレット・ダンホルムの件では六ポンド、加えて飲食費として四ポンドを受け取った記録がある。魔女を一人見つけるごとに金が入る仕事であり、彼のキャリアは一六六二年に終わる。
枢密院が詐欺と欺瞞で有罪とし、二か月以上投獄した。
保釈の条件は、二度と針刺しをしないことだった。
もっとすごい例がある。クリスチャン・カデル、あるいはカルドウェルという女性だ。針刺し人は男の職業だったので、彼女はフォーファーの市民ジョン・ディクソンという男を名乗って現場に入った。一六六二年三月にエルギンに到着し、市参事のジョン・イネスと契約する。日当六シリング、魔女を一人見つけるごとにスコット貨で六ポンド。
彼女はタインやストラスグラスまで足を延ばした。
エルギンで二人、フォーレスで二人、インヴァネスでも死者が出ている。確認できるだけで六人、影響を受けた有罪判決は十件に及ぶという見方もある。
彼女の手口について残る記録が痛烈だ。針を使っていたのではなく、目を見れば魔女が分かる、と言い張っていたという。彼女はエディンバラのトルブースで女性であることが露見し、メアリー・オブ・リースという船でバルバドスへ年季奉公として送られた。そこから先の記録はない。
そして、この職業に決定的な不名誉を与えた事実がある。柄の中に引っ込む針が存在したのであり、刺したように見えて刺さっていない。当然、被験者は痛がらない。当然、印が見つかる。
こういう道具が実在したという指摘は、当時からあった。枢密院がキンケイドを詐欺で裁いたのは、そういう空気の中でのことだ。ただし忘れてはならないのは、仕込み針がなくても同じ結果が出せたということだ。皮膚には鈍い部位があり、恐怖と疲労は感覚を狂わせる。
何時間も続けられれば、どこかで反応が鈍る瞬間が来る。装置は不正がなくても機能不全だった。不正はそれを加速しただけである。
「魔女狩り将軍」の商売――一つの町、二十シリング
イングランドで水審の名を歴史に刻んだのは、マシュー・ホプキンズだ。
彼は牧師の息子で、法律をかじった程度の若い男だった。一六四四年三月、エセックスのマニングトリーで活動を始める。相棒はジョン・スターン、時は内戦の真っただ中で、巡回裁判の秩序が緩み、地方の統制が効かなくなっていた。この隙間に彼らは滑り込んだ。
最初の標的はエリザベス・クラークという片脚の老女だった。ここから告発が連鎖し、一六四五年七月のチェルムスフォード巡回裁判では十九人が絞首刑になる。同年八月のベリー・セント・エドマンズでは、一日に十八人が吊るされた。
彼らの活動範囲はサフォーク、エセックス、ノーフォーク、ケンブリッジシャー、ハンティンドンシャーを中心に、ノーサンプトンシャーとベッドフォードシャーの一部にまで及んだ。三年ほどの活動で、彼らはそれ以前の百六十年間にイングランドの魔女狩り人全員が送り込んだ数より多くの人間を絞首台に送った、と評価されている。
金の話をしよう。ホプキンズ自身の弁明によれば、報酬は一つの町につき二十シリング。ときには二十マイル馬を走らせてその額だ、往復の経費でほとんど消える、と彼は書いている。慎ましい額に聞こえる。だが実際の請求はそんなものではなかった。
ストウマーケットの町が支払った額は二十三ポンドに達した。現在の貨幣価値で数千ポンド規模である。
イプスウィッチにいたっては、一六四五年に魔女狩りの費用をまかなうための特別税を設けている。
町が税を新設してまで魔女狩り人を呼ぶ。この一点に、装置が自走した理由がある。魔女を見つける人間が食える構造を作れば、魔女は必ず見つかる。
ホプキンズの手法は、水審、身体検査、そして「見張り」と「歩かせ」だった。後者は要するに睡眠を奪う手続きで、彼自身は「使い魔を呼び寄せさせるため起きていてもらった」と説明している。乱暴な言い訳だ。彼はまた、田舎の連中が自分の指示を超えて被疑者を虐待したことがある、とも認めている。
もっとも生々しい事例がジョン・ラウズだ。サフォーク州ブランデストンの教区牧師で、当時およそ八十歳。彼は教区民と折り合いが悪かった。カトリック寄りだと疑われ、喧嘩っ早く、教会の庭で信者を殴ったこともある。そして、魔女と告発された女性をかばったことで、自分が魔女ではないかと疑われるようになった。
フラムリンガムで、彼は水に投げ込まれた。さらに何度も歩かされ、何晩も眠らせてもらえなかったのだ。八十歳の男がそれに耐えられるはずがない。彼は自白した。自白の内容は、使い魔に命じて嵐を起こさせ、ハリッジ沖で船を沈め多数の命を奪った、というものだ。
ここが本当に信じがたいところだが、裁判所はこの主張を裏取りしなかった。ハリッジ沖でそんな船が沈んだ記録があるのかどうか、誰も調べなかった。一六四五年八月二十七日、ラウズはベリー・セント・エドマンズで十七人とともに絞首刑になったのだ。伝承では、彼は絞首台で自分自身のための埋葬の祈りを唱えたという。
ホプキンズの終わりは静かだった。ノーフォークの巡回裁判官たちが、彼の手法と法外な報酬に疑問を投げつけた。彼は一六四七年に『魔女の発見』という小冊子を出し、突きつけられた質問に一問一答で答えたのだ。水審に関する項目で、彼はジェームズ王の理屈をそのまま引用している。魔女は契約のとき洗礼を否認する、水は洗礼の元素である、ゆえに水は彼らを受け入れない。
そして同じ項目の最後に、こう書いた。水審は、自分が敬意を払う有能な神学者たちによって不適当とされた。ゆえに近ごろは行っておらず、今後も永久に行わない。
装置を最も広く使った男が、装置を捨てて弁明した。それが一六四七年であり、彼はその年の八月十二日、マニングトリーで死んだ。おそらく胸膜結核だったとされる。
大陸のやり方――ハンガリーの干ばつ、オランダの天秤
イングランドの話ばかりしていると全体像を見誤る。地域によって、この装置の使われ方はまるで違った。
ハンガリーとトランシルヴァニア一帯では、水審は十七世紀末から十八世紀前半にかけて最も盛んだった。記録上いちばん早いのは一五八八年のコロジュヴァールの事例だとされる。そしてここには、ヨーロッパ西部とは決定的に違う特徴があった。
集団で泳がせるわけだ。
上部ハンガリーの諸県では、複数の容疑者をまとめて水に入れる方式が主流だった。そしてこのやり方は、干ばつと強い相関がある。一七〇八年のビュードの証言には、雨が降らないから疑わしい者たちを泳がせようという話になった、という趣旨のことがはっきり書かれている。一七一〇年のティサケシの事例では、女性が縛られて川に浸けられ、そのあと手を後ろ手に縛られたまま庭へ引きずられている。
つまり中欧・東欧では、水審は「誰が犯人か」を決める装置であると同時に、雨乞いの儀式でもあった。魔女が天候を止めているという信念があり、水に入れる行為そのものが呪術の解除として機能していた。気候史の研究と突き合わせると、十八世紀初頭の気候悪化と告発の急増がきれいに重なる。飢えた村が空を見上げ、隣人を池に投げた。
一方、トランシルヴァニアの都市部では個人単位の水審が中心で、これは西欧の悪魔学の型に近い。同じ王国の中でも、村と都市で装置の意味が違っていた。
その延長線上にあるのが、一七二八年から翌年にかけてのセゲドの魔女狩りだ。ハンガリー史上おそらく最大規模の魔女狩りである。背景には干ばつ、飢饉、疫病があった。標的にされたのはダーニエル・ローザ、八十二歳の元判事で、町でいちばんの富裕者だった。彼を魔女の首領だと告発したのは、コケーニネー・ナジ・アンナという産婆である。
この構図が異様だ。最も権威ある老人が、最も周縁的な職業の女性の告発で崩れている。
一七二八年七月二十三日、男六人、女六人の計十二人が、ボソルカーニ・シゲト、すなわち魔女島と呼ばれる中州で焼かれた。この事件全体では二十八人が告発され、十三人が焼かれた。ここでは水審と体重測定の両方が使われている。
ハンガリーの魔女裁判は、マリア・テレジアが一七五六年に出した勅令で事実上終わる。魔女裁判を上級裁判所の確認事項にしたことで、地方の暴走が止まった。最後の処刑は一七七七年だ。
そしてオランダ、ここは全く違う方向に行った。
ホラント高等法院は一五九三年六月、スヒーダムから上がってきた魔女術による死刑判決を破棄した。これが実質的にホラント州での魔女処刑を終わらせる先例になる。ユトレヒトが一五九六年、フローニンゲンが一五九七年、ヘルダーラントが一六〇三年に続いた。北部ネーデルラントで最後の大量処刑は一六一〇年のブレデフォールト事件で十人。
北部全体の犠牲者は百六十四人から二百人ほどと見積もられ、確認できる百六十四人のうち百五十五人が女性だった。
そのオランダに、世界でもかなり奇妙な施設があり、アウデワーテルの計量所だ。
ここでは、魔女の疑いをかけられた人を秤に載せた。理屈は単純で、箒に乗って空を飛ぶ魔女は身体が軽いはずだ、という前提である。そして体重が身長に見合って正常であれば、あなたは魔女ではないという証明書が発行された。ヘーヴィンヘの証明書、と呼ばれる紙切れだ。
伝説では、この特権は皇帝カール五世が一五四五年に与えたことになっている。伝説の真偽はさておき、確かなのは実務のほうだ。ここで魔女と判定された人間は一人もいない。秤は一四八二年製の本物が今も残っている。人々はヨーロッパ各地からわざわざここへ来て、体重を測って、紙をもらって帰った。
考えてみてほしい。これは魔女検査の顔をした無罪証明書の発行所である。そして実際、この紙は効いた。一六九四年にアールチェ・ブラウエルという女性は、水審を受けたのちアウデワーテルで体重を測っている。同じ人物が二つの装置を渡り歩いている。
片方は殺す装置、片方は救う装置であり、設計次第で、こうも変わる。
名前が残った人たち
記録に残る個別の事例を、もう少し丁寧に見ておきたい。装置の話は抽象的になりやすいが、池に入れられたのは全員、名前と生活を持った人間だった。
一七一七年、レスターシャー州グレート・ウィグストン。ジェーン・クラークという女性と、息子のジョセフ、娘のメアリーが告発された。近隣の住民二十五人が、アシュビーという治安判事のもとに証言を持ち込んだ。病気にした、人を死なせた、という内容だ。
三人は水に入れられ、そして浮いた。証言によれば「沈もうとしてもコルクか空樽のように浮いた」。二十五人が口をそろえたにもかかわらず、大陪審はこの起訴を棄却したのだ。三人は解放されている。
この事件は、イングランドにおける魔女術の最後の正式な訴追として語られることが多い。同時に、法廷と村の断絶がはっきり見える事件でもある。村では二十五人が本気だった。法廷では一人も相手にしなかった。この断絶が、その後の私刑を生む。
一八二五年七月、サフォーク州ウィカム・スケイス、イサク・ステビングスという六十七歳の行商人がいた。屋根葺き職人の妻と農場主を気が触れさせた、靴職人の蝋を呪って使い物にならなくした、という噂が立っていた。
ステビングスは自分から水審を要求したのだ。噂を消すにはそれしかないと思ったのだろう。舞台は村の池、グリマーだ。四人の男が胸の高さまで水に入り、彼を仰向けに寝かせた。
そして彼は浮いた。十分間、手も足も動かさず、水面に浮いたままだったのだ。目撃者の言葉が残っている。「水に浮かんだコルクのようだった」。
三度繰り返された。三度とも浮いたのだ。三度目のあと、彼は生きているのがやっとの状態で引き上げられた。四度目をやろうという話が出たところで、地元の聖職者たちが割って入り、群衆を解散させた。
ここからが面白い。村人たちは聖職者の介入に激怒した。そして、まじない師に金を払ってステビングスに呪いをかけさせた、と伝えられている。潔白の証明を邪魔されたのは村のほうだ、という感覚だ。彼らは真実を知りたかったのではなく、決着が欲しかった。
ステビングス本人はそれから二十二年生き、八十九歳で死んだ。
一八三六年、ポーランド北部のヘル半島、ハウピという漁村、クリスティナ・ツェイノヴァというカシューブ人の寡婦がいた。彼女が疑われた理由は、教会に行かないこと、そして煙突に黒いカラスが集まると噂されたことだ。それだけである。
村人たちは彼女を舟に乗せ、バルト海に出て、海に落とした。当時すでに魔女裁判は違法で、当局はこの種の裁判をやる気などなかった。だから村が自分でやったわけだ。
彼女は長いあいだ浮いていた。衣服が空気を含んだのだろう。群衆はそれを、魔女である証拠だと解釈した。そして、溺れないと分かったので、櫂で打ち殺した。刺し殺したという異説もある。
ポーランドで記録された最後の魔女私刑とされる。
一八六三年、エセックス州シブル・ヘディンガム、ダミーと呼ばれる老人がいた。聾唖で、本名は分かっていない。生年は一七八八年ごろとされ、占いをして暮らしていた。
八月、リッジウェル出身のエマ・スミスという女性が、ダミーに呪われて病気になったと言い出した。八月三日、酒の入った群衆がスワンという宿屋から彼を引きずり出したのだ。呪いを解けと迫ったが、聞こえない耳と話せない口の男に何を迫っても答えは返らない。群衆は彼を近くの小川に投げ込み、棒で殴った。
彼はホルステッドの救貧院に運ばれ、九月四日、肺炎で死んだ。七十五歳前後だった。
エマ・スミスと、彼女に加担した棟梁の大工サミュエル・スタマーズが起訴された。罪状は、ダミーと呼ばれるフランス人の老人に対する不法な暴行。一八六四年三月八日、チェルムスフォード巡回裁判で二人はそれぞれ重労働六か月の判決を受けた。
一八六三年であり、ロンドンでは地下鉄が開業した年だ。同じ国で、聞こえない老人が小川に投げ込まれて死んでいる。
「それは違う」と言い続けた人たち
装置がいかにも当たり前だったように書くのは公平ではない。批判は最初からあった。
一五八四年、ヘルマン・ノイヴァルトがスクリボニウスへの反論書を出した。医師のヨハン・エヴィヒも批判に加わっている。同じ一五八四年、イングランドではレジナルド・スコットが『魔女術の暴露』を出した。この本は魔女術という犯罪そのものへの根本的な疑いを表明していて、ジェームズ王は激怒したと伝えられる。王の『デーモノロジー』は、そもそもスコットへの反論として構想された面がある。
十七世紀に入ると、批判は魔女の実在を信じる側からも出てくる。これが効いた。神学者ウィリアム・パーキンズは一六〇八年、すべての水が洗礼の水ではない、と指摘した。教会で祝別された洗礼の水と、村の池の水は違う。ジェームズ王の理屈は、その一点で崩れる。
医師のジョン・コッタは一六一六年、水審は存在しないところに奇跡を求めている、と書いた。自然は不変の法則に従うのであって、善人と悪人を区別したりしない、という主張だ。牧師のリチャード・バーナードは一六二七年、水審は違法であり、神に奇跡を要求する不敬な試みだと断じた。
彼らは魔女がいないと言ったのではない。魔女はいるかもしれないが、水審では見つからない、と言った。これは反証不能な理屈への、まっとうな内在的批判である。
ホプキンズの活動期には、グレート・ストートンの教区牧師ジョン・ゴールが正面から立ちはだかった。一六四六年に『魔女と魔女術に関する良心の諸事例』を出し、説教でも批判を続けた。ホプキンズが自分の町に来ることを、彼は公然と拒んだ。
そして大陸には、イエズス会士フリードリヒ・シュペーがいる。彼は魔女裁判の被告に付き添う仕事をしていた。何十人もの、これから焼かれる人間の最後の日々に立ち会った男だ。
一六三一年に匿名で出版した『カウティオ・クリミナリス』で、彼はこの装置の構造を完璧に言語化した。被告は自白するか、しないか。どちらにしても終わりだ、と彼は書く。自白すれば処刑される。否認すれば、自白するか死ぬまで拷問が続く。
反論して個々の容疑をすべて説明しても、誰も書き留めない。上手に弁明すれば、上手に弁明できること自体が魔女の証拠にされる。いったん鎖に抱かれたら、何がどうあれ有罪になるほかない。
そして拷問を受けた者は、逃れるために他人の名を挙げる。挙げる相手は、裁判官が示唆した名前か、すでに噂になっている人物だ。こうして告発は連鎖する。
シュペーが書いているのは水審のことではない。だが構造はまったく同じであり、入口が一つで出口がない。入った時点で結論が決まっている。この形の装置を、彼は十七世紀のうちに正確に解剖していた。
日本の神判と並べてみる
さて、この装置は西ヨーロッパだけのものではない。日本にも、驚くほど似た構造の制度があった。似ているところと、決定的に違うところの両方が面白い。
いちばん古いのが盟神探湯であり、『日本書紀』の允恭天皇の条に記事がある。氏姓の申告が乱れているのを正すため、甘樫丘に探湯瓮を据え、諸氏に湯に手を入れさせた。正しい者は無事で、偽る者は爛れる、という理屈だ。同じ『日本書紀』が、これを真実を明らかにする有効な手段として称える書き方と、人を無闇に苦しめる行いとして書く書き方の両方を残しているのが興味深い。
古代の編者自身が、この装置に一枚岩の評価を与えていない。
そこから七百年近く、熱湯裁判の記録がぱたりと途絶える。ヨーロッパの冷水神判が一二一五年に断絶したのと、時期はまったく違うが、構図は似ている。神判は消えるときは一気に消える。
日本で再び現れるのが湯起請だ。最も古い記録は応永十一年、西暦一四〇四年ごろ。確実性の高い記述は『教言卿記』の応永十三年七月十四日の条。そして実際に行われたと確認できる最古の事例は応永二十三年、近江国の山をめぐる争いに使われている。
やり方はこうであり、神前に当事者と幕府側の奉行衆が集まる。起請文、つまり神仏への誓約書を書いて焼く。そのうえで当事者の代表が熱湯の中の小石を取り出し、神棚に置く。そのあと三日間、神社に留め置かれる。
三日後に手を検分して、火傷があれば「失」、つまり負けだ。
数字が残っているのが凄い。応永二十三年から永禄十一年、一四一六年から一五六八年までの百五十年余りで、確認できる実施は三十二件。挑戦者六十二人のうち三十一人に「失」が出て敗訴しており、ちょうど半分だ。
この五割という数字を、どう読むか。
ひとつの読み方は、これは判定というより籤に近かった、というものだ。だがもうひとつの読み方がある。当事者双方から一人ずつ代表が出て湯に手を入れるのだから、どちらかが負ける。数字が半々になるのは制度設計上むしろ当然だ。効いているのは「必ず片方が負ける」という一点である。
つまりこれは、真実を発見する装置というより、決着を強制的に生産する装置だった。
将軍がこれを政治利用しているのも面白い。足利義教は正長二年から嘉吉元年のあいだに、自分の意思で十五例もの湯起請を執行しようとしている。政権内の異論を封じる道具として使っていたわけだ。神の名を借りると、反論のコストが跳ね上がる。
十六世紀になると湯起請は減り、より過激な鉄火起請へ移行する。焼けた鉄片を握らせるやり方だ。これは村と村の境界争い、山論の決着に使われた。江戸時代に幕府の訴訟制度が整備されると廃れ、湯を撒く神事の湯立へと姿を変えていった。
では、ヨーロッパの水審と何が違うのか。
第一に、目的が違う。日本の神判が答えようとしたのは、「誰が盗んだか」「どちらの村の言い分が正しいか」だ。争点が具体的で、当事者が二者いる。対してヨーロッパの水審が答えようとしたのは、「この人は悪魔と契約しているか」だ。相手のいない、身分そのものを問う質問である。
第二に、身体の扱いが違う。日本の神判は行為の結果、つまり火傷が出るかどうかを見た。ヨーロッパの魔女検査は、身体そのものに刻まれた印を探した。前者は「いま起きること」を見るが、後者は「すでに身体にあるもの」を探す。後者のほうが逃げ場がない。
ほくろは誰にでもあるからだ。
第三に、誰が受けるかが違う。日本では村の代表者が受けることが多かった。集団の代表制だ。ヨーロッパの水審は、疑われた本人が入る。個人の身体が証拠物件になる。
第四に、結果の重さが違う。「失」が出れば敗訴で、追放や処罰が伴うこともあったが、判定そのものが即死刑を意味したわけではない。水審で浮いた場合は、その先に火刑や絞首が待っていた。
視野を広げれば、この種の装置は世界中にある。インドの『マヌ法典』は火、水、秤、毒、聖水による五種の試練を挙げている。秤による神判は、アウデワーテルの計量所と発想が同じだ。西アフリカにはカラバル豆を使う毒物神判があった。共通するのは、証明できない争いを終わらせなければならない社会が、必ずこの形の装置を発明するという事実だ。
なぜ「試せば分かる」は人を惹きつけるのか
ここまで来て、最後の問いにたどり着く。なぜ人は、こんな仕組みを何度も再発明するのか。
第一に、不確実性が苦しいからであり、村の中に「あいつは呪う」という噂が立つ。証拠はない。だが疑いは消えない。この宙吊り状態は、当事者にとっても共同体にとっても耐えがたい。
噂は放っておくと膨らみ、暴力に転化する。決着を、それも目に見える形の決着を、誰もが欲しがる。
第二に、責任を外部化できるからであり、誰かを処刑すると決めるのは重い。だが「水が決めた」「神が決めた」なら、決めたのは人間ではない。装置は、判断の責任を人間から引き剥がす機械である。判決文の署名欄が空白になる魔法だ。
第三に、可視性があり、裁判は退屈だ。証言を突き合わせ、書類を読み、法理を争う。時間がかかり、素人には何が起きているか分からない。それに比べて、池に人を投げるのは一瞬で、しかも全員に見える。
誰にでも判定できる。一七五一年に五千人が集まったのは、それが分かりやすかったからだ。
第四に、そして決定的に、この装置は反証不能に設計されている。浮けば有罪、沈めば無罪、ただし溺れる。印が見つかれば魔女、見つからなければもっと探す。自白すれば有罪、否認すれば拷問、上手に弁明すれば弁明が上手いことが証拠。シュペーが指摘した通り、入口が一つで出口がない。
反証不能な装置は、使う側にとってはこの上なく快適だ。絶対に間違わないからであり、間違いようがないように作られているからだ。そして、それが快適だからこそ、人は繰り返しこれを作る。
第五に、経済がある。魔女を見つける人間に金が入る仕組みを作ると、魔女は必ず見つかる。ホプキンズの二十シリング、キンケイドの六ポンド、カデルの日当六シリング。町が特別税を作ってまで魔女狩り人を招く構造が成立したとき、装置は自走を始めた。誰かの生計が「見つかること」に依存している検査は、必ず過剰検出に向かう。
第六に、被験者自身が要求する構造だ。潔白を公式に証明する手段が存在しない社会では、疑われた人間は自ら装置に飛び込むしかない。ステビングスは自分から池に入った。オランダのホフハイスは当局に水審を要求した。装置は、それを恐れる人だけでなく、それに救いを求める人によっても支えられていたのだ。
そして最後に、この構造は終わっていない。名前が変わっただけであり、嘘発見器は生理反応を犯罪の証拠に読み替える。ネット上の告発は、否定すればするほど怪しいという論理で回る。「やましいことがないなら見せられるはずだ」という要求は、洗礼の水の理屈とまったく同じ形をしている。
証明の負担を、疑われた側に丸ごと乗せる。
装置を見分ける方法はひとつしかない。どう答えれば無罪になるのか、と問うことだ。その問いに具体的な答えが返ってこないなら、それは検査ではない。判決である。
ここから先は、本文で駆け足になった部分を掘り直す。
まず、浮力の物理を真面目に考えたい。この装置の中核にある事実は、着衣の人間はしばしば浮く、というだけのことだ。人体の平均密度は水にきわめて近く、肺に空気が残っていれば水より軽くなる。冷たい水に落ちた人間は、反射的に息を吸い込んで止める。恐怖はこの反射を強める。
厚手の毛織物やリネンの衣服は繊維のあいだに空気を抱え込み、しばらくのあいだ浮き袋として働く。体脂肪が多ければさらに浮く。
女性のほうが平均的に浮きやすい。
つまり水審は、統計的に、高齢で、痩せておらず、厚着をした、恐怖している人間を選択的に「有罪」と判定する装置だった。そして魔女として告発される人の典型像は、まさにそういう人だった。装置は無作為に間違えていたのではない。特定の人々を狙い撃ちする方向に、系統的に偏っていた。
次に、誰が池に入れられたのかを社会学的に見たい。本文に出てきた人々を並べると、恐ろしく整った像が浮かぶ。ルース・オズボーンは救貧院に暮らす老女で、教区の扶助対象だった。ダミーは聾唖で本名すら記録されず、占いで日銭を稼いでいた。クリスティナ・ツェイノヴァは教会に行かない寡婦で、少数民族カシューブ人だったのだ。
イサク・ステビングスは定住地を持たない行商人だった。
ジョン・ラウズは八十歳の老人で、教区民と折り合いが悪かった。
貧困、高齢、寡婦、障害、よそ者、不人気、共通しているのは「共同体が失っても困らない人」であることだ。逆に言えば、この装置が最も高い精度で検出していたのは、悪魔との契約ではなく、社会的な孤立だった。
セゲドのダーニエル・ローザだけが例外に見える。町でいちばんの富裕者で元判事であり、だがこれも例外ではない。八十二歳という年齢と、危機の年に富を持っているという事実が、彼を標的にした。飢饉と疫病の年、蓄えのある老人は憎悪の受け皿になる。
装置は、そのとき最も憎まれている人を検出する。
三番目に、法と村の断絶について。イングランドの経過はこの断絶をきれいに見せてくれる。一六四五年、ホプキンズが暴走した。一六四七年、彼は退場した。一七一七年、ウィグストンの大陪審は二十五人の証言を丸ごと蹴ったわけだ。
一七三五年、議会は魔女術を犯罪リストから外し、魔女だと言い立てる行為のほうを取り締まる対象にした。
法の側は、およそ百年かけて完全に降りた。
ところが村は降りなかったのだ。一七三七年にベッドフォードシャーのオークリーでウーズ川で泳がせが行われたとき、聖職者が立ち会っていたという記録がある。一七五一年のトリングでは五千人が集まった。一七七六年のファーナム、一七九二年のスタニングフィールド、一八二五年のウィカム・スケイス、一八六三年のシブル・ヘディンガム。法が撤退したあとの百三十年間、この装置は村の中で稼働し続けた。
そして構造が変わった。裁判所がやっていたときは、少なくとも手続きがあり、記録があり、上訴の可能性があり、判事の目があったのだ。村がやるようになると、それが全部なくなった。ロング・マーストンの池に法廷はない。あるのは群衆だけだ。
これは重い教訓を含んでいる。悪い制度を廃止するだけでは足りない、ということだ。制度は、それが満たしていた需要ごと消えるわけではない。決着への欲求は残る。公式な出口を塞いだだけでは、非公式な出口が開くだけだ。
イングランドの村は、国家が「魔女はいない」と言った瞬間に、国家抜きで魔女を裁き始めた。
四番目に、記録の非対称性について書いておきたい。
この記事で名前を挙げた人々のうち、加害者の名前のほうが正確に残っている場合が少なくない。トマス・コリーは処刑された煙突掃除職人で、氏名も職業も処刑日も分かる。ジョン・キンケイドは報酬額まで記録がある。クリスチャン・カデルは変名も乗船した船の名前も分かる。エマ・スミスとサミュエル・スタマーズは判決内容まで残っている。
一方、殺された側はどうか。ダミーは本名が分からない。一七九二年のスタニングフィールドの老女には名前がない。一七七六年のファーナムの男にも名前がない。ハンガリーの集団水審にかけられた人々の大半は、名前が残っていない。
これは偶然ではない。近代的な記録は司法手続きから生まれる。加害者が起訴されれば記録が残り、被害者が起訴されなければ記録は残らない。ルース・オズボーンの名前が分かるのは、彼女を殺した男が裁かれたからだ。裁かれなかった事件の被害者は、名前ごと消えている。
だから、こういう歴史を書くときは、数の少なさに騙されてはいけない。記録されたのは、たまたま可視化された部分だけだ。
五番目に、装置の「終わり方」に注目したい。この五百年の物語には、装置が三回止まる場面が出てくる。三回とも、止まり方が違う。
一回目は一二一五年、教会が祝別をやめた。神学的な補給線を断った、という止め方だ。効果は決定的だったが、遅効性でもあった。装置は宗教的な意味を失っただけで、機械としては残った。だから三百年後に、別の理屈を積んで復活できたのだ。
二回目は十七世紀半ばのイングランド、巡回裁判官が「これは暴行であり、溺死させれば殺人だ」と扱い始めた。神学ではなく刑法で殺した、という止め方だ。ホプキンズが水審を捨てたのは、神学者に叱られたからだと本人は書いているが、実務的には裁判官の圧力が効いている。この止め方は即効性がある。だが法廷の外には届かなかった。
三回目は十八世紀後半から十九世紀。トマス・コリーが吊るされ、エマ・スミスとサミュエル・スタマーズが重労働六か月を食らった。国家が村の中の私刑を、殺人と傷害として処理し始めた。この止め方が最終的に効いたのだ。ただし、群衆が「魔女を殺したくらいで人を吊るすのか」とぶつぶつ言っていたことも忘れてはいけない。
信念は判決では消えない。
装置を止めるには、理屈を潰すだけでも、法を変えるだけでも足りなかった。理屈を潰し、法を変え、そのうえで実際に人を裁いて、ようやく止まった。三段階かかっている。
六番目に、批判者たちの言い分をもう一度整理したい。彼らの論法には型がある。
パーキンズは、前提の適用範囲を疑った。洗礼の水と池の水は違う、と。これは類推の飛躍を突く論法だ。コッタは、自然法則の一様性を持ち出した。自然は人格を持たないので善悪を区別しない、と。
バーナードは、神を試すことの不敬を突いた。これは十三世紀のラテラノ公会議とまったく同じ論法である。ノイヴァルトは、そもそも観察された現象を別の原因で説明できると論じた。
シュペーは、手続き全体が反証不能に閉じていることを暴いた。
五通りの批判が、それぞれ違う層を攻撃している。前提、自然観、神学、代替説明、論理構造、今日、疑似科学的な検査を批判するときに使う道具立ては、この五つとほぼ同じだ。四百年前に出そろっていた。
だが批判が正しかったのに、装置は止まらなかった。ノイヴァルトの反論書が出た一五八四年から、シブル・ヘディンガムの一八六三年まで、二百八十年ある。正しい批判が存在することと、それが効くことは、まったく別の話だ。
装置を止めたのは論破ではなかった。金の流れを断ち、法を変え、実際に加害者を法廷に立たせることだった。
最後に、現代の話をして終わりたい。
「試せば分かる」という誘惑は、今も同じ形で機能している。ポリグラフは、発汗と心拍と呼吸から嘘を読み取ると称する。実際に測っているのは緊張であり、緊張しやすい人は不利になる。浮きやすい体型の人が不利だった水審と、構造が同じである。
「やましいことがないなら公開できるはずだ」という要求も同じだ。この要求に応じても疑いは晴れない。次はもっと出せ、と言われるだけだ。ホプキンズの被疑者が、眠らせてもらえないまま夜を過ごしたのと同じ構造にいる。
そして今日、告発の連鎖はかつてないほど速い。シュペーが観察した「拷問された者が他人の名を挙げる」という連鎖は、拷問なしでも起きる。集団の圧力があれば十分だ。
だから、この記事の実用的な結論はひとつだけだ。何かを試されそうになったとき、あるいは誰かを試そうとしているとき、こう問えばいい。どういう結果が出れば、疑いが晴れるのか。
その問いに、具体的で、事前に定義された答えが返ってくるなら、それは検査だ。返ってこないなら、あるいは「どちらの結果でもやはり怪しい」という答えが返ってくるなら、それは検査ではない。
浮けば魔女、沈めば無実、五百年前の人々は、この文句が判定基準だと信じていた。実際には、これは判決文だった。書式が二行あるだけで、中身はひとつしかなかったのだ。
