- 三ユーロ払って、千二百人の死者が住んでいる地下に降りる
- 一五九九年十月十六日、腐らなかった四十五人
- コラトイオという名前の部屋で、何が行われていたか
- 修道士の廊下、男の廊下、女の廊下、そして子どもの部屋
- 服を着替えさせに、家族が通っていた
- 払い続けないと、棚に降ろされる
- 一七八三年、金さえあれば誰でも入れるようになった
- 一八三七年の禁令と、その抜け道
- 爆弾と火事と、虫
- 一九二〇年十二月六日、二歳になる一週間前
- アルフレード・サラフィアという男
- 失われた処方が、手記から出てきた
- 一五ガロンか、七リットルか。研究者たちは今も揉めている
- X線とCTが、棺の中を見た
- 「あの子は目を開け閉めする」という噂と、その正体
- 子どもの部屋にいる百六十三人を、X線で調べる
- 一七七七年、詩人が階段を降りた
- 一八八五年、モーパッサンが見たもの
- 二〇二二年九月、出口でアンケートを配る
- 降りていった人たちが、その後どう感じたか
- 死者を隠さずに並べておく、という文化が何をしていたのか
- なぜ、これがここまで怖いのか
- 同意という、答えの出ない質問
- それでも、彼女は黒ずんでいく
三ユーロ払って、千二百人の死者が住んでいる地下に降りる
パレルモの中心から西へ二キロほど。カプチーニ広場という、観光客が偶然たどり着くことはまずない場所に、その入口はある。
拍子抜けするくらい地味な門であり、看板も小さい。受付には修道士か、そのへんの係の人が座っていて、現金で三ユーロか五ユーロを受け取る。予約はいらない。時間指定もない。
行列を飛ばす裏技も売っていない。払って、そのまま入る。
入口の脇には注意書きが出ており、写真撮影は禁止、動画も禁止。肩と膝を出した服はだめ。ここは宗教施設だからだ。実際には誰も体を張って止めはしないが、修道士に長々と、静かに、深く失望した目で見られる。
それが一番効く。
そして階段を降りる。
石の階段で、端のほうは何百年ぶんもの靴底で丸くなっている。一段降りるごとに空気の温度が少し下がる。冷たくて、よどんでいて、なぜかやたらと厚みがある。上でしゃべっていた人間の声が、階段の途中で勝手に小さくなっていくのが分かる。誰も「静かにしろ」とは言わないのに、全員が黙る。
降りきって、通路が開ける。
そこで大抵の人間は止まる。
壁に、人が並んでいる。
骨と皮だけになった人間が、服を着て、立っており、縦に何列も、横にずらりと。上のほうは針金で壁から吊るされ、下のほうは棚に寝かされ、床には立った姿勢のまま押し込まれている。黒い僧衣、フロックコート。レースの帽子、花嫁のような白い衣装。
何もかも色が抜けて、埃をかぶって、それでも「よそ行きの服」だと分かる仕立てのままだ。
顎が落ちている者が多い。首の腱が乾いて縮み、口が開いたまま固まっている。笑っているように見える顔もあるし、悲鳴を上げている途中に見える顔もある。眼窩は空っぽで、そこから覗いているのは自分の後ろの暗がりであり、髪が残っている者もいる。
口ひげが一房だけ残っている者もいる。
ここはパレルモのカプチン会修道院の地下墓所、通称、カプチン会のカタコンベ。
正確に言うとカタコンベではない。カタコンベというのは初期キリスト教徒が集まって祈った地下の共同墓地のことで、ここには殉教者は一人も埋まっていない。学術的にはヒュポゲウム、つまりただの地下埋葬地だ。だが四百年以上「カタコンベ」と呼ばれてきたので、もう誰も直さない。
規模がとにかく異常であり、通路の総面積はおよそ三百平方メートル。そこにおよそ八千体の遺骸が関わり、二〇一一年にボルツァーノのユーラック・リサーチが行った調査では、壁面に並んでいるミイラだけで千二百五十二体と数えられた。子どもの研究チームが使う数字では、ミイラ化した遺体と部分的に白骨化した遺体を合わせて少なくとも千二百八十四体。
自然に乾いたものと人の手で処置されたものが混ざった、この種のコレクションとしては世界最大規模になる。
そして通路のいちばん奥、サンタ・ロザリア礼拝堂に、二歳になる一週間前に死んだ女の子が寝ている。
ロザリア・ロンバルド、百年以上経ってもまつげが一本ずつ数えられる。
順番に話そう。
一五九九年十月十六日、腐らなかった四十五人
カプチン会の修道士たちがパレルモにやってきたのは一五三四年だ。サンタ・マリア・デッラ・パーチェ、平和の聖母の教会のそばに落ち着いた。
この会派はもともと、フランシスコ会が贅沢になりすぎたと感じた連中が一五二〇年代に分かれて作った、極端に清貧を徹底する集団である。一五二九年にアルバチーナで最初の総会を開き、そこで決めた規約には埋葬についての条文がある。要約すると「教会の中に死者を埋めてはいけない、修道士は教会の近くの適当な場所に葬ればよい」。
だから彼らは教会の南側、外に共同の穴を掘って、そこに仲間を放り込んでいた。祭壇の下に貯水槽のように開いた穴だったという。教会の内側に死体を置かないのは信仰の理屈もあるが、単純に腐るからだ。キリストの体を祀る場所と、腐敗する人間の肉体を同じところに置くわけにはいかない。
ところが一五九七年、その穴がいっぱいになった。
修道院の人数が増えたわけだ。そこで主祭壇の裏手を掘って新しい墓所を作ることにした。もとからあった洞窟を利用して、二年がかりで空間を広げた。一五九九年、新しい場所ができたので、古い穴から仲間の骨を移すことになったのだ。
掘り返した。
腐っていなかった。
四十五体が、乾いて縮んではいるものの、そのままの形で出てきたのであり、顔が誰なのか分かる。肉があり、腐敗のあの、どろどろの段階を通り抜けていない。
修道士たちにとってこれは、事故ではなく啓示だった。神がこの体を選んだのだ、と解釈した。骨として埋め直す代わりに、四十体を新しい墓所の最初の通路の壁の窪みに立てて並べたのだ。聖遺物として拝むためである。
その最初の一体、記念の札を手に持って今も入口のすぐ左に立っているのが、シルヴェストロ・ダ・グッビオ修道士だ。一五九九年十月十六日死去、茶色の粗い僧衣と頭巾という、生前とまったく同じ格好のまま、四百年以上そこに立っている。
なぜ腐らなかったのか。種明かしは地質である。
パレルモのこの丘は多孔質の凝灰岩でできており、水分を吸う。しかも当時の地下空間には、石灰岩を掘り抜いた通気孔と窓がいくつも開いていて、常に空気が流れていた。乾燥した空気、低い湿度、吸水性の岩、この三つが揃うと、遺体は腐るより先に乾く。バクテリアが増える前に水分が抜けてしまうので、分解が途中で止まる。
つまり奇跡の中身は建築と地質だった。ただし、それを知ったところで四百年前の修道士の感動が減るわけでもない。彼らは自分たちの墓が「そういう場所」だと理解して、そこから先は意図的にやりはじめた。
コラトイオという名前の部屋で、何が行われていたか
修道士たちは偶然を制度にした。
そのために作られたのが「コラトイオ」と呼ばれる部屋だ。イタリア語で「濾す器」「水切り」といった意味の言葉で、複数形はコラトイ。英語の資料では「ドレイナー」、排水室と訳される。
構造は素っ気ない。凝灰岩を掘り抜いた小部屋に、テラコッタの土管を横にずらりと渡して格子にしてある。その上に遺体を仰向けに寝かせる。体から出てくる液体は管の隙間を伝って下に落ち、床に集まる。壁も床も水を吸う岩だ。
そして部屋を閉める。
八か月から十二か月、資料によって幅があるが、おおむね一年前後だ。その間、部屋は暗く、乾いて、閉ざされている。
時間が経ってから開ける。中の遺体は水分をほとんど失っていて、皮膚は革のような手触りになり、体重は劇的に減り、全体が硬く縮んでいる。
次の工程が屋外であり、遺体を外に出して空気に当て、酢で洗う。酢と水で拭う、と書いている資料もある。防腐というより洗浄と消毒に近い作業で、においと表面の汚れを落とす目的だったと考えられている。
そのあと服を着せる。本人が生前に指定した服であることも多い。着せてから、壁の窪みに立てるか、棚に寝かせるか、棺に納める。
乾燥の過程で体がねじれたり潰れたりして、そのままでは人の形に見えなくなることがある。その場合は藁や麻くずを詰めて形を戻した。針金で骨格を支え、木の板を背中に当て、杖のような細い棒を体の中に通して姿勢を保たせる。壁に吊るすための太い針金は、胴体をぐるりと回して壁の金具に留める。要するに、立たせるための構造物として扱われている。
これが基本の工程であり、ここには薬品も職人技もほとんど関わっていない。ひたすら乾かして、洗って、着せる。
例外は疫病の年だった。伝染病で死者が大量に出たときは、遺体を石灰乳に浸したり、砒素の液に浸したりしたと記録されている。石灰は最終的に自然乾燥と同じくらい一般的な方法になったらしい。砒素で処理された遺体は、驚くほど良い状態で残る。
通路の中ほどに立っている男のミイラ、一八四四年十二月四日に五十歳で死んだアントニーノ・プレスティジャーコモという人物の顔がほんのり赤みを帯びているのは、砒素と水銀の化合物を使った処理のせいだと考えられている。彼にはガラスの義眼が入っている。
十九世紀に入ると事情が変わる。動脈に薬液を注入する近代的な防腐処置が普及しはじめ、修道士ではなく医師や専門の職人が処置を請け負うようになった。砒素や水銀を扱う仕事なので、作業者のほうも命がけだったという指摘がある。二十世紀に入ってようやくホルムアルデヒドを使う液に移行する。
ここではっきりさせておくが、この記事は当時の技術の歴史的な記述をしているだけで、手順書を書いているわけではない。分量も濃度も器具も書かない。書いたところで違法だし、そもそも百年前の職人たちが試行錯誤の末に辿り着いた話であって、真似する対象ではない。
修道士の廊下、男の廊下、女の廊下、そして子どもの部屋
地下の間取りは、増築の歴史がそのまま形になっている。
一六〇一年、修道士が増えたので部屋と地下礼拝堂を足した。一六一九年に最初の通路ができた。一六八〇年に通路が伸びて、主祭壇の下、一五九九年に最初の四十体を並べた場所までつながったのだ。最初の修道士たちは、そこで通路の一部に組み込まれた。
一六〇一年から一六七八年にかけて修道士の廊下と男の廊下が掘られ、工事は一七三二年ごろまで続いて、ほぼ現在の大きさになる。四本の通路が長方形に囲み、その長方形を五本目の通路が横切る。この配置にまとめたのは一八二三年、パレルモのフェリーチェ・ラ・リカータという修道士の建築家だとされている。
通路にはそれぞれ住人の区分がある。
修道士の廊下、入ってすぐの最初の通路であり、カプチン会の修道士だけが並ぶ。粗い茶色の僧衣、首に縄をかけている者がいるが、あれは苦行の印だ。ここが一番、扱われ方が丁重に見える。彼らはこの場所の持ち主であり、最初の住人でもある。
司祭の廊下、修道士とは別の区画で、こちらは教区で働いていた聖職者たちだ。祭服のまま立っており、黒、赤、紫の典礼色、ストラは尊厳の印として垂らされている。モーパッサンはここを「名誉の大回廊」と呼んだうえで、装飾の豪華さのせいでかえって滑稽に見えると書いた。あとで彼の証言は詳しく紹介する。
男の廊下、一般の男性で、要するに「それ以外の全員」が入る区画だ。十七世紀の終わりごろまでは壁に聖書の言葉が書かれていたという。
女の廊下、多くは開いた木の棚か棺に横たえられ、立っている者は少ない。ドレスの保存状態が驚くほどよく、ここの空気が特別だったことがかえって分かる。
処女たちの礼拝堂、未婚のまま死んだ若い女性の区画だ。かつては鉄の門とガラスのついた窪みで仕切られていた。祭壇があった場所には棚が置かれ、四人の若い女性がキリストの花嫁として立っていたという記録がある。頭に金属の冠をかぶっている女性が多いが、あれは未婚の印だ。第二次大戦の爆撃でガラスが割れ、女性区画のかなりの部分が壊れた。
専門職の廊下、医師、弁護士、軍人、画家、彫刻家。パレルモの中産上層のプライドがそのまま並んでいる区画である。彫刻家のフィリッポ・ペンニーノとロレンツォ・マラビッティ、画家のジュゼッペ・ヴェラスコ、外科医のサルヴァトーレ・マンツェッラ。一八四八年に死んだ大佐ジュリオ・アスカーニオ・エネアと、一八六三年に死んだ砲兵大佐パオロ・ラゴーナが上下に並んでいる一角もある。
スペインの巨匠が埋まっているという噂が昔からあるが、これは根拠に乏しい伝説だ。
新しい廊下、壁に窪みがない、いちばん新しい区画だ。ここは後述する一八三七年の禁令のあとに使われた場所で、通路の床にずらりと棺が並ぶ。何列にも積まれていて、真ん中の帯だけマヨリカ焼きの床が見える。ここには「家族単位」の埋葬がいくつかあって、父と母と、十代の子どもたちが一緒に置かれている。死後も離ればなれにならなかった夫婦もいる。
そして子どもの部屋。
通路が交差するところに作られた小さな空間であり、壁の窪みに、レースの服を着た小さな体が並ぶ。ボンネットをかぶった顔が、うつむき加減にこちらを見ている。足元の祭壇のあたりには、揺りかごに入れられた新生児が寝ている。有名なのは、揺り椅子に二人で座っている子どもたちだ。
四歳から五歳くらいの子どもの膝に、生後半年から一年ほどの赤ん坊が乗せられている。
ここで泣く大人は多い。
服を着替えさせに、家族が通っていた
このカタコンベがただの納骨堂と決定的に違うのは、死者が「訪問される前提」で作られていたことだ。
遺言に服装を指定する人がいた。この服で並べてくれ、と。さらに踏み込んで、定期的に着替えさせてくれと書き残した人もいる。年に何度か季節に合わせて、という記述が残っている。
だから家族は通った。
決められた日には棺や窪みに近づけるようになっていて、遺族は死者のそばに立ち、手を組ませ、一緒に祈った。死者の手を取って、生きている家族と手をつないだ形にして祈る。埃を払い、衣装を直し、傾いた首を戻す。新しい毛布を掛け直す。
二〇〇〇年にここを訪れたアメリカの学生が書いた記録に、こういう一節がある。ある一体だけ、鮮やかな色の新しい毛布が掛けられていた。それは家族がまだ生きているという印であり、敬意の印だった、と。
墓参りではない。面会だ。
十八世紀から十九世紀のパレルモの中産層以上にとって、この地下は「死んだ家族が住んでいる住所」だった。研究者はこれを、死後も社会的な人格が保たれるという信念で説明する。体が残っていれば、その人がその人であり続ける。死者の魂は煉獄の魂として、生きている家族を守る存在になる。だから体を残す。
だから服を着せる。だから会いに行く。
祭日には一般にも開放された。モーパッサンが聞き集めた話の中に、こういうのがある。祭りの日に酔っ払いが紛れ込んで、通路のどこかで寝てしまった。真夜中に目を覚ました。叫んだ。
誰にも聞こえなかった。朝になって発見されたとき、その男は入口の鉄格子に、引き剥がすのに長い時間がかかるほど強くしがみついていた。
正気ではなくなっていた、とモーパッサンは書いている。
その日から、扉のそばに大きな鐘が吊るされた。
払い続けないと、棚に降ろされる
そして、ここからが生々しい話だ。
このカタコンベは寄進で維持されていた。遺族が金を出す。その金で修道院が回り、修道士たちの慈善事業も回る。今でも入場料は修道士たちの慈善活動、たとえば困窮者への食事の提供などに充てられている。
当時の仕組みはこうであり、新しく入った遺体は、まず仮の窪みに置かれる。そのあと、より恒久的な場所へ移される。
そして、寄進が続いている限り、その人はその場所にいられる。
送金が止まると、その体は棚に降ろされる。脇に置かれる。支払いが再開されるまで、そこで待つ。
モーパッサンが一八八五年に現地で聞いた説明はもっと直截であり、彼はこう書いている。この乾燥法で保存されることを望んだ者は生前にそれを申し込み、遺族が毎年払う報酬と引き換えに、暗い天井の下に永遠に並べられる。博物館の収蔵品と同じように。もし遺族が払うのをやめたら、その死者はただ普通に土に埋められる。
正確な記録が残っているのは一八三七年以降だ。この年、カタコンベは一般の墓地の慣行に合わせて、初めて料金表を作った。
そしてその料金表が細かい。ミイラ化の処理のあとに壁の窪みに置くのか、それとも箱に納めるのか。死者が男か、女か、子どもか。あるいは通路の床に掘られた墓に埋葬するのか。それぞれで額が違う。
通路の床には今も墓石が点々と埋まっていて、立派な彫刻が入っているものもある。
つまり、ここで四百年にわたって行われていたのは、死者の不動産事業でもあった。
いい場所は高い。目立つ場所は高い。家が没落すれば立ち退きになる。壁の一等地に立っていた誰かが、ある年から棚の上に横たえられている。理由は信仰でも罪でもなく、送金の停止だ。
この即物性が、この場所の怖さの半分を作っていると思う。壮大な死生観の話をしているつもりでいると、途中で会計の話が挟まってくる。しかも会計のほうが記録が正確に残っている。
千二百体のうち、かなりの数が「払える家の人間」なのだ。逆に言えば、パレルモの大多数の死者はここにいない。彼らは普通に土に還った。この地下にいるのは、ずっと見られていることを買った人たちである。
一七八三年、金さえあれば誰でも入れるようになった
最初は修道士だけの墓だった。
それが崩れはじめるのは十七世紀だ。腐らない四十五人の話が広まって、修道院に人が押しかけた。まず、会派を支援していた貴族が例外的に受け入れられるようになる。記録に残る初期の俗人の一人が、一六二〇年に死んだチュニス王の息子アヤラだ。カトリックに改宗してフィリッポ・ダウストリアと名を改めた人物である。
改宗した異国の王子を聖なる地下に入れる。話題性としては申し分ない。
十七世紀を通じて、貴族と上流市民が少しずつ入り込んだ。共通していたのは、この極めて高価な葬礼の費用を負担できることだった。
決定打が一七八三年である。この年、カプチン会は「希望する者には誰にでも埋葬を認める」と決めた。門が開いた。子どもが受け入れられるようになるのも一七八七年からで、研究上「後期近代」と呼ばれる区分はここから一八八〇年までを指す。
以後、パレルモの裕福な市民と有名人が押し寄せた。寛大な寄進と引き換えに、修道士たちの処置を受け、壁の窪みで永遠に展示される権利を買う。修道士の私設墓地は、いつのまにか「死の博物館」に変わっていた。
一七二三年ごろには四本の通路がほぼ現在の規模に達し、十九世紀にはここは収容能力の限界に近づく。当時の記録は、その賑わいをカーニバルのようだと形容している。
そして人が集まれば、当然、観光客も来る。十八世紀と十九世紀のグランドツアーの立ち寄り先として、この地下墓所は定番になった。アレクサンドル・デュマ、ファニー・レーヴァルト、マリオ・プラーツ、カルロ・レーヴィ。そしてギー・ド・モーパッサン、彼らはここを見て、それぞれのやり方で動揺し、それを文章にした。
一八三七年の禁令と、その抜け道
十九世紀に入ると、行政が黙っていなくなる。
衛生の概念が近代化したからだ。都市の中心部に腐敗途中の遺体を大量に置いておくことが、疫病の温床として問題視されるようになった。ヨーロッパ全体の流れでもある。
一八三七年、遺体を開放的な状態で展示することが禁じられた。シチリア全土で乾燥処理そのものが禁じられたという記述もある。この時点で新しい窪みを壁に掘ることもできなくなった。
では、やめたのか。
やめていない。
まず、窪みが作れないなら棺を置けばいい、という発想で「新しい廊下」が使われはじめる。壁に窪みのない長い通路の床に、棺を何列も並べていった。一八三七年から一八八二年にかけて、その空間が少しずつ埋まっていく。
次に、棺の側板を一枚外す、あるいは蓋に「窓」を開ける、という手が使われた。遺言者本人や遺族の希望であり、棺に入っているのだから「展示」ではない。しかし窓があるので、顔は見える。
さらに「一時的な保管」という名目がある。最終的にどこか別の墓地に埋葬する予定の遺体を、それまでの間だけ預かる、という建て付けだ。この一時預かりが、どう見ても永住になっているケースが大量にある。多くの場合、一時的に保管された死者はそのまま居着いた。
禁じられているのは展示であって、保管ではない。禁じられているのは新設であって、既存の運用ではない。この手の抜け道を四十年以上使い続けたわけだ。
風向きが本格的に変わったのは一八六〇年代以降だ。イタリア統一に伴って新しい法律が入ってくる。一八六一年には遺体の「水切り」処理を禁じる法ができた。一八六六年に修道院そのものが制度的に廃止され、カタコンベは市の管理下に移る。
一八八〇年十二月、墓地としてのカタコンベは正式に閉鎖された。埋葬は隣接する屋外の墓地に移される。一八八一年にはパレルモ市の行政委員会が、藁を詰めて立たせる保存方式を禁じた。
それでも乾燥処理は少なくとも四年ほど続いたという記録があり、一八八五年ごろまで実際に行われていたとする研究もある。役所が禁じても、慣習は簡単には死なない。
閉鎖後も例外は出た。修道士としての最後の埋葬は一八七一年のリッカルド修道士。一八八〇年には「もう一人の眠れる美女」と呼ばれる五歳の子ども、コンチェッティーナ・マリーノが納められている。
そして二十世紀に入ってからの例外が二つ。一九一一年の合衆国副領事ジョヴァンニ・パテルニーティ、一九二〇年のロザリア・ロンバルド。記録上の最後の埋葬は、一九三九年、イズネッロ伯ジョヴァンニ・リカータ・ディ・バウチーナである。
観光客のほうは、閉鎖されようが何だろうが来続けた。
爆弾と火事と、虫
この地下が今のような荒れ方をしている理由は、時間だけではない。
一九四三年三月十一日、パレルモは激しい空襲を受けた。カタコンベも被害を受け、専門職の区画の大部分と、もともとの入口が壊れた。処女たちの区画のガラスも割れ、女性区画のかなりの部分が損傷したわけだ。新しい廊下に並んでいた棺の多くも、このとき失われている。
一九六六年には火事が起きた。これも棺と遺体をかなり壊している。
一九八〇年代には水道管の破損で地下に水が入った。
そして一九六〇年代以降の、パレルモの無秩序な都市化がとどめを刺した。建物が密集し、車が増え、地下の構造そのものが揺さぶられる。もっと深刻なのは、かつてこの場所を乾かしていた空気の流れが失われたことだ。常時開いていた窓と通気孔が、多くの排水室で数十年にわたって閉ざされてきた。
その結果、何が起きたか。
閉ざされた小部屋が、高湿度で、真っ暗で、分解中の有機物が大量にある空間になった。人間の遺骸、繊維、木材、土、植物質、カビにとっての楽園である。二〇一三年の微生物調査では、地下の空気と壁、衣服、皮膚、筋肉、毛髪、骨、詰め物から、健康を脅かすレベルの真菌と微生物が検出されている。
虫の調査もある。法医昆虫学者のマーク・ベネッケらは、遺体に残る昆虫の痕跡を調べて、死後まもない段階でハエが卵を産みつけていたことを示した。排水室には窓があり、開けられることがあったので、そこからハエが入り込めたのだ。乾いた組織を好む甲虫、毛や藁や穀物を食べる虫、そしてそれを狙う捕食者。三種類の虫が、今もここで自由に活動している。
彼らの報告の結論は容赦がない。自然のミイラ化を保つために作られた方法は、保管条件のせいで失敗した、と。
かつてこの地下を乾かしていた仕組みが、今は遺体を壊す側に回っている。
一九二〇年十二月六日、二歳になる一週間前
ここでいちばん奥の礼拝堂の話に移る。
マリオ・ロンバルドは歩兵科の将校だった。一八九〇年生まれ。パートナーのマリア・ディ・カーラは一八九七年生まれ。二人のあいだに最初の娘が生まれたのが一九一八年十二月十三日だ。第一次世界大戦の休戦からひと月しか経っていない時期にあたる。
娘の名はロザリア、パレルモの守護聖女と同じ名前だ。
二人はこのとき正式な夫婦ではなく、娘が生まれてから七か月後に結婚している。将校の給料と家柄で、当時のパレルモではかなり恵まれた暮らしをしていた。
そして一九二〇年十二月六日、ロザリアは死んだ。二歳の誕生日の一週間前であり、死亡時の年齢は一年と三百五十九日。
死亡報告書に記された死因は気管支肺炎。スペイン風邪の流行の終わりごろにあたる時期で、インフルエンザの合併症だったと考えられている。当時の家族の証言をもとに、ジフテリアだったのではないかとする説も出ており、腸チフス説を挙げる資料もある。この点は今も完全には決着していない。
マリオ・ロンバルドは、娘をそのままの姿で残そうとした。
依頼したのが、パレルモの防腐処置師アルフレード・サラフィアである。
処置のあと、ロザリアは白い服と靴を着せられ、金色の髪に大きなリボンを結ばれ、手を組んでロザリオを持たされた。そしてガラス蓋のついた小さな棺に納められた。
一九二〇年十二月八日、カタコンベに運ばれたのだ。
記録上、これは「一時的に」運び込まれたことになっている。すでに墓地としては閉鎖されていたので、父親は政府から特別の許可を取ったとされる。本来なら防腐処置を済ませたあと、どこか別の場所に埋葬するはずだった。
そうならなかった。理由として挙げられるのは、サラフィア自身が早くに亡くなったこと、そして一家の側にいくつかの事情があったこと。結局その「一時的な」安置は百年以上続いている。
彼女は今も、その最初の棺の中にいる。見えているのは頭だけであり、首から下は布で覆われている。
アルフレード・サラフィアという男
サラフィアは一八六九年にパレルモで生まれ、一九三三年に死んだ。
正規の医学教育は受けていない。独学の剥製師であり、防腐処置師だった。化学を学び、動物の剥製から始めて、人体の保存に進んだ。医学教育用の解剖標本の作成もしていた。肩書きとしては「教授」と呼ばれたが、これは当時の職人としての敬称に近い。
彼の名を一気に広めたのが、一九〇一年八月に死んだイタリアの元首相フランチェスコ・クリスピの遺体の処置だった。うまくいった。以後、一九〇二年からパレルモの有力者を次々に手がけるようになる。枢機卿ミケランジェロ・チェレージア、上院議員ジャコモ・アルモ。金を出せる一般市民も顧客になった。
彼の方法の特徴は、拍子抜けするほど簡単なことだ。
一か所を刺すだけ。できれば大腿動脈、重力式の注入器を使って薬液を送り込む。それだけ。
当時の近代的な防腐処置で普通に行われていた血液の排出、体腔の処置、追加の注入。サラフィアはそれらを、たいていの場合は不要だと考えていた。必要な場合は体腔の処置を二人がかりで行う、と自分でも書いているが、基本は一点注入で完結させる。
もうひとつ、彼の手記から分かっていることがある。ときどき、エーテルに溶かしたパラフィンを顔の皮下に入れていた。頬や目のまわりがこけて骸骨のように落ちくぼむのを防ぎ、ふっくらした生前の輪郭を保つためだ。死者の顔つきと見た目に対する、職人としての執着がよく出ている。
一九一〇年、サラフィアはアメリカに渡った。ニューヨークで自分の方法を公開実演している。一九一一年十一月十六日には「パーフェクション・フルイド」、完全流体という商品名を商標登録した。ただし処方そのものは公開していない。
つまり彼は、自分の液の中身を最後まで売らなかった。
一九三三年、サラフィアは処方を墓まで持っていった。
カタコンベには、彼が処置した遺体が少なくとも三体ある。一九一一年に死んだ合衆国副領事ジョヴァンニ・パテルニーティ。一九一四年に死んだ彼の兄で、名の知れたフェンシングの達人だったエルネスト・サラフィア・マッジョ。そしてロザリア・ロンバルドだ。
残酷な後日談がある。エルネストの棺のガラス蓋は割れた。少なくとも二〇〇八年二月の時点ですでに割れていて、その後も交換されなかった。棺の内部の微気候が一変し、水が入り込み、湿気と虫と細菌とカビによって遺体は下半身から白骨化していったのだ。彼は現在、一般には公開されていない。
同じ人間の手で、同じ液を使って処置されたはずの二人、片方は百年後もまつげが残り、片方は蓋が一枚割れただけで崩れた。保存というのはそういうものだ、という話でもある。
失われた処方が、手記から出てきた
サラフィアの死後、処方は行方不明になった。
彼の方法を研究しようとする者はいたが、扱えるのは断片的な英語文献と広告の文句だけだった。一九九三年にアメリカの葬祭業界誌に載った「サラフィア法」の記事、一九九八年の近代ミイラに関する書籍。どれも決め手を欠いていた。
転機は二〇〇〇年代後半だ。
まず二〇〇七年二月、パレルモのウンベルト・ディ・クリスティーナ教授らが『魂の住処』という本を出した。この中で、サラフィアの未公刊の手記の存在と内容が記述されている。後年の検証によって、処方を最初に世に出した功績はこの本にあるとされるようになった。
同じ二〇〇七年の九月、人類学者ダリオ・ピオンビーノ・マスカリが、サラフィアの生存している親族を探し当てた。親族の手元に残っていた書類の山の中から、手書きの手記が出てきたのだ。表題は「人体全体を永久に新鮮な状態で保存するための新しい特別な方法」。執筆は一九二七年から一九三三年ごろとみられる。
そこに処方が書いてあった。
二〇〇九年二月、ピオンビーノ・マスカリ、アーサー・アウフダーハイデ、メリッサ・ジョンソン・ウィリアムズ、アルベルト・ツィンクの四人が学術誌に「サラフィア法の再発見」を発表する。同じ時期にナショナル・ジオグラフィックが「失われた眠れる美女のミイラの処方が見つかった」と報じ、世界中に広まった。
英語で公表された処方はこうだ。グリセリン一に対し、硫酸亜鉛と塩化亜鉛を飽和させたホルマリン一、サリチル酸を飽和させたアルコール溶液一。これを混ぜて一点注入する。
それぞれの役割が説明されている。
ホルマリンは細菌を殺す。ホルムアルデヒドの防腐力は一八九二年に指摘され、翌年にはドイツの医師フェルディナント・ブルムがその優れた固定作用を発見した。水溶液としてのホルマリンが市場に出たのが一八九三年で、解剖学や動物学ではすぐ使われたものの、人体まるごとの防腐に提案されたのは一八九五年以降とみられている。
サラフィアは一九〇一年にはホルムアルデヒドを基剤とする液を完成させていたことになり、彼の液は「古い防腐薬」から「近代の防腐薬」への転換期の最初期の例のひとつということになる。
アルコールは乾かす。
グリセリンは乾かしすぎを防ぐ。これがないと、ただ干からびて縮んだ顔になる。
サリチル酸はカビを殺す。皮膚の表面に生えてくる真菌への対策だ。
そして決め手が亜鉛塩である。硫酸亜鉛と塩化亜鉛、これがロザリアの体を、比喩的な意味で石に変えた。組織を硬くして形を保つ。頬や鼻の空洞が内側に落ちるのを防ぐ。彼女の顔が二年児の丸みを保っているのは、この亜鉛のおかげだと説明されている。
近代の防腐処置で今も使われている薬品とほとんど同じ顔ぶれだ。例外は亜鉛で、これは現在の標準からは外れており、重金属を使わない方向に業界が進んだからだ。皮肉なことに、その重金属こそが百年後の保存状態を作った。
一五ガロンか、七リットルか。研究者たちは今も揉めている
ここで話は、きれいには終わらない。
二〇二一年以降、別の研究チームがこの一件に噛みついた。ラッファエッラ・ビアヌッチ、フランチェスコ・ガラッシ、アンドレアス・ネルリッヒらのグループである。彼らは「人体防腐プロジェクト」という枠組みで、十六世紀から二十世紀の防腐処置を化学的に検証し、実験的に再現することを目指している。
彼らの主張は大きく三つだ。
ひとつ。手記の発見を二〇〇九年の手柄にするのはおかしい。二〇〇七年二月のディ・クリスティーナらの本のほうが先だ。
ふたつ。ロザリアの処置をアルフレード・サラフィアが行ったという直接の文書証拠がない。サラフィア本人が「この子を処置した」と書いた文章は見つかっていない。状況証拠と家族の記憶と修道会内部の伝承が根拠になっている。彼らはこれを「証拠水準としては弱い」と言う。
みっつ。英語圏に広まった処方の記述に、単位の換算ミスがある。
三つめが面白い。
英語文献では長く「一五ガロンの液を注入した」と書かれてきた。一五米ガロンは約五七リットルであり、体重五九キロの遺体に五七リットル、これは明らかに多すぎる。しかも血液を抜かずにそれだけ入れれば、遺体は膨れ上がり、血管系は破綻する。
ビアヌッチらはサラフィアのイタリア語の記述を読み直した。そこにはこう書かれている。作業者はガラスの容器を見張り、空になる前に常に補充し、空気が液と一緒に入らないようにする。それを「少なくとも七リットルの保存液が入るまで」続ける。まれにもっと必要になる場合は、注入が終わるまでアルコールを足す。
七リットル、米ガロンに直すと一・八五ガロン。
つまり「一五ガロン」は、どこかの段階で起きた換算ミスが、英語圏の文献にそのまま何十年も転記され続けた結果だった、というのが彼らの主張である。一九九八年の一冊だけが「一・五ガロン」と正しく近い数字を書いていたが、誰にも気づかれなかった。
彼らが再訳した処方はこうだ。約七リットルの混合液。グリセリン約二・三三リットル、四十パーセントのホルマリンに硫酸亜鉛と塩化亜鉛を飽和させたもの約二・三三リットル、サリチル酸を飽和させたアルコール溶液約二・三三リットル。まずグリセリンをホルマリン溶液に加え、そのあとアルコール溶液を加える。よく混ぜて濾す。
さらに彼らは、手記の全文を公開しろと繰り返し要求している。個人情報が含まれているなら伏せ字にすればいい、と。二〇二一年から数えて五回目の要求だ、と論文に書いている年もある。
これに対してピオンビーノ・マスカリとツィンクは二〇二二年に反論を発表した。相手の論文は偏っていて、誤った前提と解釈の上に成り立っている。サラフィアがこの処方を作ったことは、書籍と二つの未公刊文書で裏づけられており、修道会の伝承と家族の記憶でも追跡できる。カタコンベには彼が処置した遺体が三体ある。そして相手が提案している追加調査は不要であるばかりか、ミイラの長期保存を不可逆的に損なう、と。
学者同士の喧嘩としてはよくある種類のもわけだ。ただ、ここで揉めている中身は「二歳の子どもの体をこれ以上いじるべきか」という話でもある。
もうひとつ、この論争の中で掘り起こされた面白い証言がある。
ポーランドの研究者アンジェイ・ニヴィニスキが一九七九年に、知人からパレルモの土産のリーフレットをもらった。そこにロザリアの写真が載っていて、説明にこう書いてあったという。この遺体の見事な保存は、液状の蝋の注入によって得られた、と。
そのリーフレットは失われた。だがニヴィニスキは一九八一年の論文にその写真を再録しており、彼の証言が正しければ、顔に蝋を使ったという知識は二〇〇七年の手記発見より三十年近く前から現地にあったことになる。古い絵はがきに写っているロザリアの顔はふっくらして艶があり、前髪が一房、油を含んだように額に落ちている。丁寧な化粧処置の跡だ、と彼らは言う。
二〇一〇年のCT調査では、顔のパラフィン処置の明確な証拠は見つけられなかった。ただし調査者自身が「あれだけ顔が完璧に残っていることを考えると、この方法が使われた可能性は非常に高い」と書いている。
決着はしていない。
X線とCTが、棺の中を見た
ロザリアの体は棺から出せない。開けたら終わりだからだ。
だから調べるには、外から見るしかない。
二〇〇八年七月、前後方向のX線写真が撮られた。ここで分かったのが、頭だけでなく全身が保存されているという事実である。布の下は空ではなかった。しかも臓器がいくつか、写真上で識別できた。
二〇一〇年十二月、より本格的な調査が行われたのだ。シチリア・ミイラ・プロジェクトの枠組みで、移動式の四列CTスキャナがカプチン教会の正面、カタコンベの入口のすぐ横に運び込まれた。棺ごとスキャンする。
画像は最良とは言えなかった。棺の裏張りと装飾の金属、特に鉛のライニングが強いアーチファクトを出したからだ。それでも体のほとんどの部分は読めた。
分かったことを並べる。
全身が保存されていた。骨は硬い皮質骨と柔らかい海綿骨の区別がつく状態で残っていた。歯も残っている。耳小骨、つまり鼓膜の奥にある人体で最小の骨まで判別できた。
内臓が残っていた。しかも状態がいい。脳も、胸腔と腹腔の臓器もあり、これは近代の防腐処置を受けたミイラとしても例外的だ。
大動脈のような太い血管の内部と心臓の内腔に、高密度の構造が見えた。平均で六二八ハウンズフィールド単位、これは乾いた保存液の残りだと解釈されている。血管が太いところと心臓の内腔には液が大量に残り、そのまま固まった。
そして肺であり、片方の肺が、もう片方より明らかに密度が高い。放射線学的な肺炎の診断と矛盾しない所見だった。死亡報告書の「気管支肺炎」を、体そのものが裏づけたことになる。
眼球も残っており、だから、光の角度によっては青い虹彩が見えてしまう。
この話は、次の噂につながる。
「あの子は目を開け閉めする」という噂と、その正体
ロザリアの写真を見たことがある人は多いと思う。
そして、その中には「目を開ける瞬間を捉えた」という連続写真を見た人もいるはずだ。数枚の写真を並べると、まぶたがほんの数ミリ開き、また閉じる。タイムラプス映像として編集されたものがネットに大量に出回った。
現地では昔から言われていた。あの子は一日に何度か目を開ける、と。
パレルモで育った人の回想に、こういうのがある。学校の遠足で十二、三歳のころに連れてこられた。上級生が身を寄せてきて、壁のところの女の子はまだ生きているみたいだ、と囁いた。地元の子どもにとって、ロザリアは博物館の展示品ではなく都市伝説だったのだ。年上の連中は、あの子が起き上がって時間を聞いてくるかもしれない、みたいな話し方をしていた、と。
二〇一四年にはイタリアの新聞が改めてこの話を報じた。「まぶたが日に何度も動き、わずかに開いて、無傷の青い目が見える」。
これに、カタコンベの学術管理者ダリオ・ピオンビーノ・マスカリが答えた。
側面の窓から差し込む光による錯覚である、と。
彼の説明はこうだ。地下の礼拝堂には側面に窓があり、そこから入る光は日中ずっと角度と強さを変える。その光が彼女の顔のどの面に当たるかで、まぶたの陰影が変わる。それだけの話だ。
そして決定的な一点。
彼女のまぶたは、完全には閉じていない。
これは彼が二〇〇九年に気づいた。作業員が棺のケースを動かしたとき、体がわずかにずれ、彼女は水平に近い姿勢に置き直された。その結果、それまでより良い角度からまぶたが見えるようになったのだ。
「閉じきってはいない。そして、これまで一度も閉じきったことはない」と彼は言っている。
つまり隙間は最初からあった。処置の時点から、わずかに開いていた。まつげの下に、青い虹彩のほんの一部が常に見えている。そこに斜めの光が当たれば、見えたり見えなくなったりする。写真を時間差で並べれば、開閉しているように見える。
温度の変化でまぶたが収縮しているのではないか、という説も昔からあった。だが管理者本人の観察のほうが単純で、単純なほうが正しいことが多い。
面白いのは、彼女が横向きに置き直されたこと自体が、噂を強化した点だ。まぶたが見やすくなったから、まぶたの話が増えた。
謎を解いた行為が、謎の材料を増やした。
なお、現在の彼女は密閉されたケースの中におり、中身は窒素だ。
二〇一一年、ボルツァーノのユーラック・リサーチのマルコ・サマデッリらが設計した「受動型制御雰囲気ショーケース」が、ロザリアのために導入された。鋼とガラスでできていて、接合部は有機炭化水素のワックスで封じられている。内部は酸素を追い出した窒素で満たされ、湿度を安定させる調湿材が入っており、電源を使わない。温度が変わっても内部の圧力を自分で吸収する。
性能がすごい。酸素の漏れ込み速度は、一日あたり百万分の〇・一八以下。この数字は、内部の空気が完全に入れ替わるのに五百年以上かかることを意味する。
内部は摂氏二十度前後、湿度六十五パーセント前後に保たれている。ガラスには特殊なフィルムが入っていて、光による劣化も抑える。
同じ設計の二つ目は、二〇一三年にドイツのカストルにあるバイエルンのアンナ王女、一三一九年の遺体のために作られた。どちらも若い娘のミイラで、どちらも電気の来ていない古い礼拝堂に置かれている。
それでも、彼女は黒ずんでいく。
批判的な研究者たちは、高度なケースに入れられてなお酸化が急速に進んでいると指摘する。古い絵はがきの彼女と、一九八二年の写真の彼女と、近年の彼女を並べると、顔は確実に暗くなり、縮んでいる。髪と周囲の布は逆に色が抜けて明るくなっている。二〇一三年のCT論文の著者たちも、ここ数年で酸化と劣化の兆候がはっきりしてきた、と書いている。
百年前の亜鉛塩は、時間との勝負に勝ちきってはいない。まだ負けてもいないが。
子どもの部屋にいる百六十三人を、X線で調べる
長いあいだ、この地下の子どもたちは研究の対象外だった。
大人は調べられてきた。栄養状態、病歴、痛風、動脈硬化、防腐処置の種類、だが子どもは後回しにされたのだ。ミイラ研究全般に共通する傾向でもある。
カタコンベには少なくとも百六十三人の子どもがいる。新生児、乳児、児童、そのうち四十一人が「子どもの部屋」と呼ばれる専用の区画にいる。彼らについて分かっていたことは、ほとんどなかった。当時の死亡記録に載っているのは名前と死亡日だけだ。
二〇二一年十一月、イギリスのスタッフォードシャー大学のキルスティ・スクワイアズが率いるチームが、この子どもたちの調査計画を発表した。芸術・人文科学研究会議から七万ポンドを超える助成を受け、二〇二一年十二月から二年間の計画で始まった。
メンバーが渋い。カタコンベの学術管理者ダリオ・ピオンビーノ・マスカリ、放射線技術の専門家マーク・ヴァイナーとウェイン・ホウバン。エジプト学者で、ミイラの画像読解を専門とするロバート・ロインズ。のちに合流したヴァンダービルト大学のキャサリン・ヴァン・シャイクだ。パレルモの文化財環境遺産監督局の監督下で行われた。
方法は非破壊に限定された。解剖はしない。動かさない。持ち出さない。
理由は三つ挙げられており、倫理的な配慮、信仰上の理由、そして安全衛生上の理由だ。あの地下のカビと虫と粉塵の状態を考えれば、三つ目もかなり切実である。
使ったのは可搬型のデジタルX線装置だ。専門職の廊下に機材を据えた。電源が取れて、その区画の窪みには遺体がなかったからだ。撮影中は放射線管理区域を仕切って立入を制限した。
一体ずつ、頭から足まで、前後方向と側方向の画像を撮る。撮影枚数は合計で五百七十四枚が計画された。あわせて、口を開けられる場合は歯科用の画像も撮る。年齢の推定には歯がいちばん効くからだ。
一体ごとに「バンビーノ番号」が振られ、事前に記録票が作られ、保存状態や姿勢の複雑さに応じてトリアージされた。
二〇二四年九月、四十三人ぶんの結果が発表された。タイトルには「パレルモのアンジョレッティ」とあり、小さな天使たち、という意味だ。
結果を並べる。
年齢は新生児から九歳まで。四十三人のうち三十二人、七十四パーセント強が五歳未満だった。
性別が判定できたのは四人だけ。軟部組織が残っていて外性器が確認できた例に限られる。全員が男児だった。服装から性別を推定するのは無理だと判断されている。当時、性別に対応した服を着はじめるのは五歳ごろからで、子どもの部屋の大半はそれ以前の年齢だからだ。
病変が驚くほど少ない。ハリス線、つまり成長が一時的に止まったことを示す骨の横線が出ていたのは六人、十四パーセント。栄養不足の証拠もほとんどない。
特徴的だったのが三人。
調査番号二五番の子ども。左の上腕骨の上部に骨膜反応があった。骨髄炎か、ユーイング肉腫か、好酸球性肉芽腫か。どれであっても痛みを伴い、腕の動きが制限されたはずだ。
調査番号二九番の子ども。七歳から八歳の男児、背骨がゆるやかに二重に曲がる、軽度の側弯があった。ただし程度は軽く、日常生活に支障はなかったと考えられる。
調査番号三五番の子ども。脛骨にハリス線があり、両足に著しい凹足変形が見られた。神経筋の異常を示唆する所見で、ポリオ、シャルコー・マリー・トゥース病、脳性麻痺などが鑑別に挙がっている。この子は歩くたびに痛みがあったはずだ。
そして、この子は排除されなかった。
論文の結論のひとつがそれである。長期の健康問題を抱え、日常的に介助を必要としていた子どもも、この葬送の儀礼から外されていない。年齢でも、健康状態でもなく、遺族の富と社会的地位が処遇を決めていた。
誰ひとり、死因は特定できなかった。骨に痕跡を残さない急性の感染症が当時は蔓延していて、それが理由だろうと推測されている。
臓器が残っていたのは二人だけ。調査番号一番の子どもに脳と肺があり、四一番の子どもに脳と胸腹部の臓器があった。どちらも人為的な処置を受けた可能性が高い。
処置の種類も分かった。四十三人のうち、明らかに人為的な処置の痕跡があったのは八人、十八・六パーセント。首の切開痕、皮膚の質感と色、そして顔立ちの異様な保存状態で判別される。残りの三十四人は自然乾燥だ。石灰のような保存剤に浸された痕跡が、X線上で高密度の物質として体表近くに写っている例もあった。
そして遺物。全員に何かしら付属していた。
金属の針金。木の杭、釘。木の板、杖のような細い棒だ。麻くずの詰め物、細い針金は、指や手足の形を整えるために使われていた。これらは埋葬品ではない。
展示するための、そして壊れかけた体を修理するための道具だ。
自然乾燥の子どもほど、こうした金具が多い。壊れやすいからだ。人為的に処置された子どもは保存状態がよく、修理の必要が少なかったので、代わりに開いた棺や揺りかごに毛布と枕とともに寝かされていた。
調査番号四一番の子どもは棺と毛布、四二番と四三番は揺りかごと毛布と枕。どちらも生後四か月未満の赤ん坊だ。
そして三〇番と三一番、四歳から五歳の子どもが椅子に座り、その膝の上に生後半年から一年の赤ん坊が乗っている。同じ椅子である。
この二人が、写真でよく見る「揺り椅子の子どもたち」だ。
修理の跡が多いという事実は、逆方向からも読める。何十年にもわたって、誰かがこの子たちを直し続けたということだ。倒れたら立て直し、外れたら針金で留め、垂れたら板を当てた。立った姿勢で見せ続けるために。
それを「執着」と呼ぶか「世話」と呼ぶかは、読む側が決めていい。
一七七七年、詩人が階段を降りた
ここに来た人間が書き残したものを、いくつか読んでみる。時代順にいこう。
一七七七年十一月二日、イタリアの詩人イッポリト・ピンデモンテがこのカタコンベを訪れた。十一月二日は死者の日であり、つまり彼は、遺族が最も多く集まる日を選んで降りている。
彼が書いた詩の一節は、おおよそこう訳せる。
さらに強く、さらに驚くべきものがそこに現れた。広く暗い地下の部屋、その窪みの中に、直立した像のように、魂のない肉体が、死んだときの服のまま、なお立ち続けている。死んだ筋肉の上に、その皮膚の上に、技がびっしりと汗をかき、生きた気配をすべて追い出した。おかげで彼らの昔の顔立ちは、肉も、顔そのものも、百年かそれ以上のあいだ保たれている。死がそれを見て、自分は狙いを外したのではないかと恐れる。
そして彼は、祭りの日の光景を続ける。
秋の落ち葉が、人の命も同じくらい頻繁に落ちるのだと毎年われわれに知らせるとき、人は墓を訪れ、涙を流しに行く。信心深い群衆が地下の回廊に降りていく。高いところからいくつもの灯りが吊るされている。誰もが愛した体のほうへ向き直り、その青ざめた顔立ちの上に、見知った形を探し、そして見つける。息子が、友が、兄弟が、それぞれ兄弟を、友を、父を見つける。
灯の光が震えながらその顔を打つ。
運命に忘れられたその顔が、ときどき、こわばった筋を少しだけ動かす。共にした悲しみの、共にした喜びの、なんと多くの記憶、あっという間に過ぎ去った年月を、もう一度生きること。そのあいだにひとつの溜息が昇り、長く、はっきりとした嗚咽が、低く、そしてアーチに響く。その嗚咽に、冷たい体が答えているように見える。二つの世界を隔てているのは小さな隙間ひとつで、生と死がこれほど結びついたことはなかった。
この詩が有名になったので、パレルモ市は教会へ向かう道に彼の名を付けた。ヴィア・ピンデモンテ。
彼が書いているのは怪談ではない。面会の記録であり、灯りを持って降りてきた家族が、壁に並んだ顔の中から自分の父親を探し当てる。そして泣く。死者はもちろん何もしないが、揺れる灯りのせいで動いたように見える。
ロザリアの目の噂は、この百四十年前にすでに、同じ仕組みで起きていたことになる。
一八八五年、モーパッサンが見たもの
いちばん凄まじい証言が、ギー・ド・モーパッサンのもわけだ。
一八八五年の春、彼はヨットでシチリアを回った。帰国後、五月に新聞に紀行文を発表し、のちに『放浪生活』という本の「シチリア」の章にまとめている。改稿の際に大幅に加筆された箇所が二つあって、そのうちのひとつがカタコンベだった。女と死、彼が生涯こだわった二つの主題である。
彼の記述は、まず「地元の人が嫌がる」ところから始まる。
パレルモの街角で絵はがきを売っている店に、妙な写真が並んでいた。地下の空間が死者でいっぱいで、しかめ面の骸骨たちが奇妙な服を着ている。下に「カプチン会の墓地」と書いてある。
これは何かとパレルモの住人に尋ねると、嫌悪の表情で答えが返ってくる。「あんな恐ろしいものを見に行くのはおよしなさい。あれはひどい、野蛮なもので、幸いにも間もなくなくなるでしょう。それに、もう何年も前から誰もあそこには埋められていません」。
それ以上の詳しい情報は、なかなか得られない。シチリア人の大半が、この異様なカタコンベに嫌悪を抱いているように見えた、と彼は書く。
ここ、かなり重要だと思う。今でこそ観光名所だが、当時の地元にとっては「早く消えてほしい恥」だった。
それでも彼は説明をかき集める。カプチン会の修道院が建っている土地には、死んだ肉の分解を異常に速める性質があって、一年で骨の上には何も残らない。黒く乾いて張りついた皮が少しと、ときには顎と頬のひげが残るだけだ。だから棺は側面の小さな穴倉に納められ、一年経つと開けられ、ミイラが取り出される。
そのミイラの形容が容赦ない。恐ろしい、ひげの生えた、引きつったミイラ、叫んでいるように見え、ひどい苦痛に苛まれているように見える。
それを主要な回廊のひとつに吊るす。家族が時々会いに来る。
そして彼はそこへ行く。
粗末な小さい修道院の扉のところで、茶色い僧衣の老いたカプチン会士が彼を迎えた。ひとことも言わずに先に立って歩く。外国人がここに何を見に来るのか、よく知っているからだ。
貧しい礼拝堂を抜け、広い石の階段をゆっくり降りる。
そして突然、目の前に巨大な回廊が現れる。広く、高い。その壁に、奇妙で滑稽な服を着た骸骨の民が張りついている。空中に並んで吊るされている者、床から天井まで積み重なった五段の石の棚に寝かされている者。地面には死者の列が立っている。
ぎっしり詰まった列で、そのひどい頭が何かしゃべっているように見える。
顎と骨をさらに変形させる醜い植生に食われた顔。髪が残っている顔、口ひげの端が残っている顔。ひとつまみの顎ひげが残っている顔だ。
上を向いて、空っぽの眼で見ている者、下を見ている者。ひどい笑い方をしているように見える者、苦痛でねじれている者。全員が、人間を超えた恐怖に取り乱しているように見える。
そして彼はここで、この記事の主題に直接触れる一文を書く。
そして彼らは服を着ており、この醜くて滑稽な哀れな死者たちは、家族に服を着せられている。家族が彼らを棺から引き出し、この恐ろしい集会に席を取らせたのだ。
ほとんどが黒い衣のようなものを着ていて、頭巾を頭にかぶせられている者もいる。だが中にはもっと豪奢に着飾らせたかった家族もいて、刺繍入りのギリシャ帽をかぶせられ、金利生活者の豪華な部屋着にくるまれた惨めな骸骨が、仰向けに寝かされ、恐ろしくもあり滑稽でもある眠りを眠っているように見える。
首から下げた札に、名前と死んだ日付が書いてあり、その日付が、骨に震えを走らせる。一八八〇年、一八八一年。一八八二年。
では、これは人間なのか。三年前まで人間だったものなのか。これは生きていて、笑い、しゃべり、食べ、飲み、喜びと希望に満ちていた。そして、これだ。
彼は女性の回廊に移る。
女たちは男よりもさらに道化じみており、念入りに着飾らされているからだ。レースとリボンのついた帽子に締めつけられた頭がこちらを見ている。帽子は雪のように白く、その白さに囲まれた顔は黒く、腐り、土の奇妙な仕事に食われている。切り落とされた木の根のような手が、新しいドレスの袖から出ている。
靴下は空っぽに見え、中に脚の骨を閉じ込めており、ときどき、死者は靴だけを履いている。
大きな、とても大きな靴を、その哀れな乾いた足のために。
若い娘たちの区画、白い衣装をまとい、額に金属の冠をかぶっている。無垢の象徴であり、しかめ面のせいで、とても年老いた老婆に見える。十六歳、十八歳、二十歳、なんという恐ろしさか、と彼は書く。
そして子どもの回廊。
小さなガラスの棺でいっぱいの回廊に着く。子どもたちだ。骨がまだ硬くなっていなかったので、耐えられなかった。何が見えているのかよく分からないほど、変形し、押し潰され、ひどい姿になっている。
だが、と彼は続ける。涙が目に込み上げてくる。母親たちが、その子が生きていた最後の日々に着ていた小さな服を着せているからだ。そして母親たちは、こうして自分の子どもにまた会いに来るのだ。
彼が最も痛烈なことを書くのは、この直後である。しばしば遺体のかたわらに写真が吊るされており、生前の姿を写した写真である。この対比ほど衝撃的で恐ろしいものはない、と彼は言う。
貧しい者たちの回廊もあり、より暗く、より天井が低い。暗い隅に二十体ほどがまとめて吊るされ、天窓から外の空気が乱暴に吹き込んでくる。黒っぽい布を足と首で結んだだけの姿で、互いに寄りかかっている。震えているように、逃げ出そうとしているように、助けを求めて叫んでいるように見える。
嵐のとき船乗りが着るタール塗りの布に包まれたまま、溺れた船の乗組員が、海に掴まれた最後の瞬間の恐怖にまだ揺すぶられているようだ、と。
司祭の回廊は「名誉の大回廊」だ。黒と赤と紫の祭服に覆われて、最初は他の誰よりも恐ろしく見える。だが一体ずつ眺めていくと、神経質で抑えきれない笑いが込み上げてくる。歌っている者がおり、祈っている者がいる。
頭を上げさせられ、手を組ませられている。司式者の帽子が、肉の落ちた額のてっぺんに載ったままだったり、ふざけたように耳のほうへ傾いていたり、鼻まで落ちてきていたりする。
死のカーニバルだ、と彼は書く。祭服の金色の豪華さが、それをいっそう茶番にしている。
そして最後に、彼が聞いた話。
ときどき、頭が床に転がり落ちるという。首の接合部がネズミに齧られてしまうからだ。何千匹ものネズミがこの人間の納骨堂に住んでいる。
一八八二年に死んだ男を見せられた。その十八か月前、陽気で健康だったこの男は、友人を連れて自分の場所を選びに来た。「私はここにする」と言って、笑っていたのだ。
読み返すたびに思うが、この紀行文の怖さは幽霊ではない。「三年前まで人間だった」という一行と、「笑いながら自分の場所を選びに来た男」の話だ。
二〇二二年九月、出口でアンケートを配る
時代を飛ばす。
二〇二二年九月十九日の月曜日から二十三日の金曜日まで、カタコンベの出口で紙のアンケートが配られた。スタッフォードシャー大学のキルスティ・スクワイアズ、アリソン・デイヴィッドソン、そしてピオンビーノ・マスカリによる調査だ。子どものミイラの展示について、来訪者がどう感じているかを聞く。
回答者は百五名、全員が十八歳以上で、事前に同意書に署名している。個人を特定する情報は集めない。英語版とイタリア語版が用意された。倫理審査は二〇二一年十一月十日に通っている。
回答者の半分強、五十四人がイタリアからの訪問者だった。残りはヨーロッパ各地と北米、そしてパレルモ市内から来た人は、百五人中たった一人だった。
これは示唆的であり、地元の人はもう来ない。
来訪者のコメントをいくつか引く。
オランダから来た四十代の女性は書いた。この人たちは誰なのか。なぜ彼らはここで見られているのか。でもこれは主に自分のせいであり、事前に調べなかったのだから。
クルーズで多くの場所を回るので、と。
ドイツから来た五十代の女性は、赤ん坊と乳児の区画は大丈夫だったが、そこに入る前に注意書きが欲しかった、と書いている。イタリアから来た五十代の女性も、新生児がいることは事前に警告してほしいと書いた。
ドイツから来た二十代の男性のコメントが、いちばん正直であり、これは正しくないと思う。でも自分は見たいとも思っており、少し矛盾しているかもしれない、と。
イタリアから来た五十代の女性は、これは私たちの文化史の一部だ、と書いた。スペインから来た三十代の男性は、好むと好まざるとにかかわらず、これは体験の一部だ、と書いた。アイルランドから来た三十代の女性は、どんなミイラを見ることになっても心構えが要る、これも「病的な魅力」の一部だから、と書いている。
イタリアから来た三十代の女性の回答は、この場所の擁護としてよくできている。時代と埋葬の慣習の文脈を理解する必要がある。当時はそれが普通だった。嫌悪もそのほかの否定的な感情も感じなかった、と。
イタリアの二十代の女性はこう書いた。どうやってこんなに脆い体を保存できたのか、とても興味深い。そして悲しい。この子たちは自分の人生を生きられなかったのだから。
数字も出ている。子どものミイラを見てどう感じたかという質問に、百五人のうち二十二人が「何も感じない」と答えた。否定的な感想が二十七人、内省的な感想が二十二人。肯定的な感想は十人だけ。相反する感情が入り混じったという人が十二人。
興味深いのは、「何も感じない」と答えた二十二人のうち、十七人が男性だったことだ。研究者は、感情を出さないことは無関心とは限らず、複雑な感情への対処のひとつの形でもあると書いている。実際、著者二人は現場で作業していて、来訪者が冗談を言ったり不適切な振る舞いをしたりする場面を目撃している。緊張を笑いで逃がすというのは、よくある反応だ。
そして、展示自体の是非、カタコンベでの子どもの展示を適切だと答えた人は八十六人、八十五パーセント強。博物館での展示を適切だと答えた人は八十一人。
ただし条件がついていた。事前に子どものミイラの存在を知っていた人では九十一パーセントが「適切」と答え、知らなかった人では七十四パーセントに下がる。知識があるかどうかで判断が変わる。
そして最も多かった不満が、情報の少なさだった。館内の説明が十分だと答えた人は二十七人、不十分だと答えた人が七十三人、七割近い。
実際、ここには音声ガイドもパンフレットもない。説明板もごくわずかだ。入口で二十ユーロの写真集を買うことはできるが、それに気づかない人も多い。
来訪者が繰り返し口にした疑問が二つある。
この人たちは誰なのか。
そして、この人たち、あるいはその家族は、見られることに同意したのか。
降りていった人たちが、その後どう感じたか
もっと私的な証言も読んでおきたい。
アイルランドの新聞のコラムニスト、フランク・マクナリーが二〇二二年八月に訪れたときの記録がいい。
彼はまず、写真禁止の録音アナウンスが定期的に流れることに触れる。監視している人はいない。それでも誰も違反しなかった。なぜなら、どこを向いても目が、少なくとも眼窩がこちらを見ているからだ。
彼が書いた表現が的確であり、ミイラたちは「重力との勝ち目のない戦い」を続けている。立っている遺体は自分の中に縮んでいき、大人ですら小さく見える。顎はぎょっとするほど落ちており、中には、笑い死にしたように見えるものもある。
だが全体の印象は、深く陰鬱であり、創立した修道士たちが意図したとおりに。そして彼はこう締める。階段を上って、生者の国に、そしてカプチーニ広場の目の眩む陽光に戻れるのは救いだ、と。
オーストラリアで死の教育に携わり、以前は葬祭の現場で赤ん坊と子どものケアを担当していた女性の記録も、読み応えがある。二〇二三年に家族で訪れた。夫はこの手の場所が苦手なので、いちばん下の子を連れて市場へ。彼女は十六歳と十四歳の子どもを連れて降りた。
階段を降りるごとに温度が下がり、空気が冷たく、よどんで、妙に濃くなる。人が降りるにつれて声が低くなり、言葉が減っていく。最初は興奮していた三人が、静かな畏怖に変わり、最後には未知への降伏のようなものに変わった、と書いている。
遺体の数の多さに、彼女はまったく備えができていなかった。言葉を失うとは思っていなかった。一瞬、自分が子連れの母親であることを忘れたのだ。しばらくして二人の十代の子を脇に呼んで、大丈夫か、出ようか、と聞いた。一瞬、二人は「うん」と言いそうに見えた。
実際、その気持ちも少しはあったと思う、と彼女は書く。結局そのまま進んだが、三人とも「今回ばかりは母の仕事が行きすぎた」という点では一致した。
そして子どもの区画について。
彼女は葬祭の現場で、赤ん坊と子どもの遺体のケアをしてきた。いつも一番いい服を着せ、毛布にくるみ、大切なものを持たせて送り出した。自分の役割は、その子を最も愛した人たちから預かった一時的な管理人だと思っていたのだ。だから、ここも愛のこもった記念の形だろうと予想していた。
実際に立ってみて感じたのは、圧倒的な悲しみと、落ち着かない何かだった。
何十年も経って、この子たちは休んでいない。待っているように見えた、と彼女は書いている。この子たちを選んだ家族は、当時はそれで慰められただろう。でも世代が移ってしまった今、この子たちはもう自分の人たちと一緒にいない。彼らの親はこの壁のどこかにいるのだろうか。
後期の埋葬については、たぶんいない。
そして決定的な一文、数千体の大人については、まったくそう感じなかった。赤ん坊と子どもだけだった。世話をする人がもういない。死んでもなお、抱いていてもらう必要があるように見えた。
二〇〇〇年にアメリカの大学のプログラムで訪れた学生の文章も引いておく。
階段の手前に、泣いている聖母マリアの像が立っていた。これから見るものの予告のように思えて、怖くなった。
通路に入ると、白いペンキの剥げた天井の低いアーチが続く。かび臭い土のにおいが充満し、奥へ行くほど強くなる。石の段は滑って、靴が鳴る。前方の開口部に近づいて足を速め、そして完全に止まった。何千もの顔が、えぐられた眼で、愛する者を求めて泣いていた。
彼女はこの場所を「おもちゃ屋みたいだ」と形容する。棚に、床から天井まで死体が陳列されており、全員きちんと服を着て、きちんと吊るされている。それぞれが違う仮面をかぶっているようで、ハロウィンのようだ。頭は不自然に横に傾き、手は前で組まれて縛られている。
磔にされているようにも見えるし、組まれた手が横一列に並ぶせいで、全員が手をつないでひとつになろうとしているようにも見える。
そして右手の小部屋で、彼女は三十人ほどの子どもを見つける。全員がボンネットとレースのドレスを着て、顔をボンネットの陰に隠している。外を見るのが怖いかのように。磁器人形のように、一人ずつ壁の窪みに並んでいる。足元では新生児が揺りかごに寝て、年上の子どもたちがそれを見守っている。
剥げかけたフレスコの壁には十字架、上からは神の像が見下ろしている。
何があったのか。なぜこの子たちは死んだのか。なぜこんなに脆く、怯えて見えるのか。
侵入者になった気がして、彼女はその部屋を出た。見られている気がした。裁かれている気がした、と。
最後に、パレルモで育った人間の証言。
学校が十二、三歳の生徒をぞろぞろ連れて降りていく場所だった。上級生が「壁のところの女の子はまだ生きてるんだ」と囁く。地元の子どもにとって、ロザリアは展示品ではなく伝説だった。
そして今、彼はこう書く。ここは長くて冷たい通路だ。多くの人が最初に正直に思うのは「怖い」ではなく「これ、誰か埃を払ったりするのかな」である。しばらくすると顔の区別がつかなくなってくる。悪臭もしない。
死のにおいの壁のようなものはない。どこかに「古い」の気配がかすかにあるだけで、ホラー映画のサウンドトラックはそれで全部だ。
では何があるのか。
ここは人を内省させる。望んでいようがいまいが、静かに、確実に。これはセットのために作られた小道具ではない。これは人間で、吊るされて、何世紀も立たされたままなのだ、と。
死者を隠さずに並べておく、という文化が何をしていたのか
ここまで読んで、たぶん引っかかっているはずであり、なぜそんなことをしたのか。
理屈はいくつも立てられる。順番に見ていく。
まず宗教的な骨組み。カプチン会の起点になったのは、四十五人の遺体が腐らなかったという出来事である。カトリックの世界で、腐らない遺体は聖性のしるしとして扱われてきた。聖人の体は保存され、その断片は聖遺物として各地に送られ、病を癒やし、悪を退けると信じられた。修道士たちが最初の四十体を埋め直さずに壁に立てたのは、彼らを聖遺物の一種として扱ったからだ。
次に葬送儀礼の構造、人類学には「二次葬」という考え方がある。遺体をまず一時的な場所に置き、肉が失われるのを待ち、その後で骨を本葬する。この移行の期間が、遺族が死を受け入れる期間と重なる。南イタリア、特にシチリアでは、この形式が広く行われてきた。カプチン会の共同墓穴も、もとは二次葬のための一時置き場だった。
そこに「腐らない」という偶然が挟まったのである。二次葬の第一段階が、終わらなくなったのだ。
三つめが、パレルモの社会構造であり、この葬礼は極端に高い。だから身分の証明になる。遺言に服装を書き、着替えの頻度を指定し、特定の廊下の特定の位置を望む。生きているあいだの序列を、死んだあとの空間配置に移し替える作業である。
実際、この地下の間取りそのものが十八世紀パレルモ社会の見取り図になっている。修道士、司祭、男、女、未婚の娘、子ども、そして専門職、人間が生前に属していた区分が、そのまま通路の名前になっている。研究者は「男」の区画を「それ以外の全員」の受け皿だと指摘し、弁護士が専門職の廊下にいるのは社会的地位が高かったからでもあり、単に金で入り込めたからでもある、と書いている。
つまりここは、ひとつの社会が姿勢を保ったまま数世紀分まとめて凍っている場所だ。
そして四つめ。研究者たちが最も重視しているのが、死後も「社会的な人格」が続くという信念である。
体が残っていれば、その人はその人であり続ける。名札が下がり、服がその人の職業と身分を示し、家族が会いに来て、手を組ませて祈る。死者は消えた存在ではなく、住所を持った存在になる。そして煉獄の魂として、生きている家族を守る側に回る。
この関係を維持するために、遺体が必要だった。
ダリオ・ピオンビーノ・マスカリはこれを、一言でまとめている。
「長いあいだ、シチリアでは死は語ってはいけない話題だった。二十世紀に入って、二つの世界大戦のような出来事が、シチリア人の死に対する態度に影響を与えたのだ。もう誰も死の話をしたがらなくなった」。
そして続ける。
「今、このミイラたちから出てくるものの科学的な重要性を前にして、人々は理解しはじめている。シチリアでは、死はずっと生の一部だった。そして何世紀にもわたって、多くのシチリア人はミイラ化を使って、生と死のあいだに絶え間ない関係を保とうとしていたのだと」。
彼の言う通りだとすれば、この地下の本当の主題は保存技術ではない。関係の維持だ。
腐らせないのは、会いに行けるようにするためである。
なぜ、これがここまで怖いのか
とはいえ、怖いものは怖い。
その怖さの内訳を分解してみたい。
ひとつ目は、服だ。
骨だけの山なら、人はそれほど動揺しない。パリのカタコンベやポルトガルの人骨礼拝堂は、骨を建材のように積み上げて装飾にしている。あそこまで抽象化されると、人間は「模様」として処理できる。
パレルモは逆をやる。服を着せる。しかも一張羅を着せる。レースの帽子、刺繍入りの部屋着、司祭の祭服、子どもの余所行き。そのせいで、見る側の脳は「これは個人だ」と認識してしまう。
個人として認識したうえで、顔が崩れているのを見る。
処理できない。そこで怖くなる。
二つ目は、姿勢だ。
立っており、寝ていない。横たわった死者は死者に見えるが、立った死者は「まだ何かをしようとしている存在」に見える。しかも針金と杭と板で、意図的にその姿勢が維持されている。誰かが「立たせ続けよう」と決めて、何十年も修理してきたという事実が、怖さに層を足す。
三つ目は、顔の表情だ。
叫んでいるように見える、笑っているように見える、というのは全部、乾燥に伴う物理現象である。皮膚と筋肉と腱が縮み、顎が落ち、唇が引き、眼窩が空く。感情ではない。
だが人間の顔認識は、感情を読むようにできており、だから読んでしまう。モーパッサンは司祭たちの区画で「抑えきれない笑い」に襲われ、直後に「死のカーニバル」と書いた。恐怖と笑いが同じ場所から出ている。
四つ目が、契約だ。
送金が止まれば棚に降ろされる。この一点で、死者の尊厳が経済に結び付けられていることが露骨になる。壮大な信仰の話をしていたはずが、急に管理費の話になる。しかも一八三七年の料金表は、男か女か子どもかで額が違った。
死んだ後まで、社会の等級がついて回る。これは幽霊より怖い。
五つ目は、もちろん子どもだ。
子どもの部屋の前で立ち止まる人が多いのは、そこだけ論理が通じないからだと思う。壁に並んだ老人には「長く生きた末の姿」という物語がある。二歳で死んだ子どもには、それがない。
そして揺り椅子に二人で座らされた子どもたちの姿には、演出の意図が見える。だから、余計にこたえる。
同意という、答えの出ない質問
現代の来訪者が繰り返し口にする疑問がある。
この人たちは、見られることに同意したのか。
形式的な答えなら出せる。この葬礼を選んだ人々は、あるいはその遺族は、永続的な展示を承知のうえで金を払った。研究者もそう書いている。博物館に並ぶ人体標本の多くが同意なしに収集されたのと比べれば、ここは異例なほど「本人の希望」に近い。
だが、そこで終わらない。
まず、子どもは選んでいない。選んだのは親だ。
そして、同意した相手が違う。一八四〇年代のパレルモの人間が想定した「見に来る人」は、自分の孫であり、街の知り合いであり、日曜に祈りに来る隣人だった。クルーズ船で降りてきた外国人の団体でも、動画配信のカメラでもない。
さらに、デジタル化の問題があり、研究者たちはこう書いている。死者は、あるいは遺族は、カタコンベで展示されることには同意した。しかしこの場所のデジタル再現物に自分が含まれることには同意していない、と。
写真禁止の理由の一部は、たぶんここにある。
実際、二〇二二年の調査でも、来訪者は他人が携帯で撮っているのを見て不快感を示していた。ある旅行記の書き手が書いた一文が刺さる。想像してほしい、一八五〇年代に長患いの末に死んで、百五十年後に他人の交流サイトに載っている自分を。しかも中は暗いから、画質はひどい。
研究の側にも同じ問いがある。
子どものX線調査のチームは、解剖せず、遺体を動かさず、その場で撮ることを最初から選んだ。倫理と信仰と安全衛生の三つを理由に挙げている。撮影した子どもの画像を論文に載せる際も、扱いは慎重だ。
一方、ロザリアの追加調査を求めるグループと、それを拒む管理側が対立している。求める側は「科学的に未解明の点が残っている」と言い、拒む側は「不必要であり、長期保存を不可逆的に損なう」と言う。
どちらの言い分にも筋が通っており、だからこの論争は終わらない。
二歳の子どもの体をめぐって、百年後の大人たちが、その子のためになる扱いとは何かを言い争っている。奇妙な光景だが、これはこれで、ある種の「関係の継続」ではある。
それでも、彼女は黒ずんでいく
最後に、この場所の現在の状況を書いておく。
あまりよくない。
換気は失われた。かつて遺体を乾かしていた空気の流れは、都市化と建物と、閉ざされた窓によって断たれた。湿度が上がり、カビが増え、虫が働き続けている。第二次大戦の爆撃と一九六六年の火事が壊したものは戻らない。名札は大量に失われ、今では大半の遺体が名前を持たない。
ある研究者が調べ上げた範囲では、名前と正確な位置が分かり、一般の来訪者から見える遺体は四十六体しかなかった。そのうち修道会の記録に対応する記載が見つかったのは十体。四十六人のうち二十二人については、名前と死亡日以外に何も分からない。
別の調査者はもっと粘って百八十三人の名前を特定したが、修道会の記録と照合できたのは四十七人、二十六パーセントにとどまった。その中で名前の判明した女性はただ一人、ロザリア・ロンバルドだけだった。
千二百体以上が並んでいて、名前が残っているのが百八十三人。
彼らは見られるために金を払った。見られることには成功しており、年間何千人もの人間が見に来る。だが、誰なのかは忘れられた。
ピオンビーノ・マスカリはこう言っている。
「急いで手を打たないと、このミイラたちは救えない。ミイラにされることは、この人たちの望みだった。だから、保存するのは我々の道義的な務めだ」。
その言葉は、そのままロザリアにも当てはまる。
彼女は今、鋼とガラスのケースの中にいる。中は窒素で満たされ、温度は摂氏二十度前後、湿度は六十五パーセント前後に保たれている。酸素の漏れ込みは極端に小さく、計算上、中の空気が入れ替わるには五百年以上かかる。電源は要らない。ガラスには光を遮る膜が入っている。
それでも顔は少しずつ暗くなり、少しずつ縮んでおり、髪と布は逆に色が抜けていく。百年前の亜鉛塩と、二十一世紀の窒素と、時間が三つ巴でやり合っている。
父親は一九八〇年まで生きた。母親は一九六六年まで生きた。二人とも、自分の娘が死んだ日の姿のまま横たわっているのを、何十年も見に行けたことになる。マリオ・ロンバルドが望んだのはたぶんそれであり、娘を永遠に美しいままにしておくこと。
そして、会いに行けること。
その願いは叶った。叶いすぎた、と言ってもいい。彼女は今や世界中の人間に会っている。
地下から階段を上ると、パレルモの日差しは暴力的なほど明るい。カプチーニ広場に出て、目を細めて、生きている人間の街に戻る。
戻れるのは、こちらだけだ。
下にいる千二百人は、服を着たまま、そこに立っている。
家族が着替えさせに来なくなってから、もう百年以上が経っている。
