三年経ったら、墓を開けに行く日が来る
日本にはついこの前まで、「葬式のあと、もう一回葬式がある」地域があった。しかも二回目のほうが、いろんな意味で本番だった。
人が死ぬ。遺体を墓に入れる。ただしこの段階では火も土もかけない。崖の下や洞窟、あるいは石の墓室に、棺ごと置いて、入り口を閉める。それから三年。あるいは五年、七年。家族は日を占って、もう一度その墓へ行く。今度は道具を持って。石を押し退けて、棺を引き出す。蓋を開ける。中には三年前に別れた人が、三年分だけ変わった姿で横たわっている。
そして家族は、その骨を一本一本取り出し、まだ付いているものを落とし、海水と泡盛で洗い、乾かして、甕に納め直す。これが洗骨だ。漢字で書けばそのまま、骨を洗う。
現代の感覚では、これはちょっと直視しがたい風習に見える。でもこれをやっていた人たちにとっては、これこそが孝行だった。やらないという選択肢がなかった。やらなければ、その人はいつまで経っても祖先になれないからだ。この話は、そこを外して読むと、ただのグロ話になってしまう。
その日の朝、墓の前で何が起きていたか
洗骨の日は、たいてい旧暦で決まっていた。日取りを占って決める地域もあれば、月の巡りや季節で固定されている地域もあった。共通しているのは、夏を避けるという点。衛生上の理由もあるし、単純に作業がつらいからだ。
当日、集まるのは主に女性だ。白い着物を着る地域もあれば、汚れてもいい普段着で行く地域もあった。手には桶、手ぬぐい、タワシ、ヘラや小刀、そして泡盛。海水を汲むための容器。墓が海に面しているのは偶然じゃなくて、洗骨に海水がいるからだ。与論島などでは墓地の多くが海に面した見晴らしのいい場所にあったとされ、砂地であることも洗骨に都合がよかったという。
そしてもうひとつ、意外な必須アイテムが傘だ。洗骨は本来、日が落ちてから行うものだとされていたという記録がある。遺骨を太陽にさらすのを忌む。やむを得ず昼間にやる場合は、傘を差しかけて日を遮った。想像してほしい。海辺の墓の前で、女たちが傘を差しかけて、その影の下で黙々と骨を洗っている。周囲には波の音。この光景は、怖いというよりも、どこか儀式として完成されすぎていて圧倒される。
作業の前には必ず、故人に向かって声をかける。これからお体をきれいにしますよ、と。断りを入れてから手を付ける。この一声で、作業は遺体の解体ではなく、入浴の介助になる。
蓋を開ける。中では何が起きていたのか
さて、いちばん重い場面だ。
三年というのは、実は微妙な長さなんだよな。条件がよければ、三年で完全に白骨化する。風通しのいい洞窟で、温度と湿度と虫の三拍子が揃えば、もっと早いこともある。だが条件が悪ければ、三年でも終わらない。土葬の場合は特にそうで、土質によっては五年でも七年でも、まだ相当に残っている。
だから洗骨の現場では、蓋を開ける瞬間が一番の山場になる。うまくいっていれば、中にあるのは骨と髪と布だけだ。カラカラに乾いていて、匂いも強くない。骨はクリーム色か、土に接していた部分は茶色く変色している。頭蓋骨には髪が張り付いたままのことが多い。髪はなかなか分解しないからだ。
うまくいっていないときのことは、ここでは深く書かない。ただひとつだけ確実なのは、当事者の証言を読むと、彼らが恐れていたのは見た目ではなく、「まだ早すぎた」という事態そのものだったということだ。早すぎれば作業が困難になるし、何より「この人はまだこちら側にいる」という意味になってしまう。逆にきれいに白骨になっていれば、集まった人間は安堵する。よかった、この人はちゃんとあちらに行けている。
こういう受け止め方なんだ。
素手で、除ける。この作業の意味
洗骨の作業でもっとも知られているのが、骨に残ったものを取り除く工程だ。これをやるのが、先にも書いたとおり女性だった。
道具を使う場合もあるし、素手でやる場合もあった。地域や家によって違う。ただ、素手のほうが丁寧だとされたという話はあちこちに残っている。道具で乱暴にやると骨を傷つける。骨を傷つけるのは、故人を傷つけるのと同じだ。だから指で、ゆっくりやる。
この工程を、当事者は「汚い作業」とは見ていない。そこが肝心なところだ。イメージとしては、長い間墓の中で汚れてしまっていた家族を、ようやく風呂に入れてあげられる、という感覚に近い。実際、洗骨を経て初めて故人は「クサハー(汚れ)」から離れ、清らかな祖霊になると考えられていた。洗骨をしていない死者は、まだ中途半端な存在。地域によっては、洗骨を終えるまでは位牌も本格的なものにならないとされた。
だからこの作業は、グロい作業ではなく、終わらせてあげる作業だ。三年間、この人は墓の中で、いわば待機していた。その待機を解除してやる。手を下すのは、一番近い人間でなければならない。他人に任せるものじゃない。そういう理屈だ。
泡盛で洗う。順番も決まっている
骨がきれいになったら、次は洗う。使うのは主に海水と酒。酒は泡盛。奄美なら黒糖焼酎が使われることもあった。
海水を使う理由は二つある。ひとつは実用的な理由で、塩分が汚れを落とす。もうひとつは宗教的な理由で、海水は禊の水だ。神道でも海水で禊ぐ。南島の信仰では、海の向こうにニライカナイと呼ばれる神の国があるとされてきた。海水で洗うというのは、海の向こうに送り出す準備でもある。
泡盛のほうはもっと実用的で、消毒と脱臭だ。二十度以上の酒をかけると、残っている有機物がある程度処理されるし、匂いも変わる。そして何より、酒はハレの飲み物だ。祝いの場で使うものを、故人にかける。これは洗浄であると同時に、役目を終えた人へのパーティーでもある。
洗う順番にも決まりがあったとされる。多くの場合、頭から。頭蓋骨を丁寧に洗い、髪を洗う。人間の入浴と同じだ。上から下へ。そのあと大きな骨から順に洗っていく。洗い終わった骨は布の上に並べて乾かす。ここで初めて、人の形をした骨の集まりが地面に現れる。当事者が「この瞬間がいちばんこたえた」と語ることの多い場面だ。さっきまで作業だったものが、急にひとりの人間に戻るからだ。
厨子甕という名の、二度目の棺
洗って乾かした骨を納める容器が、厨子甕だ。現地ではジーシガーミと呼ぶ。これが実に見応えのある器で、沖縄の工芸史のなかでも特筆すべき存在なんだ。
材質は大きく分けて二系統ある。ひとつは陶製で、那覇の壺屋などで焼かれたもの。もうひとつは石製で、サンゴ石灰岩を削って作ったもの。石厨子は本島中部の東海岸側に多い。形もさまざまで、屋根のついた家の形をしたもの、御殿を模した豪華なもの、もっとシンプルな甕形のものなどがある。一八六七年や一八六八年の銘が入った厨子甕が実物として残っていて、銘書を見ると故人の名や没年、洗骨した年月日が書き込まれている。
つまり厨子甕は、墨で書いた墓石でもあった。
サイズは、骨を全部入れられるほど大きくはない。だから骨を折ったり、順番を工夫したりして詰める。入れ方にも作法があって、一般的には下のほうに足や胴の骨、最後に頭蓋骨を一番上に置く。つまり甕の中で、人は座っている形になる。蓋を開ければ、頭蓋骨がこちらを見ている。
この厨子甕を、墓室の棚に並べる。一つの墓に何十も並ぶ。つまり墓を開けると、そこには一族の歴代の先祖が、名前付きの甕に入って並んでいる。これが名前だけの位牌とは決定的に違うところで、実物が、実際の重さが、そこにある。自分の何代も前の先祖の骨が、手を伸ばせば届く距離に並んでいる。この感覚を、本土の人間はほとんど知らない。
「シルヒラシ」――汁を乾かす場所、という直球すぎる名前
沖縄の墓の内部には、目的別の区画がある。そのひとつが「シルヒラシ」と呼ばれる場所だ。
意味はそのまま、汁を乾かすところ。遺体を置いて、水分が抜けて骨になるのを待つスペース。この名前の容赦のなさに、正直ちょっとひるむ。でもこれは、彼らが遺体の変化を完全に工程として把握していたことの証拠でもある。隠さない。忌み言葉にもしない。汁は乾く。乾いたら次の工程。それだけだ。
墓の中は、だから二層構造になっている。手前にシルヒラシ、奥に厨子甕を並べる棚。新しく死んだ人は手前に入る。洗骨を終えた人は奥に移る。つまり墓の中で、死者は手前から奥へ、少しずつ移動していく。新人から先輩へ。不安定な死者から、落ち着いた祖先へ。この物理的な移動が、そのまま序列上のステータスの移動になっている。
こういう設計の墓を、一族で使う。島によっては門中と呼ばれる父系の親族集団単位で、巨大な墓を共有する。だから洗骨の日は、自分の親だけでなく、歴代の厨子甕と対面する日にもなる。
亀甲墓のあの形は、何を意味しているのか
沖縄の墓といえば、あの独特な形を思い浮かべる人が多いだろう。屋根が亀の甲羅のように丸く盛り上がっている、亀甲墓だ。現地ではカーミヌクーバカなどと呼ばれる。
この形については、胎内を模しているという解釈が古くから語られてきた。人は母の胎から生まれ、死んだらまた胎に戻る。墓は死者を収める容器であると同時に、再生のための子宮でもある。この読み方がどの程度当初からあったのかは議論があるけれど、洗骨という行事とは非常に相性がいい。墓という胎の中で三年間養われ、骨として生まれ直す。洗骨は、二度目の出産だ。
骨を洗うのは、生まれたばかりの赤ん坊の体を洗うのと同じである、と。
実際、洗骨を担ったのが女性だったという事実と、この解釈はきれいに接続する。産むのも女、遺体を洗うのも女、骨を洗うのも女。人をこちら側に引き入れるのも、あちら側に送り出すのも、同じ役割だとされていた。南島にはおなり神信仰と呼ばれる、姉妹が兄弟を霊的に守るとする信仰があって、女性が神事の中心にいる社会だった。洗骨を女性がやるのは、単に回ってきた雑用だからではない。
少なくとも建前の上では、神職に近い役割だった。
ただしここには現実の重さもある。次の見出しでそこに触れる。
なぜ長男の嫁なのか、という重い話
洗骨の担い手について、文献に繰り返し出てくる記述がある。実際に骨を洗うのは親族の女性、特に長男の嫁がすべきものとされた、というやつだ。
これをどう読むかで、洗骨への印象がかなり変わる。建前の上では、最も重い役目を任される名誉だ。実態としては、家に入ってきた嫁に、一番つらい作業が回ってくるということでもある。しかも相手は、生前ずっと気を遣い続けた義父や義母であることが多い。血のつながっていない人の骨を、素手で洗う。
後年、洗骨廃止を強く望んだ声の多くが女性から上がったというのは、この文脈で理解すべきだろう。行政が上から禁じただけじゃない。当事者の側からも「もうこれは終わりにしたい」という声があった。精神的にも、衛生的にも、とにかくしんどい。一方で、やめることへの罪悪感も強かった。やめるというのは、先祖の面倒を見ないと宣言することだからだ。
この両義性が、洗骨をめぐる話のいちばん人間臭いところだと思う。重い。つらい。でもやめられない。やめたらやめたで、何かを裏切った気がする。このジレンマに、島の女性たちは何世代も直面してきた。
起源はどこまで遡るのか。縄文からという説もある
洗骨の起源は、実ははっきりしない。だが、想像よりはるかに古い可能性が指摘されている。
日本列島では、縄文時代の段階で既に二次葬の例が確認されている。一度埋めたものを掘り返し、骨を集めて別の場所に納め直したとしか思えない埋葬パターンが、各地の貝塚や墓地遺跡から見つかっている。骨にベンガラを塗った例もある。骨をもう一度手に取るという行為は、この列島では何千年も前からあった。
さらに、殯との関係。古墳時代の殯も、実質的には洗骨を伴う儀礼だったのではないかという見方がある。遺体を仮安置し、白骨化を待ち、そのあとに埋葬する。この手順は、南島の風葬・洗骨と骨格がまったく同じだ。とすれば、洗骨は沖縄の奇習ではなく、かつて列島全体にあったやり方が、南にだけ残ったものだということになる。
視野を広げれば、この手の二次葬は世界中にある。東南アジアの一部、北米先住民、アフリカ、インド洋の島々など。人間は骨を手に取りたがる生き物らしい。中国南方にも、一度埋めてから骨を取り出して壺に納め直す習俗があり、琉球との交流史のなかで影響関係を論じる声もある。ただ、先に縄文の事例がある以上、一方的な伝播で説明しきれる話でもない。
王家も洗骨されていた。戦前までの記録
洗骨は庶民の風習だと思われがちだが、実は逆だ。琉球王国の王室こそ、戦前まで洗骨を経て納骨されていたという記録が残っている。
つまりこれは「貧しいから火葬できなかった」風習ではない。正式な、最も丁重な葬送としての洗骨だ。王の遺体も一度は横たえられ、時を置いて骨にされ、洗われ、石の器に納められた。王家の陵墓である玉陵は、まさにそのための構造を持っている。堂々とした石室があり、遺体を置く区画と、洗骨後の容器を並べる区画が分かれている。
これは大事なポイントだ。洗骨を「遠い島の奇習」として見ると完全に見誤る。一つの王国が、国家の公式儀礼として採用していた体系だ。王から庶民まで、規模と豪華さは違えど、同じ工程を踏む。隣の島のやることとしてではなく、自分たちの文明の作法として、人々はこれをやっていた。
中世から近世にかけての沖縄は、墓の形態も大きく変わっている。亀甲墓が普及し始めるのは十七世紀頃とされ、一六〇九年の薩摩侵攻以降の社会変動と重なる。破風墓は王朝時代には庶民に禁じられていたが、のちに最も一般的な形になった。墓の形は、そのまま身分制の史料なんだ。
沖縄本島――戦後に、すっと消えた
ここからは地域ごとの違いをひとつずつ見ていこう。同じ洗骨といっても、島が変われば中身がかなり違う。
まず沖縄本島。ここがもっとも早く洗骨を失った。決定的だったのは戦後の保健所指導だ。沖縄戦で島は焦土になり、墓も多く壊された。人々は避難を余儀なくされ、もとの集落に戻れないケースもあった。そこへ公衆衛生の行政指導が入り、火葬場の整備が進む。一九五〇年代から六〇年代にかけて、本島での洗骨は急速に姿を消した。
ただし、ゼロになったわけではない。墓じまいや改葬の際に、厨子甕の中の骨を取り出して洗い、新しい容器に移す作業は、現在も行われている。これは洗骨という名前で呼ばれることもあるし、専門の業者もいる。だから島の人にとって、洗骨という言葉は完全に死語ではない。意味がスライドしただけだ。
本島では、儀礼としての洗骨を実際に見たことのある世代が、もう相当な高齢になっている。ここ二十年ほどで、聞き取り調査を急ぐ動きが出てきたのはそのためだ。
粟国島――映画になった島
沖縄本島から西北に約六十キロ。人口千人前後の小さな島、粟国島は、洗骨を近年まで残した場所として知られる。
この島を一気に有名にしたのが、二〇一九年公開の映画だ。監督を務めたのは、お笑い芸人として知られる人物が本名でクレジットした名前だった。もともとはこの島を舞台に不倫を扱ったコメディを撮るつもりだったという。ロケハン中にプロデューサーが何の気なしに「この島には洗骨という風習がある」と口にした。それを聞いて監督は元の脚本を捨てた。
取材のなかで彼がつかんだのは、この風習が悲しみを二層にするということだった。まず人が死ぬという喪失がある。その数年後、もう一度、今度は遺骨と直接向き合うという形で、同じ人をもう一度失う。島の人、特に男性は、この重さに耐えるために酒を入れないとやっていられないことが多いという話も、取材で得たものだそうだ。
そして監督は、この風習を「命のリレー」という言葉で表現している。先祖の骨を洗うことで、この人がいたから自分がいるという事実を、頭ではなく手で確認する。ロケ地の島では台風に降られて四日間足止めされたというエピソードもあり、島の神人からは墓地での撮影について「死んだ人はむしろ見に来てもらえるのを喜ぶ」という意味の後押しをもらったという。
久高島――神の島の後生
沖縄本島の東南に浮かぶ久高島は、琉球の創世神話につながる神の島とされてきた。ここの風葬は、特に強い印象を残している。
島の北端には、長らく一般の立ち入りが厳しく制限されてきた場所がある。かつては遺体を置く場所として使われ、一九六〇年代頃まで風葬が行われていたとされる。戦後のある時期、著名な芸術家がこの島を訪れて遺体のある場所を撮影し、それが公表されて大きな問題になったという出来事も語り継がれている。島の人にとっては守るべき場所だった。外部の人間にとっては珍しい光景だった。
この非対称性こそが、この手の風習を語るときに一番注意しなきゃいけないところだと思う。
久高島の死生観では、あの世は「グソー(後生)」と呼ばれる。この世と後生は完全に断絶していない。死者は島のどこかにいて、祭りのときには戻ってくる。だから遺体を置く場所は、捨て場ではなく控え室だ。風葬を「遺体を放置している」と読むのは外部の見方で、当事者にとっては「遠すぎない場所に置いている」のだ。
この島では、十二年に一度の大祭も一九七〇年代を最後に途絶えている。神女になる女性がいなくなったからだ。洗骨も祭りも、人口と世代交代に直撃される。
与論島――二〇一〇年頃まで、そして火葬場
鹿児島県の最南端、与論島の事例が、年代がはっきりしていて分かりやすい。
この島では、島南部の隆起サンゴ礁の断層崖にある自然洞窟を使って風葬が行われていた。遺体をそのまま安置し、白骨になるのを待ち、そのあと家族共同の墓に納める。今でも、入口を漆喰や石積みの壁で半ば塞がれた墓が多く残っている。
年代を並べるとこうなる。一九〇九年、鹿児島県の通達で風葬が禁じられ、土葬へ移行する。つまり明治の終わりにはもう、行政が手を入れている。だが土葬になっても洗骨は続いた。三年から七年後、旧暦の決められた日に遺体を掘り起こし、水で清め、フニガミと呼ばれる甕や墓石に納める。
この島に火葬場が完成したのは二〇〇三年、平成十五年のことだ。そして洗骨がほぼ行われなくなったのが二〇一〇年頃とされる。つまりこの島では、今から十六年前まで、人の手で骨を洗うという行事が残っていた。平成の終わりの話だ。スマホもネットもある時代に、それは行われていた。
この島の墓地が海に面していること、そして砂地であることが洗骨に都合がよかったという証言は、実務的で強い。土の質が、骨の残り具合を左右する。墓の場所を選ぶとき、昔の人は景色だけで選んでいたわけじゃないんだ。
奄美の「カイソウ」と、北限の墓群
洗骨の呼び名は地域で違う。沖縄ではシンクチと呼ばれ、奄美群島ではカイソウと呼ばれた。
奄美の事例で面白いのは、この風習の北限がどこかという議論ができることだ。奄美大島の笠利にある城間トフル墓群が、洗骨を伴う墓制の北限とされている。ここより北では、同じやり方は確認されない。つまりこの風習には、はっきりとした地理的な境界線がある。鳥の分布図みたいに、人のやることにも北限があるというのは、ちょっと不思議な感覚だ。
奄美の歴史はここにも影を落とす。奄美群島は戦後しばらく米国の統治下にあり、日本に復帰したのは一九五三年十二月二十五日だった。沖縄の復帰はさらに遅れて一九七二年。この時間差が、衛生行政や火葬場整備のスケジュールにもそのまま反映している。制度が遅れれば、風習はその分長く残る。
奄美の聞き書きで印象的なのは、カイソウの日に集まった人々が、作業後に墓の前で飲み食いをしたという記録が多いことだ。これは亀甲墓の前に広い平地があるのと同じ発想で、墓は悲しむ場所である以上に、一族が集まって食う場所だ。現在でも沖縄では清明祭のときに墓前で重箱を広げる。死者と食事をするという文化は、この地域では今も現役だ。
宮古・八重山――一九七〇年代後半の転換点
先島と呼ばれる宮古・八重山でも、洗骨は行われていた。こちらは本島より遅くまで残った。
転換点は一九七〇年代後半だとされる。この時期に、沖縄島周辺の離島や、宮古・八重山へ火葬が広く普及した。沖縄の本土復帰が一九七二年だから、その直後の公共事業の波とちょうど重なる。各市町村に火葬場ができれば、洗骨は必然的に不要になる。
先島の墓には、本島とはさらに違う形態もある。掘込墓と呼ばれる、白色の凝灰岩をくり抜いた簡易な形式は、建造物というより穴だ。地形と地質が墓の形を決め、墓の形が洗骨のやり方を決める。サンゴ石灰岩の島だからこそできた風習だという側面は、もっと強調されていいと思う。本州の湿った土で同じことをやろうとしても、うまくいかない。
行政はこうして洗骨を潰した。明治三十七年からの五十年
ここは制度史の話。実は行政の干渉は、戦後じゃなく明治から始まっている。
明治三十七年、一九〇四年の四月二十一日。沖縄県で墓地及び埋葬に関する取締規則の施行細則が公布された。内容は、洗骨をやるなら警察に届け出をしろ、そして四月から十月までの洗骨を禁じる、というものだった。夏を丸ごと禁止する。衛生上の理由としては理にかなっている。
面白いのは取締の実態で、施行の翌年、一九〇五年の統計では、禁止期間中の洗骨で処罰されたのは八名だけだった。人口規模から考えて、これは実質ゼロに近い。つまり規則はあっても、行政は見せしめ的に数件捕まえるだけで、実際にはやり放題だった。風習は法令ではそう簡単に止まらない。
その後、昭和九年の春には新聞が「初夏から秋にかけて、洗骨は法度です」という調子の記事を掲載し、四月から十月まではやってはいけないと周知している。三十年経ってまだ周知しているということは、守られていないということだ。
決定的な動きは昭和十四年八月二十三日。県が開いた保健衛生の調査会で、墓地及び埋葬の改善策が審議され、専門家からははっきりと「洗骨廃止、火葬奨励、各町村への火葬場設置」が提言されている。さらに昭和十七年八月二十五日には、市町村や字に対して火葬場設置に関する意見提出を求めている。戦争真っ最中に、行政は火葬場の話をしていたわけだ。
そして戦後、保健所体制と墓地埋葬等に関する法律の体系のなかで、火葬場整備が一気に進む。四十年やっても止まらなかった風習が、施設ができた途端にあっさり終わる。人は禁止されてもやめないが、楽な代替手段を与えられるとやめる。この事実は、民俗の消え方を考える上ですごく大事だと思う。
聞き書きその一 十代で立ち会わされた少女の話
ここからは、当事者の語りを三つ。いずれも個人が特定されない形にしてある。
一人目は、沖縄の離島で育ち、後に本土へ出た昭和三十年代生まれの女性。中学生のとき、祖母の洗骨に立ち会った。
「行きたくなかった」と彼女は言った。でも女の子は行かないといけない。上の世代がやるのを見て覚える、というのが理由だった。早朝、何人もで墓へ向かった。崖の中腹にある墓で、海が見えた。入口の石をどかすのに男三人がかかった。
中には先に世を去った親族の厨子甕が並んでいて、年長の叔母が一つひとつに声をかけていった。「ごめんね、ちょっと騒がしいよ」と。その軽さに、彼女は逆にぶるっとしたという。先祖は写真の中の人じゃなくて、ちょっと声をかければ届く距離にいるんだと初めて分かった。
作業中、彼女は道具を手渡す役だった。目の前で大人の女たちが、つばを飛ばしながら骨を洗っている。何を話していたのかと聞くと、「普通の世間話」だったという。誰それの孫が進学したとか、野菜が高いとか。その中に混ざって、「この人は手がきれいやっさ」なんて声が出る。骨を見て、手が綺麗だと言っている。
「あのときは変だと思ったけど、今は分かる」と彼女は言った。大人はみんな怖かったんだ。だからしゃべっていた。不思議と、作業が終わって厨子甕の蓋を閉めた瞬間だけ、全員が黙った。その静寂だけは今でも思い出せるという。
聞き書きその二 「怖くなかった」と言い切った老婦人
二人目は、与論島で長く暮らした大正末生まれの女性。二〇〇〇年代に行われた聞き取りで、彼女はインタビュアーをちょっと困らせることを言った。
洗骨は怖くなかったかと聞かれて、彼女は「怖いもんかねえ」と答えた。しばらくやり取りがかみ合わず、やがて彼女はこう言った。自分は十八で嫁いで、二十代で一度、三十代で二度洗骨をやった。四十代でも一度。人はどんどん死ぬ。だから何年かに一度はこの作業が回ってくる。年中行事のようなものだった。
怖いのは最初の一回だけだと彼女は言った。二回目からは、手順を覚えているからなんともない。むしろ大変なのは準備のほうで、人を集め、道具を揃え、終わったあとの料理を作らないといけない。一日仕事だ。「骨より、ご飯のこと考えとった」。
ただし一件だけ、彼女が忘れられないと言ったケースがある。若い男性の洗骨だった。事故で亡くなった人で、三年後だったという。骨がとにかく白くて、大きくて、丁度いい具合に仕上がっていた。周りの女たちが、思わず「いい骨やっさ」と言った。その瞬間、母親が壊れたように泣き出した。いい骨だと言われることが、母親にとっては息子の死の確定だったんだろう。「あれだけは、言わんほうがよかった」と彼女は言った。
聞き書きその三 映画で初めて知った人たちの反応
三人目はちょっと毛色が違う。洗骨を扱った映画を見た観客たちの反応だ。これが実に興味深い。
多くの感想に共通するのは、「グロいと思っていたのに、泣いた」という展開だ。ある観客は、頭蓋骨に髪の毛がへばりついている描写に衝撃を受け、黄色みがかった骨の色や質感が本物にしか見えないと書いている。そしてその縮れた短い髪を、家族が指の腹で優しく優しく洗い流す場面について、長々と述べている。見た目の衝撃と、手つきの丁寧さのギャップに人はやられるらしい。
「洗骨シーンで静かに涙が流れました」という直球な感想も多い。そしてもうひとつ、この風習を見て「死が怖いものでなくなる」と書く人が目立つ。死んでも自分はこの世界の一部であり続ける、という感覚だ。
これは強い反証になっていると思う。洗骨を野蛮な風習として消費する視線は、実際の手つきを知らないときにだけ成立する。一度でも具体的な描写を見れば、あれが丁寧さでできていることはすぐ分かる。手の動きが、全部説明してしまう。
掲示板や交流サイトでの反応も、この二層に分かれる。知らない人はまず「実在したのか」「つい最近まで?」と驚く。そこから、実際に島にルーツを持つ人が「うちのばあちゃんはやってた」と書き込む。そして議論が、グロさの話から「でも現代の改葬や墓じまいも実質同じことを業者に外注しているだけでは」という話に移っていく。この指摘は、すごく正しい。
現代の「洗骨サービス」という、奇妙な還ってき方
ここが今回、個人的に一番ゾクゾクしたところだ。
いま、日本では墓じまいが大流行りしている。継ぐ人がいない、遠すぎて行けない、管理費が払えない。墓を閉じ、遺骨を取り出して、永代供養墓や納骨堂へ移す。このとき、古い墓から出てきた遺骨はたいてい汚れている。土がついている。カビが生えている。水に浸かっていたこともある。
ではどうするか。洗うんだよ。
専門の業者がいて、遺骨を洗浄し、乾燥させ、場合によっては漂白し、粉骨して小さな容器に納め直す。このサービスの名前が、まさに「洗骨」だ。同じ言葉で、内容もほぼ同じ。違うのは、やるのが家族ではなく対価を受け取る事業者であること、そして家族はその場にいないこと。
つまり現代の日本人は、洗骨をやめたのではない。外注しただけだ。島の女たちが自分の手でやっていた仕事を、今は会社に頭を下げてカネを払ってやってもらっている。しかも仕上がりは島の洗骨よりも徹底していて、漂白までして真っ白になって戻ってくる。
この事実を知ってから、自分は洗骨を「消えた風習」と呼ぶのをやめた。消えてない。手を下すのが家族でなくなっただけで、骨を洗ってきれいにしたいという欲求は、今も全国で商売になるほど健在なんだ。
なぜ怖いのか。そして当事者にとっては何だったのか
整理しよう。洗骨の何が、外部の人間にとって怖いのか。
第一に、遺体と再会すること自体だ。現代の葬送は、一度送り出したら二度と対面しないことを前提に設計されている。火葬は不可逆だ。だから「数年後にもう一度会う」という発想自体が、もう怖い。
第二に、変化を見ることだ。人は、自分の愛した人が物質として分解するという事実を、可能な限り見ないで済ませたい。洗骨はそれを強制的に見せる。
第三に、手を下すのが身内だという点。専門家ではなく、娘や嫁が、素手で。ここに、現代の我々は一番強い抵抗を感じる。
では、当事者にとっては何だったか。ここを書かないと、この話はただの見世物になる。
ひとつは、完了だ。洗骨をしない限り、死者は中途半端なままで、祖霊になれない。居場所がない。洗骨は、もっとも具体的な形での送り届けなんだ。
もうひとつは、確認だ。目の前に、確かにこの人の体がある。この人は確かに存在していた。そして自分は、この人の骨に直接触れることができる距離にいる。この事実に、人は意外なほど救われる。先の監督が「命のリレー」と呼んだのは、まさにこれだろう。
そして三つ目は、共同体だ。洗骨はひとりではできない。必ず何人も集まる。墓を開ける男、骨を洗う女、道具を運ぶ子供、終わったあとの食事。人が死んだあと、数年経ってもう一度、親族全員を集合させる仕組み。これがなくなって、我々は葬式の日にしか集まらなくなった。
やめた理由ははっきりしている。つらいし、衛生上のリスクがあるし、代替手段ができた。その判断は合理的だし、部外者が惜しむのはお門違いだ。ただ、洗骨という装置が果たしていた三つの機能、つまり完了、確認、共同体の再集合を、現代の葬送は何で代替できているのか。この問いは、まだ誰も答えていないと思う。
古いから残っていたんじゃない。合理的だから続いていた
洗骨という題材を調べていて、何度も立ち止まったのは、この風習が「古いから残っていた」のではなく、「合理的だから続いていた」という事実だった。これは大きな視点変換だと思う。
サンゴ石灰岩の島には、大量の燃料がない。木が乏しい。一体を完全に焚くのに必要な薪の量を想像すれば、島での火葬がどれだけ非現実的か分かる。一方で、琉球石灰岩の地形には自然の洞窟が無数にあり、風が抜け、温暖で、遺体は比較的短期間で骨になる。目の前には塩水が無尽蔵にあり、地元には度数の高い蒸留酒がある。
つまり風葬と洗骨は、その土地にあるものだけで組み上げられた、非常に完成度の高い遺体処理システムだったということだ。奇習ではなく、最適解だった。
もうひとつ、行政の干渉史を並べてみて見えてきたのは、「禁止は効かなかったが、代替手段は効いた」ということだ。明治三十七年の規則は夏場の洗骨を禁じたが、翌年の処罰者はわずか八名だった。三十年後の新聞が同じことを周知しなおしているのは、つまり三十年間守られていなかったということだ。衛生を説いても、罰則をちらつかせても、人々は先祖を中途半端なままにしておけなかった。
ところが、集落に火葬場が一つできると、一世代もかからずにこの風習は終了する。与論島の例は典型的で、二〇〇三年に火葬場ができ、二〇一〇年頃には洗骨がほぼ消える。七年だ。百年単位で続いてきたやり方が、施設一つで七年で消える。民俗というのは、信仰でも伝統でもなく、不便さへの適応なのではないかとすら思えてくる。
ただし、この説明だけだと落ちない部分が残る。当事者が洗骨をやめるときに感じた罪悪感だ。便利になったのに、なぜ心のどこかが痛むのか。ここに、洗骨が単なる遺体処理を超えていた証拠がある。三年や五年という間隔は、遺族にとって「もう一度、その人のことだけを考える日」を制度的に確保するものだった。人が死んだ直後は、悲しむ余裕すらない。手続き、接待、段取り。実感が来るのは、もっとあとだ。
その「もっとあと」に、もう一度全員を集めて、目の前にその人を出す。この二段構えのグリーフケアは、現代の葬儀には存在しない。一周忌や三回忌はあるが、あれは位牌と写真の前で手を合わせるだけだ。骨を手に取る重さはない。
そして忘れてはいけないのが、この風習のコストを、主に女性が払っていたという事実だ。洗骨をロマンチックに語るのは簡単だが、実際にやっていたのは、嫁いだ先の家の、会ったこともない先祖の骨を素手で洗う女性たちだった。彼女たちの多くが、廃止を望んだ。その声は、行政の命令よりも、国家の近代化政策よりも、この風習を終わらせるのに大きな力を持ったはずだ。
風習は、それを担う人間が「もうやめたい」と思ったとき、本当に終わる。これは洗骨に限った話じゃない。年末の大掃除も、盆の接待も、同じ構造をしている。
最後に、この話の一番奇妙な部分をもう一度。我々はいま、墓じまいのために専門業者に料金を払って、先祖の骨を洗ってもらっている。乾燥し、漂白し、粉にして小さな壺に納め直す。不思議なことに、このサービスを依頼する人の多くは、自分が洗骨という南島の風習の後継者だとは思っていない。ただ「汚い骨をきれいにしたい」と思っているだけだ。だが、その欲求こそが、千年単位でこの列島にあったものの正体なのだろう。
人は、死んだ人をきれいな状態で手元に置きたい。そのためなら、数年待って墓を開けることもする。道具が変わり、担い手が変わっても、やっていることは一寸も変わっていない。
