夜9時になっても、行者は戻らなかった
1913年9月18日。
黒石市が公開している人物伝によると、行者はこの日も夜明け前に、いつもの調子で山へ出ていった。正井観順、54歳。回峰行を始めてから、2555日目の朝だった。
いつもなら、夕方5時すぎには無動寺谷へ戻ってくるのに、午後9時になっても行者は戻らない。留守の者たちは異変を察して、近くの堂の住職に知らせた。住職は山中の道を尋ね歩く。折からの月明かりを頼りに、無動寺坂を下っていった。
そのとき、住職は、はたとつまずいた。木の根でも、岩角でもない。目をこらすと、それは倒れた行者の体だった。頭は北、顔は西を向き、持ちものは道ばたにきちんとたたんで置いてあったと、人物伝は書く。そこは晴れた日なら、琵琶湖と、行者が建てた3基の石塔がよく見える場所だった。
人物伝は、なぜそこで倒れたのかを書いておらず、死因も、筆者が読めた範囲の資料には出てこなかった。分かっているのは、この人が千日回峰行をすでに二度満行し、三度目の途中だったことだ。千日を二度。その先を、まだ歩いていた。
九百七十五日という、割り切れない数
千日回峰行という名前なのに、実際に歩く日数は975日だ。7年のうち、最初の3年は毎年100日、次の2年は毎年200日を歩く。これで700日になる。一日も休めない。700日目から先に、9日間の堂入りが待っている。
比叡山には、三大地獄と呼ばれる行があり、一つは最澄の廟のある浄土院で、境内を掃き清め続ける掃除地獄だ。二つ目は、横川の元三大師堂で、読経と勤行を繰り返す看経地獄。残る一つが、この回峰地獄だ。寺の住職の法話ページが、そう紹介している。
堂入りのあとの6年目は、100日をかけて京都の赤山禅院まで往復する。1日の距離は約60キロ。赤山苦行と呼ばれる。7年目の前半100日は、京都の市中まで足をのばす84キロの京都大廻りだ。後半は、山中の30キロに戻る。
後半の日数は、資料によって75日とも100日とも書かれ、足し算が合わない。975日という数字のほうが通りがよい。足りない25日は、残りを一生かけて行じるという意味だと、満行者の寺の公式ページは説明する。
1日の歩きは30キロ、60キロ、84キロと増えていく。筆者がこの3つの距離で総距離を足すと、3万7千キロあまりになった。地球一周の約4万キロとよく言われるが、あれは丸めた数字なんだろう。念のため断っておくと、これは筆者の足し算だ。
行者は白装束で、まだ開ききらない蓮の葉をかたどった笠をかぶる。腰には死出紐と短剣、三途の川の渡し賃にあたる六文銭を付け、事典の類はさらに埋葬料の10万円を携えると書く。続けられなくなれば自害する決まりだ、と説明される。
黒石市の人物伝は、続けられないときは死を決するか、最初からやり直すかだと書く。ただ、短剣を実際に使った行者がいたと確かめられる記録は、見つけられなかった。確かめられたのは、決まりの存在だけだ。
入口の仕組みも見ておこう。千日に入れるのは、先に回峰行の初百日をやり遂げ、自分から名乗り出て、先達の会議に認められた者だけだ。ここからは筆者の見立てになる。途中でやめられない規則は、覚悟を試すだけでなく、入口で人を絞る働きもしたはずだ。天正以降で51人という名簿の細さも、そのせいかもしれない。
名簿の最初の年を疑ってみる
満行者の名簿を頭からたどると、最初に出てくる名前は好運だ。満行は1585年、天正13年の7月で、満行者の一人が1971年に出した著書などを典拠にした一覧に、そうある。その前の名前は、ない。
理由は単純で、史料が燃えたからだ。1571年9月12日、織田信長の軍勢が比叡山を攻めた。根本中堂をはじめ堂塔に火をかけ、僧や坂本の住民を斬ったと『信長公記』は書く。
死者の数は史料で割れる。『信長公記』は数千人、公家の山科言継の日記は3、4千人、宣教師の書簡は約1500人とする。ちなみに発掘調査をした考古学者は、山上の伽藍の多くが焼き討ちの前に廃れていたと見る。
同じ名簿でも、年が合わない箇所がある。好運の満行を、海外の研究者の論文は1583年とするが、これは日本の研究者の1979年の論文を引いたものだ。3人目の満行者も、ある名簿では1633年、別の名簿では1650年になる。どちらが正しいのか、筆者には確かめる手段がなかった。
では、1585年は何を表す年なのか。ここは筆者の見立てだが、行が始まった年というより、記録が残り始めた年と読むのがいちばん無理がない。根拠は、焼き討ちで文書が失われたという一点だ。
一方で、焼き討ちの年にも歩いていた者がいた形跡はある。2021年の研究紀要が、江戸期にまとめられた『西塔堂舎並各坊世譜』を引いている。西塔の詮舜は、元亀2年に回峰苦行を修したとある。元亀2年は、焼き討ちの年だ。当時31歳。
詮舜はのちに、延暦寺の復興で中心になった僧だ。満行までの7年を、そのまま当てはめてみる。1585年の満行なら入行は1578年ごろ、1583年なら1576年ごろだ。どちらも焼き討ちのあとで、再興の許可が出た1584年より前になる。山が焼け跡だったあいだに、歩き始めた者がいたことになる。
名簿の好運は金光院の僧とされ、復興期に西塔北谷で金光院を再興した第一世の名と重なる。詮舜と同じ谷の坊だ。同じ人物だったら、話はつながるわけだ。ただし、当時の行が今と同じ形だった保証はない。
事典は、相応が始め、のちの僧が組織づけたと書く。最初は参籠が中心で、山内を巡る形に変わるのは鎌倉末から南北朝のころだという。いまの形を、相応ひとりが作ったわけではないんだよな。
滝壺に飛び込んだら、桂の木だった
相応は、北嶺の回峰行の祖と仰がれる。北嶺は比叡山のことで、役小角を開祖とする南山修験に対しての呼び名だ。831年、近江国浅井郡の生まれ。15歳で比叡山に登り、17歳で剃髪した。
法華経の常不軽菩薩品に心を打たれ、6、7年のあいだ毎日、根本中堂に花を供え続けたと、天台宗の公式な解説にある。その青年を見いだして得度させたのが、円仁だった。名前は、推薦を頼んだ藤原良相の一字から取って、相応になった。
貞観元年、859年。29歳の相応は、比良山中の葛川に入った。天台宗の解説では、そこで三年のあいだ穀物と塩を断ち、滝のなかに生身の不動明王を見たとなっている。ところが『葛川縁起』の系統の話では、断ちものは7日間だ。同じ滝の話で、三年と七日。
地元の神の使いの童子に導かれて三の滝に着き、満願の日に不動明王の姿を見て、喜びのあまり滝壺に飛び込んだ。不動明王と見えたのは、桂の古木だった。相応はその木から像を刻んだ。これが葛川明王院の始まりだという。
865年には、比叡山の南に無動寺を開き、等身大の不動明王像を安置した。のちに回峰行の根本道場になる寺だ。866年には、最澄と円仁に大師の称号を贈るよう、朝廷に願い出たと伝わる。日本で最初の大師号になった。
相応は918年11月3日の夜半、無動寺谷の十妙院で、阿弥陀仏の名を唱えながら亡くなった。享年88。葛川では今も、毎年7月18日の深夜に太鼓回しがある。行者たちが大太鼓へ次々に飛び乗り、飛び降りる行事で、滝壺に飛び込んだ故事に因むと事典は説明する。寺の案内では、太鼓も桂の木で作るらしい。
百日回峰は、この葛川の夏安居に参加しなければ満行と認められない。二人の童子の子孫とされる家は、いまも門前の集落で信徒総代を務めている。伝説を支える人が、まだそこにいるわけだ。
鬼のような僧は、立ったまま祈った
『宇治拾遺物語』に、相応の話がある。染殿の后が物の怪に悩まされ、呼ばれて来たのが相応だった。迎えに出た人々が見たのは、背の高い、鬼のような僧だ。
粗い布の衣に杉の平足駄をはき、大きなむくろじの数珠を持っている。人々は、御前に上げる者ではない、つまらない法師だと決めつけた。座も与えず、簀子のあたりに立ったまま祈れと言い渡す。
相応は高欄に寄りかかったまま、声を張り上げて加持をした。御簾のなかの后は、赤い衣に包まれて、毬のように転がり出てくる。中へ入れと人々があわてて言っても、乞食の身ですからと言って、相応は上がらない。
原文では、后を宙へ持ち上げて打つ形で描かれる。注釈はこれを物の怪への制裁と読み、后の苦しみは消えて、僧都に任じるという宣下が出たが、相応は受けなかった。京は人を卑しくする所だと言って、二度と参らなかったと物語は結ぶ。
満行者が京都御所へ土足で入る土足参内は、この相応の故事に由来するとされる。由来話は二通りある。文徳天皇の女御の病を、草鞋履きで参内した相応が治した話。もう一つは、清和天皇の后のために、急ぐあまり草履のまま参内した話だ。
宇治拾遺の相応の話は、巻15の第8話にある。注釈は、染殿の后を、良房の娘で文徳天皇の后、清和天皇の生母の藤原明子と説明する。どちらも、同じ女性の話らしい。
ただ、宇治拾遺に「急いだ」とは書いていないし、履いているのは草履でも草鞋でもなく、杉の平足駄だ。立ったままなのも、急いだからではなく、身なりが粗末で座を与えられなかったからだ。これも筆者の見立てだが、侮られた話が、いつの間にか急いだ話に言い直されたのかもしれない。
国立国会図書館のレファレンス事例によると、満行者が1996年に出した解説書は、宮内庁から土足参内の証明文が出ると書く。御所の宜秋門で、江戸時代の大名も浅沓に履き替えた。満行者は、塀重門まで草履で入れるという。
観順の人物伝は、満行のあとただちに御所へ参内すると書く。一方、寺社の一覧を作っている個人運営の事典サイトは、江戸最後の参内を1865年とし、以後は中絶、戦後の1946年から恒例になったと書く。明治の観順がどうだったのか、筆者には決められなかった。
体重が16パーセント減る、9日間
700日目を歩き終えると、行者は無動寺明王堂に入る。入る前に、生き葬式を営む。親しい僧たちと最後の食事をとるが、箸をつけるのは一口だけだという。
500日を終えた行者は下根満、700日を終えると中根満と呼ばれ、堂入りを終えた者は行満と呼ばれる。新纂浄土宗大辞典は、そう書く。堂のなかでは、食べず、飲まず、眠らず、横にならない。足かけ9日と言うが、実際は7日半ほどだと事典の注にある。堂のなかでは、不動明王の真言を10万遍唱え、日に3度の勤行をする。
夜2時になると堂を出て、近くの井戸から仏前に供える水を汲む。5日目からは口をゆすぐことが許されるが、飲んではいけない。2015年の新聞は、出堂の場面をこう報じた。扉が開くと、両脇を僧侶に抱えられた行者が出てきて、約600人の信者が真言を唱えて迎えたという。
長崎大学の研究者が1990年に書いた章に堂入りの測定値が載っていて、満8日で体重は16パーセント減った。主な原因は脱水だ。血液の量も、およそ25パーセント減っている。図の出典は1980年刊の『異常環境の生理と栄養』で、誰を測ったのかは、この章からは分からない。
物差しを借りてみる。岡山大学病院の解説では、体重の6から8パーセント以上の水分を失うと重度で、ショックや意識障害が出る。医師が書いた別の解説は、水が完全に断たれると毎日体重の2パーセントずつ失われ、15から20パーセントで命を保てなくなると書く。
16パーセントは、その線のすぐ手前だ。体重60キロの人なら、10キロ近くが減る計算になる。筆者の見立てだが、9日という長さは、体がぎりぎり戻ってこられる限界に置かれたのだろう。根拠は、この16パーセントと、医師の解説にある7日から10日という目安だ。
寺の住職の法話ページに、こんな話がある。10日やれば必ず死ぬ、はじめに10日やって死んだ人がいたので9日になったと、行者が言うという。裏づける史料は、確かめられなかった。
堂入りの先にも、行はある。満行者が自分から願い出て行う十万枚大護摩供を、事典は9日間の断食、断水、不眠、不臥と書く。住職の法話ページは7日間と書く。100日の五穀断ちの前行がつく点は、どちらも同じだ。
線香の灰が落ちる音
酒井雄哉は1926年に大阪で生まれ、予科練に志願して、特攻隊の基地だった鹿屋で終戦を迎えた。戦後は職を転々とし、39歳で比叡山に入ったと、出版社の紹介文にある。千日回峰行に入ったのは1973年だ。
1978年の春から半年、日本放送協会のカメラが酒井を追った。撮影が初めて許された回峰行で、堂入りの9日間も記録された。番組の題は『行』。放送は1979年1月5日で、当時の酒井は52歳だった。
講談社が1988年に出した評伝の紹介文に、酒井本人の言葉が載っている。3日がすぎた4日目ごろから、死のにおいがしてきたという。そのうち、死斑が点々と出てきたのも分かったと語る。
経の量が多くて、眠気の入る隙はなかった。感覚はかえって、異様に冴えたそうだ。線香の灰がゆっくり落ちて、粉々にくだけるさまがスローモーションのように見え、その音まで聞こえたという。
実際は朦朧としているんだろうけど、と本人が断っているのがいい。体重が16パーセント減った体で、灰の落ちる音を聞く。正直、どちらか一方だけを信じる気にはなれない。
回峰行の紹介が相次ぐのは、この放送のあとだと、海外の研究者の1987年の論文は見る。酒井は1980年10月に満行した。放送の1979年1月から、1年9か月ほどあとだ。
津軽の雑貨商は、近道を探した
正井観順は1860年、津軽の尾上村に生まれた。雑貨商として客がよくつき、商いは順調だったと人物伝にある。それでも、金のことで血のつながった者同士が憎みあう世が、うとましかったという。
決め手は、船の事故の供養だったと人物伝は書く。1891年7月、津軽海峡の白神岬沖で、瓊江丸という船が濃霧のなかで別の船とぶつかった。船は、あっという間に沈んだ。乗っていたのは漁場帰りの漁夫300人あまりで、助かったのは70人、溺れ死んだのは250人と人物伝は数える。尾上村だけでも14人が亡くなった。
人物伝によると、1893年8月、覚蔵は尾上村の浄土寺で、天海の250回遠忌を営んだ。あわせて、瓊江丸の死者の供養もした。その晩、黒石へ帰る途中の追子野木で、何十という亡霊の火の玉が、現れては消え、現れては消えるのを見たという。霊が鎮まるまで法要を重ね、1週間に及んだ。
ここで出家を決めたという。火の玉の話に、人物伝は出どころを示していない。船の事故の数字も含めて、筆者が確かめられたのは人物伝の記述までだ。
1894年4月、観順は妻と3人の娘を津軽に残して、比叡山に上がった。35歳だった。出家が遅いので、ふつうの修行では悟りに達する時間が足りない。そう考えて、人があまり行わない大苦行を選んだ。それが回峰行だったと、人物伝は書く。
1896年11月に7日間の断食行をすませ、翌1897年の6月から10月はじめにかけて、最初の百日行をやり遂げた。急ぎすぎたらしい。長く山にこもる僧から、修行未熟で千年の伝統ある回峰行に挑むのは不届きだと批判が出て、観順はいったん山を下りた。麓の寺で戒律の修行をし、滋賀の最勝寺にこもって、回峰行に関わる難行苦行を実践した。生死の境をさまようことが何度もあったという。
1900年6月、師の計らいで二百日回峰行に入ると、京都には観順を拝む講ができ、信者は800人をこえたという。手足には、護摩の火や掌の灯がつけた、雲の形の火傷の跡が残っていたと人物伝は書く。故郷では、妻子を捨てたという非難が起き、呼び名は明治の苅萱。
1911年の春、17年ぶりに妻と娘が比叡山を訪ねてきた。観順は会わなかった。ついてきた甥が、襖の陰から人の泣く声がしばらく聞こえたと、涙ながらに話したという。
赤山禅院の「五日払い」
堂入りを終えた行者は、自分のための行から、人のための行に移るとされる。6年目の赤山苦行は、比叡山から雲母坂を下り、京都の東北にある赤山禅院で花を供えて戻る往復だ。行者の足でも14時間から15時間かかると、赤山禅院の公式ページにある。
赤山禅院は、円仁が唐で世話になった赤山の神を祀る寺だ。船が遭難しかけたとき、赤い衣の赤山明神が船首に現れて守った、とも公式ページは伝える。創建は888年、安慧が円仁の遺命で建てたと伝わる。ただ安慧は868年に亡くなっており、創建年には疑問が残ると事典は注記する。
拝殿の屋根には、猿が置かれている。向き合うのは、京都御所の東北角、猿ヶ辻の猿だ。御所の鬼門を守る寺なのだ。
京都大廻りの1日を、観順の人物伝はこう書く。夜11時に起き、午前2時に無動寺谷を出て、山を下りる。北野天満宮、4時に神泉苑、5時に清水寺、6時に祇園、7時半に赤山禅院。
そこから山へ戻って根本中堂に着くのが9時半、山上の巡行をすませて坂本へ下り、無動寺谷に帰るのが午後5時。夜の勤行が終わるのは7時になる。歩く時間は17時間、眠れるのは2時間。人物伝は、1905年5月の午前6時、東山の道筋が、数珠で撫でてもらおうと待つ人であふれていたと書く。行者に撫でられた子どもが、飛び上がって喜ぶ場面もある。
赤山禅院には、もう一つの顔がある。京都市の公式観光サイトによれば、赤山明神の祭日は5日で、その日に参詣して掛け取りに回るとよく集金できる。商人の信仰が厚く、5日に払う「五日払い」の商慣習ができたと伝える。毎月4回、比叡山の大阿闍梨が加持をする寺でもある。
ここからが筆者の見立てだ。行者が歩いて来る寺に、商売繁盛を願う人が通い、加持を受けに来る人がいる。行が長く続いた陰には、町の側にも、行者を迎える理由があったのだろう。
二千日を歩いた人は、名簿に3人しかいない
観順の満行日にも、食い違いがある。名簿は1905年10月16日とし、人物伝は8月10日から11月7日まで千日目の行をしたとする。どちらにしても、観順は千日を終えた。
天正以来で35人目にあたり、比叡山の記録には「津軽産正井氏」とあると人物伝は書く。二度目の入行は、満行から5、6か月後だ。1906年4月2日に入り、満行は1910年11月23日だと人物伝は書く。
二千日を歩いた人は、名簿上で3人だ。観順と、奥野玄順と、酒井雄哉。奥野玄順は1918年に千日、1926年に二千日、1934年に三千日を満行し、三千日はこの人だけだ。人物伝は、観順の目標が三千日の満願だったと書く。2555日で、その歩みは止まった。
酒井は千日を満行した半年後に、二度目に入った。二千日の満行は1987年7月だ。60歳での満行は、最高齢だったと事典にある。
1979年の番組紹介は、400年間の記録で満行した僧を40人あまりと書く。名簿は天正以降で51人だ。2015年の新聞は堂入りを終えた行者を「戦後13人目」と書いたが、名簿の番号から数えると戦後14人目にあたる。数え方が、資料によって一つずれる。
酒井は2013年9月23日、87歳で亡くなった。心不全だったと事典にある。出版社の紹介文は、亡くなる数時間前、周りの人々に加持をしたと伝える。最後の言葉は「人生を楽しく過ごしなさい」だった。
