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追う側だった四つ目の男は、いつ追われる鬼になったのか――節分の鬼やらいに残る、千三百年分の押しつけ合い

天禄2年(971年)の大晦日、京の家々から「なやらふ、なやらふ」という声が上がった。一人の女が、それを聞いていた。『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱の母だ。夫が別の女のもとへ通うと耳にした年で、追儺は幸せな家だけがする行事のようだ、と彼女は書いた。

声は「鬼は外」ではなかった。豆の音もしない。豆を打つ記事が日記に出てくるのは、四百年以上あとの室町時代になってからだ。この夜に追われていたのは、姿の見えない疫鬼。

日記の最後の場面も、追儺の夜だった。天延2年(974年)の大晦日、京のはずれの家へ、夜が更けてから門を叩いて回る音が届く。筆はそこで止まる。大晦日の音で終わる日記。

黄金の目を四つ持った男が、先頭を歩いた

宮中の追儺で先頭に立ったのは、方相氏という役だった。面は黄金の四つ目。黒い衣に朱の裳をつけ、右手に戈、左手に楯を持つ姿は、弘仁12年(821年)に成った『内裏式』に細かく出てくる。四つ目の理由は、葬列で墓の四隅の鬼を祓うためだ、という説明もある。

大晦日の夜の亥の刻、陰陽寮が儺祭を営む。陰陽師が祭文を読み終えると、方相氏が大声を上げ、戈で楯を三度打った。居並ぶ群臣が声を合わせて悪鬼を追い、『延喜式』によれば、桃の弓と葦の矢と桃の杖を持った親王以下が方相氏に続いた。音と声の儀式。

『内裏式』の次第に、鬼の役は出てこない。追う相手は目に見えない疫鬼で、姿を見せる者は誰もおらず、方相氏は追う側の一番強い役だった。中国の『周礼』では、熊の皮までかぶる。

順路も決まっていた。方相氏と童子たちを先頭に、内裏の四つの門と宮城の十二の門から疫鬼を追い出し、そのあと京職の役人が、京の外まで追い立てた。名古屋大学の論文は、そう整理している。

追儺の夜は、宮中の女房たちが過ごす夜でもあった。寛弘5年(1008年)12月30日の『紫式部日記』は、追儺がとても早く終わり、歯黒めをつけて寛いでいた、と書く。そこへ中宮の御前のほうから、大きな騒ぎ声が聞こえてくる。駆けつけると、盗人に着物を奪われた女房が二人、裸でうずくまっていた。追儺が済んだ直後の内裏に、生身の盗人。

疫病の年に、土の牛が作られた

日本での初見は、『続日本紀』慶雲3年(706年)12月晦日の条だ。「天下諸国疫疾、百姓多死、始作土牛大儺」とある。疫病が諸国に広がり、民が大勢死んだので、初めて土の牛を作って大儺を営んだ、という意味になる。時の天皇は文武天皇で、在位は翌年の707年までだ。

季節の定例ではない。疫病への対策として始まった儀式。記事の書き方からは、そう読める。翌年2月には、諸国へ使いを出して大祓まで営んでいる。名古屋大学の論文は、大祓が罪と穢れをすべて除くのに対し、大儺は疫病の穢れだけを除く儀式だったのではないか、と推測する。

土牛は、もともと中国の道具だった。『礼記』の月令に、冬の終わりに土牛を出して寒気を送る、という趣旨の文がある。中国では後漢以後、立春に農耕の始まりを告げる儀礼へ変わった。日本では疫鬼を祓う面だけが受け入れられ、農耕の儀礼として根づいた形跡はない、と論文は書く。

断っておく。706年の儀式が大陸のものと同じだったかは、分からない。当時の記録が少なすぎるからだ。論文の筆者も、言い切れないと書いている。

名前も途中で変わった。当初は大儺と書かれ、貞観年間(859年から876年)の途中から追儺の字が混じる。貞観12年(870年)の『三代実録』に、儀式全体を指す追儺が現れる。平安末の『類聚名義抄』は、追儺に「オニヤラヒ」という訓をつけた。論文は、この「追う」という字に、鬼が目に見える存在へ変わった印を読む。

背丈が足りなかった代役

方相氏は、大きくなければ務まらなかった。『三代実録』には、貞観8年(866年)に、関東から身長6尺3寸、およそ190センチ以上の者を差し出させた、と見える。装束は大舎人寮にしまわれ、傷めば内匠寮が直した。天安2年(858年)には、その大舎人寮が夜の火事に遭い、方相の装束が一度に失われた、と『文徳天皇実録』にある。

延喜7年(907年)12月29日、方相氏を務める大舎人が病に倒れた。代役には、京職が差し出した男が立つ。ところが、背丈は並の人と変わらない。出どころは、『西宮記』の裏書。

翌年、京中に咳の病が流行った。人々は、疫鬼を追わなかった所があったからだと噂した。論文はこの噂に、代役の背が低くて効き目がなかった、という含みを読む。含みまで読むのは、論文の推測だ。

筆者の見立てを書く。ここに見える仕事の中身は人を強く見せることで、方相氏は役人というより、背丈と面で疫鬼を脅す装置だった。要るのは、背丈と面と大声。だから、代わりがきかなかったんだよな。

矢を向けられたのは、先頭の男だった

平安も終わりに近づくと、記録の様子が変わる。大江匡房の『江家次第』は、成立が1100年とも1111年ごろとも伝わる。方相氏が矛で楯を三度叩くところまでは昔と同じだが、そのあと殿上人が長橋の内で方相に矢を射る、と書く。

矢の先にいたのは、先頭を歩いた方相氏だった。帰りの描写は、もっと露骨だ。天皇が還御するとき、供の者は方相に行き逢うことさえ忌んだ、と書く。鬼を祓う役が、会うのも避けられる存在。正直、ひどい扱いだ。

1115年成立の『雲図抄』にも、侍臣が方相を射る記事がある。12世紀半ばの『伊呂波字類抄』は、方相氏に「鬼名也」と注をつけた。後醍醐天皇の『建武年中行事』は、大舎人寮が鬼を務める、と書く。15世紀前半の『公事根源』では、とうとう言い切る。「鬼といふは方相氏の事なり」。

『延喜式』の扱いは、解説が割れる。鬼の役は無いと書く解説がある。大舎人の舎人が鬼を務め、宣陽、承明、陰明、玄輝の四つの門を回って滝口の戸から逃げ出す、と書く百科事典もある。平安末から鎌倉初めの九条家本は、童子役の漢字に「コオニ」と振り仮名をつけた。

儀式の作法も、順に変わっていった。『清涼記』には、陰陽師が昔はひざまずいて読み、いまは立って読む、という注がある。『西宮記』では、方相氏の前に立って宣命を読む。見えない鬼にへりくだる形から、目の前の方相氏に退去を命じる形への変化。研究者はそう読む。

天皇も遠ざかった。『小右記』永観2年(984年)12月30日の条に、天皇はひそかに南殿へ出て儀式を見た、とある。論文は、穢れを内に持つ方相氏から距離を取った、と読む。

宮中のほかでも、追儺は行われた。『中右記』の永久5年(1117年)12月30日の条に、京中の人家で追う声が遠くまで届いた、とある。関白藤原忠実は、新築した邸で追儺をした、と『殿暦』にある。論文は、貴族が宮中の追儺に出なくなり、家ごとに自分と家族を守る傾向が強まった、と見る。

なぜ、追う側が追われる側に回ったのか。名古屋大学の論文が紹介する見方は、死の穢れだ。方相氏は、葬列の先頭に立つ役でもあった。『喪葬令』は、親王一品や太政大臣の葬儀に方相を用意せよ、と定める。

『続日本紀』には、聖武天皇や光仁天皇の葬儀で「作方相司」が任じられた記事がある。ところが880年に清和天皇が亡くなったあと、葬送に方相氏が加わる記録は確かめられない。死の穢れを避ける考えが、9世紀に貴族の間で急に強まったからだ、と論文は述べる。死に結びつく役が、追儺の場で忌まれ始めた、という筋道になる。

論文の筆者は、ここまでが推測に負うところの多い話だと断っている。念のため書いておく。方相氏が最初から鬼だったとは、引かれた研究者も述べていない。穢れた存在として避けられ、やがて追われる側になった、という順番だ。

ここからが筆者の見立てだ。『内裏式』も『延喜式』も、方相に黄金四つ目の面を被せる。面は変わっていない。変わったのは、見る側の目だ。追う側が追われる側に回った、って話だ。

いまも京都の吉田神社で、この構図を見られる。節分前日の追儺式は、平安時代から宮中で行われていたものを古式に則って伝える、と神社は説明する。方相氏が矛と盾を構えて赤、青、黄の三匹の鬼を追い詰め、鬼が鳥居のほうへ逃げると、桃の弓から葦の矢が放たれる。

吉田神社の節分祭は、文明16年(1484年)に吉田兼倶が大元宮を創って節分詣を始めたのが由来、と京都の事典は書く。宮中の追儺は、鎌倉から室町にかけて衰えたと解説される。百科事典は、いまの社寺の節分祭を、民間の豆まきと古式の追儺が合わさったものだと説明する。

鬼大豆打、と応永の日記にある

豆が日記に現れるのは室町時代で、応永32年1月8日(1425年1月27日)が節分だった。公家の側では、伏見宮貞成親王の『看聞日記』に「鬼大豆打」の語が出る。たった四文字の記録。武家の側では、幕府の記録『花営三代記』が同じ日に「節分大豆打役」と書く。

公家と武家の記録が同じ日に揃う。このころ都では、もう習わしになっていたらしい。『看聞日記』の一行は、読み方が分かれる。若い公家が打つ役を嫌がった話だと読む人もいれば、近年始まった行事への言及だと読む人もいる。

日本経済新聞が伝えた民俗学者の話では、室町時代、豆を撒く役は避けたがられた。祓いや清めは、災厄や汚れに関わる卑しい役目と見られたからだ。そこで厄年の男が、自分の厄払いを兼ねて引き受けるようになった。室町後期の『今川大双紙』に、御年男の語が出てくる。

筆者の見立てを足す。穢れに近づく役は、いつも押しつけの的。方相氏がそうだった。豆を撒く役も、初めは同じ扱いだった。違うのは、豆まきには年男という引き受け手が用意されたことだ。

豆を投げる意味にも、いまの通説とは別の説明がある。「魔目」に投げて「魔滅」、という語呂合わせはよく聞く。読売新聞の取材に答えた民俗学者は、豆はもともと鬼を攻撃する物ではなかった、と話している。神を迎えるとき、一緒に来る鬼たちにも供え物をする。豆は、その供え物だったという。

鬼を払うつぶてのように扱われ始めるのは、1400年代の前半からだという。『看聞日記』の応永32年は、ちょうどそのころに当たる。供え物が、投げる物に変わる時期。

唱え言葉の古い記録は、22年あとにある。『臥雲日件録』の文安4年(1447年)12月22日の条に、立春の前日の夕方に豆を撒き、「鬼は外、福は内」にあたる四字を唱えた、とある。旧暦では年が明けないうちに立春が来ることがあり、だから12月の日記に節分が出てくる。西暦への換算は資料で揃わず、百科事典の項目は1449年1月16日と書く。

狂言にも、節分を題にした一曲がある。蓬莱の島から来た鬼が、留守番の女に惚れて流行りの小歌を謡い、口説く。泣き出した鬼は宝を取られたうえ、最後に「福は内、鬼は外」と豆を打たれて追い払われる。国会図書館の解説は、純情な鬼と、鬼のような心をもつ人間を描く滑稽な話だと紹介する。

江戸に入ると、豆は庶民の家にも届いた。『東都歳事記』は、身分の上下を問わず家々で炒り豆を打つ、と書く。柊に鰯の頭を挿して戸の外へ出し、豆を撒く男を年男と呼んだ。江戸城でも、年男を務める老中が将軍の休息所で豆をまいたという。国会図書館の解説は、追儺と節分が江戸時代に完全に結びついた、とまとめる。

福は内、とだけ唱える本堂

唱え言葉は、家の名でも変わる。名字に「鬼」がつく家は、「鬼は外」と言いにくい。福島県二本松の一部では、藩主が丹羽氏だったため、「鬼、外」と区切って唱えるという。「鬼は外」だと「お丹羽、外」に聞こえるからだ、と百科事典の項目は書く。渡辺という名字の人は、渡辺綱が酒呑童子を退治したので、豆まきをしない。

京都府福知山市の大原神社は、藩主だった九鬼氏が出ていかないよう「鬼は内」と唱える、と紹介記事は書く。鬼を神社に迎えて改心させ、福の神にして氏子の家へ福を授ける、という説明も添えられている。九鬼氏の領地では、藩主への敬意から「鬼は内」とした、と百科事典の項目にもある。

追い出される鬼を、迎え入れる寺社もある。奈良県天川村の天河大辨財天社は、節分祭の前夜に「鬼の宿」という神事を営む。社家の一番座敷に布団を敷いて握り飯と梅干しを供え、縁側には真水を張った手桶を一晩置く。鬼を泊める、一夜限りの宿。

翌朝、桶の底に砂が沈んでいれば鬼が泊まった証になり、鬼が手か足を洗った跡だと神社は説明する。2022年の報告には、大きな二粒の砂を授かったとある。ちなみに、豆を打つのはその日の昼前だ。

社家は、役行者に従った前鬼、後鬼の子孫と言い伝えられる。鬼は神として迎えられると神社は書き、だから唱え言葉は「福は内」と「鬼は内」だ。追い出す相手が、そもそもいない。

吉野の金峯山寺蔵王堂は、「福は内、鬼も内」と唱える。役行者が鬼を改心させて弟子にした故事による、と百科事典の項目は書く。全国から追われてきた鬼を迎え、豆の力と経の功徳で仏道へ導く、というのが祭を紹介する記事の説明だ。東京の稲荷鬼王神社も「福は内、鬼は内」と唱える、と江戸の歳時記を紹介する団体のページにある。

千葉県の成田山新勝寺は、「福は内」とだけ唱える。成田山大阪別院の案内によれば、お不動様の慈悲が大きく、その前では鬼も改心するからだ。鬼は外へ出される前に、本堂で改心している。いまの成田山では力士や有名人が豆をまくが、始まりは1968年だと日本経済新聞は伝える。

これは筆者の見立てだ。三つの寺社は、どれも鬼の扱いを自分の由緒に結びつけている。天河は前鬼、後鬼の子孫、金峯山寺は役行者、成田山は不動明王だ。鬼をどう扱うかは、その寺社が何者かを名乗る場でもある。

扁額の「鬼」の字には、角がなかった

青森県弘前市の鬼沢は岩木山のふもとにあり、集落の鬼神社の扁額は「鬼」の字の頭の一画が欠けている。ツノのない優しい鬼を表す、と弘前市の解説にある。社伝は坂上田村麻呂の勧請を、伝説は鬼への感謝を、始まりに挙げる。

伝説は、こう語られる。農民の弥十郎が岩木山の中で鬼と親しくなり、よく相撲を取る。水に困る弥十郎のために、鬼は堰を作って水を引く。鬼は「誰にも言うな」と約束させる。

ところが、弥十郎の妻が約束を破り、鬼を一目見ようとした。鬼は、堰を作った鍬とミノ笠を置いて去り、二度と姿を見せなかった。弥十郎がその道具を持ち帰って祀ったのが、鬼神社の始まりだという。

鬼沢では節分の日に豆をまかない家庭が多く、端午の節句に蓬や菖蒲を屋根に載せないことも習慣という。鬼の正体には、坂上田村麻呂に追われた落武者説や、渡来人説がある。どれも「定かではない」と市は書く。

2025年4月、地区の歴史と伝説をまとめた『鬼沢まるごと事典』が300部できた。作ったのは、10年以上地域おこしを続けてきた「鬼沢の会」だ。事典には、豆まきをしない理由も載ると、地元の放送局は伝えた。300部は、鬼沢地区の住民に配られる。

埼玉県嵐山町の鬼鎮神社は、鎌倉時代の武将畠山重忠が館を構えるとき、鬼門封じに建てたという由来を持つ。社殿には、「鬼に金棒」にかけて金棒が納められている。節分祭には赤鬼と青鬼が壇上に立ち、「福は内、鬼は内、悪魔外」と唱えて豆をまいた。鬼が豆をまく形は、宮司の祖父が始め、三代続く。

2025年2月の朝日新聞によれば、この鬼の豆まきは廃止が決まった。新型コロナウイルスの前、2020年の開催を最後に見送られ、戻らなかった。宮司は、小さな神社で経費がかさみ、やれば赤字になる、と話している。安全管理の難しさや、寄せられる苦情も理由に挙げた。

神事は、神社の役員だけで続く。一般向けの豆まきは、なくなる。町や観光協会は、特色ある行事として発信してきた分、惜しむ声が出た。

ここも筆者の見立てだ。鬼沢の習慣は豆をまかないだけで続くが、鬼鎮神社の豆まきは人を集める催しで、費用と手間がかかった。鬼を内に迎える行事でも、残る形と止まる形が分かれた。

岡山市の宗忠神社にも、鬼を内に迎える節分がある。神社を紹介する記事によれば、江戸時代の宗教家、黒住宗忠の妻が、豆まきで「鬼は内、福は内」と唱え間違えた。謝る妻に、宗忠は「どこへ行っても『鬼は外』と追いやられて、鬼はたまったもんじゃないだろう」と言い、歌を詠んだという。

「鬼追わず福を求めず我はただ追われし鬼を福に導く」。以来、神社の節分祭は「鬼は内」の掛け声で行われる。神社に伝わる話として紹介された内容で、筆者は史料で確かめていない。

太巻きは、切らずに持つものだった

恵方巻は、新しい。起源に定説はない。国会図書館の調べものの記録では、『大辞林』が「江戸末期の大坂船場に始まり、一度廃れたが1977年以降に復活した」と書く。

ほかの本の答えは、時代がもう少し近い。『すしの本』には、大阪の寿司店の関係者が、節分の巻きずしは大正の初めにはすでにあったと答えた記録がある。主に花街で、新香を巻いた海苔巻きを、切らずに恵方へ向いて食べたという。

筑波大学の紀要の論文は、少なくとも大正期から戦前に、大阪のごく限られた地域の風習だったと推察する。当時の呼び名は「節分の巻ずし」や「幸運巻ずし」で、「恵方巻」はまだなかったという。名前は後から付いた。

広がった道筋は、販促の年表に近い。1932年、大阪鮓商組合が「節分の日に丸かぶり」と書いたチラシを配った。1960年代の後半には、海苔問屋協同組合とすし組合が、飛行機をチャーターして広告ビラを撒いた。経費がかさみ、1回で終わっている。

1974年、大阪の海苔店の経営者らが、巻き寿司の早食い競争を節分の催しで始めた。狙いは、オイルショック後の海苔の需要拡大。1977年に大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で開いた同じ催しが、マスコミに取り上げられた。1987年ごろには、関西厚焼工業組合が「幸運巻ずし」のビラを、九州や岐阜、浜松、新潟の各都市にまで送っている。

日本経済新聞が伝えた民俗学者の話では、恵方巻には招福だけがあって、祓いの要素がない。豆まきは、祓いと招福が組になった行事だった。同じ記事は、江戸時代に流行した恵方参りの発想を節分に復活させたものだと説明する。大正に始まったともされるが、はっきりしない、とも書く。

セブンイレブンは、1989年に広島の一部の店舗で太巻きを売り始めた。広報は日本経済新聞の取材に、関西出身のオーナーさんが広島で始めたと聞いている、と答えている。全国での展開は1998年で、このとき商品名に「恵方巻」を採った。

それ以前に「恵方巻」と呼んだ文献や、新聞、雑誌の記載は見つかっていない、と百科事典の項目は書く。ファミリーマートが大阪と兵庫で太巻きを売り始めたのは1983年、という報道もある。ローソンとファミリーマートの全国展開は、2003年からだ。

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