絵本の中で、親までが晴れ着を競っていた
天明5年、1785年に出た絵本に、宮参りの人出を描いた場面がある。題は『絵本物見岡』。そこには子どもだけでなく、親たちまでが晴れ着の美しさを競い合っている姿が描かれている。江戸の宮参りは、すでにこれだけ華やかだった。
江戸では旧暦の11月15日に、3歳の髪置、5歳の袴着、7歳の帯解を祝った。この三つの祝いがいまの七五三のもとで、神社本庁の解説も、七五三はこの三つの古い風習に由来すると書く。
この日、町人の家でも子どもに晴れ着を着せて、生まれた土地の守り神をまつる産土の神社に参った。参拝がすむと、親戚へ挨拶に回る。自宅に客を招いて、祝いの席を開く家もあった。
江戸の中ごろになると、商業の発達にも後押しされて、都市部の七五三は目を引く華やかな行事になった。華やかさの火元は、都市だ。やがて京都や大阪でも行われ、少しずつ全国に広まっていく。
「七五三」という呼び名が定着したのは、明治に入ってからのようだ。小学館の辞書サイトのコラムが、そう記す。それまでは三つの祝いが、それぞれ別の行事だった。
いまは、同じ行事を3回やるように受け取られがちだ。中身は、別々の祝いが一つの名前にまとめられた形に近い。名前が一つになったせいで本来の中身が薄れたともいい、地方ごとに祝う年齢や内容が違うのも、ここに理由がある。
一般には、男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳に祝う家が多いが、男女の区別なく三回とも祝う家も増えてきた。年齢は数え年が本来で、数え3歳は満年齢でいえば2歳になる年にあたる。筥崎宮は、満年齢でも数え年でも構わないと案内している。
3歳の頭は、つるつるに剃られていた
江戸の頃、子どもは3歳まで髪を剃って育てた。つるつるの坊主頭だ。その習慣を終える日が、3歳の髪置だった。この日を境に、男の子も女の子も髪をのばしはじめる。
幼いうちに剃っておくと、将来、健やかな髪が生えてくる。そう信じられていた、とするお寺の解説がある。剃ることには、親の願いも込められていたらしい。
髪置の日には、頭に白い髪を載せる。糸で作った白髪を載せたという解説もあれば、綿帽子を白髪に見立てたという解説もある。願いはどちらも同じで、髪が白くなるまで長生きしてほしい、というものだ。白粉をつけ、櫛でとかしたともいう。
3歳の頭に、わざわざ白髪を載せる。白髪頭は、長生きの印。気の早い祝いにも見えるが、願いはまっすぐだ。
暦の解説サイトによると、七五三のもとになった三つの儀式には、それぞれ立ち会う重要な役の人がいた。髪置親、冠親、帯親。そうした呼び名があったという。
髪置のあとには、深曽木という行事もあった。のびはじめた髪の毛先をととのえる行事で、髪剃などとも呼ばれ、公家の社会では平安時代から続いていた。男女とも3歳から7歳ごろに、吉日を選んで、午後か夜に営むのが普通だったという。
3歳の女の子の晴れ着は、友禅染めの縮緬で仕立てた四つ身に、被布を重ねる形が多い。長襦袢は赤の紋羽二重。扇子と筥迫も身につける。
碁盤の上に立った5歳
5歳の袴着は、着袴とも書いて「ちゃっこ」と読む。幼児から児童へ育ったことを祝い、はじめて袴をはかせる儀式で、古代には3歳で営む例が多かった。成長に合わせて5歳から7歳、ときには8歳になって営む例もあった。
日取りも決まっていない。陰陽師に吉日を選ばせて、その日に式を執り行う。平安時代の中ごろには、公家の社会にすっかり定着していたようだ。
記録も残る。『西宮記』には、924年に弘徽殿で親王の着袴を営んだとある。『日本紀略』には、961年に守平親王、のちの円融天皇の着袴が記される。年号でいえば、延長2年と応和元年。
『源氏物語』にも出てくる。「桐壺」の巻では光源氏が、「薄雲」の巻では明石の姫君が、それぞれ3歳で袴着をした。乳幼児の死亡率が高かった時代には、節目ごとに衣装の形を替えて成長を祝った。中でも特に重んじられたのが、着袴だという。
式の手順も、細かく伝わる。寝殿の南の廂に、着袴所という場所を設ける。時間帯は午後か夜が多かった。子どもは吉の方角を向き、父親や親しい公卿、殿上人の手を借りながら衣装を身につけていく。
最初に袴をはく。女の子の袴は濃い色だった。腰紐を結ぶのは父親の役だ。父親に代わって親族の高位の人が着袴親として結ぶこともあり、皇子や皇女の場合は天皇が自分で腰紐を結んだ。
そのあとは、袿や直衣を重ねて着る。仕上げは上着の重ね着。式が終われば祝宴に移り、音楽を奏でる宴になるのが常だった。
この儀式は遅くとも鎌倉時代のはじめには武家にも広まっていて、『吾妻鏡』には、1206年に公暁の着袴の儀を催したと記される。家臣たちは祝いに、馬や太刀を差し出した。武家では男子だけが営むようになり、袴着は次第に男の子の行事になっていく。
徳川将軍家では、着袴の式のあとに、紅葉山の廟所へ参る決まりだった。紅葉山にあるのは東照宮。参拝のあとで、祝いの三献の儀を催した。
江戸時代になると、庶民のあいだにも広まった。衣類を新調して、産土の神に参る行事だ。式を営む年齢も、5歳か7歳に落ち着いていく。
袴着には、碁盤が出てくる。子どもに冠をつけて碁盤の上にのせ、四方の神を拝ませたという。碁盤は勝負の場の象徴で、大きくなって出会う人生の勝負どころで、四方を制するようにとの願いだった、と説明される。
碁盤は、いまの皇室の儀式にも出てくる。1964年11月1日、東宮御所の広間で、のちの第126代天皇が数え5歳の着袴の儀を受けた。白い絹の袴を着せ、腰紐を結ぶ。それが着袴の儀の中身だ。
着袴の儀に続いて、男の子には深曽木の儀があり、式場の中央に置かれた碁盤の上に立つ。髪に櫛を入れ、和鋏で毛先を切りそろえる。盤の上には青い石が2つあり、それを踏みしめたあと、「エイッ」と叫んで飛び降りる。
石を踏むのは禊で、飛び降りるのは大地に足をしっかりつける意味だという。幼児から児童へ。そのことを、元気に飛び降りて示す儀式だ。七五三の時期には、碁盤から飛び降りる「碁盤の儀」を催す神社もある。
5歳の男の子の晴れ着は、熨斗目模様の長着に袴、羽織を重ね、白い扇を持つのが正式という。明治42年、1909年ごろからは、海軍の軍服をまねた洋服が流行した。その流行は、第二次世界大戦の終わりまで続いたという。
付け紐を外して、大人の帯を締める
7歳の帯解は、女の子の祝いだ。それまでの着物には、胴のあたりに付け紐が縫いつけてあった。紐で結ぶ子ども用の着物を卒業し、大人と同じ幅の広い帯を結びはじめる日。それが帯解、または紐解きだ。
帯を締めるのに、解く、とは変な言い方だ。ここで解くのは、帯でなく付け紐のほう。暦の解説サイトも、誤解のないようにと、わざわざ断っている。
装いは、本裁ちの小振袖になる。成長してからも着られるように、五つ紋を入れる家もある。同じ解説サイトには、帯は魂をその内にしっかりととどめおくものだ、という説明もある。帯を締めることで、身を持ち崩さないようにとの願いを込めるのだそうだ。
出雲地方には、3歳は言葉、5歳は知恵、7歳は歯を、神から授かったことに感謝する、という考え方がある。3歳、5歳、7歳は、子どもの厄の一種でもあるとも見られた。
福岡県には、4歳か5歳で「ひもとき」、7歳で「へこかき」「ゆもじかき」を祝う地区がある。へこかきは少年、ゆもじかきは少女の呼び名だ。ふんどしや湯文字など、大人向けの下着をはじめて身につける日だった。
上方には、十三詣りという別の習俗がある。上方で生まれた行事で、少しずつ全国に広がっている。7歳で終わりでなく、13歳でもう一度、節目を迎えるわけだ。
11月15日が選ばれた三つの言い分
日付は、はじめから11月15日に決まっていたわけでもない。暦の解説サイトは、元は11月の吉日を選んで祝っていた、と書く。固定されたのは江戸の中ごろだという。
着袴の日取りをたどると、江戸のはじめには正月に祝う家が多かった。『西鶴織留』には、5歳の春に着初めの袴を自分の手で皺を伸ばして、という意味の一節がある。それが延宝のころから、次第に11月15日へ移っていった。
『東都歳事記』では、髪置、帯解、宮参りが、そろって11月15日の行事に入っている。それでも公家や将軍家は、正月の吉日を選ぶ例が多かったらしい。
1つ目の言い分は、暦と季節だ。二十七宿という暦の方式に、鬼宿日がある。鬼が出歩かない日。何をするにも吉という。旧暦の11月は、この鬼宿日が15日にあたる。
二十八宿は、月の通り道にある28の星座のことだ。中国で生まれた考え方で、宿曜経という仏典とともに日本へ伝わった。江戸のはじめの日本で使われた宣明暦は、インド系の二十七宿の計算方式だったという。
この方式では、鬼宿の日は毎年同じ日になる。正月は11日、2月は9日、6月は朔日、10月は18日、11月は15日、12月は13日だ。月ごとに決まった日付。
鬼宿日が最上の吉日になった理由も、書かれている。月が鬼宿という星座にあった日に、お釈迦様が生まれたという言い伝えがあるからだ。この言い伝えから、鬼宿日が最もめでたい日と見られるようになったという。
季節の話もある。旧暦の11月は収穫を終えて実りを神に感謝する月で、その月の満月の日が15日にあたる。氏神への収穫の感謝を兼ねて、子どもの成長も感謝し、加護を祈るようになった、という説明がある。
2つ目の言い分は、将軍家の話。天和元年、1681年の旧暦11月15日に、5代将軍徳川綱吉の長男、徳松の髪置の祝いが催された。これを前例にした、と伝わる。神社本庁は、綱吉が息子の健康を盛大に祈願し、それが庶民に広まったともいわれる、と案内している。
ただ、同じ「徳松」の名で、別の説もある。暦の解説サイトによると、3代将軍家光が、のちの5代将軍綱吉の病弱を案じた。幼名は徳松といい、慶安3年、1650年の11月15日に袴着の儀を催した、という説だ。庶民もこれにならい、11月15日に歳祝いを催すようになった、とある。
同じサイトは、天和元年の徳松の話も記す。その徳松は病弱で、天和3年の閏5月、数え5歳で亡くなった。となると、天和元年の祝いが、最後の七五三の祝いだったわけだ。サイトの筆者は、どちらの説が正しいか決めきれないので、両論を併記すると断っている。
着袴の解説は、延宝のころから次第に11月15日に祝う風習になった、と記す。延宝の次の元号が天和だ。年号だけを並べても、きれいには収まらない。
3つ目は、数字の言い分だ。7と5と3を足すと15になる。奇数のはじめの数の1を重ねると11になる。だから11月15日なのだ、という説がある。
小学館の辞書サイトのコラムは、これを俗説のようだと書く。ただ、案外そんなところから来ているのかもしれない、とも付け足している。
なぜ3歳と5歳と7歳なのか。理由は、今ひとつはっきりしない。コラムは、中国では古来、奇数を陽数として尊んだ、その影響ではないかと見ている。
奇数を縁起のよい数とする考え方は、江戸時代にはすっかり定着していたという。歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は7文字、浄瑠璃の『曽根崎心中』は5文字だ。小説の『日本永代蔵』も5文字で、『東海道中膝栗毛』と『南総里見八犬伝』は7文字。題名の字数まで、奇数にそろえていたとコラムは書く。
明治の改暦で、日取りは新暦の11月15日になった。いまは、11月中の土曜や日曜、祝日に合わせる家が多い。北海道などの寒い土地では、1か月早めて10月15日に祝う家も目立つ。
1000人生まれて154人が、1歳になれなかった年
筥崎宮の案内には、こう書いてある。昔は病気などで幼くして命を落とす子どもも多く、順調に年を重ねることは決して当たり前とは言えなかった。そういった背景も含めて、成長を祝う儀式として七五三が定着していったと伝わる。
数字を見てみる。厚生労働省の人口動態統計では、1899年、明治32年の乳児死亡率が、出生千人あたり153.8だった。1000人生まれた赤ちゃんのうち、154人ほどが、1歳の誕生日を迎える前に亡くなった計算だ。およそ6人か7人に1人。
明治の終わりから大正にかけては、さらに上がった。1918年、大正7年は188.6を記録している。1000人のうち、189人近くが1歳になれなかった年だ。
下がりはじめるのは昭和に入ってからだ。1947年、昭和22年は76.7で、およそ13人に1人。2024年、令和6年は1.8まで下がり、これは550人に1人ほどにあたる。明治32年の、およそ85分の1だ。
江戸時代はどうだったか。濃尾地方の調査では、1歳未満の死亡率は10パーセント台の後半だったという。報道系のサイトの記事が、鬼頭宏の『人口から読む日本の歴史』を引いて、そう伝えている。農村では、おおむね2歳になるまでに2割の子が亡くなっていた、というのがその記事の見立てだ。
武家の記録もある。大名家の系譜を分析した研究は、17世紀後半から19世紀前半までの200年間について、乳児死亡率を出生千あたり193.2、幼児死亡率を229.6と出した。どちらも18世紀の後半から上がりはじめ、19世紀の半ばには、調べた期間のなかで最も高くなった。
論文が挙げる原因は、消化器系の病気の広がりだ。18世紀以降、都市化が進み、人の動きも激しくなった。最初は人口密度の高い町人の住む地区に病気が広がり、続いて武士の住む地区にも広がった、と論文は説明する。
京都の近世後期については、乳児死亡率が出生千あたり250から270という推計がある。速水融の推計として、別の論文が引いている数字だ。250なら、4人に1人が1歳になれなかった計算だ。
こうした数字の元になる史料にも、癖がある。宗門改帳は村や町ごとに人々を書き上げた帳面で、その帳面から、生まれたばかりの子の出生が漏れる例があった。論文は、出生が実際より14パーセントから18パーセントほど少なく記録されたとみる。出生の記録漏れの程度は、乳児死亡率の高さと密接に関係する、とも記す。
幼い子が多く亡くなっていたことは、数字から確かめられる。では「七つまでは神のうち」という言葉は、昔から人々のあいだで言われていたのか。これには、研究者の異論がある。
国立歴史民俗博物館の研究報告で、柴田純が2008年に論じている。柳田国男は、1914年の『神に代りて来る』で、7歳になるまでは子どもは神様だという地方があると述べた。1945年の『先祖の話』でも、同じ趣旨を、いまもほぼ全国で行われていると強調した。
民俗学では、その説が主流になっていく。やがて歴史学や教育学にも受け入れられ、この言葉は頻繁に使われるようになる。柴田の結論は厳しい。この言い回しは、近代になってごく一部の地域でいわれた俗説にすぎない、というものだ。
では、7歳という線引きに根拠はないのか。そうでもない。律令には、7歳以下の幼児は責任を問われないとする規定と、幼児が亡くなっても親は喪に服さなくてよいとする規定があった。
10世紀の前半、法律家たちがこの二つを結びつけた。幼児は親の死でも自分の死でも、服忌の対象から外される「無服」の扱いになる。服忌とは、喪に服す決まりのことだ。
狙いは、神事を滞りなく行うことだった、と柴田は書く。喪に服すと、神事に出られなくなるからだ。江戸時代の服忌令にも、7歳未満の子か老人が亡くなったときには、忌と服の期間を設けない、という決まりがあった。
「神のうち」という言い方そのものは近代の俗説でも、7歳を区切りに子どもを別扱いする仕組みは、10世紀の法解釈までさかのぼる。近世になると、「無服」であることが一種の特権のように見られるようになった、とも柴田は論じる。
庶民の家が確立し、「子宝」という意識が広まるなかで、幼い子を守ろうとする考え方が地域に根づいた、とも柴田は記す。その考えは、捨て子にも向けられた。捨て子を禁じる法令が、整えられていった。
暦の解説サイトの筆者は、歳祝いはめでたいから祝うだけでなく、祝うことでめでたい未来を招く行事だったのだろう、と書く。節目ごとに神に感謝し、この先の無事を祈る。そういう行事だった。
浅草の飴売りが売ったのは「千年」だった
千歳飴は、米と麦芽を糖化させてつくる、紅白の棒飴だ。袋には、鶴亀や松竹梅、「寿」の字が描かれる。名前の千歳には、千年という意味がある。
始まりについては、柳亭種彦が書き留めている。文政8年、1825年に出た『還魂紙料』には、元禄宝永のころ江戸浅草に七兵衛という飴売りがいた、という記述がある。その飴を千年飴、また寿命糖とも呼んだ。いま俗に長袋という飴に千歳飴と書くのは、あの七兵衛から起こった、という。
元禄と宝永は、あわせて1688年から1711年まで。種彦の本が出たのは、そのあと100年以上たってからだ。当時すでに、昔の話だった。
別の説もある。元和元年、1615年に、大坂の平野甚左衛門が江戸に出て、浅草寺の境内で飴を売りはじめた、というものだ。その飴は「せんざいあめ」と読まれ、食べれば千歳まで生きられると人気になった。のちに、読み方が「ちとせあめ」に変わったという。
神田明神の祝い飴を発祥とする説も挙がる。どれが正しいかは、はっきりしない。読みは、せんねん飴から、せんざい飴を経て、ちとせ飴へ。辞書には、寿命飴、寿命糖という別名も載っている。
形は、長さ1メートル以内、直径は14.5ミリ以内と決まっている、と案内する神社や店の解説が多い。直径を1.5センチとする解説もある。この数字を誰がいつ決めたのかは、調べた範囲では出どころが見つからなかった。
袋には、紅白を1本ずつ入れる家が多い。子どもの年の数だけ入れる場合は、3本、5本、7本と必ず奇数になる。その際は白を1本多く入れる、と案内する寺の解説がある。
細長い形には、意味がある。飴は伸ばすと、どこまでも伸びていく。そこから長寿を連想させる縁起物になった。この長い飴を食べて、細く長く、粘り強く、いつまでも元気に育ちますように、と祈る。和樂という雑誌のサイトの解説に、そうある。
白い色にも仕掛けがある。関東の千歳飴は、水飴と砂糖を140度ほどに煮詰め、平たくのばして冷ます。固まりかけた飴を機械の棒に引っかけてのばして折り返し、この作業を何層にも重ねると、飴の中に空気の細かい隙間ができる。隙間が光を乱反射して、透明だった飴が白く見える。
伝統を重んじる菓子屋では、できあがった千歳飴を最初に神社へ納め、お祓いを受けてから店先に並べるという。関東では、細長くて固めの千歳飴が主流。関西では、太くてやわらかい食感の千歳飴が一般的らしい。紅白の2色だけでなく、単色のものもある。
飴は、江戸の庶民を代表する菓子だった。『広辞苑』第4版から飴の種類を拾うと27種になる、と江戸の食文化を紹介するサイトが数えている。栗飴、梅干飴、翁飴、お多福飴、金太郎飴。千年飴も千歳飴も、その中に入る。ほとんどが江戸時代からのものだという。
神社によっては、千歳飴を供饌菓子として、護符がわりに分けるところもある。細い棒の飴が、お札の代わり。食べられる護符だ。
長い飴を1本まるごと食べるのは子どもには大変で、「長さに意味があるから、折ってはいけない」という説が伝わる。ただ、それが明確な決まりというわけでもない。縁起物だから、食べやすく切って、近所へおすそ分けする家も多かったらしい。
