「是の日、太上天皇の七七に当たる」
『続日本紀』の大宝三年二月十七日の条に、短い一文がある。是の日は、太上天皇の七七に当たる。太上天皇とは、前の年の十二月に亡くなった持統上皇のことだった。朝廷が使いを走らせた先は、四大寺や四天王寺、山田寺など三十三の寺に及び、どの寺でも僧を招いた斎会が開かれた。
同じ巻にはほかにも、正月五日に四つの寺で斎会を開いた記事があり、四月二日の条には百日の斎会を御在所に設けたとも書かれる。この時点で遺体はまだ殯宮にあった。火葬は一年後の十二月十七日で、持統は天皇として初めて火葬された人でもあった。
七日ごとの記録は全部そろわない。それでも、七七日と百日が節目だったことははっきり読み取れる。持統は、夫の天武天皇が亡くなった翌年の九月九日を国忌と定め、都の寺々に斎会を開くよう命じてもいた。
七日を七回数えて、四十九日。千三百年あまり先の葬儀の日程表にも、この数え方の骨組みはそのまま通じる。ただ、七七日が何の期間かは条文に書かれておらず、答えはもっと古い教理と、そこから育った裁きの物語のほうにあった。
中陰の「陰」は、体を作る五つの要素のことだった
中陰は、法要の名前として覚えている人が多い。もとは、死んだ者のいる状態を指す言葉だった。仏教には、生き物の輪廻を四つの段階に分けて眺める見方がある。生まれる一瞬が生有、生まれてから死の直前までが本有、死ぬ一瞬が死有だ。
死有のあと、次の生を受けるまでの間が中有になる。中有は中陰とも書く。陰は五陰を指し、色・受・想・行・識という、体と心を作る五つの要素をいうので、中陰とは、中間にある五陰の意味になる。
辞書は、中有の期間を一念の間から七日、あるいは不定と説く。日本では四十九日と添える辞書もあり、『三宝絵』や『今昔物語集』といった平安の書物には、もう中有の語が出てくる。
中世以後は、使い分けの色合いが濃くなったという。中陰は四十九日という期間を指し、中有は死者のさまよう空間を指す。「中有に迷う」「中有の旅」といった言い回しは、その空間のほうから生まれた。
七日が来るたびに、死者は死んでは生まれ直す
四有の考えを詳しく述べた『阿毘達磨倶舎論』には、中有の長さについて二つの説が並ぶ。世友という論師は、長くても七日だと言い、生まれる縁がまだ合わなければ、中有の身はそこで死んで、また生じると説いた。別の論師たちは、長くても七七日だと言う。
『瑜伽師地論』の説明は、一段と細かい。中有は七日を限りに留まり、縁を得られなければ死んで生じ、また七日を限りに留まって、これを七七日に至るまで重ねる。七日、七日、七日。遅くとも七回目には、行き先が決まる。
明治二十七年に刊行された『三餘随筆』は、この教えを灌頂経の説だと記した。七日で生まれ先が定まらなければ、もう一度中有の形を得て、七の七倍の四十九日には必ず生所があるという。そこで中陰七七日の法事を営むのが、諸宗に共通の作法だと書いた。
辞典類は、七日ごとの法要も、七七日を満中陰とする習慣も、こうした説から起こったと説明する。四十九日は、七に七を掛けた区切りだ。遺族が七日ごとに手を合わせる日は、中有の身が生死の分かれ目に立つ日に重なる、という理屈になる。
中有の姿にも、記述がある。『大毘婆沙論』によれば、中有は次に生まれる先の姿をとると説いた。地獄へ行く者は地獄の者に似た姿で、天へ行く者は天の者に似た姿でいるという。肉眼には見えないほど細かい、という説明も添えられた。
寺の解説書には、中有を通らない者もいると書くものがある。極めて善い者は、命が尽きるとすぐ天に昇る。極めて悪い者は、すぐ悪道に落ちる。中有に留まるのは、善も悪もほどほどの人だという。
『日本霊異記』には、一度死んで冥界を見て戻ってくる蘇生の説話がある。閻羅王の使いに連れて行かれ、亡くなった父や母に会い、裁判にかけられ、地獄の責め苦を受けて帰ってくる。ある論文は、肉体へ戻った彼らを、冥界を往還する中有の存在として読む。
初七日の秦広王から、七七日の泰山王まで
日本の四十九日に重なるのが、十王の信仰だ。ここからが、七日ごとの裁きの話になる。死んだ者は七日ごとに冥界の王の前へ引き出され、初七日は秦広王、二七日は初江王、三七日は宋帝王が受け持つ。四七日は五官王、五七日は閻魔王、六七日は変成王。七回目の七七日に座るのは、泰山王だ。
七回で決まらなかったときの再審もある。百か日は平等王、一周忌は都市王、三回忌は五道転輪王だ。審理は合わせて十回、王も十人になる。ここで、十王という名がそろった。
初七日の意味は、遺族の側から見ると分かりやすい。最初の審理を乗り切れるよう、遺族が秦広王に減刑を願う日だった。
天台宗の解説は、七回目の最終判決のあとに、再審の機会が設けられていると説く。浄土真宗本願寺派の寺の解説は、七回の審理で六道のどこかに行き先が決まると書く。地獄・餓鬼・畜生の三悪道へ落ちた者のために、追加の三回が救済として用意されたという。
王には、それぞれ本地仏が配された。秦広王は不動明王、初江王は釈迦如来、宋帝王は文殊菩薩、五官王は普賢菩薩だ。閻魔王は地蔵菩薩、変成王は弥勒菩薩、泰山王は薬師如来、平等王は観音菩薩、都市王は勢至菩薩、五道転輪王は阿弥陀如来になる。王の正体は、みな仏や菩薩だった。
この対応は、鎌倉時代の日本で考え出されたものだ。ある研究は、本地という発想がもとの経典になく、定着には浄土系の唱導僧の働きがあったと論じる。中世の書でも、配役は揃わなかった。秦広王の本地を大日如来とし、不動とも書く本がある。
経の巻首には、作った人の名が書いてあった
十王を説く経は二種類あり、どちらも偽経だ。偽経とは、インドの原典を持たず、中国や日本で作られた経をいう。
中国で作られた『預修十王生七経』の巻首には、「成都府大聖慈寺沙門蔵川述」とある。訳した人の名ではない。述べた人の名だ。十王信仰は晩唐のころに成立したと説明され、百か日、一周忌、三回忌は、儒教の服喪期間の名残だという。
もう一つの『地蔵菩薩発心因縁十王経』は、日本で作られた経だった。成立は十二世紀後半から十三世紀前半と研究は見ており、三途の川や奪衣婆が出てくるのは、こちらの経になる。閻魔王の本地を地蔵菩薩とはっきり記したのも、この経だった。
平安の唱導僧が書いた表白にも、十王の名が出る。安居院の唱導書『転法輪抄』や、安居院に擬される『澄憲作文集』には、忌日と十王を結びつけた文言が見える。裁きから逃れるために忌日の仏事を営む、という理屈が読み取れる。
日本では、さらに三王が足された。七回忌は阿閃如来、十三回忌は大日如来、三十三回忌は虚空蔵菩薩が受け持つ。合わせて十三仏だ。その形は十五世紀前半に成立した真言系の文献に見え、南北朝期の板碑にも、十三仏の姿が刻まれている。
三十三回忌を、弔い上げにする家が多い。浄土宗の案内は、古くから日本では、三十三回忌か五十回忌が済むと、亡くなった人は先祖になると信じられてきた、と書く。ほかの寺の解説は、三十三回忌で故人が菩薩の道に入り、ご先祖さまという守り神になると述べる。
閻魔が座るのは五番目、三十五日目だ
三十五日目、五七日。閻魔王の席は、そこにある。十王のなかで、閻魔だけが地獄の代名詞のように知られており、日本では、この日を重んじて、五七日を忌明けにする地域もある。
七日ごとの法要には、それぞれ別名が付いた。初七日は初願忌、五七日は小練忌、七七日は大練忌という。ちなみに、四七日と五七日の間には、最初の月命日が来る。
閻魔は、地蔵菩薩の化身だという。悪道で苦しむ人々を救う菩薩が、裁判官の顔で死者の前に座る。罪を憎んで苛烈に裁く閻魔と、地獄へ分け入って慈悲を垂れる地蔵を、同体とみる読み方がある。
最後の泰山王は、本地が薬師如来だ。ある寺の解説は、七七日に薬師如来が、行き先が定まる前の最後の確認をすると説く。まだ苦しみが残っていれば、そこで取り除いてくれるという。
生きているうちに積めば、中陰を通らずに済む
『預修十王生七経』の核は、生きている者が自分のために営む斎だった。これを、預修、あるいは逆修と呼ぶ。経文には、月に二度、三宝を供養して十王に祈り、名を書いた書状を納めておく、とある。
意訳すれば、こうなる。生前にそれを行った者は死んだ日にそのまま楽しい所へ生まれ、中陰の四十九日にとどまらず、子どもたちの追善を待つ必要もない。一回でも欠ければ、その回の王のもとで滞って苦しみ、生まれ出るのが一年遅れる。
死んだあとで遺族が営む七七斎は、あとから経に組み込まれた部分だという見方がある。もとの経は生七斎のほうを主にしており、経文に追善が足されて、いまの形になったというのだ。
追善の功徳の配分も、経に書かれている。功徳を七つに割ると、供養した生者に六つ、死者には一つしか届かない。地蔵菩薩の経には、六分の功徳は生者自身を利する、という一節がある。
命日は一日目、だから初七日は六日後
日にちの数え方は、命日を一日目とする。初七日は七日目で命日の六日後にあたり、満中陰の七七日は四十九日目で、四十八日後になる。百か日は、百日目。
十月二日が命日なら、初七日は十月八日になる。五七日は十一月五日、四十九日は十一月十九日だ。念のため、いまの暦で数えた例になる。九月二十日が命日だと、四十九日は十一月七日に回る。
逮夜に営む家もある。逮夜とは、当日の前夜のことだ。逮夜に勤める場合は、どの法要も一日早まる。初七日は六日目、満中陰は四十八日目になる。
一周忌は命日の一年後、三回忌は二年後に営む。三回忌の三は、数えで三年目という意味だ。神道の三年祭は、きっかり満三年の日に行う。
国の法も、同じ数え方をした。五代将軍徳川綱吉の貞享元年に服忌令が定められ、元文元年に改定され、明治七年には太政官布告第百八号が江戸の令を引き継いだ。父母の死には、忌五十日、服十三月と決まっていた。
明治の服忌表には、日数は死去の日から計算する、という注記がある。この令が昭和二十二年に廃止されるまで、忌中と喪中の目安として使われた。仏式は四十九日で、令は五十日。数は一日違うが、忌明けの時期はほぼ重なる。
「三月またぎ」を嫌って、三十五日で切り上げる家
月の後半に亡くなると、四十九日が翌々月に回る。九月二十日が命日なら、中陰は九月、十月、十一月の三か月にまたがる。これを三月またぎと呼んで嫌う土地があり、五七日の三十五日に忌明けの法要を繰り上げて、すませてしまう家もある。
嫌う理由は、語呂合わせ。三月が「身に付く」に通じ、苦労が身につくというのだ。天台宗の寺は、この言葉がもとは別の話から来たと説明する。お産で実家へ帰った嫁が婚家に戻りたがらないとき、早く戻らせるために使った言い回しだという。
その寺は、葬儀や法事とは関係のない風習だと述べる。浄土真宗のある寺も、三か月にわたっても通常どおり四十九日を満中陰として勤める、と書く。語呂合わせにすぎず、仏法とは無関係だという。
四十九を「始終苦」と読む語呂も語られ、大分県佐伯の寺の話では、お供えの団子を四十九個でなく、四十個にする。四十九から苦の九つを取り除く、というわけだ。
土地ごとの区別もある。男は四十九日で女は三十五日という地域や、本家は四十九日で分家は三十五日とする地域が伝わる。そうした区別を、身分の差から生まれた慣行と見る解説がある。明治までは、各地とも死後五十日目に忌が明けるのが普通だったらしい。
四十九日までは、屋根の棟に死者がいる
国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースには、四十九日の報告がいくつも載る。福井県の一九八四年の記録では、四十九日までは死者の霊がその家の屋根に留まるという。その間は、屋根に登らない。触らない。家を留守にしない。
玄関の大戸と仏壇の扉は必ず少し開けておき、七七日には四十九個の餅と笠の餅を供えて、近親者が一同で分けて食べる。そうすると忌みが明け、死者の霊も遠くへ行くという。
長野県の例には、四十九日の法事をするが、霊はこの日まで屋根のみねにいるという話がある。神奈川県の一九三三年の記録は、死後四十九日間は毎日温かいご飯を仏前に供えるものだと伝える。霊魂が屋根の棟に留まっているからだ。屋根の棟。そこが、四十九日間の死者の居場所だった。
研究者の論文にも、「四十九日間は死者が軒端にいる」という言葉が、少なからぬ実感をもって語られているとある。死という不在を受け入れる期間として、四十九日はちょうど合うのだという。
大分県佐伯の寺には屋棟にいる死者の話が伝わり、ある檀家の嫁は、姑を実の母のように慕っていた。その姑が亡くなると、嫁は四十九日をかけて、遠い村々まで餅米を探し歩いた。ようやく集めた米で、四十九日の朝に餅をつき、霊前へ供えたという。
杵の音と読経を聞いた姑が屋棟から庭先へ舞い降り、仏間の嫁に向かってひざまずいて、手を合わせたという。生きているときの辛い当たりを詫び、礼を述べて、何度も頭を下げた。
嫁は餅を三枚つき足して、庭先の姑の額と両膝の下に敷いた。体が泥で汚れないように。この話が、四十九枚の小餅に三枚の餅を足す数の由来になったと、寺は伝える。額と両膝の餅は、「オデコとヒザボン」の餅と呼ぶ。
餅四十九個と、打ち込まれる四十九本の釘
忌明けに餅をつき、親類に分ける風習は、広い範囲に見られる。四十九餅、笠餅、釘餅と呼び名は土地ごとに違い、小餅を四十九個作って、大きな餅を一つ添える例が多い。餅を人の形に整えたり、一つずつを「肘の餅」「膝の餅」と体の部位に当てたりする例もある。
三重県尾鷲の報告では、一升の餅を一臼でつき、五十個に分けたという。寺へ持参し、一個だけを盗むようにして持ち帰り、家族で分けて食べた。福島県岩瀬郡の旧白方村では、餅を墓へ持参し、塩をかけて、身内で引っ張り合いながら食べた。
食べる側の意識について、民俗学者は、死者の魂を自分の体に取り込む考えが底にあるとみる。辞典類には、死者の生命を継承する儀式という解釈と、骨噛みと同じ人肉食の名残だという説の両方が載る。
餅は四十九個、釘は四十九本。餅の数には、地獄の釘の話が絡む。日光山の寂光寺に伝わる釘抜縁起は文明十三年六月の作で、その中で閻王は次のように語る。死んでから四十九日のあいだ、亡者は四十九本の釘を打たれる。
縁起は、こう続く。七七日が過ぎる日に白い餅を四十九個供えるのは、体の節々に打たれる釘を、その餅に打たせるためだという。釘を受ける身代わりは、餅。
釘を抜く手間は、念仏の数で数えられた。釘一本につき念仏一万遍、四十九本で四十九万遍になる。寂光寺の縁起は、その四十九万遍の念仏の功徳を説く。
釘の数を細かく記す寺もある。『無縁慈悲集』を引く寺の解説では、目に二本、耳に二本、舌に六本、胸に十八本、腹に六本、足に十五本だ。経を開けば目の二本、僧の読経を受ければ足の十五本が抜けるという。
佐賀県には、四十九日の仏上げの餅をクギ餅と呼ぶ地域があり、岡山市の付近には釘抜餅の風習がある。千葉県君津市の山間には、葬儀のあとの初七日に釘念仏を唱える家もある。
和歌山の浄土宗の資料は、笠餅を棟越しに投げる地域があると紹介する。喪主が玄関の外に立ち、笠餅に小さな丸餅を包んで、家の棟を越すように投げる。三途の川をうまく越えられるようにとの願いで、死霊が棟を離れて成仏するという言い伝えを、そのまま形にした作法だという。
沖縄では、魂を分ける日が土地ごとに違う
沖縄本島の宜野座村の記録では、死者を出した家の女性は、野辺送りの日から四十九日まで、箸を竹管に差し替えて忌みを表した。
四十九日焼香の様子も、同じ記録にある。この日は家族と親戚、島の人々が喪家に集まり、白位牌の前に、四十八個の餅と、それより大きい頭餅を一つ入れた重箱を供える。
頭餅は、会葬者が分け合って食べる。焼香が終わると、本位牌に法名と死亡年月日を書き写し、仏壇の白位牌は焼却した。四十九日で、位牌が白から本位牌に替わる。
夜には、魂分かしを行う島がある。ウサギヤー、あるいはユタの司式で、生きている者と死者の魂とを分ける。今日は四十九日の焼香を済ませたので、立派に分かれてください、という意味の唱えごとが続く。参列者は、飯と豆腐を一口ずつ食べた。
この魂分かしの日は、島ごとに違う。死後三日目の島もあれば、十四日目、二十一日目、三十五日目、四十九日目、百日目の島もある。多いのは、四十九日の島。死後五十日前後は、遺体が骨になる時期。民俗学者は、そう指摘した。
浄土真宗では、裁きを待たずに浄土へ往く
浄土真宗は、中陰の考え方がほかの宗派と大きく違う。阿弥陀仏の救いで、命の終わりとともにすぐ浄土に生まれ、仏になる。往生即成仏。それが、この宗派の骨組みだ。四十九日を待つ必要はない。
親鸞の言葉を集めた『歎異抄』の第五条には、追善を退ける有名な一節があり、初七日から続く法要も、追善供養の意味では営まない。「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」。
理由は、こう続く。生きとし生けるものは、みな生まれ変わりのなかで父母であり兄弟だった。自分の力で励む善なら、念仏を回向して父母も助けられる。ただ自力を捨てて浄土のさとりを開けば、どんな苦しみの底にいても、神通方便で助けられるという筋道だ。
浄土真宗の寺は、中陰を、残された人が仏の教えに触れる期間と説く。真宗大谷派は、中陰壇に法名と遺骨を安置して、花瓶には樒を挿し、満中陰の法要のあとに片づけるよう案内する。本願寺派の系統では、位牌を使わず、法名軸や過去帳を用いることが勧められる。
浄土宗は、お念仏を唱えること自体が最高の追善回向だと説く。法要の日を記した中陰表というものもあり、天台宗の寺の解説は、十王の裁きと追善供養をそのまま説く。
神道には四十九日がない、あるのは五十日祭だ
神道の葬儀は、神葬祭という。仏式の法要にあたるのが霊祭で、葬儀の翌日の翌日祭から、十日ごとに十日祭、二十日祭と続く。忌明けにあたるのは、五十日祭。
数え方は、亡くなった日、帰幽を一日目として五十日目だ。忌中のあいだ、神棚には白い半紙を貼って封じ、日々の参拝も祝い事も控える。五十日祭を終えると清祓の儀を行い、その半紙をはがす。神棚の祭りは、そこで再開する。
霊璽は仏式の位牌にあたる白木の御霊代で故人の御霊を宿し、合祀祭で、仮の霊舎から祖先を祀る祖霊舎へ移される。神道では、亡くなった人は祖霊になって家に留まり、子孫を見守ると考える。
仏式の「成仏」「冥福」「供養」という言葉は、神道の弔いでは使わない。「御霊のご平安をお祈りします」と述べる。死は穢れとみるので、霊祭は神社の社殿では営まず、自宅や斎場、墓前で行う。
満中陰が済むと、中陰壇が片づけられる
満中陰、尽七日、忌明け、中陰明け。呼び名は多い。ヒアケともいう。位牌を使う宗旨では、四十九日までに、白木の位牌を漆塗りの本位牌へ作り替える。納骨は、四十九日の法要のあとに行う地域が多い。
法要のあとには、精進明けの食事がある。中陰の間は精進潔斎で過ごすので、この日にそれを解く。亡くなった人が家を離れて旅路につく日で、この世の食事の食べ納めともいう、と和歌山の浄土宗の資料は書く。
二七日から六七日の法要を営むことは、いまは少ないという。初七日のあとは、四十九日まで僧を招かない家が目立つ。
七七日の餅を、みなで分けて食べる。そうすると忌みが明け、死者の霊も遠くへ行く。福井県の記録は、そう伝えている。
