山の道でいちばん怖いのは、獣じゃない。人だ。台湾の中央山脈、日が落ちるのが早い谷筋。畑から戻る途中の農夫が、藪の中の気配に気づく。気づいたときにはもう遅い。
翌朝、家族が見つけるのは首から上のない体だ。そして数日後、隣の山の集落では祝宴が開かれている。持ち帰られた首は丁寧に洗われ、口にアワの酒を注がれ、名を呼ばれ、「今日からお前も我々の身内だ」と語りかけられる。これが台湾原住民の言う「出草」だ。日本語では首狩りと訳される。
字面だけ見ればホラーだが、中身を追っていくと、単なる残虐行為とはまるで違う何かが顔を出す。狩った相手を敵として辱めるんじゃない。味方に迎え入れるのだ。この逆説こそが、出草という慣行のいちばん奥にある核だと思う。そして同じ構造の慣行が、ボルネオの川筋にも、インド北東部の山にもあった。
全部つながっているわけじゃないのに、驚くほど似たかたちをしている。今回はそこを丸ごと歩く。
- 「出草」という二文字が背負っていたもの
- 首は戦利品ではなく、家族になる
- 一六〇三年、海の向こうから最初の記録が届く
- 族ごとに、作法がまるっきり違う
- 夢と鳥が「行くな」と言えば、行かない
- ボルネオ――家に住み着く頭という考え方
- トゥンバン・アノイの三か月
- ナガ――丸太太鼓が鳴ったら、誰かが首を取った
- 「あれは人生の最高の瞬間だった」――長老たちの言葉
- 台湾側の生々しい声も、まだ残っている
- 清が引いた線と、日本が引いた線
- 隘勇線という、静かな兵糧攻め
- 一九一四年、タロコ討伐
- 一九一五年、大分――十八年間、山に籠った人たち
- 学校と交易所と、引き換えに差し出したもの
- 一九三〇年十月二十七日、運動会の朝
- 禁じた側が、首に賞金を出した日
- 呉鳳という、よくできた作り話
- 内地で見世物にされた人たち
- 戦争が、首狩りを呼び戻した
- ガラスケースの中の頭は、誰のものか
- 映画が変えたもの、変えられなかったもの
- 復活する祭りは、誰のためのものか
- 何が怖いのか、という話
- なぜこの慣行は、こんなに長く続いたのか
「出草」という二文字が背負っていたもの
まず言葉から。「出草」は漢字表記で、原住民自身の言葉ではない。漢人側がつけた呼び名が定着したものだ。草むらに出ていく、つまり社(集落)の外に出て敵の首級を取りに行く行為を指した。台湾原住民族の事典的な記述では、出草は「敵対勢力の首級を獲得するために社外に出かけること」と定義される。
ちなみに、タオ(ヤミ)とサキザヤを除くほぼ全ての民族に記録があるとされる。
原住民自身の語彙もちゃんとある。タイヤル系の言葉では「ムガガ」、ブヌンの言葉では「カナサン」、サイシャットでは「マラケム」。この語の違いが、そのまま慣行の意味づけの違いにもなっている。タイヤル系のムガガという語は、彼らの社会規範そのものを指す「ガガ」と地続きだ。ガガは祖先が定めた掟であり、労働も婚姻も狩猟も分配もこれで決まる。
ガガを破れば祖霊が怒る。祖霊が怒れば疫病が来る、作物が枯れる、猟が当たらない。首狩りは、そのガガの体系の中に埋め込まれた一つの手続きだった。だから「なぜ首を狩ったのか」に一言で答えるのは無理がある。理由は最低でも六つか七つ、しかも同時に走っている。
少年が一人前の男になるための通過儀礼。顔に入れ墨を入れる資格も得られる。結婚相手を得るための必須条件。集落を襲った疫病や凶作を追い払うための厄払い。祖霊への供物。
仇討ち。そして、揉め事の白黒をつけるための裁判。最後の一つがいちばん現代人の想像から遠い。あとで詳しくやる。
首は戦利品ではなく、家族になる
一番びっくりするのはここだ。狩ってきた首の扱いが、想像とまるで違う。集落に戻る前、まず現場近くで頭部の中身を抜く。脳漿を除去して腐敗を遅らせるためだ。それから竹の籠か網の袋に収める。
タイヤル系では大きな草の葉で包んで運んだという記録もある。集落に近づくと、待ち構えていた人々が迎えに出る。ここから先は葬儀と婚礼を足して二で割ったような時間が始まる。首は集会所の前か、頭目の家の前に安置される。顔を洗われ、髪を整えられる。
獣の血を顔に塗る作法を伝える記録もある。そして口にアワの酒を注ぐ。注いだあと、狩った当人がその酒を飲む。つまり同じ器から、狩った者と狩られた者が一緒に酒を飲む。二人で酒を酌み交わす形式をわざわざ取る地域もあった。
首を斬った男が、斬った相手と義兄弟の盃を交わしているようなものだ。そして名を呼ぶ。「お前はもうこちらの者だ」「我々の集落を守れ」「仲間を連れてこい」。仲間を連れてこいというのは、要するに「次の首もうまく取れるように口をきいてくれ」という意味になる。狩られた首の霊は、敵の霊のままではいられない。
集落の守護霊に転職させられるのだ。数日から数週間の祭祀が続き、肉が落ちて骨だけになると、首は「人頭架」に永久保存される。日本統治期の記録では「髑髏架」「首棚」などと呼ばれた。集落の入口や集会所のわきに、竹や木で棚を組み、そこに頭骨を横一列に並べる。数が多い集落では何十、時には百を超え、並べられた頭骨は、その集落の力の可視化であり、同時に守護霊の名簿でもあった。
日本統治期に撮影されたこの首棚の写真は、絵はがきや写真帖に仕立てられて内地で流通した。台湾史関連の研究では、この種の写真が「野蛮」の証拠として消費された経緯が批判的に検証されている。撮る側は恐怖と好奇心を売った。撮られる側にとっては、そこにあるのは家族と守り神だった。この落差が、のちの博物館問題まで一直線につながっていく。
一六〇三年、海の向こうから最初の記録が届く
文字記録としての最初期は、明の陳第が一六〇三年にまとめた「東番記」だとされる。倭寇討伐の軍に同行して台湾西南部に一か月ほど滞在した見聞録で、漢人が台湾原住民について書き残した最も古い民族誌的文献という位置づけになっている。ここに、敵を殺して頭を持ち帰り、肉を落として骨を門に懸けるという趣旨の記述が出てくる。頭骨の多い家ほど尊敬される、とも。
その後、清朝期の各種の地方志や采訪冊にも「好んで人を殺し頭を取りて去る」といった調子の記述が繰り返し現れる。郁永河が一六九七年に硫黄採掘のため台湾に渡ったときの記録「裨海紀遊」も、当時の平地と山地の緊張を伝える基本文献としてよく引かれる。ただ、清代の記録には強いバイアスがかかっている。書いているのは支配側であり、開墾を進めたい側だ。首狩りは「討伐の正当化」に使える材料でもあった。
だから記述の量が増えたことが、そのまま慣行の増加を意味するとは限らない。この点を正面から論じたのが、モダン・アジアン・スタディーズ誌に載った洪麗完の論文だ。二〇一九年にオンライン公開、二〇二〇年の号に収録されたこの研究は、変化の理由を民族対立そのものには求めていない。十八世紀から十九世紀にかけて台湾の山麓地帯で首狩りの性質と規模が変わった理由を、「新規移民の大量流入と国家の介入」に見ているわけだ。
漢人と、すでに漢化していた平地の原住民が、山際へ大量に押し寄せた。土地と樟脳と山林資源をめぐる圧力が高まった。その結果、もともと文化に埋め込まれていた慣行が、領域防衛と報復の応酬へと形を変えていったという筋書きだ。つまり、後期の首狩りの激化は「未開だから」ではなく、「押されたから」という側面が濃い。これは霧社事件の理解にもそのまま効いてくる視点だ。
族ごとに、作法がまるっきり違う
ここが面白いところで、「台湾原住民の首狩り」とひとくくりにすると本質を取り逃がす。族ごとに、目的も季節も手順も禁忌も違う。日本統治期の調査報告書群を基にした事典的整理から、主なものを並べていく。
タイヤル・セデック・タロコ――掟と入れ墨と祖霊の目
北部から中部の脊梁山脈に広く住むタイヤルは、原住民の中でも人口が多い集団だ。セデックとタロコはかつてタイヤルの一部として扱われ、のちに別族として認定された近縁の人々になる。この系統の首狩りが、いちばん体系的で、いちばん有名だ。彼らの首狩りは司法機能を強く持っていた。集落内や集落間の争いが調停でどうにもならないとき、双方が首狩りに出る。
先に敵の首を取って帰った側が正しい。理屈は単純で、祖霊が正しい方に味方するからだ。これを馘首裁判と呼ぶ。当事者本人が出られない場合の委託代行の制度まで発達していたというから、相当に整備された仕組みだった。出発の作法にも決まりがある。
偶数人数での凱旋は不吉とされた。出る前夜は食を断つ、男女は同衾しない、農具に触れない、炉の火を絶やさない、麻に触れない、婚礼に関わらない。この禁忌の束を破ると、祖霊が力を貸してくれない。そして紋面。額と顎に入れ墨を入れる男の資格が、首を取ったかどうかで決まる。
ある記録では、五つ以上の首を得た者は胸や手にも追加の文様を入れたという。女は織布の技を修めることで頬の入れ墨の資格を得た。菱形の文様は祖霊の目を表し、族人を守るとされる。入れ墨のない顔では、死後に虹の橋を渡れない。渡れなければ祖霊のもとに行けない。
だから首狩りは、あの世への通行証を取りに行く行為でもあった。日本統治期に入れ墨は禁止され、ほぼ根絶された。一九二〇年から一九三五年にかけての強制移住がガガの体系を壊し、織布も、首狩りも、土地の共同所有も、まとめて崩れていったと総括されている。
ブヌン――全員が刀を入れる
中央山脈の両側、南投から高雄、台東にかけて住むブヌンは、五つの群に分かれ、長老制の父系氏族社会をつくっていた。彼らの首狩りは報復と名誉獲得が主目的とされる。特徴的なのが、斬首に全員が補刀する慣行だ。一人が最初の一撃を入れたら、参加者が順に刀を入れる。手柄を独り占めさせないし、責任も共有する。
集団としての結束を身体で確認する手続きになっている。これは、ブヌンが集団の合議を重んじる社会構造を持っていたことと無関係ではないだろう。
パイワンとルカイ――五年祭が終わったら
南部の山地に住むパイワンとルカイは、貴族層と平民層のある階層社会をつくっていた。両族とも五年祭という大きな祭儀を持ち、首狩りはその五年祭が終わるタイミングで行われた。アワの収穫期間中は禁止で、実施時期はおおむね十一月から翌年六月。農事暦にきっちり組み込まれている。パイワンでは、首狩りに成功した男は入れ墨ではなく、集落の女たちが作る特別な帽子で識別された。
ルカイでは、出発前の夢占いで団長が悪夢を見たら、全員が引き返す。一人の夢で数十人の遠征が中止になる。
ツォウ――鳥占いを外した隊長の責任
阿里山一帯に住むツォウでは、主帥の鳥占いが成功の鍵とされた。うまくいかなかったときの責任は、はっきりと主帥に帰属する。指揮官の占卜能力が問われるという、なかなかシビアな仕組みだ。このツォウが、のちに呉鳳という作り話の舞台に仕立てられる。それは後述する。
アミとプユマ――季節と川の話
東部の平地寄りに住むアミは、団体でも個人でも実施し、時期の制限がなかったとされる。出発前の占卜は直接的な形を取らず、出発してから現れる徴候で吉凶を判断した。プユマは正月の狩猟が終わった一月から二月に出た。川が浅くなって渡りやすい季節を選んだという、実務的な理由だ。
サイシャット――神霊の裁定として
新竹県と苗栗県の県境に住む人口の少ないサイシャットは、首狩りを「マラケム」と呼び、神霊の審判と位置づけた。同族間での出草も存在したという記録が残る。サイシャットには「パスタアイ」、日本語で矮霊祭と訳される祭儀がある。かつてタアイという背の低い人々が農耕や歌を教えてくれたが、タアイの男たちがサイシャットの女性に乱暴を働くようになった。
サイシャットは復讐を計画し、タアイが枇杷の木に登ったところで幹を切り、ほぼ全滅させた。生き残った二人の老人が、死んだタアイを祀る祭りの式次第と聖歌を伝えて去った――という由来伝説を持つ。二年に一度、十年に一度は大祭。旧暦十月十五日前後に行われ、二〇一三年に重要民俗として指定された。滅ぼした相手を祀り続ける祭りというのは、首を狩った相手を守護霊にする発想と、どこか同じ回路でつながっている気がする。
タオ――やらなかった人たち
蘭嶼という離島に住むタオ(ヤミ)だけは、首狩りの慣行を持たなかった。漁労を中心とする経済と、島という隔絶した地理条件が理由として挙げられる。狩る相手がいない、というのが実も蓋もないところだが、この例外の存在が「首狩りは人間の本性」みたいな雑な一般化を封じてくれる。
夢と鳥が「行くな」と言えば、行かない
族ごとの違いを見ていくと、共通する要素が一つ浮かび上がる。占いだ。夢占いと鳥占い。この二つが、出草の実行可否を決める最大のゲートになっている。出発前夜に見た夢が悪ければ延期か中止。
道中で特定の鳥が鳴いたら引き返す。タイヤル系ではシジュウカラの一種とされる鳥の声の方向や回数で吉凶を読んだ。これ、外から見ると迷信の一言で片づけたくなるが、機能として見るとかなり合理的だ。第一に、遠征のブレーキになる。誰かが「悪い夢を見た」と言えば、面子を潰さずに中止できる。
無謀な出撃の抑制装置だ。第二に、失敗したときの責任の逃がし先になる。首を取れずに仲間を失って帰っても、「鳥の声を読み違えた」で処理できる。第三に、開始の合図を人間以外に預けることで、私怨が暴走するのを防いでいる。誰かが個人的な恨みで出たがっても、鳥が鳴かなければ動けない。
ついでに言うと、実行そのものにも頭目や長老の許可が必要だった。四人から三十人くらいの団体が基本で、少人数の私的な出草も存在はしたが、原則は許可制。勝手に出て集落全体に報復を招いたら困るからだ。つまり出草は、外から見えるほど無秩序ではない。むしろ手続きだらけだ。
手続きだらけだからこそ、社会の中で長く維持できた。
ボルネオ――家に住み着く頭という考え方
台湾から南へ。ボルネオ島のダヤク諸族、とりわけサラワクのイバンは、首狩りの代名詞のように語られてきた。彼らの言葉で首狩り遠征を「ンガヤウ」と言う。イバンの首狩りにも、しっかりした規則があった。何の諍いもない罪のない集団を襲ってはいけない。
敵が降伏したのに命を取れば、以後の戦で必ず負ける。最初に取った首か捕虜は隊長に献上し、それ以降は貢献度に応じて分配する。二十世紀初頭の英領行政官チャールズ・ホースは、イバンについて「普通に言うところの首狩り族という呼び名が当てはまるのは、この部族だけだ」と書いた。同時にホースは、イバンの首狩りは比較的新しく、隣のカヤンの慣行を模倣したか、マレー系の海賊の伝統に影響を受けた可能性を指摘している。
つまり「太古から続く未開の風習」ではなく、歴史の中で伝播し変質した文化だという見立てだ。イバンでは、狩った首は燻して乾かし、ロングハウスと呼ばれる長屋の共同スペースの上に吊るした。この乾いた頭を「アントゥ・パラ」と呼ぶ。直訳すると「頭の霊」といったところになる。ここでもやはり、首は敵のままではいられない。
アントゥ・パラは、その家に住み着く存在として扱われる。定期的に供物を捧げ、話しかけ、火の暖を与える。放っておくと機嫌を損ねて災いを招く。だから世話をする。長屋の住人にとって、天井から吊るされた頭は装飾品ではなく同居人だ。
そして「ガワイ・アントゥ」――死者の祭りにおいて、首は中心的な役割を担った。喪に服していた人々が喪を解き、死者を送り出し、生者の世界を再起動する。この儀礼を執り行う資格が、首を得た戦士にしかなかった時期がある。つまり誰かが首を取らないと、集落の喪が明けない。悲しみの処理と首狩りが直結している。
この構造を知ると、なぜ簡単にはやめられなかったかが少し見えてくる。イバンの織物には、かつて首を入れて運んだ籠の名を持つ文様が今も残る。慣行そのものは消えても、名前と模様は生き延びた。
トゥンバン・アノイの三か月
ボルネオでの禁令は、台湾より半世紀ほど早く動き出す。サラワク側では、一八四一年にジェームズ・ブルックがラジャ(藩王)となって以降、首狩りと部族間抗争の抑圧が統治の柱になった。とはいえ実態は、討伐と懐柔の繰り返しだ。イバンの指導者レンタップに対しては一八五七年と一八五八年の遠征が失敗し、一八六一年の三度目でようやく山上の砦を破壊した。二十世紀に入ってもバンティンらが上流域で抵抗を続ける。
そして一九〇二年、ブルック統治史上最大級の動員が行われる。政府側についたダヤク兵一万二千人以上を集めた大遠征だ。ところが途中でコレラが蔓延し、およそ千人が死んだ。首狩りを止めに行った軍勢が、疫病で自壊した。皮肉が過ぎる。
もう一つ、より重要なのがオランダ領側の動きだ。一八九四年、中部カリマンタンのトゥンバン・アノイという村で、オランダ植民地政府の主導により、カリマンタン中のダヤク諸族の代表が集まる大会議が開かれた。五月から七月まで、およそ三か月。終盤には千人ほどが集まったとされる。会場は、ダマン・バトゥと呼ばれた指導者のブタン(共同住居)だった。
ここで合意されたのが、首狩りと人身供犠の廃止、奴隷制の廃止、部族をまたぐ紛争解決手続きの標準化、慣習法の統一、物々交換から貨幣取引への移行。三か月かけて、ダヤク社会の基本ルールが一度に書き換えられた。植民地政府にとっては支配の安定装置であり、宣教師にとっては布教の好機だった。しかし、これを一方的な押しつけとだけ見るのも雑だ。
トゥンバン・アノイは今でも「ダヤクが自分たちで平和を決めた場」として現地で語り継がれ、記念行事が続いている。誰が主催したかと、誰がそれを自分の物語として引き受けたかは、別の問題なのだ。
ナガ――丸太太鼓が鳴ったら、誰かが首を取った
インド北東部からミャンマー北西部にかけての山地に住むナガ諸族。三十五を超える集団に分かれ、総数はおよそ三百五十万人とされる。中でもモン県一帯に住むコニャックは「最後の首狩り族」として知られる。コニャックの村には「モルン」と呼ばれる若者宿がある。少年たちがここで寝起きし、伝統的な信仰、民謡、木彫、竹細工、狩猟、そして戦の技術を学んだ。
教育機関であり、兵舎であり、作戦司令部だった。ナガ社会でモルンが唯一の教育機関だった時代は長い。狩ってきた首はモルンに飾られ、また家の入口のくぼみに据えられた。首には所有者の魂の力が宿っていると考えられ、それが村の繁栄と豊穣をもたらすとされている。ある本の記述を借りれば、コニャックは「人の頭蓋にはその存在の魂の力がすべて詰まっている」と信じていたわけだ。
首を取った男は顔に入れ墨を入れる。菱形やロゼンジ形の文様が功績の記録になる。この入れ墨を彫るのは頭目の妻の役目で、施術には十時間以上かかることもあった。首を取れずに帰った者は胸の入れ墨だけで、顔には入れられない。虎の霊を背に彫るのは村の頭目クラスに限られた。
首飾りには、取った首の数だけ小さな青銅の髑髏を通した。歩く履歴書みたいなものだ。村には巨大な丸太をくり抜いた太鼓があり、遠征の出発と、首を持ち帰った帰還を打ち鳴らして知らせた。英領インド政府は一九三五年に首狩りを禁じたとされる。しかし山の奥までは届かない。
インド独立後、一九六〇年にも政府による禁止措置が取られたが、それ以降も散発的に続いた。文献上「最後の首狩り事件」として記録されるのは一九六九年だ。
「あれは人生の最高の瞬間だった」――長老たちの言葉
ナガの取材記事には、当事者の声がいくつも残っている。これが重い。ノキン・ワンナオという八十代半ばのコニャックの長老は、六十年ほど前に初めて首を取ったときのことを記者に語った。彼の首飾りには、殺した数だけの青銅の髑髏が下がっている。取材者に対して彼は、その一つ一つがいつ、どこで、誰を相手にしたものかを説明できた。
恥じてもいないし、誇示しているわけでもない。自分の人生の目盛りとして、そこにあるという語り方だった。アン・ロエ・コンという八十五歳の男性は、禁令が出る前の二つの戦いで十三人を殺したと語る。同じ取材で別の長老は、敵の首を戦士用の背負い籠に入れて村へ帰る道のりこそが「コニャックの人生における最高の瞬間だった」と言い切っている。彼らにとってそれは犯罪の記憶ではない。
共同体のために最も大きな貢献をした日の記憶だ。この非対称を無視して「野蛮な過去」と言ってしまうと、話が全部止まる。頭目の妻であるポヒという女性は、少女の頃に自分の母が戦士たちの顔に入れ墨を彫るのを見ていた記憶を語る。彫られる側は痛みに耐え、彫る側は何時間も針を打ち続けた。彫り終わったときの空気を、彼女は覚えている。
一方で、こういう証言もある。シャンハチンニュ村の頭目カオパは、一九九二年までキリスト教への改宗を拒み続けた。改宗は、先祖伝来の慣行を捨てることと、村に飾ってある聖なる頭骨を土に埋めることを意味したからだ。彼は長いこと抵抗した。禁令後、多くの村では飾られていた大量の頭骨がまとめて埋葬された。
祭りの機会にだけ、しまってあったものが出てくることがある。コニャックの首狩り師の曾孫にあたるフェジン・コニャックという女性が、三年をかけて長老たちの語りと歌と入れ墨を記録している。そして写真家のピーター・ボスと組んで一冊の本にまとめた。当事者の子孫が、消える直前の記憶を自分の手で押さえに行った仕事になる。
台湾側の生々しい声も、まだ残っている
台湾でも、断片的だが強い証言が拾える。ある日本人旅行者が、台湾の原住民と何年も交流を重ねた末に、山奥へ連れて行かれた話をネットに書いている。案内された先は外部の人間を入れたことのない場所で、そこに祭壇があり、髑髏があった。案内した現地の男は、髑髏を指してぼそりと言い、「私のおじいさんが殺った」。旅行者は、それが冗談なのか本当なのか判断がつかなかったと書いている。
ただ体が震え、目を閉じて頭を下げ、霊を慰めたと。もう一つ。霧社事件の生き残りが強制移住させられた川中島、現在の清流部落を訪ねた日本人の記録がある。山の民だった人々が、平地で米を作らされることになった土地だ。今は「清流米」の産地として知られる。
訪問者が話した老夫婦には、九州で暮らしている娘がいた。集落の人々の多くはカトリックか長老派のキリスト教徒で、先祖の墓の前でキリスト教式の祈りが捧げられる。マリア像を祀った池に鯉が泳いでいる。集落には「余生記念館」という霧社事件の資料館があり、かつての首狩りの文化と戦いの記憶が保存されている。訪問者は、壁画や展示から伝わってくるのは惨めさではなく誇りだった、と結んでいる。
この二つの証言の温度差が、そのまま現在の台湾における出草の位置を示している。忌まわしい過去として封印されてもいないし、観光用に軽く消費されてもいない。もっと複雑で、生きている。
清が引いた線と、日本が引いた線
さて、禁令が来る。清朝統治期の台湾には、平地と山地を隔てる境界の観念があった。土牛溝と呼ばれる溝や石標で線を引き、漢人の越境開墾を禁じる。建前としては、原住民の土地を守るためであり、同時に紛争を避けるためでもあった。だが実際には守られない。
樟脳は当時の重要な国際商品で、樟の木は山にある。だから人は登る。線は破られ、押し戻され、また引き直される。日本が台湾を領有した一八九五年以降、この線は性格を変える。守るための線ではなく、締め上げるための線になった。
隘勇線という、静かな兵糧攻め
「隘勇線」は日本統治期の理蕃政策の中核装置だ。もとは清代の隘勇制度――境界を守る民間武装警備――を引き継いだ名称だが、日本はこれを軍事技術で武装した。隘勇線は、山肌に沿って引かれる長大な防衛線だ。監視所と隘勇の詰所が一定間隔で並び、その間を鉄条網がつなぐ。そこに高圧電流を流した区間があった。
地雷を埋めた区間もあった。夜になると探照灯が谷を舐める。そして、この線を少しずつ前へ押し出していく。狙いは戦闘ではない。遮断だ。
線の内側から外側へ、塩と鉄と銃と弾薬が流れないようにする。山の暮らしは、塩と鉄器を平地との交易に依存していた。それを止める。そして線を前進させ、猟場と焼畑を削っていく。飢えるか、降るか。
二択に追い込む。一九〇三年から一九〇八年にかけて、日本側は隘勇線を七十回にわたって前進させたという記述がある。ある欧米人の観察は、この時期の状況をこう伝えている。首を求める男たちは、夜のうちに障壁を越えるか、その下をくぐるかして、待ち伏せに出ていったと。線を張られたからといって、出草がすぐ止まったわけではない。
むしろ、行き場を失った圧力が線を越えて噴き出していた。そして一九〇九年、総督佐久間左馬太のもとで「五箇年理蕃計画」が始まる。北部の「北蕃」を主要対象とした五年がかりの討伐作戦だ。まず帰順を勧告し、応じなければ軍を出す。帰順した集落からは銃器を没収する。
没収が済んだら軍は引き上げ、あとは警察が統治を引き継ぐ。この銃器没収が決定的だった。銃は狩猟の道具であり、生活の基盤であり、同時に抵抗の手段だった。取り上げられれば、猟の獲物が減り、家族を養えなくなる。「銃を出せば食えなくなる」という判断が、のちの武装抵抗の直接の引き金になっていく。
理蕃警察の権限は、行政のあらゆる領域に及んだ。教育も、医療も、交易も、婚姻の許認可に近いことまで、駐在所の警察官が握る。ある評価によれば、彼らは事実上の生殺与奪の権を持っていた。山の一つの谷の運命が、日本人巡査一人の裁量に左右される構造ができあがった。
一九一四年、タロコ討伐
五箇年計画の総仕上げが、一九一四年の太魯閣戦争だ。五月十七日から八月二十八日まで。日本側は軍と警察を合わせて六千二百三十五人、労役に従事した人員を含めれば総勢およそ三万人を動員した。小銃およそ二千八百挺、砲三十一門、機関銃八挺。総督佐久間左馬太が自ら総司令官として山に入った。
対するタロコ側は、戦闘可能な戦士がおよそ三千人。近代的な軍事訓練は受けておらず、この規模の戦役に備えた準備もしていなかった。実戦は五月三十日に始まり、六月十四日には最大の集落だった古白楊社が陥落。七月三日にタロコの総頭目が降伏し、戦闘は終息した。日本側の死傷者は警察百三十八名、軍隊二百二十六名。
タロコ側の損失については、公式の記録が残っていない。この非対称そのものが、当時の記録の性質を語っている。戦後、タロコの人々は平地寄りに集団移住させられ、漢人居住区に分散して配置された。これは社会構造と伝統文化を意図的に解体するための措置だったと評価されている。銃器は没収され、逃亡者は招撫された。
山の上の集落が消え、山の下の新しい村ができた。同じことが、その後全島で繰り返される。一九二〇年から一九三五年にかけての強制移住が、タイヤル系のガガの体系を破壊した。ガガが壊れると、それに埋め込まれていた織布も、入れ墨も、共同の土地所有も、そして首狩りも、一緒に崩れていく。禁令は一本の法律ではなく、社会の骨格そのものを組み替える作業として実行された。
一九一五年、大分――十八年間、山に籠った人たち
抵抗は北だけではない。一九一五年、ブヌンの大分社で事件が起きる。武器没収に反発した頭目ラホ・アレと、その兄弟アリマン・シキンが立った。二月二十三日に大分駐在所の日本人警察官が殺害される。五月十二日にはカシパナン駐在所が襲われ、日本人警察官十人が殺される。
五月十七日、大分駐在所襲撃で警察官十二人が斬首された。ここが重要な点だ。彼らは殺しただけでなく、首を取った。禁じられた出草が、抵抗の手段として復活している。統治への反撃と、伝統的な戦の作法が、同じ動作の中で重なった。
その後、およそ三百人が包囲を脱出し、中央山脈の険しい奥地に移って新しい集落を築く。以後十八年、彼らは自給自足で暮らしながら遊撃戦を続けた。日本側の記録でさえ、その拠点の堅固さを認めている。一九三三年四月二十二日、ラホ・アレは代表十一人を率いて帰順式に臨んだ。台湾における「最後の帰順蕃」と呼ばれることになる。
一九一五年から一九三三年。日本統治期のちょうど真ん中の十八年間、山の中に「降っていない場所」があり続けた。
学校と交易所と、引き換えに差し出したもの
禁令は、暴力だけで進んだわけではない。交換もあった。帰順した集落には、蕃童教育所が置かれる。日本語と算術と農業を教える初等教育機関だ。医療所ができる。
マラリアや疫病で子どもが死ぬ確率は、実際に下がった。交易所が開かれ、塩と鉄器と布と、時に酒が公定の条件で入ってくるようになる。狩猟用の銃は没収されるが、管理下で貸し出される仕組みもあった。つまり、こういう取引だ。首狩りをやめろ、銃を出せ、山を降りろ。
代わりに学校と薬と塩をやる。この交換に応じた人々を「日和った」と切って捨てるのは簡単だが、当時の親の立場に立てば、選択の重さがわかる。子どもが薬で助かるなら。飢えなくて済むなら。まあ、実際に多くの集落が応じた。
応じなかった集落は、大分のように山の奥へ消えるしかない。そして、応じた側にも別の代償があったわけだ。統治の末端に組み込まれるということは、駐在所の巡査に日常的に頭を下げるということだ。強制的な労役に駆り出される。伝統的な祭儀を禁じられる。
日本人巡査と原住民女性の政略的な婚姻が奨励され、そして多くの場合、任期が終われば男は内地の家族のもとへ帰った。残された女性と子どもの立場は宙に浮く。一九三〇年から八年間かけて実施された蕃地開発調査では、一人あたりの必要地積を算定した上で、原住民の保有地から相当量を差し引く方針が立てられた。学校と薬と引き換えに渡したものの中には、土地も入っていた。屈辱は、日々の細かいところに溜まる。
そして一九三〇年十月、その積み上げが一気に崩れる。
一九三〇年十月二十七日、運動会の朝
きっかけは、酒の席で、一九三〇年十月七日、セデックのマヘボ社で結婚式が行われていた。頭目モーナ・ルダオの長男タダオ・モーナが、通りかかった日本人巡査に酒を勧めた。セデックにとって酒を勧めるのは敬意の表現だ。だが巡査は、豚の血で汚れたタダオの手を嫌って拒み、あろうことかステッキで打った。最大級の侮辱で、しかも、この件が上に報告されれば、父モーナ・ルダオの地位が失われるおそれがあった。
謝罪に行っても受け入れられなかったとされる。十月二十七日の朝。霧社の公学校で運動会が開かれていた。日本人の官吏、教員、その家族が集まり、国旗が掲揚され、児童が整列していた。モーナ・ルダオが率いる六つの社の壮丁およそ三百人が、まず周辺の駐在所を襲って武器を奪い、それから運動会の会場になだれ込んだ。
日本人百三十二人と、日本の着物を着ていたために間違われた台湾人二人あまりが殺された。多くは首を落とされた。日本側の記録に残るこの光景の描写は生々しい。禁じられて三十年近く経っていた出草が、白昼の運動場で、旗と万国旗の下で、もう一度起きた。これをどう読むかで、霧社事件の理解は分かれる。
単なる反乱の暴力として見るか、伝統的な儀礼の復活として見るか。おそらく両方だ。セデックの側から見れば、祖霊の掟に従った戦であり、虹の橋を渡る資格を取り戻す行為だった。日本の側から見れば、教化の失敗と統治の破綻だった。同じ出来事に、二つの意味が同時に載っている。
禁じた側が、首に賞金を出した日
そして事件のいちばん暗い部分が来る。十月二十九日に日本側は霧社を奪回するが、蜂起側は山に籠って抵抗を続けた。奪った警察の武器がある。地の利がある。日本側は大砲と機関銃と航空機を投入した。
当時の司令官が十一月三日に「びらん性投下弾」の使用を打電で希望した記録が残る。陸軍省側は容易には認めなかったとされ、催涙性のガスの使用は確認されているが、致死性の毒ガスが実際に使われたかについては見解が分かれている。そして、日本側は「味方蕃」を動員した。親日的なセデックの社や周辺の民族に、蜂起側の首級と引き換えに賞金を出したのだ。つまり、三十年かけて禁止してきた首狩りを、鎮圧のために解禁した。
首一つにいくら、という値段をつけて。結果は凄惨だった。民族間だけでなく、同じセデックの中でも殺し合いが起きた。昨日まで隣の谷にいた親戚の首が、賞金に換えられていく。十一月一日に指揮官の次男バッサオが死亡。
十一月初めにモーナ・ルダオが姿を消す。十一月四日に蜂起側の集落が制圧される。十二月八日、タダオ・モーナが自殺。十二月中に戦闘は完全に終息した。蜂起側はおよそ七百人が死亡または自殺し、およそ五百人が投降した。
鎮圧側の戦死者は、日本軍二十二人、警察六人、味方蕃二十一人。蜂起側の女性たちの多くは、男たちが戦いに専念できるようにと、子どもを連れて森の木で首を吊った。食料を減らさないための選択でもあり、セデック出身の警察官だった花岡一郎と花岡二郎は、遺書を残して自決した。日本語教育を受け、警察官として登用され、両側の言葉を話せた二人が、どちらの側にも立てずに死んだ。
この遺書には偽造説もあり、二人が扇動側にいたという説もあり、真相は今も定まっていない。翌一九三一年四月二十五日、投降して収容されていた生存者――当時「保護蕃」と呼ばれた人々――を、タウツア社が襲撃した。二百十六人が殺された。第二霧社事件だ。当時の警察官がこの襲撃を唆したという告白が残っている。
タウツア社は処罰されず、むしろ蜂起した社の土地を与えられている。生き残った二百八十二人は、五月六日に北港渓中流の川中島へ強制移住させられる。移住から一年で人口は二百十人まで減り、二年後には三分の二にまで落ちた。マラリアと、働き手の不足が原因だった。この一連の出来事を並べると、はっきりすることがある。
首狩りを最も大規模に、最も組織的に、最も冷徹に「使った」のは、それを禁じた側だった。
呉鳳という、よくできた作り話
禁令の話をするなら、呉鳳を外せない。呉鳳は、清代の台湾で通事(通訳兼仲介役)を務めたとされる漢人だ。生没年は一六九九年から一七六九年とされることが多いが、その実在自体が確認できていない。伝説はこうだ。呉鳳は阿里山のツォウの人々と長年つきあい、彼らの首狩りをやめさせようとした。
ストックしてあった頭骨を使わせて時間を稼いだが、それも尽きた。そこで呉鳳は言う。「明日、赤い衣に赤い頭巾の男が通る。その者の首を取れ」。翌日、赤い衣の男が現れ、ツォウは首を落とす。
首を見ると呉鳳だった。ツォウは慟哭し、二度と首狩りをしないと誓った。清代の記録――一八五五年の「海音詩」や一八九四年の「雲林縣采訪冊」――に呉鳳への言及はある。ただし初期の伝承では「殺される時期の引き延ばしを図って村人を避難させた」といった、もっと地味な話になっているらしい。赤い衣の自己犠牲という劇的な筋書きは、あとから足されたものだ。
これを大々的に売り出したのが、日本統治期の台湾総督府だった。
理蕃事業の真っ最中である。中田直久が編んだ「殺身成仁通事呉鳳」が一九一二年に刊行され、これが公式伝記としての権威を持つようになる。一九一四年以降、台湾だけでなく日本内地と朝鮮の教科書にも採用された。自己犠牲によって未開を教化する、という話型だ。理蕃政策の道徳的な正当化として、これ以上ないほど便利な物語で、戦後、国民党統治下でも呉鳳の顕彰は続いた。
廟が建ち、銅像が立ち、彼の名を冠した郷ができ、教科書に載り続けた。一九八〇年代、人類学者たちがこの話の虚構性を指摘し始める。そして台湾原住民運動の一環として「呉鳳神話打破運動」が起きた。原住民の側の主張ははっきりしている。この伝説は「台湾原住民は野蛮で残酷で遅れている」というステレオタイプを、何世代にもわたって子どもたちの頭に刷り込んできた、と。
ツォウの子どもが学校で、自分の先祖が善人を殺した愚かな連中として習う。それがどういう経験か。一九八八年、嘉義駅前の呉鳳の銅像が原住民運動の活動家たちによって引き倒された。教科書からも記述が削除され、呉鳳郷という地名は阿里山郷に改められている。首狩りをめぐって最も有名だった台湾の物語は、当事者の手で壊されたわけだ。
これは重要な出来事だ。誰が誰について語る権利を持つのか、という問題が、銅像一つの倒壊にすべて詰まっている。
内地で見世物にされた人たち
もう一つ、日本内地側の話をしておかないとフェアじゃない。一九〇三年、大阪・天王寺で第五回内国勧業博覧会が開かれた。その敷地内に「学術人類館」という民間業者主催のパビリオンがあった。趣旨は「内地に近き異人種を集め、その風俗、器具、生活の模様等を実地に示さん」というもの。集められたのは、アイヌ、台湾の高山族、沖縄県民、朝鮮、清国、インド、ジャワ、トルコ、アフリカの人々、合計三十二人。
彼らは民族衣装で、日常生活を演じさせられた。いわゆる人間動物園だ。当時、欧米の万博で普通に行われていた形式を、日本が輸入した。台湾の原住民は当時「生蕃」と呼ばれ、首狩りをする恐ろしい人々として売られた。恐怖と好奇心は、当時も今も、確実に客を呼ぶ商品だ。
抗議も起きた。沖縄から連れてこられた女性が「琉球婦人」として展示され、説明者が鞭で指し示しながら解説するという扱いを受けている。沖縄の言論人・太田朝敷は激しく抗議し、展示は中止された。清国政府も、阿片吸引者と纏足の女性を展示する計画を知って外交問題化を示唆し、日本政府がこれを中止させた。ただし、この抗議の中身には注意が要る。
太田の抗議の論理は、沖縄県民をアイヌや台湾の人々と同列に扱うのは侮辱だ、というものだった。差別の構造そのものへの異議ではなく、自分たちの位置を上に置き直そうとする異議だ。人間動物園を批判する言葉が、別の誰かを踏みつける形で組み立てられていた。この歪みは記録しておく価値がある。そして一九一〇年、ロンドンで日英博覧会が開かれる。
ここに台湾のパイワンの人々が渡英し、村を再現した空間で生活を展示した。二十世紀に入っても、大英帝国の首都で堂々と行われていた。この件は、二〇〇九年になって蒸し返される。日本の放送局が制作した番組が、この一九一〇年の展示を「人間動物園」として紹介したところ、渡英したパイワンの人々の子孫から強い異議が出た。
放送局側は、欧米の植民地大国が同種の展示を行っていたこと、日本もそれに倣ったことを説明した。参加したパイワンの人々は報酬と土産を得て台湾に戻ったことなども挙げ、名誉を傷つける意図はなかったと回答している。子孫の側は、先祖が見世物にされたと決めつけられることへの反発と、いや実際に見世物だったという歴史認識との間で、意見が割れた。面白いのは、当時の日本国内にも批判の声があったことだ。
ジャーナリストの長谷川如是閑が一九一〇年の時点でこの種の展示に疑問を呈し、翌一九一一年には帝国議会で議員が「人道上の重大な失態」として批判している。時代の限界を言い訳にする前に、同時代人が疑問を持っていた事実は押さえておきたい。
戦争が、首狩りを呼び戻した
禁令は、戦争が来ると簡単にひっくり返る。霧社で日本が賞金を出したのと同じことが、ボルネオでも起きた。一九四五年三月から十月、オーストラリアの特殊部隊が「スムット作戦」と呼ばれる隠密作戦をボルネオ内陸で展開した。日本軍の背後を撹乱するゲリラ戦だ。四つの部隊に分かれ、指揮官はいずれも戦前のボルネオ経験と現地語能力を持つ人物が選ばれた。
第一部隊を率いたのは、のちに民族学者として名を残すトム・ハリソンである。彼らはクラビット、カヤン、イバンといった内陸の人々およそ六百人を武装させ、訓練した。そして、長く禁じられていた首狩りが、日本兵を相手に復活する。連合軍側がそれを止めなかった、あるいは奨励したという指摘は繰り返しなされてきた。
ハリソンは自部隊だけで千人以上の日本兵を殺したと主張し、別の研究者は作戦全体で戦死約千五百、捕虜二百四十という数字を挙げている。オーストラリア側の特殊部隊員の戦死はゼロで、現地ゲリラの戦死がおよそ三十人だった。ブルネイのある長屋では、今も最後に取った首――日本兵のもの――を、外国からの訪問者にときどき見せることがあるという。数十年かけて「文明化」の名で禁じたものを、必要になったら解禁する。
台湾でもボルネオでも、同じことをした。この一貫性のなさこそが、禁令の本質を教えてくれる。あれは倫理の問題ではなく、統治の独占の問題だった。暴力を禁じたのではない。暴力を自分たちだけのものにしたかったのだ。
ガラスケースの中の頭は、誰のものか
そして現在。首は、まだ戻ってきていない。オックスフォードのピット・リバース博物館は、ナガ関連の資料をおよそ六千五百五十点所蔵しており、その中に人骨が四十一点含まれる。二〇二〇年、館はナガの頭骨を常設展示から外し、収蔵庫に移した。返還要求への対応だ。
ナガ側では「回復・修復・脱植民地化」を掲げる小委員会が立ち上がり、返還プロセスの協議が進んでいる。ナガの代表団が実際にオックスフォードを訪れ、話し合いが行われた。ただし実務は重い。倫理審査、子孫の特定、国際規則の調整。館側は十八か月から数年はかかるとしている。
さらに厄介な問題がある。現在のナガの多くはキリスト教徒だ。返還された頭骨をどう扱うのか。先祖が行っていた葬送儀礼を、いま復元して執り行うのか。誰がその権限を持つのか。
返還は「元に戻す」ことではなく、新しい判断を迫る行為になる。二〇二五年には、十九世紀のナガの頭骨が英国の骨董市場に出品された。三千五百ポンドから四千ポンドという評価額で、ナガの研究者とナガランド州首相が強く抗議し、出品は取り下げられている。ナガ側の団体の代表であるエレン・コニャックは「二十一世紀になってもまだ我々の先祖の遺骨が競売にかけられているのを見て衝撃を受けた」と語っている。
研究者の推計では、英国の博物館と個人コレクションが持つナガ関連資料は総計およそ五万点にのぼる。台湾でも似た問題は続いている。日本統治期に台北帝国大学などが収集した原住民の遺骨をめぐる議論もある。琉球人遺骨の返還訴訟と並んで、旧帝国大学の収集資料をどうするかという問いが持ち上がっているわけだ。
台北の順益台湾原住民博物館のように、原住民文化を正面から扱う施設が観光ルートに組み込まれる一方で、展示の主導権を誰が握るかという課題は残る。首は、狩られたあとにもう一度、コレクションとして狩られた。それが今の局面だ。
映画が変えたもの、変えられなかったもの
二〇一一年、台湾で公開された二部作の映画が、この話題を一気に大衆化した。制作費七億台湾元。台湾映画史上の最高額とされる。第一部と第二部を合わせて四時間半近い。同年の金馬奨で作品賞を含む五部門を受賞し、翌年以降、日本を含む各国で公開された。
日本での一般公開は二〇一三年四月。多くの原住民の出演者が起用され、セリフの大半はセデックの言葉と日本語で構成されている。この映画が持ち込んだ最大の論点は、暴力の描き方だ。運動会での虐殺は、目を逸らせない密度で描かれる。日本人の子どもも死ぬ。
同時に、日本統治期の差別と収奪も容赦なく描かれる。誰も一方的な被害者ではないし、誰も一方的な加害者でもない。この非決定性を嫌う人は当然いた。日本の映画レビューサイトを見ると、公開当時の反応がそのまま残っている。史実とは多少違うが首狩り族が台湾にいたことに驚愕した、という趣旨のレビューが典型的で、多くの日本人にとって、これは初めて出草という慣行を知る機会だった。
歴史認識の議論を期待した層と、単純に山岳アクションとして興奮した層と、原住民文化の描写に感動した層が、同じ映画のレビュー欄に混在している。台湾国内でも意見は割れた。原住民の主体性を初めて大画面に載せたと評価する声と、結局は漢人監督が撮った原住民像ではないかという批判と、暴力を娯楽化しているという指摘。
作中でセデックの人々が語る「セデック・バレ(真のセデック人)」という理念が、実際のセデックの人々の理解とどこまで一致するのかも議論になった。ただ、確実に変わったことがある。二〇一一年以前、出草は台湾社会の中で「口にしにくい話題」だったらしい。原住民側にとっては差別の根拠にされてきた過去であり、漢人側にとっては呉鳳伝説とセットの記憶である。
映画のあと、それが公共の話題になる。良くも悪くも、話せるようになったわけだ。
復活する祭りは、誰のためのものか
現在の台湾で、出草そのものが行われることはない。だが、それにつながる儀礼の「復興」は起きている。タロコでは一九九九年、一部の指導層の主導で首狩り儀礼を復元した祭儀が始まった。人類学者のクリストファー・ラウンボルが二〇一六年に発表した論文は、この動きを丁寧に追っている。彼が現地で聞き取った限り、復元された儀礼は地元のタロコの人々から「偽物」と見られていた。
伝統的な信仰体系からも、現在のキリスト教徒としての生活からも切れている、と。指導層が政府の補助金を得るために「本物らしさ」を演出したのではないか、という不信もあった。ただ、ラウンボルの結論は「だから無意味だ」ではない。復元された伝統は、本物か偽物かという二分法では測れない、アイデンティティを交渉するための一時的な社会文化的空間をつくり出す。
国連の先住民族の権利に関する宣言は、先住民が自らの文化的伝統と慣習を実践し復興させる権利を明記している。その権利を行使する場が、たとえぎこちなくても、必要とされているという読み方だ。現在のタロコでは、アワの収穫後に「ムガイ・バリ」と呼ばれる祖霊祭が行われている。感恩祭として整理されたこの祭りは、若い世代に文化的アイデンティティを取り戻させることを目的に掲げている。
二〇〇四年にタロコが独立した民族として正式に認定されたことも、この動きを後押しした。ナガランドでも同じ構図がある。ホーンビル・フェスティバルという大規模な文化祭が毎年開かれ、かつての首狩り師たちが観光客の前で舞い、写真に収まる。伝統の保存でもあり、商品化でもある。ある起業家がこの状況を評して「我々は一世代のうちに一万年ぶんを旅した」と言ったのが、なんとも言えず重い。
何が怖いのか、という話
さて、そもそもこの話のどこが怖いのか。首が落ちるから、ではない。血が出るから、でもない。怖さの正体は、もっと構造的なところにある。一つ目。
首狩りが、狂気ではなく手続きだったことだ。占いがあり、許可があり、禁忌があり、分配のルールがあり、事後の祭祀があり、保存の作法がある。これほど手順が整っているということは、これが逸脱ではなく正常運転だったということだ。正常な社会が正常に運転した結果、人の首が落ちる。この地続き感が怖い。
人間の残虐さは、社会の壊れたところからではなく、社会がきちんと機能しているところから出てくることがある。二つ目。狩った相手を身内にするという回路だ。復讐の連鎖を止めるどころか、殺した相手を守護霊に転換して、集落の力にしてしまう。この論理の中では、殺せば殺すほど守りが厚くなる。
負のフィードバックがどこにもない。だからこそ、外から強い力が来るまで止まらなかった。三つ目。誰かが死なないと社会が回らない仕組みだ。イバンで首を得た戦士しか死者の祭りを執り行えなかったという事実は、ぞっとする。
喪が明けるために、他人が死ぬ必要がある。台湾でも、疫病を止めるために、婚姻の資格を得るために、あの世に行く資格を得るために、首が要った。共同体の需要と、他者の死が、需給関係でつながっている。四つ目。そして、これがいちばん怖いところだが――禁じた側も同じことをやったという事実だ。
霧社で日本は首に値段をつけ、ボルネオで連合軍は首狩りを黙認した。「野蛮を文明化する」という看板を掲げた側が、必要になれば躊躇なく同じ回路を使い、看板と中身が一致していなかった。これは百年前の話ではなく、いまも至るところで起きている構造だ。
なぜこの慣行は、こんなに長く続いたのか
理由を整理してみる。まず、社会の複数の必要を一度に満たしていたからだ。成人の証明、婚姻の資格、地位の獲得、厄払い、豊穣祈願、紛争解決、報復、防衛。一つの行為でこれだけの機能を兼ねる制度は、そう簡単には置き換えられない。首狩りをやめるということは、成人の定義も、結婚の条件も、裁判の方法も、疫病への対処法も、全部同時に作り替えるということだった。
次に、可視性がある。首は嘘をつけない証拠だ。「戦って強かった」という主張は水増しできるが、頭骨は数えられる。顔の入れ墨も、青銅の髑髏の首飾りも、外から一目でわかる。社会的地位の認証システムとして、これ以上ないほど頑健だった。
文字を持たない社会において、身体と物に刻まれた履歴は極めて強い。三つ目に、相互性がある。こちらが狩れば、向こうも狩る。やめようとしても、隣が続けている限りやめられない。囚人のジレンマそのものだ。
だからトゥンバン・アノイのような、全員が同時に集まって同時に降りる仕掛けが必要だった。三か月かけて千人が集まったのは、伊達ではない。誰かが抜け駆けしない保証を、全員の前で作る必要があったのだ。四つ目に、あの世の問題がある。入れ墨がなければ虹の橋を渡れない。
橋を渡れなければ祖霊に会えない。この信念体系の中では、首狩りを拒むことは、自分の死後を放棄することを意味した。生きている間の損得だけで説得できる話ではなかった。そして最後に、外圧が来たときの逆説だ。押されれば押されるほど、それは「守るべき自分たちのもの」になる。
禁じられた慣行が、抵抗のシンボルに変わる。一九一五年の大分で日本人警察官の首が落とされたのも、一九三〇年の霧社の運動場で首が落とされたのも、この転化の結果だ。禁止は、時に対象を強化する。ここからは、書ききれなかった部分と、書きながら考えたことをまとめて置いておく。まず、記録の性質について念を押しておきたい。
この記事で使った台湾側の情報の大半は、日本統治期の調査報告書群に由来している。臨時台湾旧慣調査会は一九〇一年四月に発足した。もともとは土地台帳の作成過程で法慣行の実態を調べる必要が生じ、民政長官の後藤新平が京都帝大の岡松参太郎に調査を委嘱したのが始まりだ。第一部が法制、第二部が農工商経済を担当した。
伊能嘉矩と粟野伝之丞の「台湾蕃人事情」が一九〇〇年に総督府から出ている。佐山融吉らの「蕃族調査報告書」全八冊が一九一三年から一九二一年、「番族慣習調査報告書」全六冊が一九一五年から一九二二年にかけて刊行された。調査会そのものは一九一九年五月に解散したが、報告書の刊行は続き、最終報告は一九二二年に出ている。
台北帝国大学の土俗人種学研究室による「台湾高砂族系統所属の研究」と、言語学研究室による「原語による台湾高砂族伝説集」が、ともに一九三五年。つまり、我々が「出草とはこういうものだった」と語れるのは、統治のために調べ上げられたからだ。ここには救いようのない矛盾がある。理蕃政策という暴力の遂行のために作られた記録が、いま原住民自身の文化復興の一次資料として使われている。
台湾の資料館の説明でも、この点は率直に書かれている。統治効率化の目的があったが、高度な学術的成果を含み、現代の文化復興でも重要な資料になっている、と。同じことが英国側にも言える。ナガの慣行について我々が知っていることの多くは、植民地行政官と、その周辺にいた人類学者の記録に依存している。そしてその過程で、六千五百点の物と四十一点の遺骨がオックスフォードに渡った。
知識と収奪が同じ動作の中にある。だから返還交渉は、単に物を返す話にとどまらない。誰が語る資格を持つのかという話になる。次に、「首狩り族」という呼び名について。台湾でもボルネオでもナガでも、この呼称は外から貼られたラベルだ。
しかも、その社会の全部を首狩りで説明してしまう働きをする。イバンについて書いたホースでさえ、イバンの首狩りは比較的新しく、外部からの影響で採用された可能性を指摘していた。にもかかわらず「ボルネオの首狩り族」という一語が定着し、今もツアーの売り文句になっている。台湾の場合、この一語がどれほど暴力的に機能したかは、呉鳳伝説の一件が証明している。銅像が倒されたのは一九八八年。
教科書から記述が消え、地名が変わった。原住民の側が「その物語を我々に押しつけるな」と実力で示した。首狩りの話をするなら、この後日談まで含めて話さないとフェアじゃない。だから今回、日本語の記事の多くが最初の数行で終わらせてしまう「呉鳳」に、わざわざ一節を割いた。もう一つ考えたのは、首を守護霊にする発想の射程だ。
これは台湾とボルネオとナガに共通する。殺した相手の魂を敵のままにしておかず、こちら側に組み込む。この発想は、東南アジアから太平洋にかけての広い範囲で、形を変えて見つかる。共通の起源があるという説明もできるし、似た条件の社会が似た解を見つけたという説明もできる。この記事で断定はしない。
だが、機能から見ると納得はいく。もし殺した相手の魂を敵のまま放置したら、集落は無数の敵霊に囲まれることになる。それは耐えられない。だから転換する。心理的な処理として、極めて合理的だ。
祟りへの恐怖が強い社会ほど、この転換が必要になる。ここで日本の話にも寄せておきたい。日本には御霊信仰がある。恨みを呑んで死んだ者を祀り上げ、祟る霊を守護神に転換する。菅原道真も平将門もそうだ。
敵の霊を丁重に祀って味方に転じさせるという回路は、台湾の首棚の前でアワの酒を注ぐ手つきと、そう遠くない。日本人が出草を「野蛮」として消費してきた歴史を思うと、この重なりはなかなか居心地が悪い。次に、禁令の実効性について。ここが今回、資料を読んでいて一番手応えのあった部分だ。禁令は、法令で出草を禁じた瞬間に効いたわけではない。
効いたのは三つの物理的な措置だ。銃器の没収、隘勇線による交易の遮断、そして強制移住。この三つが揃って初めて、慣行が止まった。逆に言えば、言葉だけでは止まらなかった。一九〇三年から一九〇八年にかけて隘勇線を七十回も前進させている最中に、人々は夜になると線の下をくぐって出ていったのだ。
移住が決定的だったという点は強調しておきたい。一九二〇年から一九三五年にかけての強制移住は、ガガという規範体系を機能不全にした。ガガは土地と結びついている。祖先が住んだ場所、狩った尾根、祀った岩。それを離れれば、規範を支える具体的な参照点が消える。
首狩りだけでなく、織布も入れ墨も共同所有も一緒に消えたのは、そのためだ。日本の統治者はおそらく、この効果を正確に理解していた。太魯閣戦争のあとの処置――平地への集団移住と、漢人居住区への分散配置――は、社会構造の解体を明確に狙っていたと評価されている。そして反証の話をしておく。この記事全体が依拠している「首狩りは宗教的・社会的な制度だった」という理解には、当然ながら反論がある。
一つは、後期の首狩りの多くは端的な報復と領土紛争であって、儀礼の説明は後づけではないか、という見方だ。洪麗完の研究が示すように、十八世紀から十九世紀にかけての激化は移民の圧力と国家介入の産物だった。だとすると、日本の調査官が二十世紀初頭に記録した「儀礼としての首狩り」は、すでに紛争によって変質しきったあとの姿かもしれない。それを、あたかも古来の伝統として写し取ったことになる。
調査報告書の記述をそのまま「本来の形」と読むのは危うい。もう一つは、逆方向の反論だ。植民地側の記録は、首狩りを実際より頻繁で残虐なものとして描いた可能性が高い。討伐の正当化に使えるからだ。清代の地方志にも同じ傾向がある。
首棚の写真が絵はがきになって内地で売れたという事実は、恐怖の需要があったことを示している。需要があれば供給が過剰になる。実際の頻度がどれくらいだったかは、正直よくわからない。三つ目に、儀礼復興をめぐる反証。ラウンボルが記録したように、復元された首狩り儀礼を地元の人々自身が「偽物」と呼んでいた。
伝統の連続性を主張する語りに対して、当の共同体の内部から異論が出ている。外部の研究者が「これは伝統の復興だ」と持ち上げるのも、「これは補助金目当ての演出だ」と切り捨てるのも、どちらも当事者の頭越しの話になりかねない。四つ目に、霧社事件の解釈をめぐる論争。これは今も割れている。純粋な民族解放闘争として読む立場、伝統的な戦士文化の噴出として読む立場、モーナ・ルダオ個人の地位保全の動機を重視する立場。
花岡一郎・二郎の遺書の真偽も定まっていない。第二霧社事件で警察官が襲撃を唆したという告白の扱いも、研究者によって温度差がある。日本統治の評価そのものと絡んで政治的な話題になりやすく、冷静な議論が難しい領域でもある。さて、書いてきて何度も引っかかったことがある。この慣行を「怖い」と言って消費する構えと、それを「文化だから尊重しよう」と言って抽象化する構えは、どちらも当事者から遠い。
前者は一九〇三年の学術人類館と地続きだし、後者は一九九九年に補助金を得ようとした指導層と地続きだ。どちらの立場からも、殺された人の首は見えない。首を狩られた側にも家族がいた。台湾の場合、狩られたのは平地の原住民であり、漢人の開墾者であり、日本人の官吏や巡査であり、そして同じ山の別の集落の人々である。霧社の運動場で死んだ百三十二人の中には、子どもがいた。
大分で斬首された十二人の警察官にも故郷があった。一方で、太魯閣戦争でどれだけのタロコが死んだのかは、記録すら残っていない。川中島で二百八十二人が二百十人まで減ったとき、それを数えたのは統治する側だった。この非対称は、埋まらない。埋まらないということを書いておくのが、この種の記事の最低限の仕事だと思っている。
最後に、この話がいま持っている生々しさについて。ナガの頭骨の返還交渉は、いま現在進行している。二〇二〇年に展示から下げられ、代表団が訪英し、協議が続いている。二〇二五年には骨董市場に出品されて騒ぎになった。館側は十八か月から数年かかると言っている。
つまり、これは終わった話ではない。今週も誰かが交渉のメールを書いている。台湾では、原住民の遺骨をめぐる問題が、琉球人遺骨の返還訴訟と並行して議論されている。旧帝国大学が収集した人骨を、誰が、どういう手続きで、どこへ返すのか。答えは出ていない。
そして、コニャックの長老たちは高齢だ。八十代半ばの人が六十年前の記憶を語る。あと十年もすれば、実際に首を取った経験のある人間はこの世からいなくなる。フェジン・コニャックが三年かけて記録を取ったのは、そのタイムリミットを知っていたからだ。首狩りは終わった慣行ではあるが、終わった話ではない。
骨はまだガラスケースの中にあり、返還の手続きは動いていて、記憶を持つ人はまだ生きている。禁令が来た日から百年前後しか経っていない。歴史というより、まだ現在の縁のあたりにある。台湾の山奥の祭壇で髑髏を見せられた旅行者が、「私のおじいさんが殺った」と言われて震えたという話に戻る。冗談か本当かわからないと彼は書いた。
だが、あの言い方には冗談と本当のあいだの、独特の距離感がある。誇るでもなく、隠すでもなく、ただそこにあるものとして差し出す。祖父の行為を、他人に説明できる言葉で持っていない世代の言い方だ。その距離感が、この話の全部を要約している気がする。近すぎて説明できず、遠すぎて忘れられない。
そういう過去が、山にはまだ並んでいる。
