新入りが口笛を吹くと、先輩になぐられた
新入りの坑夫が、何も知らずに坑内で口笛を吹いた。古参の坑夫が血相を変えて飛んできて、新入りをひどくどやしつけ、ときには殴りつけたという。理由は単純だ。口笛を吹くと、天井を支えている山の神が油断をして、天井を落としてしまうからだった。
この話は、九州大学の石炭研究資料センターが出した『エネルギー史研究』の十二号に載っている。稲築町、いまの嘉麻市で、昭和五十三年から五十七年にかけて集められた聞き書きだ。公民館の講座に集まった人たちや、稲築高校の郷土部の生徒が、聞き取りに加わっている。先に言っておく。語られているのは、大正期からの話だ。
禁忌は、口笛だけではなかった。道具のセットウとセットウを空打ちすれば、坑内に怪我人が出る。朝ご飯におつゆをかけてはいけないし、犬や猿という言葉も、坑内では口に出さなかった。
空打ちとおつゆには、聞き書きの筆者が理由をつけている。坑内で事故死があると、遺体を台車に乗せて坑外へあげ、セットウの頭をセットウでたたいて「今あがりよる」と合図した。死者の魂が迷わないように、つき添う人は、あがっていく場所も声に出して叫んだ。空打ちが怪我人を呼ぶのは、この合図からの連想だろうと筆者は読む。おつゆも同じで、遺体の湯かんのとき、水に湯を入れる手順に重なるからだ。
ここは筆者の見立てを足したい。死の手順を思わせる音や動作を、生きている者が真似てはいけない。禁忌の入口は、死の手順への連想。
山の神の社は、炭層のまんなかに建っていた
山の神の社は、炭層の中心にあたる場所に置かれた。聞き書きによれば、その神社の真下を掘る日が来たら、それは炭坑の終掘だといわれた。これは筆者の見立てだが、社の下を最後まで掘らない決まりは、神を理由にして掘る順番を縛る約束事だったかもしれない。確かめられる材料は、見つからない。
山の神の中身は、ヤマごとに違った。三井山野鉱が山野と口春にあった頃は、お稲荷さんだった。二月の初午には石段に赤い旗が並び、坑夫の嫁さんたちが参詣者に茶菓をふるまったという。
鴨生と漆生に移ると、英彦山神社と愛媛県大三島の大山祇神社を勧請し、三井田川も似た道をたどる。田川市立図書館の解説によれば、明治33年(1900年)ごろの山の神は、稲荷大明神だった。大正13年(1924年)には、採炭の現場に大山祇神社の神様を、工作の部門に風治八幡宮の神様を招いた。坑口には「山神宮」「大山祇宮」の神号を掲げ、坑内を守る神様として拝んだ。顔ぶれは、時代とともに変わった。
筑豊の炭鉱がこぞって招いた大山津見神は、日本神話では男の神様だ。ところが炭鉱社会では、山の神を女とする考えが多数だった。祭神は男で、信仰の中身は女。この食い違いは、あとで効いてくる。
山の神の祭りは、年に一度の大行事。鴨生では桜のころの休みの日に行われ、前日に役員が英彦山神社でお札を受けてきて、当日は相撲や仮装行列があり、神輿も出た。神輿をかつぐのは、白装束で腰にしめ縄を張った坑夫の青年たちだ。炭坑住宅の中をぐるりと回り、神輿の下をくぐれば災いがないといわれた。
日鉄稲築鉱では、酒樽の鏡が割られて、参詣者にふるまわれたという。聞き書きは、ここに差を見ている。山の神の祭りは会社の主導が目立ち、盆踊りは住宅の人たちが自前で開く行事だった。
昭和15年(1940年)には、大山祇神社が『全国鉱山と大山祇神社』という冊子の第一輯を出している。九州大学の図書館が出した資料紹介によれば、載っている社は全部で73社だ。冊子には、鉱山ごとの祭りの決まりまで並ぶ。入坑と出坑のたびに坑口の御神符を拝み、主婦会は毎月神前に集まって、夫の安全を祈る。そんな具合だ。
山の神は、坑夫のための神であると同時に、会社が安全を祈らせる仕組みの真ん中にもいた。この見方は筆者のものだが、会社が祭りを仕切っていた事実は、聞き書きにはっきり出ている。祭りの主導権は、会社にあった。
作兵衛は、禁忌を絵に描いて残した
禁忌をまとまった形で書き残したのは、筑豊の炭坑夫だった山本作兵衛だ。作兵衛は1892年に生まれ、15歳で山内炭坑の坑夫になった。63歳で位登炭坑が閉山するまで、筑豊の炭坑を十八か所ほど転々としたと、事典は書く。
絵筆を握ったのは、閉山のあとだ。昭和33年(1958年)の5月から、画用紙に墨で炭坑の絵を描き始めた。孫たちに、ヤマの暮らしと仕事と人情を書き残したいと思ったという。
自筆の年譜には、こうある。文章で書けば手っ取り早いが、年がたてば読まれもせず、掃除のときに捨てられるかもしれない。絵なら、ちょっと見ただけでわかるから、それで絵にしたのだという。
2011年5月25日、作兵衛の絵と日記など697点が、日本で初めて世界記憶遺産に登録された。その中に、昭和40年3月の日付を持つ「縁起」という一枚がある。昔のヤマ人は、地下の作業だから縁起を担ぐのをいなめない、という書き出しになっている。
死んだ人の葬式を黒不浄、女の月経を赤不浄といって嫌い、妻が出産しても三日は休む。縁起を担いだのは、死と背中合わせの仕事だったからだと、田川市のページは説明する。そう並べたあとに、作兵衛は番号を振って禁忌を挙げていく。
一つ、坑内で笛を吹いてはならない。作兵衛の書き込みによれば、笛は、非常や変災のときに竹笛を吹き鳴らして知らせた合図だった。サイレンが鳴れば非常なのと同じだという。中でもいちばん嫌われたのが、口笛。
二つ目は拍手、三つ目は頬被り。四つ目は猿で、顔と尻が赤いからではない、と作兵衛は書く。田川市のページによれば、「サル」は「命が去る」に通じる言葉で、坑内では口にしないものだった。
田川市の山本作兵衛コレクションを紹介するページには、作兵衛の記録から拾った十一の禁忌が並ぶ。下駄をはかない、坑内に花を飾らない、夫が入坑している間に、家で炒りものをしない。炒りものは、特に糒や餅のあられが嫌われ、夫が怪我をするといわれたらしい。
坑口を「アナ」とも「マブ」とも呼ばないのは、墓穴につながるからだった。悪夢を見たら、仕事を休む。頭痛や腹痛と言って、仮病を使ってまで休んだ人もいたそうだ。朝にカラスが鳴くのも、煙突の煙が二つに割れるのも、犬殺しがヤマに来るのも嫌われた。
新参の坑夫が縁起を知らずにご飯へみそ汁をかけると、古参に殴られ、蹴られた。みそ汁をかければ、味噌がつく、ケチがつくに通じるからだ。コレクションには、「山神」と「ヤマの守護神」と題した絵もあるが、田川市のページは、解説文をまだ作成中としている。
ここで年代に注意してほしい。作兵衛が描いたのは、主に明治から昭和の戦前までのヤマだ。それを、筑豊の炭坑が次々に閉山していく時期に、六十代の半ばから七十代になった作兵衛が、思い出して書いている。
笛は合図で、拍手は割れる音で、頬被りは耳をふさいだ
禁忌の理由を、作兵衛は二通りに書き分けている。神の理由と、現場の理由だ。ここからが面白いところなんだよな。
一つは、神の理由だ。田川市のページによれば、山の守護神の大山祇命は笛が好きで、その音に心をとらわれると隙ができ、事故につながる。拍手をすれば、神様が柏手と間違えて「何の祈願だろう」と天井を支える手を緩め、落盤が起きる。
もう一つは、現場の理由だ。柱の上にさしてあるカミサシは、重い圧力がかかると割れる。作兵衛の書き込みでは、拍手をすると、その割れる音が聞こえなくなる。パチパチと響くからでもある、とも添えている。
頬被りは、両耳をふさぐからだめだった。坑内は薄暗く、目よりも耳のほうが危険を先に察するから、重い地圧で柱やカミサシが裂ける前兆を、聞き逃してはいけない。頬被りには、もう一つ理由が添えられている。坑内で死亡事故が起きたとき、死者の魂を残さないように、名前を呼びながら遺体を地上へあげた。その声が聞こえにくくなる被り方は、いけないとされた。
稲築の聞き書きにも、同じ線が出てくる。坑内でほおかぶりは禁止だが、はち巻きはかまわないという。額に巻くだけのはち巻きなら、耳は出ている。理屈は、きれいに通る。
聞き書きの筆者は、こうも記す。「他人のいうことは、よく聞け」という教えがあった。炭坑は事故の多い所だから、先輩や上役など経験者の言葉には重みがあり、人の言ったことは親の言葉として聞け、と教えられた。
型を整理してみる。笛は、非常の合図と聞き分けられなくなるからだめで、拍手は柱の割れる音を紛らわせ、頬被りは前兆と呼び声を遮る。三つとも、耳の禁忌だ。
下駄も、傾斜の多い坑内では歩きにくく、転んで怪我をするからだめだった。作兵衛は、この理由をはっきり実務で書いている。下駄に、神様は出てこない。
筆者の見立てでは、禁忌の中心は、耳を守ることだった。新入りには「山の神が怒る」のほうが通りがいいし、理由を長々と説くより、殴って覚えさせるほうが早い現場だったのだろう。神の理由には、もう一つ使い道があった。守らせる側の言葉が、一言で済むのだ。「天井が落ちるぞ」と言う代わりに、「山の神が怒る」と言えば足りる。
この読みを補う材料が、別の炭鉱にある。三池炭鉱の四山鉱は、昭和50年代に、山はねに似た現象に悩まされた。激しい音とともに、切羽の石炭が一瞬で壊れて飛び散る現象だ。
技術者の報告によれば、三池ではその音だけを「山鳴り」と呼んでいた。会社は警戒区域を決め、山鳴りの頻度と大きさと位置を記録して、前兆の把握に使った。坑夫が耳で聞いていた山の音は、のちに会社の保安の手順に入っていく。笛と拍手と頬被りの禁忌は、その手前にあった経験則の姿かもしれない。
山の神は女だから、女は坑に入れない――はずだった
山の神は女だ。だから女が坑に入れば、山の神が嫉妬して山が荒れる。そう聞くと、炭坑にも女人禁制があったと思うだろう。
田川市立図書館の解説は、これを退けている。女性の入坑禁止など、山の神にかかわるタブーの一部は、炭鉱では例外だった。筑豊の炭鉱は、女坑夫がいなければ石炭を掘り出せず、運び出せなかったからだ。
作兵衛の絵にも、女の坑夫は何度も出てくる。男と女が二人一組になって、傾いた炭層を人力で掘る姿は、田川市の解説でも、筑豊の炭坑の典型として紹介されている。筑豊の坑内は、男だけの場所ではなかった。
禁忌がなかったわけではない。作兵衛は、女の月経を赤不浄として嫌ったと書くが、聞き書きには、逆の話が出てくる。坑内で子が生まれると、男女を問わず祝福された。
坑内は事故で死ぬことの多い場所なのに、増えてあがるとは縁起がいい、と喜ばれたのだ。同じ炭坑社会の中で、出産は忌まれもし、祝われもした。禁忌は、一枚岩の掟ではない。ヤマごと、時代ごとに、ゆるむこともあれば、締まることもある。
女の坑内労働を止めたのは、神ではなく法令だった。昭和3年(1928年)に鉱夫労役扶助規則が改正され、女子の深夜業と坑内労働が原則として禁じられた。実施は猶予を置いて、1933年(昭和8年)9月1日からだ。
稲築の聞き書きは、禁止令が出たのを昭和七年と記憶している。改正の年、実施の年、聞き取りの記憶。三つの年が、少しずつずれているわけだ。
禁止の理由に、女神の嫉妬は出てこない。炭鉱史の研究によれば、三井や三菱など大手の炭鉱は、機械化と合理化を進めるために、女子の坑内労働を止めたかった。薄い炭層や残炭の採掘に限っては、中小炭鉱の事情を踏まえて、例外が認められる。戦時中に労働力が足りなくなると、昭和14年(1939年)の厚生省令で、女子の坑内就業は一定の条件つきで再び認められた。聞き書きにも、特別に入坑する人がいたという記述がある。
これは筆者の見立てだ。山の神の嫉妬は、女を締め出す理屈として、ときに語られたのだろう。けれど筑豊では、人手が要るあいだ、禁忌のほうが曲がり、神様の都合より坑内の労働力が先に立った。
ちなみに、トンネル工事の現場には、女が入ると山の神が嫉妬して山が崩れる、という言い伝えが残る。妻が出産した作業員は、一週間坑内に入らない決まりもあった。同じ山の神でも、守られ方は現場の事情で変わる。
火傷の男のもとへ、医者と見舞客が大勢で来た
山の神が見張るのは、坑内の天井までのはずだった。ところが炭坑には、天井の外側の話も多い。作兵衛の絵にも、その一枚、『ヤマと狐』がある。
昭和39年から42年ごろの作だ。学会の発表要旨によれば、明治33年に麻生の上三緒炭坑でガス爆発があり、負傷した男が自宅で療養していた。絵が描くのは、その療養中に起きた「大珍事」だという。
その家に、夜中、突然、大勢の見舞客が訪れた。医者が二人付き添い、家族は看病疲れで寝込んでいたという。その間に、医者が男の包帯を取り、治療を始めた。夜が明けたときには、見舞客は一人もいなかった。残されたのは、全身の皮を剥がれて息絶えた男。
作兵衛は、絵の詞書にこう書いている。こんな怪奇な事件が起きるとは、ちょっと眉唾ものだが、実際にあった事だから致し方がない。狐は火傷の皮膚や、疱瘡のかさぶたを好むと言う、と。眉唾だと書きながら実際にあったと言い切る、この食い違いが、作兵衛の記録の味だと思う。
田川市のページには、ほかの狐の話も紹介されている。毎晩のように火事が起きるので調べると、吊るしたランプがひとりでに落ち、こぼれた油に引火していた。占ってもらうと、坑を開くときに子狐の巣穴を埋めた、親狐の恨みだという。稲荷大明神としてまつったら、おさまったそうだ。
狸の話もある。山あいの小さなヤマの坑内には狸がいて、午前0時を過ぎると、しっぽで石壁をたたいた。ツルハシのような金属の余韻がなく、ふすまを平手でたたくような音だったという。
深夜の坑内に一人でいる怖さは、聞き書きにも出てくる。戦後の新山野鉱には、三番方の夜中は作業を休む無人の時間帯があり、その間に電気係が一人で入坑して修理をした。カンテラの火が消えると、鼻をつままれてもわからない真っ暗闇になる。地圧で坑木が折れ、土が落ちる音がする。このあたりで事故死があったなあ、と恐怖におそわれることもあったという。
火事と稲荷。火傷と狐。思えば、三井田川の山の神も、三井山野の山の神も、最初はお稲荷さんだった。
これは筆者の見立てだ。火や火傷のように、天井を支える山の神の手が届かない災いには、別の神様や獣が割り当てられたのかもしれない。確かな出どころはないので、読み物としての推測にとどめる。
山の神が怒った姿は、「非常」と呼ばれた
田川市立図書館の解説には、山の神のもう一つの顔が書かれている。山の神は、荒々しい怒り神の姿に変わることがあった。それが炭鉱災害で、当時の言葉では「非常」と呼んだ。
作兵衛が笛の禁忌に書いた「非常」と同じ言葉が、ここにも出てくる。竹笛が知らせた合図も、サイレンが告げたものも、この言葉に通じている。筑豊の災害の数を、作兵衛の記録画を紹介するページが挙げている。炭鉱災害の犠牲者は、全国で約5万人、筑豊では約2万人と推定され、死者が100人以上の重大災害として、ページは六件を数える。
明治32年に糸田町の豊国炭鉱で215人、同40年に同じ豊国で365人が亡くなった。同じ40年には宮田町の貝島大之浦で259人、大正3年には方城町の三菱方城で686人、大正6年には貝島桐野で369人。昭和40年には、稲築町の三井山野で237人が亡くなった。ページは、どれもガス爆発によるものだと書く。
数字には食い違いもある。明治32年の豊国炭鉱は、田川市や糸田町の資料では210人、事典や作兵衛のページでは215人だ。どちらが正しいかは、確かめられなかった。
豊国の原因は、裸火のカンテラからガスに引火したことだと、田川市の解説は書く。この事故を教訓に、火を囲った安全灯で、ガスを検定するようになった。作兵衛は、その説明を絵に残している。
戦後最悪の事故は、1963年11月9日の三井三池炭鉱三川坑だ。炭車の連結が外れて暴走し、坑道に炭じんが舞って、火花が引火したとみられる。坑内にいた約1400人のうち458人が亡くなり、一酸化炭素の中毒患者は839人に上った。
爆死は20人で、残りは一酸化炭素による中毒死だった。患者を診た熊本大学の医師たちは、炭じんを常に取り除くか、水や灰で舞い上がりを防げば、爆発は避けられたと書く。それが炭鉱運営の常識だったと、報告は続ける。
昭和40年6月1日、山野炭鉱のガス爆発。発破で噴き出したメタンガスに引火したと、報道は伝える。入坑していた552人のうち237人が亡くなり、死者の約9割は一酸化炭素中毒だった。
事典は、会社がガスの自動警報装置を設けていなかったことや、ガスを坑外へ出す措置を怠ったことが批判されたと書く。遺族の補償を求める裁判は、聞き書きでは昭和57年1月に和解、事典では1989年までに和解とある。どちらの年が正しいのか、確かめられなかった。
作兵衛の「縁起」は、昭和40年3月の日付だった。山野炭鉱の爆発は、それから数か月あとの6月1日だ。日付が近いだけで、結びつける材料はない。
筆者の見立てを書く。山の神の怒りと呼ばれた災害は、記録の上では、人の手の届く話になる。裸火のカンテラに、炭じんの処理に、ガスの警報。禁忌は坑夫一人ひとりの振る舞いを縛ったが、会社の設備までは縛れなかった。
閉山の日、御神体の石炭は大三島へ帰っていった
炭鉱が閉じると、山の神は帰っていった。田川市立図書館の解説は、ほとんどの炭鉱で、大山祇神が四国へ帰ったと書く。三井田川は昭和44年(1969年)に閉山し、それぞれの御魂をお返しする還御祭を営んだ。
稲築の聞き書きに、漆生の話がある。漆生鉱業所の労働組合長だった人たちが、大三島の大山祇神社へ御神体を返しに行った。その御神体は、石炭。石炭は、大山祇神社の海事資料館で、全国の鉱石標本の中に飾られ、漆生鉱業所の名票がついていると、聞き書きは記す。1983年時点の記述だ。
社殿が残らなかった山の神もある。漆生は、社殿もない。日鉄稲築鉱の山の神は、丘の上に石祠が残るだけで、草木に覆われて、注目する人もないという。
鴨生の山の神は、石祠と鳥居がまだある。ただし御神体は、返されたあとだ。事典によれば、貝島炭鉱の大之浦神社は、閉山後に筑豊の複数の山ノ神を統合して、天照神社に合祀された。宮若市の磯光にある神社だ。
熊本県荒尾市の三池炭鉱旧万田坑には、大正のなかばの山ノ神祭祀施設が残り、石祠と基壇、石灯籠二基、煉瓦造りの囲いが並ぶ。文化遺産オンラインによれば、1998年5月1日に重要文化財に指定されている。筑豊の火は、順に消えていく。貝島炭鉱の大之浦は、1973年11月28日に操業を止め、翌日、従業員516人全員を解雇して、筑豊の坑内掘りに幕を下ろした。
最後に残った貝島の露天掘りも、1976年8月に閉山し、筑豊からは炭鉱が完全になくなった。三池炭鉱はそれより長く持ち、1997年に閉山している。田川市石炭・歴史博物館には、山の神の祭壇と、英彦山神社の「産業安全御守護」の札が展示されている。
山野炭鉱は1973年に閉山している。事故の翌年、会社が慰霊碑を建てたが、犠牲者の名を刻んだ板はなかった。名前のない碑は、丘の上に長く立ち続けている。
2026年3月の下旬、その慰霊碑の背に、237人全員の氏名を刻んだ金属の刻銘板が据えられた。縦45センチ、横170センチ。地元の行政区が市に要望を重ね、約60年かかって実現した。
5月31日の慰霊祭には、遺族ら約80人が集まった。20年以上、行われていなかった慰霊祭だという。父を亡くした参列者は、挨拶でこう話した。ここに来るたびに、身内や知人の名前を見つけ、感慨にふけることでしょう、と。
