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石の門は、女の一生を彫って封じた――中国・貞節牌坊と節婦表彰、四十八万件の顕彰が村の入口に残したもの

村の入口に、石の門が七つ並んでいる。安徽省の南部、黄山市歙県のトウエツ村という集落の東の道に、青灰色をした石の門が半円を描くように立っている。その光景を一度見ると、しばらく忘れられなくなる。門といっても扉はない。柱が四本、あるいは二本立っていて、その上に横木が渡され、さらにその上に屋根のような部分が乗っている。

くぐろうと思えばくぐれるが、くぐった先には何もない。

田んぼが広がっているだけだ。

周囲に高い建物がないので、遠くから眺めると七つの石の門が畑から生えているように見える。

この七基は、明代に三基、清代に四基が建てられたもので、全部が鮑という一族のために立てられている。並び順には意味があって、真ん中に「義」の坊を置く。そこから両端に向かって「忠」「孝」「節」「義」の順序で振り分けられているという。石材は地元産の硬い青石で、釘も鉄の鎹も使っていない。石と石を組んで、それだけで数百年倒れずに立ち続けている。

梁の部分には牡丹や瑞雲や獅子や鶴が浮き彫りにされる。いちばん上の板には「聖旨」あるいは「恩栄」あるいは「御制」の二文字が嵌め込まれている。

この二文字が、この記事の核心にあたる。この二文字は、皇帝がこの門の建立を許したという証明であり、それがない石の門はただの石の門だ。そして七基のうち二基は、女性のために立てられた「節孝坊」――つまり、夫に死なれたあと再婚せずに一生を終えた女に対して、国家が正式に与えた記念碑なんだよな。石は褒美であり、同時に、その女がどう生きるべきだったかを彫り込んだ判決文でもあった。

石でできた門は、どこから来て、何を意味していたのか

牌坊の原型は「衡門」と呼ばれる、柱二本に横木一本を渡しただけの最も原始的な門だとされる。それが華表や烏頭門、坊門といった形式と混ざり合いながら宋代に完成形へ向かい、明清に至って石造の巨大建築へと膨れ上がった。徽州で本格的な牌坊が現れるのは宋代からで、歙県の槐塘村には南宋の徳祐元年に建てられた「丞相状元坊」が今も立っている。

四本の柱に三つの間口、三層の屋根を持つ形式で、明清の修理を何度も受けながら村の入口に残った。

牌坊は用途で分けると、功名坊、徳政坊、そして忠孝節義坊に大別できる。科挙に合格した者、地方に善政を敷いた官僚、親に尽くした孝子、そして守節した寡婦。この四種類が石の門を得る資格を持っていた。上部に嵌る扁額の文字にも序列があって、皇帝が自ら文を下したものが「御制」、国庫から銀を出して建てさせたものが「恩栄」、家が自費で建てて許可だけを受けたものが「聖旨」と、格が段階的に落ちていく。

地元の人間はその二文字を見れば、その家がどのくらい皇帝に近かったのかを一目で判断できた。

構造を見ていくと、この建築の異様さがよく分かる。歙県の県城に立つ許国石坊は、万暦十二年、西暦でいえば一五八四年の十月に建てられたもので、通常は四本である柱が八本ある。平面が四角く閉じていて、南北に十一メートル五十四、東西に六メートル七十七、高さ十一メートル四十。前後に四柱三間三楼の坊が二つ、左右に二柱三間三楼の坊が一つずつ、合わせて四面八柱が梁で連結されている。

柱は一本が五十センチ角で七メートル以上、梁や欄板に使われた石は一塊で四、五トンあるという。これを空中で継ぎ手を合わせて組み上げたのだから、当時の石工の技術がどれほどのものだったかが分かる。柱の根元の台座には獅子が十二頭彫られていて、大きな獅子が小さな獅子をあやしている姿のものまである。

台座の側面には想像上の獣であるカイチが刻まれ、南面には巨龍が、東面には竜門を登る魚が、北面には雲間を舞う鶴が浮き彫りにされている。扁額の「大学士」「先学後臣」「上台元老」といった大字は、いずれも明の書家である董其昌の筆と伝えられる。

これは科挙と官職のための牌坊で、女性のためのものではない。だが同じ技術、同じ材料、同じ皇帝の許可という手続きが、寡婦のための門にもそのまま適用されたという事実が重要だ。国家が石でもって顕彰するという行為の格式は、大学士も寡婦も同じ回路を通っていた。

「節婦」になるための条件は、想像よりはるかに細かく決まっていた

石の門を得るには、まず制度上の「節婦」でなければならない。そしてその定義は、驚くほど数値化されていた。

原型は元代にある。モンゴル王朝は漢人の士大夫層に官職の道を閉ざした。そのため、旌表という顕彰制度が、士大夫の家が重い賦役から逃れるための数少ない抜け道になった。申請が殺到したので、朝廷は年齢の線引きを導入して数を絞りにかかったのだ。この防波堤として作られた基準が、そのまま次の王朝に引き継がれる。

明の洪武元年、太祖は詔を下した。民間の寡婦で、三十歳より前に夫を亡くして節を守り、五十歳を過ぎても改節しなかった者は、門閭を旌表し、その家の差役を免除する。この「三十歳と五十歳」という二つの数字が、以後五百年以上にわたって中国の女性の人生を区切る線になった。しかも明代の規定は、すでに命婦――夫や息子の功績によって朝廷から位階を受けた女性――を旌表の対象から外していた。

つまり国家の顕彰は原則として庶民のためのものとされ、これが表彰を「誰でも狙える賞」に変えてしまう。この庶民化こそが、後の爆発の下地になったんだよな。

清はこの枠組みを受け継いだ上で、条件をひたすら細分化していった。順治九年には、旌表された節孝の家には戸部の庫から銀三十両を支給し、自分で坊を建てさせるという規定ができる。順治十四年には、すでに誥封を受けた婦人は重ねて旌表しないと定められた。康熙三十五年には、三十歳以内に守節を始めて五十歳に至った者は即座に旌表する。

五十歳を過ぎてから申請してきた場合は遅延の理由を礼部に報告せよ、という手続きが加わる。

康熙五十一年には、ぞっとするほど具体的な但し書きが入った。婚約しただけでまだ嫁いでいない女が、婚約者の訃報を聞いて髪を切り、喪服を着る。そのうえで夫の墓を三年守り、従容として縊死した場合。これは通常の軽々しい自殺とは異なるものとして、旌表を認めるという。康熙五十四年には、もう一つ加わった。

子を抱えて守節していた寡婦が、親族に再婚を強要されて首を吊った場合。これも激烈な軽生ではないので、旌表してよいとされた。

雍正元年には、守節十五年以上で四十歳を過ぎて死んだ者も対象に加わる。乾隆元年には、こういう例外が作られた。誥封を受けていても、三十歳以内から守節して子を育て上げた場合。その子が出世したことで初めて封を受けたのなら、旌表を認める。清朝後期にはさらに緩んでいき、必要な守節年数は雍正元年に十五年、道光四年に十年、同治十年には六年まで下がったとされる。

緩めば緩むほど、申請できる者は増える。増えれば石の門も増える。

申請から石が立つまでに、いくつの机を通ったのか

ここが制度の肝で、女本人がどう思っていたかは、この手続きのどこにも登場しない。

まず、申請を出すのは本人ではない。夫の宗族か、地元の郷紳が「うちにはこういう女がいる」と呈報する。受け取った県の知事は事実関係を確認し、行実を詳細に記録した書面を作って上級に送る。府を経て、按察使や巡撫、学政といった省レベルの監察・教育官庁が覆審する。

明代の初期は礼部が審査の中心で、各級の政府に何度も覆勘させる仕組みだった。だが、あまりに煩雑だったため嘉靖十年に改訂され、覆勘の規定が撤廃されて、地方の巡撫や按察使が実質的な審査の中心に移った。礼部は上がってきた名簿を朝廷に奏報するだけになる。清代には各省が年末にまとめて上奏する「歳終彙題」の形式が定着し、礼部が名簿を整えて皇帝の裁可を仰いだ。

裁可が下りると、戸部の庫から銀三十両が出る。この三十両で坊を建てろ、というのが建前だ。ただし現実には三十両で立派な石坊が建つはずもなく、実際にはほとんどの費用を一族が負担した。トウエツ村の七基についても、同じ慣行があったと伝わる。朝廷が全額を出したのは功績が最大級の場合だけ。

次いで折半で、それ以下は皇帝の許可を得た上で自費だった。

つまり銀三十両は補助金というより、皇帝の許可そのものを可視化するための象徴的な支出だった。

石の門を建てないという選択肢もあったのだ。雍正二年、皇帝は上諭を下している。旌表して銀を与えて坊を建てさせても、民間はこれを形式的な文書としか見なさず建てないままにしている。だから、時が経てば結局は埋もれてしまって民が見習うところがない。だから学宮の内に忠義祠を建て、石碑を一基立てよ。

学宮の近くに土地を買って節孝祠を建て、大きな牌坊を一基立てよ。

その石碑と牌坊には忠孝節義の者の姓名をことごとく記し、すでに亡くなっている者は祠の中に位牌を置き、春と秋に祭祀せよ。これで幽かな光を明らかにし、永久に垂れ示すのだ、と。

この一手が制度の性格を変えた。個人の門を建てる余裕のない家でも、県の節孝祠の門柱に名前だけは刻まれる。祭祀は地方官が主催し、帛一、羊一、豕一、爵三、尊一を供えて礼を行う。清の礼部の規定では、対象は二通りだった。三十歳から五十歳まで守節した節婦と、四十歳を過ぎて死んだが守節が十五年以上に達している者である。

この者たちには朝廷から四字の語を賜ってその門を表し、節孝祠の中に姓名を石に刻む。

その中でも特別に苦しい行いをした者には別に銀三十両を賜って里の門に坊を建てる、とされていた。名前が石に刻まれる階層と、独立した門を建ててもらえる階層とに、はっきり格差があったわけだ。台湾に残る光緒九年の石額の例を見ても、各地から報告される節孝の人数は多かったが。実際に坊を建ててもらえた者はごく僅かだったと記録されている。

数字を並べると、この制度の異常さが立ち上がってくる

正史の列女伝に載る人数の推移が、まず分かりやすい。二十四史のうち列女伝を持つのは十二史で、合計しても九百人余りにすぎない。宋史より前の各史の列女伝は、いずれも百人に届いていない。ところが元史の列女伝は百八十七人を収め、うち百六十一人が貞節や殉節の女性だ。明史の列女伝になると三巻を費やして二百六十五人前後、清史稿の列女伝は四巻に膨れ上がる。

清史稿の序文自身が「清制、礼部は孝婦・孝女・烈婦・烈女・守節・殉節・未婚守節の旌表を掌り、歳ごとに会して上る、都べて数千人」と書いている。年に数千人だ。史書に載るのは、そこから選ばれたごく一部にすぎない。

旌表された実数の推計はさらに重い。清実録をもとにした集計によると、順治九年から十八年、西暦一六五二年から一六六一年までの十年で旌表された節烈の女性は五百七十八人。康熙朝六十一年間で四千八百二十二人。雍正朝一代で九千九百九十五人だ。そして清朝の開国から一八七三年までの累計は、四十八万千百七人に達するという。

二百三十年ほどの間に四十八万件。単純に割れば年に二千件を超える。

婚約者が死んだだけでまだ嫁いでもいない「貞女」に限っても、明代を通じて旌表されたのは百五十六人だったのに対し、一六四四年から一八五〇年の二百年ほどで四千三百九十四人が旌表された。年平均で二十一人ほど。当時の人口が四億に達していたことを考えれば、旌表された者は氷山の一角で、実際に婚約者のために一生独身を通した女性はその何十倍もいたと考えられている。

地域差はもっと極端だ。徽州は程朱の理学の本拠地であり、朱熹の祖籍地とされる休寧県を含む一府六県からなる。ここは全国でも突出して節烈が多かった地域だ。明清の三百年ほどの間に、歙県一県だけで千九百五十二人の女性が皇帝の詔によって旌表されている。節孝・節烈・孝貞・貞烈の四つを合わせた数字である。

しかも表彰されなかった者はその十数倍いたと推定されている。休寧県に至っては、古今図書集成の集計で二千二百人を超える。

三百年前の学者が「徽州は節烈が最も多く、一つの県で他省の半分に当たる」と書き残しているのは誇張ではなかった。

反対に、四川の一部の県志を見ると、明代の貞節の章に載るのは六人、清代でも四人といった数字にとどまる。同じ制度が全国に敷かれていても、実際に女を石の門に押し込む圧力の強さは、地域によってまるで違っていた。

時代差も同じで、明代前期の徽州府志には弘治年間に百五十二人の貞節烈女が記録されている程度だ。だが、清の道光年間に編まれた徽州府志の列女伝は、節婦・節烈・貞女・貞烈の四類に細かく分類する。旌表を受けた者、官の褒賞を受けた者。さらに若い頃から数十年守り通したが表彰されなかった者まで。すべて分類して並べるという編集方針に変わっている。

書式が整備されるほど、記述は「某氏の妻、某氏。

夫が死に、子を育て、姑に仕え、何歳で没す」という定型に押し固められ、一人ひとりの顔が消えていった。徽州の節孝坊の碑文にも、数が多すぎて名前を刻まず人数だけを記したものがあるという。

一族と村は、なぜこの石を欲しがったのか

いちばん直接的な理由は税と役だ。隋代にはすでに「孝子・順孫・義夫・節婦は並びに課役を免ず」という規定があり、旌表を受けた家は賦税と労役から外された。明代でも旌表と同時に「除免本家差役」が明記されている。前近代の農村において、一家の男手が徭役に取られるかどうかは死活問題だった。元代に旌表申請が殺到したのも、この免除目当てだったことがはっきり分かっている。

次に、家格だ。牌坊は皇帝の許可がなければ絶対に建てられない。金を積めば建つというものではない。したがって村の入口に立つ石の門は、その一族が国家に認知されているという、他人には模倣できない資本になる。科挙に受かるのは難しい。

軍功を立てるのはもっと難しい。しかし節孝坊は、家の女が再婚しないで長生きしさえすれば手に入る。功名坊や功績坊に比べて、圧倒的に「安い」名誉だった。

だから節孝坊を欲しがる家が増える。これが構造の核心にある。

さらに、財産の問題がある。元代にモンゴルの婚姻制度が漢人社会に持ち込まれたことで、寡婦の権利は大きく削られた。再婚すれば持参財を持ち出せず、夫の遺産も相続できない。この制度は明清におおむね引き継がれ、結果として「守節する」ことが寡婦本人にとっても合理的な選択になった、という説が経済史の側から出されている。逆に夫の一族の側から見れば、寡婦が再婚して出て行けば財産が外に流れる。

守節してくれれば財産は家に残り、その上おまけに石の門と免税がついてくる。利害が完全に一致してしまう。

徽州のように商人を大量に送り出す地域では、事情がさらに屈折する。山がちで耕地が乏しく、収穫は口糧の三分の一ほどにしかならなかったから、男たちは十代で家を出て何年も帰らない。妻は嫁いですぐ実質的な独居になり、夫が客死すればそのまま寡婦になる。男が長期不在の共同体では、女性の行動を統制する必要が実務的に高まる。

宗族の祠堂と族規、そこに理学の権威が加わって、女を石の門に導く回路が地域文化として完成していった。

そして最後に、この制度には決定的な欠落がある。申請の主体が本人ではないという点だ。呈報するのは宗族か郷紳、調べるのは県の役人、審査するのは省と礼部、裁可するのは皇帝。この列のどこにも、当の女性が自分の意思を述べる机はない。彼女は生きているうちから「節婦」という範疇に分類され、記録され、集計され、やがて石になる。

清代の恩詔がわざわざ「直省の地方では有力の家は上まで届くが、郷村の貧しい者は埋もれて聞こえてこない、まことに憐れむべきだ」と述べる。督撫や学臣に隅々まで採訪させたのも、要するに国家の側が「もっと拾え」と号令をかけていたということだ。

記録に残る、名前のある人たち

制度の話ばかりしていると人間が消える。地方志と筆記に残った個別の事例を、いくつか読んでいく。

トウエツ村に立つ二基の節孝坊のうち、清の乾隆年間に建てられた一基は、鮑文淵という男の後妻である呉氏のためのものだ。県志によれば、呉氏は江蘇の嘉定の出身で、二十二歳でこの村に嫁いできた。当時、夫の妹が病気だったので昼夜看護した。二十九歳のときに夫が死ぬ。彼女自身には子がなく、先妻の遺児である鮑元標を実子同然に育て上げた。

元標は後に清代の名の知れた書家になっている。

年老いてからは家財を傾けて亡夫の九世代前までの祖墓を修復し、夫と、族内で埋葬する金のない者の遺骨を葬った。病んだ姑にも最後まで仕え、六十歳で世を去った。地方官はその行いに動かされ、継妻には坊を建てさせないという慣例を破って、他と同じ規模の牌坊を建てることを認めたのだ。額には「節勁三冬」「脈存一線」と刻まれている。

ただし、ここに一つ仕掛けがある。額の「節」という字の草冠と、その下の部分とが、わざと位置をずらして彫られているのだ。継室は原配とは決して対等になれない、ということを、石に彫り込むことで永久に示したのだと伝えられている。六十年近くを他人の子のために使った女性の記念碑に、文字の彫り方によって等級が刻み込まれている。石は褒めながら、同時に序列を宣告していた。

もう一基、乾隆年間に建てられた鮑文齢の妻である汪氏の坊には「矢貞全孝」「立節完孤」と刻まれている。県志によれば汪氏は二十六歳で寡婦になり、孤児となった息子を育て上げて、歙県で知られる医者に仕立てた。寡婦が守節して後継ぎを育て上げることは、宗法社会において最大の孝行とされた。血統によって維持される組織なのだから当然といえば当然だが、この論理では、女は血統を接続する装置として評価されている。

汪氏が八十歳という高齢に達したところで、族人が旌表を請い、この坊が建った。守節を始めてから五十四年後だ。石が立った時点で、彼女の人生はほぼ終わっている。

はるかに凄惨なのは、福建で行われていたという慣行だ。清末の施鴻保が書いた『ビン雑記』という書物に、こういう記述がある。福州の旧俗では、家に貞女や節婦がいることを尊しとする。そのため愚かな民の間に「搭台死節」という事が起こる。すでに婚約している女で、不幸にして夫が死んだ者があると、父母や兄弟がみな自尽を迫る。

前もって人の集まる場所に高い台を組み、そこに縄や帛を吊るし、当日は祭壇を設けて女を扶けて台に上らせる。父母以外の者はみな台の下に拝し、女が縊り終わるのを待って、鼓と笛で遺体を迎えて帰り、納棺する。

読み返すたびに背筋が寒くなるのは、この記述に登場する女性たちが、公開の舞台の上で死ぬことを求められている点だ。死ぬだけでは足りない。村中に見られながら死ななければ、家の名誉にならない。福州の柯氏という女性は、夫の林士章が死んだのち、族の親戚が木を組んで台を設えた。その上で近隣の見物人に囲まれながら首を吊ったと、地元の史料にある。

ビン県の斉氏という女性は、夫が死んで自ら殉じようとしたところ、父母から「日を選んで棚を結べ」と諭された。良い日を選び、台を組んでから死ね、という意味だ。斉氏はこれに反駁して「夫に殉じるのは本分のことです、名を得るためではありません」と言ったと記録されている。この一言は、制度の側から要求される死と、本人の内面から出てくる死が、当事者の中でも既に別物として意識されていたことを示している。

従わない女には罵倒が浴びせられ、鞭で打たれることさえあったという。そして死んだあと、家族は官府に表彰を申請し、自らを礼教の家と称した。

止めようとした役人たちの記録

この制度が恐ろしいのは、国家が単純にこれを推進していたわけではない、という点にある。むしろ皇帝は、繰り返し止めようとしていた。それでも止まらなかった。

康熙二十七年、皇帝は上諭を下している。夫が死んだあと後を追って死ぬことは、これまで何度も禁止してきた。しかし近ごろ京城および各省で後追いをする者がなお多い。人命は関わるところが重大であり、死んでしまったことすでに憐れむべきである。命の長短は自然に任せるべきで、どうして妄りに身体を捨ててよいものか。

まして軽々しく命を捨てて後を追うのは常道に外れている。その上さらに褒めたたえたりすれば、いよいよ多くの者が身を損なうことになろう。今後、夫が死んで後を追った者を旌表する例は停止せよ。王より以下、庶民の婦人に至るまで、後追いは永く厳禁とする。どうしても身を殉じたいという者があれば、礼部および管轄の官に申し出て、上奏して裁可を待て、と。

死にたければ役所に届け出て許可を待て、という規定は現代の感覚では倒錯しているが、当時の文脈では明確なブレーキだった。雍正年間には、さらに踏み込んで「逼迫等の情によって遽かに殉節した者は、例により旌を許さない」という条項が定められている。つまり一族に迫られて死んだと判明した場合は、表彰しない。表彰しないと分かれば、迫る動機が消えるはずだ、という設計だ。

ところが、この禁令は完全には守られなかった。同治年間の記録には、こういう趣旨のやりとりが残っている。聖諭は風化を維持する中に民の命を惜しむ意を込めたもわけだ。内閣も例に従って「旌表するに及ばず」の付箋をつけて下げ渡した。しかし事後に思い返すと、その烈婦たちが夫に身を殉じ、生を捨てて義を取ったことは、やはり人が容易にできることではない。

各省が年末にまとめて上奏してくる数も三十人から二十人程度にすぎず、軽々しく命を捨てる風潮を開くほどではあるまい。旌表を与えれば薄い風俗を激励し、綱常を励ますに足りる。よって前年に礼部がまとめて上奏した各省の烈婦、夫を亡くして殉節した彭氏ら三十七人。この者たちについては、やはり一律に旌表を認める。そうして貞なる魂を慰めることとする。

禁じておいて、追認する。この揺れが、清朝二百六十年間ずっと続いていた。

現場の役人が個別に踏み込んだ記録もある。清代の福建の事例に、林烈女と呼ばれる曾氏という女性の話が伝わっている。夫の邦基が死ぬと、曾氏は二つの棺を作らせ、夫を納めたあと何度も首を吊ろうとしたが、そのたびに家人に助けられた。舅の林朝漢が説得しても聞かないので、県令に訴え出た。県令は、曾氏は夫に代わって孝を行うべきであるとの判断を下し、林家に対して速やかに邦基の後継ぎを立てるよう命じている。

舅は県から下された判詞を持ち帰り、もう死ぬなと諭した。曾氏は「舅にはほかにも息子と嫁がいます、供養に何の心配がありましょう」と答え、再び金を呑んで自殺を図り、また助けられた。舅は後日の責任を負わされることを恐れて、重ねて県に届け出たわけだ。それでも曾氏は舅が死んだあと、断固として絶食して死んだ。

県令は死なせないために「孝と節を両立させる」という理屈まで用意した。家族は責任を逃れるために役所に駆け込み、それでも一人の女性の死は止まらなかった。制度が個人の内側にまで入り込んでしまったあとでは、行政の手続きはもはやブレーキとして働かない。

地方官が加害の側を摘発した事例もある。乾隆六年から七年にかけて、天津で起きた殷氏の事件だ。県志の記述によれば、殷氏は良家の娘だったが、父を早くに亡くし、兄は極貧で外へ働きに出ている。母も貧しさゆえに命を絶っていた。仲介の口車に乗せられて十六歳でケイ文貴の後妻となった。

だが、姑の趙氏はもと娼婦で、長男の嫁にも客を取らせていた人物であり、殷氏にも同じことを強いたわけだ。

殷氏は従わない。

姑は繰り返し打ち据えたが、志はますます固くなる。夫と姑は共謀して、殷氏に熱湯を浴びせ、焼けた鉄を押し当てた。皮膚はことごとく潰れたが、それでも従わなかった。近所の噂が広がり、歌にまでなって流布したのだ。これを聞きつけた上級の役人が調査を命じ、県尉の周某が検分に赴いた。

ところが殷氏は「ただの瘡です」と言い張り、傷を見せろと言われても「一人の婦人の病を、どうして裸で官府にお見せできましょう」と拒んだ。

夫と姑の非道について、最後まで一言も口を割らなかった。数日後、殷氏は死ぬ。県令が改めて検分すると、頭のてっぺんから足の裏まで、全身に無傷の場所がなかった。姑は「瘡の毒だ、医者に診せていた」と言い逃れようとした。だが、県令はその医者を呼びつけて詰問し、頬を打って「お前はこんな瘡を見たことがあるか」と迫り、ついに真相を吐かせたのだ。

姑と長男の嫁と夫の三人は捕らえられ、法によって処断された。

殷氏の死は乾隆七年正月二十一日、享年十七。役人は自腹で棺を買って西郊に葬り、先に葬られていた四人の烈婦の墓と並べた。葬送に集まった人は数万人に及び、みな声を揃えて夫と姑を罵ったという。

この事件で救われた者は誰もいない。だが記録に残る限り、殷氏を守ろうとした地方官は確かに存在した。彼は事情を聞き出して身柄を安全な場所に移そうとしたが、殷氏自身が拒んだ。そこにあるのは、恥を晒すくらいなら死んだほうがましだという、内面化された規範のほうだ。石の門より先に、規範のほうが体の中に入ってしまっていた。

同じ乾隆年間の江南通志には、こういう短い記録も並んでいる。舒城の宋又郊の妻である鮑氏は、夫が省試に赴いて旅宿で客死したと聞くと、その場で首を吊ろうとした。舅と姑がこう諭した。遺された孤児がいる、育てるのは誰だ。どうしても夫に殉じたいのなら、子が成人するまで待ってからにしなさい。

鮑氏は承知した。そして十三年後、息子が成人したところで、絶食して死んだ。

十三年という猶予期間が与えられ、その約束が十三年間ずっと有効であり続けたという事実が、この一行の背後にある。同じ通志には、無為県のある黄氏の妻である呉氏が、夫の死後に族人から再婚を強要され、胡姓の男を婿に入れると決められた。だから、いったん承諾したふりをして、当日の夜に裏戸を開けて池に身を投げた、という記録もある。

廬江の劉氏は、若くして寡婦になり族人が再婚を迫ったので、髪を切り顔を傷つけ、官に訴え出て節を保った。彼女たちが抵抗した相手は、皇帝でも儒学者でもなく、同じ屋根の下にいる親族だった。

大清律例には、こういう条文がある。婦人が、夫が亡くなって守志を願っている。ほかに婚姻を主宰すべき者がいない場合に、無理に娶ろうと求める。聘財を受け取らせて死に至らしめた者は、律に依って罪を問い、埋葬銀を追徴して支払わせ、辺境の衛所に送って充軍とする。つまり、寡婦に再婚を強要して死なせた場合には流刑相当の重罪になるという規定が、清の法典にはあった。

この条文が必要とされていたということ自体が、そういう事件が繰り返し起きていた証拠にほかならない。

石を叩き割ろうとした人たち、清代の内側から

近代になってから急に批判が始まったわけではない。制度が全盛だった清代のただ中に、これはおかしいと書いた学者たちがいた。

明代には帰有光が、婚約者が死んだだけで一生独身を通す「貞女」の慣行を礼に合わないと批判している。清代に入ると、考証学の主流にいた汪中がこの説を継承して、明快に論じた。そして道光十三年、西暦一八三三年に刊行された兪正燮の『癸巳類稿』が、この系譜の到達点になる。この本の巻十三に収められた「節婦説」「貞女説」「妬は女人の悪徳に非ざる論」の三篇は、当時としては尋常でない主張を含んでいた。

「節婦説」は、女が二人の夫に嫁がないというのなら、男もまた再婚すべきではないと論じる。「貞女説」は、後世、再び聘を受けようとしない女を貞女と呼ぶが、これは賢者が思い至らなかった過ちだと切り捨てる。同衾したこともないのに同じ墓穴に入るというのなら、そもそも婚礼など要らない。花嫁を迎えに行く必要も、廟に参る必要もない。酒食を用意して郷党や同僚を招く必要もあるまい。

それでは男女の別というものがない。

男児が忠義をもって自らを責めるのは結構だが、婦女の貞烈が、どうして男の栄誉になるのか、と。

「妬は女人の悪徳に非ざる論」の理屈も鋭い。夫が妾を買っても妻が妬かないのは、無関心だということだ。無関心であれば家の道は壊れる。だから妬くことは女の悪徳ではない。二百年近く前の中国で、これが印刷されて流通していた。

清末の銭振鍠は『星影楼雑言』の中で、こう書いている。古の婚礼で雁を用いるのは、雁が再び番を替えないからであり、茶を用いるのは、茶の木が一度植えれば移らないからだ。どこに男女の区別があったというのか。范仲淹の義荘の規約では、再婚と再嫁が並べて記されている。古書では男の再婚も、女の再嫁と同じ語で呼んでいる。

同じ語でありながら、女から出れば非礼で、男から出れば当然だという。まことに筋の通らない説だ、と。

そして明代の海沂子の言葉を引く。礼を制したのはみな男だから、偏らないはずがない。この一言を、後年に周作人が随筆の中で引き直し、さらに世説新語の逸話を並べている。謝安が妾を置こうとしたとき、周囲の者が詩経の「関雎」や「螽斯」には妬まない徳が説かれていると諭した。すると、夫人が「誰がこの詩を作ったのか」と問うた。

周公だと答えると、夫人はこう言ったのだ。

周公は男です、だから男の肩を持つのです。

もし周公の奥方が詩を作っていたら、こんなことは書かなかったでしょう。

こうした反論は確かに存在した。だが、旌表の申請は減らなかったし、石の門も減らなかった。書物の中の理屈が、村の入口の石を止めることはできなかったんだよな。

一九一八年、雑誌が石の門を撃った

制度の土台が音を立てて割れるのは、二十世紀に入ってからだ。

きっかけは翻訳だった。一九一八年五月十五日発行の『新青年』第四巻第四号に、周作人の訳で与謝野晶子の「貞操論」が載る。訳者は前書きで、与謝野を現代第一級の女性批評家と讃え、その文章は健全な思想そのものであり、いま必要な治療薬だと書いた。この一篇が中国の論壇に小さくない衝撃を与えた。

これに最初に応答したのが胡適で、同年七月十五日の第五巻第一号に「貞操問題」を発表する。胡適はまず、日本のように家庭の専制が厳しい国からこういう大胆な議論が出てきたことを評価した。東洋文明史における慶賀すべき出来事だ、と。そのうえで中国の現実を叩いた。彼が槍玉に挙げたのは、当時の新聞に載っていた朱爾邁の「会葬唐烈婦記」という文章だ。

そこにはこう書かれていた。

唐烈婦の死は、灰汁を呑み、銭の毒水を呑み、川に身を投げ、首を吊ることが五度、前後して絶食すること三度。さらに砒霜を加えれば、自ら人を殺す方法を試したのは合計九通りである。大晦日から夫の死んだ夜まで数えれば九十八日。九通りの死の惨毒を経て、九十八日という長きにわたった。これこそ百回挫かれ千回折られても進むばかりで退かないというものではないか、と。

そして朱爾邁は、まだ嫁いでいない兪氏の娘が七日絶食したが家人に止められた件について、こう論じていた。兪氏の娘が七日の絶食のうちに死ねていたら、なんと幸いだったことか。三年の喪に服すというなら千八十日余りもかかり、烈婦の九十八日とは比べものにならない。家人が百方これを防いでいるので、死ぬ志はあっても死ぬ隙がない。

烈婦の霊がひそかに助けて節を成し遂げさせてくれたなら、風化に関わること、ああ、なんと盛んなことか。胡適はこれを「まったく心肝のない貞操論」と呼び、他人の娘に早く死ねと願うこの手の言説は、人を烈女にするよう勧めることが故意の殺人に等しいという世論を作らねばならないと書いた。

『儒林外史』第五十二回で、娘が夫に殉じて死んだのを見て天を仰いで大笑いし「よく死んだ、よく死んだ」と叫ぶ王玉輝の場面が、ここで引かれている。

胡適の文章の後半は、法律への攻撃になっている。彼は上海で起きた陳烈女の事件を挙げた。陳宛珍という十七歳の娘は、王遠甫の子である菁士と婚約していた。菁士がその年の三月二十三日に十八歳で病死したと聞くと、宛珍は沐浴して着替え、ひそかに毒を仰いだ。家人が気づいて慌てて手当てしたが間に合わない。

娘は涙を流して「わたくしの志は前から決まっておりました。

生きて夫にお目にかかることは叶いませんでしたが、死んで地下でお供いたします」と言い、そのまま死んだ。婚約者の死から三時間後のことだった。

二日後、上海の県知事が江蘇省長に宛てた上申書が新聞に出た。陳烈女の行実は世に示すに足りるものであり、名簿を作成し証明書を添えて、例に照らして褒揚を請う。事実を書き記し、褒揚費として銀六元を添えて送付する。知事の再調査でも相違ない。まず「貞烈可風」の扁額を与えて旌表とし、褒揚条例の規定を援用して名簿を作り、証明書と褒揚費を添えて上申する。

だから、内務部に照会して例により褒揚されたい、と。

褒揚費銀六元。

娘の死が、六元の手数料と書類一式で処理されている。

胡適はここで、中華民国にまだ「褒揚条例」なるものが存在していたことを知って驚いたと書いている。褒揚できる行いを九種挙げた第一条の第二款が「婦女の節烈貞操にして以て世に風たるべき者」である。第七款が学術技芸上の発明改良、第九款が「年百歳を越えたる者」だった。偶然百歳まで生きた人間が、学術上の発明と同格の褒揚を受ける。

施行細則はさらに具体的で、節婦とは二十歳以前から守節して五十歳以後に至った者。ただし五十歳前に死んでも守節六年に及んでいれば同じとする。烈婦烈女とは、暴行に遭って従わずに死んだ者、恥じ憤って自尽した者、および夫が死んで殉節した者。貞女の守貞年限は節婦と同じで、夫の家で守貞して死んだ者、年限に満たずに死んだ者もこれに属する。

清朝が倒れ、共和国が成立してもちなみに、法律は同じ数字で女の一生を区切り続けていた。民国六年、一九一七年十月には条例が改正され、「夫亡くして殉節したる者」が褒揚対象として明記される。婚約者のために守節する未婚女性への褒揚が追加され、寡婦の守節年数は十年とされている。

胡適の文章の掲載から半月後、一九一八年七月三十一日に、魯迅が「我之節烈観」を書いた。これは第五巻第二号に載る。魯迅は冒頭で、二十世紀にもなって地球が丸いかどうかを論じているようなものだ、と吐き捨てている。そして問いを重ねていく。節烈は道徳か。

道徳というものは普遍でなければならず、誰もが行うべきで誰もが行うことができ、自他ともに利があってはじめて存在する価値がある。

いま言われる節烈は、男には全く関係がないばかりか、女ですら全員がこの名誉の機会に恵まれるわけではない。だから道徳とは認められない。多妻主義の男に、女の節烈を表彰する資格があるか。男は自分が守らないことを女にだけ要求してはならない。

魯迅の分析で最も鋭いのは、節烈が難しいか、苦しいかという問いへの答えのほうだ。難しい。男はそれが極めて難しいと知っている、だから表彰するのだ。苦しい。男はそれが非常に苦しいと知っている、だから表彰するのだ。

烈は必ず死ぬのだから言うまでもないが、節婦はまだ生き続けねばならない。精神の惨苦を措くとしても、生活という一点だけで大変な痛苦である。金があればまだしも、貧しい者は餓死するほかない。

餓死したあとで時たま旌表を受け、志書に書き込まれる。だから各府各県の志書の伝記の末尾には、必ず何巻かの「烈女」がある。一行に一人、あるいは一行に二人、趙・銭・孫・李と並んでいて、しかし誰一人めくって読む者はいない。一生節烈を崇拝している道徳の大家に、あなたの県の志書の烈女門の最初の十人は誰かと尋ねてみたところで、おそらく答えられまい。要するに彼女は生前も死後も、社会とはまるで関わりがないのだ、と。

そして魯迅は、節烈でなければ苦しくないのかと自問し、それも非常に苦しいと答える。社会の公論は節烈でない女を下品と見なし、この社会は彼女を容れない。大多数の古人がぼんやりと伝えてきた道理には、理屈というものが全くない。それでも歴史と数の力によって、意にそぐわない人間を圧し殺すことができる。この「無主名無意識の殺人団」の中で、古来どれだけの人間が死んだか分からない。

節烈の女もまた、ここで死んだのだ。

魯迅の結論はこうだ。節烈という行為は、極めて難しく、極めて苦しく、自ら進んで受けたいものではなく。しかも自他ともに利がなく、社会や国家の益にもならず、人生の将来にも何の意味もない。すでに存在する生命と価値を失っている。

石は、実際に叩き割られた

言論が石を倒したわけではない。石を物理的に倒したのは、それから半世紀後だ。

文化大革命の「破四旧」の運動の中で、封建の象徴と見なされた牌坊は各地で破壊された。統計をきちんと取ることは難しい。文献の記録が欠けており、実地調査も十分ではない。加えて一九四九年以降の自然損壊と人為的破壊が大量にあったためだ。これが徽州の建築史を扱う研究者の一致した見解になっている。

それでも断片的な数字は残る。

清の嘉慶末年の時点で、休寧県には百八十七基、績渓県には百四十七基の牌坊が保存されていた。同治年間には祁門県になお百三十基が残っていた。イ県については記録が不完全で、貞節牌坊を除いて六十五基ほどが把握できるにすぎない。歙県は徽州府の府治であり、歴史上最も多くの牌坊を持っていたが、地方文献の欠落によって総数は分からない。徽州一府六県で、かつては千基を超える牌坊があったと言われている。

現在の残存数は、集計の仕方によって百二十九基とも百三十六基とも言われる。百二十九という数字で内訳を見ると、歙県が徽州区を含めて百一基半、績渓が十四基、休寧が八基、祁門が三基、イ県が二基、ブゲンが半基。半基というのは、歙県鄭村の牌坊の基壇部分と、ブゲンに残る牌坊の骨組みの残骸のことだ。そしてこの百二十九基のうち、節孝坊は三十三基を占める。歙県は「中国牌坊の郷」と呼ばれている。

破壊に南北差があったという指摘も面白い。破四旧の嵐は北方でより激しく、南方では相対的に弱かったため、南方に多い石造の牌坊は生き残る率が高かった、というのだ。加えて、湿潤な南方では木造ではなく石造が選ばれたことも、結果的に保存に寄与した。トウエツ村の七基がまとまって残ったのは、七基すべてが同じ鮑氏一族のものとして一体的に管理されていたことも大きいらしい。

それでも一九四九年以降、多くの牌坊は「愚昧と封建の象徴」として叩き潰された。清の宣統年間、つまり王朝の最末期に歙県の新南街に建てられた「孝貞節烈坊」は、徽州の歴代の貞女節婦をまとめて旌表したもので、民国以前に徽州で建てられた最後の牌坊とされている。制度の最終ロットが、王朝の終わりぎりぎりまで発注されていたわけだ。

いま、その門の前で人は記念写真を撮る

トウエツ村の牌坊群は、一九八一年九月に安徽省の重点文物保護単位となる。一九九六年十一月には国務院によって全国重点文物保護単位に指定された。現在は五つ星の観光地区で、入場料は鮑家花園と合わせて百元。春の観光シーズンには、青石の道の上に人が溢れる。

北京から来た観光客が「ずっと来たかった、徽州文化が好きで、特に徽派の建築が好きだ、牌坊群は本当に壮観で来た甲斐があった」と語り、別の観光客が「非常に迫力がある、一つ一つの牌坊の背後に感動的な物語があって、立体の歴史教科書のようだ」と語る、そういう記事が地元のニュースに載る。地元の人は「忠・孝・礼・義と官帽亭が並んで見えるこの位置が、いちばんいい撮影ポイントだ」と教えてくれるらしい。

一方で、旅行者の書き込みには辛辣なものも多い。七基を歩いて見終わるのに十分しかかからないのに百元は高すぎる、商業の匂いが強すぎる、といった不満が並ぶ。だがそれ以上に、この場所の存在そのものへの違和感を書く人が少なくない。牌坊は、相対的に手に入れやすい名誉だった。科挙に受かる必要も国家に功績を立てる必要もなく、家の女に守節させておけばよかった。

だから家々は門地を輝かせるために寡婦を守節させ、本人が望んでいるかどうかは問わなかったのだ。この牌坊は女性を徹底的に物化するものであり、表向きは女性を讃えているが。実際には女性を犠牲にして、その背後にいる家族が「女をよく教え導いた」ことを讃えているのだ――そういう趣旨の文章が、中国語のメディアにも旅行記にも繰り返し書かれている。

一つ一つの牌坊の下には、ほとんどの場合、生き生きとした一つの命か、一人の女性の数十年の青春が埋められている。それを知った上で建築として眺めるべきだ、という言い方が定型になりつつある。

村の西の端には、向かい合って二つの祠堂が立っている。一つは敦本堂、通称「男祠」。もう一つは清懿堂、通称「女祠」で、女性を祀る祠としては中国で唯一まとまって現存するものだという。嘉慶年間、鮑氏の二十四世の当主が遺言で息子に女祠を建てさせたのが始まりだ。男祠と向かい合う位置に、南から北を向いて建てられている。

三進二天井、五間の間口で、奥行きが四十八メートル余り、間口が十七メートル近く、規模はむしろ男祠を上回る。大広間の正面には書家の手になる「清懿堂」の巨大な扁額が掲げられ、その隣に清末の重臣が書いた「貞孝両全」の横額が並ぶ。祭壇には七人の女性の位牌が置かれている。民国の歙志によれば、この村の鮑氏で美徳を称えられた女性は明清の二代だけで五十九人に上るという。

女は祠堂に入れないという旧制の中で、この建物がなぜ建ったのか。考えていくと、商人の一族が女たちの労働と忍耐に依存して成り立っていた実態が透けて見える。

台湾海峡の側にも同じ制度の遺物がある。金門島の金城鎮に立つ邱良功母節孝坊は、嘉慶十七年、一八一二年の建立で、台湾・澎湖・金門・馬祖の地域では最大かつ最も保存の良い牌坊とされる。浙江水師提督にまで昇った邱良功の母、許氏を顕彰するものだ。許氏は乾隆八年に生まれ、二十六歳で息子を産んだその年に夫を亡くした。そして二十八年間にわたって寡婦のまま息子を育て上げ、嘉慶二年に世を去った。

牌坊が建ったのは彼女の死から十五年後、息子が海賊を討ち滅ぼして皇帝の嘉賞を得たときだ。泉州産の白花崗岩と青斗石を用いた四柱三間三層の構造で、高さは十メートルを超える。最上部には両面に「聖旨」の石額が嵌まり、中層には「欽旌節孝」の四字が横に刻まれ、下層の横額には夫と息子の官職と爵位が延々と連ねられた末尾に、ようやく「許氏坊」という三文字が置かれている。彼女の名前は出てこない。

誰それの妻であり、誰それの母である許氏。それが石に残った彼女のすべてだ。

ただしこの石には、制度の設計者が予想しなかった後日談がある。柱の根元を守る四対の石獅のうち、彩色を施された一頭が、地元の住民から神として祀られるようになったのだ。この彩色の獅子は邱の母の化身だと言われ、島の人は「獅王」あるいは「石仙姑」と呼んでいる。日月の光を浴びて精華を吸い、霊験を現したことがあるとされる。体の弱い子どもを持つ親が加護を願って、この石獅の義理の子にしてもらう。

旧暦八月十五日には、義子たちが祝いに集まり、飾り布を結び、扁額を奉納する。国家が女を封じ込めるために立てた石が、二百年かけて村人の守り神に変質した。制度の意図と民衆の使い方が、これほどきれいにずれた例も珍しい。

現代中国のインターネットでも、この語は生きた比喩として使われ続けている。二〇二六年の春、四川省の井研県で、路線バスに「貞潔は最も高貴な嫁入り道具」という趣旨の標語が掲出されたことが炎上した。中国婦女報はこれを「移動する貞節牌坊」と呼んで批判し、複数の主要紙が女性を物化し公序良俗に反すると論じた。

一方で、この標語は男女双方の貞潔を説いたもので女性への束縛ではないと反論する論者もいる。語義の混同だ、批判の過剰一般化だという議論が並行した。標語は撤去されたが、論争は収まらなかった。二百年前に石に彫られた価値観が、いまも公共空間に染み出してくるたびに、人々は同じ言葉で反応する。「貞節牌坊」という四文字は、中国語圏では今なお最も強い罵倒語の一つとして機能している。

日本の孝子表彰と、どこが違ったのか

日本にも、よく似た制度があった。江戸幕府は寛政の改革の一環として、寛政元年、一七八九年に、諸藩に対して幕初以来の善行表彰者を報告するよう命じている。寛政十年に追加報告を求め、集まった記録を昌平坂学問所に集めて編集し、享和元年、一八〇一年に官版として刊行した。これが『官刻孝義録』五十巻だ。林述斎と柴野栗山が編纂に当たっている。

収録された表彰者は八千六百人余り。その大半は農民と町人で、武士ではない。

表彰の時期は慶長七年から寛政十年までのおよそ二世紀にわたる。だが、全体の八割強、七千人近くが宝暦から寛政までの十八世紀後半に集中している。八百人ほどについては、その善行の内容が仮名交じり文で短い伝記として詳述された。幕府の出版物のほとんどは中国の哲学書の翻刻だった。それを考えると、平易な仮名交じりで庶民の実名の物語を大量に印刷したこの企画は、かなり異例だ。

幕府は続編の編纂も企図して追加報告を集めさせたが刊行には至らず、嘉永元年に整理されたものが『続編孝義録料』として残っている。全百巻のうち九十巻が現存する。

分類には孝子、節婦、忠僕、そして「奇特者」がある。つまり日本にも節婦表彰は確かに存在した。だが決定的に違うのは、出力の形式だ。日本の表彰は、高札を立て、褒美の銀や米を与え、村の記録に残し、時に苗字帯刀を許すという形をとった。書物に名を刻む。

木の高札に書いて掲げる。しかし、村の入口に石の門を建てて数百年残す、という発想は基本的に採られなかった。

もう一つの違いは、免税と免役という経済的インセンティブの組み込み方の強度だ。中国の旌表は、家に対する賦役免除と直結していた。日本の褒賞も一時的な優遇を伴ったが、宗族という単位で世代を超えて継承される種類の権益にはならなかった。そしていちばん大きな違いは、日本には宗族という巨大な父系親族組織が中国ほど発達しなかったことだ。旌表を欲しがる主体、女に守節を強いる主体は、中国では宗族だった。

日本では村と家であって、家の規模も権限も比較にならない。

さらに、朝鮮王朝でも同様の制度が存在し、節婦を旌表して「烈女門」を建てさせた。東アジアの儒教圏では、この装置は広く共有されていた。ただしその中で、石造の巨大な門を数百年単位で残したのだ。皇帝の許可を彫り込み、県ごとに祠を建てて名簿を石に刻ませるという徹底ぶりにおいて、明清の中国は突出していた。

なぜ「石に彫って残す」形式が、これほど強く人を縛ったのか

ここからは分析になる。この制度の恐ろしさは、思想の内容よりも媒体の性質にあった、というのが個人的な見立てだ。

第一に、石は消えない。書物に書かれた顕彰は、その本を読む人にしか届かない。魯迅が指摘したとおり、県志の烈女門は誰も読まない。だが村の入口に立つ高さ十メートルの石の門は、読み書きのできない人間にも、通りすがりの旅人にも、生まれてくる子どもにも、毎日必ず見える。文字が読めなくても、その門が何のために立っているかは村の全員が知っている。

教化の装置として、これほど費用対効果の高いものはない。

第二に、石は撤回できない。人事の評価は覆せるし、位階は剥奪できる。しかし一度組み上げた四、五トンの石は、動かすのに国家的な暴力を要する。実際、これを本気で撤回するには文化大革命という規模の運動が必要だった。撤回不可能性は、そのまま規範の不可逆性として体感される。

あの門が立っている限り、あの家の女は再婚できない。

第三に、石は帰属を転移させる。牌坊に刻まれるのは、多くの場合、女本人の名ではない。「某の妻某氏」であり、金門の例のように、夫と息子の官職と爵位を延々と列記した最後に姓が一つ添えられるだけということもある。顕彰されているのは彼女の生涯だが、名誉を受け取るのは家だ。この非対称が制度の駆動力になっている。

名誉が家に帰属し、代償が個人に帰属する構造では、代償を払わせる側と受け取る側が分離しているので、ブレーキが働かない。福州の「搭台死節」は、この分離が極限まで進んだ姿だと言っていい。

第四に、石は共同体を監視者に変える。門が立つということは、村全体がその物語の共犯者になるということだ。誰もがその家の女の身の上を知っており、その女が規範を破れば村全体の名誉が傷つく。魯迅の言う「無主名無意識の殺人団」は、まさにこの状態を指している。誰も命令していないのに、全員が見張っている。

加害者が特定できないから、告発もできない。

第五に、石は競争を生む。近隣の村に節孝坊が二基あれば、うちの村にも欲しくなる。同じ宗族の他の支派が坊を得れば、こちらも申請したくなる。徽州のように富裕な商人の家が密集している地域では、貞節牌坊の数を競い合う風潮が実際に生じたと言われている。表彰の閾値が時代とともに下がっていったことも、この競争を加速させた。

二十年が十五年になり、十年になり、六年になれば、候補者の母数は跳ね上がる。

制度の緩和が慈悲として行われ、結果として圧力が増したというねじれが、ここにある。

なぜ、この制度はこれほど長く続いてしまったのか

最後に、なぜ止まらなかったのかを整理しておきたい。

まず、思想的な下地がある。宋代の程頤が「餓死する事は極めて小さく、節を失う事は極めて大きい」と述べたことが、しばしば起点として引かれる。ただしこの一文だけで六百年を説明するのは無理がある。北宋の范仲淹の義荘の規約では、寡婦の再婚のための費用が支給されており、男の再婚には出ない。范仲淹自身の母も再婚しており、彼はそれを恥じていない。

王安石は息子が生きているうちに嫁を他家へ再嫁させている。

宋代初期の社会は、まだ再婚に寛容だった。理学の言葉が実際の制度と結びついて社会を締め上げるには、元代の婚姻・財産制度の転換と、明清の旌表制度の官僚化という二つの実装が必要だった。思想が社会を変えたのではなく、思想が制度に実装されたときに初めて社会が変わったのだ。

次に、王朝の政治的動機がある。魯迅の観察は身も蓋もないが的確だ。皇帝が臣下に忠を求めれば求めるほど、男は女に節を求めるようになる、というものだ。夫に対する妻の一貫性と、君主に対する臣下の一貫性は、同じ語彙で語られていた。とりわけ征服王朝の時代には、この重ね合わせが強く働いた。

明が滅んだ後の清初、漢人の文人たちは明への忠誠を語れなくなったのだ。その代わりに貞女や烈婦の伝記を大量に書いた。この分析は多くの研究者が指摘している。田汝康が一九八八年に発表した研究は、科挙に落ち続けた文人たちの心理的な外傷が、女性の殉節の顕彰という迂回路を通って表出したのだと論じた。百六十六種もの地方志を材料にした議論で、主役は烈女ではなく士人のほうだ。

盧葦菁が二〇〇八年に発表した貞女現象の研究も、王朝の危機と極端な行為への文化的関心。そして国家の顕彰機構という三つが噛み合ったときに、この現象が爆発したと分析している。

そして、経済的な合理性がある。守節すれば財産権が守られ、賦役が免除され、家格が上がる。再婚すれば持参財も相続権も失う。寡婦本人にとってすら、守節が合理的選択になる制度設計が組まれていた。綿織物の技術革新によって女性の家内労働の収益性が上がった地域で、守節の発生率が有意に高かったという計量的な研究まで出ている。

夫がいなくても機を織って食えるなら、再婚しないという選択が現実的になる。

倫理が経済に支えられ、経済が倫理を正当化する。この循環に入ってしまうと、批判の言葉は空回りする。

最後に、この制度がいちばん恐ろしいのは、被害者と加害者の境界が溶けている点だ。娘に自殺を迫った父母も、その父母から同じ規範を受け取っていた。守節を強いた姑も、かつては守節を強いられた嫁だった。斉氏に「日を選んで棚を結べ」と言った親も、おそらく自分が娘を殺しているとは思っていない。娘に最高の名誉を与えようとしていると本気で信じている。

石の門は、その信念を数百年にわたって供給し続ける機械だった。

いまトウエツ村の石の門の前に立って写真を撮る人たちの多くは、その門が何のために立ったのかを、たぶん十分には知らない。知らないままでも構わないという意見もあるだろう。だが、あの七基のうち二基の下には、二十九歳で夫を亡くして他人の子を六十歳まで育てた女と、二十六歳で寡婦になり八十歳で表彰された女がいる。

門は彼女たちを讃えているように見えて、実は彼女たちが選ばなかった別の人生の、跡形もなくなった輪郭を示している。石が残ったせいで、選ばれなかった人生のほうが永久に見えなくなった。これが、この制度のいちばん怖いところだと思うんだよな。

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