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赤いファンタを供え、名を呼び、毎日話しかける――タイの黄金の子クマーントーン、死んだ子どもに富を乞う五百年の作法

店の奥で、赤い炭酸が毎朝取り替えられている

バンコクの下町の、間口の狭い金物屋でも、チェンマイの美容院でも、地方都市の中古バイク屋でもいい。レジの後ろか、棚の一番高いところに、小さな祭壇が据えてある。木彫りの小さな家か、金色に塗った箱。その中に、髷を頭のてっぺんで結った男の子の像がちょこんと座っている。手には小さな布袋。

中身は金だということになっている。

その前には、まず赤い飲みものがある。タイ語でナムデーン、つまり「赤い水」。サラーというヤシ科の果実の香料に、目が痛くなるほど鮮やかな赤い着色料を入れた炭酸だ。専用の瓶が手に入らなければ、コンビニで買った赤いファンタでいい。ストローを挿して、毎朝取り替える。

その隣に菓子が並ぶ。ゼリー、プリン、駄菓子の類。さらにその隣に玩具が置いてある。ミニカー。小さなロボット。

ビー玉だ。安っぽいプラスチックの何か。店主が旅行に行けば土産を買ってくる。誕生日が決まっている場合もある。

そして、店主は毎日その像に話しかける。今日は客が少なかった、来週は仕入れに行くから留守を頼む、あの取引はどう思う。声に出す人もいれば、心の中で語りかける人もいる。名前も付いている。ノーン何々、と呼ぶ。

タイ語のノーンは年下の者を呼ぶときの言葉だ。つまり弟か、我が子として扱っている。

これがクマーントーンだ。タイ語でクマーンは少年、パーリ語のクマーラに由来する。トーンは金。合わせて「黄金の子」「金の少年」。女児の場合はクマーンニーと呼び分ける地域もある。

そしてこの人形の背後には、死んだ子どもの霊がいる、ということになっている。いや、「背後にいる」では正確ではない。中にいる。宿らせてある。だから食べさせ、飲ませ、遊ばせ、話しかける。

世話をすれば、その子が店に客を連れてくる。宝くじの番号を耳元で囁いてくれる。夜、泥棒が来れば起こしてくれる。

――そして、世話を怠れば、その子はへそを曲げる。

「本物」は胎児から作られた、と言い伝えられてきた

クマーントーンの厄介さは、いま店先で拝まれている陶器やプラスチックの像が、もともと何の代用品だったのかという点にある。

タイの俗信と、サイヤサート(呪術・魔術一般を指す言葉)の古い写本の伝えるところによればこうだ。本来のクマーントーンは、母の胎内で死んだ子どもの遺体そのものだった。乾いた小さな体に漆をかけ、その上から金箔を貼る。だから「金の子」と呼ぶ。祭壇の像がなぜ金色なのかといえば、その名残なわけだ。

どういう手順でそれを作ったのかについては、ここでは書かない。書く価値もないし、書いてはいけない。ここで押さえておきたいのは、そういう作法が「かつてあったと語られている」「古い写本にそう記録されている」という事実のほうだ。墓地で、夜明け前に、呪文を唱えながら、という断片が繰り返し語られる。ナムマン・プライという、不慮の死を遂げた者の遺体から採るとされる油に浸すのが最も効く、という言い伝えもある。

現代のタイでこれをやれば当然ながら犯罪である。遺体の扱いに関する刑法に触れるし、死体の入手経路によっては別の罪も重なる。にもかかわらず、この「本物」という概念が消えない。だからクマーントーンという言葉はいまも、店先の可愛らしい人形と、新聞の社会面に載る不快な事件の両方を指し続けている。

タイの研究者やジャーナリストがこの話題を扱うとき、必ず二つの層を分けて説明するのはそのためだ。ひとつは、圧倒的多数の、陶器や樹脂や木でできた像を家に置き、僧侶の祝福を受けて、赤い炭酸を供えている人々の生きた信仰。もうひとつは、その周縁にへばりついている、遺体の闇取引という犯罪。前者を後者と同一視するのは、日本の仏壇を墓荒らしと同列に扱うようなもので、端的に間違っている。

だが後者が存在するのも事実だ。この記事はその両方を書く。

世話の作法――赤い水、菓子、玩具、そして毎日の会話

まず、生きた信仰としてのクマーントーンの世話を、できるだけ具体的に見ていく。

供物の中心は赤い水だ。なぜ赤いのかについては、タイ国内でも定説がない。バンコク・ポストが2013年に載せたタイ文化の解説記事では、いくつかの説を並べた。そのうえで、最も有力なものとして「血に似ているから」を挙げていた。かつては霊に動物の血を供えたのだ。

毎日自分の指を切るわけにもいかないので、赤い炭酸で代用するようになった――という筋書きである。

もちろん、単に子どもが甘くて派手なものを好むから、という身も蓋もない説明もある。どちらにせよ、いまやタイでは、クマーントーンにも、店の繁盛を招くナーンクワック(手招きする女性の像)にも、路傍の祠にも、赤い瓶が並ぶ。

菓子と玩具は、年齢に合わせる。というより、持ち主が思い描くその子の年齢に合わせる。乳児だと思っていればミルクを供えるし、五、六歳だと思っていれば駄菓子とミニカーになる。面白いのは、時間の経過とともに「成長する」と語る人がいることだ。ある大学生の女性は、子どものころ喘息の発作が出ると、クマーントーンが枕元に座っていてくれた、と父から聞かされて育った。

彼女の中でその霊は兄弟のような存在で、いまでは自分と同じ二十代か三十代の若者になっているという。

物より大事だ、と多くの持ち主が口を揃えるのが「心で常に思うこと」である。家族が食事をするときには一緒に食べるよう声をかける。旅行に行くときは、留守を頼むか、連れていく。客が泊まりに来る日には、あらかじめ告げておく。タイの研究者メーガン・シノットの聞き取りに応じたある持ち主は、その言い方まで教えてくれている。

「友だちが来るからね、いい?この人にはいたずらしないでね、いい?」

いたずら、というのはタイ語でクレーンという。からかう、ちょっかいを出す、という意味だ。クマーントーンは基本的に子どもなので、からかう。物音を立てる。物を動かす。

来客を脅かす。それを叱ってしつけるのも持ち主の仕事で、木の細い棒で像を軽く叩きながら、きつい調子で言い聞かせる、という作法が伝えられている。うまくしつけると、その子はチュアファン、つまり言うことをよく聞くようになる。

そして――ここが日本の読者にはいちばん奇妙に響くだろうが――この関係は契約である。

怠るとどうなるか

タイのクマーントーン信仰を調べていて、最初に足をすくわれるのがこの点だ。日本人はつい「祟られる」と考える。粗末に扱った霊が怒って災いをもたらす、と。ところが持ち主たちの説明は、もっと乾いている。

霊の側には、この世に留まっている理由がある。仏教的な枠組みでは、彼らは次の生を待っている。そして、生きている人間を助けることで徳(ブン)を積む。持ち主の側は、その子に食べものと住処と愛情を与えることで、やはり徳を積む。要するに相互扶助であり、どちらからでも解消できる。

だから、世話を怠った場合に起きるとされることの第一は「祟り」ではなく「出ていく」なのだ。そっといなくなる。そして、いなくなった家は、それまで受け取っていた恩恵を失う。

もちろん、機嫌を損ねた場合の実害も語られる。家の物をひっくり返す。階段から人を突き落とす。極端な場合には人を死なせることもある、と真顔で語る持ち主もいる。ただ、それは怒った霊の復讐というより、しつけに失敗した子どもの暴走という語られ方をする。

手に負えなくなったらどうするか。寺に返すか、その霊を仲介した霊媒(ラーンソン)に返す。これも重要な点で、クマーントーンは捨てられない。バンコクの西の郊外にあるサワーンアロム寺という寺は、そうやって持ち込まれた像を大量に引き取っていることで知られている。境内には、色とりどりの小さな人形が棚にずらりと並び、参拝者が線香を上げていく。

そして、そこでも赤い炭酸が供えられている。

この寺の僧プラ・プラシット・ワラヤーンは、英国放送協会の取材にこう語っている。信仰は人それぞれだが、力を信じる気持ちはとても強い。うまくいっているうちは拝む。うまくいかなくなると捨てる。捨てると何が起きるか怖いから、ここに置いていく。

ここなら受け取ってくれると知っているから。住職はいつも、それをふさわしい場所に安置するよう気を配っている――と。

つまり、この寺は霊の孤児院として機能している。

古典『クン・チャーン・クン・ペーン』――すべてはここから語られる

クマーントーンの話をタイの誰かに振ると、ほぼ確実に同じ古典の名が返ってくる。『クン・チャーン・クン・ペーン』。タイ文学最大の民衆叙事詩であり、この習俗の由来を語る原典とされている作品だ。

まずこの作品そのものの素性を押さえておく。

成立は、十七世紀ごろの口承にさかのぼると考えられている。書かれた物語ではなく、セーパーと呼ばれる語り芸として広まった。語り手はクラップという二本の短い拍子木を手に持ち、打ち鳴らして拍子を取りながら、韻文を朗誦する。一晩かけて一場面を語る。十八世紀にはシャム(当時のタイ)で最も人気のある娯楽になっていた。

文字に定着しはじめるのは十八世紀以降で、1782年のバンコク遷都後、新王朝がアユタヤ陥落を生き延びた写本の収集に乗り出したことが大きい。ラーマ二世(在位1809年から1824年)の文芸サロンで、いくつかの章が書き取られた。ラーマ三世となる人物や、大詩人スントーン・プーが特定の章の作者だと伝統的に言われている。

活字になったのは1872年、元宣教師のサミュエル・ジェームズ・スミスが最初の書籍版を出した。1889年にはワット・コーの印刷所から別版が出ている。そして1917年から1918年にかけて、ワチラヤーン図書館から全三巻の標準版が刊行された。編者はダムロン親王。

四種類の写本群を突き合わせて最良と判断した本文を選び、つなぎの部分を書き足した。猥褻と判断した箇所や、当時すでに意味の通じなくなった時事的な冗談を削った。この標準版が、43章、約二万行、1085ページ。タイの学校教育に組み込まれ、子どもたちが暗誦させられる国民文学になった。

英語への完訳が出たのは2010年、クリス・ベイカーとパースック・ポンパイチットの夫妻による翻訳(シルクワーム・ブックス刊)で、これが世界初の完訳だった。以下の再話は、この翻訳とタイ側の研究を突き合わせたものである。

そしてもうひとつ、決定的に重要な事実がある。

クマーントーンを作る場面は、この叙事詩の最古層ではない。ダムロン親王自身が標準版の序文に書いているのだが、この挿話はクルー・チェーンという十九世紀の語り手が作ったもので、語り芸の世界ではすでに人気があった。ただし、書かれた本文には入っていなかった。ワチラヤーン図書館版で初めて正式に本編へ組み込まれたのだ。

つまり、いま「何百年も前からの伝統」として語られているあの残酷な場面は、文献の上では十九世紀の増補である。もちろん、クルー・チェーンが無から作ったわけではなく、当時すでに実在した俗信を物語に取り込んだ、と見るのが研究者の一致した見方ではある。だが「原典に書いてあるから古い」という言い方は、厳密には成立しない。

クン・ペーンとナーン・ブアクリーの物語

では、その場面を最初から語る。

物語の主軸は、スパンブリーの幼なじみ三人の五十年にわたる三角関係である。プライ・ケーオという少年は、顔がよく頭も切れるが貧しい。王に父を処刑され、家財を没収されたからだ。彼は寺に入って学ぶ。そこで軍事の技と、タイ語でいう「内なる道」――人間や自然物の内側に潜む力を、教えられた技術によって引き出す術――を身につける。

呪文、護符、呪印、霊の使役。彼は天才だった。のちに彼はクン・ペーンの称号を得る。

もうひとりの男、クン・チャーンは、醜くて愚かだが、途方もなく金持ちで、アユタヤの宮廷に顔が利く。

そして女、ピム。のちに名をワントーンと改める、スパンブリー一の美女。

ピムとプライ・ケーオはソンクラーン(旧正月)の托鉢で出会い、恋に落ちて結ばれる。だがクン・チャーンが手を回し、プライ・ケーオを戦に送り出したうえで戦死したと嘘をつく。勝って帰ってきた彼を、今度は職務怠慢を口実に都から追放させる。ワントーンはクン・チャーンの家に入る。財力と献身に、彼女はいったん身を委ねる。

ここからが本題だ。

クン・ペーンは、自分がなぜ負け続けるのかを考える。相手は金と権力を持っている。自分にあるのは呪術の腕だけだ。彼は自問する。どうやって自分の身を守ればいい――と。

そして彼は、三つの宝を揃えに出る。

ひとつめは剣。ファーフーンという名の剣で、意味は「天が轟く」。鍛え上げた瞬間に雷が落ちて天が鳴ったから、その名が付いたと伝えられる。材料には、寺塔の頂や宮殿の門から取った金物、棺に使われていた金具、戦場に残された折れた刃。そして熱すると柔らかくなるという伝説の金属レックライなど、力と禁忌にまつわる金属が集められた。

剣そのものが、巨大な護符として作られている。

ふたつめは馬。シームホック、「霧の色」という名の葦毛の馬である。土曜日の、月の満ちていく九日目に生まれたという占星術的な条件を満たした暴れ馬で、クン・ペーンは呪をかけた草を食わせて手なずけた。この馬は彼に、常識外れの速度と機動力を与える。

そして三つめが、クマーントーンだ。

三つめを手に入れる旅の途中で、クン・ペーンは盗賊団の頭の娘、ナーン・ブアクリーと出会って結婚する。娘の父は、この婿が並外れた呪術の使い手であることを知って恐れた。自分の座を奪われる、殺されると思い込んだ。そこで娘に、夫を毒殺せよと命じる。

ブアクリーは、そのとき身重だった。

彼女は、父と夫のあいだで引き裂かれる。物語はこの板挟みを克明に描く。彼女は毒を用意する。だが、クン・ペーンには護符と霊がついている。彼は、夜、寝たふりをしながら、妻が何を企んでいるかを知る。

そして、彼は妻を殺す。

ベイカーとポンパイチットの英訳は、この場面を容赦なく訳している。彼は刃を彼女の胸に突き立て、体を貫いた。彼女は身をよじって死んだ。赤い血が噴き出して、水牛を屠ったときのように一面に広がった。彼は腹を大きく切り開き、臍の緒を断った。

取り出した子を検分して、望んでいた男児であることを確かめると、彼は喜んだ――と。

ここで読者が受ける衝撃を、シノットは論文の中でこう書いている。この一節を学会で読み上げると、タイ人の聴衆がはっきりと動揺し、居心地の悪そうな顔をする。西洋の聴衆が『シンデレラ』の原典で継姉たちが足を切り落とす場面を知ったときと同じような反応だ、と。タイ人にとっても、この場面はきつい。

クン・ペーンは、その小さな体を抱えて寺に向かう。墓地に火を熾す。カンチャナブリーのチャイチュムポン寺の墓地だった、とタイの呪物研究の側では語られている。彼は聖句を書いた布で包み、火にかける。

心を鎮め、意識を一点に集めて、彼は座ったまま金の子を焼き続けた。全身に均等に熱が回るよう、前と後ろを返しながら。脂が落ちて、じゅうと音を立てた。夜が明けて金色の太陽が昇るころには、それは望みどおりに乾き、硬くなっていた。

そして、子どもは起き上がる。

叙事詩の中で、この霊はゴールドチャイルド――英訳では「金の子」――と呼ばれ、少年の姿でクン・ペーンに付き従う。父と呼ぶ。敵陣に忍び込んで情報を持ち帰る。危険が迫ると耳元で警告する。敵の呪術師の霊と戦う。

クン・ペーンが真夜中にクン・チャーンの屋敷に忍び込み、ワントーンを連れ出す名場面でも、この霊が働いている。

ちなみに別系統の伝承もある。クン・ペーンが得た霊は、ブアクリーの子ではなく、イーマーという名の妊婦の霊から得たアイ・ペットコンという名の存在だ、とする版だ。取り出し方は同じである。語り芸として無数の異本が流通していたことの痕跡で、標準版に採られなかっただけの話だ。

物語の結末だけ書いておくと、決して幸福ではない。何十年もの争いの果て、王はワントーンに、クン・チャーンとクン・ペーンのどちらを選ぶか決めろと迫る。彼女は答えられない。「二つの心を持つ女」として処刑を命じられ、息子が助命を勝ち取るが、知らせがわずかに間に合わず、彼女は死ぬ。

タイ文学最大の恋愛叙事詩は、女が首を斬られて終わる。

物語が現実に漏れ出している場所

面白いのは、この虚構の登場人物たちが、タイの地図の上に実在の祠を持っていることだ。

カンチャナブリーの闘鶏山には、クン・ペーンとその父クン・クライの祠があり、金色の軍鶏の像が置かれている。ピチットの旧市街にはナーン・シマラーの祠。そしてカンチャナブリーのバーン・タムには、洞窟の中の鍾乳石に、ナーン・ブアクリーの祠がある。腹を裂かれて殺された女が、いまは参拝の対象になっている。

スパンブリーのケー寺は、クン・ペーンが呪術を学んだ寺だと自称している。境内には「クン・ペーンの家」が建てられ、彼がタマリンドの葉を蜂に変えたという場面にちなむ古木がある。パーレーライ寺はクン・チャーンの家の模型を作り、回廊にこの物語の壁画を巡らせた。アユタヤには、彼が投獄されたとされる牢の跡地に古民家が建てられ、「クン・ペーンの館」として観光名所になっている。

つまりタイでは、クマーントーンの起源譚は、国民文学であると同時に、参拝可能な聖地群でもある。日本でいえば、『雨月物語』の舞台に全部お社が建っていて、線香が絶えないようなものだ。

「そう語られている」作法と、それが違法になるまで

ここで、実際に行われたと語られる古い作法の話に戻る。繰り返すが、手順は書かない。書けるのは、何がどう語られ、どう記録され、そして現在どう扱われているかだけだ。

タイの呪術の写本に伝わるとされるクマーントーンの作り方は、いくつかの要素の組み合わせとして語られる。母の胎内で死んだ子であること。墓地であること。夜明け前に終えること。火を使うこと。

呪文を絶やさないこと。仕上げにヤーラックと呼ばれる漆を塗り、その上に金箔を貼ること。これらが並べて語られるだけで、具体的な分量や工程が民間の解説に出てくることはまずない。

それは呪術師の秘伝だとされているからでもあるし、そもそも大半の語り手が実際にはやったことがないからでもある。

これらの作法を担ったのは、モーピーと呼ばれる霊の専門家たちだったと言われている。呪術に通じた男たちで、彼らはその霊を自分の子として「養子にする」と表現された。叙事詩の中のクン・ペーンがやったことを、現実の呪術師もやった、あるいはやったと噂された。タイの民俗学者ロム・ペンゲーオは、叙事詩に書かれているということは、書かれた当時に実際の習俗が存在したはずだと述べている。

もうひとつ、必ず出てくるのがナムマン・プライという言葉だ。不慮の死を遂げた者や、妊娠中に死んだ女性の遺体から採るとされる油で、呪物に浸すと効力が跳ね上がると信じられてきた。これも現在は違法である。人間の遺体から採った脂を使って呪物を作る行為は、遺体の入手経路と扱いの両面で法に触れる。

では、タイの法律はこれをどう裁くのか。実はここが、かなり微妙だ。

こうした事件で使われるのは、タイ刑法199条である。条文はこうだ。出生、死亡、または死因を隠す目的で、死体または死体の一部を密かに埋め、隠匿し、移動する。または損壊した者は、一年以下の拘禁刑もしくは罰金、またはその併科に処する。罰金額は長らく2,000バーツで、2017年の刑法改正(第26次改正)により2万バーツに引き上げられた。

日本円にして、いまのレートでせいぜい数万円である。

つまり、この条文はもともと「証拠隠滅」を罰するための規定なのだ。呪物にする目的で胎児の遺体を持ち歩く行為を想定して作られてはいない。タイの大学に提出された法学の学位論文では、まさにこの点が正面から論じられている。199条の構成要件はこうだ。外形として「密かに埋める・隠す・移す・壊す」と「死体または死体の一部」。

内心として「故意」と「出生・死亡・死因を隠す動機」から成る。

ところが胎児は、法的には人としての地位を得ていない場合がある。それを「死体」に含めて処罰するのは、類推に近い拡張解釈ではないのか――という議論だ。

この論文は、生後に死亡した新生児の遺体を扱った1990年代の事件と、2012年に外国人が胎児の遺体を所持していた事件を比較する。構成要件が異なるのに判決の方向が揃っていることを指摘している。要するに、タイの司法はこの種の事件を、ありものの条文で何とか処理してきた。専門の立法はない。だから罰は軽い。

罰が軽いということは、抑止力も弱いということだ。そしてそこに、価格が付く。

プラクルアンとターグートの海――呪物文化のなかの位置

クマーントーンだけを取り出して「タイの怖い風習」と呼ぶと、必ず絵を描き損なう。これはタイの巨大な呪物文化の、ほんの一角なのだ。

タイ人の約七割が護符を身につけている、というのが繰り返し引用される数字だ。護符はタイ語でプラクルアン。仏像を小さくした金属や粘土の板で、首から下げる。バンコクのターパラチャン市場には、迷路のような護符屋の集積がある。掌サイズから小指サイズまで、丸、三角、四角、楕円の護符が、プラスチックの籠に無造作に放り込まれて売られている。

ターグート(薄い金属板に呪印を刻んで巻いた筒状の護符)、ヤン(呪印図)、それを肌に彫るサックヤン(呪刺青)。ミートモー(呪術師の刀)、レックライ(蝋燭の火で柔らかくなるという伝説の金属)。叙事詩『クン・チャーン・クン・ペーン』には、これらの護符と呪術が、ほとんど百科事典のように列挙されている。

タイの言語学者ウィリアム・ジェドニーはこう書いた。「タイの伝統文化に関する他のすべての情報が失われても、この一冊から全体を再構成できる」と。こうした細部の厚みを指してのことだ。

護符の素材には、しばしば「普通でないもの」が使われる。自然の理に反する性質を持つ物には力が宿るという発想があるからだ。水銀のように液体のように振る舞う金属。猫目石。そして――遺体に由来する素材だ。

この最後の系統が、クマーントーンと直結する。

戦後のタイでは、遺骨や遺灰を混ぜた護符を作る僧侶が現れた。ラヨーン県ラハーンライ寺のルアンプー・ティム(1879年から1975年)が1975年に作った「プラ・クンペーン・ポンプライクマーン」は、その代表格だ。中央に瞑想する仏陀を配し、その両脇に、跪く二体の小さな子どもの像を配した護符で、この二体が地元では二体のクマーントーンだと解釈されている。仏陀の加護と、子どもの霊の即効性。

研究者に言わせれば「抱き合わせ商品」である。この型が大当たりし、以後のクンペーン系護符はこの意匠を模倣し続けた。

そして値段が付く。タイの護符市場は、カシコン・リサーチ・センターの2019年の推計で、タイ国内の個人向け販売だけで170億から230億バーツ規模。外国人観光客向けや輸出を含まない数字である。近年は「ムーテルー」という流行語が生まれた。1980年代にタイで公開されたインドネシア映画の題名に由来する言葉で、正統な仏教教義の外側にある、運を良くするためのあれこれ全般を指す。

占い、護符、聖地巡礼、風水。

タイ商工会議所大学の調査では、この市場は100億から150億バーツと見積もられ、若い世代ほどデジタル経由で消費する。スマートフォンの縁起のいい壁紙。吉数の電話番号。

この海の中で、クマーントーンは特異な位置にいる。他の護符はたいてい、身につけて守ってもらう物だ。だがクマーントーンは、家に住まわせる者なのだ。

シノットの指摘が鋭い。タイには無数の霊がいる。木の霊、川の霊、山の霊、歴史上の人物の霊、そして街角に彷徨う無縁の霊(ピーレーロン、住処のない霊)。街を歩けば、小皿にひとくちの食べものと水を載せて、彼らのために置いてあるのが目に入る。だが、家の中に招き入れて家族として暮らす霊は、子どもの霊だけなのだ。

なぜか。持ち主たちの答えは一貫している。大人の霊は制御できないから。子どもなら手に負える。だから「養子にする」(ラップリアン)という言葉を使うのは、数ある霊の祀り方のうち、子どもの霊だけなのだ。

2010年11月、寺の霊安室で

ここから、報道された事実の話になる。

2010年11月16日、バンコク旧市街のパイグン・チョーティナーラーム寺――通称パイグン寺――の周辺で、耐えがたい腐臭がするという苦情が寄せられた。警察が寺の霊安室を調べた。タイの寺には火葬前の遺体を預かる霊安室があり、専属の遺体処理人がいる。

最初に見つかったのが、ビニール袋に包まれた348体の胎児の遺体だった。

11月19日、警察が再度捜索に入り、新たに開けた区画から、さらに大量の遺体が出た。合計で2,002体。火葬炉が一か月前に故障して止まっていたため、処理が滞っていた、と遺体処理人は説明した。別の供述では、四年前から胎児を受け取り続け、乾くまで置いてから焼いていた、とも語られた。

境内の地面に、白いビニール袋が几帳面に並べられたのだ。慈善団体の職員と保健当局と警察が、ひとつずつ数えた。

逮捕されたのは三人。遺体処理人二人が遺体隠匿の罪に問われ、最高で一年の拘禁刑と2,000バーツの罰金。そしてもう一人、無許可の診療所を開設して堕胎を行っていたとされる33歳の女性だ。彼女は、複数の違法な堕胎クリニックから胎児を集めて寺に運んでいたと供述した。一体につき500バーツあまり、当時のレートで16ドルほどを受け取っていたと述べたと報じられた。

タイでは当時、堕胎は原則として違法だったのだ。強姦・近親相姦による妊娠、母体の危険、胎児の異常という限られた場合を除いて認められない。にもかかわらず、公式統計に基づく推計では年間約30万件の堕胎が行われ、その大半が闇のクリニックだった。

この事件は、タイ社会でタブーだった堕胎の議論を一気に表に出した。与党議員が法改正案を出し、当時のアピシット首相は「現行法は十分に柔軟だ」として改正を拒んだ。バンコクの4,000軒とも言われる小規模クリニックへの一斉手入れが始まったが、25軒を査察して閉鎖したのは1軒だけだった、と保健省の担当者が語っている。

そして、怪異の側の反応が、この事件をいっそう忘れがたいものにした。

寺の霊安室の前に、誰が言い出すともなく祠ができた。牛乳のパックが供えられたわけだ。子どもの玩具が置かれた。2,002の魂を鎮めるために、11月27日、寺は大規模な法要を営んだ。新聞社の取材に、寺の外に並ぶ宝くじ売りは、その日いちばん売れている番号を教えてくれたという。

02と、07と、27。2,002体の2、最初に遺体が見つかった霊安室の扉の番号7、そして法要の日付27。

ここまでが、多くの報道が伝えた話だ。だが、その先がある。

この寺はその後、「クマーン2002」と名付けた像の頒布を始めた。三種類の意匠があり、大きさと価格が分かれている。境内の大きな屋根の下に横断幕が張られ、そこにはこう書かれている。この寺を訪れ、胎児たちの祠を参り、すでに霊が宿った像を家に迎えることができます――と。

見つかった2,002の魂は、行き場を与えられ、同時に商品になった。この二つは、タイの文脈では矛盾しない。徳を積ませてやることと、値を付けることは、同じ行為の裏表なのだ。

なお、この寺で起きたことについて、タイ研究者エリック・コーエンは2012年に論文を書いている。彼はこの事件を、呪術・宗教的な次元と、社会・政治的な次元の二つから分析した。前者――すなわち霊をどう送るかという問題は、仏教が解決した。法要をやればいい。だが後者、つまり現実の堕胎法制の矛盾は、仏教が障害になって解決できなかった。

当局は法を維持し、国のイメージを守るほうを選び、根本的な問題――厳しすぎる堕胎法と。実際の性行動との乖離――は放置された。彼はそう結論している。

2012年5月、中華街のホテルで

そして、日本でも報じられて一気に知られるようになったのが、この事件だ。

2012年5月、バンコクの中華街ヤワラート地区のホテルの一室で、警察がスーツケースを開けた。中には、乾燥させて金箔をかぶせた六体の小さな遺体が入っていた。

逮捕されたのは28歳の男性。報道を総合すると、香港生まれで台湾系の両親を持つ英国籍の人物だった。日本語の記事では「台湾人男性」と要約されることが多いが、より正確には台湾にルーツを持つ英国籍の男性である。台北で呪物を扱う店を経営していたと報じられた。

きっかけは通報だった。呪術のサービスを宣伝するウェブサイトを通じて、裕福な客に嬰児の遺体が持ちかけられている――という情報が警察に入っていたのだ。男性が滞在していたのはカオサン通りの安宿だったが、遺体は別のホテルに置かれていた。

警察の説明には揺れがある。バンコク警察の児童女性保護分隊長ウィワット・カムチャムナンは、ロイター通信に「二か月から七か月の子どもの遺体で、いくつかは金箔で覆われていた」と述べた。他の通信社には二か月から八か月と伝えられた。逮捕にあたったキッティマー・トンチャイ警察中佐は、英国放送協会にこう語っている。遺体は乾ききっていて、胎児なのか嬰児なのか見た目では判別できない。

違法な堕胎で取り出された胎児なのか、生まれた赤ん坊の遺体なのか。それを確かめるため、法医学的な検査に回さなければならない――と。

そして彼女はこう続けた。信じている人たちは、胎児や嬰児の遺体を金箔で包んで家に置くと幸運が来ると考えています。幼い子どもや胎児には良い霊が宿っている、と信じているのです。

本人の供述として報じられたのは、次のような内容だ。数日前にバンコクで別の台湾人から20万バーツで購入した。台湾に持ち込んで、六倍ほどの値で売るつもりだった。一体あたり18万から20万バーツで売れる。適用されたのは前述の刑法199条で、最高で一年の拘禁刑と2,000バーツの罰金。

彼は保釈された。

南華早報の追跡記事はさらに生々しい数字を伝えている。男性は警察に対し、保存状態の良い胎児一体を中国人の実業家に3,000万バーツで売ったことがあると豪語した、というのだ。これはあくまで本人の供述として報じられた内容であり、裏付けられた取引ではない。だが、この数字が報じられたこと自体が、「本物」の噂がどれほどの熱量で流通しているかを物語る。

台湾側の報道はもっと即物的だった。台北のある葬儀業者は、嬰児の遺体を台湾に持ち込む密輸業者には二通りの稼ぎ方がある、と紙面で語っている。ひとつは、遺体に金を仕込んで運び、着いてから取り出すやり方。つまり実質は金の密輸だ。もうひとつが、遺体そのものを高値で売るやり方である。

この事件には、後日談と呼ぶべき挿話がある。

押収された遺体は、捜査のあいだ警察署に置かれていた。シノットの論文が紹介しているのだが、事件を扱った警察署の女性警部補が、タイの記者の取材に応じて、こんな体験を語っている。夜の九時ごろまで残業していたら、子どもの泣き声が聞こえた。同僚に「パソコンで何か鳴らしてる?」と訊いたが、違うという。

同僚にも聞こえていた。自分はクマーントーンを育てたことがないから、どうすればいいか分からない。

同僚が「お菓子と飲みものを買ってきてあげたら」と言うので、そうした。その後、同僚が外に煙草を吸いに出ると、耳元で囁く声がした。「お姉さん、すごく優しい」

高い階級の警察官が、押収した遺体の泣き声を聞いたと公に語り、それが咎められるどころか、心優しい行いとして受け止められる。タイにおけるこの信仰の位置が、この一件によく出ている。同時に、この語りは対比の構造を持っている。金儲けのために子どもたちを運ぼうとした「心の悪い人間」と、菓子を買ってやった「心の良い警察官」。

子どもの霊は、大人が使う資源であると同時に、大人が守ってやるべき弱者でもある――シノットはこの二重性を、タイの子ども観そのものの反映として読んでいる。

摘発はその後も続いている

2012年の事件が特別だったわけではない。報道された範囲だけを並べても、この種の事案は途切れていない。

1990年代半ば、サラブリー県のノーンラカム寺で、見習い僧が嬰児の遺体を火にかけている写真が出回り、摘発された。彼は滴った脂を「ヤーサネー」、つまり惚れ薬として参拝者に売っていたとされる。彼は還俗させられ、逮捕されたが、実刑には至らなかったと報じられている。当時のタイの新聞は、殺人容疑で逮捕された住職や、女性との関係が発覚した僧の不祥事と並べて、この件を「仏教界の地獄」と論じる社説を書いた。

2015年4月には、チェンマイ県の寺の境内にあるヒンドゥーの祠の下から、ガラスの棺に入れられた嬰児の遺体が見つかった。金箔で包まれていたのだ。県警の副本部長は、寺の住職が葬儀屋から3,000バーツで遺体を買い、クマーントーンの護符にするつもりだったと説明していると報道陣に語った。

2018年12月には、ラヨーン県バーンチャーン郡のスックニラン墓地で、コンクリートの納骨区画がこじ開けられた。生後まもなく死亡した嬰児を中心に十体の遺体が盗まれたのだ。現場の空になった区画からは、聖糸を巻いた素焼きの壺が見つかっている。近隣住民は、夜中に祈りのような声が聞こえ、ヘッドランプらしき十ほどの光が動いていたのを見た、確かめようと近づくと森へ逃げていった、と警察に話した。

2020年7月には、ノンタブリー県のバーンブアトーン墓地で、流産した胎児の遺体が納骨後に消えた。両親が翌日に葬送の儀式のため戻ったところ、遺体がなかったのだ。骨まで持ち去られ、壁の血の跡まで拭き取られていた、と報じられた。母親は、占い師から「そういうことが起きるかもしれない」と警告されていたと語っている。

2022年1月には、ブリーラム県でこんなニュースが流れた。覚醒剤所持で逮捕された21歳の女性が、こう供述した。「自分が使いたかったのではない、クマーントーンが欲しがったので買わされた」と。取引量に不満があって販売人を交流サイトで名指しで批判し、それが摘発のきっかけになった、という間の抜けた事件である。

この供述をタイの人々は笑ったが、笑ったということは、その言い訳が一応「通じる」文脈がある、ということでもある。

そして2025年2月には、サケーオ県アランヤプラテートの民間配送店に持ち込まれた小包から、乾燥した嬰児のような遺体が二体見つかり、店主が通報した。宛先はチェンマイだった。報道によれば、送り主とされる呪術の施設の主宰者は、前年12月と1月に訪れた中国人の客が「ルークグロック」を気に入ったのだ。3万バーツの現金で買ったので発送した、と説明した。

一方で同じ人物は、あれは本物の嬰児ではなく、本物そっくりに作った樹脂製の造形に呪をかけたものだ、とも主張したと伝えられている。警察は法医学研究所に鑑定を依頼し、結果が出るまで誰も立件できない状態だ、とした。

ルークグロックというのは、胎児の姿をした呪物を指すタイの古い言葉だ。この事件の構図が示唆的なのは、「本物なのか、精巧な偽物なのか」が、当局にとっても買い手にとっても最後まで分からない、という点である。市場は、その曖昧さの上に成り立っている。

いまのクマーントーンは何でできているか

現代のタイで流通しているクマーントーンの圧倒的多数は、遺体とは無関係だ。

素材は陶器、樹脂、プラスチック、金属、木。意匠はほぼ定型で、アユタヤ時代風の巻き衣をまとい、頭のてっぺんに髷を結った少年が、合掌して座っているか、金の袋を抱えている。表面に金箔を貼ることも多い。寺や市場で入手でき、値段は数百バーツの量産品から、有名な僧が入魂した古いものになると数万、数十万バーツまで幅がある。

素材そのものに由緒を求める流儀もある。取り壊された古い寺の建材から彫ったものが珍重されるのは、その建物が長年のあいだ僧たちの読経を吸い込んでいるから、という理屈だ。

問題は、この像に霊をどうやって入れるか、である。タイ語でプルックセークという。物に聖性を吹き込む儀式の総称で、民俗学者プラヤー・アヌマーン・ラーチャトンの定義では「呪文や真言によって人や物の潜在的な力を呼び起こすこと」を指す。仏教僧が行うこともあれば、バラモン祭司、モーピー、あるいは霊媒が行うこともある。

ここで注目すべき変化が起きている。伝統的には「遺体そのものが霊の家だから、入れる儀式はいらない。像や護符のような代用品にこそ儀式が要る」と考えられていた。ところが現代の多くの持ち主にとっては、儀式そのものが省略可能になりつつある。夢に子どもが出てきて「置いてほしい」と言う。

それを受けて像を買う。像に自分で語りかけて、住んでもらう。

シノットはバンコクの護符市場で、自分でプルックセークをして霊を招くための説明書付きの小さな像を買っている。手作りのキットである。

この変化は、クマーントーンという習俗の重心を決定的に動かした。かつては、呪術師が霊を捕まえて縛り、使役するものだった。いまは、霊が自分から来て、住む家をもらい、家族になるものだ。前者は使役、後者は養子縁組である。

タイの人々がこの二つを区別する語彙も整っている。クマーンテープ(天上的な子ども)、クマーンピー(ピーは幽霊)、クマーンプライ。ルークグロック、ラックヨム。研究者の整理によれば、これらは仏教的な存在の階梯におおむね対応していて、上位ほど「幽霊」から遠ざかる。ある熱心な持ち主はシノットに、自分の霊の子はクマーントーンではなくクマーンテープだ、と強く訂正したという。

クマーントーンという語はどうしてもピー、つまり幽霊の匂いがする。天上的な存在だと言いたい人には、それが不満なのだ。

呼び名を上へずらすこと。素材を遺体から陶器へ、陶器から可愛らしい人形へと替えていくこと。この二つは同じ方向を向いている。死の匂いを薄めながら、霊との親密さだけを残すという方向だ。

双子の芸能人が1,689体を並べた家

再燃の経緯を追う。

タイでクマーントーンの話題が中産階級の茶の間に入ったきっかけのひとつが、ジャックラパンとジャックラポンのカンソムポップ兄弟だ。ジャックとジルの愛称で知られた双子の歌手で、バンコク・ポストのスペクトラム誌が2014年に彼らの自宅を取材している。記者はジーラワット・ナー・タラーンという署名だった。

自宅の祈りの部屋には、大小さまざま、色とりどりのクマーントーンが数百体、棚に並んでいる。反対側の壁には大きめの像を集めた祭壇があり、その前に水のボトルとプリンを載せた皿が置かれている。当時41歳、髪を撫でつけ、デザイナーズジーンズを穿いた、どこから見ても都会の専門職といった風体の二人が、こう言う。

「彼らは家族みたいなものです。兄弟であり、子どもでもある」

「迷信だと言われればそれまでです。でもこれはタイ人の伝統的な信仰の一部なんですよ」

始まりは1997年だった。アジア通貨危機で家業が傾いた。当時まだ十代だった二人は、何にすがればいいか分からなかったのだ。そのとき母親が、祖父の代からあったクマーントーンを差し出した。

「何かつかまるものが欲しかったんです。成功できるように助けてくださいと祈った。そうしたら、うまくいった」

取材時点で、二人が所有するクマーントーンは1,689体。彼らは自著も出している。そこには育て方の作法、招くためのカター(真言)、富を求めるときの作法、そして自分たちと信奉者たちの体験談がびっしり載っている。その本の中の、ある実業家の証言がいい。

「私はクマーントーンと一緒に育ちました。母にどこから来たのかと訊いても、昔すぎて覚えていないと言う。大人になって自分の商売を始めたとき、クマーントーンを育てると得るものが多いと知った。ブーチャー(供養)を始めて、世話の仕方を勉強しました。赤いソーダとお菓子をあげるとか。

話しかけなければいけない。仕事の話をして、運をお願いする。私は彼を自分の寝室に移して、祭壇を作りました。

あるとき、悩みが多すぎて眠れない夜があった。抜け道が思いつかない。それで彼に打ち明けて、助けてくださいと言った。そうしたら夢を見た。半分眠っているあいだに、子どもがベッドの脇に座って、私を慰めに来るのが見えたのだ。

顔は見えなかったが、私が育てているクマーントーンのようだった。目が覚めたら、気分が良くなっていた。世話をすれば彼は助けてくれる。世話をしなければ、悪いことが起きる。そう学びました」

この証言が、この信仰の核心を過不足なく言い当てている。物を供えることではない。毎晩話しかけて、悩みを打ち明けて、返事のように夢を見ること。そして、その関係を切らさないために、明日も赤い炭酸を取り替えること。

タイ社会がこれを受け入れたのは、彼らのような「近代的な都市生活者」が、堂々とテレビで語ったからだ。二人の本が繰り返し強調しているのは、この習俗が深く伝統的で歴史があるものだ、という点である。伝統に接続することで、後ろ暗さを漂白する。研究者はこの戦略を、正しく見抜いている。

人形が飛行機の座席を取った――2016年のルークテープ騒動

そして2015年から2017年にかけて、隣接するもうひとつのブームが、この文化を世界のニュースにした。

ルークテープ。タイ語で「天使の子」。1990年代にアメリカで流行した「リボーン・ドール」――既製の人形を職人が塗り直した。目や身体の部品を交換して、本物の赤ん坊そっくりに仕立て直したもの――が、タイに輸入された。そこで霊を宿らせる伝統と合体したのだ。

作り手の家を訪ねた英国放送協会の記者は、こう書いている。郊外のゲート付き住宅地の、けばけばしいピンクの家。祭壇の上にちょこんと乗った金髪の人形の頭と、その隣に供えられた食べものと水。外には、特製クリームでマッサージされた手足が乾かしてある。一室では、若い女性が二人、人形の部品に囲まれて座り、爪にマニキュアを塗り、鼻にピアスを付け、柔らかなプラスチックの頭皮に本物の人毛を織り込んでいた。

人形には呪印の刺青が入れられ、腹には繁栄の象徴として米が詰められる。

十四年この人形を集めてきたというマナンヤー・ブーンミーは、お気に入りのペットという名の人形の髪を梳かしながら語った。四年ほど前、小さな土産物を売っていたころ、プローイという名の人形が自分を助けようとしている、と感じた。本物の子どものように扱いはじめたら、商売が伸びたわけだ。息子の育児の悩みも乗り越えられた。

「ルークテープには気持ちの上で頼れます。生きているみたいに私たちを幸せにしてくれるし、連れて歩けるから。着せ替えをして、話しかけるのが好きなんです。ちゃんと世話をすれば、夢に出てきてくれます」

彼女は一体1,000ドルを超える値で売るようになった。人形に「魂」を入れる儀式も自分で行う。ただし彼女は、これはクマーントーンに宿る霊とは違うものだ、と言う。

同じ取材で、別の制作者ママ・ニンはもっとはっきりと線を引いている。「これは霊(ウィンヤーン)ではありません。私が真言を唱えて作り出した魂(ドゥアンチット)です」。しかも彼女は、自分はヒンドゥーの女神パールヴァティーの依代であり、女神が人形のための魂を供給しているのだ、と説明した。死者の霊には触れていない。

新しい生命の本質を吹き込んでいるだけだ――という理屈である。

これは単なる商売上の建前ではない。死体に触れる呪術を嫌がる中産階級の感覚に、信仰の側が適応した跡なのだ。

2016年1月、この人形が一気に国際ニュースになった。格安航空会社タイ・スマイル航空の社内文書が流出する。チケットを買えば人形を乗客として扱うよう乗務員に指示していたことが分かったのだ。座席が与えられ、機内食と飲みものが出る。ただし非常口列は不可。

離着陸時にはシートベルトを締める。社内文書は、人形が「生命を吹き込まれる」儀式を経ているから子どもとして扱ってよいのだ、と説明していた。

文書は同時に、他の乗客の目に触れにくい席に座らせるよう気を配れ、とも書いていた。気味悪がられることを分かっていたのである。

すぐに当局が介入した。タイ民間航空局の報道官はバンコク・ポストに「国際的な航空規則では、乗客とは人間のことだ。だから航空会社が人形に切符を売ることは認められない」と述べた。1月28日には空港局長官チュラー・スックマノップが、九社の航空会社と六つの主要空港の代表と協議したうえで指針を出した。人形は荷物または携行品として申告し、ギターのような楽器や高価な鞄と同じ扱いで追加座席を買うこと。

離着陸時は上の棚か座席の下に収納すること。

同じ週、バンコクのある焼肉店が「信奉者はどなたでも歓迎」として人形に子ども料金の食事を出すと発表した。警察は、人形の輸入に関税逃れの疑いがあること。そして麻薬の運び屋に使われうることを警告し、実際に覚醒剤200錠を隠した人形を摘発した。1月25日の月曜日には、プラユット首相が国民に向けて、この流行に浮かれるな、買えないなら買うなと呼びかけた。

人形の価格は1,500バーツから、高いもので3万バーツ。当時のレートで40ドルから800ドルほど。タイ経済は2014年の軍事クーデターのあと停滞し、政治の先行きも見えなかった。ロイター通信はこの流行を、経済不安の反映として報じている。

ブームは数年で引いた。だがルークテープが消えても、赤い炭酸を飲む子どもの霊は消えなかった。冒頭に書いたサワーンアロム寺の僧が語ったとおりだ。うまくいかなくなった人々が人形を寺に置いていく。寺はそれを塔の小部屋に並べて、クマーントーンと同じように赤い飲みものを供えている。

チェンマイ大学のアッタチャック・サッタヤーヌラック教授は、この二つの流行を並べて見ている。彼によれば、タイでは第二次大戦後の混乱期に、幸運をもたらす物への需要が急増した。クマーントーンへの関心もこのとき高まった。ただし当然ながら、本物の胎児の代わりになるものを探す必要があったのだ。そして彼はこう付け加える。

「タイ人の65パーセント以上がインフォーマルセクターで働いています。彼らの生活は常に不安定だ。そして最近は国全体が混乱の時期を通ってきた。人々は慰めと、守ってくれるものを探しているんです」

交流サイトと動画サイトのクマーントーン

いまこの習俗がいちばん激しく消費されているのは、寺でも市場でもなく、画面の中である。

短い動画の投稿サイトには、クマーントーンに赤いファンタを飲ませる映像が無数に上がっている。ストローを挿す。カメラを固定する。数分後、液面が下がっている――という構成だ。像が首を動かしたと主張する動画もある。

持ち主が像に話しかけて、返事を「解釈」する動画もある。

タイ国内の調査では、護符関連の言及のうち圧倒的な割合が短い動画のプラットフォームに集中している。生配信で売る商法が売上を何倍にも押し上げたと報告されている。

海外の反応は、もっと極端だ。

2021年、ベトナムで大きな騒ぎが起きた。登録者数が国内七位、870万人以上という人気投稿者の女性が、2月27日、「勉強がよくできるように運をもらう」という題の動画を投稿した。彼女はクマーントーン風の人形を抱えて、視聴者――その多くは小中学生だ――のために祈願すると宣言する。

人形に話しかけ、うなずくように頭を動かさせ、「クマーントーンに何か頼むときは先に飲みものをあげるのが暗黙の決まり」と説明して、コーラの缶を開ける。そして、動画の中で人形が飲む場面は映らないまま、彼女は言う。ほら、うちの子はよく飲むでしょう。だからみんな、いい成績が取れますよ。

保護者からの抗議が殺到した。彼女は「あれはクマーントーンではなく普通の人形で、普通の人形に祈っても意味がない」と撤回動画を出した。自分の大学の成績を見せて、祈るより勉強しろと視聴者に説いたのだ。だが動画はすでに保存され拡散していた。3月16日、地元当局と警察の聴取を受け、迷信を助長する情報を提供・共有したとして750万ドンの罰金を科された。

彼女は動画をほぼすべて削除し、「さよなら」という題の動画を最後に上げたのだ。

中国語圏では、また別の消費のされ方をしている。タイの護符全般が「泰国仏牌」として若年層に広まり、就職難と将来不安を背景に、恋愛運や財運を求める購入が増えた、と2026年に報じられている。とりわけ「暗い護符」と呼ばれる一群――寺の僧ではなく民間の呪術者が作り、墓地の土のような普通でない素材を使っていると噂される。効きが速いとされるもの――に人気がある。クマーントーンはこの系統の看板商品だ。

タイの当局は現在、この越境取引が資金洗浄に使われている疑いを警告し、複数省庁の合同取り締まりに乗り出している。護符には定価がないので、安物を高額商品として売買記録を作れば、汚れた金を洗える――という指摘である。

映画も後押ししている。2024年にはフィリピンで『クマーントーン』という長編ホラー映画が公開された。監督は俳優のシアン・リム。全編タイのバンコクとアユタヤで撮影され、亡くした息子を取り戻そうとしてクマーントーンの像に頼る母親の話だという。監督はこの存在を、フィリピンのティヤナクという本来的に邪悪な妖怪と比較して、クマーントーンはそうではないと語っている。

2025年にはタイで、双子のクマーントーンが登場する恋愛超常ドラマも放映された。

シンガポールの若者の体験談も出てきている。2022年、地元メディアに語った25歳のバリスタの話が面白い。2016年にタイのホラー映画を観てクマーントーンを知り、友人とマレーシアまで「師匠」に会いに行った。動機は金運ではなく身の安全だった。毎日バイクで走るから、誰かに危害を加えられたときに守ってほしかったのだ。

師匠が勧めたのは、七、八年ものの、世話が楽な200ドルほどの品だった。

信心深い母親は震え上がったが、小言を言うだけで止めはせず、彼は居間に小さな祭壇を作った。

問題は世話だったのだ。毎週、食べものと水と黒い蝋燭を用意しなければならない。黒い蝋燭を焚くと力が回復すると教わったからだ。

「毎週木曜に、ぶっかけ飯と缶の飲みものを買ってきてた。いちばんいいのは赤いファンタ。血を表すからね」

一年で、彼は面倒になって、師匠に返した。

タイ人の持ち主が二十年、三十年と続けていることを、彼は一年で降りた。それは彼が不信心だったからというより、この習俗が本来、家に人がいて、毎日そこに帰ってきて、その子に話しかける生活を前提にしているからだろう。クマーントーンは、単身者の週一回の供物では回らない。

証言をもう少し――霊と暮らすというのはどういうことか

研究者が集めた聞き取りから、いくつか紹介する。ここに出てくるのは、いずれも仮名か通称で記録された、ごく普通のタイの人々だ。

ヤイという六十代後半の女性の話。再婚して夫の家に移り住んだころ、彼女は続けざまに夢を見た。よちよち歩きの小さな男の子が現れて、かまってほしい、世話をしてほしいとせがむ。夢の中で彼女はその子と遊び、風呂に入れてやった。夢はとても心地よく、数週間続いた。

しかも、夢の中で子どもは成長したのだ。数週間後には学齢期になっていた。彼女は玩具を買ってやりたくなった。それは事実上、後見人になるという意味だ。

ところが夫が怖がって、家の扉に呪印を貼った。以後、子どもは夢に現れなくなった。彼女は、いなくなったことを悲しんでいる。

ケーオという女性が見たのも夢だった。男の子が呼びかけてきて、ここに居てもいいかと訊く。クマーントーンの格好をしていた。巻き衣を穿いて、頭のてっぺんに髷を結っていた。彼女は夢の中で、助けてくれるかと訊き返したのだ。

子どもはうなずいた。数か月後、彼女はその子の気配を感じるようになり、霊媒に頼んで像に正式に住んでもらった。

ジムという女性の説明は実務的だ。彼女は霊に「言うことを聞く」ようしつけた、と語る。物を供えるより、いつも心に思っていることのほうがずっと大事だ、と。そして、客が泊まる日には必ず事前に言い聞かせる。

マーオという二十代前半の女子大生の話は、前にも触れた喘息の話だ。子どものころ発作が出ると眠れなかった。父は、クマーントーンが彼女の眠りを見守っていると言った。息が苦しい夜には、その子が枕元に座っていたのだ。朝起きると楽になっていた。

彼女にとって、その霊は兄弟だ。子どものころは玩具で遊ぶ子どもの姿を思い描いていたが、いまは自分と同じくらいの歳の若者になっている。

そしてヤイは、女児型のクマーンケーオについてこう言った。いつもそこにいる友だちなのだ、と。困ったことがあれば、彼女に話す。

こういう話を積み上げていくと、あることに気づく。シノットも論文で正面から書いているのだが、持ち主たちは、自分の霊の子が「誰だったのか」にほとんど関心がない。生前の名前も、どこで死んだのかも、何歳で死んだのかも訊かない。中絶された胎児の霊も、死産の嬰児の霊も、幼くして死んだ子の霊も、区別なく同じ扱いを受ける。あれほど親密な関係を結びながら、個人としての履歴には興味がないのだ。

この一見した矛盾こそが、実は重要なのだとシノットは言う。霊を、死んだ誰か個人から切り離すからこそだ。遺体を祀ることから、像を迎えることへ、さらには工場で作られた人形を迎えることへ。この習俗は形を変えて生き延びられた。個人の痕跡を消せば、量産できる。

同じ国の、もうひとつの子ども――アイ・カイの爆発

タイの子ども霊信仰が、いまも新しく生まれ続けていることを示す例がある。

タイ南部ナコーンシータンマラート県シチョン郡のチェーディー寺。ここに祀られているアイ・カイという少年の霊は、アユタヤ時代の高僧ルアンプー・トゥワットに従っていた九歳ほどの寺男だった、とされる。師に「ここを守れ」と言われ、誓いを立てた。数年後、師が戻ってくると聞いた彼は、誓いを破って連れていかれるのを恐れ、寺の池に入って自ら命を絶った。以来、その霊は寺を守り続けている――という話だ。

長いあいだ地元だけの伝承だった。1954年、ナコーンシータンマラートの伝説的な警察官で呪術の大家でもあったクン・パンが、霊媒を介してこの少年の存在を「再発見」したとされる。1982年、村長が寺の木を二本使って少年像を彫った。1983年、住職が最初のアイ・カイ護符を作った。

ちょうどそのころ、寺に一時駐屯した部隊の兵士たちが、初日の夜に見えない子どもに腕を引っぱられ、ヘルメットを叩かれ、銃架を揺すられたと訴えたわけだ。村人が「アイ・カイだ、供物をして食事を分けろ」と助言し、そうしたら収まった、という話が広まった。

そして2020年、新型コロナウイルスの流行でタイの観光が壊滅したとき、この霊が全国区になった。五月末、ある女性が台所で少年が走り回るのを見た、爆竹を鳴らしたら22という数字が見えた、その番号で宝くじが当たった――という話が爆発的に広まったのだ。

結果は数字が物語る。寺の月間参拝者は30万人から50万人に増えた。八月半ばには護符が売り切れて頒布を停止した。十月には、カティンと呼ばれる年に一度の寄進期間だけで5,600万バーツ、180万ドル超を集めたと発表したのだ。ドンムアン空港からの直行便は満席になり、新規路線が就航した。

ホテルの稼働率が上がり、観光収入が増えた。県内で、この寺だけが好景気だったのだ。

参拝者は、願いが叶うと寺に戻って礼をする。爆竹を鳴らす。そして、鶏の像を奉納する。理由は、アイ・カイが闘鶏好きの腕白坊主だったからだ。かつては本物の鶏を持ってきたが、寺が困るのでセメント製の像になった。

高さ四メートル近い、鏡の欠片を貼った巨大な鶏が12万バーツで売られている。奉納された鶏は寺の裏の「鶏の墓場」に集められる。サッカー場ほどの土地に、何十万という小さな鶏の像がびっしりと整列している。

寺は鶏を並べるために20ライ(約3.2ヘクタール)の土地を取得した。

他の供物も、完全に子どもの霊への供物だ。玩具。パチンコ。迷彩服だ。サングラス。

そして赤い水。

構造はクマーントーンと同じである。死んだ子ども。玩具と菓子と赤い飲みもの。願いをかける。叶ったら礼をする。

違うのは、家に置くか、寺に会いに行くかだけだ。

そしてこの爆発は、2007年のジャトゥカム・ラーマテープ騒動の再演でもあった。あのときは、ナコーンシータンマラートで1987年に作られていた円盤型の護符が全国的な熱狂を呼んだ。きっかけは、考案に関わった伝説の警察官の葬儀だった。そして「スーパーリッチ」「理由なき金持ち」「雨のように降る金」といった名前の新シリーズが乱造された。

ある金融調査機関はその年の市場規模を220億バーツ、6億5,000万ドルと推計したのだ。

護符の引換券を求めて一万人以上が学校の敷地で野宿し、将棋倒しで女性が一人死亡した。そして供給が需要を追い越した瞬間、価格は崩落し、いまではほとんど忘れられている。

タイの経済が不安定になるたび、新しい聖なる商品が生まれて、燃え上がり、燃え尽きる。1997年の通貨危機のあとにはアユタヤ時代の王女の信仰が国民的現象になった。2007年にはジャトゥカムが、2020年にはアイ・カイが来た。クマーントーンがその中で異質なのは、燃え尽きないことだ。ブームの波を何度も被りながら、数百年、細く太く続いている。

家の中にいるからだろう、と私は思う。流行は買い換えられるが、家族は買い換えにくい。

座敷童子と、どこが同じで、どこが決定的に違うのか

日本人がクマーントーンの話を聞いて、最初に思い浮かべるのはたぶん座敷童子だ。実際、この二つはよく似ている。

座敷童子は、主に岩手県を中心とする東北で語られてきた、家や蔵に住む子どもの姿の霊である。この存在を全国に知らしめたのは、柳田國男が1910年(明治43年)に刊行した『遠野物語』だ。第17話には「この神の宿りたまふ家は富貴自在なり」とある。いる家は栄える。神として扱われている。

そして第18話が恐ろしい。土淵村山口の孫左衛門家という、主従二十数人を抱える旧家から、二人の美しい童女が出ていくのが目撃される。その後、一族は毒キノコに当たって、ほぼ同時に死に絶えた。残された七歳の女児も、子を持たぬまま世を去り、家は絶えた。

いる家は栄え、去った家は滅ぶ。この二面性が座敷童子の核である。単なる福の神ではない。家の盛衰そのものを背負う存在だ。

さらに『遠野物語』の語り手だった佐々木喜善は、1920年の『奥州のザシキワラシの話』で、この霊に階層があることを記録した。奥座敷に現れる色白の美しい童子はチョウピラコと呼ばれて最上位。土間を這い回るノタバリコ、台所で臼を搗くような音を立てるウスツキコは下位で、薄気味悪い存在とされる。

そして佐々木自身が、座敷童子の正体は、圧殺されて家の中に埋められた子どもの霊ではないか、と書いている。東北には「臼殺」という言葉があり、口減らしのために間引く子を石臼の下敷きにして殺し、墓ではなく土間や台所に埋めたという。土間を這う下位の童子と、間引かれた子が埋められた場所が一致してしまう。民俗学者の小松和彦は、座敷童子を、旧家層における貧富の差とその変動を説明するための原理として読んでいる。

さて、クマーントーンとの違いだ。

いちばん大きいのは、意志の方向である。座敷童子は、来る。向こうから来て、住み着き、飽きたら出ていく。人間の側にできることは、いるあいだ大事にすることだけで、呼ぶ手段は原則としてない。宿泊すれば会えるという旅館があるくらいで、制度としては「買えない」のだ。

クマーントーンは、迎えられる。寺で選べる。市場で選べる。霊媒に頼める。夢に出てきたから迎えることもあれば、商売の景気づけに迎えることもある。

要するに、人間の側から始められる。

もうひとつの違いは、日常の濃さだ。座敷童子との交渉は基本的に起きない。足音を聞き、姿を見るが、会話はしない。クマーントーンは、毎日話しかける対象である。飲みものの銘柄まで決まっている。

願いごとを具体的に伝える。旅行に連れていく。写真を撮る。

そして最後の違いが、いちばん重い。座敷童子の富は、説明の原理だ。あの家がなぜ栄えたのか、なぜ突然没落したのかを、後から説明するために持ち出される。クマーントーンの富は、契約の対価である。世話をすれば来る。

怠れば止まる。前者は物語で、後者は取引だ。

飴買い幽霊――母が子を養う、まったく逆向きの話

日本にも、死んだ子どもと生きている大人が結ぶ関係の話がある。ただし向きが逆である。

京都市東山区の松原通、六道の辻。ここは平安京の葬送地だった鳥辺野の入口にあたる場所で、あの世とこの世の境目とされてきた。近くには六道珍皇寺、六波羅蜜寺、西福寺が並ぶ。その角に、いまも「みなとや幽霊子育飴本舗」という飴屋がある。

添えられた由来書によれば、慶長4年(1599年)、江村という家の妻が亡くなって葬られた。数日後、土の中から幼児の泣き声がするので掘り返すと、亡くなった妻が産んだ子が生きていた。ちょうどそのころ、毎晩飴を買いに来る女がいたが、子が助け出されてから、ぱたりと来なくなったのだ。この子は八歳で出家し、修行を怠らず、のちに高名な僧となった。寛文6年(1666年)3月15日、六十八歳で入寂した――と。

各地に伝わる形では、もっと怪談らしくなる。夜、店じまいした飴屋の雨戸を叩く音がする。出てみると、青白い顔をして髪を乱した若い女が、一文銭を差し出して「飴をください」と言う。翌晩も、その翌晩も来る。ところが銭箱を改めると、受け取った銭が樒の葉に変わっている。

七日目の晩、女は「もう金がない」と羽織を差し出す。

その羽織を店先に干していると、通りがかった長者が「これは先日死んだ娘の棺に入れたものだ」と言う。墓を掘り返すと、娘の亡骸のそばで、赤ん坊が飴をしゃぶっていた。三途の川の渡し賃として持たせた六文銭は、なくなっていた。

上方落語の『幽霊飴』では、女の消えた墓の場所が高台寺になっていて、「子を大事」との地口が落ちになる。京都の立本寺には、助けられた子が同寺二十世の日審上人になったという伝えがあり、そこでも幽霊子育飴を売っている。静岡県湖西市には、享保6年(1721年)に本興寺十七代住職となった日観上人がその子だとする話が伝わる。

この話の中心にあるのは母性だ。女は誰も恨まない。祟らない。ただ子を生かそうとする。死者が生者から何かを取るのではなく、死者が生者に与え続ける話である。

クマーントーンは、これを裏返している。死んだ子どもが、生きている大人を養うのだ。飴を買いに行くのは母ではなく、赤いファンタを買いに行くのは大人であり、宝くじの番号を持ってくるのは子どものほうである。

同じ「死んだ子どもと飴と金」という材料を使いながら、日本は母の献身の物語を作り、タイは養育の交換を作った。この差は、なかなか味わい深い。

水子供養――詫びる文化と、雇う文化

もうひとつ避けて通れないのが水子供養だ。

水子とは、堕胎・流産・死産、あるいは生まれてすぐ死んだ子を指す言葉。供養は「供え養う」ことである。ところがこの言葉が今日のような意味で大衆化したのは、そう古い話ではない。日本では1948年に堕胎が実質的に合法化され、人工妊娠中絶は事実上の産児制限手段として広く行われた。それから二十年以上を経た1970年代に、この「水子供養」がブームとして立ち上がる。

ハーバード大学のヘレン・ハーダクレが1997年に出した研究は、その過程をかなり冷ややかに追っている。1970年代、宗教ビジネスの担い手たちが、胎児の祟りと霊障を煽る記事を週刊誌に大量に流し込んだ。胎児の写真という新しい視覚技術がそれを後押しした。

結果として、経済戦略として水子供養を採用する宗教団体が現れた。一方で教義上の理由、人道的な理由、そしてフェミニズムの立場から、これを強く拒絶する宗派もあったのである。彼女の結論は、この一連の言説に、女性を責める構造が深く流れているというものだ。

別の研究者ウィリアム・ラフルーアは、もう少し優しい見方をする。彼が1975年に京都の山に分け入って見たのは、無数の地蔵だった。日本人は輪廻を信じてきた。中絶された命は神仏のもとへ行き、しかるべき時にまた戻ってくる。現代的な比喩を使えば、その子を「保留」にしているのだ。

だから地蔵の前で、手放したくて手放したのではないと語りかけることに意味が生じる。

地蔵は身代わりとして、六道のすべてに立ち会い、賽の河原で石を積む子どもたちを僧衣の袂に包んでくれる。

いずれにせよ、水子供養の基本動作は謝罪と慰撫である。赤い前掛けを着せ、風車を供え、戒名をつけ、位牌を作る。何かを頼むためではない。祟らないでほしい、安らかであってほしい、と願うためだ。

タイのクマーントーンは、この一点で決定的に違う。詫びない。雇う。

いや、正確に言えば、「共に徳を積む」のである。タイの仏教的な枠組みでは、この子は次の生を待っている。持ち主を助けることで徳を積み、持ち主も彼らを養うことで徳を積む。だから「使役」ではなく「協働」だと持ち主たちは考える。

ただし、シノットが繰り返し指摘するように、この構図には常に両義性がある。子どもの霊は資源であり、同時に守るべき弱者である。押収された遺体に菓子を供えた警察官と、それを金に換えようとした男を、同じ社会が同じニュースの中で扱っている。

ちなみに水子供養は、日本だけの現象ではない。台湾には嬰霊供養があり、こちらは1970年代半ばに現れて80年代に広まった。漢代にさかのぼる在来の要素と、日本からの影響が混ざったもので、台湾では一般に日本から輸入された習俗だと認識されている。人口増加、都市化、家族の小規模化、性意識の変化――この順序で日本に起き、次いで台湾に起きたことへの、よく似た応答だった。

なぜ「死んだ子どもを飼う」ことが、富と結びつくのか

最後に、いちばん厄介な問いに答えたい。なぜ死んだ子どもが金を呼ぶのか。

第一に、子どもの霊は制御可能だと考えられているからだ。タイには数えきれない霊がいるが、家に招き入れられるのは子どもだけである。大人の霊は強すぎて危ない。呪術の伝統でいえば、力のある存在ほど扱いにくい。子どもなら、菓子と玩具と優しい言葉で満足する。

つまり、家庭に持ち込める最大の超自然的な力が、子どもの霊なのだ。リスクとリターンの計算が成立している。

第二に、タイ社会は庇護関係でできているからだ。ベイカーとポンパイチットは『クン・チャーン・クン・ペーン』を分析して、この叙事詩の登場人物が一貫して「守ってくれる人」を探し続けていることを示した。父が死ねば従者は「守り手を失った」と嘆く。夫が戦死したと聞けば義母は「誰が守ってくれるの」と考える。盗賊の仲間に入れてくれと頼む男は「あなたの庇護の下で暮らしたい」と言う。

そしてクン・ペーンは「どうやって自分を守ればいい」と自問して、三つの宝を揃えに出る。

タイの社会関係は、上位者が下位者を養い、下位者が上位者に仕えるという縦の関係を基本にしてきた。国王が民を守り、官が民を守り、親が子を守る。この構造の中で、庇護される側でしかない庶民が、自分も誰かの庇護者になれる、唯一の手軽な方法が、家に霊の子を迎えることなのだ。

これは重要な転倒だ。彼らは超自然的な力に守られたいのではない。守ってやる立場になりたいのである。そして育てた見返りを受け取る。これは投資というより、育児の論理そのものだ。

子どもは親を養うものだ、という、タイに限らず東南アジア全域に共通する前提が、そのまま霊界に延長されている。

第三に、これは不安定な経済への対処法だからだ。アッタチャック教授の言う通り、タイの労働人口の大多数は、社会保障のない世界で働いている。屋台。バイクタクシー。小さな店だ。

明日の売上は誰にも保証されていない。そういう人生に対して、銀行も保険も国も、大した答えを持っていない。1997年の通貨危機、2014年のクーデター、2020年の疫病。危機のたびに、聖なる商品の市場が立ち上がったのは偶然ではない。

第四に――そしてここが最も底の部分だと思うのだが――誰も死んだ子どもを無駄にしたくないからだ。

クマーントーンの起源譚は、どの版でも、望まれずに失われた命の話である。殺された妊婦の胎児。違法な堕胎で処分された胎児。寺の霊安室で焼かれるのを待っていた2,002体だ。墓地から盗まれた十体。

それらの命は、社会の制度の中では、ただの処理対象だった。

その命に、名前と、飲みものと、居場所と、役割を与える。あなたは誰かの役に立っている、だから大事にされている、と毎日言う。仏教的に言えば、徳を積ませて次の生へ送り出す。

残酷であることは間違いない。死んだ子どもを労働力として使っているのだから。だが同時に、これは制度が放置した死者に、家庭の中で居場所を与える装置でもある。バンコクの寺の霊安室で袋詰めにされていた胎児たちに、街の人々が牛乳と玩具を供えた。法要をし、そして「クマーン2002」として引き取っていった。

あの一連の流れを、単なる商魂として切って捨てるのは、たぶん間違っている。

供養と搾取が、まったく同じ動作なのだ。

日本の水子供養が謝罪で処理し、座敷童子が説明で処理し、飴買い幽霊が母性で処理したものを、タイは雇用契約で処理した。どれが正しいという話ではない。どの社会も、勘定に合わない死者をどうにかして社会の中に置き直そうとして、それぞれの手つきを発明したにすぎない。

それでも、赤い炭酸は今日も置かれている

現在のタイで、遺体から作られたクマーントーンを手に入れようとすれば、それは犯罪の側に足を踏み入れることになる。取引は違法で、遺体の入手は当然ながら違法で、摘発されれば少なくとも遺体隠匿の罪に問われる。刑は驚くほど軽いが、それでも法の側にはっきりと線は引かれている。

そして圧倒的多数のタイの人々は、その線のはるか手前で暮らしている。彼らが持っているのは陶器の像であり、僧に祝福してもらった護符であり、市場で買ったプラスチックの小さな男の子だ。それに毎朝、赤い飲みものを供え、菓子を置き、名前を呼び、今日の商売の話をする。

外から見れば、これは奇習に見えるかもしれない。だが、やっていること自体は、仏壇に炊きたての飯を供え、亡くなった祖父に「今年もよろしく」と話しかける動作と、どれほど違うだろうか。違うのは、こちらの死者が老人で、あちらの死者が生まれる前に死んだ子どもだということだけだ。

そして、ひとつだけ薄ら寒いことを書いておく。

クマーントーンを手放したくなったとき、人はそれを寺に置いていく。バンコク郊外のあの寺の塔の小部屋には、そうやって持ち込まれた像と人形が、棚にびっしりと並んでいる。景気のいいときには家族だと呼ばれ、悪くなると怖くなって置き去りにされた子どもたちが、である。

僧が言ったとおりだ。うまくいっているうちは拝む。うまくいかなくなると捨てる。捨てると何が起きるか怖いから、ここに置いていく。

その部屋にも、赤い炭酸は供えられている。誰が飲むのかは、誰にも分からない。

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