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冬至にかぼちゃを食べ柚子湯に入る理由、運盛りと一陽来復に残る言葉遊び

分の単位まで決まっている冬至の瞬間

二〇二六年の冬至は、十二月二十二日の午前五時五十分に来る。国立天文台の暦計算室が、数年先の分まで、分の単位で公表している数字で、冬至の瞬間は計算で割り出される。太陽の視黄経が二百七十度に達する時刻。

暦では、その時刻を含む日を冬至の日と呼ぶ。一瞬が、一日に広がる。同じ暦要項には、節分や土用、彼岸といった雑節の日付も、年ごとにずらりと並んでいる。

前の年の冬至は、十二月二十二日の〇時三分だった。日付が変わって、すぐの時刻。日付が同じでも、時刻は毎年少しずつずれて、夜中に来る年もあれば明け方に来る年もある。一年でいちばん昼が短く、夜がいちばん長い日。この一日に、日本の暮らしは実に多くの縁起や言い伝えを、手を替え品を替えてぶら下げてきた。

かぼちゃを煮る。柚子を浮かべた風呂に入る。「ん」のつく食べ物を数えて、運を呼び込もうとする。東京の新宿にある穴八幡宮では、冬至の日から一陽来復の御守の頒布がはじまり、例年この日は行列ができるほどの賑わいになる。

どれも別々の風習に見える。言葉を一つずつ掘っていくと、根っこは同じ場所に行き着く。暦の理屈、易の考え方、保存のきく野菜の事情、そして江戸っ子の洒落っ気が、冬至の日にまとめて重なった。

二十四節気は、太陽の動きをもとに一年を二十四に区切り、季節ごとに名前をつけたものだ。冬至はその一つで、京都の料理屋の解説では、十二月二十二日ごろから一月四日ごろまでの期間を指す。古代には冬至が一年の始まりとされ、暗さの底であると同時に、明るさが戻りはじめる最初の日でもあった。

前例を守るために朔を一日ずらした年

昔の役所にとって、冬至は暦の大きな節目だった。太陰太陽暦は、月の満ち欠けで月を数えながら、太陽の動きで季節を合わせる暦だ。月の起点は、朔と呼ぶ新月の日。この朔と冬至が同じ日に重なる年を、朔旦冬至と呼ぶ。冬至と十一月一日が重なる年は、ことにめでたいこととして、日本大百科全書にも載っている。

朔旦冬至は、十九年に一度めぐってくる。十九年分の太陽の動きが、二百三十五回の朔望月にほぼ重なるからだ。国立天文台の暦の解説は、この十九年という周期を、太陰太陽暦をつくるうえでの基礎になる周期として位置づけている。朔旦冬至から数えた十九年が、一章。

七八四年、延暦三年に、この日を祝う行事や免税が初めて実施された。暦の祝い事の始まり。以後は十九年ごとに朔旦冬至が続き、そのたびに祝賀が開かれる。明治三年の朔旦冬至をめぐるやり取りの記録からも、延暦三年以降に祝賀や免税があったことが分かるという。

八六〇年、貞観二年の話がおもしろい。当時の暦の計算では、この年の冬至は十一月二日になっていて、月の初めと冬至が重ならず、朔旦冬至は成り立たない。それでも前例を重んじるあまり、朔を一日後ろへずらして、無理やり朔旦冬至にしてしまった。前例が、暦に勝った。記録は三代実録の貞観二年の条に残る。

当時の暦は十九年周期がぴたりとは合わない造りで、ずれが出るのは自然な成り行きだった。計算の結果を曲げる必要は、本来ない。それでも曲げた。朔旦冬至は、役所にとってそれほど大事な日だったのだ。

そのあとも暦は何度も改められ、十九年周期とのずれはそのつど問題になった。江戸時代に入っても、朔旦冬至は計算どおりに祝われている。国立天文台の一覧表には、計算どおりの朔旦冬至が並ぶ。一七一八年は十二月二十二日、一七六七年と一七八六年は十二月二十一日だ。

明治三年、一八七〇年の十二月二十二日が、最後の祝賀になった。この年の朔旦冬至を機に、祝賀は廃止される。七八四年に始まった暦の祝い事は、千年あまりを経て、ここで幕を閉じた。

復の卦の一番下に灯った陽

一陽来復という言葉は、易の考え方から来ている。卦というのは、世の中の動きを陰と陽の組み合わせで表す記号で、陰と陽の線を六本重ねて作る。陰暦十月は、六本すべてが陰の坤為地にあたる。陰が極まった状態。夜を陰、昼を陽と見れば、夜がいちばん長い冬至は、陰の極点にあたる。

次の十一月、冬至を含む月は地雷復という卦になり、陰の線が五本積まれたいちばん下に、陽の線が一本だけ現れる。世界大百科事典も、復の卦の最下段に一陽が再び芽生えたことが、一陽来復のもとだと説く。これが、一陽来復の骨組みだ。

「一陽」は陽の気を指し、「来復」は去ったものが再び帰ってくることを指す。陰が極まった冬至のあとで、陽の気が最初の一筋として戻ってくる。夏至はこの逆にあたり、陰がはじめて生じる日だ。一陰生とも呼ぶ。冬至が陽の始まり、夏至が陰の始まりだ。

国語辞典は、一陽来復の意味を三つ並べる。一つ目は、陰暦十一月、または冬至そのもの。二つ目は、冬が去って春が来ること、新年が来ること。三つ目は、悪いことが続いたあとで、ようやく物事が良い方に向かうこと、つまり、運が持ち直すことだ。ひとつの言葉に、三つの顔。

日本大百科全書によれば、古くは冬至を一陽来復、あるいは一陽嘉節と呼んで祝った。辞典が初出の例に挙げるのは、一四〇九年ごろの書物で、そこにはすでに、一陽来復の四字が見える。一六六三年の俳諧書『増山の井』には、十一月の項に「冬至に一陽来復せり」という一節がある。冬至を指していた言葉が、転じて、つらい時期を抜けた先の幸運にも使われるようになった。

神社の授与品などには「来福」と書くところもあるが、本来は、元へ戻るという意味の「復」を使う。陰が極まった底で陽が戻る、という筋道が、この一字に入っているからだ。福の字を当てれば縁起はわかりやすいが、元へ戻るという筋道は薄れてしまう。

夜中の十二時ちょうどに壁へ貼る紙

穴八幡宮は、新宿区にある。ここで冬至の日から節分まで頒布される御守が、これから話す一陽来復御守だ。宮は「他に類例の無い全国唯一のもの」と説明する。冬至祭の日から節分まで頒布する御守は、他の社寺には見当たらないという立場だ。

御守のもとは、福神の打出小槌だという。宮の説明では、新編武蔵国風土記に記載があり、公家の水無瀬家が山城国の国宝寺から授かった小槌を、穴八幡宮へ納めた。聖武天皇が養老七年の冬至の日に、龍神から授けられた宝器と伝わる。小さな守りに、長い由緒。

御守そのものは、江戸中期から毎年、冬至の福神祭に授与されてきた独特のものだ。別名は、金銀融通の御守。商売繁盛や金運上昇のご利益があるとして、冬至の初日には行列ができる。融通という言葉が、この先の話でもう一度顔を出す。頒布の期間は冬至の日から節分の日までで、節分は例年二月三日ごろにあたる。

祀り方も決まっている。冬至、大晦日、節分の三日のうち、都合のよい日を一つ選び、その日が終わる夜中の十二時ちょうどに、御守をおまつりする。冬至が二十二日なら、二十二日から二十三日へ変わる瞬間だ。大晦日なら十二月三十一日から元日へ、節分なら節分から立春へ、日付が変わる瞬間にあたる。その一瞬を、紙一枚で迎える。

御守と一緒に渡される説明書には、その年の祀り方が書いてある。冬至と節分の日付は暦によって年ごとに前後するため、宮は、その年の説明書で必ず確かめるよう求めている。祀る向きは、その年の恵方に「一陽来復」の文字を向けるのが決まりだ。

ある雑誌の体験記事には、壁から落ちてしまったら祀り直しはできず、穴八幡宮へ納める決まりだと書かれていた。画鋲を刺したり、御守の上からテープを貼ったりしてはいけない、という注意まで添えられていた。冬至の夜中の、静かな儀式。

「なんきん」に二つ並んだ「ん」

冬至に「ん」のつく食べ物を食べると、運がつく。この縁起担ぎが、運盛り。「ん」が二つ入る食べ物なら、運が重なるらしい。その代表が、冬至の七種と呼ばれる七つの食べ物だ。

南瓜はなんきん、蓮根はれんこん、人参はにんじん、銀杏はぎんなん、金柑はきんかん、寒天はかんてん。最後の一つが、饂飩と書いてうんどんと読むうどんで、春の七草になぞらえて、冬の七草と呼ぶ向きもある。名前を口に出すと、どれも「ん」が二つ、きれいに並ぶ。

七つ食べると出世する、という尾ひれまでついている。ただ、全部そろえる必要はないらしい。七つ全部でなくても、一つでも「ん」のつくものを食べれば、それで運盛りになるという。春の七草が粥に刻む草なら、こちらは、台所にある食材を語呂で並べた一覧だ。食育の解説は、七種が縁起だけでなく、寒い季節に向く栄養を含む食材でもあると指摘する。

食材ごとの理屈も添えられる。蓮根は穴が開いているから、先の見通しがよくなる。銀杏は黄金色の実で、金運の縁起物。金柑は字面に金が入る。幸運を呼び込む木として、正月飾りやおせち料理にも使われるという。

寒天は、水分を除くと八割が食物繊維だといい、昔から特別な日の料理や菓子に使われてきた。うどんは、運をどんどん呼ぶという語呂合わせだ。蓮根と人参は、おせち料理にも並ぶ食材だ。

縁起のほかに、体の理屈もある。金柑と銀杏には咳止めや痰を切る働きがあるという。銀杏は食べ過ぎると中毒を起こすので、量に気をつけるよう、食育の解説は注意を添えている。うどんは温かいものを食べて体温を上げ、風邪を防ぐ、という筋書きだ。

「いろは歌が四十七字で、最後が『ん』で終わるから節目にふさわしい」と、運盛りの理由に書く解説もある。ただ、いろは歌に「ん」の字は入っていない。ここは、引っかかる。

いつ、どこの誰が言い出した縁起なのか。関西から始まったと書くページはあっても、古い文献では確かめられなかった。手がかりは、見当たらない。農林水産省の資料にも、かぼちゃを食べる理由として、「ん」が運に通じる、と載っている。出どころは分からないまま、現代の解説書きは、栄養の話を添えながら、どれも同じ形でこの話を紹介する。

夏に採った野菜が冬の主役になった

かぼちゃは夏の野菜だ。本来の旬は夏で、冬の野菜ではない。それなのに、冬至の主役に座っている。

大きな理由は、保存がきくことだった。傷さえつかなければ、丸ごと長く置ける。丸ごと、冬を越せる。

農林水産省の資料は、夏に採ったかぼちゃを貯蔵しておくと、自然と甘みが増すので、冬の食材にもってこいだと書く。冷蔵庫も温室もない時代、冬に緑黄色の野菜は手に入りにくかった。そこで、夏のうちに採って貯蔵しておいたかぼちゃが、冬の貴重な緑黄色野菜になった。冬に不足しがちな栄養を補う、昔の人の知恵だと解説は書く。

体にいい理由も、昔から信じられてきた。冬至に南瓜を食べると、中風にならず、風邪もひかない、という言い伝えがある。京都の料理屋の解説は、太陽の力がいちばん弱まる日に食べるからだ、と理由を添えて紹介する。中風は、脳卒中などを指す古い呼び名だ。冬至に食べると長生きする、という縁起を添える解説もある。

カロテンが多い点も、現代の栄養の解説が決まって挙げる。体の中でビタミンに変わり、皮膚や粘膜を強くして風邪の予防に役立つ、という説明だ。鮮やかな黄色の身は金運に結びつけられ、金を呼ぶ色だと喜ぶ解説もある。

名前にも理屈がつく。漢字で南瓜と書くので、陰の北から陽の南へ向かう縁起になる、という説がある。冬至は陰がいちばん強くなる日だ。そこへ、南の字を持つ黄色い野菜を入れて、陰と陽のつり合いを取る、という考え方だ。

江戸の銭湯を解説した本には、冬至の日は紋日で、家々では粥やカボチャを煮て食べた、と書かれている。紋日とは、特別な日。陰きわまって陽始まる一陽来復の日、という説明まで添えてある。かぼちゃが日本へ入ったのは十六世紀だと伝わり、豊後、今の大分に持ち込まれたという話が通説に近い。江戸の冬至には、もう台所の定番になっていた。

小豆の赤とかぼちゃの黄色、いとこ煮という名前

冬至のかぼちゃには、小豆を合わせる家がある。かぼちゃと小豆を一緒に煮た料理を、いとこ煮と呼ぶ。小豆の赤は魔除けの色で、邪気を払う力があると信じられてきた。農林水産省の資料の言葉を借りれば、かぼちゃで運気を上げ、小豆で厄災を払う。

小豆の赤で邪気を払う習わしは、冬至のほかにもあり、小正月の一月十五日に赤い小豆粥を食べるのも、同じ考え方だという。冬至にも、南瓜を入れた小豆粥をいただく風習がある。粥の赤と、かぼちゃの黄色が、一つの椀に収まる。

いとこ煮は、北海道、福島、新潟、山形、香川などに見られる郷土料理だ。ある解説では、正月や盆、祭礼、収穫祭などに、小豆と野菜を煮て食べる行事食が、いとこ煮のもとになったという。関東や関西といった区切りより、北のほうを中心に伝わった料理らしい。冬至には、北海道や北陸、茨城、秋田などで、いとこ煮を食べる人が多いという。小豆とかぼちゃを別々に下ゆでしてから合わせるのが本来の作り方、とする解説もある。

名前の由来は説が分かれる。かたい材料から順番に「おいおい」入れて煮るので、おいおい、すなわち甥から、いとこになったという話が一つ。別の解説には、かぼちゃと小豆をめいめいに煮るから姪、という語呂を挙げるものもある。

三つ目は、京都の料理屋の解説にある説だ。野菜は神仏へ供える物で、親しい間柄だから、いとこの関係にある、という。どの説にも、決め手になる古い記録は手元の資料になかった。どれも、決め手を欠く。

洒落で名前をつける点は、運盛りとも柚子湯とも通じ合う。かぼちゃに込めた運気、小豆に込めた魔除け、煮物に込めた親戚づきあい。冬至の食卓には、縁起の層が何枚も重なっている。

銭湯の湯船に浮かんだ柚子

柚子湯は、冬の季語。柚子そのものは秋の季語なのに、湯に浮かべると冬になる。冬至と柚子の関係は、はっきりしない。ウェブの百科事典の柚子湯の項には、関連は必ずしも明らかでなく、習慣は銭湯の登場以後のことだ、とある。

江戸の町人は、家に風呂を持たず、銭湯に通う暮らしだった。菖蒲、みかん、松など、季節の植物を湯に浮かべる季節湯の文化も、日本にはある。冬至の柚子湯は、その季節湯の一つだ。全国に広まったのは明治になってから、と書く解説もある。

一つ目の説は、語呂合わせ。冬至は湯治に通じ、柚子は融通に通じる。冬至に柚子湯へ入って体が息災なら、融通がきいてうまくいく。そう洒落を飛ばしたのが、洒落好きの江戸っ子に受けて広まった、という説明が多い。

二つ目は、客寄せ。冬は湯冷めがこわくて、銭湯から客足が遠のいた。そこで、ある銭湯が庭の隅の柚子を湯に入れたところ、評判になって他の銭湯も真似をした、という話がある。京都市のウェブページも、客寄せとして始まった説を紹介している。客を呼ぶために銭湯が思いついた洒落が、いまの風習に育った、という見方になる。

三つ目は、禊と邪気払い。柚子の強い香りが邪気を祓うと考えられた。冬至は運が上向く節目なので、柚子湯で身を清めた。冬至の日に神社の祭りがある土地では、柚子湯に入ってから祭りに出かけた人もいたそうだ。身を清める日でもあった。

風邪という字は、風が運んでくる邪気が体に入って起こる病、と昔の人が考えたことに由来するという。柚子の香りで邪気を祓うという発想とは、同じ筋でつながる。だから、邪気を祓う柚子湯が風邪の予防と結びついても、筋は通る。

四つ目は、黄色い柚子を太陽に、湯を海に見立てる遊びだ。日の入りと日の出に仕立てた、という説が百科事典に載る。商人のあいだでは、柚子の黄色が小判に似ているので、小判の融通がきくと喜ばれたという話もある。

五つ目は、柚子の木にならう説。寿命が長く病気にも強い木にあやかって、風呂に入り、無病息災を祈るようになった、という説明がある。語呂、客寄せ、禊、見立て、長寿。

なぜ銭湯の庭に柚子があったのか、という疑問に答える解説もある。柚子は枝に鋭い棘があり、実の香りも強いので、邪気払いとして家の庭に植えられた、と解説は説明する。常緑樹で一年中枯れないため、商家には、一年中客が来る縁起を担いで植える家もあったという。柑橘の中では寒さに強く、育てやすい木でもあった。

実は酸っぱくて、生では食べにくい。庭の柚子を全部収穫する家は少なく、そのぶん、柚子の食べ方を紹介した料理本が数多く出たという。庭に柚子がたくさんあった理由は、そのあたりにあるらしい。

江戸の風呂を解説した本には、五月の菖蒲湯、土用の桃湯、冬至の柚子湯が、薬湯の一種として並ぶ。昔の薬湯は、五木八草と呼ぶ樹木や草を煮出して作った。この五木八草に、柚子は入っていない。特に枸杞は不老長寿の霊験があると言われ、枸杞湯が人気を集めた。将軍家は江戸の牛込、麻布、麹町、小石川に薬園を設け、各大名も見習って造園したという。

将軍家御用の薬木や薬草は手に入りにくかったので、柚子や無花果、柳、よもぎなど、身近なものが代わりに使われたそうだ。冬至の柚子湯は、輪切りにした柚子を湯に入れる。江戸の銭湯を調べた地域のウェブ記事は、手持ちの文献から柚子湯の明確な起源は得られなかったと、正直に書いている。

柚子の皮には精油と香り成分が多く、湯に入れると血行を促して体を温め、冬の乾いた肌にも合うという。地域によっては、湯に浸かりながら「一陽来復」と唱えると幸せになる、として楽しむところがある。風呂の中で、冬至の言葉遊びがもう一度つながる。

実がなるまで十八年かかる木

柚子は、奈良時代までに日本へ入ったと伝わり、いまから千三百年ほど前の話で、西日本で薬用として育てられてきた。ジェトロの資料は、柚子の枝に鋭い棘があり、風で実が傷つきやすいため、管理が難しい木だと紹介する。薬としても使われ、風邪薬や出血止め、歯痛の薬になった、という解説もある。

種から育てると、実をつけるまで十五年から二十年かかる。多くの産地では、カラタチなどの柑橘に柚子を接ぎ木して、数年で実らせている。種から育てる実生栽培は、手間がかかるぶん、香りが強く味わい深いという。成長の遅さは、昔から知られていた。気の長い木だ。

桃栗三年柿八年。その続きに「柚の大馬鹿十八年」とつける地方がある。九年、十六年、三十年と言い伝える土地もある。柚子は、実るまでの年数が、土地ごとにまちまちに語られる木なのだ。

古い形は平安時代の中ごろに見える。江戸後期の随筆『三養雑記』は、当時の人が「桃三、栗四、柑六、橘七、柚八」と言っていたと書く。源為憲の『口遊』に由来する言い回しだという。柚は八年。いまのことわざより、ずいぶん早い。

小説『二十四の瞳』の作者、壺井栄は、色紙を頼まれると「桃栗三年 柿八年 柚の大馬鹿十八年」を好んで書いた。小豆島の文学碑にも刻まれている。大馬鹿の一言は、辛抱強く年月を重ねて実を結ぶ柚子の実直さを、めでる言葉だと、新聞の記事は伝えている。

冬至の柚子湯に、長い年月をかけて実る柚子の苦労が実りますように、という願いを重ねる解説もある。柚子の木を一本育てて、その実を湯に浮かべるまで、気の長い話だ。語呂合わせの軽さとは、対照的な時間の流れ方。

産地の顔ぶれは、時代で入れ替わった。ジェトロの資料によれば、国内の生産量は約二万七千トンで、そのうち高知県が約五割を占める。二〇一六年の農林水産省の調査では、二位が徳島県で約十三パーセント、三位が愛媛県で約十一パーセントだった。

高知県の栽培面積は、当時で八百六十ヘクタールにのぼる。日本の柚子は、昼夜の寒暖差が大きい内陸の山間部に産地が集まり、香りの高さが特長だという。四国の三県を合わせると、国産柚子のおよそ八割近くになる。

昭和四十年代までは埼玉県が主な産地で、一九七〇年以降は、高知県や徳島県が中心になる。高知では一九六〇年代から、林業や和紙原料の製造に代わる山村の活性化策として、山あいの村々に産地が相次いでできた。馬路村や北川村の商業的な成功を見て、他の自治体も栽培を広げていった。

高知には、江戸末期から柚子を作っていた形跡がある。安政四年、一八五七年には、安芸奉行所が管轄下の村々に命じて柚子を作らせたという。現在の馬路村にも、柚子を植えていたという記述が残る。

高知の家庭では、果汁を搾って果実酢の柚子酢にし、皮は薬味にして使う。酸っぱくて生では食べにくい果物なので、搾って、削って、料理に回す。収穫は十一月から年明けの一月に集中する。夏から秋に出回る皮の緑の柚子を青柚子、秋から出回る黄色い柚子を黄柚子と呼ぶ。高知の黄玉は、十二月の冬至の前を中心に、翌年の四月ごろまで出荷される。

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