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死んでも、まだ死んでいない――インドネシア・トラジャで遺体と数年暮らし、八月に墓を開けて着替えさせるということ

夕方の7時前だった。山の中腹の家、部屋の入口には金色のカーテンが下がっている。案内してくれた女性がカーテンを引いて、中の人にささやいた。「遠くからお客さんですよ」。

しばらくして次男が盆を持って入ってくる。「パパ、ご飯だよ。魚もあるし唐辛子もあるよ」。母親が続ける。「さあ起きて、晩ご飯よ」。長男が父に向かって、この人が写真を撮りたいそうだと告げる。

どこの国にでもありそうな、夕食どきの家族の風景だ。ただ一点だけ違う。ベッドに寝ているペトルス・サンペは、2週間前に死んでいる。町の婚姻登録所につとめていた人で、いまは顔だけを出して赤い毛布にくるまれている。妻のエリザベス・ランテは、彼を死んだ人とは呼ばない。

ここはインドネシア、スラウェシ島の南スラウェシ州。トラジャと呼ばれる山地だ。そしてこれは、この記事のいちばん平凡な場面である。

トラジャという場所を、まず地図の上に置く

インドネシアの地図で、赤道のすぐ下にヒトデみたいな形の島がある。スラウェシ島。その南の脚のつけ根あたり、州都マカッサルから北へ約300キロ入った内陸の山が、トラジャだ。道は舗装されているようで穴だらけで、バスで8時間から10時間かかる。夜行の寝台バスに揺られて明け方に着く、というのが定番のルートになっている。

行政区画としてはふたつに分かれている。県都をマカレに置くタナ・トラジャ県が約2044平方キロ、県都をランテパオに置く北トラジャ県が約1151平方キロ。もともとひとつの県だったのが、2008年6月24日の議会本会議で北東部の36パーセントほどを切り離すことが決まり、同年8月末に北トラジャ県が発足した。人口は2県合わせて50万人ほど。トラジャ人全体では、島外へ出た人も含めて100万人前後と言われる。

標高は低いところで150メートル、いちばん高い山で3083メートル。気温はだいたい16度から28度で、熱帯なのに朝晩は肌寒い。雨季は11月から4月。棚田がひたすら段になって山を這い上がり、その上に石灰岩の岩峰が突き出している。稲作が生活の軸で、換金作物はコーヒーとクローブとカカオ。トラジャのアラビカ種は世界的にそこそこ名の通ったブランドで、地元の食堂で飲むと信じられないくらい安い。

「トラジャ」という名前は、実は自称ではなかった。低地に住むブギス人の言葉で「ト・リ・アジャ」、上流の人、上のほうの人、という意味だとされる。この地域を貫く大河がサダン川で、その上流に住む連中、という外からの呼び方だ。トラジャの人たちがこれを自分の名として使い始めるのは20世紀に入ってからで、それまでは村や地域ごとの帰属のほうがずっと強かった。政治的にひとつにまとまった時期はほとんどない。

決定的な転換は20世紀の頭に来る。1906年、オランダの植民地軍が高地に入る。1909年に境界が引かれ、同じ年に奴隷制が公式に廃止される。1913年にはオランダ改革派の宣教師が学校を作り始める。低地でイスラムが広がるのに対抗して、高地を先に押さえておこうという判断もあった。ただし実際に大量の改宗が起きるのはオランダが去ったあと、1950年代から60年代にかけてだ。

いまトラジャ人の8割強がキリスト教徒で、プロテスタントが6割台、カトリックが2割弱。少数のムスリムがいて、在来信仰のアルク・トドロを名乗る人はかなり少ない。

そしてこの社会には、いまだに階層がある。上からタナ・ブラアン(金)、タナ・バッシ(鉄)、タナ・カルルン(サトウヤシの幹)、タナ・クアクア(田んぼの草)。いちばん下は要するに隷属身分で、法的には1909年に消えている。消えているのだが、葬式の場になると亡霊のように戻ってくる。誰が何頭屠れるか、肉のどの部位を受け取るか、そこに全部出る。

研究者のあいだで「階層こそがトラジャ社会の最大の変数だ」と繰り返し書かれてきたのは、そういう意味だ。

村の中心にはトンコナンが建つ。舟をひっくり返したような反り屋根の高床家屋で、釘を一本も使わずに組む。正面には水牛の角が下から順に括りつけてあって、これが「この家は過去に何頭屠ったか」の掲示板になっている。向かいには米倉のアランが並ぶ。トンコナンは血縁集団そのものを指す言葉でもあって、売ってはいけないことになっている。住むには不便なので普段は別の家に住み、トンコナンは儀礼のときに使う。

おもしろいのは、近代化が進んだいまのほうがトンコナンの数が増えていることだ。持っていること自体が力の証明になるからで、これは人類学者が好んで取り上げるテーマになっている。

「トマクラ」――息を引き取ってから、死ぬまでの数か月から数十年

さて本題。

トラジャでは、人が息を引き取っても、それだけでは死んだことにならない。葬儀を出して初めて死者になる。それまでのあいだ、その人は「ト・マクラ」と呼ばれる。訳すと「病人」あるいは「熱のある人」。まだ寝込んでいるだけ、という扱いだ。

だから家族は看病を続ける。これが比喩ではないところが、外から来た人間の腰を抜かさせる。

具体的にはこうだ。遺体は家の一室、たいていはトンコナンの奥や、母屋の隅の小部屋に寝かされる。布団に寝かせ、服を着せ、日に2回、朝と夕に食事を運ぶ。米、魚、唐辛子。コーヒーを淹れて枕元に置く。タバコに火をつけて口元に持っていく家もある。ビンロウを供える家もある。部屋の隅には、排泄用ということになっている器が置かれる。実用ではなく、生きている人と同じ設えを崩さないための器だ。

日が落ちたら灯りをつけたままにする。そして、ひとりにしない。

なぜそこまでするのか。魂がまだ体のそばにいると考えるからだ。葬儀が終わるまで魂は旅立たず、家のまわりを漂っている。世話を怠れば、その魂が怒って家族に良くないことが起きる。だから、これは献身であると同時に、少しばかり緊張をともなう務めでもある。

期間は、家の懐具合と親族の都合で決まる。早ければ数か月。ふつうは半年から2年。長い例は本当に長い。英国の公共放送が2017年に取材したママク・リサという女性の家では、父のパウロ・チリンダが12年前に死んでいる。取材者が部屋に通されると、老人が色鮮やかなベッドに横たわっていた。埃をかぶった眼鏡ごしに目は見えない。皮膚はざらついた灰色で、虫に食われたような小さな穴が無数に開いている。

体は何枚もの衣服に覆われている。

そこへ孫たちが遊びに走り込んでくる。「おじいちゃん、なんでいつも寝てるの」「おじいちゃん、起きてごはん食べようよ」。リサが叱る。「しっ、おじいちゃんは寝てるの。怒らせるでしょ」。

このやりとりを笑い話として書くつもりはない。リサは取材者にこう言っている。うちは全員キリスト教徒です、でも親戚はいまでも父の様子を見に来るし、電話で「お父さんどう」と聞いてくる、父には聞こえていて、まだこのへんにいると思っているから。そして、こうも言った。父がここにいてくれたおかげで、悲しみと折り合いをつける時間が持てた、と。

取材した記者は自分の父を数年前に亡くしていた。父はほとんど即座に埋葬された。何が起きたのか飲み込む前に終わってしまい、いまだに整理がついていない。そう書いている。トラジャの家族が持っているのは、その「飲み込む時間」なのだ、と。

遺体の処置についても書いておく。昔は茶葉や酸味のある液、薬草を使って体を拭き、乾かした。いまはほとんどの家が、亡くなった直後に防腐処理をする。具体的な薬剤名や手順をここに書くつもりはないが、県内の病院や専門の業者が請け負っていて、それを済ませた遺体は腐らずに乾いていき、やがてミイラのようになる。部屋には薬品のにおいが残る。それを和らげるために乾いた植物を吊るす家もある。

においを消す努力までが、看病の一部になっている。

もうひとつ、南部サンガッラの村で取材されたユリウス・ラントン一家の話がいい。彼の母アルフリダ・トットン・ティクパダンは5年前に亡くなり、そのまま家にいた。3週間前には父ヨハネス・パントゥン・ラントンがパーキンソン病で亡くなり、いま夫婦は並んだ棺に入って同じ部屋にいる。壁は赤い布で覆われ、太陽の意匠のビーズ細工と、伝統的な短剣が2本飾ってある。ドアには、日本の漫画の主人公のシールが貼ってあった。

「たまに食事を持っていって、オマ、オパ、ごはんですよ、と声をかけます」とユリウスは言う。「喪失感はまだない。だってまだ見えるから」。

母の葬儀がここまで延びたのには理由がある。父が生前、こう言い残していた。「妻をあまり早く埋めるな」。ユリウスは、たぶん一緒に逝きたかったんだと思う、と言っている。7歳の姪のメイケは毎朝、出がけに部屋へ向かって叫ぶ。「オマ、学校いってきます」。

こういう話を「不気味」と言うのは簡単だ。でも順序を逆にして考えてみてほしい。日本では死んだ人は数日で焼かれ、骨になる。悲しむ準備をする時間は、火葬場のロビーで飲む缶コーヒーの時間しかない。トラジャの家族は、その準備期間を数年単位で確保している。そのあいだに親族は集まり、金を貯め、腹をくくる。制度としては、むしろよくできている。

ランブ・ソロ――家一軒ぶんの葬式

貯めた金は、何に消えるのか。

ランブ・ソロという。直訳すると「煙が降りる」。日が西に傾いてから、家の西側で行う供犠を指す。対になるのがランブ・トゥカ、日が昇る側の儀礼で、こちらは生と豊穣の側だ。このふたつは絶対に混ぜてはいけない。踊りも歌も別物で、観光用に一か所でまとめて見せようという行政の提案が地元で猛反発を食らったことがあるのだが、それは後で書く。

ランブ・ソロは階級ごとに規格が決まっている。研究者によって数え方が違うが、おおまかにはこうなる。

いちばん簡素なのがディシリ。歯の生えていない乳幼児と、最下層の人のための儀礼で、遺体を家に泊めることも許されず、日が落ちてから松明の明かりで埋める。供物は鶏卵か、せいぜい豚一頭。次がディパサンボンギ。一晩だけで終わる。水牛は最低1頭。庶民層のための規格で、上の身分の家でも金がなければこれをやる。

その上がディドヤ・テドン、別名ディバタン。3晩、5晩、7晩と続き、毎日1頭の水牛を杭につないで見張りをつけ、毎日屠る。豚は数十頭から百頭単位。中位貴族と、上位貴族でも財力の足りない家がここに入る。

そして最上位がディラパイ、あるいはラパサンと呼ばれる二段階の大儀礼だ。トンコナンの敷地で一度目をやり、遺体をランテと呼ばれる石柱の立つ広場へ移してもう一度やる。低いほうのラパサン・ディオンガンで水牛が最低9頭、3日間。ラパサン・スンドゥン(完全なるラパサン)で最低24頭、豚は無制限、二度に分けて開く。最上級のラパサン・サプ・ランダナン――意味は「川岸に届く」――になると水牛は100頭級だ。

県の文化局の資料では、儀礼の等級を11段階に分けている。

問題は水牛の値段である。

トラジャで水牛はテドンと呼ばれ、農耕にはほとんど使わない。屠るために飼う。ただの家畜ではなく、財産の単位であり、格の証明であり、そして死者が来世へ行くための乗り物だ。多く屠るほど魂は早くプヤ(来世)に着く。この論理があるかぎり、頭数の競争は止まらない。

種類によって値段が桁違いに変わる。真っ黒なテドン・プドゥが基本。角が長く伸びたバリアンはそれより高い。白黒のまだら模様が入ったテドン・ボンガ、とくに全身にまんべんなく斑が散ったサレコになると、ふつうの水牛の30倍から50倍の値がつく。1頭あたり数億ルピア、日本円で数百万円から、上は1千万円に迫る。青い目をした白っぽい個体はサレポと呼ばれ、これも高い。

地元の人に言わせると「肌が白くて目が青いほど高い、でもすごく繊細だから、蚊に刺されないように気をつけて、専用の草を食べさせないと値が落ちる」。乗用車1台とだいたい同じ、という説明を旅行者はよく聞かされる。

2023年にトラジャの葬儀を見た日本人旅行者は、現地ガイドから「まだら牛と白牛は1頭700万から800万円、角の長い水牛が60万円、普通の牛が25万円ほど」と教わっている。その葬儀では、それが何十頭も並んでいた。

総額はどうなるか。英国の公共放送が取材したデンゲンという男性の葬儀は4日間、水牛24頭と豚数百頭。息子は「5万ドル以上かかった」と語った。地域の平均年収の10倍を超える。別の報道では、上位の家の葬儀が50万ドルに達した例も伝えられている。インドネシアの研究者は、ひとつの儀礼の総費用が数十億ルピアに届くケースを繰り返し報告している。

「家一軒ぶん」というのは比喩ではなくて、実際に家が建つ額なのだ。だから普段の暮らしは驚くほど質素だ。トラジャを歩いた日本人旅行者が「生きているあいだに使う金より葬式に使う金のほうが多い」と書いていたが、地元でも「死ぬために生きている人たち」という言い方が半分冗談、半分本気で流通している。

数日間、何が起きているか

大きな葬儀は、進行がきっちり決まっている。

まず遺体を布で何重にも巻く。マトゥダン・メバルンという。金色の金属板を切り抜いた文様を巻いた布に貼りつけていく作業がパスラサンだ。次に、遺体を家からランテへ降ろす。行列の先頭は水牛。子どもたちが一頭ずつ引いてくる。続いてゴングや太鼓の楽隊、それから遺体、最後に親族。全員が黒ずくめで、女たちが赤い長布を遺体の脇に張って歩く。

ランテに着くと、遺体はラッキアンという二階建ての塔に上げられる。高さ10メートル、屋根はトンコナンの形。ここから死者が自分の葬式を見物する。塔の一階にはタウタウ(後述する木彫りの像)が置かれる。

客が来る。村内の客を迎えるのがパトンドカン、それ以外の客を迎えるのがパバタンガン。客は手ぶらでは来ない。水牛、豚、米、ヤシ酒、砂糖、タバコ、現金。豚は竹をトンコナンの形に組んだ籠に入れて担いでくる。会場の脇に何百頭とつながれ、鳴き続ける。

昼のあいだ、マパサ・テドンが行われる。屠られる予定の水牛を村中に引き回して見せる儀礼だ。そのあと午後に、マパシラガ・テドン――闘牛が始まる。角と角をぶつけ合わせる。もともとは牛飼いの少年たちの暇つぶしだったのが、いつのまにか葬儀の正式なプログラムに繰り込まれた。

夜はマバドンだ。男たちが小指をつなぎ合って大きな輪を作り、体を揺らしながら低い声で歌い続ける。歌詞は死者の一代記で、生前の善行、葬儀の次第、魂がプヤへ向かう道行きを語る。輪は膨らみ、割れ、新しい輪を生んで、広場じゅうが渦になる。3日3晩続くこともある。参加者は目を閉じて、自分たちの一族の過去と未来の世代が全部そこに響いていると感じる、と言う。

ほかにも踊りがある。マランディンは戦士の踊りで、死者の勇気を讃える。マカティアは女たちが踊り、寛容と忠誠を歌う。マドンダンは若者の踊りで、供犠が終わったあとの祝いだ。地域によっては、素足で蹴り合うシセンバという荒っぽい遊戯もやる。闘鶏は法律で禁止されているが、実際にはよく行われている。

そして供犠。水牛は柵に繋がれ、専門の屠り手が来て、首を一刀で掻き切る。これがトラジャの流儀で、槍を使う地域もある。

日本人のバックパッカーが2017年、マカレの南のタッパランという集落の葬儀に飛び込みで参加して、その一部始終を書き残している。休憩をはさんで「その時」が来た。広場の中央に杭。屠り手が現れ、間髪入れずに刃が走る。牛は倒れ、何度か立ち上がろうとして、力尽きる。すぐには絶命しない。「こういう場面で一番前に陣取って写真を撮っているのが外国人の観光客なんですね」と彼は書いている。2頭目は暴れた。

目の前で1頭目が横たわっているのを見ているのだから当然だ。血を野良犬が舐めに来る。別の場所では豚が屠られていて、その声は牛の比ではなかった。彼はその場にいられなくなって、しばらく散歩に出た。戻ってきたら解体が始まっていて、見物人は談笑しながら食事をしていた。

正直な記録だと思う。そして、この「いたたまれなさ」が、この記事の後半で扱う論点そのものになる。

肉は分けられる。トメンタアという役の人間が、階級と、家が誰にどれだけ借りがあるかに従って部位を切り分ける。これはただの配給ではなく、社会関係の可視化だ。誰がどの部位をもらったかで、その場にいる全員が序列を読む。

誰も途中で降りられない帳簿

ここが、外から見ていていちばん腑に落ちる部分かもしれない。

葬儀に持ち込まれた水牛と豚は、すべて記録される。会計係が帳面につける。「あの家からサレコ1頭」「あの家から豚3頭」。これはタンケアンと呼ばれ、贈与ではなく貸しになる。貸したほうの家に不幸があったとき、同じ種類、同じ格のもので返さなければならない。水牛の借りは水牛で、豚の借りは豚で。現金では返せない。

そして、返すタイミングは貸したほうが決めるのではなく、次の不幸が決める。本人が生きているあいだに返し切れなければ、子が返す。子が返せなければ孫が返す。何世代も持ち越される債務が、村じゅうに網の目のように張られている。

だから「今回はうちは簡素にやります」が言いにくい。簡素にやれば、これまで受け取ってきた貸しを踏み倒すことになる。人類学者が「トラジャの葬式は経済で説明できない」と言うとき、それはロマンチックな話をしているのではなくて、これがふつうの市場交換とはルールの違う経済圏だという事実を指している。ハサヌディン大学の人類学者ムンシ・ランペ教授は、儀礼を経済の論理だけで測って浪費と呼ぶのは間違いだと述べている。

互いに貸し借りをするから村を越えて何百人も集まる、そこで得られるのは社会関係と社会的な力だ、と。

余談だが、水牛を屠るために大量に飼うから、糞が田んぼとコーヒー畑に還り、土地が肥える。教授はそれも指摘している。宗教と見栄と農業が同じ回路でつながっている。

マネネ――八月、墓を開ける

葬儀が終わって、遺体が墓に納まる。これで終わりではない。

数年に一度、家族は墓を開けに行く。マネネという。ネネは死んだ人、老いて死のうが若くして死のうがネネと呼ぶ。それに接頭辞のマがついて「死者の世話をする」「祖父母のために何かする」という意味になる。

時期は8月ごろが多い。稲の収穫が終わり、次の植え付けが始まる前の農閑期。学校が休みで、都市へ出て行った親族が帰ってこられる時期でもある。地域によっては7月だったり9月にずれこんだりする。頻度も一定ではない。毎年やる村もあれば、3年に一度の村もあり、ずっとやっていなかったのを何十年ぶりに復活させる村もある。

2024年に大手通信社が取材した北トラジャ県のカパラ・ピトゥ村とベンテン・マムル村では、その年のマネネが40年ぶりだった。

手順は、在来信仰の型ではこうなる。まず家族会議を開いて日取りを決める。当日、みんなで墓へ行く。マブッカ・リアン、墓を開ける。マバワ・パンガン、食べ物と飲み物を墓へ運ぶ。棺を引き出し、蓋を開ける。マッセロイ、遺体と棺と墓室を掃除する。マンガロ・バタン・ラブク、遺体を日に当てて乾かす。マパロボ、包み布と衣服を新しいものに替える。傷んだ棺は作り直す。マンラパ、遺体を棺に戻す。マトゥトゥ、墓を閉じる。

そして最後に、竹筒で炊いた豚肉と水牛の肉を、家族全員で食べる。

キリスト教徒が多数になったいま、この流れに礼拝が挿し込まれる。墓の前で牧師が祈り、讃美歌を歌ってから開ける村もあれば、掃除と会食が終わってから礼拝をする村もある。順番は村ごとに違う。

一体の着替えにかかる時間は、慣れた家族なら30分ほどだという。

2022年、トレア村でこの儀礼を取材した通信社の記事に、家族のひとりスッレ・トサエさんの言葉が載っている。「マネネをやるときは、まず墓室を開けて、中と周りを掃除するところから始めます」「それから遺体を日に当てて乾かして、それから服を替えます」。同じ村の村長ラフマン・バドゥスさんは、供え物についてこう説明した。「供え物は、子や孫から先に逝った人たちへの感謝のしるしです」。

ある家族は掘り出したばかりの親族にタバコを一本くわえさせ、別の家族はしゃれたサングラスをかけさせていた。

2024年、カパラ・ピトゥ村のユリアナ・コンボン・パリノさん(51歳)はこう語っている。「親族が全員集まって、それぞれがパタネにいる両親や祖母や親戚の様子を見に行くんです」「みんなで集まって、一緒に働いて、体をきれいにして、それから服を替えます」。遺体は1日か2日、外に出したままにしておいて、それから墓に戻し、次のマネネまで閉じる。ユリアナさんはこうも言った。

「マネネをやるのは、私にとっては喜びなんです。亡くなった両親に、祖母に、子どもに、親族に、自分の愛を形にできるんですから」。

ベンテン・マムル村のサムエル・マタサクさんは、もっと短く言った。「トラジャ人は死んでも祖先を忘れません。絆が強いんです」。

服は、生前に好きだった服、あるいは誇りにしていた服を選ぶ。警官だった人には制服を一式、階級章までつけて着せる。学生服を着せられている人もいる。近年はスニーカーや腕時計やサングラスも出てくる。ビーズ刺繍の白いサテンのドレスもあれば、ジーンズもある。

「墓場は怖い場所じゃない」

もうひとつ、2017年にオーストラリアの新聞社が北トラジャ県パンガラ村で取材した話を紹介したい。個人的には、この記事で一番好きな証言だ。

バルトロメウス・ブンガという米作りの男性が、母クリスティナ・バンネの遺体に、母が好きだったムスクピンクのおしろいをはたいている。「はい、きれいになったね」とつぶやきながら、崩れかけた鼻の上で金属フレームの眼鏡の位置を直す。それから母の体を棺から抱き上げ、家族写真のためにカメラに向かって笑う。幼い孫娘が、着替えたばかりの色鮮やかなバティックのスカートに触れて、小さな声で「おばあちゃん」と言う。

クリスティナは糖尿病で、65歳ごろに亡くなった。もう9年になる。教会の活動に熱心な人だった。バルトロメウスの首には金の十字架が光っている。母の話をしていると彼は涙ぐむ。「やさしい人でした。子どもたちに一度も声を荒らげたことがなかった。孫たちの面倒をよく見てくれた」。

数年前のマネネのとき、彼は母をスクーターの後ろに乗せて一回りしたことがある。「マネネをやるのは、母の愛を返す僕なりのやり方です」と彼は言った。「赤ん坊のときに母が僕を抱いてくれた、そのとおりに、いま僕が母を抱いているんです」。

葬儀の翌年、最初の1年は母が恋しくてたまらなかった。「でも最初のマネネのあとは、本当に母に会えた感じがして」。いまは毎年、亡くなった家族に会うのが楽しみだという。

「クリスマスに実家に帰る、あの感じですよ。長いこと会っていなかった人に会えるうれしさ。多くの人にとって墓場は怖い場所でしょう。ここでは、実家みたいなものです。怖いという気持ちはありません」。

サルロタという女性は、夫のルーカスの遺体のほこりを払いながら、こう言った。ほかの宗教だと、遠くから誰かを見るとか、誰かの墓を見るだけでしょう。ここでは、もっと近い。実際に会えるんです。彼女は長生きしたいと祈っている。マネネのたびに、夫にもう何度も会いたいから。

地域差と、やり方の違い

マネネは全域一様ではない。ここは丁寧に分けて書いておきたい。

北トラジャ県のバルップ郡とリンディンガロ郡は、毎年欠かさずマネネをやる地域として知られている。神学系の研究者がこの2郡を調査地に選ぶのは、いちばん濃く残っているからだ。バルップの人々がこの慣行を最初に始めたという伝承もある。

同じ北トラジャでも、谷筋の集落では、キリスト教化された簡素な形になっているところが多い。長く現地調査を続けてきた人類学者の記述によれば、彼女が拠点にした地域では、マネネといっても墓の掃除、共同の食事、祈り、讃美歌で終わることが少なくない。遺体を出さない年もある。像がある家では像だけを出して手入れをする。

タナ・トラジャ県側でもやる地域はあるが、北トラジャほど頻度は高くない。

そして、そもそも遺体を出さない型もある。墓の扉だけを開け、掃除をして、供物を置いて閉じる。これもマネネと呼ぶ。着替えまでやるかどうかは、遺体の保存状態、家族の人数、その年の懐具合で決まる。

在来信仰の型では、最後にト・ミナアと呼ばれる祭司が祈りを唱えて祖霊を招き、供物を「食べて」もらってから、生きている人間が食事に入る。キリスト教徒の家ではこの部分が礼拝に置き換わる。

大きく違うのは、儀礼中の態度の規範だ。マネネは泣いてはいけない。悲しんではいけない。喜びをもって進めなければならない。葬儀のほうが号泣と挽歌の場であるのに対して、マネネは同窓会に近い。この規範があるので、家族は笑いながら遺体に触れ、写真を撮る。外から見ると、この「明るさ」がいちばん理解しにくい。

墓のかたち、五つ

トラジャの死者の行き先は一種類ではない。土に埋めることは基本的にしない。土の中は汚れた世界だという感覚があり、できるだけ高いところ、天に近いところへ置きたがる。以下、代表的なものを別々に書く。

リアン――岩をくり抜いた横穴

いちばん典型的なのが、石灰岩の崖や巨岩に横穴を掘って作る岩墓だ。総称してリアンと呼び、細かくはリアン・シリク、リアン・エロン、リアン・トケ、リアン・パなど種類がある。ノミ一本で岩をくり抜く仕事で、ひとつの穴を仕上げるのに数か月から数年かかる。掘るのは専門職で、報酬は水牛で払う。家族の墓なので、何世代分もの遺体がひとつの穴に重なる。

位置が高いほど格が上、という原則があり、崖の上のほうに並ぶ穴は上位貴族のものだ。

エロン――船と水牛と豚の形をした木棺

古い時代の貴族は、木をくり抜いた棺に納められた。エロンという。考古学者が19か所の遺跡で100基を調査したところ、形は三種類に分かれた。舟形、水牛形、豚形。故人が生前どういう役割を担ったかで形が決まる。舟形は、トラジャ人がもともと海の民で山へ移り住んだという伝承と結びつけて語られることが多い。放射性炭素年代測定では、紀元前800年ごろまで遡る例があり、1960年代まで実際に使われていた。

棺は崖や洞窟や岩の窪みに置かれた。村や田んぼの近くに置くのが原則で、死者は生活圏の外へは追い出されない。

吊るされた棺と、落ちてくる骨

崖の張り出しに棺を懸垂させる葬法もある。木の梁を岩に打ち込んで、そこに棺を吊るす。何十年もすると木も棺も朽ちて、中の骨が下に落ちてくる。ロンダやレモやケテ・ケスといった有名な墓地では、落ちた頭蓋骨が岩棚に並べられていて、観光客が最初にぎょっとするのはたいていこれだ。並べているのは無造作に見えて、実は家族がそのつど拾って整えている。

パタネ――家の形をした墓

近年いちばん増えているのが、コンクリート製の家型の墓、パタネだ。屋根をトンコナン風に反らせ、扉を作り、鍵をかける。中に棺を並べて置く。マネネのときに開けるのはたいていこのパタネで、扉があるぶん出し入れが容易だという実際的な理由もある。オレンジ色の瓦に窓のない、小さな建物が集落の裏手に建っている。あれが墓だ。

タウタウ――等身大の、木でできた故人

そして、トラジャといえばこれ、という像がある。タウタウ。直訳すると「小さな人」。等身大の木彫りで、崖の中段に開けたバルコニーのような棚に、何体も並んで立ち、谷を見下ろしている。

パンノキやジャックフルーツの木を使う。頭と胴と腕をひとつの木の塊から彫り、腰から下を別の塊で彫って、前腕と手はダボで継ぐ。それを竹の芯に固定して、故人の服を着せ、装身具をつけ、髪を植える。女性像には首飾りをかける。生前の顔に似せるので、近年のものは肖像彫刻としてかなり写実的だ。1体作るのに1000ドルほどかかるとされる。

つくれるのは貴族だけだ。一定以上の等級の葬儀を出した人にしか許されない。葬儀のあいだ、タウタウは遺体のそばに置かれ、女たちがその周りで泣き、系譜が唱えられ、祖先への取り次ぎが願われる。それから遺体と一緒に崖まで運ばれ、そこに立つ。

トラジャの人にとって、これはただの像ではない。死者の魂が宿る器であり、同時に肖像でもある。だから世話をする。服を着替えさせ、供物を供え、話しかける。生きている家族の健康と長寿を守ってくれると考えられている。

パッシリラン――木の幹に埋める赤ん坊

最後に、いまはもう行われていない葬法について。

歯の生えていない乳児が死ぬと、木の幹に埋めた。パッシリランという。タナ・トラジャ県カンビラ村に、いまも痕跡の残る林がある。

使うのはタラの木。パンノキの一種で、白い樹液が大量に出る。この樹液が母乳の代わりになると考えられた。木の幹に浅い窪みを掘り、赤ん坊を布も衣も着せずに、母の胎内にいたときのように丸めて入れる。シダの葉で包む家もある。それからサトウヤシの繊維で蓋をする。ぴったりとは塞がない。空気が通るように、わざと隙間を残す。

なぜ木なのか。トラジャの考えでは、人の体には硬いもの(骨)と柔らかいもの(肉と体液)がある。死ぬとこれを分離しなければならない。ところが歯の生えていない赤ん坊は、体がまるごと柔らかい。まだ硬さを持っていない。だから生きた木の中に入れて、木と一体になりながら硬さへ育っていってもらう。木が第二の子宮になるのだ。そしてその木が寿命を全うして枯れたとき、その子の死はようやく完成した死になる。

穴を開ける位置にも決まりがある。両親の家と反対側の面に掘る。木のほうが新しい母親になるからだ。そして身分が高い家の子ほど高い位置に掘る。生まれた瞬間から階級がついてくるという事実が、ここにも出ている。太い木なら1本に10個ほどの穴が並ぶ。

もうひとつ、これは書くのがつらい決まりなのだが、実の母親は埋葬を見てはいけないことになっていた。その後1年ほど、その木に近づくことも許されない。悲しみに沈み込みすぎないように、そして次の子を授かる可能性を残すために、という理屈だ。

タラの木を切ることは固く禁じられていた。その木が赤ん坊のあの世への旅の続きだからだ。

この習俗は1970年代を最後に途絶えた。理由は二つ言われる。新しい宗教が広まったこと。そしてもうひとつ、医療が届いて乳児の死亡そのものが激減したことだ。カンビラの木にある穴は、どれも50年以上前のものになる。観光客は開けてはいけないと言われる。

アルク・トドロ――先祖のやり方は、いま何という名前で登録されているのか

在来信仰をアルク・トドロという。「先の人たちのやり方」。文字を持たなかったので、すべて口伝で来た。

創造神をプアン・マトゥアと呼ぶ。デアタと呼ばれる守護的な霊、ボンボと呼ばれるさまよう霊、そしてト・メンバリ・プアン、神格化された祖霊。人が死んだあと、その魂がどれになるかは、葬儀がどれだけ完璧に行われたかで決まる、とされる。行き先の名がプヤ。南にあるとも、天にあるとも言われる。

さっき書いたとおり、この宗教には二つの側がある。日の沈む側の儀礼群がランブ・ソロ、死と葬送。日の昇る側がランブ・トゥカ、生と豊穣と家の落成。踊りも歌も供物も別体系で、混ぜてはならない。

問題は、インドネシアという国が宗教をどう扱ってきたかだ。

1965年以降、この国では公認宗教の枠が定められ、身分証明書の宗教欄に書けるものが限られた。イスラム、プロテスタント、カトリック、ヒンドゥー、仏教(のちに儒教が加わる)。枠の外にある土着の信仰は「宗教」ではなく「信仰実践」に分類され、事実上の二級市民扱いになる。

そこでトラジャの伝統指導者たちが動いた。1969年7月1日付で、タナ・トラジャ県のパランダンガン・アダ中央指導評議会が「アルク・トドロはヒンドゥーに入る」という趣旨の文書を出す。同年、ヒンドゥー・仏教局長の決定が下り、アルク・トドロは正式にヒンドゥーの一分派として登録された。名前は「ヒンドゥー・アルクタ」。

この決定文には、アルク・トドロとヒンドゥーには多くの共通点があること、信者が自発的に選んだこと、そして指導と支援のための担当官を置く必要があること、が明記されている。

ただし、この55年余りの経過は決して順風ではなかった。信者数は減り続けている。聖職者や聖地の統計すら十分に整備されていない。バリのプダンダに相当する位置づけを認めてほしい、教員や布教担当の公務員枠がほしい、という要望が繰り返し出されてきたが、行政の対応は鈍い。名前そのものへの不満もある。

トラジャ人の大半はキリスト教徒になっているので、「アルク・トドロはヒンドゥーである」という等式は、自分たちの祖先の宗教がヒンドゥーだったと言われているようで受け入れがたい、という反発がある。ある指導者は「うちの体は公認宗教でも、良心はアルク・トドロだ」という言い方をしていた。

2016年、憲法裁判所の第97号決定によって、公認宗教以外の信仰も身分証に記載できるようになった。制度は少しずつ動いている。

ここでもうひとつ、興味深い矛盾を指摘しておきたい。1969年の登録には、観光振興という思惑が絡んでいる。当時から、県の観光行政に近い有力政治家が在来信仰の再活性化を進めていた。何十年ものあいだ「お前たちの神は時代遅れだ、愚かだ、悪魔的だ」と言われ続けてきた人々が、こんどは「その古い伝統こそが君たちを近代へ導く道だ、なぜならそれが観光客を呼ぶから」と説得される。

この転倒が、トラジャの1970年代以降を貫くねじれになる。

キリスト教との折衷は、どこまで進んでいるか

現実の葬儀は、驚くほど自然に混ざっている。

会場では老女たちが讃美歌を歌う。牧師が説教をする。同じ会場の別の場所で、ト・ミナアが古い言葉で祈りを唱えている。マバドンの詞は、かつてアルク・トドロの教えを唱えるものだったが、いまは聖書の一節に置き換えられることがある。トラジャ教会の礼拝でマバドンの旋律が用いられ、独自の会衆賛美歌が生まれてもいる。

伝統音楽が教会音楽の中に取り込まれ、それがトラジャ教会のアイデンティティになっている、という研究もある。

慣習法の専門家であるトラジャ人の一人は、こう言い切っている。「古い儀礼は死んでいない。キリスト教の中に統合されたんだ」。

もちろん摩擦はある。マネネは祖霊崇拝ではないか、と考える聖職者はいまもいる。実際、この点はトラジャ教会の内部でずっと議論されてきた。

2024年に発表された神学倫理の論文は、バルップとリンディンガロで伝統指導者と牧師に聞き取りをして、こう結論している――現代のマネネの目的は祖霊を礼拝することでも、祖霊と交信して加護や呪いを期待することでもなく、遺体を世話することによる敬意と愛情の表現である、その限りにおいてキリスト教信仰と衝突しない。遺体を大切に扱うのは、神の像として造られた体への敬意にほかならない、と。

神学がここまで踏み込んで折り合いを探すというのは、それだけ現地で緊張が続いてきたということでもある。

タウタウが消えた――盗掘と、美術市場

ここからは、あまり気持ちのいい話ではない。

1985年のある朝のことだ。ある人類学者が、泊まり込みで葬儀に参列した帰り道、集落の入口で親族の男が泣きながら走ってくるのに出くわした。「祖先が夜のうちに連れ去られた。14体いなくなった」。

一族が持っていたタウタウは27体。そのうち14体が一夜で消えた。崖の墓の入口にあった骨や彫刻棺はそのまま残っていた。奥にあった像だけが荒らされていた。丸ごと消えたものもあれば、首だけを切り落とされて胴体が残されたものもあった。

親族は泣き、あるいは怒って崖を這い回った。手がかりはひとつも見つからなかった。その日のうちに男たちは、残った13体を運び出して、観光客用のトイレに押し込み、南京錠をかけた。一族全員が集まってもっとましな方法を決めるまでの、屈辱的な避難だった。

これは特別な事件ではない。同じことがトラジャじゅうで起きた。

1970年代、崖には数千体のタウタウが立っていた。いま残っているのは数百体だ。大半は美術商の手で運び出され、ジャカルタへ、ヨーロッパへ、アメリカへ渡った。1991年にはアメリカの著名な博物館で展示までされている。

皮肉なのは、盗まれるものの選ばれ方だ。近年の写実的な肖像タイプは、市場で人気がない。買い手が欲しがるのは、古い、様式化された、風雨に晒されて木肌の割れた像なのだ。つまり「祖先」として最も長く祀られてきたものから順に消えていく。

盗掘の歴史はもう少し古い。1978年には、トラジャの貴族が外国人コレクターに売るために彫刻棺の一部を盗んで有罪判決を受けている。この事件は、キリスト教徒のトラジャ人からも在来信仰の人からも同じ強さで非難された。「先祖は売り物じゃない」というのが、そのときの言葉だった。

現在、崖の墓の多くには鉄格子が入っている。像は檻の奥に、手の届かない位置に立っている。ある研究者はこの状況をこう書いた。トラジャの人々と祖先像の関係は一周してしまった、かつて像が人を守っていたのに、いまは人が像を守っている、と。

返還の話も進んでいない。理由は複雑だ。まず盗品なので来歴の記録がない。どの崖のどの家のものだったのか、特定できない。数百、数千の墓のどこから来たか分からない像が、世界中の収蔵庫に眠っている。ある人類学者はこれを「孤児になった美術品」ではなく「家をなくした遺産」と呼ぶことを提案した。孤児という言い方は里親探ししか想定しないが、家をなくしたと言えば、元の家に帰る可能性が残るからだ。

だが仮に出所が分かっても、戻すのは簡単ではない。タウタウは個人の持ち物ではなく、数百人から数千人規模の血縁集団の共有財産だ。元の場所に戻すには、その全員の合意と、アルク・トドロの様式にのっとった聖別の儀礼が必要になる。ところが親族の大半はいまキリスト教徒で、「異教の儀礼に一族の金を出すのか」と反対する人が必ず出る。

行政の側は、来歴不明の像をマカッサルの州立博物館に集めてはどうかと提案してきた。これも地元では評判がよくない。マカッサルはトラジャから車で9時間の距離で、ブギス人とマカッサル人のムスリムの土地だ。取材に応じたトラジャ人たちは、像がそこへ行っても、かつて受けていたような愛情のこもった扱いは受けないだろう、と語った。

ある上位身分の男性は、自分たちの慣習法はこの国のムスリム多数派に尊重されていない、とはっきり言った。博物館に入れたらまた闇に消えるのではないか、という不安を口にする人もいた。

アメリカのある大学が持っていた民族学コレクションの中から、タウタウの頭部が見つかったことがある。同じ大学の人類学者がそれに気づき、インドネシア総領事館と協議を始めた。箱の中には、大規模な密輸事件で有罪になった美術商の画廊の書類が入っていた。コレクション管理者は取材にこう答えている。

学生や自分がその頭部を扱うとき、あるいはその近くにいるときには、声に出して挨拶をし、傷つけるような言い方をしないよう自分に言い聞かせている、と。トラジャの人々からそう扱ってほしいと要請されているからだ、と。

観光地になったあとの、けっこう込み入った話

トラジャが世界に「発見」されたのはそんなに昔ではない。

1950年代から60年代前半、南スラウェシではムスリムの反乱が続いていて、高地への道は危険だった。反乱が鎮圧された1960年代後半、最初の人類学者たちが入り、続いて冒険心の強い旅行者が入り始めた。ウジュン・パンダン(現マカッサル)で車とブギス人の運転手を雇い、12時間から14時間かけて山を登る。運転手が「死を祝う異教徒がいる」と説明する場所へ。

1971年、北西部の儀礼にヨーロッパ人が50人ほど来た。1972年には400人を超え、その年に亡くなったサンガッラのプアン――当地で最高位の貴族とされた人物――の葬儀を見た。この葬儀を英国の撮影隊が記録した。制作費を出したのはビートルズのドラマーだったと伝えられている。この映像がヨーロッパ数か国で放送され、トラジャの名が一気に広がった。同じ年から、英語とインドネシア語の小冊子が次々に出る。

1973年に高地を訪れた外国人は422人。1976年には1万2000人になったと推定されている。1985年で外国人1万5000人と国内客8万人。1987年には合計17万9948人。1994年には外国人5万3700人と国内客20万5000人。20年で3桁増えた。

背景には国策がある。1974年の第二次五カ年計画が、バリ以外の「外島」への観光振興を打ち出した。1984年には観光総局長がトラジャを訪れ、「南スラウェシの観光のプリマドンナ」と宣言する。5000ルピア札にトンコナンの図柄が採用された。多くのトラジャ人にとって、これは誇らしいことだった。何世紀にもわたって低地のムスリムに見下され、コーヒーと奴隷を取られてきた側が、いまや地図の上で主役になったのだ。

だが誇りと同時に、やっかいなものもついてきた。

1985年、州の観光当局が「無免許ガイド」の取り締まりを決める。免許を取るには金と、車で8時間かかる州都での講習が必要だった。若くて貧しい地元ガイドには無理な話で、結果として儲かるガイドの多くがブギス人か華人になる。トラジャの人たちは激怒した。自分たちの文化を何も知らない人間が、自分たちをよそ者に説明して金を取るのか、と。

地元は陳情を重ね、同年10月末、ランテパオで88人が参加する2週間の講習会が開かれた。

その講習会が、また揉めた。開講の日、州知事が来ると聞いていたのに来ない。2日目には、州から来るはずの茶菓代と交通費が届いていないと告げられる。参加者からは「ブギス人がわざと止めた、自分たちのガイドが競争で不利になるからだ」という声が出て、講習は空中分解しかけた。最終的に県知事が25万ルピアを出し、参加者が毎日少しずつ出し合うことで続行した。

この講習会には、もうひとつ目的があった。トラジャの歴史と神話について、観光客に語るバージョンを統一することだ。主催者は、地域ごとに起源神話がばらばらなのを気にしていた。観光客が矛盾する話を聞いたら、トラジャ人は信用ならないと思われる、と。外の支配に抗するはずの試みが、内側の多様性を潰す方向に働いた。

そして1987年1月、ある葬儀が象徴的な出来事になる。

亡くなったのはネ・ケテという上位貴族で、地元の行政と宗教の両方で活躍した人物だった。空港では、ジェット機を降りた観光客に謄写版刷りのビラが配られた。人類学の用語を少しちりばめて、トラジャの葬送儀礼の社会的機能を説明し、起源神話に触れ、10日間のスケジュール表を載せたビラである。ホテルと旅行社は「日程が確定した初めてのトラジャの葬儀です」と胸を張った。

これまでのように直前で延期になって観光客をがっかりさせることはない、と。

参列者は3万人。大臣3人、知事2人が来た。

すると、儀礼の中身が変わり始めた。司会者が置かれた。かつてトラジャの葬儀に司会者などいなかった。司会者は「お客さんが退屈するから」とスピーチを10分に制限した。男性親族は黒白のトラジャ文様をバティックで染めた揃いのシャツを着た。これも新しい慣習で、おそらくは学校や軍の制服、そしてテレビの民族芸能番組の影響だと分析されている。

7日目、遺体をラッキアンへ運ぶ行列が予定されていた。ところが直前に、来賓が1時間遅れると連絡が入る。家族が集まって協議し、行列を遅らせることにした。「それは慣習に反する」と言う参列者に、進行係のひとりがこう答えた。「葬儀の成否は客のもてなしで決まる」。

かつて葬儀の観客は祖霊だった。いまは来賓である。地元の客たちは会場の隅で「こんなのは本物じゃない」とぼやいていた。皮肉なことに、大物が来たことは家の格を上げ、同時に「あの家の儀礼は本物じゃない」という競争相手の批判の材料にもなった。

観光地化はもっと物理的な形でも進んだ。伝統家屋の縁側に土産物の屋台が並び、村の中をコンクリートの歩道が縫い、崖の墓の下にトタン屋根の見物席と門が建った。すると今度は「来てみたら商業化されすぎていた」と観光客が文句を言い始める。

1985年、州は18か所のトラジャの村と墓を公式の「観光対象」に指定し、ゾーニング計画を作るコンサルタント団を送り込んだ。団にトラジャ人はひとりもいなかった。ブギス人、ジャワ人、マンダル人だけだった。

会議で、コンサルタントたちは「伝統フリーエリア」を作りたいと言い出した。ある場所を決めて、そこでは生の儀礼の踊りと死の儀礼の踊りを、観光客向けに定期公演する。旅程が儀礼の季節と合わなかった観光客にも一通り見せられる、というアイデアである。

会場は凍りついた。生の儀礼と死の儀礼を混ぜてはいけないというのは、この文化の根幹の禁忌なのだ。コンサルタントたちもそれは知っていた。知った上で、「伝統フリー」と名づけてしまえば禁忌を迂回できる、と提案した。ある参加者がつぶやいた。「わかっているつもりなんだろうけど、わかってない。意見を聞くために呼んでおいて、聞く気がない。なんのために呼んだんだ」。

3か月後の会議では、トンコナンと墓の一切の改変を禁止する案が出た。「観光客のために本物のままにしておく」ためだ。ひとりの男性が震える声で立ち上がって言った。あなたたちが区画したいものは、誰か一人のものじゃない。トンコナンごとの集団のものだ。ひとつのトンコナンに何百人、何千人と成員がいる。代表者の同意じゃ足りない。全員の同意が要るんだ、と。

ゾンビと呼ばれた話、そして怒った現地

2010年代に入って、新しい面倒が生まれた。インターネットである。

若いトラジャ人がスマートフォンを持ち、家族の儀礼の写真を共有し始めた。マネネの日に撮った、遺体と並んだ自撮り。文脈も説明もなしにそれが拡散し、やがて欧米のゾンビ愛好層のいる領域に流れ着いた。トラジャは「歩く死者の地」になった。「タナ・トラジャ、天空の王とゾンビの国」「トラジャで子どもとゾンビ狩り」といった見出しがネット上に並ぶようになる。

現地の人類学者は、この経緯を細かく追った。そして自分の教え子が「トラジャに行ってゾンビを見たい」と言い出したことに愕然としている。彼女によれば、マネネは葬儀と違って、そもそも観光客向けに宣伝される行事ではない。北トラジャの谷筋では、多くの場合が墓掃除と会食と祈りで終わる、ごく小さな親族行事なのだ。

商魂もついてきた。山の上のあるゲストハウスは、青緑色の服を着た「トラジャのゾンビ」の写真を宣伝に使った。あるガイドは、しかるべき額を払えば「死者を歩かせる技」を動物で実演できる人間を探してくると言った。

2014年、アメリカの高校生向け雑誌の記者が、この「歩く死者ミーム」の真相を書きたいと言って、その人類学者に取材を申し込んだ。彼女は喜んで応じた。オリエンタリズム丸出しの誤解を正せるチャンスだったからだ。長い時間をかけて、あれは死者を蘇らせる異教の儀式ではなく、埋葬後の遺体と墓を清める儀礼であり、いまのトラジャ人はほとんどがキリスト教徒で、これは死んだ家族への敬意と愛情の表現なのだ、と説明した。

数か月後、掲載誌が届いた。見開きいっぱいに、親族に囲まれた男性の遺体の写真。太字の見出しはこうだった。「これが本物のウォーキング・デッド」。彼女の談話は、生と死の境界が「ずっと薄い」という思わせぶりな一行に切り詰められていた。

もうひとつ、外部の視線について、現地の人自身の証言を引きたい。2016年、リンディンガロという町でマネネを見た人がこう語っている。いちばん印象に残ったのは、家族が観光客の帰るのを待ってから遺体の着替えを始めたことだった、と。彼らはプライバシーが欲しかったのだ。その日、その場には観光客が20人ほどいた。笑って、大声で喋って、遺体の写真を撮っていた。彼はこう続けた。

「まったく敬意がなかったし、家族は嫌だったと思う。家族も写真は撮っていたけど、観光客ほどじゃなかった」。

2025年には、インドネシアの著名なコメディアンがランブ・ソロを「トラジャ人を貧しくする浪費だ」とネタにして、大炎上した。ハサヌディン大学の人類学者は、怒るのは当然だとコメントしている。「トラジャ人がこれを見たら傷つくと思う。文化の心臓を直接殴られたようなものだから。トラジャ文化の心臓はそこにあるんです。アルク・トドロとランブ・ソロ、そこに」。

外から来る批判と、それに対する反証

さて、この儀礼は本当に「浪費」なのか。

批判は外国人だけのものではない。全国紙は1980年代から、葬儀に何千ドルも注ぎ込むトラジャ人を批判する記事を載せてきた。政府高官も似たことを言ってきた。もっと言えば、批判はトラジャ社会の内側から出ている。独立後、カリマンタンの林業などで稼いだ元下層身分の人々が、故郷に戻って豪華な儀礼を出すようになった。序列が揺らいだ。すると旧来のエリート層が「近代化のためにも供犠は縮小すべきだ」と言い出した。

動機がどこにあったかは、まあ、察しがつく。

現代の批判はもっと具体的だ。教会の牧会研究には、儀礼の資金繰りが家族の最大の問題になっている、という記述が繰り返し出てくる。実際に借金をして開く家がある。親族会議で意見が割れる。誰がどれだけ出すかで揉める。ある主催者はこう語っている。「よく揉めるのは、資金の話になったときです」。それでも彼はこう続ける。「ランブ・ソロは、いくらかかっても必ずやります。親と祖先への感謝ですから」。

闘牛の賭博化も内側から批判されている。トラジャ教会の総会執行部は賭博を明確に拒否する立場を取った。もともとは遺族を慰めるための余興だったのが、いまや賭場になり、儀礼と関係のない喧嘩用の水牛が持ち込まれ、1日で終わるはずが何日も続くようになった、という指摘がある。ある教会関係者は「伝統を檻に入れたいのではなく、埃で曇った伝統の顔を洗いたいのだ」と書いていた。

反証の側も強い。

第一に、金は消えていない。屠られた水牛と豚は肉になり、その日に来た全員に分配される。数百人から数千人ぶんの蛋白質だ。しかも階級と貸し借りに従って分配される以上、これは配給ではなく再分配のシステムとして機能している。

第二に、贈与の帳簿がある。前に書いたとおり、持ち込まれた水牛はすべて貸しとして記録され、いずれ同じ形で返ってくる。一世代では収支が閉じないが、三世代で見ればおおむね閉じる。単発の出費として計算するから途方もない額に見えるだけだ、という反論は説得力がある。

第三に、水牛の飼育それ自体が地域経済になっている。まだら牛の生産と流通は立派な産業だ。

第四に、これが最も大事なところだが、儀礼がなければ人は帰ってこない。トラジャは長く出稼ぎの土地だった。カリマンタンの森林、マカッサル、ジャカルタ、マレーシア、パプア。人はどんどん出ていく。だが8月になると、儀礼のために帰ってくる。祖父母の遺体に会うために帰ってくる。マネネの研究が「これは離れて暮らす家族の再会の機会である」と何度も強調するのは、そういうことだ。

生まれたときには死んでいた曾祖母を、子どもたちはこの日に「紹介」される。

日本の地方が「盆に帰る理由」を弱らせて過疎化に喘いでいることを思うと、この装置の頑丈さには考えさせられるものがある。

ただし、反証を並べたからといって、屠殺の現場を見た日本人旅行者の「いたたまれなさ」が間違いだったことにはならない。彼が見たのは事実だ。血が噴き出し、犬が舐めに来て、豚が絶叫し、その脇で人々が談笑して飯を食っていた。それも事実だ。

たぶん、正しいのはこういうことだ。ふだん我々は、肉を食う代償を誰かに外注している。屠場は町の外にあり、パックの肉には血がついていない。トラジャでは、その工程が儀礼の中心にあって、全員の目の前で行われる。ぎょっとするのは、彼らが野蛮だからではなく、こちらが見ないで済ませてきたものを不意に見せられるからだ。

なぜ、日本人にとってこれが特別に強烈なのか

ここは正直に書きたい。

日本人がトラジャの話を聞いて「ぞっとする」のには、いくつも理由がある。

まず制度がまるで違う。日本では火葬率が99.9パーセントを超えている。死後24時間は火葬してはならないという決まりはあるが、逆に言えば、24時間過ぎたら焼ける。通夜と葬儀は数日で終わる。遺体を数年、家に置いておくことは、法制度上そもそも成立しない。

次に、感覚の問題がある。日本には「穢れ」の観念が根深く残っている。葬式から帰ったら塩をまく。遺体は死んだ瞬間から「触れてはいけないもの」の側に移る。顔だけ見て、あとは棺の蓋を閉じる。トラジャの家では、その遺体に毎日ごはんを運び、服を着替えさせ、抱き起こしてスクーターに乗せる。この落差はきつい。

だが――そしてここからが、この記事でいちばん書きたかったことなのだが――日本人が受けるショックには、たぶん「見覚え」の成分が混ざっている。

日本には殯(もがり)があった。人が死んでもすぐには葬らず、仮の建物に安置して、長いときは数年、生きているように扱った。天皇の場合は殯宮が建てられ、供膳が続けられた。日本書紀にも古事記にも出てくる。トラジャのトマクラと、思想としてほとんど同じことをやっていた。

沖縄と奄美には洗骨があった。いったん風葬や仮埋葬にして、数年後に墓を開け、遺体を取り出し、残った肉を落として骨を洗い、改めて納める。担い手は主に女性だった。1970年代くらいまで、かなり広い範囲で行われていた。墓を開けて、遺体をふたたび手に取る。マネネと同じ構造だ。

両墓制もあった。遺体を埋める墓と、参る墓を別に持つ。土に埋めるほうは汚れた場所、参るほうは清い場所。トラジャが「土は汚れた世界だ」と言うのと、発想が地続きだ。

仏壇も、位牌も、盆の迎え火も、死者が家に帰ってくるという前提でできている。写真に手を合わせ、供え物をし、話しかける。トラジャの家族がやっていることと、実は連続している。違うのは、そこに遺体があるかどうかだけだ。

つまり、これは「遠い異文化の奇習」ではない。日本人が数十年前まで、あるいは形を変えていまも持っているものの、生々しい版なのだ。

怖いものというのは、たいてい完全な他者ではない。自分がついこのあいだ手放したもの、手放したつもりで手放しきれていないものが、他人の家で堂々と生きているのを見たときに、人は一番ぞわっとする。トラジャの写真が強烈なのは、たぶんそういうことだ。

それでも続いている理由

最後に、なぜこれが21世紀のいまも続いているのか、整理しておきたい。

信仰だけでは説明がつかない。信仰は薄まっている。8割以上がキリスト教徒で、アルク・トドロを名乗る人は数えるほどしかいない。それでも儀礼は縮まなかった。むしろ膨らんだ時期すらある。

続く理由は、たぶんこの三つが噛み合っているからだ。

ひとつは、帳簿。誰も途中で降りられない。もらった水牛は返さなければならず、返すには儀礼を開くしかない。しかもその債務は世代を越える。この構造がある限り、経済的に合理的な誰かが「今年からやめます」と宣言することはできない。

ふたつめは、離散した人々をつなぐ用途。トラジャ人は世界中に散っている。散った人々が同じ日に同じ場所に戻ってくる理由が、儀礼以外にない。年に一度、8月の墓の前で、都会に出た息子が父の遺体の埃を払う。この機能を代替できるものが、いまのところ発明されていない。

みっつめは、悲しみの速度。人が死んでから、その死を受け入れるまでに、人間には時間がいる。トラジャの制度は、その時間を数か月から数年、公式に確保している。息を引き取った日に「はい死にました」と切り替えるのではなく、まず「病人」という中間の状態を置いて、家族全員がそこに慣れてから、葬儀の日に一斉に「死んだ」ことにする。悲嘆の管理装置として、これはかなり洗練されている。

英国の記者が父を亡くしたときの話を、もう一度思い出してほしい。彼女は父の死を飲み込む前に、父を埋めてしまった。そして何年も整理がつかないままでいる。それに対してママク・リサは、12年間、父の隣で暮らしている。どちらが健全か、という問いに簡単な答えはない。ないけれど、少なくとも一方だけを「奇習」と呼ぶ資格は、こちらにはない。

もう一度、あの部屋に戻る。

金色のカーテンの向こう。魚と唐辛子の皿。「さあ起きて、晩ご飯よ」。

エリザベス・ランテは、夫の遺体に向かってそう言い続けている。彼女はそれを狂気だと思っていないし、演技だとも思っていない。夫はまだ病人で、家にいて、家族の会話を聞いている。葬儀の日が来て、水牛が屠られ、魂がプヤへの道を歩き出すまでは。

そして数年後の8月、家族はまた墓を開けにいく。掃除をして、日に当てて、新しい服を着せて、写真を撮る。泣かずに。笑って。

現地の長老が、ある取材にこう答えていた。「私の娘たちは母に代わって生きていて、私は父に代わって生きているのです」。

その一行を読んだとき、この記事のためにため込んだ資料が、急に全部つながった気がした。彼らは死者を家に閉じ込めているのではない。命の鎖のどこかに自分がいることを、毎年、手で触って確かめているだけなのだ。

怖いと感じるのは、こちら側の反応である。それは正直な反応だし、否定する必要もない。ただ、怖がったあとで、もう一歩だけ踏み込んでみる価値はある。

その先にあるのは、たぶん、うらやましさに近い何かだ。

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