- 二十四時間、火が消えない場所
- 火を握っている人たちの話
- 川が上がってくる季節
- 「アゴーラ」は「恐ろしくない」という意味だ
- 頭蓋骨を持って十二年歩いた神
- 一六〇一年、チャンダウリーの村に生まれた男
- 髑髏に豆を食わせていた師
- ロバにヴェーダを唱えさせた話
- 「区別こそが迷いだ」という一点
- 赤ん坊はみんなアゴーリとして生まれる
- 語られる修行について、慎重に書く
- カメラが入った日、二〇〇五年十月
- 二〇一七年三月五日、CNNの一時間
- 演出はどこから始まるのか
- 証言その一――看護師だった人類学者、一九九六年
- 証言その二――一問しか使えなかった記者、二〇一六年
- 証言その三――二百人に聞いた研究者、二〇一五年から二〇一六年
- 火葬場から僧院へ、行を移した男
- 五百ルピーの聖者たち
- 灰が観光資源になるとき
- なぜ、最も汚れたものの中に神を見るのか
- 日本にも、死体と聖性の系譜はある
- 生きている人たちの話であること
二十四時間、火が消えない場所
夜の二時。ガンジス川の西岸に、火が七つ灯っている。
いや、灯っているという言い方は上品すぎる。燃えている。轟々と音を立てて、人間が燃えている。
ここはインド・ウッタルプラデーシュ州ヴァーラーナシー。かつてバナーラス、あるいはカーシーと呼ばれた街の、マニカルニカー・ガートという場所だ。ガートというのは川岸に降りる石段のことで、この街には八十四のガートが並んでいる。そのうち二つが、遺体を焼くための場所として使われている。マニカルニカーと、そこから三キロほど南のハリシュチャンドラ・ガート。
この二つだけだ。
マニカルニカーは二十四時間、三百六十五日、動いている。休みがない。日曜も祝日も正月もない。旅行案内の類は一日に百体から三百体が焼かれると書く。地元の火葬労働者が取材に答えた数字も、だいたいその範囲に収まる。
つまり平均すれば四分か五分に一体、誰かがここで灰になっている計算になる。
遺体は竹の担架に乗せられて、細い路地を抜けてやってくる。担ぐのは遺族の男たちだ。白か、色のついた布で包まれ、マリーゴールドの花輪をかけられている。彼らは歩きながら、ひとつの文句を唱え続ける。ラーム・ナーム・サティヤ・ハェ。
神の名こそが真実である、という意味だ。この声が、路地の壁に反響しながら近づいてくる。
ガートの入り口には薪屋が軒を連ねている。というより、路地そのものが薪で埋まっている。何階建てかの高さまで積み上げられた木材の山。マンゴーの木が一般的で、白檀は高い。売るときは重さで量る。
地元の単位で「一マン」は四十キロ。八十キロの遺体を完全に焼き切るには六マン、つまり二百四十キロほどの薪がいるとされる。
二〇二六年、農村報道の記者が薪屋のバルビール・チャウダリーという男から話を聞いている。一マンの値が五百ルピー前後だったのが、七百から八百ルピーに跳ね上がった。遺族は四マンや五マンで済ませようと、儀礼を切り詰めるようになったらしい。
薪の値段で、人の弔われ方が変わる。ここではそれが日常の会話だ。
遺体はまず川に浸される。ガンジス川に一度沈めてから、積み上げた薪の上に乗せる。火をつけるのは長男か、それに準じる男の親族で、頭を剃り、白い布をまとっている。彼は薪の山の周りを三周か五周まわってから、火を入れる。
その火は、どこから持ってくるか。
ここが肝心なところで、マニカルニカーの火は「永遠の火」から分けてもらうことになっている。何千年も消えたことがないと言われる火で、シヴァ神が自ら灯したと伝えられている。管理しているのはドムと呼ばれる人々だ。
火を握っている人たちの話
ドムはカースト制度のなかで最下層に置かれてきた集団で、指定カーストに分類されている。にもかかわらず、彼らだけが火葬場の火を扱える。というより、彼らしか扱ってはいけない。ヒンドゥー教徒にとって最も重要な、輪廻からの解脱に直結する場面を、社会が不可触と呼んできた人々が握っている。この矛盾がヴァーラーナシーという街の骨格になっている。
ドムの頭はドム・ラージャ、つまり「ドムの王」と呼ばれる。世襲だ。二〇二〇年八月二十五日に亡くなったジャグディーシュ・チャウダリーという人物は、翌二〇二一年にインド政府からパドマ・シュリー章を追贈されている。社会奉仕の功績によるとされた。国の勲章をもらうドムの王がいる一方で、上位カーストの客は彼の家で飲み食いしないという話も同時に伝えられる。
ドムの世界には内部の階層もある。パーリーと呼ばれる仕事の順番制がそれで、一年のうち何日を火葬の仕事にあてられるかが家ごとに割り振られている。取材に応じた火葬労働者、クンダン・クマール・チャウダリーの話はこうだ。パーリーを二、三日しか持たない者がいる。その一方で、亡くなったドム・ラージャの娘婿たちは、それぞれ四か月ずつを持っているらしい。
持たない者は、持つ者の下で働く。
遺体一体を焼く報酬は二百ルピー、交渉して三百から六百ルピーというのが現場で語られる相場だ。一日に焼けるのはせいぜい二、三体。手には水ぶくれができる。煙が目と肺をやる。クンダンはこう言ったと記録されている。
煙のなかに立っていられるか、俺たちは何時間も立っているんだ、と。
二〇二三年に出た記録文学『ファイアー・オン・ザ・ガンジス』の著者ラーディカー・アイヤンガーは、七年から八年かけてこの共同体に通った。彼女が描いたチャンド・ガートというドムの居住区は、マニカルニカーのすぐ脇にありながら、街の宗教的な熱狂からも政治的な関心からも切り離されている。狭い部屋、排水の悪い泥の路地、絡まった電線。登場する男の一人は三十歳の火葬労働者で、父親は六十五歳のとき肝硬変で死んでいる。
酒とタバコの代用品を大量に摂らなければこの仕事はやれない、と彼らは言う。十三、四歳で火葬場に立ち、同じ年頃で酒を覚える。
灰は最後に川へ流される。だがそれで終わりではない。ドムの子どもたちや女たちが、流された灰と川底の泥を篩にかける。溶けた金や銀のかけら、金属くずを探すのだ。歯に詰めた金、指輪の残骸、そういうものが稀に出る。
売れば、わずかな金になる。
火葬場から出た燃え残りの薪は、家に持ち帰って煮炊きに使う。ドム・ラージャの一族にも昔から続く習慣だとされている。二〇二六年、燃料価格の高騰でガスボンベが手に入らなくなったとき、彼らは一斉にこの「古いやり方」に戻った。ヴィジャイ・チャウダリーという三十五歳の男が記者に言った言葉が残っている。俺たちのかまどは、この死体で燃えてるんだ。
川が上がってくる季節
この場所は、川の機嫌にも左右される。
二〇二四年七月末、モンスーンの雨でガンジス川が膨れ上がり、マニカルニカーとハリシュチャンドラの下段が水没した。水上警察のミティレーシュ・ヤーダヴという担当者が、いつも火葬をしている場所が水に浸かったので現在は上の段で焼いている、と報道機関に述べている。同じ時期、ダシャーシュワメード・ガートで毎晩行われる川への灯明儀礼も、上の段へ、さらには屋上へと押し上げられた。
九月には水位がさらに上がった。中央水利委員会の数字で、九月十五日に七十・五〇メートル、十六日には七十・七六メートル。警戒水位が七十・二六二メートル、危険水位が七十一・二六二メートル、記録された最高水位が七十三・九〇一メートルという街だ。四千四百人以上が浸水の影響を受け、四十六か所の避難所のうち十四か所が稼働した。
それでも火は消えない。段を上げ、場所を変え、焼き続ける。ここで焼かれれば輪廻から解脱できると信じられているからだ。インド中から、死ぬためにこの街へ来る人がいる。焼くための場所が水に沈んだくらいで止められるものではない。
煙の匂いについて、多くの取材者が同じことを書いている。うまく言葉にできない、と。
オランダのフローニンゲン大学に籍を置く研究者、ニターシャ・シャルマー。彼女は二〇一五年五月から八月、および同年十二月から翌二〇一六年三月にかけて、この火葬場で調査を行った。二百人の外国人旅行者から聞き取りをした。有効回答として分析されたのは百二十人分。彼らがこの匂いを表現するのに使った言葉は、「包み込む」「飲み込む」「圧倒的」といったものだった。
白檀か普通の薪か、遺体にかけるギー、花、線香、そして人間の肉。
それらが混ざったものだ。ある旅行者は、火葬場から離れたときに匂いが変わったことで「死の匂いと生の匂いの違いが分かった」と語ったらしい。
その煙のなかに、時々、灰を全身に塗った男が座っている。
「アゴーラ」は「恐ろしくない」という意味だ
灰を塗った男たちをアゴーリと呼ぶ。
この名前がまず面白い。サンスクリットの「ゴーラ」は恐ろしい、凄まじい、という意味の語だ。頭に否定の接頭辞がついて「アゴーラ」、つまり「恐ろしくないもの」になる。そこから派生して、その道を行く者がアゴーリだ。
字面だけ見ると穏やかそうに見える。だがこれは典型的な逆説的命名で、実際に指しているのはシヴァ神の最も凄まじい相のほうだ。
シヴァには五つの顔があるという教理がある。パンチャブラフマ、五梵とも呼ばれるものだ。西を向くサディヨージャータが創造、北を向くヴァーマデーヴァが維持、東を向くタットプルシャが隠蔽、天頂を向くイーシャーナが解脱を司る。そして南を向くのがアゴーラで、火の元素を担い、破壊と溶解を司る。
なぜ南なのか。ヒンドゥーの世界観で南は死の神ヤマの方角だからだ。頭を南に向けて寝てはいけない、南向きの戸口は気をつけろ、と言われる。終わりが住んでいる方角。そこに「恐ろしくないもの」という名前の、最も恐ろしい顔を向けさせる。
図像の記述では、アゴーラの顔は三つの黄色い目を持つ。牙が生え、頭に人間の頭蓋骨の輪をかけ、蛇を耳飾りにし、蠍の首飾りを下げ、体は青黒い。手には三叉戟、斧、剣、棍棒、そして髑髏杯を持つ。どう見ても恐ろしい。
にもかかわらず「アゴーラ」と呼ぶ。ヴェーダに由来する有名なマントラがあって、マハーナーラーヤナ・ウパニシャッドに収められている。恐ろしくないものたちに、恐ろしいものたちに、恐ろしいものよりさらに恐ろしいものたちに、あらゆるルドラの相に敬礼する――そういう構造の文句だ。恐怖の対象と、恐怖からの解放を、同じ一つのものとして並べている。
アゴーリという行者たちは、この南の顔を自分の焦点に据えた人々だ。シヴァを、とくにその最も苛烈な相であるバイラヴァとして拝む。そして彼らが最初に手を伸ばすのは、そのバイラヴァが住むとされる場所、つまり火葬場である。
頭蓋骨を持って十二年歩いた神
この系譜の根っこには、インド宗教史で最も評判の悪い一群がいる。カーパーリカ、つまり「髑髏を持つ者たち」だ。
カーパーリカの教義書は一冊も残っていない。一九七二年にデイヴィッド・ロレンゼンが『カーパーリカとカーラームカ――失われた二つのシヴァ派』という研究書を出しているのだ。だが、その冒頭で彼自身がこう断っている。この二派の宗教文献は一つも現存しない。彼らの肖像は敵対者の記述から描き出すしかない、と。
だからロレンゼンの記述には「おそらく」「たぶん」「そう見える」「示唆される」という留保がやたらに多い。
それでも輪郭は取れる。
まず「髑髏を持つ者」という語そのものは、西暦一〇〇年から三〇〇年ごろに成立したとされるヤージュニャヴァルキヤ法典に出てくる。ただしここでは宗派の名前ではなく、贖罪の規定だ。バラモンを殺した者は、髑髏と杖を手に持つ。乞食をして生き、自分の犯した行いを告げて歩き、粗食に甘んじれば、十二年で浄化されうる。そう書かれている。
インド社会で最も重い罪に対する、最も重い罰。
ここに神話が重なる。シヴァが創造神ブラフマーと口論し、ブラフマーの五つある首のうち一つを切り落としてしまう。これはバラモン殺しにあたる。切り取った頭蓋骨がシヴァの左手に貼りついて離れなくなり、彼は乞食の鉢としてそれを持ち、十二年間さすらう羽目になる。この贖罪をマハーヴラタ、大誓戒と呼ぶ。
そして伝承によれば、その贖罪がようやく終わり、頭蓋骨が手から落ちた場所こそがヴァーラーナシーの、カパーラモーチャナと呼ばれる沐浴場である。
つまりこの街は、神が骨を手放した場所ということになっている。
カーパーリカたちは、この神話を身をもって再演した人々だ。西暦六世紀ごろの天文学者ヴァラーハミヒラの著作に「カパーラの誓い」への言及がある。七世紀に入ると文献での言及が一気に増える。六〇〇年から六二五年ごろの南インドの笑劇『マッタヴィラーサ』には酔っ払ったカーパーリカの行者が登場する。自分の主が頭蓋骨を持って歩いたおかげでバラモン殺しの罪から清められたのだ、と語る。
バヴァブーティの戯曲『マーラティー・マーダヴァ』には火葬場に立つ二人のカーパーリカが出てきて、女の行者にはカパーラクンダラー。つまり「髑髏の耳飾り」という名がついている。クリシュナミシュラの『プラボーダチャンドローダヤ』では、カーパーリカが入門者に酒を差し出して。これはアムリタ、不死の霊液だと呼ぶ場面がある。
ただし、これらは全部フィクションだ。しかも敵対的な立場から書かれた戯曲である。ロレンゼンが繰り返し警告しているのはそこで、サンスクリット文学のなかのカーパーリカは、たいてい詐欺師か色情狂か邪術師として描かれている。実在の人々の記録ではなく、当時の社会が「タブーを踏み越える者」に押しつけていた像である可能性が高い。
それでも、実在を支える物証もある。西インドで見つかった七世紀と十一世紀の二つの碑文が、マハーヴラタを行う行者たちへの寄進を記録している。一つはカパーレーシュヴァラ、「髑髏の主」という名の神殿に住むマハーヴラティンたちへの村の寄進。もう一つは「姿かたちにおいて髑髏を持つシャンカラのごとき」マハーヴラティンへの寄進だ。六四七年のマルハール銅板碑文には、カーパーリカの系譜が名前入りで並んでいる。
ソーマシャルマン、ルドラソーマ、テージャソーマ、ビーマソーマ。彼らの灌頂名にはみな「ソーマ」がつく。
カーラームカのほうは事情がやや違う。こちらは寄進碑文が大量に残っている。現在のカルナータカ州にあたる地域で、十一世紀から十二世紀の碑文が多く、大半はカンナダ語で書かれている。それらを読むと、カーラームカは実のところパーシュパタ派の分派である。神殿と僧院を運営する、わりに組織立った集団だったことが分かる。
十世紀から十三世紀にかけて栄え、その後消えた。
カーパーリカのほうは十二世紀以降、文献から姿を消していく。
そして今日、その流れを汲むと言われる集団のうち、火葬場との結びつきを最も濃く残しているのがアゴーリだ。宗教学者のミルチャ・エリアーデは一九五八年の『ヨーガ――不死と自由』のなかで、アゴーリは「はるかに古く広範な行者の教団、カーパーリカすなわち髑髏を身につける者たちの後継者にすぎない」と書いている。
一六〇一年、チャンダウリーの村に生まれた男
ただし、いま「アゴーリ」と呼ばれている集団を実際に組織し、今日まで続く本山を残したのは、もっと新しい人物だ。
ババ・キナーラーム。教団の文書や信者団体の資料はおおむね、一六〇一年、ヴァーラーナシー近郊のチャンダウリー県ラームガルという村に生まれたとする。クシャトリヤの家で、父の名はアクバル・シング、母はマンサー・デーヴィー。長く子のなかった夫婦にようやく授かった子だった。
伝承はここから一気に神話になる。生まれてから三日間、赤ん坊は泣きもせず乳も飲まなかった。三日目に三人の遊行僧が現れて、赤ん坊を抱き上げて耳元に何かを囁いた。そこで初めて子どもは泣いたのだ。三人はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの化身だったとされる。
十五歳ごろに家を出て遍歴に入る。ガージープルのカローという村でシヴァラーム、別名シヴァダースという聖者に出会い、ヴィシュヌ派の入門を受けた。キナーラームが自分の名の末尾に「ラーム」を残する。その後の教団の僧が代々「ラーム」で終わる名を名乗るのは、この最初の師への敬意からだと考えられている。
彼自身の主著『ヴィヴェークサール』の第七詩節は、シヴァ・ラームという吉祥な名の慈悲深い師を、願いを叶える樹として知った、と述べている。
その後の遍歴はインド全土に及んだとされる。記述からは現在のパキスタンやアフガニスタンにあたる地域まで足を伸ばしたことがうかがえる。決定的だったのはグジャラート州ジュナーガルのギルナール山で、ここで彼は伝説的な導師ダッタートレーヤに出会う。ダッタートレーヤはブラフマーとヴィシュヌとシヴァが一つの身体に合一した存在とされ、アゴーラの道の始祖にあたる神格だ。『ヴィヴェークサール』第十二詩節はこう記す。
大いなる聖者、大いなる慈悲の者は微笑み、わが頭に手を置き、知識と内なる智慧を明かし、わが心に揺るぎない信を据えた。
伝承ではこのとき、ダッタートレーヤは自分自身の肉を裂いて若い行者に差し出し、恩寵として授けたらしい。この一点だけで、この系譜がどういう種類の物語を土台にしているかが分かる。
さらにキナーラームは、バローチスターン地方ヒングラージの女神ヒングラージ・マーターの祝福を受ける。女神は女性の姿で現れ、息子にするように食べ物を差し出した。ヴァーラーナシーのクリーム・クンドという場所へ行けと告げ、自分もそこへついて行くと言った。この場所は、ヒンドゥーの聖地体系でいうシャクティ・ピータの一つ、女神サティーの頭部が落ちたとされる土地でもある。
髑髏に豆を食わせていた師
ヴァーラーナシーに着いたキナーラームの前に、もう一人の人物が現れる。ババ・カールーラーム。
伝えられている話は、こうだ。
ハリシュチャンドラ・ガートの火葬場に、髑髏に豆を食わせている行者がいた。ガンジス川の砂には、焼け残った頭蓋骨が転がっていることが珍しくない。完全には焼き切れなかったものが川や砂州に残るからだ。また、不慮の死を遂げた者の遺体は焼かずに川へ流す「水葬」にされることがあり、その場合も骨は砂に残る。カールーラームはその頭蓋骨たちを呼び寄せて、豆を食べさせていた。
ある日、呼んでも髑髏が来なくなった。カールーラームは、別の行者が来て呪術で骨を縛ったのだと見抜く。それがキナーラームだった。
ここから師は三つの試験を出す。一つ目、骨を食べるのをやめさせてみろ。キナーラームは命じてやめさせる。二つ目、腹が減った。キナーラームはガンジス川から魚を三匹跳ね上がらせ、火葬の残り木で焼いて差し出す。
三つ目、師は川に浮かぶ死体を指さす。あれは死んでいる、と言われてキナーラームは答える。いや、生きている。そして呼びかけると、遺体は岸へ流れ寄り、立ち上がった。
その男は天然痘で死んだとされて川に流された者で、村に帰れと言われたが、キナーラームのもとに残ることを願った。ラームジーヤワンラーム、「神の恩寵によって生き返らされた者」という名を与えられ、最初の弟子の一人になったとされる。
満足したカールーラームは、キナーラームをクリーム・クンドへ連れて行き、この僧院はもうお前のものだと告げて、姿を消した。彼こそがダッタートレーヤだったのだ、というのが教団の説明である。
この出来事の年代について、研究文献はヴィクラマ暦一七五四年、西暦でいうと一六九七年ごろとする説を挙げる。別に一七五七年とする説もある。だが、キナーラーム自身が『ヴィヴェークサール』の成立年をヴィクラマ暦一八一二年、西暦一七五五年としている。そのため、そちらは整合が悪いと指摘されている。
彼はクリーム・クンドの傍らにドゥニー、すなわち聖なる火を熾した。この火は今も消えていないとされる。燃やす薪は、ハリシュチャンドラ・ガートの火葬場から出たものだ。それを供給する取り決めが、火葬場を管理するドムとの間に古くから結ばれている。つまりこの僧院の炉は、死体を焼いた火の残りで燃えている。
ロバにヴェーダを唱えさせた話
ババ・キナーラームの伝承のなかで最も繰り返し語られるのが、当時のバナーラスの藩王チェート・シングとの衝突だ。
藩王は火葬場のすぐ南に壮麗な城砦を建て、完成を祝って中庭で大規模なヴェーダの火の祭祀を行った。名の知れたバラモンの祭司と学僧が集められ、街の富裕層と有力者が居並んだ。
キナーラームは招かれていなかった。にもかかわらず、ロバに乗って現れた。正統な儀礼の場にロバで乗りつけるというのは、これ以上ないほど不吉で無礼な振る舞いだ。
藩王と祭司たちが罵ると、彼はこう返したと伝えられる。聖典を知っていることが、何が聖で何が徳かを決める権威をお前たちに与えるとでも思っているのか。そんな知識に大したものはない。見ろ、私のロバでもヴェーダを唱えられる。
ロバはヴェーダを唱え始め、一同は仰天した。
そしてキナーラームは呪いをかける。この新しい城砦には鳩しか住まぬようになる。お前の家系には男子が生まれなくなる。
実際、その後まもなくイギリス軍がチェート・シングを城砦から追い出し、砦は無人のままになった。チェート・シングの後継者たちは家系を保つために男子を養子に取らざるを得なかった、とも伝えられる。
医療人類学者のロン・バレットは、この逸話を「バラモンの儀礼的権威とクシャトリヤ王の世俗的権威の対立」ではなく「両者の結託に対する抵抗の寓話」として読むべきだと指摘している。ここで攻撃されているのは特定のカーストではなく、階層秩序という枠組みそのものだからだ。
キナーラームは四つのヴィシュヌ派僧院と四つのアゴーラ派僧院を建てたとされる。『ヴィヴェークサール』のほか『ラームギーター』『ラームラサール』『ウンムニーラーム』などを著した。低カーストの出身者を各僧院の要職に据え、女性の入門を認め、家族ぐるみで修行に加わることを許した。当時の慣習からすれば、どれも相当に逆らったやり方である。
没年は一七七一年九月二十一日、あるいは一七七二年とされる。生年を一六〇一年とすれば百七十年生きたことになり、これは明らかに伝承の数字だ。研究者は生没年ともに議論があるとしながら、百歳をはるかに超えて生きたという点では一致していると書く。
彼はサマーディに入る前、自分は第十一代の座主として生まれ変わると告げたらしい。そして一九七八年二月十日、九歳のシッダールト・ガウタム・ラームという少年が、第十一代座主に即位した。この人物が現在のクリーム・クンド僧院の座主である。
「区別こそが迷いだ」という一点
さて、ここからが本題だ。
なぜ彼らは、わざわざ最も汚れたとされる場所に住み、最も汚れたとされるものを身に纏うのか。悪趣味だから、では答えにならない。理屈がある。
ヒンドゥー社会の日常を動かしている最も強力な観念の一つが、浄と不浄の区別だ。何が清く、何が穢れているか。誰と一緒に食べてよく、誰の手から水を受け取ってよいか。誰が触れたものが誰を汚すか。この区別の網の目が、カースト制度という階層秩序の実質的な作動原理になってきた。
ドムがそうだ。彼らは人間の解脱に不可欠な役目を負っているのに、死体に触れるという一点で最下層に置かれる。クンダンという火葬労働者はこう言っている。マニカルニカーの周りでは誰も俺たちの近くに来たがらない。店の水差しから直接飲むこともできない、手に注いでもらうんだ、と。
アゴーラの論理は、この区別そのものを標的にする。
彼らの立場は徹底した不二一元論だ。真実在はただ一つであり、個我は宇宙的な絶対者と同一である。であるならば、あらゆる対立は究極的には幻である。清いものと汚いものの区別も、生と死の区別も、聖と俗の区別も、人間が後から貼り付けた分類にすぎない。
そしてその分類こそが、人を縛っている。分類に従うかぎり、人は分類の世界のなかに閉じ込められる。だから分類を破壊する。実際に、身体を使って、いちばん強固なタブーから破壊していく。それによって恐怖と嫌悪から解放され、輪廻から抜ける。
この理屈を、僧院の側は非常に上手い比喩で説明している。バレットが記録したところによれば、キナーラーム派はこう言う。アゴーラはガンジス川のようなものだ。ヒマラヤから来る最も清らかな流れも受け入れるし、都市の下水も受け入れる、と。
ガンジス川は、投げ込まれたあらゆる穢れを引き受けて、それでも汚れない。というより、あらゆる穢れを引き受けられるという能力そのものが、この川の神聖さの源になっている。火葬場も同じだ。バレットはこれを「宇宙的な流し」と呼ぶ。人類の物質的・形而上学的な排泄物を受け止める、聖なるごみ捨て場。
ここに残酷な非対称がある。掃除夫や火葬場の従事者は、人間の排泄物を扱うがゆえに社会的に貶められる。ところが同じ機能を果たす川や火葬場は、そのゆえに神聖とされる。人は貶められ、場所は崇められる。
アゴーリは、この非対称の側に立たない。場所ではなく人間として、あらゆる穢れを引き受ける側に立つ。キナーラーム派は、ババ・キナーラームをシヴァの化身と見なし、彼のドゥニーを火葬の炎と見なし、クリーム・クンドの僧院そのものを「マハーシュマシャーナ」、大火葬場と呼ぶ。ヴァーラーナシーという街全体につけられているのと同じ呼び名である。
赤ん坊はみんなアゴーリとして生まれる
もう一つ、バレットが書き留めた言い方がいい。
アゴーラの師と弟子たちは、自分たちの状態は原初的で普遍的なものだと考えている。つまり、人間はみなアゴーリとして生まれてくる、と。ハリ・ババという行者は何度もこう言ったという。どの社会の赤ん坊も差別をしない。自分の糞のなかでも、周りのおもちゃでも、同じように遊ぶ。
子どもは成長するにつれて、だんだん差別的になっていく。親が持っている文化特有の執着と嫌悪を学習するからだ。そして頭をぶつけ、地面に転び、だんだん自分が死ぬことに気づく。気づいて怖くなり、その恐怖をなだめるために、死を否認する方法を見つける。
だからアゴーラの修行は、深く内面化された文化的な鋳型を学習し直す作業なのだ、とバレットは書く。それが火葬場での修行という形を取るとき、行者はごく幼い子どものように死と向き合いながら、同時に生の両極を一つのものとして瞑想している。
言われてみると、この説明はかなり強い。汚物を怖がるのも、死体を怖がるのも、後から教わったことだ、という主張だからだ。教わったものなら、取り消せるはずである。取り消せば、恐怖がなくなる。恐怖がなくなれば、自由になる。
もちろん、この理屈が正しいかどうかとは別に、手段が正当化されるかどうかという問題は残る。そこは後で触れる。
語られる修行について、慎重に書く
アゴーリの修行として語られているものを並べておく。ただし、ここではあくまで「そう語られている」「取材者はこう記録した」という形で書く。手順や分量を書くつもりはないし、真似できる形にするつもりもない。誰かがこれを読んで実行しようとするようなものは、一行も書かない。
まず、灰。火葬場の灰を全身に塗る。写真家タマラ・メリーノが記録したババ・ラーム・マヘーシュという四十歳前後の行者の言葉はこうだ。聖なる灰はあらゆるものの最後の、そして最も純粋な状態だ。身体が灰と同じくらい純粋になるように、人間の灰を全身に塗るわけである。
次に、火葬場での瞑想。死体のそばで、あるいは死体を祭壇として坐る。死体を用いる行法はシャヴァ・サーダナ、あるいはシャヴァ・サンスカーラと呼ばれ、火葬場の女神スマシャーナ・ターラーを招くためのものとされる。彼らが拝む女神は、十の智慧の女神マハーヴィディヤーのうちドゥーマーヴァティー、バガラームキー、バイラヴィーなど。男性神ではシヴァの相であるマハーカーラ、バイラヴァ、ヴィーラバドラなどが挙がる。
そして、頭蓋骨の器。カパーラと呼ぶ。シヴァ自身が神話のなかで持っていたものと同じ形をした器で、そこから飲む。骨で装身具を作る。首に頭蓋の輪をかける。
さらに、社会がタブーとしているものを口にする、と語られている。死体の一部を摂ること。自分自身の排泄物を摂ること。ここについては具体的な記述を避ける。書く意味がないからだ。
ここで見ておきたいのは、これらが「何のために語られるか」のほうだ。教団側と研究者側の説明は一致している。嫌悪と執着を切断するため。死という最大の忌避対象に真正面から向き合い、完全な無畏に達するため。そのとき初めて、その人にとってあらゆるものが「恐ろしくないもの」になる。
それがアゴーリという語の意味だ、と。
もう一つ押さえておきたいのは、これらの行いが「人を殺す」こととは厳格に区別されているという点だ。ババ・ラーム・マヘーシュはメリーノにこう言っている。真のアゴーラは殺すことから遠ざかる。極端な行と生き方にもかかわらず、彼らは決して他人を傷つけない、と。実際、報道で語られてきた対象は、すでに自然死して川に流された遺体である。
カメラが入った日、二〇〇五年十月
ここから先は、外の世界がこの人たちをどう撮ってきたかの話だ。
二〇〇五年十月、『フィーディング・オン・ザ・デッド』という十分間の記録映画が完成した。監督はサンディープ・シング。もともと運送業をやっていた人物で、会社を畳んで映像制作に転じたと報じられている。同年のアジアン・ファースト・フィルム・フェスティバルで最優秀記録映画部門にノミネートされる。制作会社名はアンラヴェル・プロダクションズ、言語は英語、上映時間十分と記録されている。
シングがアメリカの通信社に語った内容は、こうだ。一人のアゴーリ行者の信頼を得るのに三か月以上かかった。撮影許可が下りてから、彼と三人のカメラマンは六月のうち十日間、その行者と一緒に待った。何を待ったかというと、ガンジス川に浮かぶ遺体を待ったのだ。ヒンドゥー教徒は普通は火葬するが、儀礼上の理由で川に流される遺体もある。
十日目に、遺体が流れてきた。
シングの説明はこうだ。遺体は腐敗して青みがかっていたが、行者は病気になることを恐れていなかった。彼は遺体の上に坐り、火葬場の女神に祈り、女神に肉を捧げてから、自分で食べた。行者は、その肉を食べれば老いが止まり、空中浮揚や天候の操作といった超常の力を得られると説明したという。
そしてシングは、こう付け加えている。そういう力が発揮されるのは見なかった、と。
この作品はその年の十月に、イギリスやアメリカの放送局を通じて世界に流れた。同じ通信社の記事は、アゴーリの行者は同時期にだいたい七十人ほどで、十二年間この宗派に属したあと家族のもとへ帰る、とも書いている。人数については別の推計もある。一九七〇年代から八十年代にかけて行者を調査した、ラージェーシュとラメーシュのベーディー兄弟。彼らは現代インドのアゴーリを、十五人に満たないかもしれないと見積もった。
一方、英語版の百科事典的な記述では「数千人」という数字が挙げられている。要するに、誰も正確な数を把握していない。定義次第で桁が二つ変わる、という種類の話だ。
二〇一七年三月五日、CNNの一時間
事態がはるかに大きくなったのは、それから十二年後だ。
二〇一七年三月五日の夜十時、アメリカのCNNが『ビリーヴァー・ウィズ・レザー・アスラン』という六回シリーズの第一回を放送した。宗教学者のレザー・アスランが世界各地の信仰の現場に入るという企画で、その第一回が、ヴァーラーナシーのアゴーリだった。
放送された内容はこうだ。アスランはアゴーリの導師と向き合い、ガンジス川で沐浴し、火葬の灰を顔に塗られる。人間の頭蓋骨から酒を飲む。そして人間の脳とされるものを調理したものを口にする。
そのあと場面が転がり落ちる。取材が気まずくなったところで、行者の一人がアスランを脅す。これ以上しゃべるなら首を切るぞ。アスランは監督に向かって、これは間違いだったかもしれない、と漏らす。さらに導師が自分の排泄物を食べ、それをアスランと撮影班に投げつける。
撮影班は逃げ出す。
CNNの宣伝素材には、ヒンドゥー教徒の集団の映像に「カニバルズ」という見出しが被せられたものがあった。公式アカウントの宣伝文句は「人間の死体を食べる。信仰を証明するためにどこまでやるか。アゴーリの世界へ」という調子だった。
反応は即座だった。
ヒンドゥー・アメリカン財団のスハーグ・シュクラーは、この番組を「ショック宗教ポルノ」と呼んだ。同財団の声明はこう述べた。ヒンドゥー教についての宗教的リテラシーがこれほど乏しい。アメリカでは少数派共同体への憎悪事案が増えている。この時期に、なぜアスランとCNNは、十億人以上の信者の大半が一度も会ったことのないアゴーリを扱うのか。
しかもその信仰への黄金時間帯の入り口として、煽情的に。
カリフォルニア州選出のロー・カンナ下院議員は、表現の自由はある。だが、アスランがキリスト教についてもヒンドゥー教についても学問より煽情で身を立ててきたのは残念だ、と書いた。ハワイ州選出のトゥルシー・ギャバード下院議員は、三月七日に投稿している。CNNがその力と影響力を使って、ヒンドゥー教への誤解と恐怖を増幅させている。それに強い懸念を抱いている、と。
彼女はさらに、CNNは遊行の行者の一派に厳しい光を当てて衝撃的な映像を作っただけでなく、動物園を見物するように扱う。カーストやカルマや輪廻についてヒンドゥー教徒が長年反論してきた誤った紋切り型を繰り返した、とも述べている。
米印政治行動委員会のサンジャイ・プーリー会長も声明を出した。多数の電話とメールが寄せられている、という。緊張した空気のなかで、こうした番組はインド系アメリカ人への認識を作る。彼らをさらに攻撃されやすくしかねない、と。
サンフランシスコ大学のメディア研究者ヴァムシー・ジュルーリも書いている。アメリカが前例のない不安と恐怖のなかにあるこの時期だ。髭を生やした褐色の男たちと、その陰惨で死に満ちた宗教という煽情的でグロテスクな映像。それを押し出すのは、CNNとして無神経で無責任だ、と。
この放送の直前、実際に前後してインド系やシク教徒への襲撃事件が起きていたことが、批判の緊迫度を上げていた。
一方で、番組後半は別の顔を映していた。アスランは火葬場を離れ、出家していないアゴーラ派の人々を訪ねる。彼らは孤児院を運営し、ハンセン病の患者の世話をし、環境の清掃活動をしていた。カーストによる差別をなくすために働く、深い信仰を持ったヒンドゥー教徒たちである。アスランはカメラに向かって言う。
信仰を実践に移すとはどういうことか知りたいか。これがそれだ。
アスラン自身はフェイスブックで反論した。カメラの前でもナレーションでも繰り返し述べたといる。彼らはヒンドゥー教を代表するものではなく、ヒンドゥー教の根幹である浄と不浄の区別を拒絶する極端な一派である、と。
そして番組についてのほぼすべてのインタビューで、長く話したとも書いている。カースト制度の流動性、不可触民とされる人々が抱える問題。そして、あらゆる立場のヒンドゥー教徒がその両方を克服しようと努力していること。
演出はどこから始まるのか
ここで問いたいのは、誰が正しかったかではない。
見せ物を引き出してしまう構造がどう働くか、である。
この点について、最も鋭い証言を残しているのはチリ出身の写真家タマラ・メリーノだ。彼女は二〇一六年の終わりごろ、一か月間アゴーリと過ごした。アゴーリは夜に儀礼を行うので、火葬場で夜通し起きている生活を続けた、と彼女は語っている。
そして、こう報告している。彼女は結局、人肉を食べる場面を一度も撮らなかった。撮らせてもらえなかったのではない。その行為はあまりに神聖なものだと説明されたからだ。
その一方で、彼女は「テレビの制作者からカメラの前で人肉を食べてくれと頼まれた」ことのあるアゴーラの実践者たちと時間を過ごしている。
これが、構造の全部だ。
最も秘匿されるべき行為を、外部のカメラが「見せてくれ」と頼む。頼めば金になる、あるいは有名になる。だから誰かがやる。やった映像が放送される。放送されたものが「アゴーリとはこういうものだ」という世界の常識になる。
その常識を確認しに、次の取材班が来る。前の映像より刺激が弱いと企画が通らないから、要求は少しずつ過激になる。
二〇一七年に自らアゴーリを撮った写真家トゥルパル・パンディヤーは、これを実に身も蓋もなく書いている。本物のアゴーリは確かに存在する。しかしテレビで見るものは現実からほど遠い。彼らが必ずしもみな人肉を食べるわけではないし、互いに糞を投げ合うわけでもないし、人体の一部を身につけたり食べたりするわけでもない――ただし、値段次第ではやる者もいる。
彼はさらに続ける。灰を身に塗るだけなら、観光客を一枚の写真に誘うには十分だ。だが肉を食べるとなれば確実に値段がつく。メディアがその異常さで視聴率を稼ぐぶん、アゴーリを自称する者たちには派手に振る舞う動機が生まれる。まるで芝居を打ち続けているように。
そして、偽の現実がすでに作られてしまった以上、前回より異常なことをしなければならなくなる。
パンディヤー自身の体験も書き残されている。初めて撮ろうとしたときは緊張していたし、相手は警戒して身構えていた。目を合わせるのも難しく、まともな写真は十枚も撮れなかった。六年後、同じ祭りの同じ場所で同じアゴーリたちに会ったとき、彼は誰にも断られなかったのだ。全員が撮影に応じた。
多くが手招きし、見返りを期待して喜んでレンズの前に立った。彼は書いている。よく見れば、彼らはただの人間だった、と。
ちなみに、こうした報道への反発は二〇一七年が初めてではない。二〇〇三年、フロリダ州の地方紙タンパ・トリビューンがアゴーリについて「狂気への航海」という見出する。「ヒンドゥーのカニバル」という副見出しの記事を載せたことがある。行の宗教的な背景をまったく説明しない内容で、タンパのヒンドゥー教徒たちが抗議し、記事は撤回された。同紙はその後廃刊になっている。
証言その一――看護師だった人類学者、一九九六年
ロン・バレットは、人類学者になる前は集中治療室とホスピスで働いていた正看護師だ。
一九九六年、彼はヴァーラーナシーを訪れて、ある発見をする。キナーラーム派のアゴーリが運営する、大規模なハンセン病の治療施設があったのだ。
彼が想像していたアゴーリは、世間が語るとおりの姿だった。火葬場で裸で暮らし、死体の上で瞑想し、頭蓋骨から酒を飲む、インドで最も過激な行者たち。ところが実際に会った人々は、落ち着いた、社会的に尊敬を受けている出家者と在家者の集まりだった。象徴の体系としては死が常に居座り続けているのに、その宗教的規律は社会奉仕と治療という確立した回路を通じて実践されていた。
バレットはこの施設に通い、結局インドで二十二か月の現地調査を行ったのだ。看護師としてハンセン病の診療所に奉仕した。アゴーラ派の家族に迎え入れられ、最終的にはインド国外で唯一の僧院をカリフォルニアに開いた行者の弟子になった。彼自身が、自分のそれぞれの立場が調査に何を開き何を閉ざしたかを、かなり自覚的に書いている。
その成果が二〇〇八年にカリフォルニア大学出版局から出た『アゴーラ医学――北インドにおける穢れ、死、そして治癒』だ。序文はジョナサン・パリーが書いている。この本は英国王立人類学協会のウェルカム医学人類学賞を受けた。
彼が本の冒頭でまとめている転換は、こうだ。かつてアゴーリは、儀礼的に穢れた物質を抱きしめることで知られていた。近年、彼らはそれを、烙印を押された病を癒やすことへと移し替えた。その過程で、彼らは大きく、社会的に主流で、政治的にも力のある組織になったわけだ。
バレットが記録した患者たちの言葉も印象的だ。僧院のクンドに息子を連れて沐浴させに来たサンギーターという女性の息子は、こう要約した。いま僕らはこの問題の重荷をババに置いた。ババがやってくれる。彼が使った動詞は「注ぐ」「投じる」を意味する語だった。
穢れを水で洗い流すという、きわめて水理学的な浄化の模型が、患者たちの言葉のなかにそのまま生きている。
バレットが挙げている数字には厳しいものもある。ハンセン病では、病そのものの症状より社会的な烙印のほうがはるかに患者の状態を悪くする。白斑のように症状が似ているだけの別の病でも、同じ蔑視が向けられる。離婚、立ち退き、失職、社会関係からの排除。しかも「治癒した」とされたずっとあとまで続く。
そのため患者と家族は病を隠すようになり、発見が遅れ、治療が効きにくくなり、不可逆の変形や障害に至る確率が上がる。
証言その二――一問しか使えなかった記者、二〇一六年
まったく別の種類の証言もある。
オーストラリアの記者ルーク・ウィリアムズは、二〇一六年に「ダークツーリズム」を取材する目的でヴァーラーナシーに入った。死や災厄や惨事にまつわる場所を訪れる観光の形が、どこまで広がっているかを見るためだ。
彼はまず火葬場に行った。そこで出会ったオーストラリア人の若い旅行者は、燃える遺体の腕が布から滑り出て火がつき、皮膚がプラスチックのように溶けて赤い肉が露出するのを、凝視しながら「えげつない」と言った。その旅行者は続けてこう言ったのだ。本当に度肝を抜かれたいなら、アゴーリのカルトを見に行けよ、と。
ウィリアムズは街じゅうを探し回った。地元の人に聞くと、返ってくるのは決まって「近寄るな」だった。
やがて彼は、埃っぽい半壊のインターネットカフェで、オレンジの僧衣を着た六十代後半のフランス人に出会う。ヒンドゥー教に転じたヨーガの師で、髭はぼさぼさだった。この人物は、その月に北東部の山地からアゴーリが何人か流れてきていると言い、少額の謝礼と引き換えに、夜十一時にガートで引き合わせてやると申し出た。そして付け加えたのだ。あなたが初めての西洋人客ではない、と。
その晩、ガートの火は落ちていた。犬たちが固まって眠っていた。街灯を背に、ドレッドヘアの男が大きな鉄のカップで何かを調合していたのだ。
フランス人が交渉して戻ってきて、耳元で囁いた。質問は一つだけ許された。
ウィリアムズは、考えもせずに最悪の一問を使ってしまう。
「それ、何を飲んでるんですか」
通訳された答えは、酒と大麻樹脂と遺灰と、おそらくキノコ系の幻覚剤と、コブラの毒の混合物だった。ウィリアムズが少しだけ飲ませてくれと言うと、フランス人は、導師の助けなしではこれは一時的な急性の精神病を引き起こしうる、と警告した。この飲み物はあなたを別の世界へ運ぶ、身体を離れる、自分についての恐ろしい部分を全部見ることになる。しかし人は自分自身の暗闇のなかで迷子になることもある――そう言われた。
ウィリアムズ自身が書いている。それがどこまで本当かは、誰にも分からない。
この一件の構造は、よく見ておくべきだ。「近寄るな」と言う地元住民。仲介する外国人。少額の謝礼だ。夜の暗がり。
質問は一つだけという演出。そしてその一つを、記者は飲み物の話に使ってしまった。取材とは、しばしばこういうもわけだ。
証言その三――二百人に聞いた研究者、二〇一五年から二〇一六年
ニターシャ・シャルマーは、この火葬場を観光研究の対象として扱った数少ない研究者だ。二〇一五年五月から八月、および同年十二月から二〇一六年三月にかけて現地調査を行い、二つの集団に聞き取りをした。一方は死の儀礼と観光に関わる地元の人々、つまりアゴーリ、火葬の従事者、儀礼を行う祭司、地元の商人、旅行業者と案内人。他方は、その儀礼を見に来た外国人旅行者である。
内訳としては、アゴーリ五人、火葬従事者十人、祭司五人、商人十人、旅行業者と案内人十人。そして外国人旅行者百二十人という構成が記録されている。旅行者の出身はアメリカが十六パーセント、イギリスが十九パーセント。オーストラリアが十五パーセント、カナダが九パーセント。あとはオランダ、ドイツ、アルゼンチン、イタリア、ロシアだ。
さらにスペイン、フランス、スイス、コロンビア、トルコなど。
彼女の観察のうち、最も痛いのは二つある。
一つは、二度目には効かないということ。最初の訪問で死の儀礼に畏怖と圧倒を感じた、と語ったオーストラリア人の女性旅行者がいる。二度目に行ったときは、同じ神聖さをまったく感じなかったという。見えたのは汚れと汚物と死だけ。火葬場は何の心の平安ももたらさなかった、と述べている。
畏敬というのは、それほど不安定なものだ。
もう一つは、彼女が書いた表象への批判だ。ある種のブログや記録映画や写真は、アゴーリを、面白半分に屍肉を食う獣のような野蛮な集団として像を結ばせる傾向がある。そうした語りは、死にまつわるタブーの問題にはほとんど触れないし、この宗派の死の儀礼を説明する不二一元の哲学にも言及しない。結果として、東洋の異国性と、西洋と東洋の差異が過剰に誇張される――そう彼女は指摘している。
その一方で、彼女が記録した旅行者の言葉のなかには、こういうものもあった。ここの死の儀礼には感心した。自分の父が死んだとき、葬儀社は化粧をして生きているように見せかけたので、自分は父がほとんど誰だか分からなかったのだ。防腐処理というのは死の神聖さか真正さを奪ってしまうと思う。いま自分が父について覚えているのは、化粧を施されたあの作られた顔だけだ。
彼が本当はどんな人だったか、その最後の姿を覚えていたかった。それを考えると、ヒンドゥー教の、死者を自然の姿のまま即座に焼くやり方のほうがましだと思う。人工性が一切ない。自分の子どもにも、このやり方で焼いてくれと必ず伝える。
この人は、アゴーリを見に来て、自分の父親の葬式の話をして帰った。
死の見物というのは、たいてい自分の話になる。
火葬場から僧院へ、行を移した男
現代のアゴーラ派を語るとき、避けて通れない人物がもう一人いる。
アヴァドゥート・バグワーン・ラーム。信者からはアゴーレーシュワル・マハープラブ、あるいは単に「サルカール・ババ」と呼ばれた。一九五一年にクリーム・クンド僧院でババ・ラージェーシュワル・ラームから入門を受ける。火葬場とガンジス川の岸辺で厳しい行を積んだとされる。
彼が始めたのは、行の場所を変えることだった。
僧院の資料は、彼の改革をこう並べている。アゴーラの行を火葬場から僧院へ移したこと。酒やその他の酩酊物の使用を禁じたこと。公衆の面前で奇跡を演じることに反対し、弟子たちに霊的な力の見世物を一切避けるよう指導したこと。
「奇跡を人前でやるな」という一条が、今日の状況を考えると重い。
組織づくりも早い。一九六一年一月三十日にババ・バグワーン・ラーム・トラストを設立。同年九月二十一日、ヴァーラーナシーのマドゥアディーという地区にあるハージー・スレイマーンの庭園で、シュリー・サルヴェーシュワリー・サムーフという団体を立ち上げた。九月二十一日という日付は、ババ・キナーラームがサマーディに入ったとされる日と同じである。この団体は同年十一月二十八日に結社登録法に基づいて正式に登録された。
そして一九六二年一月、ヴァーラーナシー郊外のパラーオという場所に、ハンセン病の治療施設を開く。裕福でない人々からの自発的な寄付で始まった。開所式を行ったのは、のちに副首相となるジャグジーヴァン・ラームだった。彼自身が被差別階層の出身で、インド独立運動と社会改革の象徴的な政治家である。誰を呼んだかということ自体が、この施設の性格を語っている。
施設の名はアヴァドゥート・バグワーン・ラーム・クシュタ・セーヴァ・アーシュラム。男性用四十床、女性用十床の入院病棟を二つの病棟に分けて持つ。アーユルヴェーダと在来医療の系統を採り、薬の大半を自前で調製する。入院患者の治療は無料で、薬も食事も衣類も提供される。
この施設は、伝統医療によるハンセン病治療の成功例数でギネス世界記録に登録されたと、複数の団体資料が記している。バレットが現地調査を始めたころ、世界のハンセン病患者の六十七パーセントがインドにいる。そのうち七十三パーセントがヴァーラーナシーにいた、という数字も紹介されている。
治癒した患者の社会復帰にも取り組んだ。ハンセン病で最も残酷なのは病そのものではなく、家族からも社会からも追い出されて物乞いに落ちることだからだ。施設の側が患者に注ぐ愛情と敬意そのものが、周囲と家族の受け入れを促す装置として働いた、と資料は書く。
一九七三年には同じ敷地に五年生までの附属の学校を開いた。環境、社会規範、道徳と宗教についての教えが教科の一部で、勤労と人類への愛を重んじる、という方針が掲げられている。一九八五年三月二十六日にはアゴール・パリシャド・トラストを設立。ダウリー、すなわち持参金制度への反対運動も、この系統の活動の柱の一つになった。
アヴァドゥート・バグワーン・ラームは一九九二年に没した。その門下からは、インド国内に百五十を超える拠点が生まれたとされ、アメリカのカリフォルニア州ソノマにも僧院が置かれたのだ。バレットが弟子になった相手である。
つまり、こうだ。
火葬場で灰を塗り、頭蓋骨から飲んでいたとされる一派が、二十世紀後半にハンセン病の無料病院と小学校と反持参金運動の組織になった。抽象的な「浄不浄の否定」が、社会がいちばん触りたがらない病人に触るという、きわめて具体的な形に変換された。理屈から言えば、これは一貫している。最も穢れているとされるものに神を見るという教義の、いちばん穏当で、いちばん役に立つ実装だからだ。
もっとも、これがすべてではない。僧院の系統に属さない、名乗るだけのアゴーリが大量にいる。
五百ルピーの聖者たち
ヴァーラーナシーで写真を撮ろうとした写真家たちが、判で押したように同じ経験をしている。
あるアメリカの写真家は二〇一九年に自分の体験を書いている。特に佇まいの良いサードゥに声をかけ、しばらく話をしてから撮影を頼んだ。返ってきたのは「五百ルピー」だった。サードゥというのは金を含むあらゆる世俗の所有を放棄した人々のはずなので、彼は驚いた。自分は報道写真家なので、撮影のために金を払うことも受け取ることも仕事の誠実さを損なうと説明すると、相手は手で追い払う仕草をしたのだ。
別の一人に声をかけた。同じだった。もう一人。同じ。全員が金を要求した。
その晩、ホテルのフロントで親しくなった男に彼が尋ねると、答えはこうだった。あれは偽のサードゥです。本物ではない。サードゥの格好をして、ドレッドを伸ばして、外国人から写真代を取ろうとしているだけです。本物のサードゥはみんな山のほうにいて、人を避けています。
彼が、これまで見てきた有名なサードゥの写真をスマートフォンで見せると、相手はこう言った。この写真の男たちの多くもサードゥではありません。昨日あなたが見た、観光客を騙している同じホームレスの男たちです。
別の場面では、十分間話しただけの男に千ルピーを要求された。彼は最終的に、本物を探すのをやめ、「偽のサードゥがどれほど本物らしく見えるか」を撮ることに企画を切り替えた。
インドの旅行案内のなかにも、はっきり書いているものがある。アゴーリのサードゥを見かけることがある、それは確かに異世界的な光景だ。だが目を曇らせてはいけない。観光客を手招きして写真に応じる「アゴーリ」のほとんどは、現金のために演じている。敬意を持って眺め、誰も写真を撮られたくないと前提し、もし写真を提供されたなら、あとではなく先に料金を決めておくこと。
マニカルニカーには、もっと悪質な商売もある。よく知られているのは、火葬場へ「祝福」と称して案内しておいて、あとから「貧しい人の薪への寄付」として高額を要求するやり口だ。写真撮影料を取る非公式の徴収人もいる。そもそもこのガートでの撮影は一律に禁じられていて、金を払えば撮ってよい種類のものではない。
灰が観光資源になるとき
演出と信仰の境目が最も見えやすくなるのが、年に一度のマサーン・ホーリーだ。
インド中で祝われるホーリーは色粉を投げ合う春の祭りだ。だが、ヴァーラーナシーにはそれとは別に、火葬場の灰でやるホーリーがある。日取りは、ラングバリー・エーカーダシーの翌日、ファールグナ月白半十二日。二〇二五年は三月十一日だった。
由来はこう語られる。シヴァがパールヴァティーを娶ってカーシーに初めて連れ帰った日、街じゅうが色粉で歓迎した。ところがシヴァの眷属である鬼霊や幽鬼、ヤクシャやガンダルヴァたちは、この上品な宴には加われなかった。そこで翌日、シヴァは自らマニカルニカーの火葬場へ出向き、彼らと一緒に、燃える薪の灰でホーリーをやったのだ。以来この祭りが続いている、と。
現場は壮観であるらしい。マニカルニカーのマハーシュマシャーン・ナート寺院でアールティ。つまり灯明の儀礼が行われたあと、参加者が燃えている火葬の灰を掴んで撒き合う。ダマルという小太鼓が鳴り続け、首に頭蓋の輪をかけた者が踊る。ナーガ・サードゥも来る。
ハル・ハル・マハーデーヴの喚声が上がる。
そして、この祭りが近年、大きく変質した。
ソーシャルメディアで有名になったからだ。二〇二五年にマサーン・ホーリーを取材した書き手が記録した地元の年配住民の言葉は、こうだ。ソーシャルメディアがこれを有名にして以来、本質が変わってしまった。サードゥは減って、この行事のために扮装してくる芸人や出演者が増えた。
同じ書き手は、押し寄せる群衆に巻き込まれて身動きが取れなくなり、履物を片方なくしたと書いている。撤退も前進もできない人波。肘がぶつかり、個人の空間が煙のなかに消える。信仰の熱狂に見えたものは、近づいてみれば人間の渋滞だった、と。
さらに二〇二五年には、祭りそのものが争点になった。
カーシー・ヴィドワト・パリシャドという、街の学者とヴェーダ研究者の団体が、火葬の灰でホーリーをやるのはカーシーの伝統に反すると強く反対したのだ。事務局長のラームナーラーヤン・ドウィヴェーディー教授はこう述べた。マニカルニカーで薪の灰とホーリーをするのは、聖典のどこにも書かれていない。マサーンはシヴァが亡き魂に解脱の真言を授ける場所であり、アゴーラの行者の場所である。ここは祝祭の場ではない。
祭りを主催してきたババ・マハーシュマシャーン・ナート・セーヴァ・サミティの管理者グルシャン・カプールは。これは何百年も続く伝統だと反論した。ところが同じ団体の代表チャンドリカー・プラサード・グプタは、灰は必ずしも必要ない、寺院の伝統どおり赤い粉と色粉を神に捧げればよい、と述べた。寺院委員会そのものを解散させたのだ。
結果として二〇二五年の開催は、正午から午後一時までの一時間、寺院の境内だけに制限された。DJの使用は禁止、ドローンの飛行も不許可。参加者の入退場路まで警察が指定した。
翌年もおおむね同様の制限が敷かれた。ドム・ラージャ一族の一部からも異論が出ていること、工事が進行中であること。そして何より、実際に葬列が横を通っている場所で祭りをやることの難しさが理由として挙げられた。
考えてみれば当たり前だ。そこは、今まさに誰かの家族が焼かれている場所である。
なぜ、最も汚れたものの中に神を見るのか
ここまで来て、最初の問いに戻る。
なぜこんな発想が生まれたのか。
答えの半分は、もう出ている。浄と不浄の区別が、社会秩序の骨組みそのものだったからだ。
区別が強ければ強いほど、それを破る行為は強い意味を持つ。誰も触らないものに触る者は、社会の外に出る。社会の外に出た者は、社会の規則で測れなくなる。測れないものは、超越しているのか、堕落しているのか、外からは判別がつかない。
ロレンゼンは、カーパーリカについて実に的確な一文を残している。彼らがこの誓いを採用したのは、まさにそれがあらゆる罪のなかで最も忌まわしいバラモン殺しに対する贖罪だったからだ、と。そして続ける。彼らは同時に、あらゆる行者のなかで最も聖なる者であり、あらゆる犯罪者のなかで最も低い者だった。
同時に、である。ここが要点だ。最上位と最下位が同じ一点で重なる。ヒンドゥーの階層秩序は、はしごの上下を極端に引き伸ばした結果、はしごの両端が背中合わせでくっついてしまった。カーパーリカやアゴーリは、その接合部に立っている。
ジョナサン・パリーは一九八〇年代から九〇年代にかけて、この街の「聖なる専門家たち」を調べ続けた人類学者だ。一九九四年の『デス・イン・バナーラス』は、その集大成にあたる。彼はもっと早い論文で、ヒンドゥー教が時間と人間の死をどう扱うかについて、二つの対立する方法を示した。
家長にとって、良い死とは供犠である。死者は再創造され、それとともに時間と宇宙が再生する。つまり循環が回り続ける。
これに対して、火葬場と死体に密着した行者のやり方は、時間の再生ではなく時間の停止を目指す。輪廻の無限の繰り返しが含意する「死の反復」から抜け出そうとする。その手段の特異さは、ヒンドゥー的な「対立物の合一」という主題を、きわめて物質的かつ文字どおりに演じてみせる点にある。だが目的そのものも、その神学的な正当化も、まったく在来の言葉で語られている――パリーはそう書いた。
この最後の一句が効いている。手段は常軌を逸しているが、語彙は正統である。彼らは外国から来た異教ではない。ヒンドゥーの内側の論理を、極限まで押していっただけだ。
だから、この宗派を「野蛮な例外」として切り離すことはできない。むしろ、浄と不浄で人を序列化する仕組みが存在する限り、その仕組みを裏返す人が現れ続ける、と考えるほうが筋が通る。
日本にも、死体と聖性の系譜はある
ここで一度、視線を日本に移したい。
死体を聖なるものとして扱う発想は、インドの専売ではまったくない。
日本には即身仏がある。厳しい行の果てに絶命し、ミイラ化した宗教者を、仏として祀る信仰だ。現存が確認されているのは全国で十七体から十八体、うち八体が山形県にある。出羽三山の月山・湯殿山・羽黒山のうち、湯殿山信仰の系統に集中しているのが特徴で、庄内地方に六体、置賜地方に二体。隣の新潟県に四体、そのほか福島、茨城、長野、岐阜、京都に各一体が残る。
最古とされるのは新潟県長岡市寺泊野積の西生寺にある弘智法印で、一三六三年、八十二歳。湯殿山系で最も古いのは山形県鶴岡市の本明寺にある本明海上人で、一六八三年、六十一歳である。
即身仏になろうとした者は「一世行人」と呼ばれた。修験者でもなく、正式な僧でもない。出羽三山の組織のなかでは最下層に置かれた宗教者たちで、しかも門前集落の出身ではなく外から流れてきた下層の者が多かった。武士を二人殺して寺に逃げ込んだ者、家と土地を捨てて漂泊の末にたどり着いた者。伝承にはそういう経歴が残っている。
行の内容は、山に籠もって穀物を絶つ木食行だ。まず米・麦・粟・黍・大豆を絶ち、さらに蕎麦・稗・小豆なども絶つ。期間は千日から数千日。湯殿山の仙人沢は豪雪地帯で、冬でも山を下りることは許されなかった。行者は木の実や山草で生きながら、体から脂肪と水分を落としていった。
彼らが行に入った時期は、東北の大飢饉と重なっている。本明海が穀物断ちを始めたのは、凶作と飢饉で何千人もが飢え、物乞いに落ちた、まさにその時期だった。忠海と真如海も同様で、真如海が九十六歳で入定した一七八三年は天明の大飢饉の年である。つまり彼らは、周囲が飢えて死んでいく最中に、自ら飢えることを選んだ。人々の苦しみを代わりに引き受ける「代受苦」の論理だ。
ただし、伝承と事実の間には大きな溝がある。一九六〇年代に新潟大学医学部が行った現地調査で、ほとんどの即身仏には死後に人工的に乾燥させるなどの加工が施されていたことが判明している。日本の高温多湿の気候で自然にミイラができるはずがない、というのが結論だった。土中入定という手順を明記した古文書も見つかっていない。各地に残る入定塚を実際に発掘しても、出てくるのは白骨ばかりだ。
鶴岡市の南岳寺にある鉄竜海上人は、病で行を中断し、即身仏になれないと嘆きながら一八七八年に病没したと伝わる。その後、墓から掘り出して注連寺の天井に吊るして乾燥させ、即身仏にしたという伝承が残っている。
そして、明治政府が近代法を敷いたことで、この道は塞がれた。一世行人を生きたまま埋めることは自殺幇助にあたり、三年三か月後に掘り返して即身仏にすることは墳墓発掘および死体損壊にあたる。願っても即身仏にはなれなくなった。
即身仏の寺が、皮肉にも即身仏で食うようになったのはそのあとだ。神仏分離で湯殿山の祭祀権を失う。参詣の案内料という収入源を断たれた注連寺と大日坊は、本尊に準ずるものとして即身仏を前面に押し出する。護符を配って新しい収入源を確保した、と研究者は見ている。
もう一つ、もっと直接的な系譜もある。死体を薬にした話だ。
ヨーロッパでは十一世紀ごろから、粉にしたミイラを万能薬として飲む習慣が上流階級に広まっていた。もとはペルシア語の「ムーミヤー」、山肌から採れる天然アスファルトを指す薬材の名だった。それがアラビア語の医書をラテン語に訳す過程で意味を取り違えられ、エジプトのミイラに塗られた黒い物質のことだと解釈されたわけだ。誤訳が薬を一つ生んだわけだ。
その流行が日本に来る。一六七三年、オランダ船が長崎に六百四十八ポンドのミイラを持ち込んだ。完全に乾燥したミイラを一体五キロほどと見れば、およそ六十体に相当する量だ。そのうち六百二十八ポンドが売れたと記録されている。買い手は薬屋と医師だった。
見世物にするためではない。薬として飲むためである。
貝原益軒は『大和本草』のなかに「木乃伊」の項目を立て、打ち身や骨折には塗り、虚弱や貧血には丸薬にして服用した。産後の出血や刀傷や吐血にも飲み、虫歯には蜜を加えて詰め、頭痛やめまいには湯とともに飲む、と用法を並べた。ほとんど万能薬の扱いである。ただし益軒自身は、これが人肉であることを認識しており、倫理的な抵抗と処方への疑問も同時に書き残している。
蘭学者の大槻玄沢は一七八六年に序した『六物新志』で六種の薬物を考証し、そのうちの一つとして木乃伊を扱った。エジプト産が最上品だとしている。彼の描写はこうだ。全体が藍黒色で、肉は燻したような状態、質は軽く精緻だが乾きすぎていない、豊かで肉の多いものが上等である、と。
将軍も注文している。オランダ商館長デ・ウィンの日記の一七四六年一月三日の条には、通詞たちが伝えてきた注文の一覧がある。将軍のためとして「虎犬の雄三匹」と並んで「ミイラ二百ポンド」と記されている。前年にも注文があったがまだ届いていない、という但し書きつきだ。当時の将軍は徳川家重だが、実際の注文主は大御所の吉宗だったと見られている。
需要が増えれば、必ず偽物が出る。一六八一年の薬物書『本草弁疑』には「新渡り」と呼ばれる別種の木乃伊の説明がある。布の痕がなく、湿り気があり、多くは馬肉で作られていると書かれている。
つまり、こういうことだ。江戸の薬屋の棚には、人間の乾いた死体が並んでいた。将軍がそれを二百ポンド単位で注文していた。そして偽物が出回って馬肉が混ざっていたのだ。
ガンジス川の火葬場を遠い世界の狂気として眺めるのは、たぶん間違っている。死体に力が宿ると考え、その力を体に入れようとする発想は、ヨーロッパにも日本にもあった。違うのは、インドでは「不浄そのものを引き受ける」という宗教的な論理が明示されているのに対し、日本とヨーロッパでは薬効という実利の言葉に置き換えられていたことくらいだ。むしろ後者のほうが、身も蓋もないとさえ言える。
生きている人たちの話であること
最後に、ひとつだけ念を押しておきたい。
アゴーリは、過去形で語れる存在ではない。マニカルニカーの火は今夜も燃えているし、クリーム・クンドのドゥニーも消えていない。ラヴィンドラプリーの僧院では毎朝、ババ・キナーラームの廟で読誦が行われ、クンドで沐浴する人がいて、灰がプラサードとして配られている。パラーオの病院にはハンセン病の患者がいる。
そして同時に、五百ルピーで写真に応じる自称アゴーリもガートにいるし、マサーン・ホーリーの日には扮装した芸人が踊っている。ソーシャルメディアで再生数を稼ぐ短い動画が量産されている。
この両方が、同じ街に同時に存在している。どちらか一方が本物で、他方が偽物、という整理はたぶんできない。観光と信仰が同じ石段の上で営まれている場所では、境目は毎日引き直される。
現地で何人もの取材者が繰り返し聞かされてきた言葉がある。本物のアゴーリは人前に出ない。
この一言は、便利すぎるので少し疑ったほうがいい。何を見ても「これは本物ではない」と言えてしまう魔法の呪文だからだ。同時に、この一言には身も蓋もない真実も含まれている。人に見せるために行をする人間は、少なくともその瞬間には、見せることを目的にしている。アヴァドゥート・バグワーン・ラームが二十世紀半ばに「霊的な力を人前で見せるな」と弟子に命じたのは、この問題が今に始まったものではないことを示している。
我々がこの話に惹かれるのは、たぶんアゴーリが怖いからではない。
自分が何をどれくらい怖がっているかを、彼らが正確に測ってしまうからだ。死体に触れない、灰を被らない、病んだ手を握らない。その線引きのほとんどは、教わったものだ。教わったものだと気づいた瞬間に、線は少しだけ揺らぐ。
灰を塗った男が煙のなかに座っている。彼はこちらを見ていない。
見ているのは、こちらのほうだ。
