一八七〇年代のロンドン、どこかの中流家庭の応接間。黒い服の女が客に紅茶を出している。袖口から覗く手首には、太めのブレスレットが巻かれている。編み目の細かい、艶のある焦茶色の組紐に、金の留め具。客がきれいですねと褒めると、女は少し笑って、これは主人ですと答える。
主人からの贈り物です、ではない。これが主人です、だ。
その組紐は、三年前に死んだ夫の髪を茹でて、束ねて、重りを吊るして編んだものだった。ヴィクトリア朝の喪の作法では、これはまったく異常な行為じゃない。むしろ模範的な妻のふるまいであり、上品で、慎ましく、正しい愛情の表現だった。同じ家の暖炉の上には、死んだ次男を撮った写真が伏せて置かれている。目を閉じた子どもが、ソファに寄りかかって眠っているように写っている写真だ。
現代の目で見ると、この応接間はほぼホラーの舞台装置に見える。でも当時のこの家の人たちにとっては、ここは世界でいちばん優しい部屋だったんだよな。死者を身につけ、死者を撮り、死者を部屋に置く。その作法がどうやって作られ、どう産業になり、どこで壊れたのか。順番に見ていく。
- 「一八六一年十二月十四日、ウィンザー城の青の間で終わったもの」
- 「女王の私的な悲しみが、国じゅうのドレスコードになるまで」
- 「未亡人に課された二年と一日、クレープという名の布の刑罰」
- 「雨に降られたら終わり、という高価な布の話」
- 「電報一本で仕立て屋が飛んでくる、リージェント街の喪服百貨店」
- 「崖から掘り出された黒い宝石と、二百の工房と、千五百人の職人」
- 「髪を茹で、重りを吊るし、穴の空いた台で編む――遺髪細工の作業手順」
- 「パレットワーク、ジンプワーク、そして溶かした髪で描くセピアの絵」
- 「一八五七年の値段表を見ると、ブローチひとつが週給と同じだった」
- 「スウェーデンの山村から出稼ぎに来た、髪を編む女たちの話」
- 「これ、ほんとうにうちの人の髪ですか、という疑い」
- 「年間一千二百万ポンドの髪が動いていた世界市場」
- 「死んだ子どもを撮る、という仕事の実際」
- 「立たせる金具は存在しなかった、という話をきちんとしておく」
- 「布をかぶって我が子を支える母親たち――もうひとつの誤解」
- 「証言その一、イースターの靴を買わずに髪の花輪を買った女」
- 「証言その二、名前が八十二人書き込まれた花輪と、ルーシー・コネルの手帳」
- 「証言その三、女王の手首に残っていた二つの髪」
- 「証言その四、死んだ写真師が撮ったという冗談の出品」
- 「高野山に納められていたのは骨ではなく、髪と爪だった」
- 「熊野の妙法山、お髪上げという九百年の作法」
- 「形見分けという、日本式の遺品配布システム」
- 「遺影という、日本が選んだもうひとつの死後写真」
- 「なぜ今の目には不気味に映るのか」
- 「なぜ廃れたのか――三つの決定的な打撃」
- 「いま、他人の祖先がネットオークションに大量に流れている」
- 「愛情の形が変わっても、しつこく残るもの」
「一八六一年十二月十四日、ウィンザー城の青の間で終わったもの」
話の起点は、はっきり一日に絞れる。一八六一年十二月十四日の夜、ウィンザー城の青の間で、王配アルバートが死んだ。四十二歳。腸チフスとされてきたが、近年は胃の病を疑う説もある。この部屋は歴代の王が息を引き取った部屋でもあって、アルバート自身が窓からの光が強いという理由で移りたがった部屋だった。
そこから先のヴィクトリアのふるまいが、ある意味でこの記事のすべてを決めている。女王は青の間を「そのままの状態に保つ」と命じ、以後四十年、彼が生きているかのように部屋を維持させた。毎朝、髭を剃るための湯が運ばれ、着替えが寝台に並べられ、使われていない室内用便器が下げられて洗われた。
二台の寝台のあいだには、彫刻家テッドの手による胸像が置かれ、その台座の上には金文字でアルバートとだけ刻まれていたのである。
ここで誤解されがちなのは、この部屋がドイツ語でいう死の部屋、つまり封印された霊廟だったという話だ。女王自身は、これは死の部屋ではなく「生きている美しい記念物」だと書いている。実際、彼女はこの部屋に日常的に入って祈っていて、扉には中のものはすべて公が残したままだという掲示が出ていた。閉じ込めたんじゃなく、通い続けたわけだ。
そして女王は、アルバートの髪を入れた金とクリスタルのロケットを身につけた。死の当日の日付、十二月十四日を彫らせたロケットもあれば、ドイツ語で「清らかな魂は神のもとへ昇る」と刻ませた、公の写真と髪を収めたダイヤの星型ロケットもある。一八六七年には、アルバートの子ども時代の髪を持っていた乳母から、心臓の形のロケットが女王のもとへ送られてきた。
彼女はそれらを、自分の死後は家族に受け継がせず、青の間に置くよう遺言している。
「女王の私的な悲しみが、国じゅうのドレスコードになるまで」
王室の喪には、そもそも公式の手続きがあった。宮廷喪の指示は外務省から出される。大臣を通じて宮内長官に伝えられ、いつまで黒を着るか、いつから濃い灰色に移るか、手袋は黒か白かまで細かく指定された通達が出る。つまり喪は個人の感情である前に、国家の運用する制服規定だったんだよな。
アルバートの死は、その制服規定が国民全体に一気に浸透する引き金になった。宮廷が長期の喪に入れば、宮廷に出入りする貴族が黒を着る。貴族が黒を着れば、それを見る中流階級が真似をする。中流が真似をすれば、店がそれを商品として並べる。女王が四十年間喪服を脱がなかったという事実は、この連鎖を四十年間止めなかったということでもある。
ここで効いてくるのが、産業革命と鉄道と通信販売だ。黒い布は工場で織れる。喪の装身具は型で抜いて量産できる。新聞と婦人雑誌は作法を全国に配れるし、鉄道は商品を翌日に届けられる。悲しみという、それまでどうやっても売り物にならなかったものが、はじめて完全な商品カテゴリになった時代だった。
皮肉なことに、女王の私的な悲しみが徹底して私的であればあるほど、それは巨大な公共の市場を作っていったわけだ。
「未亡人に課された二年と一日、クレープという名の布の刑罰」
では実際、どれくらい厳しかったのか。一八八八年にフレデリック・ウォーン社から出た作法書『マナーズ・アンド・ルールズ・オブ・グッド・ソサエティ』は、親族ごとの喪の期間を分単位に近い細かさで書き分けている。カタカナで言えばマナーズ・アンド・ルールズ、要するに当時のベストセラー実用書だ。
未亡人はいちばん長くて二年、短くても一年半。かつてはクレープ、つまり縮んだ表面の艶消し絹を一年九か月着て、最初の十二か月はドレス全体をクレープで覆った。未亡人帽とベールを着ける期間は「一年と一日」と決まっている。金の装身具が許されるのは一年経ってから。ただしダイヤモンドだけはもっと早く許された。
この、ダイヤは早くていいのに金は駄目という妙な順序が、当時の喪の感覚をよく表している。
光り方の質が問題だったんだよな。
男やもめは一年、ただし三か月で社交に戻るのが普通、と書かれている。この非対称さが当時の建て付けを露骨に語っている。親を亡くした場合は十二か月で、うち黒が十か月、半喪が二か月。兄弟姉妹は長くて六か月、短くて四か月。祖父母は六か月から四か月、叔父叔母と甥姪は三か月から六週間、いとこは六週間から一か月だ。
しかも同じ書物は「使用人にも喪服を与えるのが慣例であり、家族が喪にある期間はそれを着せる」と書いている。当主が死ねば、屋敷ごと黒くなるということだ。
服の中身も決まっていた。最初の深喪では、艶のないボンバジン、つまり絹と梳毛の交織や、パラマッタクロス、メリノ、デレーヌといった毛織物。飾りは同じ布の折り返しかクレープだけ。ベールは三ヤードほどの長さで、三分の一を顔にかけ、三分の二を背中に垂らす。六か月経ったらベールを後ろに跳ね上げてよい。
宝石は禁止で、襟や袖を留めるためのものだけ、しかも黒玉に限る。
手袋は黒革、白が許されるのは未亡人帽のタールラタンだけ。この帽子については当時から「似合いすぎる」「あれは自由の帽子だ」という軽口があったらしい。
「雨に降られたら終わり、という高価な布の話」
クレープという布は、この制度の物理的な中心にある。生糸を膠で固め、撚りをかけて織った布で、艶がなく、表面が縮れている。深い喪ほど強く撚った二重のものを使う。遠い親戚のときは一重の滑らかなものにする、という使い分けが一八〇二年の『ドメスティック・エンサイクロペディア』にすでに書かれている。厄介なのは、この布が雨に致命的に弱いことだ。
降られたら台無しになる。
喪服のまま外を歩く未亡人が、空模様に神経を尖らせていたわけだ。
しかも同時代の指南書は、青みがかった黒のクレープはすぐ白茶けて貧相に見えると書く。高くても真っ黒のものを買え、結局そのほうが経済的だ、と説くわけだ。悲しみの深さと、布のグレードと、家計が同じ表の上に並んでいる。後年には防水クレープ、いわゆるアルバートクレープの改良版が出た。値段は半分で耐久性は上、未亡人の喪にも十分使える。
一九〇一年の百科事典がそう推している。
悲嘆すら、コストパフォーマンスで語られる商品になっていたわけだ。
黒の次に来るのが半喪の色で、灰色、鳩羽色、藤色、薄紫、そして黒と白の組み合わせ。この黒白の取り合わせは、当時の俗語でカササギの喪と呼ばれた。喪が明けた瞬間に派手な色に戻るのは無作法とされている。一九〇一年の作法書は「黒からいきなり目に痛い色に移るのは趣味が悪い、変化は段階的であるべきだ」と釘を刺している。悲しみからの回復にすら、正しい速度が決められていたことになる。
「電報一本で仕立て屋が飛んでくる、リージェント街の喪服百貨店」
この規定を成立させたのが、喪服専門の巨大小売業だった。一八四一年、ウィリアム・チッコール・ジェイという男がリージェント街にロンドン・ジェネラル・モーニング・ウェアハウスを開く。通称はジェイズ。最初は肩掛けの店として二一七番地で細々と始まったのが。やがて二四三番地から二五一番地までを飲み込んで、通りの西側の一区画をほぼ占領する。
この店の売り文句が徹底している。「不意の喪」に対応するため、経験を積んだ仕立て屋と帽子職人を常時待機させ、手紙か電報が届けば王国のどこへでも、購入者の負担なしで派遣する、と広告に書いた。死は予告なくやってくる。だから黒い服も予告なく必要になる。その隙間に商売を差し込んだわけだ。
一八五一年の国勢調査では、店の上に一家と二十人の従業員が住み込んでいた記録が残っている。
世紀末には六百人規模、二十世紀初頭の記録では千人を超える人手を抱えていた。
さらに巧妙なのは、ジェイがリチャード・デイヴィーという物書きに『ア・ヒストリー・オブ・モーニング』。つまり喪の歴史という大冊を書かせたことだ。古代エジプトから当代までの喪の風習を図版入りで解説した本の後ろに、宮廷喪の通達をずらりと並べておく。何を着ればいいのか分からない客が、この本を読んで、そのまま店で買う。作法書とカタログを一体化させた発明だった。
ジェイズは葬儀そのものの請負部門も持っている。遺族には一切の手間をかけさせず最初から最後まで取り仕切ります、と謳っている。今でいうワンストップの葬儀社だ。
同じ通りにはピーター・ロビンソンの喪服店がある。大西洋の向こうではニューヨークのジャクソンズ、フィラデルフィアのベッソン・アンド・サンが同じ商売を始めた。南北戦争が始まると、アメリカ側の需要はロンドンから輸入する余裕がないほど膨れ上がった。
一八六二年のフィラデルフィアの新聞に載ったベッソンの広告には、黒のドレス生地から肩掛けまでの品目が延々と並び、しかも「最新型の中古の喪服生地も大量にあります」とある。喪服の中古市場が成立するくらい、黒は日用品だった。
そしてこの黒を織っていたのが、エセックスのサミュエル・コートールド社だ。喪の儀礼が公式化され、宣伝され、商品化されていく流れに完全に乗って、同社は英国最大のクレープ製造業者になった。クレープが一八八〇年代に流行から落ちるまで、共同経営者たちは資本に対して三割を超える利益を上げ続けていたという。人が死ぬかぎり、この布は売れた。
「崖から掘り出された黒い宝石と、二百の工房と、千五百人の職人」
装身具のほうも見ていく。深喪で唯一許された黒玉、つまりジェットの話だ。ウィットビー産のジェットは、約一億八千三百万年前のジュラ紀前期の流木が、瀝青の二次的な染み込みを受けて化石化したものだ。石化ではなく、いわばジェット化という独特の変化を経ているので、鉱物というより炭化水素に近い。硬い、柔らかい、脆い、芯入りの四種があって、宝飾に使えるのは硬いものだけ。
軽くて、黒くて、艶を抑えても抑えなくても使えて、彫刻できる。深喪の規定にこれ以上ぴったりの素材はなかった。結果、一八六〇年から一八八〇年のあいだ、ウィットビーには二百を超えるジェット工房があり、千五百人が働いていた。ノース・ヨーク・ムーアズには原料を供給する採掘場が三百ほどあったという。人口一万に満たない海辺の町が、喪の需要だけで一大工業地帯になったわけだ。
ただし好況は長くない。一八七〇年以降、品質の劣るスペイン産ジェットが大量に流れ込み、同時に流行そのものが動き出す。一八八九年の地元紙は、スペイン産さえなければジェット産業はもっとましだったのに、と嘆いている。ヴィクトリア朝の職人に弟子入りした最後の一人、ジョー・ライスが死んだのが一九五八年。今のウィットビーに残る製造業者は八軒ほどで、この技術は危機的に絶滅しかけた工芸に分類されている。
そして安い代用品が大量に出た。ここが地域差と階層差の面白いところで、アイルランドの沼から出るボグオーク、フランス産の黒いガラス、いわゆるフレンチジェット。そして加硫ゴムを黒く固めたヴァルカナイト。手に取ると軽さと冷たさで区別がつくが、遠目には同じ黒い喪の装身具に見える。作法は守りたいが金はない、という層をきっちり拾ったわけだ。
ヴァルカナイト製の喪のブローチは、今のアンティーク市場でもよく出てくる。
「髪を茹で、重りを吊るし、穴の空いた台で編む――遺髪細工の作業手順」
さて本題の遺髪細工だ。作り方は驚くほど工学的で、感傷の入り込む余地がほとんどない。まず髪を集める。次にソーダを溶かした湯で十五分ほど茹でる。これは脂を抜いて扱いやすくするためだ。
乾かして長さごとに選り分け、二十本から三十本ほどの束にする。ブレスレットを作るなら、五十センチから六十センチの長さが要る。だから長い髪を持っていた故人でないと、そもそも作れない品目があった。
作業台には中央に穴が空いている。編みたい形に応じて木の型を用意し、これを中央の穴に固定する。特殊な形の型は、町の木地師に挽いてもらう。髪の束はそれぞれ糸巻きのボビンに巻き、そこに重りを下げる。重りが張力を保ち、髪をまっすぐに保つ。
あとは型の周りで、決められた順序に従ってボビンを移動させていく。台の四方には方位のように印がつけられ、どの位置のボビンをどこへ運ぶかが図解されている。
一八七五年に出たマーク・キャンベルの『ジ・アート・オブ・ヘア・ワーク』、副題は髪の組紐と心の宝飾、という技法書がこの分野の決定版だ。序文によれば図版と図解が千点以上入っている。実際の指示は即物的で、たとえば四角い鎖組みなら「十六本の束、一束につき八十本の髪を取れ」、縞蛇組みなら「三十二本の束、一束につき十二本」、装飾四角鎖なら「二十四本の束、一束につき七十本」といった具合だ。
編み上がったら型を付けたまま十分から十五分ほど煮て、乾かし、型から慎重に抜く。あとは宝飾職人が金具をつければ完成する。
つまり、これは編み物というより製紐の技術だ。髪という素材が特殊なだけで、工程は組紐や糸の世界とほぼ同じ。だから技能さえ身につければ、家庭の応接間でもできた。刺繍やタティングレースと並ぶ、良家の娘が習得すべき手芸のひとつとして扱われていた時期がある。
「パレットワーク、ジンプワーク、そして溶かした髪で描くセピアの絵」
技法は台上の組紐だけじゃない。地域と時代で四つくらいの系統に分かれる。
テーブルワーク、つまり台上の組紐は前述の通りで、重りと型を使う本格的な技術だ。これがいちばん手間がかかり、いちばん高く売れた。スウェーデンのヴォムフス村に伝わったこの技法は、今も現地で実演され教えられている。
ジンプワークは、編み針と針金を使って髪の輪をつなげ、鎖にしてから花や葉の形に曲げていく手法。応接間で家族が集まってやる作業としてはこれがいちばん普及した。真珠やビーズを混ぜて飾ることもある。壁に掛ける髪の花輪は、たいていこの技法で作られている。
パレットワークは、髪を一本ずつ揃えて薄い紙の上に膠で並べ貼りし、乾いたら布のように切り抜いて図柄を作る。だから細かい絵柄のブローチの中身は、束ではなく「髪でできた紙」だったりする。
そしていちばん過激なのがディゾルヴドワーク、溶かし込みだ。髪を細かく刻んで顔料の媒材に混ぜ、それで象牙の小片にセピア色の細密画を描く。柳の木、骨壺、うつむく女、といった定番の図像が、故人の身体そのものを混ぜた絵具で描かれるわけだ。十八世紀末から十九世紀初頭のミニアチュールに多い。書かれた絵と、描くための物質が、どちらも同じ人に由来している。
参考書も揃っていた。一八七一年のアレクサンナ・スパイトの『ザ・ロック・オブ・ヘア』。つまり一房の髪と題した本、一八六四年の『ザ・シックスペニー・マガジン』の記事。そしてゴーディーズ・レディーズ・ブック誌が一八五〇年代を通じて掲載した実技記事だ。一八五〇年の同誌には、ボビンと重りを備えた典型的な髪編み台の図が載っている。
作法書と婦人雑誌と技法書が三点セットで流通していた。
「一八五七年の値段表を見ると、ブローチひとつが週給と同じだった」
いくらしたのか。ゴーディーズ・レディーズ・ブック誌の一八五七年二月号、読者相談欄にあたる部分に、編集部が受注する髪細工の価格表が載っている。胸留めのブローチが四ドルから十二ドル、耳飾りが四ドル五十セントから十ドル。ブレスレットが三ドルから十五ドル、指輪が一ドル五十セントから三ドル。ネックレスが六ドルから十五ドル、懐中時計の鎖が六ドルから十二ドルだ。
信仰と希望と慈愛を象った飾りが四ドル五十セント。
当時のアメリカの労働者の週給と、この価格表はほぼ同じ帯にある。つまり遺髪細工は、間に合わせの安物ではなく、一週間働いた対価を丸ごと注ぎ込む買い物だった。
一八五三年の『グリーソンズ・ピクトリアル』誌は、この新しい技芸がここまで完成したので上流階級の婦人たちが金の装飾品と同じくらい身につけるようになった、愛する者の髪を身につけるという着想を抜きにしても、その効果は金属の宝飾品よりはるかに優れていると認めない者はいないだろう、と書いている。
値段表の現物も残っている。一八七三年のニューヨーク、ジョン街三十二番地と三十四番地。チャールズ・ティー・メンゲ商会が出した装飾髪細工の価格表がある。一八七〇年のエー・バーンハード商会のカタログには、指輪、ブローチ、耳飾り、ペンダント。そして何十ページにもわたる懐中時計の鎖の図版が並ぶ。
時計鎖のページ数の多さが、この商品の売れ筋を物語っている。婚約者から、妻から、姉妹から、母から。
男が一本は持っていた品だ。
作り手の側も多様だった。宝飾店が専門職人と契約する場合もあれば、地方都市を巡回する渡りの職人がいて、地元紙に滞在先と受注内容を広告するやり方もあった。アリゾナのプレスコットでは、一八九七年七月の地元週刊紙に広告が出ている。マチルダ・ペタリーという女性が、髪の花、時計鎖、その他あらゆる天然毛の製品を製作するという内容だ。都市の大工房から、地方の一人親方まで、供給網は分厚かった。
「スウェーデンの山村から出稼ぎに来た、髪を編む女たちの話」
ここから地域差の話に入る。ヨーロッパでこの技術の中心地のひとつになったのが、スウェーデンのダーラナ地方、ヴォムフス村だ。土地が痩せていて農業だけでは食えない村で、女たちが冬のあいだに髪細工を編み、それを持って徒歩で各地に売り歩いた。彼女たちはハールクッラ、髪の娘という呼び名で知られている。
なかでも名前が残っているのが、マルティス・カリン・エルスドッテルという女性だ。女王のための品や、当時世界的な歌手だったジェニー・リンドのための品を手がけたと伝えられている。村の技法は途切れずに続いていて、現在も現地で実演と教育が行われている。ヨーロッパ規模の流行が、北欧の一つの村の女たちの出稼ぎ経済を数十年にわたって支えていたという構図だ。
フランスでは、この工芸は完全に産業だった。パリの工房が大量の注文を捌き、原料の髪はブルターニュや南仏の市で買い集められる。ピレネー山麓のメルランでは毎週市が立ち、数百人の髪の仲買人が農村の娘たちの三つ編みを買い取っていた。値段は一件あたり六十セントから五ドル程度と記録されている。信じがたいことに、この産業の原料は、田舎の少女たちの頭から現金と引き換えに刈り取られたものだった。
アメリカでは、これが中流家庭の応接手芸として広まった側面が強い。ヘレン・シューメーカーが二〇〇七年の研究書『ラブ・エントワインド』、日本語にすれば絡み合う愛、で論じたように、この工芸はほぼ白人中流層の文化として記録された。その内部で階級と性別の理想像を演じる装置になっていた。もっとも記録の外にも実践者はいたのだ。
テネシー州メンフィスのジェーン・ライトという、黒人と白人の血を引く女性がいる。彼女が残した家族資料には、自身の髪で作られた装身具が写真とともに保存されている。それが彼女の家族史と出自を主張する道具として機能していたことが指摘されている。
「これ、ほんとうにうちの人の髪ですか、という疑い」
さて、産業化には副作用がある。しかもこの商品の場合、その副作用は致命的だった。
工房に髪を送ると、返ってくるのは完成品だ。送った髪がそこに入っている保証は、どこにもない。そして実務的に言えば、他人の髪や馬の毛のほうが扱いやすい。長さが揃っていて、量があって、腰が強い。柔らかすぎる髪や短すぎる髪は、そのままでは編めない。
だから業者が差し替えているのではないか、という疑いが十九世紀後半を通じて広く共有されていた。
依頼した側は、これが本当に故人の髪であることの証明を求めた。しかし髪の同定手段は当時存在しない。結果として、多くの人が自分で作るほうを選んだ。婦人雑誌が実技記事を載せ続けた背景には、この不信がある。手芸ブームの一部は、業者への疑いが生んだ自衛行動だったわけだ。
やがて既製品が市場に出る。一八九〇年代半ばから一九〇〇年代初頭にかけて、大手の通信販売カタログが、出所不明の人毛で作った時計鎖を「できあいの品」として並べるようになった。中身は誰の髪でもない。誰の髪でもないというより、誰の髪か分からない。これが決定打だった。
考えてみればあたりまえの話で、この工芸の価値は、素材が代替不可能であることに全面的に依存していた。同じ形の同じ品でも、そこに編み込まれているのが自分の母親の髪であるかどうかで意味が正反対になる。だからシューメーカーは、商業化と既製品の流通。そして感情を持たない労働者の手にかかることが、髪の断片の感情的価値を薄め、最終的にこの工芸に致命傷を与えたと論じている。
工業化が殺したというより、工業化に耐えられない種類の商品だった、というほうが正確だろう。
「年間一千二百万ポンドの髪が動いていた世界市場」
ついでに数字も見ておくと、当時の人毛市場の規模はかなり異様だ。一八八〇年前後のアメリカの新聞記事によると、合衆国内には人毛の輸入業者、製造業者、販売業者がおよそ二千。文明世界で年間に消費される人毛は一千二百万ポンドを超え、ニューヨークだけで年に四トン以上を輸入していた。一八七八年から一八七九年にかけての関税収入は十五万ドルから二十二万ドル台。
一八七六年の輸入額は十四万四千八百九十四ドルで、現在の貨幣価値に直すとおよそ四百五十万ドル相当になる。
供給元はドイツ、フランス、イギリスが中心で、少量が中国、イタリア、ケベックから入っていた。値段の幅は極端で、白髪や北欧系の金髪は一オンス八ドルから百ドル、加工済みの人毛は一ポンド十五ドルから二百ドル。一方、中国由来の安価な毛は一ポンド一ドル未満。中国の牛から取ったヤクの毛を漂白して人毛として売る商売もあり、こちらは一ポンド四十セントか五十セント程度だった。
集める先も生々しい。櫛にたまった抜け毛を貯めておく髪受けという道具が婦人の化粧道具に含まれていて、それを使って自前で詰め物を作る。市や祭で農村の女から買い取る。そして一八八〇年の記事は、墓地、病院、監獄も供給源として挙げている。喪の装身具の材料と、女性の髪型を膨らませる詰め物の材料と、その供給網は同じところで繋がっていた。
ここまで来ると、遺髪細工に他人の髪が混じることはむしろ自然な帰結だったとしか言いようがない。
「死んだ子どもを撮る、という仕事の実際」
装身具と並ぶもう一本の柱が、死後写真だ。一八三九年にダゲレオタイプが公表され、その少し後から、死者の写真という需要が生まれた。当初は高価だったが、一八五〇年代から六〇年代にかけてアンブロタイプ、ティンタイプ。そして紙焼きが普及し、一八七〇年代には大半の家庭が肖像写真を持てるようになる。
決定的なのは、当時の乳幼児死亡率だ。多くの家庭で、子どもは何人か死ぬのが前提だった。そして生きているうちに写真を撮っていない子どもがいる。写真館へ連れて行く余裕がないまま死んだ子の、この世に一枚も像が残らない。それは当時の親にとって耐えがたいことだった。
だから死んだあとに撮る。順序が逆なだけで、動機は極めてまっとうだ。
現場の手順は、実際にはとても静かなものだった。写真師は遺族の家へ出向く。遺体は着替えさせられ、髪を整えられ、寝台かソファに横たえられる。一八七三年の写真師の証言が残っている。やり方はただ着替えさせてソファに寝かせるだけだ、眠っているかのようにそのまま横たえるのだ、と語っている。
子どもなら好きだった玩具を添え、遊び疲れて眠ったように見せる。
大人なら膝の上に開いた本を置く。
母親や父親が抱いて座り、その膝の中で子どもが眠っているという構図も多い。
これが十九世紀後半の作法だ。ただし一八四〇年代のダゲレオタイプの時代には、まったく違う流儀もあった。死を美化しようとする意識がまだ薄く、きちんと身なりを整えて安置された遺体を、鼻から流れた血を拭いもせずに撮った像が残っている。
スタンリー・バーンズが一九九〇年に出した『スリーピング・ビューティー』。つまり眠れる美女と題した写真集にはそうした像も収められている。死の恐怖を説く宗派がまだ力を持っていた時代には、像を美しくしようという努力はほとんどなされなかったと解説されている。
「立たせる金具は存在しなかった、という話をきちんとしておく」
ここで、この分野最大の誤情報を潰しておきたい。ネット上には「ヴィクトリア朝の人々は死体を金具で立たせて、生きているように撮った」という話が大量に流れている。写真の背後に見える金属の脚は死体を支える器具だ、というやつだ。これは違う。
まず物理の問題がある。写真館の姿勢保持具、いわゆるポージングスタンド。あれは長い露光のあいだ、生きている人が頭を動かさないよう軽く支えるための道具だ。人体の全体重を支える構造も強度も持っていない。子どもの体重ですら無理だ。
次に生理の問題がある。死後硬直が来ている遺体は関節が動かないので姿勢を作れないし、硬直が解けた遺体は完全に脱力していて、頭も四肢も自力では保てない。
硬すぎるか、柔らかすぎるかのどちらかで、どちらにしても立たせられない。
さらに写真史側の証拠がある。ジェイ・ルビーが一九九五年に出した『セキュア・ザ・シャドウ』、影を確保せよという意味の研究書は、アメリカの写真師の営業記録を広範に調べた。そのうえで、立たせて撮った例の裏付けはないと結論している。実在の死後写真は例外なく、腰かけて背にもたれるか、横たわるかの姿勢だ。
では立って写っている「死体」は誰なのか。生きている人だ。よく見れば動きによるブレがあり、家具を掴んだ手に力が入っており、持っている物があり、目に光がある。長い露光のせいで表情が硬直して見えるだけなんだよな。この点を長年にわたって地道に検証してきたのが、スーザン・キャントレルという研究者だ。
彼女は死後写真とされて出回っている写真を四十点まとめ、一枚ずつ、生者である根拠を挙げて否定している。
数の問題もある。ある推計によれば、当時の写真師が撮った肖像写真二百枚に対して、死後写真は一枚程度。死後写真だけで食える商売ではまったくなかった。だから写真館に死体を立たせる特殊装置が常備されていた、という話が成り立つ前提がそもそもない。
なお、目を描き足す加工は実在する。写真の上から瞳を描き入れる、頬に淡い色をのせる、手彩色で唇に赤を差す。これは一般的な肖像写真でも行われていた普通の修整で、死後写真にも適用されたというだけの話だ。ただし、それが広く行われた作法だったかというと疑わしく、限られた例が誇張されて伝わっている面が強い。眼球そのものに何かを描くという話に至っては、根拠を示した例をまず見ない。
修整はあくまで写真の表面の話だ。
「布をかぶって我が子を支える母親たち――もうひとつの誤解」
死後写真と混同されるもうひとつのジャンルが、いわゆる隠れた母の写真だ。一八四〇年代から一九二〇年代にかけて撮られたもので、乳幼児を撮るとき、動かないよう母親が支える。ただし写真に写るのは子どもだけであるべきなので、母親は椅子ごと布を被り、カーテンの陰に隠れ、家具のふりをする。あるいは撮影後に切り落とされ、台紙で覆われる。
結果として、布のかたまりの上に赤ん坊が座っているという、なんとも言えない写真ができあがる。半分だけはみ出した母親の手や、布越しの輪郭が幽霊のように見えることもある。これがネットに流れると、たいてい死後写真だと説明される。違う。単純に、露光時間が数十秒から数分あった時代の、極めて実務的な解決策だ。
この分野をまとめて可視化したのがリンダ・フレニ・ナグレルだ。二〇一三年のヴェネツィア・ビエンナーレで九百九十七点の隠れた母の写真を並べた展示を行い、同年に写真集も出している。九百九十七人の母親が、我が子の写真のために自分を消した記録、と考えると、これはこれで別種の不気味さがある。
「証言その一、イースターの靴を買わずに髪の花輪を買った女」
ここからは、実際に残った品と人の話をする。
一九五六年の春、カンザスシティのカントリークラブ・プラザ。レイラ・コフーンという若い美容師が、買い物に来ていた。イースター用の新しい靴を買うために貯めた三十五ドルを握っている。ところが骨董店の窓に、金の額に入った十五センチ角ほどの、人の髪でできた小さな花輪が飾ってあるのを見つけてしまう。彼女はその場で釘付けになり、靴の代金を全額、その額に注ぎ込んだ。
彼女はそれを自分のサロンの鏡の脇に飾った。数か月後、客の一人がそれに気づき、うちの骨董店にも同じようなものがあると言い出す。それも買った。そこから止まらなくなった。夫のドンと二人で、通りかかる骨董店を片端から漁るようになる。
一九六〇年に美容学校を開くと、コレクションをそちらに移した。一九八〇年代半ばには手狭になって別の建物へ移る。やがてミズーリ州インディペンデンスのノーランド街に、自分の博物館を構えた。
最終的に彼女が集めたのは、六百とも七百とも言われる髪の花輪と、二千点を超える髪の装身具。全部で三千点近い。最古の展示品は一六八〇年の日付が入った水晶のブローチだ。彼女はこの工芸の作り方を作品から逆算して復元し、教本まで書いた。ヴィクトリア朝髪細工職人の国際大会という、参加者十五人ほどの集まりを自分の狭い展示室で主催してもいる。
コフーンは生前、はっきりこう言っていた。この博物館の展示物は死んだ人から切ったものだと思われがちだけれど、大半は生きている人の髪だ。これは何百年も前から続く、愛情の証としての贈り物なのだ、と。二〇二四年十一月、彼女は九十二歳で亡くなり、翌二〇二五年九月に博物館は閉館した。
孫のリンジー・エヴァンズが四十以上の美術館や歴史施設と交渉する。五点、十点、多いところは五十点という単位で作品を引き取ってもらう作業を続けている。行き先には、メトロポリタン美術館やネルソン・アトキンズ美術館、女性芸術国立美術館の名前も挙がっている。一人の美容師が七十年かけて拾い集めたことで、廃棄されるはずだった大量の遺髪細工が生き延びたわけだ。
「証言その二、名前が八十二人書き込まれた花輪と、ルーシー・コネルの手帳」
コフーンのコレクションのなかに、彼女自身がいちばん好きだと語っていた品がある。縦八センチ、横十センチほどの小さな額で、中には手帳が収められている。その手帳のなかに一八八〇年の日付が入った髪の花輪が編み込まれている。刻まれた名前はルーシー・コネル。四十六歳のときにこれを作った女性で、娘と五人の子どもの名前が一緒に記されている。
髪の花輪を作る技法は三十五種類あるとされるが、この一点だけで八種類が使われている。だから極めて珍しい、というのが彼女の評価だった。
もう一点、名前が八十二人ぶん書き添えられた花輪もあった。馬蹄型に組まれた輪のなかに、一族と親戚全員の髪が編み込まれ、それぞれの輪がどの人のものか分かるように名札が付けられている。要するにこれは家系図だ。文字ではなく、身体の一部で作られた家系図。髪は切ったあとも劣化しにくいから、これは半永久的に残る記録になる。
彼女はそう言っていた。
同じ理屈で作られた品が各地の博物館に残っている。姉妹二人が修道院に入るときに切った髪を並べて額装したもの。ある女性有権者団体の支部の会員全員の髪を集めて一枚に構成したもの。死とは関係のない、生きている人間の記念品だ。ここが重要で、遺髪細工イコール喪の品という理解は、そもそも半分しか当たっていない。
友情の証、婚約の記念、家族の記録。用途はずっと広かった。
「証言その三、女王の手首に残っていた二つの髪」
三つめは、この記事の起点にいる人の話に戻る。一九〇一年にヴィクトリア女王が死んだとき、彼女はアルバートの髪で作られたブレスレットを身につけていたと言われている。そしてもう一点、長年そばに仕えた従僕ジョン・ブラウンの髪を収めたものも一緒だった、と伝えられている。
女王のロケットの履歴を追うと、彼女の一生がほぼ髪の受け渡しでできていることが分かる。一八三四年のクリスマス、家庭教師のレーツェン男爵夫人から、母ケント公爵夫人の髪を入れた金のロケットを贈られる。同時に、母と、慕っていた異母姉フェオドラの髪を入れた心臓形のピンを二本もらう。二十歳の誕生日には、レーツェン自身の髪を入れた金とトルコ石のロケット。
一八四〇年には叔母のグロスター公爵夫人メアリーから、その姉オーガスタ王女の髪。一八四三年には先王ウィリアム四世の未亡人アデレードから、彼女自身の髪だ。一八四四年の結婚四周年には、アルバートからその父の髪を収めるためのロケットを贈られている。父はその年に死んでいた。
そしてアルバート本人の死後、彼女は自分の持つアルバート関連の装身具すべてに日付を彫らせた。子どもたちの髪のロケットがあり、晩年には孫たちの髪を入れたガラスのロケットまで受け取っている。生まれてから死ぬまで、身近な人間が死ぬたびに髪が届き、それを首から下げて生きた人生だ。彼女が四十年間ウィンザーの一室を維持し続けたことも、この文脈で見るとまったく別の意味を帯びてくる。
「証言その四、死んだ写真師が撮ったという冗談の出品」
四つめは現代の話。二〇一一年前後、イーベイでは死後写真の売買が加熱していた。窓辺の自然光を浴びた少女の名刺判写真は複数の入札で値を上げ、一方で「棺の中、目の落ちくぼんだ子ども」という出品には誰も札を入れない。美しい死者は高く、そうでない死者は投げ売りになる。市場はそこまで正直だ。
同時に、死後写真ではないものが死後写真として売られるようにもなった。長い露光のせいで硬直して見えるだけの男二人の写真が「奇妙な死体のような二人の男」という題で三十ドルの即決価格で出品される。それでも売れずに残っている、というような状況だ。
この状況に業を煮やした人がいる。ワシントン州で死後写真の膨大な私設アーカイブ、タナトス・アーカイブを運営するジャック・モードという収集家だ。彼はある日、南北戦争期の名刺判写真を「悲しく胸を打つ一枚」と題して出品した。写っているのは晴れ着を着た二人の少年で、どこにも死者はいない。商品説明にはこうあった。
この写真に写ってはいませんが、なぜならカメラの後ろにいるからですが、撮影した写真師は死んでおり、スタンドで支えられています。
もちろん皮肉だ。真に受ける人が出ないよう、彼はわざと五百ドルという法外な値をつけた。それでも入札した人がいた、というのが話のおちだ。この一件は、この分野の情報環境を象徴している。誤情報を笑おうとした投稿が、そのまま誤情報の市場価値を証明してしまう。
写真史家のジェフリー・バチェンは、死後写真の流通が本格化したのは一九七〇年代だろうと指摘している。写真そのものが収集品として売買され始めた時期と重なる。一九七三年に出た『ウィスコンシン・デス・トリップ』という写真集が火をつけ、一九九〇年のバーンズの『スリーピング・ビューティー』が市場を作った。バーンズ自身が最初の死後写真を買ったのが一九七六年で、最初の本の版元が見つかるまで十四年かかっている。
今では大手美術館が収集対象にしている分野だ。
「高野山に納められていたのは骨ではなく、髪と爪だった」
ここで日本の話をする。遺髪を大切に扱う文化は、ヴィクトリア朝の専売じゃない。むしろ日本のほうが古くて、しかも制度化されている。
和歌山県の高野山には、遺骨や遺髪を納める習俗がある。史料上の初出は平安時代末期で、堀川天皇の崩御が一一〇七年、その前後から皇族や貴族が高野山に髪を納めた記録が残る。和歌山県の年表には、一〇二六年の時点で遺髪遺骨を納める風習が広まったと記されている。高野聖と呼ばれる下級の遊行僧が、勧進のために全国を歩いて高野山との結縁を勧めた結果、この習俗は庶民にまで広がった。
庶民のあいだで定着したのは江戸時代だから、実際にはそこまで古い庶民習俗ではない。
面白いのは、納骨と言いながら実際に納めるのが骨ではないという点だ。大正時代の文献には、死人の遺髪を高野山骨堂に納めるのは一般の習慣である、とはっきり書かれている。理由は明快で、土葬では骨が取れないからだ。火葬なら骨が残るが、土葬が主流だった時代には骨を掘り返すわけにいかない。そこで髪と爪を骨とみなして納める合意が、どこかの時点で成立した。
同じ考え方は真言宗以外の宗派や他地域にも見られる。
作法も細かい。遺髪は通夜のあと、湯灌のときに遺体の鬢の一部を少しだけ切って保管しておく。時代劇のようにばっさり切るわけじゃない。それを壺に入れるか紙に包んで、本葬の翌日から数日以内、あるいは四十九日を過ぎてから、血の濃い遺族が高野山へ運ぶ。必ず二人以上で行く。
一人では魔が差すから、一人で行くと骨が重くなるから、という言い伝えが各地に残っている。
持っていくものも決まっていて、仮位牌か戒名を書いた紙片のほかに、弁当や握り飯を持つ。これは自分たちが食べるためじゃない。道中の谷や川を越えたところで捨てる、あるいは犬に食べさせる。成仏しきっていない餓鬼が道中にいるから、それに施すためだ。塩と味噌を入れた飯に油揚げを添える地域もある。
藤井という研究者が二〇一七年に、高野山納骨習俗の地域差に関する論文を発表している。この習俗の細部が紀ノ川、有田川、貴志川、十津川といった河川の流域ごとにまとまる、という指摘だ。霊魂を吸い寄せる力が、川筋を伝って広がったという見立てだ。
「熊野の妙法山、お髪上げという九百年の作法」
高野山だけじゃない。和歌山県那智勝浦の妙法山阿弥陀寺には、お髪上げと呼ばれる習俗がある。平安時代、熊野詣が盛んだった頃。参詣者が自分の髪を納めて来世での往生を願ったのが始まりだ。鎌倉時代に入ると、親族が亡くなったときにその遺髪を納めるかたちに変わった。
宗旨を問わず、熊野地方の人々のあいだで今も続いている。
寺側の説明が興味深い。家が永遠に続く保証はない、しかし妙法にお髪上げをすれば、必ずご先祖たち全員と一緒になれる。その大きな安心が、この作法を九百年ものあいだ支えてきた、というものだ。個人の墓ではなく、家の存続にも依存しない、集合的な帰属先としての山。ヴィクトリア朝の遺髪細工は、個人と個人の一対一の関係を封じ込めるものだった。
それに対してこちらは、個を溶かして先祖の群れに合流させる装置になっている。
同じ髪を扱っていても、目指す方向が正反対なんだよな。
大阪の一心寺に喉仏を納めて、お骨仏にする習俗がある。京都の知恩院や東西本願寺、三重の高田本山。こうした地域ごとの強力な納め先の存在も、同じ系譜にある。土葬が主流だった時代には、生前に抜けた歯や爪、あるいは遺髪を納めるのが一般的だったと説明されている。歯、爪、髪。
骨以外で、身体から離れても腐らないものが選ばれている。ここはヴィクトリア朝とまったく同じ発想だ。
さらに古い例もある。愛知県岡崎市の滝山寺が所蔵する聖観音菩薩立像は、運慶と湛慶の作とされる鎌倉時代の像で、国の重要文化財だ。寺の縁起によれば、源頼朝の三回忌にあたって頼朝の等身大の観音像を造り、その像内に遺髪と歯を納めたと記されている。滋賀県大津市の三井寺が持つ木造地蔵菩薩坐像も、園城寺文書によれば、足利尊氏の先例に従って義詮の髪を入れて納めたものだという。
仏像の胎内に、権力者の髪と歯が入っている。八百年近く、それは誰にも見られないまま木の中にある。
「形見分けという、日本式の遺品配布システム」
ヴィクトリア朝の喪の指輪が親族や友人に配られたのと同じ構造を持つのが、日本の形見分けだ。死者の衣類や持ち物を、親しい者たちに分けて渡す。この習俗の背景には、物には持ち主の魂の一部が残っているという感覚がある。指輪や時計鎖ではなく着物や道具が動く、というだけで、機能はかなり近い。
そして遺髪は、この形見分けの体系のなかで特別な位置にある。着物は他人が着られるが、髪は他人には使えない。誰の役にも立たないという一点によって、それは純粋な記念物になる。近代に入ると、戦地に赴く兵が出征前に髪や爪を切って家に残していく習慣が広がった。戦死の報が届いたとき、白木の箱の中に遺骨がなく、紙に包んだ髪だけが入っていた、という話は各地に残っている。
遺体が帰らない死において、髪は身体の代わりを務める最後の物質だった。
現代の日本にも、この感覚はしっかり生きている。遺髪を納めるペンダントや、手元供養用の小さな容器は普通に売られていて、火葬のあと遺骨と別に遺髪を残す人も珍しくない。髪は骨と違って火葬で失われるので、生前か、湯灌のときに取るしかない。だから遺髪を残すという判断は、遺骨を残すよりも意識的で、能動的な行為になる。
ヴィクトリア朝の未亡人がやっていたことと、実質的にほとんど同じことを、今の日本人も普通にやっているわけだ。
「遺影という、日本が選んだもうひとつの死後写真」
写真のほうにも日本版がある。ただし方向がまるで違う。
日本では、死者の写真といえば遺影だ。国立歴史民俗博物館の山田慎也の研究によれば、遺影の前身は絵画で、岩手県の寺に伝わる供養絵額がその代表例になる。明治初期までの絵額には、故人の戒名とともに、来世での理想の暮らしが描かれていた。死んだ子どもや若者が、あの世で不自由なく暮らしている姿を絵にして寺に奉納する。死者は他界にいる存在として描かれていた。
それが明治後期に変わる。長泉寺という寺に残る二百十四点の額を年代順に並べると、明治三十七年。つまり一九〇四年を境に、絵額が消えて肖像画と肖像写真が現れる。翌一九〇五年には軍人の肖像画が登場し、日露戦争の戦死者を顕彰する構図が採用されていく。出征前に写真を撮る習慣が広まり、御真影や元勲の肖像に似た構図が模倣された。
死者の表象は他界の姿から生前の似姿へ入れ替わった。
さらに面白いのが、葬儀写真集における肖像の扱いの変化だ。一九〇三年の尾崎紅葉の葬儀記録では、肖像写真の下に「壮健時」と注記があり、そのあと病気、死亡、葬儀へと写真が続く。一九一一年の日本橋の魚問屋の写真帳には、肖像の脇に「明治四十四年二月四日逝去、此肖像ハ二十年前之撮影」と書かれている。つまり当初は、いつ撮った写真かを明記することで、生から死への過程の一場面として肖像を位置づけていた。
ところが明治末期から大正期にかけて、その撮影時期の情報が消えていく。黒枠だけが付き、時間の情報が剥がされ、肖像はもはや「ある日の一断面」ではなく「死者そのもの」を代表するものになる。一九一二年の明治天皇大喪の写真集が生前の御真影を使い、撮影情報を書かなかったことの影響は大きかったとされる。
この差は決定的だ。ヴィクトリア朝は、死んだ身体そのものを写した。日本は、生きていたときの顔を切り取って、そこから時間を抜き取ることで死者の像にした。どちらも写真で死者を留めようとしているのに、方法が正反対なんだよな。ちなみに山田の調査では、仏壇以外の場所に飾られた遺影について、こんな結果が出ている。
五割強の人が供物を捧げ、六割以上の人が話しかけているという。
遺影は写真というより、依代に近い扱いを受けている。
「なぜ今の目には不気味に映るのか」
さて、本題の分析に入る。当時これが愛情の表現だったのは間違いない。ではなぜ現代人が見ると気味が悪いのか。理由はいくつか重なっている。
ひとつは、死体との物理的距離が変わったことだ。十九世紀の家庭では、人は家で死んだ。遺体は家族が洗い、着替えさせ、家の中に安置され、通夜の場に置かれた。死体は日常の家具の一部で、恐怖の対象になる前に処理すべき事実だった。今はそうじゃない。
人は病院で死に、遺体は専門業者が引き取り、多くの人は一生のうち数えるほどしか近くで死体を見ない。見慣れないものは怖い。単純だがこれがいちばん大きい。
ふたつめは、身体の断片に対する感覚の変化だ。研究者のエマ・ターローが指摘するように、現代人も家族の髪を保存してはいる。赤ん坊の産毛を封筒に入れて引き出しにしまってある家は珍しくない。でも今の私たちはそれを引き出しにしまい込み、二度と取り出さない。ヴィクトリア朝の人はそれを腕に巻いて外を歩き、応接間の壁に掛けて客に見せた。
保存すること自体は変わっていない。変わったのは、それを可視化するか隠すかだ。
みっつめは、死の物語の変化だ。デボラ・ラッツが二〇一五年の研究書『レリックス・オブ・デス』で論じているように、死が美しいものとして描かれる文化では、死が残す残骸もまた美しいものになり、慈しむべき対象になる。逆に、死が敗北であり失敗であり、可能なかぎり隠すべきものになった文化では、その残骸も汚れたものになる。同じ髪の束が、置かれる物語によって形見にも汚物にもなるわけだ。
よっつめは、これがいちばん厄介なんだが、遺髪細工が同時に二つの意味を持ってしまうことだ。マルシア・ポイントンの議論を借りれば、髪の房は腐る身体から取り出された腐らない部分である。死を否認する護符として機能する。ところがその同じ物質は、その人が死んだという証拠でもある。つまりこれは、生きている証と死んだ証の両方を兼ねている。
この二重性が、見る側に落ち着かない感じを与える。
そして最後に、私たちが「持ち主が特定できない身体の一部」に対して抱く不安がある。博物館のガラスケースの中の、名前の分からない誰かの髪。それは形見としての機能を完全に失っていて、ただの人体の断片として残っている。愛情のためだけに作られたものが、愛情の受け手が全員死んだあとに残ると、こうなる。不気味さの正体は、素材ではなく、意味の喪失なんだよな。
「なぜ廃れたのか――三つの決定的な打撃」
流行の終わりも、原因ははっきりしている。
第一に、商業化そのものだ。すでに書いたとおり、他人の髪が混ざりうる工程と既製品の登場が、この商品の存在意義を内側から壊した。代替不可能であることが唯一の価値だった商品を、代替可能な形で大量に作ってしまった。ここで信頼が死んだ。
第二に、第一次世界大戦だ。喪の作法は、死者が個別に扱われる前提で成り立っている。誰が誰の何にあたるかによって期間と服装が決まる制度は、死者が数万人単位で同時に発生する状況では機能しない。国じゅうの女が全員未亡人の格好をしたら、それはもう記号として意味をなさない。加えて、遺体が帰ってこない。
髪も取れない。喪の産業は、この時期に一気に縮んだ。ヴィクトリア朝の見せる喪は、ここでほぼ終わっている。
第三に、死ぬ場所の移動だ。死が家庭から病院へ移り、遺体の処理が専門職の手に渡ると、遺族が死体に触れる機会そのものがなくなる。髪を切る手が家族の手ではなくなった時点で、この習俗は物理的に続けようがない。ジェットの産業がスペイン産の安物と流行の変化に潰されたのと同じく、この工芸も複数の圧力に同時に押されて消えた。
ただし、完全に消えたわけじゃない。二十世紀末から、遺灰を樹脂や合成宝石に封じ込めた装身具、いわゆる遺骨ジュエリーが静かに広がっている。遺灰を加熱したときに出るガスを捕らえて、故人の最後の息として封じる、という商品まである。素材が髪から灰に替わり、技法が組紐から化学に替わっただけで、やっていることは十九世紀と同じだ。人間はこの発想を捨てていない。
「いま、他人の祖先がネットオークションに大量に流れている」
そして現代。ここが妙な話になる。
イーベイやエッツィには、ヴィクトリア朝の遺髪細工が常時、大量に出品されている。ブローチ、指輪、時計鎖、額装された髪の花輪。誰のものかは分からない。名前が刻まれていることもあるが、その名前が誰なのかを知る者はもう存在しない。値段は状態と枠の質で決まる。
かつて三千点近くを集めたレイラ・コフーンは、イーベイでの平均落札額はだいたい百五十ドルくらいだと語っていた。いちばん安かったのはガレージセールで見つけた三十五セント。いちばん高かったのは千五百ドルだったという。
これがどういう状態かというと、百五十年前に「この髪だけは絶対に手放さない」という意志のもとに作られた物が、今は数十ドルで見知らぬ他人の手に渡り続けているということだ。作った人の意図から、これ以上遠いところはない。一族が絶えたのか、代替わりで意味が分からなくなったのか、遺品整理で骨董屋に流れたのか。経路はさまざまだが、行き着く先は同じだ。
買う側の動機も一様じゃない。ひとつは純粋な工芸品としての評価だ。組紐としての技術水準は本当に高く、これを再現できる職人は世界に数えるほどしかいない。素材が人毛であることを一旦横に置けば、これは失われた高度な手工芸の現物資料だ。
ふたつめは、救出という意識。コフーンの活動を評価する歴史家のヘレン・シューマーカーは、彼女の関心が、これらの品が文字通り破棄されるのを救ったと述べている。誰も引き取らなければ、この種の品は捨てられる。だから買う。集めることが保存になる、という理屈だ。
みっつめが、いちばん語られにくい動機になる。死後写真の収集家たちに取材したジャック・モードが語っている。死後写真の収集家には、自分自身が子どもを亡くした母親が少なくない、と。彼女たち自身の悲しみがその写真に引き寄せられ、それが何らかのかたちで慰めになる。百五十年前に子を亡くした母親が撮らせた写真が、今の時代に子を亡くした母親の手元に届く。
これを不謹慎と呼ぶのは、たぶん違う。
そして、収集家たちのもとには、こういう連絡もよく来るという。家の中から死後写真が出てきたけれど、不気味で手元に置けない、かといって捨てるのも忍びない、引き取ってほしい、という申し出だ。捨てられない、という一点で、この百五十年前の物質は生き延びている。
「愛情の形が変わっても、しつこく残るもの」
まとめようとすると、どうしても同じところに戻ってくる。
ヴィクトリア朝の人々は、死者を身につけた。髪を編んで腕に巻き、写真を撮って部屋に置き、二年間黒い服を着て、その黒さの度合いで自分の悲しみを社会に申告した。それは制度で、産業で、見栄でもあったのだ。同時に、それは間違いなく愛情の表現でもあった。制度と愛情は矛盾しない。
むしろ制度があるから、人は何をすればいいのか分からない期間を、手を動かして越えられる。
その制度が壊れたあと、私たちには型がなくなった。何日泣けばいいのか、何を身につければいいのか、いつ普通に笑っていいのか、誰も教えてくれない。ヴィクトリア朝の未亡人が二年と一日という数字に守られていたことを、単に窮屈だと笑うのは簡単だ。でもあの数字は、悲しみに終わりの日付を与えるという機能を持っていた。
高野山へ髪を納めに行った紀州の人々も、道中に握り飯を撒きながら、決められた手順を踏むことで悲しみを処理していた。手順があるということは、いつか手順が終わるということでもある。
そして今、その手順の残骸が、名前を失ったままオークションサイトを漂っている。焦茶色に編まれた小さな組紐が、誰のものでもなくなって、それでも消えずに残っている。作った人はとっくに死に、編み込まれた人はもっと前に死に、その二人を結んでいた愛情だけが物質として取り残されている。不気味だと言われれば、たしかに不気味だ。
でもその不気味さは、あの品が作られたときの温度がまだ完全には冷めていない、という証拠でもあるんだよな。
