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白い布の下で女は消される――夫を亡くしただけで「穢れ」にされた寡婦たち、世界を一周する隔離と剥奪の記録

夫が死ぬ。それだけで、女の世界から色が消える。

比喩ではない、本当に消える。腕輪は割られ、額の朱は拭われ、身につけるものは白一色に替えられる。髪は根元から落とされる。台所の火まで分けられる。祝いの席には呼ばれなくなる。

昨日まで「めでたい人」だった女が、一夜で「近づくと縁起が悪い人」に変わる。

しかもこれ、どこか一国だけの話じゃない。インドでも、ネパールでも、ナイジェリアでも、ガーナでも、ケニアでも、中国でも、朝鮮でも、ヨーロッパでも、日本でも、形を変えて同じことが起きていた。夫に先立たれた女を隔離し、剥奪し、不浄とみなす。この気味の悪い一致が、今回の芯だ。まあ、落ち着いて読んでほしい。

先に一つ断っておく。寡婦殉死、いわゆるサティーの話はここではしない。焼かれた女については別に書いた。今回扱うのはその逆側だ。焼かれなかった女、生き残ってしまった女が、そのあとの何十年をどう過ごさせられたか。

火は一瞬で終わる。隔離は終わらない。どちらが怖いかは、読み終わってから決めてほしい。

夫が死んだ日から、時計は逆回りに動きはじめる

北インドの村を想像してほしい。時代は問わない。正直、どこを切っても同じ絵が出てくる。19世紀でもいいし、1970年代でもかまわない。地域によっては、今日でもそう変わらない。

朝、夫が息を引き取る。まだ体はあたたかい。あちこちで泣き声が上がる。そこまでは、どこの国の葬式とも同じだ。おかしくなるのはその直後からだ。

近所の年配の女たちが部屋に入ってくる。彼女らは慰めに来たのではなく、作業に来たのだ。まず妻の腕輪を外す。外すというより、力ずくで割る。ガラスの腕輪なら音を立てて砕き、金や銀なら引き抜く。

次に額に塗られた朱、髪の分け目に引かれた赤い線を、布でこすって落とす。足の指輪も、首の飾りも取る。この一式は、夫がいる女であることの記号だった。だから夫が消えた瞬間、記号ごと剥がされる。

このとき本人は、たいてい抵抗しない。そういうことになっているからだ。そして見落とせないのは、これが「悲しみの表現」として説明されることだ。夫を失った女が飾りを捨てるのは当然でしょう、と。だが妻を失った男に同じことは起きない。

男は明日から普通に働き、普通に食い、しばらくすれば再婚する。剥がされるのは女の側だけなのだ。

火葬が済むと、次は服になる。色物は取り上げられ、白い布が渡される。地域や階層によっては、この白は死ぬまで脱げない。さらに厳しい家では髪を剃られる。かつては専門の理髪人が呼ばれた。

1920年代の南インドで少女期を過ごした人の回想には、剃髪された若い寡婦が家の奥で泣いていた光景が繰り返し出てくる。剃るのは一度きりではなく、伸びればまた剃る。生涯にわたる反復作業として設計されている。

食べるものも変わり、一日一食に落とされる家があり、塩を断たれる家がある。肉、魚、玉ねぎ、にんにく、油、甘いもの。刺激のあるものは、欲を呼び起こすという理屈で片端から禁じられる。断食日は普通の人より多い。ヒンドゥーの暦で月に二度巡ってくる断食の日には、水すら制限されることがあった。

そして祝いの場から外される。婚礼に呼ばれないし、呼ばれても花嫁の前には出られない。新生児を抱かせてもらえない。旅立つ人に「行ってらっしゃい」を言えない。彼女が最初に目に入ると縁起が悪い、とされるからだ。

ここが一番きついところだ。物理的な監禁より、この「いないことにされる」ほうが人を殺す。研究者はこれを社会的な死と呼ぶ。生きているのに、共同体の名簿からだけ消される。

その規定は、どの本に書いてあったのか

ここで一次資料の話をしておく。「昔からそう決まっていた」で片づけると、この話は永遠にほどけない。

ヒンドゥー法典類のなかで一番よく引かれるのがマヌ法典だ。成立は紀元前2世紀から紀元後2世紀のあいだと見られている。第5章の後半に、夫を亡くした女への指示がまとまって出てくる。花や根や果実だけで身を慎み、痩せ細るまで節制し、他の男の名を口にするな、というたぐいの文言だ。夫の死後も貞節を保った妻は天に昇る、と持ち上げる一方で、再婚した女には来世での報いがないと脅す。

同じ章の少し前には、女は父に、夫に、息子に従うべきで、独立してはならないという有名な一文もある。

面白いのは、この法典自体が一枚岩ではないところだ。9世紀ごろの注釈者メーダーティティは、この箇所について「子を産まなければ天に行けない、というのは誤りだ」と論じている。つまり寡婦が再婚して子を作る必要はない、という方向に読む。彼にとっては禁欲の正当化なのだ。だが、裏を返せば、当時から「じゃあ子のない寡婦はどうすればいいのか」という議論が存在したということだ。

法典は結論を配っていたのではなく、論争の記録でもある。

さらにややこしいのは、より古い層には寡婦の再婚や、亡夫の兄弟との間に子をもうけるニヨーガという制度への言及があることだ。つまりインド亜大陸の歴史のなかで、寡婦の扱いは一貫していない。厳格化したのは後世で、しかも地域と階層によって差が激しい。バラモンや上位カースト、そしてベンガル地方で最も厳しく、下位カーストや部族社会では寡婦の再婚が普通に行われていた。ここは何度でも強調しておきたい。

「インドではこうだった」という文は、たいてい嘘になる。

1829年と1856年、そして「焼かれなかった女」の行き先

制度の話を先に進める。1829年、ベンガル管区でサティー禁止規定が出る。1856年には、ヒンドゥー寡婦再婚法が成立した。教育者イーシュワル・チャンドラ・ヴィッディヤーサーガルが、聖典のなかから寡婦再婚を許す根拠を探し出し、猛烈な論陣を張って通した法律だ。彼は自分の息子を寡婦と結婚させて範を示している。

ここに、この記事の一番大事な接続点がある。

寡婦殉死が禁じられた。それ自体は喜ばしい。ところが、焼かれなくなった女が、そのあと幸福になったかというと、話はそう単純じゃない。焼く道が塞がれた家は、別の処分方法を探す。生かしたまま、いないことにする方法を。

白い布と剃髪と粗食と隔離は、まさにその受け皿として機能した。近年の社会学の論文には、植民地期の禁令が結果として遺棄を強めた、という指摘がはっきり出てくる。家は寡婦を殺せなくなり、代わりに追い出した。

再婚法のほうも、法律が通ったからといって世間が動くわけではない。むしろ逆の副作用が出た。この法律は、再婚した寡婦が前夫の家の財産に対する権利を失うと定めていた。つまり再婚したければ、生活の基盤を捨てろということだ。おまけに再婚は不名誉とされたままだから、若く見目のよい寡婦を家に置いておくと、家名に傷がつくと考える親族が現れる。

そうして選ばれた行き先が、聖地だった。

ヴリンダーヴァンという街の、数字の話

ヤムナー川のほとりに、ヴリンダーヴァンという街があり、クリシュナ信仰の中心地で、寺と巡礼者の街だ。そしてもう一つ、寡婦の街という別の名前でも知られている。

数字を並べてみる。街に暮らす寡婦の数として繰り返し挙げられてきたのが、およそ2万人という規模だ。地域紙や国際報道は1万5千から2万、多いときは2万1千という数字を使ってきた。近隣のバルサーナー、ゴーヴァルダン、ラーダークンド、ゴークルまで含めたブラジ地方全体では、さらに広がる。ヴァーラーナシーにも同種の集住があり、こちらは3万8千という推計が出回る。

ただしどの数字も正確な人口統計ではない。登録もされずに来て、登録もされずに死ぬ人を数えるのは、そもそも難しいんだよな。

もっと信用できるのは、標本調査のほうだ。2002年に始まったギルド・オブ・サービスの調査は、ヴリンダーヴァンで240人、ヴァーラーナシーで84人の計324人に聞き取りをしている。更生施設、下宿、路上生活の三層から均等に選ぶ設計だ。結果は残酷なほど明快だった。ヴリンダーヴァンの更生施設にいる人の半数以上が70代。

路上で暮らす層では60代が最も多い。8割から10割が自分名義の住まいを持たない。路上生活層の7割以上に銀行口座がなく、6割以上が配給カードを持っていない。老齢年金を受け取れていたのは、路上層で3分の1程度だ。

2010年にはUNIFEMの支援でブラジ地方522人を対象にした調査が行われた。年齢層は24歳から40歳が94人、41歳から60歳が248人、60歳超が180人。出身地は西ベンガル州が65パーセント、ウッタル・プラデーシュ州が17パーセント、マディヤ・プラデーシュ州が5パーセント。つまり大半が、遠く数百キロ離れた土地から来ている。

住まいはアシュラムが16パーセント、借り部屋が54パーセント、そして残る30パーセントは路上か沐浴場の階段か駅だ。月収は、100ルピーから500ルピーの層が62パーセントを占める。半年以内に体調を崩した人が8割。最も多い症状は下痢で、罹患者の半数以上に出ていて、関節症が4割、高血圧が3割強。

なぜ西ベンガルからこれほど来るのか。理由は一つではなく複合的だ。ベンガルは寡婦への規範が特に厳格だった地域で、かつクリシュナ信仰の巡礼路がヴリンダーヴァンへ通じている。宗教的動機は本人たちも口にする。前述の調査では、移住の理由として「信仰」を挙げた人が各層で86パーセントから97パーセントに達した。

ここは大事な留保になる。全員が鎖につながれて放り出されたわけではない。だが同じ調査は、その回答の背後に経済的困窮と家族からの拒絶があると指摘している。行き場のない人が、行く理由に信仰という名前をつける。これはインドに限った話でもない。

詠唱の対価は、いくらだったか

街には「バジャン・アシュラム」と呼ばれる場所があり、バジャンは信仰歌のことだ。寡婦たちはそこで、朝と午後、決まった時間だけ床に座り、神の名を唱え続ける。それが労働であり、収入源になる。

対価の水準がすさまじい。2017年のインド最高裁判決の文中には、7時間から8時間唱えて日当およそ18ルピーという記述が出てくる。2010年の調査では、バジャン・アシュラムに参加していたのは対象の76パーセント、月あたりの平均支給は77ルピー、日割りにすると6ルピー前後、これに詠唱後の米と豆が加わる、とある。2025年の現地取材でも、一回の詠唱につき15ルピーという数字が出てくる。

数十年経っても、桁が変わっていない。

少し想像してみてほしい。冷たい石床に何時間も座り、膝を痛め、声を枯らして、手のひらに載るのは小銭だ。足りない分は路上で物乞いをして埋める。同じ2017年の判決は、その往復を淡々と記録していて、朝はアシュラム、午後は路上。

それが老年の日課になる。

そして死んだあとの扱いが、この話で最も知られた部分だ。2012年、最高裁の審理のなかで、身寄りのない寡婦の遺体が尊厳ある火葬を受けられず、切り分けられて袋に入れられ捨てられていた、という報告が問題になった。裁判官が公然と衝撃を表明し、報道が一斉に取り上げた。生前に共同体から消され、死後も消される。ここまで来ると、隔離という言葉では足りない。

裁判所が動いた、2007年から2017年まで

法の側の動きも追っておく。

2007年3月25日、全国紙が「ヴリンダーヴァンの白い影たち」という記事を出した。これを端緒に、環境消費者保護財団という団体が公益訴訟を起こす。事件番号は2007年第659号、のちに2012年の第168号と第133号が併合された。10年にわたる審理のあいだ、国家女性委員会は複数の報告書を提出している。

2009年から2010年のヴリンダーヴァン寡婦調査、2016年の各州の保護施設状況報告、同年4月の暫定勧告。

2017年8月11日、最高裁は判決を出す。内容は、寡婦の身元把握のための全国データベース整備、家族が存命の人への家族カウンセリング、法律扶助へのアクセス保証、企業の社会貢献資金を使った職業訓練、保健センターを通じた無償の医薬品提供、施設職員の研修と設備改善、年金額の物価連動、技能開発の実施。そして6人の委員会を作り、2か月以内に包括的な実施計画を策定せよ、と命じた。

ヴリンダーヴァンには1000床規模の保護施設を建てる話も進んだ。

判決文の言葉づかいは冷静だが、認定された事実は容赦がない。遺棄されていること、粗末な小屋に住んでいること。詠唱の対価が日当18ルピーであること。西ベンガルから来ていること。そして多くの人が「もう帰りたくない」と答えていること。

この最後の一行が刺さる。制度が整っても、帰る家はもう心の中に無いのだ。

判決から8年後、2025年の現地取材はもう少し辛い数字を出している。取材した30人のうち、何らかの年金を受け取れていたのは9人。寡婦年金にたどり着けていたのはわずか3人。州の寡婦年金は月1000ルピー、老齢年金も月1000ルピーだ。受給の壁は制度より書類だ。

夫の死亡証明書がなく、身分証もなく、現住所の証明もできない。アシュラムが書類を預かったまま返さない例まである。2024年9月に高齢者向け医療保障が拡大されたが、取材対象のなかに登録者はいなかった。存在すら知られていなかった。

色が戻った日

暗い話ばかりでもない。というのも2013年、ヴリンダーヴァンの寡婦たちが、公然と色粉を浴びた。

ホーリーはインドで最も派手な祭りだ。人々が互いに色粉と色水をかけあう。寡婦は当然、参加できなかった。色は生きている女のものだからだ。2012年に最高裁が民間団体スラブ・インターナショナルに施設環境の改善を求めたことが呼び水になり、翌2013年、ミーラー・サハバーギニー・アシュラムを中心に、寡婦たちが花びらと色粉を投げあった。

「250年ぶり」という表現が現地で使われた。数字の根拠は曖昧だが、当事者たちがそれだけの断絶を感じていたということだ。

以来、ヴリンダーヴァンのゴーピーナート寺院などで、寡婦のホーリーは毎年の行事になった。写真は世界中に配信された。白い布の女たちがピンクと黄色にまみれて笑っている絵は、たしかに強い。

ただし、行事はあくまで行事だ。年に一日色を浴びたところで、年金の受給率が上がるわけではない。現地の活動家自身が、象徴と生活は別だ、と言っていて、この記事でも、その線は引いておきたい。

ネパール――白いサリーと、赤の反乱

国境を越えてネパールへ。ヒンドゥー文化圏だから基本構造は似ているが、話の展開が少し違う。

ネパールでも寡婦は白を着せられた。白は不妊、無性、禁欲、老い、寡婦、そして死を意味する色とされる。宗教儀礼から外され、婚礼に呼ばれず、色物を禁じられ、食事と行動を制限される。研究者の聞き取りには、こんな言葉が残っている。白いサリーを着ているのが嫌だった、自分が夫を失ったこと、もう他の女とは違うことを、そのつど思い出させられるから。

別の人はこうも言う。白いサリーは弱そうに見える、だからよくない考えを持った人間に狙われやすかった、と。

つまり白い布は、喪の記号であると同時に標的の標識でもあった、という実に嫌な指摘だ。

2011年の国勢調査で、ネパールの配偶者死別者は65万9837人。うち75パーセントが女性だ。1996年から2006年の内戦は、若い寡婦を大量に生んだ。ある調査では、内戦で夫を失った女性の52パーセント超が40歳未満、77パーセントが読み書きできなかった。

ここに1994年、リリー・タパという女性が立ち上げた「女性のための人権」という団体が入ってくる。彼女自身が若くして夫を亡くしている。組織は全国75郡のうち73郡、1000を超える村落開発委員会に単身女性のグループを作った。会員のおよそ98パーセントが寡婦だ。

そして2005年前後、この団体は赤い布を配りはじめる。白ではなく赤いサリーを着よう、額に赤い印をつけよう、という運動だ。反発はすさまじく、地元の男たちは参加者を「品行の悪い女」と罵り、報道は文化に反すると書いた。それでも運動は広がった。ある参加者は、他の色を着るようになってから楽になった、と言う。

家族の一員、社会の一員だと感じられるようになった、と。

もう一つ、この国の話には見逃せない一幕がある。2009年、政府が寡婦との結婚を奨励する現金給付を打ち出した。寡婦と結婚した男に5万ルピー、当時の為替でおよそ670ドルを渡す、という案だ。政府としては善意のつもりだった。ところが寡婦たちが激怒した。

これでは女の売り買いだ、逆向きの持参金だ、と。ある28歳の女性はこう言った。再婚したらまた夫に依存しないといけない、今の私は自立している。別の人はもっと直截だった。自分に値札がついた気がした、と。

団体は同年10月に最高裁へ持ち込み、11月に政府は説明を求められ、施策は事実上止まった。

隔離を課すのも外圧なら、「早く再婚しろ」と押すのも外圧だ。当事者が求めていたのは、どちらでもなく、決める権利のほうだった。ここはぜひ覚えておきたい。

ナイジェリア――夫が死んだ日から一年の設計図

西アフリカに移ると、ここからは隔離の作りがさらに精密になる。

ナイジェリア南東部、イボの社会で行われてきた寡婦儀礼を、時系列で追ってみる。地域と時代で幅があるので、報告に共通して出てくる要素をつなぐ。

夫が死ぬと、まず妻の身柄が動く。多くの場合、夫の出身村の一族の敷地へ連れて行かれる。ここからの管理者は夫側の親族、とりわけ一族の娘たち、現地でウムアダと呼ばれる女性集団であることが多い。ここが見落とせない点だ。寡婦を監視し、規則を執行するのは、しばしば男ではなく女なのだ。

最初の期間、報告によっては28日間、部屋が一つあてがわれる。家具はなく、床にござが一枚あるだけだ。頭は剃られ、黒い衣以外は着られない。食器は割れた皿だけで、体を掻くのに手を使ってはいけない場合があり、代わりに棒を渡される。霊的に汚れているとされるからだ。

夜明けと日暮れ、決まった時刻に大声で泣くよう求められる。悲しみを演じるのではなく、悲しみを提出するのだ。泣き声が小さいと、夫の死を悲しんでいない証拠だと言われる。

続く60日ほどは、半分だけ外に出られる。それでも公然と喪を示す義務は続く。残りの月は社交も自由も制限される。合計でちょうど一年になる。この一年の設計は、驚くほど多くの地域に共通する。

ほかの報告からも要素を拾える。純黒の布、裸足での歩行、月経のときと同じ当て布、櫛を入れない乱れた髪。夫の遺体と同じ部屋に閉じ込める例、墓の上で寝させる例。井戸や共同の水場を使わせない例だ。

そして一年の満期に「解放の儀礼」が来る。ようやく終わりだ、と思ったところで、次の話が始まることがある。ンクウチ、すなわち夫の兄弟による寡婦の相続だ。

遺体を洗った水と、「それは我々の文化ではない」という反論

ナイジェリアの寡婦儀礼で最も広く知られているのが、夫の遺体を洗った水を飲ませる、というものだ。目的は潔白の証明とされ、夫を殺していないなら飲めるはずだ、というのが理屈である。飲んで害がなければ無実、体を壊せば有罪という、中世ヨーロッパの神明裁判とまったく同じ構造をしている。

似た手続きが並行して報告されていて、夫の額にコーラの実を置き、ほうきの枝を使って誓わせる。応じなければ結果は重い。夫の家族からの拒絶、財産権の全面的な否定、子どもとの引き離し、暴行、追放。

ここで、あえて両論を置いておく。

まず、この慣行がどれほど広く行われてきたかについては、証言に食い違いがある。難民審査のために作られた各国当局の調査文書には、エド州で行われている、という記載がある一方で、2001年に同州で150人の寡婦に聞いた調査では、この扱いを受けたと答えたのは2パーセントだった、という数字も併記されている。逆に、貧しい人だけでなく裕福な人や高学歴の人も免れていない、と述べる情報源もある。

要するに、正確な発生率は誰も知らない。

もう一つ、当事者社会からの明確な反論がある。2021年、イボの伝統的指導者たちが揃って取材に答え、これはイボの文化ではないと述べた。ある首長は、双子殺しと同じく野蛮な慣行として廃止すべきだと言い、別の首長はすでに行われていないと言い、また別の首長は感染症の観点から危険だと指摘した。

ただし同じ記事のなかで、一人だけ、これは伝統に深く根ざしており、夫を殺す妻への抑止として有用だと擁護する声も載っている。

この「うちの文化ではない」という言葉を、どう受け取るか。二つの読み方があると思う。一つは、外部の目に晒されたときに文化を守るための否認。もう一つは、実際に廃れつつある慣行を、外部が現在形で語り続けることへの正当な抗議。おそらくその両方だろう。

だからこの記事では、あったこととして書き、同時に、今も普遍的に行われているかのようには書かない。この距離感が、この題材を扱ううえで一番大事だと思っている。

ヨルバ、ガ、ダガーバ、エウェ、アカン――同じ骨格に別の肉がつく

地域ごとの別バージョンを見ていくと、共通する骨格と、地域固有の肉づけがはっきり分かれる。

ナイジェリア南西部のヨルバでは、七日間が一つの区切りになる。その間、体を洗わないし、着替えもしない。むき出しの床かござに座り、髪は整えない。煮炊きと食事は割れた鍋と皿で行う。そして最後に、夜に体を洗う儀礼で締める。

昼ではなく夜であることに意味があり、人目に触れない時間に汚れとされたものを落とすのだ。

ガーナ側に移ると、首都アクラ周辺のガの社会では、喪と隔離が一年続く。その間ずっと黒い衣を着て、明けるときに全身白に替わる。大声で泣くことが求められ、遺体を洗った水の記録もあり、亡骸と一夜を過ごす例も報告されている。

北西部のダガーバでは、灰や粘土を体に塗り、縄を身につけ、髪を剃る。遺体の安置台のまわりを三度回る。三日間は屋外で寝かされ、食べ物と水は地面に直接置かれる。器を使わせないこと自体が、共同体から一時的に外された印になる。

アカン系の諸社会では、寡婦はいったん婚家を離れる。埋葬までは断食し、他人と同じ器を使わない。季節に関係なく冷水で沐浴する。眠るときは横向きに限られてうつ伏せも仰向けも禁じられ、沐浴の場所も家の裏手だけ、あるいは川辺だけ、と限定される。一周忌までは性的な禁欲が求められる。

そして、においの強い石や鍵を腰に結ぶ。理由が独特で、夫の霊が夜に交わりに来るのを防ぐためだという。夫はもう死んでいるのに、まだ妻に手が届く存在として扱われている。ここに寡婦不浄視の核心がある。夫の死が完了していないから、妻もまた完了していない。

アカンの一系統アクアペムでは、隔離は一日から三日と短いが、内容はかえって濃い。食べ物を使った「口に触れる」儀礼があり、耳元で言葉が唱えられる。儀礼的なからかいと、寡婦への罰金が課される。最後に黒い布を脱ぐ式があり、そこでは公然と踊る。

エウェの社会では、死んだ日に神託が引かれる。「求婚の儀」と呼ばれる手続きで沐浴の道具が用意される。黒い布を最低六か月着る。喪の間は夫婦の寝床で眠れず、夜に声を出してはいけない。日没前に沐浴を済ませなければならない。

旅人に「ようこそ」と言ってはいけない。最後に「自分の汚れを買い取る」と呼ばれる儀礼で清めが完了する。

北部のフラフラでは、経験を積んだ寡婦たちと年長の女が付き添い役につき、寡婦は別室に隔離される。専用のひょうたんの器を渡され、部屋を出るときは必ず女たちが同行する。埋葬後は一時的に人と交わってよいが、器だけは最後の葬礼まで手放せない。

ケニアのルオでは、一年の敷地内隔離が課された。理由は明確に「共同体にとって危険な不浄状態にある」からだ。復帰の前に清めの儀礼が必要とされ、亡夫が夢に現れることが、その準備が整った合図だとされた。清めには専門の役目を負う男が関わる。ここは現代的に極めて深刻な問題を含むので、次で扱う。

レビラト婚――夫の兄弟が妻を「継ぐ」

寡婦相続、あるいはレビラト婚と呼ばれる制度がある。夫が死んだら、その兄弟が妻を娶る。名の由来はラテン語で夫の兄弟を指す語だ。

分布はきわめて広い。サハラ以南アフリカが最も濃く、アンゴラ、ボツワナ、コンゴ民主共和国、ガーナ、ケニア、マラウイ、ナイジェリア、タンザニア、ウガンダ、ザンビア、ジンバブエなどで記録がある。パシュトゥーンの社会にも見られる。歴史的にはユダヤ、パンジャーブ、モンゴル、匈奴、チベットにも見られたとされ、兄弟が寡婦の権利と義務を引き継ぐ型まで含めれば、ほぼ全世界に散らばっていた。

旧約聖書には矛盾する二つの規定が同居している。レビ記は兄弟の妻との関係を禁じ、申命記は子のないまま夫が死んだ場合に限って兄弟の再婚を義務づける。この矛盾自体が、制度の性格をよく表している。原則は禁止だが、家の血統を絶やさないという目的の前では例外が開く。制度の主語は女ではなく、家なのだ。

制度の設計意図は、擁護する側の説明を聞けば分かりやすい。寡婦と子を路頭に迷わせない、財産を一族の外に流出させない、子を父方の系譜のなかに留める。この三つに尽きる。実際、社会保障が存在しない社会では、これは合理的な仕組みでもあった。

問題は、選択権が本人にないときだ。断れば追い出され、追い出されれば財産も子も失う。そして20世紀末以降、決定的な問題が加わった。HIVの流行である。清めの儀礼や寡婦相続が性的接触を伴い、しかも避妊具が使われない場面が多いことから、感染拡大の経路として深刻視されるようになった。

ケニアのルオを対象にした研究は、この点をはっきり指摘し、女性主体で選べる予防手段の必要を訴えている。親族の男が役目を嫌がるようになり、代わりに報酬を受け取って清めを請け負う専業者が現れた地域もある。制度が、当初の目的からいちばん遠いところへ流れ着いた例だ。

ザンビアは1926年に寡婦相続を法的に認めていた。タンザニアは憲法で平等な相続権を保障するが、慣習法が実務を支配し続けている。ガーナは寡婦儀礼の強制を犯罪化した。ナイジェリアのエヌグ州は寡婦を家から追い出す行為を違法とした。法と現場の距離は、どこでもだいたい同じくらい遠い。

裁判所で戦った寡婦たち

法の側の動きも、アフリカで具体的に追える。

ナイジェリアで最もよく引かれるのが、1997年の控訴審判決だ。事件の中身はこうである。1944年に夫を亡くした女性が、内戦後、自分の資金で家を建て直し、借家人から家賃を集めていた。ところが夫の一族の男が、男系だけが相続するという慣習の後継者として、1983年に彼女を訴えた。この慣習のもとでは、財産は息子へ、いなければ兄弟へ、そのまた息子へと渡り、妻と娘には決して渡らない。

妻や娘が受け取れるのは「素行がよければ」与えられる扶養だけだ。

控訴審は女性を勝たせ、判決文は慣習そのものへの批判にまで踏み込んだ。ところが2004年、最高裁はその踏み込みを退ける。慣習が個人の権利の原則と衝突するというだけで無効にはできない、というのがその論旨だ。慣習と憲法の綱引きは、勝ったり負けたりの往復になる。

決定的だったのは2014年だ。最高裁は、女児の出生の事情がどうであれ、亡父の遺産を相続する資格があると判じた。この判決が、男系相続の慣習に正面から釘を打った。2015年には性暴力等禁止法が成立し、寡婦を追い出したり儀礼を強制したりする行為を訴える根拠が増えたのである。

ガーナは、寡婦の喪の儀礼を法律で消そうとした世界で唯一の国だと言われる。1989年の刑法改正で、残酷、非道徳、または著しく下品な慣行を寡婦に強いる行為が処罰対象になった。理念としては先進的だ。ところが2002年時点の報告では、この規定で逮捕され法廷に立った者は一人もいない、とされている。報告書はこう書いている。

読み書きができず社会の周縁に置かれた農村の寡婦が、この条文の存在を知っていたとして、どう使えというのか、と。法律を作ることと、法律が届くことは、別の作業なのだ。

財産の側では、1985年の無遺言相続法が寡婦の権利を守る枠組みになっている。ただし現地の法律家は、手続きが長く煩雑で、そもそも女性の側に知識がないため機能していない、と指摘している。

中国――石で建てられた褒賞

東アジアに移ると、ここでは隔離の形そのものが変わる。閉じ込めるのではなく、褒める。ただし、その褒め方が異様なのだ。

寡婦の貞節を称える発想は古い。周代の礼の書物にすでに萌芽があり、後漢の班昭は「夫には再婚の義務があるが、女の再婚を認める典拠はない」と書いた。決定的だったのは宋代の新儒学だ。程頤は問われて、飢えて死ぬのは小さなことだ、節を失うのは大きなことだ、と答えた。この一句が千年近く効き続けることになる。

同時に法と財産の側でも締めつけが進む。宋代には、寡婦が実家に戻ったり再婚したりする場合、持参金や財産を持ち出せないようにする動きが強まった。経済的に夫の家から出られなくする。信念だけで人は縛れないから、財布のほうを縛るのだ。

明代に入ると、これが旌表と呼ばれる国家の表彰制度になる。基準は乾いた数字で決められた。若くして夫を亡くし、一定の年齢まで再婚せずに通した女を、国が正式に顕彰する。顕彰された家には税や労役の優遇があり、村には石の門が建った。これが牌坊である。

旌表は後に、性暴力に抵抗して死んだ女にも広げられた。

清代にはこの制度が爛熟する。幼くして婚約させられ、若くして夫に死なれる女が大量に生まれる社会構造があった。宮廷は寡婦の守節を、孝と忠の女性版として奨励した。地方志には、村ごと、県ごとに、顕彰された女の名が延々と列挙される。

ここに歪みが生まれる。名誉そのものが資源になってしまったのだ。牌坊が立てば一族の格が上がる。とすると、家のなかで最も弱い立場の女に、格を稼がせようとする力が働く。若い寡婦が自ら命を絶ち、烈女として顕彰される事例が明清期に急増した。

あまりに不自然な死が続いたため、清の朝廷自身が、家族による強要を疑って警戒するようになる。18世紀には考証学の流れのなかから、この制度は道理も人情も欠いた古い儀礼にすぎない、と批判する知識人も現れた。

つまり中国の事例は、寡婦不浄視とは少し違う顔をしている。汚れているから遠ざけたのではない。清らかであれと命じ、清らかさを国が採点した。だが結果として女が失うものは同じだ。再婚の自由、財産、そしてしばしば命そのもの。

朝鮮――1477年の会議で決まったこと

朝鮮王朝の事例は、記録の残り方が異様に明晰だ。何年に、誰が、どう発言して、何が決まったかまで追える。

1477年、成宗の御前で寡婦の再婚をめぐる議論が行われた。そこでは三つの立場が出た。一人は厳しい禁止に反対する。禁じれば風俗を損ない、飢えと寒さに苦しむ寡婦を追い込むだけだ、と。もう一人は折衷案を出す。

三度の結婚は罰するが、身寄りのない貧しい寡婦の再婚は許すべきだ、と。三人目は完全禁止を求めた。節を失うのは極めて重大な事柄であり、それは獣の振る舞いに等しい、と。

王は三人目を採った。そうして決まった処分がこうだ。二度結婚した女の子と孫は、良家の列から外し、科挙の受験と官職への任用から排除する。

この設計が恐ろしいのは、罰の宛先が本人ではないところだ。再婚した女が処刑されるわけではない。彼女の息子と孫が、生涯にわたって出世の道を閉ざされる。つまり家族全員が監視役になる。母よ、再婚するな、俺たちの人生が終わる。

国家は自分では取り締まらず、取り締まりを家庭に外注したのだ。

この条項は1485年施行の経国大典の改訂に組み込まれた。以後、両班層で寡婦の再婚は事実上不可能になる。そして中国と同じ経路をたどる。国は貞節を守り抜いた女を烈女として顕彰し、旌閭と呼ばれる門を建てた。名誉が資源になった結果、朝鮮後期には寡婦の自死が増加する。

婚約者が結婚前に死んだだけで命を絶つ女まで現れた。姑が嫁に短刀を渡す、という象徴的な光景が語り継がれている。渡す側もかつては嫁だったはずだ。この連鎖が、制度をいちばん強く支える。

もう一つ付け加えると、この禁令が届いたのは主に上層だった。庶民層では寡婦の再婚は行われ続けた。地位が高いほど女の自由が狭くなる、という逆説は、インドの上位カーストと中国の士大夫層にも共通する。規範は上から降りるのではなく、上に溜まる。

ヨーロッパ――喪服という名の隔離装置

さて、ここで西へ目を移す。アジアやアフリカを見てきた目で、19世紀のイギリスを見ると、意外なほど同じものが見える。

ヴィクトリア朝の喪には細かい規定があった。寡婦の深い喪は二年間と決まっていた。この二年、着てよい生地はボンバジン、サージ、アルパカ、デレーン、メリノといった、光沢のない最も黒い布に限られる。クレープと呼ばれる縮み織りの絹は、襟、袖口、帽子、ヴェールに使う。ヴェールの長さまで決まっていた。

3ヤード、うち3分の2を背中に垂らし、3分の1で顔を覆う。この顔を覆う部分をはね上げてよいのは6か月経ってからだ。

頭にはタルラタンという薄い布で作った白い寡婦帽をかぶる。手袋も靴も黒で、ピンも留め具も黒でなければならない。深い喪のあいだ、宝飾品は一切許されない。

期間が明けると第二の喪に移る。白い襟と袖口が許され、ヴェールは網やチュールになり、黒い宝飾品が解禁される。さらに第三の喪、半喪へ進むと、鉛色、藤色、白といった淡い色が使えるようになる。ここまで来て、ようやく喪が明ける。

そして、ここが肝心なところだ。この二年間、寡婦は社交界から実質的に退場することになる。訪問もしないし、舞踏会にも出ず、再婚など論外だ。喪の途中で色を着れば、故人への侮辱として噂が立つ。当時の作法書には、寡婦以外の者がこの深さの喪を装うのは極めて悪趣味だ、とまで書いてある。

喪の深さが身分の記号になっていたのだ。

対して男はどうか。喪服の規定は存在したが期間は圧倒的に短く、再婚への圧力もない。むしろ幼い子を抱えた男が早く再婚するのは、実務的な判断として受け入れられた。同じ死別なのに、片方は二年間顔を隠し、片方は数か月で戻る。

白いサリーと黒いクレープは、色こそ正反対だが、機能は驚くほど似ている。遠くからでも「この女は夫を失った」と分かる。分かるようにしてあり、そのうえで社交から外す。ヴィクトリア朝の女が石床でバジャンを唱えなかっただけで、隔離という骨格は同じだ。

日本――「後家」という言葉のなかにあるもの

では日本はどうだったか。ここも他と同じ基準で見ていく。

まず言葉から入る。「後家」は、夫を亡くしたあと家に残る女を指す。この語がどう使われたかを見ると、内実が透けてくる。地方によって意味がずれるのが面白い。東北や北陸では、後妻や継母の意味で「ゴケ」が使われた地域がある。

伊豆諸島、山梨、秋田でも用法が違う。愛媛の民俗調査には、配偶者を亡くした男をヤモメ、亡くした女をゴケ、離婚した女をデモドリと呼び分ける記録がある。呼び分けているということは、そこに社会的な区分があるということだ。

「未亡人」という語も残酷だ。もとは中国古典に由来し、夫に殉じるべきなのにまだ死んでいない人、という意味を持つ。今日この語が失礼だとされるのは、この語源が理由だ。日本語のなかに、東アジアの貞節観念がそのまま化石として残っている。

制度面では、日本の寡婦は他地域より権限があった時期がある。鎌倉期には、後家が中継ぎの相続人として夫の所領や家業を管理した例が確認できる。「後家分」という取り分の概念もあった。子が幼いあいだ、母が家を切り回す。これは実務的な必要から生まれた仕組みで、女性の地位が高かったというより、家を絶やさないための便法だった。

それでも、白い布を着せて追い出す社会と比べれば、寡婦が経営主体になり得た点は大きな違いだ。

一方で、村落社会の側には別の顔がある。民俗誌には「後家と娘は若い衆のもの」という言い回しが記録されている。若者組が村の未婚女性と寡婦を性的に管轄下に置く、という感覚だ。夫という盾を失った女が、共同体の共有物のように扱われる。ネパールの寡婦が白いサリーを「狙われる印」と語ったのと、構造は変わらない。

忌みの側面もある。そもそも日本には死穢の観念が強く、喪中の家は神事から外れ、鳥居をくぐらず、祝いの席を遠慮する。この慣行自体は男女を問わない。だが実際に長く尾を引くのは女の側だった。婚礼の場で、再婚した人や配偶者と死別した人を「縁起が悪い」として遠ざける感覚は、今でも完全には消えていない。

仲人を頼まない、花嫁の着付けに立ち会わせない、といった配慮の名の排除は、各地の聞き書きに現れる。

そしてレビラト婚は、日本にも確かにあった。江戸中期以降、武家社会では嫌われるようになり、1875年には禁止令が出ている。しかし庶民のあいだでは受け入れられた慣習として続いた。近代に入っても、出征した夫が戦死したあと、その弟と再婚する例が各地で見られた。西アフリカで論じられている寡婦相続と、日本の農村で起きていたことは、地続きなのだ。

戦争未亡人という、もう一つの隔離

アジア太平洋戦争は、日本に大量の寡婦を作った。彼女たちの扱いは、この記事のテーマにきれいに接続する。

戦死者の妻は、公的には称えられた。国のために夫を捧げた立派な女性として。ところがその称賛が、そのまま鎖になる。夫の位牌を守り、婚家に留まり、子を育て、再婚しないこと。それが「立派な戦争未亡人」の内容だった。

称えることで縛る手口は、明清の旌表や朝鮮の旌閭と同じである。

再婚を選べば、視線が変わる。夫の霊に対する裏切りだと言われる。近年公開された当事者の証言には、夫の弟との再婚を強く勧められ、子どものために迷い抜いた話が出てくる。周囲が用意するのは、たいてい二つしか選択肢がない。婚家に留まって貞女でいるか、婚家の男と再婚するか。

婚家の外へ出ていく道は、そもそも道として提示されない。

戦後の遺族援護制度も、この構図を強化した面がある。給付の資格が婚家との関係に紐づけば、離れる選択には経済的な罰が伴う。これはインドの1856年法が、再婚した寡婦から前夫の家の財産権を取り上げた設計と、まったく同じ発想だ。国も家も、女を留めるために財布を使う。

三人の声

ここで、当事者の言葉を三つ、まとまった形で置いておきたい。個人が特定できる情報は外している。

一人目。ナイジェリア南部の実業家の妻だった女性の話だ。2010年、夫が業界の会食の席で心停止を起こし、突然亡くなった。50代前半、それまで大きな病気ひとつしたことがなかった。子どもは7歳、5歳、1歳。

葬儀のあと、夫の一族は彼女を夫の故郷の敷地へ移した。そこから28日間の隔離が始まる。頭は完全に剃られた。部屋にあるのは床のござだけで、食事は割れた皿。着るものは黒に限られた。

体が霊的に汚れているという理由で、掻くときに手を使うことを禁じられ、代わりに棒を渡された。毎日、夜明けと日暮れに、大声で泣くことを義務づけられたのである。悲しんでいることを、耳で聞こえる形で証明し続けなければならなかったのだ。監督したのは夫の一族の娘たちで、彼女らは日々の様子を点検し、親族に報告した。28日が明けても、さらに60日の半隔離が続いた。

残りの月も、人と会うことも自由に動くことも制限されたのである。一年を勤め上げ、ようやく解放の儀礼にたどり着いたとき、一族が告げた次の予定が、夫の弟による寡婦相続だった。彼女はそれを拒み、そこから十年におよぶ裁判が始まる。相手は子の父子関係を疑い、婚姻の有効性を争い、遺産へのアクセスを塞いだ。

彼女は憲法上の権利と、1997年と2014年の相続をめぐる判例、そして2015年の性暴力等禁止法を武器に戦い、最終的に子どものために夫の財産の管理権を取り戻した。

二人目。ネパールで20代前半に夫を殺害され、寡婦になった女性の話だ。学歴も職の技能もなかった。彼女が最初に受け取ったのは、白いサリーだった。着た瞬間から、街を歩くだけで自分の身の上が全員に伝わるようになったのである。

近所も友人も口をきかなくなった。逆に、見知らぬ男が近づいてくるようになった。宗教の儀式のあいだは、その場にいることを許されなかったのである。寡婦は縁起が悪いからであり、彼女は当時をこう振り返る。白いサリーを着ているのが嫌でたまらなかった、それは自分が夫を失ったこと、もう他の女とは違うことを、一日じゅう思い出させ続けたから、と。

のちに彼女は単身女性の団体に加わり、赤い布を着る運動に参加した。周囲の男たちからは品行が悪いと罵られ、報道は文化に反すると書いた。それでも色を着るようになってから、ようやく家族の一員、社会の一員だと感じられるようになった、と彼女は言っている。

三人目。ガーナ南部で市場の商いをしていた60代半ばの女性だ。2022年11月に夫を亡くした。その日から、彼女は商品を売ることを禁じられた。喪の期間に商いをしてはいけない、という決まりがあるからだ。

解禁されたのは翌2023年の2月。三か月ちょっとのあいだ、収入はゼロになった。しかし商売の元手は借り入れで回している。売れない期間も利息だけは積み上がっていく。彼女の言葉は簡潔だった。

利息が膨らんでいくばかりだ、と。同じ地域の40代の女性は、夫の死から六年後に婚家を追い出された。夫婦で耕していたキャッサバ畑は、婚家の土地だとして取り上げられた。彼女は、婚家にとって最後まで「よそ者」だったのである。

三人に共通しているのは、悲しむ時間を与えられていないことだ。夫を失った直後から、証明と手続きと防衛戦が始まる。悲嘆に沈む余裕は、制度の側が用意していない。

なぜ寡婦だけだったのか――三つの説

ここからは分析に入る。なぜ寡婦なのか、なぜ寡夫ではないのか。

大きく分けて三つの説がある。

第一に、財産と再生産の管理説。これが最も説明力があり、父系社会では、財産は男から男へ流れる。ところが夫が死ぬと、そこに穴が空く。妻という、血のつながらない人間が、財産と子どもの上に立ってしまうのだ。彼女が外へ出て再婚すれば、財産が流出するかもしれない。

子を連れて行くかもしれない。他家の男の子を産んで、この家の相続に混ぜるかもしれない。だから縛るしかない。宋代の財産持ち出し制限、朝鮮の子孫への官職禁止、インドの再婚と財産権の引き換え、ナイジェリアの男系相続慣習、そして寡婦相続。全部、同じ穴を塞ぐための蓋だ。

不浄という言葉は、その蓋に貼られたラベルにすぎない。

第二に挙がるのが、死穢の残留説だ。人類学の古典が繰り返し指摘してきた見方だ。20世紀初頭のロベール・エルツは、遺体が腐り、やがて骨になるまでの期間と、遺族が共同体から外されている期間が、正確に対応する社会があることを示した。ボルネオの事例では、仮の埋葬の長さと喪の長さが一致する。エルツは寡婦について、極めて厳しい言葉を残している。

彼女は死が現在進行形で宿っている人の妻であり、そのために不浄で呪われた存在とされ、追放者の生活へ落とされる、と。そして、最後の儀礼が済むまで生者と死者の絆は切れないから、再婚は許されない、とも書いた。この見方だと、寡婦の隔離は罰ではなく、死の処理工程の一部ということになる。夫の死が完全に終わっていない、だから妻もまだ人間に戻れない。

アカンの寡婦が、夫の霊に近づかれないよう腰ににおいの強いものを結ぶ話は、この説にぴったり合う。

第三に挙がるのが、境界の存在説だ。寡婦はどのカテゴリーにも収まらない。妻ではないが、他人の妻でもない。娘の家に戻れば厄介者で、婚家にいれば異物だ。母ではあるが、家長ではない。

分類の隙間に落ちた存在は、多くの社会で危険視される。分類できないものは制御できないからだ。ヒンドゥーの文脈で言えば、これは清浄と不浄の軸というより、吉と不吉の軸で語られる。夫のいる女は吉であり、婚礼にも出産にも出てよい。夫を失った女は不吉であり、その場から外される。

研究者はこの二つの軸を区別すべきだと繰り返し指摘してきた。

そして、この三つは互いに排除しない。実際にはたぶん、こう動いている。財産と再生産を管理したい現実の必要が先にあり、死穢や不吉という宗教的な語彙が、その必要に正当性を貸す。そして分類上の曖昧さが、正当性をさらに強化する。三重の錠前になっているから、そう簡単には壊れない。

月経の穢れとも、産の穢れとも違う

ここは書き分けておきたい。

月経や出産に伴う不浄視は、周期的で一時的だ。血が出ているあいだ、産後の何日間か、女は隔離されるが、期間が終われば戻れる。小屋から出て、家に帰り、そしてまた普通の女に戻る。忌みの対象になるのは身体の状態であって、その人自身の身分ではない。

寡婦は違う。終わりがなく、血は止まっても夫は生き返らない。だから寡婦の不浄は、状態ではなく身分になる。一度落ちたら、死ぬまで上がれない。多くの社会で、寡婦への制限が生涯続くのは偶然ではない。

原因が回復しないからだ。

もう一つの違いは、担い手だ。月経や出産の忌みは、女が女に伝えていく面が強いが、同時に男が触れない領域でもある。寡婦の隔離は、財産と相続という男の領域に直結する。だから男が制度を書き、女が現場を執行する。イボのウムアダが典型だ。

姑が嫁に短刀を渡す朝鮮の光景も、村の年寄り女たちが妻の腕輪を割るインドの光景も、同じ構図だ。抑圧の実行部隊が同性であるとき、その制度は最も長持ちする。外から見ると女が女を痛めつけているように見えるが、実際には、彼女らも同じ制度を通ってきた通過者なのだ。自分が耐えたものを次の世代に免除すれば、自分が耐えた意味がなくなる。この心理が、制度を何百年も回し続ける燃料になる。

どこかの文化が遅れている、という話にするのは筋違いだ

ここでいったん、はっきり書いておく。

この記事に出てくる慣行を読んで、「インドは」「アフリカは」という文を作りたくなったら、そこでいったん止まってほしい。それは事実の把握として端的に間違っている。

なぜなら、まったく同じ機能を持つ制度が、ヨーロッパにも日本にもあったからだ。ヴィクトリア朝の寡婦は二年間、顔を黒いヴェールで覆い、社交から退場した。生地の種類まで規定され、違反すれば人格を疑われた。日本の「未亡人」という語は、夫に殉じていない人という意味を今も内側に抱えている。戦争未亡人は国家に称えられることで再婚の道を狭められた。

日本にもレビラト婚はあり、1875年に禁止令が出るまで武家社会ですら完全には消えていなかった。庶民のあいだでは、その後も続いたのである。

つまり、これは文明の段階の話ではない。父系で財産を継承する社会が、寡婦という制御しにくい存在をどう処理するかという、共通の課題への解答なのだ。解答の形が、地域の宗教語彙や気候や産業に応じて変わっただけだ。白いサリーと黒いクレープ、剃髪と寡婦帽、旌表と靖国の妻。素材が違うだけで、設計図のほうはほとんど同じである。

さらに言えば、どの社会にも内部からの批判者がいた。中国では18世紀の考証学者が貞節の顕彰を批判した。朝鮮では1477年のその場で、禁止に反対する官僚がいたのである。インドでは19世紀の教育者が聖典を読み込んで再婚の根拠を掘り当てた。ナイジェリアではイボの伝統的指導者たち自身が、遺体を洗った水を飲ませる慣行を野蛮だと公言している。

ガーナでは元副大統領夫人が寡婦の権利を訴えている。ネパールでは寡婦自身が団体を作って赤い布を着た。慣行を「その文化そのもの」と同一視するのは、その文化のなかで戦ってきた人たちを、まとめて存在しないことにする行為だ。

そして最後に、この記事の慣行の多くは過去形か、あるいは急速に縮小している。現在も苦しんでいる人がいることと、その社会全体が今もそうであることは、まったく別の主張だ。この二つを混ぜてはいけない。

抗ってきた人たちの側

抗った側の記録も、きちんと並べておく。

19世紀インドの教育者は、寡婦再婚を認める聖典の根拠を探し出し、1856年の法律を通した。彼は自分の息子を寡婦と結婚させ、批判を身で受けた。ネパールでは1994年に単身女性の団体が生まれ、全国73郡に組織を広げ、2005年前後には白いサリーを脱いで赤を着る運動を起こしたのである。罵倒され、報道に叩かれながら、それを続けた。

2009年に政府が寡婦との結婚に現金を出すと言い出したときは、真っ先に反対の声を上げたのが寡婦自身だった。裁判所に持ち込み、止めたのである。

ナイジェリアでは、一人の寡婦が十年かけて裁判所で戦い、判例を積み上げた。2014年の最高裁判決は、女性の相続権に決定的な線を引いた。ガーナは1989年、寡婦への残酷な慣行の強制を犯罪と定めたのである。運用はまるで伴っていない。それでも、法典に文字が刻まれたことには意味がある。

次の世代が指差せる場所ができるからだ。

インドのヴリンダーヴァンでは、身寄りのない寡婦の遺体を尊厳ある形で送り出す活動を続けてきた人たちがいる。名前を出さないでおくが、火葬の手配、遺骨の扱い、そのための資金集めを、地道にやっている。最高裁の10年にわたる審理を引っ張ったのも、一つの非営利団体の粘り強さだった。2013年のホーリーで色粉を浴びたのも、そこにいた寡婦たち自身の決断だ。誰かが「解放してあげた」のではない。

これらを書き落とすと、この記事はただの見世物になる。被害の陳列は、当事者をもう一度対象にするだけだ。

なぜ、これが怖いのか

最後に、この題材の怖さの正体を整理しておく。

第一に、暴力が見えないことであり、誰も殴らないし、誰も刺さない。ただ服を替えさせ、席から外し、名を呼ばなくなる。だから加害の瞬間が特定できない。訴える先がなく、証拠も残らない。物理的な虐待なら傷が写真に写るが、「婚礼に呼ばれない」は写らない。

見えない暴力は告発の対象になりにくく、だからこそ続いてしまう。

第二に、加害者がいないように見えることだ。剥ぎ取るのは近所の年配の女で、彼女らもかつて剥ぎ取られた側だ。執行するのは一族の娘たちで、彼女らもいずれ寡婦になる。誰も悪意でやってはいない。全員が「そういうものだから」という理由でやっている。

悪意のない制度は止め方が分からない。止めようとすると、伝統を壊す人、和を乱す人になってしまう。

第三に、宗教語彙が接着剤として強すぎることだ。不浄、不吉、穢れ。この手の言葉が一度貼りついてしまうと、反論が難しくなる。合理的な議論の外側に置かれるからだ。財産の話をしていたはずが、いつのまにか信仰の話にすり替わる。

すり替わった瞬間、経済的動機は見えなくなる。ラベルの本当の機能は、そこにある。

第四に、そして最も嫌なのは、期限がないことだ。月経の隔離は数日で明ける。産の忌みも数十日で明ける。しかし寡婦の隔離は、夫が生き返らない限り明けない。10年経とうが30年経とうが、彼女はずっと「夫を亡くした人」のままだ。

ヴリンダーヴァンで70代を迎えた人たちは、20代や30代でそこへ来ている。半世紀を、床に座って神の名を唱えて過ごしたということだ。

第五に、これが完全な過去の話ではないことだ。制度は消えても、視線は残る。婚礼の席で「あの人は縁起が悪いから」とささやく声。再婚した女への品定めの評価。夫を亡くした人が自分から祝いの席を辞退するときの、あの独特の遠慮だ。

名前が「不浄」から「配慮」に変わっただけで、同じ機能が働いていることは、たぶん誰にでも心当たりがある。

ここからは、駆け足になった部分を掘り下げる。

まず、数字の読み方を整理しておきたい。世界の寡婦の総数として最もよく引かれるのが、2015年時点の2億5848万1056人という推計だ。国別ではインドが4645万7516人で世界最多、次いで中国が4459万560人。この二国だけで世界の35.2パーセントを占める。地域別では東アジア太平洋が31.8パーセント、南アジアが22.4パーセント。

結婚可能年齢の女性人口に対する寡婦の割合は9.1パーセントとされる。ナイジェリアについては、この国だけで1500万人という数字が別の推計から出ている。

この数字を見るとき、注意すべきことがある。寡婦が多い国イコール寡婦の扱いが悪い国、ではないという点だ。寡婦の総数は、人口規模と平均寿命の男女差と婚姻年齢差で決まる。夫が年上で、女のほうが長生きすれば、寡婦は自動的に増える。問題は数ではなく、その人たちが何を奪われているかだ。

インドの調査では50歳以上の女性の37パーセントが寡婦で、70歳以上では75パーセントに達する。そして寡婦は既婚女性より、社交性、信頼、連帯感のすべての指標で有意に低い。最も裕福な層の寡婦は、最も貧しい層の寡婦より社交性が高くなる確率が75パーセント高い、という分析もある。つまり寡婦であることの不利は、階層と掛け算になる。金があれば緩和される。

ここが効いてくるところだ。もしこれが純粋に宗教的な穢れの問題なら、金持ちの寡婦も同じだけ穢れているはずだ。実際には違っていて、だからやはり、これは経済の話でもある。

次に、儀礼の「終わらせ方」に注目したい。本編で見た慣行のほとんどには、終了の儀礼が設計されている。ガーナのアクアペムでは黒い布を脱ぐ式があり、そこで人々が公然と踊る。エウェには「自分の汚れを買い取る」と呼ばれる手続きがある。ルオでは清めが復帰の条件になる。

イボでは一年の満期に解放の儀礼が来る。つまりこれらは本来、期限つきの通過儀礼だったのだ。汚れを負い、隔離され、清められ、帰ってくる。人類学が言う分離、過渡、再統合の三段構えである。

問題は、その最終段階が壊れたときに起きる。再統合の出口が、寡婦相続や性的な清めに接続していると、女は「戻る」ために新しい従属を受け入れなければならない。あるいは、そもそも戻る場所が消えている場合がある。ヴリンダーヴァンに来た寡婦たちがそうだ。彼女らの隔離には、終了の儀礼が存在しない。

永遠の過渡期に置き去りにされている。エルツの言い方を借りれば、遺体はとっくに骨になったのに、彼女だけがまだ腐敗の期間を生かされている。

ここで、記録の初出について補足しておく。この題材の一次資料は、時代によって性格が変わる。古代から中世は宗教法典と注釈だ。マヌ法典の第5章、周代の礼書、班昭の文章、宋代の程頤の語録。中世から近世は国家の法令と表彰記録になる。

1477年の朝鮮の御前会議の記録、1485年施行の経国大典、明清の旌表制度と地方志に列挙された女たちの名前。近代は植民地行政と法律だ。1829年のサティー禁止規定、1856年のヒンドゥー寡婦再婚法、1875年の日本の禁止令。20世紀後半以降は、調査報告と裁判記録に主役が移る。

1985年のガーナの無遺言相続法、1989年のガーナの刑法改正、2001年のエヌグ州法、2002年開始のインドの324人調査、2010年のブラジ地方522人調査、1997年と2004年と2014年のナイジェリアの各判決、2015年のナイジェリアの性暴力等禁止法、2017年8月11日のインド最高裁判決。

この推移そのものが面白い。かつては「こうあるべし」を書いた文書が資料だった。今は「こうなっている」を数えた文書が資料になっている。規範の記録から実態の記録へ。この転換が起きたから、私たちはようやく日当18ルピーという数字を持てるようになった。

逆に言えば、数字を持てなかった時代のことは、想像で埋めるしかない。中国の地方志に名前が並ぶ何万人もの烈女たちが、実際にどんな日々を送ったのかは、もう誰にも分からない。顕彰の文だけが残っている。

反証と留保の話も、もう少し丁寧にしておきたい。

ヴリンダーヴァンの寡婦をめぐる報道には、定型がある。家族に捨てられた老女が、聖地で物乞いをして死ぬ。この筋書きは事実の一部だが、全部ではない。調査で移住理由に信仰を挙げた人が9割前後いた事実を、単なる建前と切り捨てるのは乱暴だ。実際、クリシュナの地で最期を迎えることは、ベンガルのバイシュナヴァ信仰のなかで積極的な選択でもある。

近年の研究には、ヴリンダーヴァンの寡婦の語りを読み直し、被害者性だけではない。婚家の支配から逃れて自分の裁量で生きる場所を選んだ側面を掘り起こすものがある。夫の家に留まれば嫁として使われ続ける。ここに来れば貧しいが自分の時間があり、そう語る人が実際にいる。

同時に、そのどちらかに決める必要もない。選択肢が二つしかなくて、そのどちらもひどいとき、片方を選ぶのは自由意志なのか。答えは半分だけイエスだろう。だからこの記事では、彼女らを純粋な犠牲者としても、自由な巡礼者としても描かない。追い出された人と、逃げてきた人と、信仰で来た人が同じ床に並んで座っている、というのが実態に一番近い。

ナイジェリアの遺体洗浄水の件も同様だ。2001年にエド州で行われた150人調査では、この扱いを受けたと答えたのは2パーセントだった。一方で、階層を問わず今も行われていると述べる報告もある。伝統的指導者たちは公に否定している。ここから引き出せる結論は一つしかない。

この慣行は存在したが、頻度は不明で、地域差が大きく、しかも当該社会の内部で強い批判に晒されている。これを「アフリカの寡婦は夫の死体を洗った水を飲まされる」と要約すると、事実からも当事者の努力からも遠く離れる。

法と現場の距離についても、もう一段掘りたい。ガーナの1989年刑法改正は、寡婦への残酷な慣行の強制を犯罪化した。世界で唯一、寡婦の喪の慣行を法律で消そうとした国だとも評される。にもかかわらず、2002年時点で逮捕者ゼロだった。なぜか。

まず、被害者が法を知らない。次に、告発すれば婚家との関係が完全に切れ、切れれば住む場所も畑も失う。つまり、法を使うコストが、耐えるコストを上回っているのだ。これは制度設計の問題だ。法だけ作っても、経済的な出口がなければ誰も使えない。

インドの最高裁判決が、罰則ではなく、年金の物価連動と職業訓練と身分証の整備を並べたのは、たぶん同じ認識に立っている。寡婦を救うのは禁止令ではなく、婚家を出ても食っていける道なのだ。

そしてもう一つ。この構造がなぜこれほど長く続いたのか、という問いに、私は本編とは別の角度からも答えを出しておきたい。

制度が長持ちする条件は三つある。第一に、コストを払う人と、利益を得る人が分かれていること。寡婦の隔離では、コストを払うのは寡婦一人、利益を得るのは婚家全体だ。人数比が圧倒的に不利だから、抵抗は組織化されない。第二に、執行が分散していること。

中央の警察が取り締まるのではなく、隣人と親族が日常的に監視する。監視の網が細かいほど、逃げ道がない。第三に、被害者が入れ替わり続けること。寡婦は毎年新しく生まれ、そして老いて死ぬ。同じ人が生涯かけて戦っても、その人が消えれば経験は継承されない。

だから、単身女性の団体が作られたことの意味は、実はここにある。個人の経験を組織の記憶に変えたのだ。ネパールの参加者の言葉が象徴的だ。私たちの問題は似ている、みんな古い伝統の犠牲になってきた、だからいつも互いに同情できる、と。

最後に、この題材を読み終えたあと、何を持ち帰るべきかを書いておく。

一つめ。喪の作法と隔離の制度は、外から見ると区別がつきにくい。どこまでが悲しみの表現で、どこからが処罰なのか。判断の基準は一つしかないと思う。本人が終わらせられるかどうかだ。

自分で色を着ると決められるなら、それは喪だ。誰かの許可がいるなら、それは制度である。

二つめ。称賛は拘束の別の顔であり、旌表も旌閭も、称えることで縛った。日本の戦争未亡人もそうだ。誰かを「立派だ」と褒めるとき、その褒め言葉が相手の選択肢を減らしていないか。この問いは、寡婦の話に限らず、けっこう広く効く。

三つめ。不浄という言葉が出てきたら、その裏に財産の話が隠れていないか探す価値がある。これは今回の全事例に当てはまった。宋代の持ち出し制限も、朝鮮の官職禁止も、インドの再婚と財産権の交換も、ナイジェリアの男系相続も、そしてヴリンダーヴァンの年金受給率30パーセントも。穢れの物語は、いつも財布のそばに立っている。

四つめ、そして、これがいちばん覚えておきたいことだ。夫が死ぬのは、妻のせいではない。当たり前すぎて書くのが馬鹿らしいこの一行が、世界のあちこちで、何千年も、当たり前ではなかった。遺体を洗った水を飲ませるのも、夫を殺した疑いをかけているからだ。白い布を着せて色を奪うのも、彼女の生が続いていることへの罰だ。

夫の死を女の罪として処理する装置が、地球を一周する形で存在していた。

それこそが、この話のいちばん怖いところだと思う。

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