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空から御札が降ったと、神主は帳面に書いた――ええじゃないか、慶応3年の七月十四日から仕掛け人を探す

笹の葉の先に、伊勢の御祓が降りてきた

牟呂八幡宮の神主が書き残した帳面がある。題は『留記』という。三河国渥美郡牟呂村、いまの愛知県豊橋市にあった神社の控えで、ええじゃないかの最初の記録として一番よく名前の挙がる一冊だ。

表紙には年号が三つ並んでいる。明和4年の御鍬社、文政13年の大神宮御祓納、そして慶応3年。代の違う神主の筆が、同じ帳面に重なった形だ。

慶応3年の書き出しは七月十四日。七ツ時分に、大西村から知らせが来た。屋敷の東、竹垣のきわに生えた笹の先に、伊勢神宮外宮の御祓が降臨したという。御祓とは神宮が配る札のことだ。

十七日の晩、御祓は天王社の拝殿に納められた。神酒は二樽。若者はその夜、宮籠もりをした。神主は「三日正月也」と書く。祝ったのは大西村の内輪、とも断っている。

ここから十一月三日まで、約四十件の降札が帳面に並ぶ。日付、場所、札の種類、納め方、神酒の量、供え物、参詣の衣装、手踊りの出来。降札のたびに筆を取った人の手つきが、この帳面の値打ちになっている。

疑った二人は、身内を亡くした

七月十四日の朝、その御祓を見つけた男が、札を疑った。文政の時に降った御祓には御師の名がなかったのに、今度のには書いてある。男はそう言って札を組頭に預け、家へ帰った。

その夜、男の八つの息子が、病気でもないのに急死した。神主は『留記』に「神罰とはおもはさりけり」と書く。

同じ日の夕暮れ、別の男が、伊勢の御祓が降ったと騒ぐが、どうせ煤けた紙だろうと疑った。この男の妻は十三日から熱病で寝込み、十五日の夜に亡くなった。

あたりの者は口々に言い出す。あの二人は元から信心がない。疑ったから神罰が下ったのだ。恐れ慎め、決して疑うな。

十六日には、こんな声まで出た。近くの村では御鍬祭が流行っているのに、牟呂だけがしていない。神が徴を見せて、祭をさせようとしているのだろう、と。

その夜、大西の惣代が二人、神主のもとへ来て、事の次第を語った。神主は語られるままに書き置いたとして、こう結ぶ。「これより祭はじまりし也」。

この箇所を読んだ報告の筆者は、浄土宗東海地方教化センターの報告を載せた普仙寺のページで、こう見ている。神罰の強調と祭りの督促は、村人の言葉というより神主自身の意見ではないか、と。根拠は文体と内容だ。

さらに、神主が京都の上級の神主へ出した書簡では、降札を最初「目出度」と書き、あとで「不思議」と書き改めているという。

報告は「降札に関し彼の関与があったのだろうか」と問いを置いて終わる。その問いに答えられる材料は、筆者は見つけられなかった。

始まりの日は、帳面が見つかるたびに早くなった

ええじゃないかの始まりの日は、長いあいだ決まっていなかった。ここが妙に面白い。

岩倉具視の伝記『岩倉公実記』は、京の都下で神符がまかれ、八月下旬に始まって、十二月九日の王政復古の日に至って止んだと書く。名古屋にも日付がある。『新修名古屋市史』によれば、八月二十八日、若宮八幡の西の門前町で、仏師の家へ伊勢外宮の札が降った。

概説書や教科書は、長く「名古屋、八月下旬」を通説にしてきた。名古屋市鶴舞中央図書館の調査記録は、伊藤忠士の研究書を引いて理由を書く。早く騒ぎの始まった名古屋の情報が、大都市だったために、より早く四方へ伝わったのだろう、と。

そこへ研究が積み重なった。1968年の藤谷俊雄の著書は尾張の八月とする。1973年の西垣晴次の著書は、日付を確かめられる最も早い例として、遠江の見付宿、八月十五日を挙げた。

同じ年の『豊川市史』は、御油宿に秋葉の火防の札が降った八月四日を最初とする。

1977年、佐々木潤之介による吉田宿の記録の紹介。羽田八幡宮の神官、羽田野敬雄の「萬歳書留控」に、牟呂や草間などへ伊勢の御祓が降ったと読める一文があり、騒ぎは七月二十二日以前にさかのぼった。

1984年、橘敏夫が『留記』の七月十四日を論文で指摘し、1986年に渡辺和敏が史料を紹介した。1987年には田村貞雄の『ええじゃないか始まる』が出る。同じ年、豊橋の愛知大学でシンポジウムが開かれ、牟呂村発端説が認められた。

ここからは筆者の見立てだ。八月二十八日、八月十五日、八月四日、七月二十二日、七月十四日と、日付は研究が進むたびに前へ動いた。動いたのは騒ぎのほうではなく、史料のほうだろう。

「始まりの日」と呼ばれてきたものは、騒ぎが始まった日ではなく、最も早い日付を持つ帳面が見つかった日なのかもしれない。七月十四日も、いまのところ最古というだけだ。

名前にも同じ事情がある。騒ぎ全体を「ええじゃないか」と統一して呼んだのは、昭和6年の土屋喬雄の論文からだと普仙寺のページは書く。西垣晴次も、当時の史料でこの運動を一括して書いたものは少なく、多くは文政の「おかげ踊り」の名で呼ばれていたと述べた。

ウィキペディアの整理は、こうだ。掛け声を要件にすれば、『岩倉公実記』をもとに京都発祥説になる。札降りと乱舞を要件にすれば、東海発祥説になる。何を「ええじゃないか」と呼ぶかで、始まりの場所が変わるわけだ。

吉田では福引が催され、新居では札が数えられた

牟呂の札は、十八日の夜には吉田宿に降った。吉田は東海道の宿場で、譜代大名、大河内松平家七万石の城下でもある。表町十二町と裏町十二町、あわせて二十四町で成り立っていた。

吉田の記録『多聞山日別雑記』には、七月二十七日から城内や所々に、神札のほか餅、銭、手拭いが降ったとある。和田実がそう紹介している。

餅や銭は、風に乗って降る物ではない。町の誰かが撒く物だ。これは筆者の見立てだが、降ったと書かれた物のなかに、撒かれた物が混じっている。

刷物『東海道吉田宿惣町御かげの次第』には、町ごとの施行の品が並ぶ。魚町は投餅七十俵。酒は樽、餅は俵。数える単位まで、祭の作法に沿っている。

八月五日には、福引の景品を求めて群衆が詰めかけ、けが人が出た。橘敏夫の論文は、これを死亡事故まで出た騒ぎとして整理する。吉田藩が本格的に介入し、福引は撒き鬮に改められ、許されたのは献灯だけになった。

和田実は、藩が騒ぎを禁じる触を、この八月五日に出していたことも明らかにした。これまで知られていた八月二十五日の触より、二十日早い。

八月二十一日から騒ぎは再燃する。音を伴う札、焼け焦げた札、壊れた仏像が降った。橘敏夫はこれを、騒ぎを強いるかのような過激な状況と書く。吉田の日記の記録は九月初旬で終わり、騒ぎは次第に静まったようだ。

東海道を西へ進むと新居宿がある。最初の降札は八月九日、本陣。月番の庄屋は、札の種類と降った家を書き上げ、新居町奉行所へ届けた。同じ八月のうちに降った札は、九種類、三十四枚。

本陣の日記は、伊勢参宮に向かった者を五百五十六人と書く。紀伊国屋の宿帳には、およそ千人が伊勢へ向かったとあるという。同じ宿の二つの記録で、数が合わない。数え方が同じかどうかは、資料からは分からない。

名古屋では、札が降ると町奉行所へ届けて祭礼を行った。奉行所で集計された札は三千枚を超えたと、名古屋市博物館は書く。岐阜県の資料は三千四百余と書いた。祭礼は七日七夜。名古屋城下の茶屋町では、町で管理する屋根神の中へ札を納め、関係の寺社へお礼参りをして、行事を終えている。

熱田伝馬町の遊女は、髪を男と同じに剃って、馬の塔を奉納した。髪が元に戻るまでの金銭は、客が保証していたという。名古屋市博物館の展示解説は、乱れて見える祭礼にも、日常の算段が組み込まれていたと読む。

美濃では、九月一日の多芸郡船付村が始まりとされる。二十九日には、厚見郡下佐波村の庄屋の記録に、御札祭りの記事が載る。名古屋の熱は、尾張の外へも広がっていく。

空から降る札は、降るそばから数えられ、役所の帳簿に載った。騒ぎは乱れていたが、手続きは守られていた。

札の降らない村は、日待ちをして札を待った

遠江国の松山新田に、のちに書き残された回想がある。橘敏夫の1984年の論文が、史料として紹介した。

慶応3年の八月ごろ、三河から遠州路へ諸神社の札が降り、白い鳥がくわえて舞い歩くという噂が言いふらされた。札が降ると、村の若者が揃いの衣装で金銭を撒き歩き、酒を施す。札の降らない村には悪病が流行る、とも言われた。

近くの村にはみな降って、祭っている。松山だけに降らない。村内は安心できない。五郎兵衛の家で夜通し日待ちをして、費用は五郎兵衛が出し、一同は浜で垢離を取った。

ところが明け方、皇太神宮の札が降っているのを見つける者が出る。近所に知らせると、人が集まる。五郎兵衛の家は信心が厚いから降ったのだと、皆が騒ぎ立てた。

若者たちは衣装を揃えるといい、頭だった者が豊橋へ買い物に出る。夜に帰って品を分け、夜通し縫い上げた。回想を書いた人の母も、三人分を夜中に縫ったという。

橘敏夫は、この降札が日待ちの場で作為的に行われたことは疑いないと書く。降札のない村は、降札を作為的に行うことで周辺と歩調を合わせ、互いに参詣し合う輪の中へ入ったのだ、と。

十二年前の若狭にも、似た例がある。『福井県史』によれば、小浜では安政2年の四月、町家の庭と小屋根に「太神宮」と書いた御祓が降った。人々は「何共ふしぎ成物」と思った。

五月ごろ、「御影ケ参り御祓」を吹筒で屋根へ吹き上げている者が見つかる。人為的と分かって、大した事もなく終わった。

慶応3年の十一月初め、小浜藩は先に触を出した。京都近辺で札が降り、それに合わせて踊りなどを催しているという風聞があるが、はなはだ怪事だ。当地に札が降ったら申し出よ。家事を忘れて踊り歩く者は召し捕える、と。

十一月十四日、小浜の数軒の屋敷に札が降った。『福井県史』が引く文書は、先に触があったためか、踊り出す者もなく極めて平静だったと記す。

ここで筆者の見立てを置く。牟呂の神主、松山新田の日待ち、小浜の吹筒は、それぞれ別の手だ。札を降らせた手は、一つではなかった。降らせる理由も、祭を始めたい神社、流行に乗り遅れたくない村、いたずらと、別々に読める。

札が降った家は、酒と食べ物を施す側に回る。三重県総合博物館の解説は、札は富商や豪農に降ることが多かったと書く。岐阜県歴史資料館の資料は、札の降った富裕層への接待の強要や、村役人層への休日の要求が、各地で見られたと書く。降る家は金を出し、降らない村は降るのを待った。

平田の門人たちは、この騒ぎで何を得たのか

誰が得をしたのか、という問いも立てられてきた。田村貞雄が注目したのは、吉田の神主たちだ。

羽田八幡宮の羽田野敬雄は、文政10年に平田篤胤の門人になった人で、東三河の神職と「身潔講」を組んでいた。天保13年、同門の草鹿砥宣輝が豊川妙厳寺と離檀の掛け合いを起こす。安政元年に寺社奉行の許可が下りた。

安政3年には、羽田野と牟呂の神主の父を含む八人が離檀を届け出て、翌年に許される。その十年後が、慶応3年になる。

田村貞雄は書いた。発端に神主層の連携があっただけではない。札降りをめぐる神異は、神の怒りと世直しの予兆を示すことで、神社の自立を促し、神仏分離の前提条件をつくったのではないか、と。

報告の筆者は、この見方に異を唱える。神職の離檀と神道葬はすでに許可されているのだから、神仏分離はもう進んでいたと考える。札降りは、神罰への恐れと、取り残される不安の両面から、神への従順を説く場になった。仏よりも神を上に置く道を試す場でもあった、という読みだ。

両者の読みは違う。ただ、どちらも同じ一点を指している。降った札を最初に受け止め、祭の形に整えたのは、神職だった。

静岡県の公開資料は、札を降らせたのは国学を支持する神官たちではないか、という見方も紹介している。ただ、同じ資料は、県内の神官が結成した隊の多くは庶民を神社信仰へ向かわせたと書く。直接の討幕運動に民衆が加わったとは考えにくい、とも述べている。

絵師は、冬になって札の絵を描き直した

三重県総合博物館に、歌川芳幾の浮世絵『豊饒御蔭参之図』がある。慶応3年の秋に出た三枚続きで、天から降る札と、その下で乱舞する人々を描く。

初版の札は、すべて伊勢神宮のもの。同じ年の冬の改版では、各地の情報をもとに、伊勢以外の札、仏画、仏像、小判へ描き直された。

博物館の解説によれば、騒ぎは浮世絵や瓦版の格好の題材になり、さかんに出版される。実際の騒乱の伝播より早く、情報は各地へ届いた。生首が降るという物騒な噂まで、広まった土地がある。

降る物の種類は、噂とともに増えていった。

筆者の見立てを足す。絵や刷物は、まだ札の降らない土地へ、降る物の見本を配る役も果たしたのではないか。江戸から出た書状に、降るのを待つ期待が見えることは、あとで触れる。

西宮の街道は、踊る人で通れなくなった

吉田から東へ、騒ぎは見付、浜松、金谷、島田、藤枝、駿府と進んだ。静岡県の公開資料によれば、十月十六日には沼津宿と三島宿の油屋に大神宮の札が降り、三島の商家すべてに、八百万の神と諸仏の札が入り交じって降った。岐阜県の資料は、江戸に達したのを十一月下旬とする。

京と大坂は、東海とは様子が違った。

旧幕臣で、のちに新聞記者になった福地源一郎の回想『懐往事談』に、その様子がある。慶応3年十一月二十九日、公用で兵庫から大坂へ向かった福地は、徹夜で早駕籠を急がせた。だが西宮で、踊る群衆に行く手をふさがれる。仕方なく一泊して、翌朝に大坂へ入った。

大坂に着いたときも、札降りと踊りの最中だった。福地はこう書き添える。或る人が言うには、この札降りは京都方の人々が人心を騒がせるために仕掛けた計略だという。本当かどうかは知らないが、騒ぎの激しさには閉口した、と。

福地は仕掛けを断言していない。知らない、と書いた。ただ、幕府に仕えた人の耳に、そういう噂が入っていたことは分かる。

囃子の言葉も違った。岐阜県の資料によれば、伊勢以西の西日本では、「ええじゃないか」と唱えながら鳴り物を加えて乱舞した。事典の類が挙げる歌には、西宮の「長州がのぼた、物が安うなる、えじゃないか」がある。備後には「長州さんの御登り、えじゃないか、長と薩と、えじゃないか」が残る。

山陽道の尾道では、十一月二十九日に札が降った。『広島県史』によれば、十二月に入ると広島藩兵と長州藩兵が尾道に駐屯し、町の要所を固める。踊りは禁じられたが、裏小路では踊り、札は毎日降った。町中で五六百軒に降ったという記録もある。

『広島県史』は、騒ぎの発生地が討幕軍の行動地域とほぼ重なることは、早くから指摘されていると書く。そのうえで、民衆の意向が討幕軍に好意的で、その状況のなかで軍を進められたことは事実だとまとめた。

重なっている、というのは確かだ。ただ、重なりが示すのは、並んで起きたという一点にとどまる。誰が札を撒いたかまでは、重なりからは出てこない。

仕掛け人の名は、1933年の論考で挙がった

西郷隆盛の名を挙げた論考は、羽仁五郎のものだった。『日本資本主義発達史講座』に1933年に載り、王政復古のクーデターがこの混乱のさなかに行われたことに着目している。背景に西郷の策謀があり、騒ぎは王政復古の煙幕の役を演じさせられた、という評価だった。遠山茂樹らが、この見方を受け継いだ。

1951年、井上清は『日本現代史』の第1巻『明治維新』で別の道を取る。封建制の矛盾が積もって民衆が起こした行動に、倒幕派が乗じ、結果として権力側を麻痺させた、と書いた。

1973年の西垣晴次の著書は、その両方に目配りする。倒幕派を含む、ある人為的な要因で起きた側面は大きい。それでも騒ぎは、倒幕派の予想より大きく、長く続いた。いくら火をつけても、燃える状態でなければ燃え広がらない、という言い方だった。

燃える状態の中身を、西垣は数字で示す。慶応2年は百姓一揆が72件、打ちこわしが28件で、江戸時代を通じて最も激しかった。ところが翌慶応3年は豊年で、『感興漫筆』には、去年の飢饉に比べて今年の秋は豊熟し、人心も穏やかになったとある。

期待の例もある。『丁卯雑拾録』に載る江戸からの書状だ。横浜での降札を述べたあと、江戸にも降るだろうと皆が待っている、と続く。江戸中が浮かれ出して世直し踊りでも始まれば、物騒な騒ぎも自然に収まって面白い、と今から楽しみにしているのだ。

もうひとつ、西垣が重く見るのは分布だ。討幕の立場をはっきりさせた藩の領内には、ほとんど見られない。土佐の室戸や吉良川に例はあるが、藩境に近い地域の例外だという。

岐阜県歴史資料館の資料は、いまの見方をこう書く。討幕派の政治的策謀によるという主張はかつて行われたが、現在は「あったとしてもごく限定的」との見方が一般的のようだ。

では、倒幕派の側は何を書き残したか。『岩倉公実記』は、岩倉の邸に西郷吉之助、大久保一蔵らが頻繁に出入りしたのに、幕府や会津、桑名の偵吏が知らなかった理由を述べる。努めて跡を隠したからだけではなく、天の助けがあったからだ、と。そのとき京に一大怪事があった、と札降りの様子が続く。

『公実記』は、騒ぎのために岩倉の挙動が人目に触れずに済んだ、とも書く。ただし、その箇所が語るのは、騒ぎを利用できた幸運だ。騒ぎを起こした経緯は語られていない。

筆者の見立てを置いておく。仕掛けの有無は、ふたつの問いに分けたほうがいい。起こしたのは誰か。起きたものを使ったのは誰か。使った側の証言は残っている。

起こした側の証言は、筆者が確かめられた範囲には出てこない。

十二月九日に止んだ、ことになっている

『岩倉公実記』は、騒ぎが十二月九日の王政復古の日に至って止んだと書いた。あまりにも収まりがいい。

西垣晴次は、騒ぎの構成要素を六つ挙げる。札の降下、祭祀、祝宴、男女の異装、歌と踊り、そして領主の命令による平常化だ。終わりの形まで、型として想定されている。

史料のほうは収まらない。西垣晴次の整理では、大坂では十月に惣年寄あての禁令が出ている。一度静まった騒ぎが、また起きたためだった。山陽道や瀬戸内の町々では、十一月の半ばごろから翌年の正月ごろまで続いた。

慶応4年に入っても、禁令は続く。岡山藩が一月、但馬豊岡の京極氏が二月二十日。終わりの日が確かめられる例では、大坂の鍛冶屋町が四月二十日、丹波の中郡丹波村が四月、但馬の和田村が三月だ。

伊豆の下田では、十一月一日から八日まで札が連日降り続く。町役人は市中を練り歩く者を取り締まろうとしたが、二十一日ごろになっても止む気配はなかった。長浜村では十二月二十八日と元日に、地蔵尊や不動尊、池鯉鮒大明神の守りが、正月の門松に置かれていた。

岐阜県の資料は、ほとんどの地域で、鳥羽伏見の戦いを境に急速に収束へ向かったと書く。一部の地域では、慶応4年の六月にも降下が見られたという。

牟呂の神主の帳面は、そのどれよりも早く終わる。降札の記録は十一月三日で途切れる。大政奉還から二十日後。王政復古の大号令までは、まだ一か月以上あった。

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