足柄平野の畑は、少し掘るとすぐ黒い砂が出る。土地の年寄りはそれを「あの砂」と短く呼んで、それ以上の説明をしない。表土を六十センチほどめくった下に、ざらついた黒い粒の層が地面と平行に横たわっている。つまむと驚くほど軽い。ガラス質の角が指の腹にちくちく刺さって、指紋の溝に入り込んで取れない。
神奈川県開成町の金井島という土地では、この砂が六メートル積もった。家も畑も道も墓も、まとめてその下敷きになったという意味だ。三百年以上前に空から降ってきて、そのまま帰らなかった粒が、今も地面の中で順番を守って寝ている。地質学の世界では宝永スコリアという名前がついた。当時の村人が書き残した言い方はもっと短く、焼砂。
宝永スコリアという呼び名は、この噴火で降った火山砕屑物をひとまとめに指す地質用語で、足柄平野から房総半島までの広い範囲で年代を測る鍵層として使われている。三百年ぶんの物差しだ。
金井島には年貢の記録が残る。噴火前の村高は三百四十石ほどあったのに、噴火のあとの十年間はほとんど年貢を納められない状態が続いた。三十五年経った延享二年になっても、田方の上納高は噴火前の三分の一までしか戻らなかった。三十五年というのは、赤ん坊が孫を抱く年齢になるまでの時間だ。
酒匂川という川は、富士山の東麓に積もった砂をそっくり足柄平野まで運ぶ配管の役目を負わされた。源流にあたる鮎沢川は小山町を流れ、御殿場一帯の水を集めながら南へ下っていく。降灰域のど真ん中を縦に貫いて、小田原の海へ抜ける流路だ。
この配管がいったん詰まると、詰まった分だけ水位が上がって堤の上へ乗る。乗った水は堤の裏側を削って、最後に堤を内側から崩していく。足柄平野の洪水はほとんどこの順番で起きた。切れ方には型があるわけだ。
酒匂川は源流から河口まで五十キロに満たない短い川で、標高差だけは千メートル以上ある。いったん土砂が入り込むと、勾配の力がそれを一気に下流まで押し出してしまう。とにかく急な川だ。
灰が空から降ったのは十六日間。村が潰れ続けたのは、そこから数えて百年。この落差こそが、宝永四年の富士山という事件でいちばん面白いところだと思う。噴火は災害の本体じゃなかった。ただの開始の合図にすぎない。
四十九日前に、海が持ち上がっていた
宝永四年十月四日の昼過ぎ、日本列島の南側が一度にまとめて揺れた。今の暦に直すと一七〇七年十月二十八日、午後一時から二時ごろのことになる。東海道沖と南海道沖の震源域が時間をおかずに続けて動いた、南海トラフの連動型巨大地震だった。
推定規模はマグニチュード八・四とされてきたが、研究者によっては八・七、さらに九近くまで見積もる人もいる。東日本大震災が起きるまで、有史以来の日本で最大の地震という扱いを受けていた。揺れは畿内から四国、九州の東側まで届いて、震度六相当の範囲が数百キロにわたって帯状に伸びた。
津波が紀伊半島と土佐、それから大坂の市中まで入り込んだ。大坂では道頓堀や木津川をさかのぼった波が停泊中の船を押し上げ、橋を次々に落としていったという記録が残る。土佐では海岸線がそのまま沈降して、村ごと水の下へ入ってしまった場所がいくつもある。死者は二万人を超えた。倒れた家が六万戸、津波で流された家が二万戸。
地震の翌朝の卯刻には、富士宮あたりを震源とする強い余震が起きている。この揺れは富士山の直下に近い場所で発生したとみられていて、山とのつながりを考えるうえでは外せない一撃になる。海溝型の巨大地震が、内陸にある火山の足元を直接叩いた形だ。
南海トラフの巨大地震のあとに富士山が噴いた組み合わせは、記録に残る限りこの一度きりになる。ただし地震と噴火をつなぐ経路そのものは、地下の圧力変化としてきちんと説明がつく。正直、偶然で片付けにくい話だ。
巨大地震の揺れで地下の岩盤にかかる力の向きが変わり、マグマだまりの天井に亀裂が入った。出口を持たなかったマグマが上昇を始めたという筋書きが、今のところいちばん通りがいい。四十九日は準備期間だった。
東海道の宿場も軒並み潰れた。新居宿、白須賀宿、舞阪宿。浜名湖の周辺は液状化と津波で壊滅に近い状態になり、街道の機能が止まって江戸と上方をつなぐ動脈が数週間のあいだ死んだ。復旧の人足と資材が全国から集められている最中に、次の災害が来る。
潰れた宿場を建て直し、落ちた橋を架け替え、津波をかぶった田から塩を抜く。その作業がようやく軌道に乗りかけた十一月の末に、同じ地域の空から今度は砂が降ってきた。復旧のために集めた人と金が、次の災害でそのまま吹き飛ぶ。
海沿いの村が地震と津波で潰れ、内陸の村が噴火で潰れたので、駿河と相模には逃げ込む先が残らなかった。縁を頼って江戸へ出る者が増え、街道筋の人口が動いた跡が宗門改帳から読み取れる。村が薄くなっていく。
東海道が使えなくなった期間の物流の混乱は江戸の米価と油の値に直接跳ね返り、地震から噴火までの五十日足らずのあいだに江戸の物価はじりじり上がり続けた。災害は財布に来る。
この地震が四十九日後の富士山と、ほぼ間違いなくつながっている。地下のマグマだまりに巨大地震の揺れと地殻の変形が効いて、溜まっていた圧力が一気に動き出したとみる説が今のところ有力だ。震災の片付けが終わらないうちに、今度は山のほうが鳴り出した。
宝永四年という年は、間の悪さが極まっている。四年前の元禄地震の傷がまだ生々しく、宝永元年からの凶作で米の値が上がり、貨幣の改鋳で経済が軋み、幕府の財政は元禄の浪費で底が抜けかけていた。そこへ巨大地震と巨大噴火が、二か月足らずの間隔で重なる。
十一月二十二日、戸が鳴りはじめた
地震のあと、富士山の山の中では小さな地震がずっと続いていた。須山の村に残る記録には「一日の間十度二十度、少々の地震数知れず」という書きつけがある。同じ書付が「里には地震もこれ無く候」とも言う。つまり山の中だけが揺れていて、麓では誰も感じていない。今でいう火山性の群発地震だ。
マグマが上がってくるときは、岩盤を割りながら進む。割れる音と振動が、地震として観測される。当時の人にその理屈は分からなかったが、山で炭を焼く者や狩りをする者は、山が普通じゃないことを体で知っていた。
十一月十日ごろから、山麓で地鳴りが始まった。腹に響く低い音で、昼より夜のほうがよく聞こえる。犬が落ち着かず、鶏が時間外に鳴く。井戸の水が濁ったという話も、いくつかの村から出てくる。
十一月二十二日の午後になって、揺れを感じる範囲が一気に広がった。裾野、御殿場、沼津、箱根、小田原と順に有感域が伸びていき、夜に入ると百キロ離れた江戸でも揺れが感じられるようになる。強めの地震が数十回。その晩、山麓の人々は眠れないまま朝を待った。
山麓の豪農のなかには、この時点で荷物をまとめて逃げ出した者がいる。奉公人に暇を出し、家財道具を捨てて、縁者を頼って他郡へ移った家の記録が残っている。何かが来る。その勘だけで動いた人間が、結果として正しかった。
今なら気象庁が噴火警戒レベルを引き上げ、火口周辺への立ち入りを規制している場面にあたる。宝永四年の人々には、揺れの意味を翻訳してくれる道具が何ひとつ用意されていない。山が鳴っている。その一点だけが手元にあった。
富士山は今、二十四時間態勢の常時観測火山に指定されている。地震計と傾斜計と衛星測位が、山体のわずかな膨らみを秒単位で拾い続けている。宝永の山中で起きていた群発地震は、今なら数週間前からの警報の根拠になる。見える量が違う。まあ、当たり前ではある。
気象庁が出す噴火警戒レベルは五段階に分かれていて、富士山では入山規制から高齢者等避難、避難指示へと段階的に上がる。宝永規模の噴火に対して、麓の町が持てる時間は数日から数週間しかない。猶予は短い。
翌朝になっても、揺れは止まらなかった。
白い鞠が、山の腹から湧いた
宝永四年十一月二十三日、今の暦で一七〇七年十二月十六日。午前十時から十一時のあいだに、富士山の南東斜面が裂けた。
最初に見えたのは白い塊だったらしい。当時の記録には「白い蹴鞠のような形をしたものが転々と」現れ、「見ていると、だんだん大きくなり」と書かれた一節がある。噴煙が斜面から湧き出してくる最初の瞬間を、蹴鞠にたとえた。目の前で起きていることに与える名前を、まだ誰も持っていない。
裂け目からは三つの火口が順番に開いた。現在の宝永第一、第二、第三火口だ。研究では第二と第三が先にでき、続けて宝永山の丘が盛り上がり、いちばん大きい第一火口が最後に開いたとみられている。
山頂じゃない。標高二千三百メートル付近の横腹が裂けた。富士山の均整のとれた稜線に食い込んだあの傷は、天気がよければ東京の高いビルからでも見える。
南東の斜面が裂けた理由は、地下にある割れ目の向きで説明されている。富士山の下には北西から南東へ抜ける弱い帯があって、上がってきたマグマはその帯に沿って地表への出口を探す。宝永の三つの火口がほぼ一直線に並んだのは、その帯をそのままなぞったからだ。
山頂からではなく中腹の横腹が裂けるという噴き方は、富士山ではまったく珍しくない。山腹には過去の噴火で開いた側火山が百近く数えられていて、宝永火口はそのいちばん新しい一つになる。穴だらけの山だ。
宝永火口は、その側火口のなかでも飛び抜けて規模が大きい。ふつうの側火口は直径数百メートルの小さな穴で終わるのに、宝永だけが山腹を深く抉って三つ続けて開いた。桁がひとつ違う。
噴煙柱は初日に標高十五・二キロまで立った。成層圏を突き抜ける高さで、十六日間の平均をとっても十・八キロを保っている。噴出率は初日の最盛期で毎秒二千五百立方メートル。火口から半径数キロの範囲には、赤熱した火山弾が雨のように落ち続けた。
第一火口は直径が千三百メートル近い。深さも五百メートル近くえぐれていて、山腹に開いた穴としては日本でも最大級の規模になる。宝永山の登山道から縁に立ってのぞき込むと、底のほうは影になって見通せない。
縁に立つと、赤茶けた斜面が数百メートル下へ落ちていくのが見えて、草木が一本も生えていない。三百年経っても植生が戻らないのは、水を保てない粗いスコリアが厚く積もったままだからだ。傷がまだ新しい。
宝永火口の壁には噴火で吹き飛ばされた古い富士山の断面が露出していて、何万年ぶんもの溶岩と火山灰が縞になって重なっている様子を、登山道の縁から見上げられる。山の履歴書だ。
爆発が空気を押した振動――空振という――は、百キロ離れた江戸まで届いている。江戸にいた伊東志摩守の日記にこうある。「地は震へ申さず候へて震動間もなくいたし、家震へ、戸・障子強く鳴り申し候」。地面は揺れていないのに家だけが震え、戸と障子が勝手に鳴る。音というより圧力だ。
雷も鳴った。噴煙の中を火山雷が走り、夜になると火柱と赤く照らされた雲が箱根の山越しに見えたという。御厨の絵図に書き込まれた一行が、そのまま現場の音を伝えてくる。「宝永四年丁亥十一月廿三日午ノ上刻ニ地震ユリ冨士山雷乃如クナリ焼出デル事如斯」。雷の如くなり、と。
土屋伊太夫という人物の記録には「火石降りおち候事おびただしく」という表現が出てくる。火のついた石が降ってくる。屋根板を突き抜けて畳に刺さり、そのまま燃え上がる。雨や雪と違って、逃げ込む場所が屋内にない。
降ってくるものの温度が、この噴火の厄介さを決めている。火山弾や高温の軽石は、落ちた場所でそのまま火種になる。雨戸を閉めて家にこもるという、日本人が台風で覚えた対処がまるごと裏目に出た。
初日に降ってきた軽石は、手で持てないほどの熱を残したまま屋根板の上で燻り続けた。水をかけて消したところで、上からいくらでも新しいのが落ちてくる。消火という行為が成り立たない。
須走村で焼けた三十七軒という数字は、噴火の初日だけで出たものだ。そのあとに砂の重みで潰れた家を足していくと、村に立っていた建物はほとんど残らなかった。全滅に近い。
江戸の昼に、行灯を点けた
新井白石はこのとき五十一歳だった。甲府徳川家の侍講という立場から、まもなく将軍の側近として幕政の中枢へ上がっていく時期にあたる。その白石が自叙伝『折たく柴の記』に、噴火の日のことを書き残した。
「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也」。昨夜は地震があり、昼には雷のような音が鳴り、外へ出たら雪が降ってくるように見えた。よく見たら白い灰だった、という記述だ。
白灰は午後八時ごろにいったん止んだ。それから地鳴りと地震が続き、十一月二十五日になると今度は黒い灰が降り出す。色が変わった理由をきちんと説明できるようになるのは、二百五十年以上あとの地質学だった。当時の江戸の人間にとっては、ただ空から落ちてくるものの色が変わっただけにすぎない。
江戸の昼は暗くなった。白石は屋内で燭台に火を入れたと書いている。町では店先に行灯を点けたまま商売を続けた。屋根に積もった灰が時々ざらざらと滑り落ち、雨戸の溝に溜まって戸が動かなくなる。掃いても掃いても、上から同じだけ降ってくる。
江戸の人口は、このころすでに百万を超えていた。世界でも指折りの巨大都市が、火口から百キロの距離で二週間ぶんの灰を浴びたことになる。都市規模の降灰災害として、日本の記録に残る例はこれひとつだけだ。
灰が降っているあいだ、江戸では魚市も青物市も止まり、街道から入る荷が滞って物の値が跳ね上がった。屋根の葺き替えと畳の入れ替えの注文が一斉に出たので、職人の手間賃だけがしばらく高止まりする。灰で儲けた者もいる。
江戸の武家屋敷では、庭木の葉に積もった灰を落とすために奉公人を総出で動かした。それでも枯れる木が出たという記録が書き残されていて、灰が植物を殺すことは当時から経験として知られた。木から先に死ぬ。
十二月十七日の夜には、降った灰をわざわざ量った者がいる。一坪あたり三升五合。誰に頼まれたわけでもないのに、枡を持ち出して量って記録した江戸の町人がいたという話のほうが、数字より面白い。
積もった厚みは当時の文書で二寸から四寸とされる。現在の考古学調査では、白灰の上に黒灰が乗って合計で二センチほど。この数字が合わないのは、江戸の町が降った先から灰を掃き集めて捨てていたからだ。町人が自分で片付けた量が、地層からは抜け落ちている。
幕府は灰の後始末を、ほとんど町方に任せきりにした。町人が掻き集めた灰は空き地や堀端へ積まれ、雨が降るたびに下水溝へ流れ込んで詰まらせる。江戸の排水が灰で機能を落とした話が、方々の町の記録に出てくる。
この構図は三百年後の想定とそっくりで、今の首都圏でも下水管の閉塞が最初に出る被害に数えられている。掻いた灰を流すな、という注意が自治体の手引きに大きく書かれた理由がそこにある。江戸の失敗がそこで生きている。
呼吸器をやられる人が続出した。喉と目が痛み、咳が止まらず、寝込む者が町ごとに出た。荷を引く馬が倒れ、井戸の水が濁って飲めなくなる。白石は自分の目で確かめていないことは書かないと断りを入れた人物だが、その慎重な人が江戸の空気の悪さだけは記録に残した。
灰は現在の千代田区の遺跡から、平均粒径〇・数ミリの層として見つかる。練馬区では〇・〇五ミリまで細かくなる。細かい粒ほど遠くまで飛ぶので、遠方ほど層が薄く、粒が小さい。霞ヶ浦の湖底からも、鹿島灘の沖合の海底からも同じ層が出てきた。火口から百七十キロ、二百八十キロ。
これは何の知らせだ
江戸の町では噂がすぐに回った。四年前の元禄地震、この秋の巨大地震と津波、そして冬の富士の火。ここまで災害が続けば、原因を人間の側に探すのが当時の作法になる。
将軍綱吉の政治への批判が、灰に乗るようにして出てきた。生類憐みの令の理不尽さ、勘定奉行荻原重秀による貨幣の改鋳、元禄期の贅沢。天が怒っている、という言い方で人々は不満を口にした。直接の批判が命取りになる時代だから、落書や瓦版というかたちで噂だけが流れていく。
災害を政治の失敗と結びつける読み方は、この時代の標準装備だった。天が徳のない為政者を叱るという考え方が、朱子学と一緒に幕府の内側まで入り込んでいる。のちに綱吉の政治を厳しく批判することになる白石も、その枠組みの中にいた一人だ。
天変地異を為政者の徳に結びつける理屈は、批判の言葉を持たない人々が使える唯一の武器でもあった。灰が降ったという誰にも否定できない出来事を持ち出せば、幕政への不満をそのまま口にできる。噂が道具になる。
幕府の側もこの空気は分かっていた。噴火の直後から各地の寺社へ祈祷を命じ、被災地へ見舞いの使者を立てて、天の怒りを鎮める形の政治的な手当てを並行して進めている。祈祷も政策のうちだ。
富士はもともと神の山だ。八合目より上は富士山本宮浅間大社の管轄地として扱われてきた。祭神の木花之佐久夜毘売は火に縁の深い神で、燃える産屋の中で子を産んだという神話を背負っている。火の神話を持つ神の山が、本当に火を噴いた。神慮を測りかねた人々が浅間大社へ詣でて、祈祷を頼んだ。
それでも富士を拝む動きのほうは止まらなかった。角行を祖とする富士講は、十七世紀を通じて江戸の町人層へじわじわ広がっていた集団だ。宝永噴火の二十六年後には、食行身禄が七合五勺の岩屋にこもって断食し、そのまま入定する。江戸八百八講と呼ばれた大流行は、この入定を起点にして爆発した。山が火を噴いたという事件は、信仰を冷ますどころか逆方向に熱を上げている。
山麓の村では、もっと即物的な受け取り方をした。砂が降る、畑が埋まる、秣が取れない、馬が食えない。神罰かどうかを論じる余裕が、そもそもなかった。
浅間大社の側も無傷ではいられない。山頂部の支配を認められた神社が、その山の噴火を止められなかったという構図になる。参詣の客が減り、山役銭の収入が落ち、火口周辺の登山道が使えなくなった状態が何年も続いた。
須走口の登山道は砂に埋まり、再び人が通れるようになるまで何年もかかっている。山を拝む人間が減れば、山の周りで食っていた宿坊も御師も一緒に干上がる。信仰も経済で回る。
富士講の信者たちは、噴火で荒れた登山道の修復に金と人を出した。山小屋を建て直し、道標を立て直して、宝永以後の富士登山の基盤を自分たちの手で作り直してしまう。信心が道を直した。
須走村は、屋根だけ見えていた
火口から直線距離で十キロ足らず。須走村は噴火の最初の一撃をまともに食らった集落だ。
初日に降ってきたのは高温の軽石だった。屋根に落ちた時点でまだ熱を持っていて、藁葺きの屋根にそのまま燃え移る。村の七十六軒のうち三十七軒が焼けた。消しに行こうにも、空からは焼けた石が降り続けている。逃げるしかない。
須走は富士山の東口登山道の起点で、参詣の客を泊めて食わせる宿場町でもあった。夏になれば行者が列をなして登っていく道が、たった一夜で砂に埋まる。田畑と宿という村の生業が、二つ同時に消えた。
火が収まったあとは、今度は積もる番になる。降下物の厚さは一丈、三メートルを超えた。焼け残った家も、屋根に乗った砂の重みで柱が折れて順に潰れていく。
当時の書付に出てくる言い方がとにかく生々しい。「屋根少し見ゆる」。「村中焼、残家共砂に埋り」。
村の人口は六百八十人ほどだった。逃げた先の親類や寺で冬を越し、春になって戻ってきても、自分の家がどこにあったのか分からない。目印になる木も塀も井戸も、全部おなじ黒い斜面の下に沈んでいる。境界の争いすら起こせない。
須走の人々は麓の村や親類を頼って離散し、そこから何年もかけて少しずつ戻ってきた。戻った者が最初にやったのは、砂を掘って道を出し、両側に杭を打って家の場所を決め直す作業だったらしい。村を測り直すところから始めた。
須走は小田原藩領ではなく幕府領だった。被災後の救済も普請も代官所の裁量に委ねられ、隣り合う村とのあいだで扱いの差が出て、それがのちの訴願の火種になっていく。境界が運を分けた。
灰の下から掘り出された家財が、いまも小山町の資料として残された。焼け焦げた鍋、割れた擂鉢、炭化した柱の断片。三メートルの砂は、村の生活をそっくり密封して三百年ぶん保存してしまった。
中畑村の発掘では、火砕物の下に黒い砂が一・八メートルから二メートル、その下に薄い軽石の層が確認された。掘るたびに噴火の順番が断面として出てくるので、村の遺跡がそのまま記録装置になる。地面のほうが証言する。
発掘調査で宝永スコリアの層が見つかると、その上下で遺構の年代がはっきり切り分けられるので、関東一円の現場では宝永の砂がそのまま時計の針の役目を果たしている。災害が年代を刻んだ。
御厨と呼ばれた一帯――現在の御殿場市と小山町のあたりだ――では、五十八か村のうち三十九か村が激甚な被害を受けた。幕府が亡所と認定した村は、駿河と相模を合わせて五十九にのぼる。亡所というのは、年貢を取れる見込みが立たない土地という意味の行政用語だ。
調査記録の残る七か村では、よそへ出ていった戸数が全体の三十九パーセントに達した。人口の五十五パーセントが村から消えている。農耕馬にいたっては八十八パーセントが売られた。馬を手放すというのは、田畑を耕す手段を諦めるのと同じことを意味する。
食いつなぎは御助米だった。一人一日に米一合。今の茶碗で二杯ぶんに届かない量を、大人も子供も等しく分けた。
それでも配られるだけましな部類で、山北の皆瀬川村では噴火から一年半後に飢人が三百九十人を数えている。村の人口の六割だ。渡された扶持米は三十九石余り、計算すると一人につき一合を十日ぶん。
大御神村では、耕作できない土地が村高の九十九パーセントに達した。数字の上ではほぼ全滅に近い。復旧の人足を動かそうにも、まず飯を配らないと人が立ち上がれない状態が何年も続いた。
御助米の一合という量は、成人の一日の消費量のおよそ三分の一にあたる。生きてはいられるが、土を掘る力は出ない。復旧の遅れを人の怠慢のせいにできない事情が、配給の量そのものに刻まれている。
御厨の村では年貢の免除を願う訴状が何十通も書かれ、そのたびに代官所から人が来て田畑を検分していった。検分のたびに紙と人足の費用が村にかかるので、訴えること自体が貧しい村には重い。訴願にも金がいる。
駿河側の村々が幕府へ出した願書を読むと、書きぶりの細かさに驚かされる。砂を除く人足の数、必要な扶持米の量、開墾に戻せる見込みの年数まで並んでいる。村は数字で戦った。
十六日で止んだ
噴火は十二月八日の夜に大きな爆発をひとつ置いて、九日の未明に鳴動を終えた。西暦に直すと一七〇八年一月一日の未明にあたる。始まりから数えて十六日間。
音が止んだ朝、山を見た人々は形が変わっていることに気づいた。南東の横腹に、見たこともない赤茶けた丘がひとつ盛り上がっている。のちに宝永山と名づけられる高まりだ。山の輪郭が変わるという経験を、日本人はそれ以来していない。
噴火が続いた十六日のあいだ、直接の死者の記録がほとんど出てこない。高温の軽石が降り、家が焼け、屋根が重みで潰れたのに、人は間に合って逃げた。山の傾斜と、前日から続いた揺れが与えた時間のおかげになる。
これが真夜中に始まっていたら、話はまるで違っていたと思う。午前十時という時刻に噴いてくれたおかげで、須走の人々は自分の足で砂の降る斜面を下りきれた。時刻が生死を分けている。
同じことが現代の想定にも当てはまっていて、内閣府の試算は噴火の発生時刻や曜日によって首都圏の帰宅困難者の数が大きく振れると見込んでいる。平日の昼間に噴かれたときがいちばん厳しい。時間割の問題だ。
総噴出物は一・七から一・八立方キロ。岩石に換算して〇・七立方キロ。数字だけでは実感が湧かないので置き換えると、東京ドーム千四百杯ぶんの岩が二週間のあいだに空から落ちてきた計算になる。
降灰の厚みを地図に落とすと、火口から真東へ向かって伸びる細長い扇形が現れる。静岡県小山町では三百センチ積もった。神奈川県伊勢原市で三十センチ、千葉県市原市で八センチ。東京都文京区でも二センチある。冬の偏西風が、噴き上がったもののほとんど全部を関東平野の側へ運んだ。
三十センチ以上積もった土地は、灰を取り除かない限り耕作ができない。薪と炭を採る山も、馬の秣を刈る野原も同時に死ぬ。食料と燃料と現金収入が、一度にまとめて断たれる。農村の経済が一枚の砂で止まるという状況を、当時の誰も想像していなかった。
耕作に戻れるかどうかの境目は、だいたい三十センチだった。それ以下なら鋤き込んで混ぜてしまえるが、超えると掘って捨てるしか手がない。砂を捨てる場所も、運ぶ道も、運ぶ人手も足りなかった。
捨て場に困った砂は、畑の隅へ山にして積むか、近くの沢へ落として処理するしかない。沢へ落とした砂は次の雨で下流へ出ていくので、上流の村の片付けが下流の村の洪水を太らせる。厄介な連鎖ができた。
上流の村が砂を捨てれば下流が沈み、下流の村が堤を高くすれば上流が溢れる。酒匂川の流域では、村と村のあいだの水論が噴火のあと目に見えて増えた。砂が争いを生む。
この段階では、まだ誰も気づいていなかった。山の斜面に積もった大量の砂が、これから百年かけて少しずつ川を下ってくるということに。本当に厄介なのは、降った砂そのものより、降った砂の行き先のほうだった。
掘ると四枚の層が出てくる
地質の人間が宝永スコリアを掘ると、下から順に四枚の層が読み取れる。研究では第一ユニットから第四ユニットまで番号を振って区別する。層の厚さと粒の性質が、噴火の十六日間をそのまま記録している。
一番下は白い軽石の層だ。気泡が多く、全体に丸みを帯びている。初日の午前十時から午後四時ごろまでの噴出物にあたる。デイサイト質で、二酸化ケイ素の含有率が約七十パーセント。量は岩石換算で〇・〇五立方キロ。
二枚目は、緻密で角張ったスコリアの互層になる。十六日の夕方から十七日の午前中まで。組成は安山岩質で、量は〇・一二立方キロ。粒が硬く、角が鋭いので、これが屋根に降ってくると板を割る。
三枚目は玄武岩質の細かいスコリアだ。十七日の午前から二十五日の夕方まで、実に九日間かけて積もった層になる。噴火が強まったり弱まったりを繰り返した期間で、量は〇・一八立方キロ。九日間でこれだけ、という見方もできる。
四枚目も玄武岩質。二十五日の夕方から最終日までの短い期間に、密度の小さいスコリアが〇・三三立方キロも出た。全体の最大量が終盤に集中している。噴出率は毎秒千二百五十立方メートルまで戻っていて、終わりかけたと思った噴火がもう一度本気を出した形だ。
下から上へ、デイサイトから安山岩、そして玄武岩へ。マグマの成分が噴火の途中で入れ替わっている。地下のマグマだまりが三層構造になっていて、上のほうに冷えて分化したデイサイト質のマグマがあり、その下を高温の玄武岩質マグマが包み込んでいたと読む。玄武岩が下から突き上げ、上のデイサイトを先に押し出し、自分は最後に出てきた。
江戸で最初に白い灰が降り、二日後から黒い灰に変わった理由が、これだ。白石が屋敷の庭で見た色の変化は、地下数キロにあったマグマの断面図をそのまま空から見せられていたことになる。手のひらに乗せた灰の色が、見えない地下の構造を語る。
粒の大きさを測ると、火口からの距離がきれいに読み取れる。横浜のあたりで最大平均粒径が四ミリから八ミリ。神奈川と東京の県境まで来ると、一ミリ程度まで落ちてくる。
粒が小さいほど空中に長く浮き、呼吸器の奥まで入り込みやすくなるので、遠いから安全という話にならない。江戸で咳の病が広がったのは、そこまで飛んできた粒がちょうど吸い込みやすい大きさだったからだ。細かいほうが危ない。
現在の想定でも火山灰による健康被害は微小な粒子の吸入が中心で、呼吸器の持病がある人や高齢者に対しては外出の抑制とマスクの着用が最初の対策として並んでいる。三百年前と同じ話だ。
噴出物は南関東のほぼ全域を覆った。扇の軸は火口から真東。十二月の冬型の気圧配置が、この分布の形を決めている。もし同じ噴火が夏に起きていたら、灰はまったく別の方向へ飛び、別の土地が百年を失った。
噴出量の順に並べると、噴火の後半に重心がある。前半の二枚を足しても〇・一七立方キロで、後半の二枚だけで〇・五一立方キロに達する。終わりかけたと思わせておいて、最後の一週間で本体を吐き出した噴火だ。
噴火が始まって十日ほど経ったころ、いったん収まったと判断して山へ戻った村があったらしい。そこへ終盤の噴出が重なったので、片付けかけた畑がもう一度埋まるという間の悪いことが起きた。二度やられた村がある。
噴火の終わりを誰がどこで宣言するのかという問題は、今も解けていない。気象庁が噴火警戒レベルを下げる判断には長い観測期間が必要で、住民が畑へ戻れる時期は科学だけでは決まらない。終わりは、はっきり言って見えにくい。
翌年の夏、雨が降った
噴火が終わって半年あまり。宝永五年六月二十二日、西暦では一七〇八年八月八日。台風が関東へ入ってきた。
山の斜面に積もった砂には、根を張るものが何ひとつない。雨が当たれば、そのまま表面を滑って流れていく。細い沢が次々に詰まり、あちこちに小さな土砂ダムができていた。増水でそれが一斉に切れる。
灰が積もった斜面は、雨をほとんど吸わない。表面が固く締まって水を弾き、降った雨がそのまま表面流になって下っていく。山火事で森が焼け落ちた斜面とまったく同じ理屈で、雨量に対する流出量が跳ね上がった。
宝永五年の出水は、今でいう土石流にかなり近い性質の流れだったと考えていい。水より砂のほうが多い濁流が、家も木も巻き込みながら扇状地の上を滑っていく。泥の壁が来た。
足柄平野は、酒匂川が土砂を撒きながら流路を振り替えて広げてきた扇状地だ。宝永の砂は、その本来の働きを何十倍にも増幅させただけとも言える。地形が味方しない。
酒匂川が溢れた。上流にあった大口堤と岩流瀬堤が決壊して、灰まじりの濁流が足柄平野へ流れ出す。平野のおよそ半分が水をかぶった。水が引いたあとに残ったのは田んぼじゃない。一面の砂の原だ。
このときの土砂の量は、あとの研究で数字が出ている。酒匂川の流域全体に積もった噴出物は四億五千六百万立方メートル。流域面積五百九十七平方キロに対して、平均七十六センチという計算になる。支流の鮎沢川の流域では平均百六十一センチ、河内川で三十三センチ、本川沿いで四十八センチ。
川床が上がった。上がった川床のぶんだけ、相対的に堤防は低くなる。同じ量の雨で前より簡単に溢れるようになる。河川災害の理屈としてはごく単純で、単純だからこそ小手先では手の打ちようがない。毎年砂をさらっても、上流から同じだけ補充されてくる。
川床が上がるという現象は、地図の上ではほとんど見えない。堤防の高さは前のままなのに、川の底だけが年ごとにせり上がってくる。ある年を境に、平常時の水面が家の屋根より高い位置へ来る。
天井川と呼ばれる状態だ。いったんこうなると堤を高くする以外に手がなくなり、高くすればするほど切れたときの被害が深くなる。酒匂川は百年近く、この逃げ場のない循環の中にあった。
現在でも酒匂川の上流域には宝永の砂がかなりの量で残されていて、大雨のたびに少しずつ下流へ出てきているという見方を取る研究者もいる。三百年経ってもまだ終わっていない。
松田町の虫沢村では、虫沢川が土砂を吐き出して田畑を埋めた。翌年の年貢は免除されている。山北の皆瀬川流域では、五百七十八間にわたって道が土砂で通れなくなり、復旧に百五十一人の人足を要したという記録が残った。
川に名前がついた
正徳元年、一七一一年の秋。岩流瀬堤がまだ直らないうちに、次の出水が来る。大口堤が南側で切れ、酒匂川は新しい流路へ勝手に移った。足柄平野のど真ん中を、川が歩き出したかたちになる。
新しい流れは新大川と呼ばれた。呼び名がつくほど長く居座ったからだ。班目、岡野、千津島、壗下、竹松、和田河原。この六つの村をまとめて大口水下水損六ヶ村と言う。村があった場所の真上が、そのまま川底になった。
六ヶ村の人たちは、高台の御林などに小屋を建てて住んだ。仮住まいのつもりだったものが十五年続いた。年貢は取れず、田の境も分からず、村という単位が書類の上にだけ残る。帳簿には村の名があるのに、行ってみると川しかない。
水下六ヶ村という呼び名は、被害の構造をそのまま言い表している。大口の堤が切れると、その下流にある村が順に水を受ける。堤の一点が、六つの村の生死を握っていた。
大口という地名は、川が山から平野へ出てくるいちばん狭い場所を指している。水が一気に広がろうとする場所なので、堤にかかる力もそこで最大になる。要にあたる一点だ。
この一点を守るために、幕府は百年のあいだ繰り返し普請を命じた。そのたびに全国の大名や近隣の村から人足と資材を集めたので、大口の堤は江戸時代でも指折りの金食い虫になる。金を吸う堤だ。
洪水の段階を、研究者は四つの期に分けている。第一期は宝永五年から正徳元年まで、右岸側の村が集中して被災した。第二期が正徳元年から享保十六年まで、新大川が左岸の村を削り取った時期。第三期は享保十六年に川音川との合流点の三角土手が切れ、左岸流域が新しく水を浴びるようになる。第四期が享和二年、一八〇二年の出水から先だ。
被害を受けたのは酒匂川の流域だけじゃない。秦野の大根川では水腐れの田が四十九町に達し、排水が効かないまま永荒引の扱いが長く続いた。二宮の塩海川では川床が五尺、一・五メートルも上がっている。享保三年には中里村の村高の五十七パーセントが水腐れの認定を受けた。
町田の野津田村では、薬師池に土砂が流れ込んで七町歩の田の水源が落ちた。池の浚いが行われたのは宝永六年二月だ。秦野の菖蒲川でも享保三年九月に氾濫が起き、落幡村のあたりでは宝永五年から元文五年ごろまで水田の荒廃が止まらなかった。噴火から三十年を過ぎても、まだ終わっていない。
噴火から三十年、五十年、百年。降り積もった砂は、雨が降るたびに少しずつ山を下りてくる。一度に全部来てくれないところが、この災害のいちばんいやらしい性質だった。
被害の記録を年表にすると、ぽつぽつと切れ目なく点が並ぶ。大水があった年、なんとか持ちこたえた年、堤を直している途中でまた切れた年。何代にもわたって同じ作業を繰り返す暮らしが、足柄平野の標準になった。
村の文書を読んでいくと、洪水そのものより、洪水のあとに来る用水の不足を嘆く記述が目立ってくる。川床が上がって取水口の位置が合わなくなり、田へ水が入らなくなるからだ。渇きと氾濫が同居する。
四十万両はどこへ消えたか
幕府は動いた。宝永五年、全国の大名領と天領から復興のための資金を集めることを決める。諸国高役金と呼ばれる制度で、石高百石につき金二両を課した。日本中の領地に一律で掛けた、事実上の全国災害税だ。
集まった額が記録に残っている。『蠧余一得』によれば、宝永五年のうちに金四十八万八千七百七十両余りと、銀一貫八百七十目余り。当時の幕府の年間収入に匹敵する規模になる。集金の手際だけは実に見事だった。
諸国高役金は、金の集め方としても新しい仕組みだった。手伝い普請という形で個別の藩に工事を押しつける方式をやめ、石高に応じて全国から一律に課税する。災害を理由にした全国的な財源調達が、ここで初めて成立した。
集まった金は勘定奉行の荻原重秀の管理下に入り、そこから先の流れが史料の上で追いにくくなっている。幕府の金蔵へ入った時点で災害用と一般用の区別が消えるので、意図して流用したかどうかも判定できない。境目が見えない。
同じ宝永五年には宝永通宝という大型の銅銭が発行されていて、災害と財政難が重なった時期の通貨政策として評判がきわめて悪く、わずか一年ほどで流通が止まっている。金の話はまだ続く。
問題はここからになる。同じ史料によれば、被災地へ実際に支出された額は六万二千五百両余り。集めた金の一割三分ほどでしかない。白石の『折たく柴の記』は救済に十六万両を充てたと書いているが、その数字を採ったとしても集めた額の三分の一に届かない。
残りはどこへ行ったのか。幕府の一般会計へ流れたと見るのが、いちばん素直な読み方だろうと思う。元禄の改鋳で傷んだ財政を、災害の名目で集めた金が結果的に埋めた。被災地の村々はこの数字を知らない。もし知っていたら、訴願はもっと荒れた形をとったはずだった。
金の配り方にも偏りがある。相模の酒匂川流域には、堤の普請という形でそれなりの額が入った。駿河側の御厨は後回しにされた。
幕府から見ると、酒匂川の氾濫は江戸へ向かう街道と穀倉地帯を脅かす。御厨の畑は幕府の利害を直接脅かさない。冷たい計算だが、優先順位はそう決まった。
村々は黙っていたわけじゃない。代官所へ、勘定奉行へ、駕籠訴へと、訴願の段を一つずつ上げていった。幕府が重い腰を上げるきっかけは、たいていこの訴えの積み重ねのほうにあった。
訴願を主導したのは村の名主層と、その上に立つ組合村の惣代たちになる。村単位で願い出ても握り潰されるので、流域の村をまとめて一本の願書にする戦術が定着していく。数で押した。
政権そのものも代わった。宝永六年に綱吉が死に、家宣の代になる。白石が政治の中枢に入り、荻原重秀が失脚していく。担当者が入れ替わるたび、復興の方針が揺れて事業が止まった。被災から十年が経っても、最大の被災地である駿河側では本格的な復旧事業が始まっていない。
藩が土地を手放した
小田原藩は大久保家の領地で、石高は十一万三千石。その領地のうち、およそ六割が灰に埋まった。
藩主の大久保忠増は幕府の老中でもあった。自分の領地の惨状を、幕閣の一員として処理しなければならないという妙な立場になる。忠増が選んだのは、被災した村々を幕府へ返上することだった。
亡所として返地する。藩の側から見れば、年貢の取れない土地と、そこに張り付いてくる復旧義務をまとめて切り離す手になる。幕府の側から見れば、直轄領として一括で復興に当たれる形が整う。帳簿の上では合理的な処置に見えた。
ただ、村から見た景色はまるで違う。代々の領主が消え、顔も知らない遠い代官所の管轄になる。訴える相手が変わり、これまでの経緯を知っている役人がいなくなる。返地というのは、村の後ろ盾が一枚剥がれることでもあった。
大久保家は小田原の城を持ったまま、周りの村だけを失った形になる。城下の経済は周辺の村から上がる年貢と物成で回っている。土地を返上するというのは、自分の台所を自分で削る決断でもあった。
幕府は返された土地を直轄領として代官に預けたが、代官所の手は端から足りていない。領主が替わっても、実際に土を掘る人間の顔ぶれは同じままだ。看板だけが架け替わった。
返地された村々は、享保のころから少しずつ小田原藩へ戻されていく。ただ、戻ってきた土地は噴火前の生産力を持たない荒地のままで、藩にとっては負債を返されたのと変わらない。返り血を浴びた形だ。
幕府は災害対策の責任者を置いた。関東郡代の伊奈忠順が、砂除川浚奉行という役を命じられる。酒匂川に溜まった砂をさらい、切れた堤を直すのが任務だ。
伊奈家は代々、関東の治水を一手に引き受けてきた技術官僚の家系だ。利根川の東遷、荒川の西遷。江戸という都市が水に浮かばずに済んでいるのは、この一族が何代もかけて川を動かした結果になる。
忠順は関東郡代として利根川筋の普請を抱えたまま、富士山の後始末を上から乗せられた。現場は駿河から相模まで散らばっていて、見て回るだけで季節がひとつ過ぎていく。人手がまるで足りない。
小田原藩の米の収量が噴火前の水準へ戻るまで、九十年かかった。藩の財政は長く苦しいままで、影響は幕末まで尾を引いていく。御厨の生産力が戻るのにも八十年を要した。ようやく戻りかけたところに天明の飢饉が来て、御厨一揆が起きる。
駿府の米蔵を開けた男
伊奈忠順という名前は、御殿場と小山ではいまも特別な響きを持つ。
赤山陣屋を本拠にした関東郡代の家系で、利根川や荒川の付け替え普請を代々手掛けてきた土木の一族だ。忠順は被災地へ入って、酒匂川の砂除けと堤の修復を現場で指揮した。工事には被災した農民を雇い、日銭を払って食わせる。仕事を配ることがそのまま救済になると、この男は分かっていた。
畑の土を作り直す仕事にも手を出している。砂の下から元の耕作土を掘り起こし、あるいは砂と土を混ぜて、どうにか作物が育つ状態へ持っていく。一枚の畑を戻すのに何年もかかる、気の長い話だ。
忠順のやり方で目を引くのは、金を配らずに仕事を配った点になる。米だけ渡せばその場は凌げるが、翌月には同じ行列ができる。堤を積む仕事に賃金を付ければ、飯が食えて、しかも川の危険が減っていく。
今でいう公共事業による雇用の創出で、享保の改革より二十年近く早い時期に現場で試されていた。飢饉の救済と土木工事を一体で回す発想は、のちに幕府の標準的な手口として定着していく。先に現場があった。
忠順が現場で組んだ仕組みは、扶持米の支給と人足の動員を一本につなぐものだった。食えない村人を工事に雇い、進み具合に応じて米を配る運用が記録から読み取れる。人を遊ばせない。
ここからが伝説になる。駿州御厨の各地に伝わる話では、忠順は飢えた村々を見かねて駿府紺屋町にあった幕府の米蔵を独断で開け、一万三千石を配ったとされる。無断で御用米を出せば、ただでは済まない。目付に咎められ、罷免と切腹を命じられた――そういう筋で語られてきた。
裏づけになる記録は見つかっていない。公式には、復興事業の途中で病死したという扱いになる。死んだのは噴火から四年後。事業は完全に半ばで途切れた。
それでも村の人たちは忘れなかった。慶応三年、噴火から百六十年後に祠が建てられる。のちに須走へ伊奈神社が建てられ、忠順がそこに祀られた。大正期には従五位が追贈されている。米蔵を本当に開けたかどうかより、開けてくれると信じられる役人だったという記憶のほうが、村には大事だったらしい。
川崎宿の名主が呼ばれてきた
享保十一年、一七二六年。酒匂川の治水を任されたのは武士じゃなかった。川崎宿の名主、田中丘隅という男だ。休愚とも書く。
経歴が変わっている。宿場の名主として旅籠と伝馬を仕切りながら、五十歳で家督を譲って江戸へ遊学した。荻生徂徠の門を叩いて経世済民を学び、その勉強の成果を『民間省要』という書物にまとめている。唐の『貞観政要』を意識した題名で、現場から見た幕政の不備を並べ立てた。多摩川の取水が過ぎることへの批判まで書いてある。
この本が将軍吉宗の目に留まった。町奉行の大岡忠相が丘隅を拾い上げ、酒匂川の現場へ送り込む。百姓身分の男に幕府の直轄工事を丸ごと任せるという人事で、享保改革らしい思い切り方だ。
丘隅が現場でまずやったのは、川の癖を読むことだった。どこで水が跳ね、どこで渦を巻き、どの岸の土が抜けるか。宿場の名主として何十年も酒匂川の氾濫の報せを聞いてきた男には、机上の計算より現場の目があった。
工事の中身は地味で、しつこい。切れた大口堤と岩流瀬堤を、元より強く積み直す。川の流れを本来の流路へ戻すために、水の当たる角度を計算して堤の線を引き直す。石を詰め、杭を打ち、柳を植えて根に土を掴ませた。派手な技術は何ひとつ使っていない。
工事の記録を読むと、川を押さえ込もうとしていないのが分かる。水の力を正面から受け止めず、流れる向きを少しずつ変えて本来の川筋へ誘導する。
享保十一年、東西の堤が完成した。新大川へ逃げていた酒匂川が、十五年ぶりに本来の流路へ戻る。川底になっていた水下六ヶ村の土地が、ようやく地面に戻った。仮住まいの小屋を出て、元の場所へ帰った人がいる。
丘隅は、完成した堤に神を祀った。中国の夏王朝の禹。洪水を治めたことで知られる伝説の帝王だ。東堤に文命宮を置き、西堤にも祠を構え、堤そのものを文命東堤、文命西堤と名づけた。碑文は丘隅が書き、吉宗の命で荻生徂徠が添削し、大岡忠相が幕府を代表して検分に来ている。
禹を祀ったのは単なる形式じゃない。治水の思想そのものを引き受けるという宣言だった。文命という名は禹の別名から取られていて、堤に中国の聖王の名を冠するという発想そのものが、荻生徂徠の学問に触れた丘隅らしい選び方になっている。名前が思想を運んだ。
文命東堤と文命西堤は今も酒匂川の両岸に残り、堤の上には文命宮の社が建っている。毎年四月には文命祭が営まれていて、丘隅が仕込んだ維持の仕組みが三百年近く動き続けた形になる。祭りが堤を守った。
堤に名前と神を置いた意図は、はっきりしていると思う。工事は終わっても、維持は終わらない。毎年誰かが土を盛り、草を刈り、破れを繕わなければ、堤は必ずどこかで切れる。神社があれば祭りがある。
祭りがあれば人が集まる。集まれば堤を見る。祭祀を組み込むことで、丘隅は維持管理を村の年中行事へ変えてしまった。
丘隅は死の五か月前、武蔵国内三万石を預かる支配勘定格に任じられた。百姓から士分へ上がった珍しい例になる。ただ、堤の完成から五年後の享保十六年には、川音川との合流点の三角土手が切れている。彼の堤も万能じゃない。享保十七年からは川除け普請がまた始まった。
それでも新大川へ逃げた流路を元へ戻した意味は大きく、足柄平野の村の配置はこのときの線で固定された。現在の酒匂川が流れている場所は、丘隅が引いた線のほぼ上にある。地図が残った。
酒匂川の治水が一段落したあとも、足柄平野の村々は用水路の付け替えと溜池の造成を続け、川の水位が高いままでも田へ水を引ける仕組みを自分たちで組み直していった。水の道のほうを作り直す。
土を、裏返す
村の側も、ただ手をこまねいていたわけじゃない。山北の河村城跡の発掘調査で、面白い地層が出てきた。下から耕作土と黒土があり、上に数センチの白い軽石が乗り、そこへ黒いスコリア質の焼砂が厚く重なる。教科書どおりの順番だ。
ところが同じ遺跡の別の区画では、層の順番が丸ごと逆さになっていた。焼砂が下で、耕作土が上。自然の堆積ではこうならない。人間が掘り返した跡だ。
天地返しという。埋まった畑を一メートル以上掘り下げて、下にある元の耕作土を上へ、上に積もった焼砂を下へ、そっくりひっくり返す作業になる。重機はない。鍬と畚と人の腰だけでやる。一反歩を仕上げるのに何十人日かかるか、想像するだけで億劫になる。
天地返しは、今の農学から見ても筋の通った手法になる。下層にある養分を含んだ土を地表へ戻し、不毛な火山砂を下へ埋めてしまう。砂が排水層として働くので、うまくいけば元より水はけのいい畑ができた。
それを村ごと、何年もかけてやった。畑を一枚ずつ地面へ戻していく。宝永五年の記録には、伊勢の津藩に手伝い普請が命じられ、皆瀬川の掘割工事が行われた話も出てくる。皆瀬川を山北の集落の手前で酒匂川へ直接落とす、流路の付け替えだ。二十五年後には用水不足に対応する瀬戸堤も造られている。
ただ、この手が使えるのは砂の厚さが一メートル前後までになる。三メートル積もった須走のような土地では、掘り下げる先がそもそも見えない。村ごと場所を移すか、畑を諦めて山の仕事へ移るかの二択だった。
山の仕事というのは、炭焼きと材木の切り出しと、街道の荷を運ぶ駄賃稼ぎを指す。農地を失った村が林業と運送へ流れた結果、御厨や足柄の山村の産業構成がこの時期に大きく組み替わった。生業が入れ替わる。
皆瀬川村の記録は、復旧の速度を冷静すぎるほど正確に伝える。噴火直後の被災戸数は十二戸だった。三か月後には耕地の十五パーセントが「年々川成永引」と認定される。
毎年沢になって使えなくなる土地、という意味の言葉だ。一年半後には飢人が三百九十人。数字は年を追って悪くなっていく一方だった。
噴火の翌日より、五年後のほうが苦しい。十年後はもっと苦しい。この順序こそが、宝永の災害を分かりにくくしている。誰も死ななかった噴火のあとで、静かに村が消えた。
足柄平野の生産力が噴火前の水準へ戻るのは、十九世紀に入ってからになる。噴火を知らない世代が三代交代して、ようやく元の田んぼが揃った。その間ずっと、村は年貢の減免を願い続けている。
百年という時間は、災害の記憶が生きた証言から書類へ移りきるのに十分な長さになる。宝永の砂を直接浴びた世代が死に絶えたあとも、砂だけは田の下に残って次の世代の仕事を増やした。砂は世代を越える。
山は三百十九年、黙っている
宝永の噴火を最後に、富士山は一度も火を噴いていない。三百十九年になる。有史以来これほど長い静けさが続いたことは、富士山にとって普通の状態じゃない。
平安時代の富士山は、しょっちゅう火を噴く山だった。延暦十九年、貞観六年、承平七年と記録が続く。青木ヶ原樹海を作った貞観の溶岩流は北西の麓へ流れ下り、大きな湖をふたつに割ってしまった。
宝永噴火はそれとまるで性質が違う。溶岩を流さず、ひたすら爆発して火砕物をばら撒いた。同じ山が、時代によって違う噴き方をする。
富士山が三百年以上黙っている状態を、火山学では静穏期と呼ぶ。次の噴火がいつ来るかを当てる方法は、今のところ存在しない。分かっているのは、この山がまだ終わっていないという一点だけだ。
火山灰というものは、燃えかすの灰とはまったく別の物質だ。マグマが砕けて急冷したガラスの破片で、硬く、角があり、水に溶けない。機械の軸受けに入れば金属を削り、肺の奥に入れば出ていかない。
降灰の下で暮らすというのは、やすりの粉の中にずっといるのと変わらない状態を指す。自動車のエンジンも、鉄道の集電装置も、空調のフィルターも、灰を吸い込んだ時点で寿命が一気に縮む。機械のほうが先に参る。
二〇二一年三月、富士山のハザードマップが十七年ぶりに改定された。平成十六年版と比べて想定火口の範囲が広がり、溶岩流の到達範囲も拡大している。溶岩流は小規模、中規模、大規模の三段階で描かれ、火口の位置ごとに最短到達時間が示された。融雪型火山泥流のドリルマップも新しく整えられている。
降灰の想定は別に用意された。噴火が始まれば、火山灰は一時間から二時間で首都圏へ届く。風向き次第では、二週間のうちに新宿のあたりで十センチ積もるという計算になる。宝永噴火とほぼ同じ規模を置いた想定だ。三百年前の実績が、そのまま現代の被害想定の基準になっている。
降灰の厚さは、風向きひとつでまるで変わってくる。宝永と同じ冬型の気圧配置なら関東が正面から浴びるが、夏の南寄りの風なら甲府盆地や長野の側が被災地になる。噴火が起きる季節が、どの県が潰れるかを決めてしまう。
ハザードマップが溶岩流と火砕流と泥流を細かく分けて描いているのは、噴火の形が毎回違うからだ。貞観型なら溶岩が北西へ流れ、宝永型なら火砕物が東へ飛ぶので、備えるべき中身がまるっきり別物になる。同じ山で二種類ある。
二〇二五年三月、内閣府が首都圏における広域降灰対策ガイドラインを公表した。降灰の量によって四つの段階に分ける考え方をとる。微量から三センチまでは自宅で生活を続けられる。
三センチから三十センチで被害が小さければ、灰を掻き出して凌ぐ。同じ厚さでも被害が大きければ移動を考える。三十センチを超えたら、原則として避難。
各インフラの閾値が細かく決められている。鉄道は微量の降灰で止まる。レールと車輪の通電が灰に絶たれて、列車の位置を検知できなくなるからだ。〇・〇五センチで踏切が誤作動を起こす。線路の上に〇・五ミリの灰が乗れば、首都圏の地上路線は全部止まると思っていい。
電気は、雨が降っていれば〇・三センチで停電が出る。碍子の表面に濡れた灰が付着すると絶縁が落ちて、そこから漏電するからだ。火力発電所は六センチで運転を止める。空調の室外機は五センチで壊れる。
道路は乾いていれば十センチ、雨なら三センチで二輪駆動の車が走れなくなる。雨のとき〇・五センチ積もるだけで、平均速度が時速二十キロ落ちる。渋滞のせいじゃない。路面の摩擦そのものが変わるからだ。
水道は〇・二センチで濁度が上がり、一センチで緩速ろ過池の機能が落ちる。下水は雨水管が灰で詰まって、詰まった上流側から道路へ溢れてくる。降った灰が、雨と一緒に地下へ入って全部詰まらせる。
家そのものも危ない。乾いた灰なら四十五センチから六十センチ、濡れた灰なら三十センチから四十五センチで木造家屋が潰れる。灰は雨を吸うと重さが倍近くまで増える。宝永のとき須走村の家を潰したのと、まったく同じ力学が働く。
除灰の試算も出ている。噴火から三日目に重機を千台動かして、四日目の朝にようやく緊急輸送道路を二車線ぶん開けられるという計算だ。それが最速の想定になる。掻き集めた灰をどこへ捨てるかは、まだ決まっていない。
量の見当をつけておくと、話が具体的になる。十センチの灰が東京二十三区に均等に積もると、体積は六千万立方メートルを超える。四立方メートル積めるダンプで運ぶとして、単純計算で千五百万台ぶんになる。
しかも灰を積んだダンプが走るはずの道路が、その灰で使えなくなっている。除灰のために道を開けたいのに、道を開けるには先に除灰が済んでいないと動けない。順番が閉じてしまう。
首都圏の企業には、一週間分以上の備蓄と、テレワークへの切り替えと、代替拠点の準備が求められた。大きな屋根を持つ体育館や工場は、積もった灰の重さで抜ける。避難所として使うはずの建物が、真っ先に使えなくなる可能性がある。
降灰後の土石流も、ハザードマップに別立てで描き込まれた項目になる。宝永のあと足柄平野で百年続いたあれを、現在の防災計画はきちんと想定の内側へ入れた。三百年前の酒匂川が教科書になる。
並べてみると、どれも灰が止んだあとの話ばかりだ。三百年前と構図が動いていない。降っているあいだは誰も死なず、止まってから長い災害が始まる。
足柄平野の畑を六十センチ掘れば、あの黒い砂が今日も出てくる。金井島の地面の下には、まだ六メートルぶんが寝たままだ。
