続日本紀は「世の言い伝え」と書いていた
天平18年(746年)6月18日の条に、ひとりの僧の死が載っている。僧の名は玄昉。霊亀2年(716年)に学問のため唐に渡り、紫の袈裟を許され、天平7年(735年)に経論5000余巻と仏像を持って帰った人だ。帰国後は僧正に任じられ、宮中の内道場に出入りするまでになった。やがて僧にふさわしくない振る舞いが目立ち、時の人はこれを憎んだ、と条文は書く。
玄昉は、左遷された先で死んだ。世の人は「藤原広嗣の霊に害されたのだ」と言い伝えている。条文の肝は、この二文。
観世音寺の名は、この条に出てこない。落成式の語もない。空も雷も首も、一字も書かれていない。玄昉が筑紫に送られたことは前の年の記事にあるが、この条では「徙所」、移された先、という呼び方しかされない。
続日本紀の完成は延暦16年(797年)。玄昉の死から51年、広嗣の乱から数えれば57年後になる。撰者は藤原継縄や菅野真道らで、794年から3年かけて3回に分け、全40巻をまとめた。半世紀も前の死について、史官は当時の噂を「言い伝え」と断って書いたことになる。
広嗣の霊が玄昉を殺した。史書に載った形は、この一行だ。ここからが長い。まず、広嗣が何をしたのかを順に見ておく。
8月29日の上表文と、1万7000人の追討軍
広嗣は、藤原式家の祖である宇合の長男だった。父は天平9年(737年)8月5日に死んだ。疫病で藤原四兄弟が相次いで世を去った年で、広嗣の名が続日本紀に初めて出るのも、その9月28日だ。従五位下に叙された、という記事だった。
広嗣は歌も残している。万葉集の巻8に、桜の花を女性に贈った一首がある。「この花のひとよのうちに百種の言ぞこもれる」と始まり、花ひとつに言葉が百もこもっているから、おろそかにするな、と結ぶ。若い貴族の、気取った恋の歌だ。
天平10年(738年)4月に大養徳守、12月には大宰少弐になった。大宰府へ移されたこの人事は、左遷だったとみる説明が多い。理由は、挙兵のあとに出た勅の中で、天皇自身が語っている。都で親族を謗って乱したので、遠くへ移して心を改めるのを待った、というのだ。
謗られた親族は誰だったのか。広嗣の伯母に当たる皇太夫人の宮子だったとみる説がある。宮子は聖武天皇の生母で、長く塞ぎ込み、出産以来わが子に会えずにいた。天平9年(737年)12月27日の条は、玄昉が看病すると穏やかな境地になり、天皇との対面がかなったと記す。広嗣は、宮子と玄昉の仲を謗ったのだろう、という推定だ。
叔母の光明皇后を謗ったとみる研究者もいる。今昔物語集が語るのも、光明皇后のほうだ。誰を謗ったのかは、研究者の間で決着していない。
当時の政権は右大臣の橘諸兄が握り、唐から戻った玄昉と吉備真備が重く用いられていた。二人は天平7年(735年)に、同じ遣唐使の一行で帰国した仲だ。広嗣は天平12年(740年)8月29日に上表する。続日本紀によれば、時の政治の失敗と天地の災異を述べ、玄昉と真備を除くよう求める内容だった。
9月3日、広嗣が兵を起こしたと都に伝わった。朝廷は大野東人を大将軍、紀飯麻呂を副将軍に任じる。動員は東海、東山、山陰、山陽、南海の5道から1万7000人。召された隼人は24人。伊勢の神宮に幣が送られ、諸国には高さ7尺の観世音菩薩像と観世音経10巻をつくる命令も出た。
9月21日、額田部広麻呂が40人の精兵を率いて海峡を渡り、登美、板櫃、京都の3つの営を襲った。生け捕られた営の兵は1767人。広嗣方の鎮の長や大宰の史生は、この襲撃で殺されている。翌22日には勅使の佐伯常人と阿倍虫麻呂が、隼人24人と兵4000人を連れて渡海し、板櫃の営を押さえた。広嗣は遠賀郡の郡家に軍営を造り、烽火を上げて国々の兵を集めていた、と間諜は申し立てている。
9月29日、天皇は筑紫の官人と百姓に勅を出した。広嗣は小さいころから凶悪で、年を重ねて偽りが増した。父の宇合はいつも除こうとしたが、朕が許さずかばってきた、と勅は言う。広嗣を斬り殺して民を安んじた者には、無位の白丁でも五位以上を授けるとも約束した。
勅使は誰か、と広嗣は訊いた
決戦は10月9日の条にある。大将軍東人らの言上によれば、広嗣は1万ほどの騎を率いて板櫃川に着いた。川の西に陣を取り、隼人を先鋒に立て、木を編んで筏にして渡ろうとする。官軍は弩を射てこれを退け、勅使の常人ら6000余は川の東に陣を敷いた。同じ日の条には、天皇が東人に八幡神へ祈らせる詔も載っている。
官軍は、隼人たちに呼びかけさせた。広嗣に従って官軍に逆らえば、身が滅びるだけでなく、罪は妻子や親族にまで及ぶぞ、と。すると広嗣の軍の隼人たちは、矢を射なくなった。
常人らは広嗣を10回呼んだ。答えはなく、しばらくして広嗣が馬に乗って出てくる。勅使は誰か、と訊く。名を告げられると馬を下り、二度ずつ再拝した。
広嗣は言う。朝命に逆らうつもりはない。朝廷を乱す二人を除くよう請うだけだ。もし朝廷に逆らうのなら、天の神、地の神が罰して殺すだろう。
常人らは問い返した。勅符を渡して大宰府の役人を呼ぶために来たのに、なぜ兵を出して押し寄せたのか。広嗣は答えられず、馬で引き返した。隼人3人が川を泳いで降り、隼人20人と騎兵10人ほども官軍に来降したと、報告は結んでいる。
降った隼人は、広嗣の作戦も明かした。広嗣は大隅、薩摩、筑前、豊後の兵5000ほどで鞍手道を進む。弟の綱手は筑後、肥前の兵5000ほどで豊後から、多胡古麻呂は田河道から進む。三方から囲む策。ただ、板櫃の陣に着いていたのは広嗣だけで、綱手も古麻呂もまだ着いていなかった。
この場面は、官軍側の言上でしか読めない。広嗣の言い分は、勝った側が書き写した分しか残らない。それでも目を止めたい言葉が一つある。逆らうなら神が殺す、と広嗣は自分から言っているのだ。
板櫃川は、今の北九州市小倉北区を流れる。地元の市民センターの案内では、戦場は川の下流域とみられ、当時の川幅は500メートルほどあったという。
駅鈴を海に投げた
広嗣軍は崩れた。広嗣は船で五島列島の値嘉島へ渡り、そこから海を越えようとする。従者たちの申告によれば、船は東風を受けて4日走り、島影が見えた。船の上の者が「耽羅島だ」と叫んだ。今の済州島。
ところが、東風が吹いているのに船が進まない。1日1夜漂ううちに、急に西風が起きて船を吹き戻した。広嗣は自ら駅鈴を1口捧げて叫ぶ。我は大忠臣だ、神霊は我を棄てるのか、神の力でしばらく風波を静めたまえ、と。鈴を海に投げると、風波はかえって激しくなった。
船は色都島に着いた。10月23日、広嗣は値嘉島の長野村で、進士の安倍黒麻呂に捕らえられる。11月1日には、弟の綱手とともに肥前国松浦郡で斬られた。菅成以下の従者と僧2人は、大宰府に拘禁された。
ここで日付が引っかかる。天皇が「法のとおり処断せよ」と返した詔は、11月3日の条にある。広嗣が斬られたのは、その2日前だ。順番が逆じゃないか。
9月29日の勅は、広嗣を斬った者に位を与えると約束していた。筆者の見立てを書く。東人は都の返事を待たず、現地で斬ったのだろう。
乱の処分が決まったのは、翌天平13年(741年)正月22日。死罪26人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人。後世の解説には死罪を16人とするものもあるが、続日本紀の本文は26人だ。
玄昉が筑紫へ向かった年
乱のさなかの10月26日、天皇は東人らにこう伝えた。思うところがあって、今月の末にしばらく関東へ行く。時期ではないが、やむを得ない。将軍は驚くな、と。29日に伊勢へ出発し、年末には恭仁宮に入った。
行幸は乱の前から計画されていたとみる研究が、今は有力だ。都は転々とし、平城に戻ったのは天平17年(745年)5月だった。その745年に、出来事が重なる。
6月5日、3年ほど前に廃されていた大宰府が復活した。9月には天皇が重く病み、京や畿内の寺と名山で薬師悔過が行われ、賀茂と松尾の社に幣が捧げられた。かつて広嗣追討の勅使だった阿倍虫麻呂は、八幡神社へ幣を届けている。広嗣の乱のあとにも、天平13年(741年)閏3月に八幡神宮へ錦の冠や経が奉られ、「かねての祈りに報いた」と注される。
立命館大学の古代史研究者は、この八幡への奉幣を広嗣の乱と結びつけて考える余地を示す。ただ、あくまで推測の域を出ないと断っている。まあ、そのくらいの慎重さがちょうどいい。
11月2日の条は短い。玄昉を遣わして、筑紫の観世音寺を造らせた、とある。15日後の17日には、玄昉の封物が収められた。左遷と読まれるのは、この続きがあるからだ。
翌年6月18日に、玄昉は死んだ。続日本紀は死因を書かない。行橋市史は、広嗣の霊が勝手に動くはずはないとして、霊に仮託して玄昉を暗殺した人々がいたと読む。市史は、続日本紀によれば落成式で暗殺されたと要約する。念のため断っておくが、条文そのものに落成式の文字はない。
観世音寺の公式サイトは、746年6月18日を完成供養の日とする。玄昉が死んだ日と同じ日だ。ただ、続日本紀の条文に供養の日付はなく、文化庁の史跡の解説も、完成を745、6年ごろと書くにとどまる。太宰府市の文化遺産の解説は、供養の最中に怨霊が玄昉を空高く連れ去り、胴や手足がばらばらに落ちてきたと書いている。
墓と伝わる石塔は、講堂の西、道路を隔てた民家の脇に立つ。浮彫の宝篋印塔で、塔そのものは中世の作とされる。
続日本紀が書かれたころ、都は別の祟りに怯えていた
続日本紀の完成は797年。そのころ朝廷が恐れていたのは、早良親王の祟りだった。延暦4年(785年)、藤原種継の暗殺に連座して廃太子となった親王は、絶食して死んだ。その後、皇太子の発病、妃や生母の病死、疫病が続く。延暦11年(792年)には、神祇官の卜占をうけて、親王の墓を守る家が充てられた。
続日本紀は、この事件の記事に早良親王の関与を載せていない。関与を書いた部分は完成後に削られた、と説明されている。史書そのものが、祟りの時代の空気の中で手を入れられていたわけだ。
年表を並べてみる。740年に乱、746年に玄昉の死、792年に卜占、797年に続日本紀の完成、800年に崇道天皇の追号。ここから先は筆者の見立てだ。史官は、死者の霊が人を殺すという話を、笑って捨てられない時代に書いていた。「世の言い伝え」と断りながら一行を残したのは、そのせいかもしれない。
もう少し先まで追う。812年(弘仁3年)の最澄の願文には、崇道天王と並んで「松浦少弐霊」の名が出る。広嗣その人。乱から72年がたち、広嗣は祟る死者の列に加わっていた。
京都の下御霊神社や奈良の御霊神社も、広嗣を御霊として祀る。835年の官符は、肥前の弥勒知識寺の再興に当たって「国家を鎮め、逝霊を救わん」と述べる。
この弥勒知識寺には、天平17年(745年)に僧20人と水田20町が置かれたという。広嗣の鎮魂の動きとしては、最も早いとみられている。玄昉の死の前年。行橋市史も、この年の措置と玄昉の派遣を結びつけ、玄昉の加持祈祷に広嗣の霊を抑える期待があったと「考えることもできる」と書く。
筆者の見立てを足す。供養は、玄昉の死より先に始まっていた。もしそうなら、広嗣の霊が玄昉を殺したという話は、松浦ですでに根づいていた供養の上に、あとから乗った説明ということになる。
玄昉の死の3日後、広嗣の弟は越前守になった
玄昉の死の条の、すぐ次の条は人事の記事だ。6月21日、藤原宿奈麻呂が越前守に任じられている。広嗣の弟で、のちに良継と名を改める人だ。乱のあとに伊豆へ流された一人で、この年の4月に従五位下に叙されたばかりだった。同じ日の人事には、越中守になる大伴家持の名もある。
偶然かもしれない。条文は、二つの記事の関係に何も触れていない。
宿奈麻呂の後半生は、別の意味で目を引く。770年、称徳天皇の崩御のあと、吉備真備が推した文室浄三や大市の立太子に反対し、白壁王、のちの光仁天皇を立てた側にいた。名を良継と改め、内臣から内大臣に進んで、777年に没した。兄が除こうとした真備と、30年たって再び向かい合ったわけだ。
娘の乙牟漏は桓武天皇の皇后となり、平城天皇と嵯峨天皇を産んだ。広嗣は、二人の天皇の外祖父の兄に当たる。
812年の最澄の願文に「松浦少弐霊」の名が出るのは、嵯峨天皇の世だった。ここからは筆者の見立てだ。斬られた逆賊は、いつのまにか天皇の血筋につながる祖先として弔われる側に移っていたのかもしれない。根拠は年表だけで、そう書いた史料があるわけではない。
扶桑略記は「国史」と書き添えて、二文を足した
扶桑略記は、延暦寺の僧皇円がまとめた歴史書だ。1094年までを記すので、成立はそれ以後になる。玄昉の死の記事は、広継の亡霊に命を奪われた、広継の霊は今の松浦明神だ、と書き、「国史」から引いたと注を付ける。
続日本紀の現行の条文に、この二文は見当たらない。「世の言い伝え」が、いつのまにか「亡霊に命を奪われた」に変わっている。しかも、霊の行き先まで決まっている。
続けて扶桑略記は、「流俗相伝」として別の話を載せる。観世音寺の供養の日、導師の玄昉が腰輿に乗って供養していると、にわかに空から身をつかまれ、消え失せた。後日、その首が興福寺の唐院に落ちていた、という。
今昔物語集の巻11第6話は、さらに絵を足す。広継は、午前は都で右近少将、午後は筑紫で大宰少弐を務めた。家は肥前の松浦にあり、空を駆ける竜馬を持っていた。追われて竜馬で海へ出るが、馬は飛べず、馬ごと海に入って死ぬ。東人は浜に打ち上げられた遺体の首を切り、都へ献上した。
続日本紀では、捕らえられて松浦で斬られた人だ。今昔では、海に沈んで首だけが都へ行く。
悪霊となった広継は、赤い衣に冠をつけた姿で玄昉の前に現れ、玄昉をつかんで空へ昇り、散々に引き裂いて落とした。弟子たちが拾い集めて葬ったという。霊はなお鎮まらず、天皇は吉備大臣を墓に遣わす。真備は陰陽の術で身を固めて宥め、霊は神となった。それが鏡明神だという。
ここで目を止めたい点がある。今昔では、広継は吉備真備を師として学んだ人になっている。実際の広嗣は、上表で真備を除こうとした側だ。敵が師に変わり、霊を鎮める役に回る。話が育つうちに、配役まで入れ替わった。
平家物語の巻七と源平盛衰記は、唐の人が玄昉の名を「かえって亡ぶ」と聞き取って笑った、という話まで付ける。平家物語の本文を引いた資料では、乱を天平15年、玄昉の死を天平16年6月18日と書いている。18日だけは続日本紀と合う。
奈良文化財研究所の報告書は、玄昉が五体を引き裂かれて南都の各所に落ちたという伝説を、元亨釈書、扶桑略記、源平盛衰記、平家物語が記すとまとめる。ただし、頭の落ちた場所は、興福寺の唐院、南大門、西金堂と、書物によって一致しない。
頭塔は玄昉の頭を埋めた塚と呼ばれてきた
奈良市高畑町に頭塔がある。土を段に積んで石仏を並べた塔で、国の史跡だ。奈良県の案内は、かつて玄昉の頭を埋めた墓という伝承があり、それが名の由来とされてきたと説明する。
首塚の説は古い。奈良文化財研究所によれば、大江親通が1106年と1140年に南都を巡礼した記録とされる七大寺巡礼私記までさかのぼり、当時の姿を「十三重大墓」と書いた。説は江戸時代まで根強く残る。1735年に完成した奈良坊目拙解は、遺骨が空から降ったのではなく、門弟が持ち帰ってひそかに埋めたのだと解釈している。
実際の頭塔は、東大寺の僧実忠が神護景雲元年(767年)に造った土塔だというのが定説だ。根拠は東大寺要録の記事にある。発掘では、その下にもう1つ古い層の土塔が見つかり、正倉院文書から、天平宝字4年(760年)に別の人物が造ったものと判定された。玄昉の死の14年後だ。
奈良町には、肘塚という地名もある。眉目塚と呼ばれた場所もあった。どれも、玄昉の体を埋めたところだと言われたことがある。
新薬師寺の西隣には、広嗣を祀る南都鏡神社がある。コトバンクに載る社伝は、大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守として祀ったのが始まりで、広嗣の怨霊を鎮めるために肥前の鏡神社を勧請したという。頭塔も、同じ新薬師寺の西方にある。
鏡神社の由緒書きには、年が二つ書いてある
唐津市の鏡神社には、広嗣を祀る二ノ宮がある。境内の由緒書きは、広嗣が松浦郡で亡くなったあと、霊威がしばしば現れて災害が頻りに起こった、と書く。そこで肥前国守の吉備真備が勅を請い、鏡と無怨寺の2か所に廟を建てて霊を祀った、という筋だ。
祭神そのものも、書物によって違う。日本歴史地名大系は、以呂波字類抄と松浦廟宮先祖次第并本縁起が広嗣を祭神とし、十訓抄や古今著聞集は松浦佐用姫を祀るとしている、と整理する。
ところが、年が合わない。同じ由緒書きは、二ノ宮の創立を天平17年(745年)とする。一方、本文の終わりでは「時に天平勝宝2年」を宮創立の始めとする。5年の開きが、1枚の板の中にある。
浜玉町の大村神社の案内板には、さらに別の年が出る。真備は天平勝宝4年(752年)に、当地へ無怨寺を建てたという。同じ案内板は、広嗣の逝去を天平12年10月15日と書き、荒天のため大村の里に漂着して斬られたと書く。続日本紀では、捕らえられたのが10月23日、場所は値嘉島の長野村で、斬られたのが11月1日だ。
745年に真備が肥前で寺を建てた、という書き方にも無理がある。松浦廟宮先祖次第并本縁起は、真備が勅により弥勒仏像を造り、天平17年に廟殿2宇を建てたのが神宮知識無怨寺だと伝える。ただ、この縁起は脚色や誤りが多い史料と評されている。
真備が筑前守から肥前守に移されたのは、天平勝宝2年(750年)だ。745年の真備は、都で皇太子に学問を講じる春宮大夫の職にあった。筆者の見立てを書く。のちに肥前守となった真備の名を、あとから745年の寺の話に重ねたのかもしれない。
真備の左遷は、広嗣の怨霊を鎮めるためだったともいう。藤原仲麻呂が真備を遠ざけるために、怨霊を口実にしたのだとする説もある。玄昉の死から4か月後の746年10月、真備は吉備朝臣の姓を賜っている。その後は遣唐副使に任じられ、大宰府で城を築き、右大臣まで上って775年に没した。祟りの標的だったはずの人が、鎮め役に回って長生きしている。
板櫃川の側にも、広嗣の社がある。北九州市八幡東区の荒生田神社で、案内板によれば、前身の明神社が板櫃川の戦いに敗れた広嗣の霊を祀った。創祀の時期は定かではなく、おそらく11世紀以降と推定されている。乱から260年以上たってからの話になる。九州で広嗣を祀る社は、唐津の2社のほか、佐賀県小城市と福岡市の鏡神社にもある。
