光背を切り落とした阿弥陀
松本市の和田境にある西善寺に、光背のない阿弥陀如来が座っている。
背負っているはずの光背を、誰かが切り落としたからだ。
松本市の文化財解説によると、清水の念来寺が廃寺になる前の晩、人々は仏像や什物を荷車で運び出した。
本尊は本堂に入りきらず、泣く泣く光背を切ったという。
念来寺は、明治の初めに廃寺となった。
運び先の西善寺がある和田境は天領で、松本藩の手が及ばない土地に、同じ宗派の寺があったわけだ。
念来寺から移った仏像や什物は、いまも西善寺で拝観できる。
では、松本藩の寺はいくつあって、いくつ潰れたのか。
松本城のガイドが使う資料は、松本市史の要約として、180か寺のうち140か寺が廃寺になったと書く。
ところが建築学会の論文は、164か寺のうち124か寺が廃寺になったと書く。
食い違っているのに、生き残った寺は、どちらも40か寺。
正直、16か寺の差の中身は、出どころを遡っても確認できなかった。
3月28日の布告に「壊せ」はなかった
慶応4年の3月は、新政府が神道を前に出した月だった。
13日に祭政一致と神祇官の再興、17日に別当や社僧の還俗が続く。
28日には、仏像を神体とする神社の改めを命じる布告が出た。
国立公文書館は、この28日のものを神仏判然令と呼び、本地仏や鰐口、梵鐘の取り外しを命じたものと解説している。
引かれる文面は、「早々取除キ可申事」で終わる。
取り除け。
壊せとも、燃やせとも書いていない。
数日後、比叡山のふもとの日吉社で、本当に壊す者が現れる。
旧暦の4月1日、社司の樹下茂国が、神威隊と呼ばれる神職の隊と坂本の村人を連れて神殿に入った。
滋賀県百科事典が引く史料では、焼かれたのは本地仏や経巻などの124点で、鰐口など48点の金具は社司の家に持ち帰られた。
人数にも食い違いがある。
百科事典は、雇われた農民100名を挙げる。
日吉社の歴史を論じた論文は、神威隊40人余に村人数十人と書き、焼かれた宝物は数千とも伝える。
史料の124点と論文の数千では、桁がまるで違う。
新政府は、4月10日に布告を出した。
神官が急に威勢を得て、表向きは趣旨に従うと言いながら、実は私憤を晴らしている。
仏像を取り除くにも、いちいち伺い出よ。
粗暴の振る舞いは曲事とする。
東白川村が公開する年表も、この日に排仏の行き過ぎを戒める布告が出たと記す。
止めに入った形跡は、確かにある。
ここからが肝心なところだ。
布告は一本でも、受け取る側は府と藩と県でばらばらだった。
壊す速さも、壊す理由も、土地ごとに違った。
1066という数字は18世紀の帳面から来た
薩摩藩は、領内の寺が全部消えた唯一の例として語られる。
南日本新聞の連載は、黎明館の研究者の言葉として、すべての寺が消えたのは鹿児島だけと伝える。
数字はいつも決まっている。
1066か寺、僧侶2964人。
連載も、国家神道を論じるページも、この組を引く。
ところが、1616か寺と書く本もある。
ウィキペディアの廃仏毀釈の項がそうだ。
差は550か寺。
どちらかが間違っている。
2026年に、黎明館の研究者が『廃仏毀釈はなぜ起きたのか』という本を出した。
読書ブログの書評によると、1616は1066の写し間違いだという。
しかも1066は、幕末の数ではないらしい。
1772年から1780年のあいだにまとまった『通昭録』の数字を、市来四郎が幕末の数として写したとみられる。
市来は、廃仏を進めた側の中心にいた人だ。
後年の談話が、根本史料になってきた。
その数字の元が、18世紀の帳面だったことになる。
文化年間の記録には、本土の寺が1840か寺とある。
書評は、寺と数えられた中に小さな堂が混ざっているのではないかと疑う。
地蔵が一体あるだけの堂は、寺なのか。
数える人の定義で、答えが動いてしまうんだよな。
廃寺の年も、通説より長引いた。
書評が紹介する廃寺年表は、年の分かる419か寺を並べている。
慶応3年が105か寺、明治2年が130か寺、明治3年が48か寺、明治4年が8か寺。
明治2年に終わったと言われてきたが、4年までかかった計算になる。
鹿児島県の解説は、徹底された理由を三つ挙げる。
寺と民衆の結びつきの薄さ。
僧侶の暮らしの保障。
寺から得た財源は、軍備に回された。
黎明館の研究者は、寺請制度が機能しなかったことも要因に数える。
書評によると、薩摩の宗門手札は木札で、作るのは郷士の仕事であり、寺は一切関与しなかった。
寺が戸籍を握っていない土地では、寺をなくしても役所は困らない。
筆者の見立てだが、全廃へ踏み込めた理由の一つはここにある。
鐘は、先に銭になっていた。
書評によると、薩摩では文久2年から天保通宝と琉球通宝が鋳造され、材料には寺の梵鐘が使われた。
鋳つぶしの経験が、のちの廃仏の敷居を下げたと、書評は読む。
島津家の歴代の位牌は、福昌寺の墓地に埋められた。
塚には「列聖群霊旧牌」を合わせて埋めた塚、という意味の名がついた。
書評は、位牌を捨てることへの抵抗の表れと読んでいる。
県のページは、数年のあいだ藩内に寺は一つもなく、僧侶の姿もなかったと紹介する。
福昌寺の再興は、明治11年になる。
全久院の跡に建った学校
松本藩の廃寺は、手本から始まった。
明治3年8月、藩知事の戸田光則は、太政官に願書を出した。
内容は、自分は神葬祭に改め、菩提寺の全久院と前山寺を廃し、檀家も住職もいない寺は廃却したいというものだったと、建築学会の論文は書く。
全久院の跡は、そのまま学校になった。
その経過は、明治4年に病院として仮に使い、明治5年5月に筑摩県学の開校、明治6年5月に開智学校と改称。
願書は、住職の暮らしが立つまで家禄で支えるとも約束していた。
同じ論文は、松本城下の寺25件のうち21件が廃寺になり、6件が学校などに充てられたと数える。
論文の読みでは、財政の苦しい藩にとって、廃寺は学校の敷地と建物を一度に手に入れられる供給源だった。
信仰の話に見える出来事が、土地と建物の話でもあったわけだ。
念のため言うが、これは論文の読みで、藩の本音を示す文書を筆者が確かめたわけではない。
全久院は、のちに再建された。
場所は、やはり廃寺になった瑞松寺の跡だ。
寺の沿革によると、明治9年に再興の仲間が結成された。
新しい寺の創設は禁じられていたため、大町の青柳寺を移築して形を整えた。
苦肉の策。
15か寺の届出と、その外の二つ
苗木藩は、いまの岐阜県中津川市にあった小藩だ。
明治3年9月27日、藩は領内の廃寺を弁官に届け出た。
届出書には雲林寺、仏好寺、正法寺と寺名が並び、末尾に「通計十五箇寺」とある。
東白川村が公開する記録は、実際にはこの外にも潰れた寺があったと断る。
雲林寺の塔頭だった正岳院は、一坊として届出から外れた。
大沢村の蟠龍寺は、住職がすでに去っていて、事実上の廃寺だったから載らなかった。
15に2を足せば17になる。
ウィキペディアが17か寺と書くのは、この足し算なのかもしれない。
筆者の見立てにすぎず、17の数え方は確認できていない。
藩主遠山家の菩提寺、雲林寺の住職は、最後まで首を縦に振らなかった。
大参事は再三使いを出し、五人扶持で藩校の教師にするから還俗せよと誘ったと、同じ記録は書く。
断る理由は、歴代藩主の菩提を弔うため。
藩は折れた。
仏具と什器、金300両、遠山家歴代の位牌を持たせて、領外の法界寺へ送り出す形になる。
この廃寺を誰が動かしたのか、記録が割れる。
東白川村の記録は、9月3日に大参事の青山直道が住職たちを呼び出し、廃寺を申し渡したと書く。
ところが中津川市の苗木遠山史料館は、藩の政庁日誌に青山の記事がない期間を指摘する。
5月17日の東京出立から、10月8日の帰藩までだ。
史料館は、青山が東京の集議院に出ていて、7月から9月にかけての急展開の現場にはいなかったと読む。
9月3日に青山が申し渡したのなら、不在の期間とは合わない。
どちらが正しいのか、筆者には決められない。
旗振り役は青山だと語られてきたことだけは、確かだ。
次は売り立てだ。
神土村の常楽寺では10月27日から29日まで仏具の競り売りがあり、閏10月1日には鐘楼と梵鐘が尾張の寺へ売られた。
東白川村の年表に、そう載っている。
仏像の行方にも食い違いがある。
ウィキペディアの苗木藩の項は、ある寺で村人総出で取り壊し、仏像を焼いたという記録を引く。
同じ項が、後の言い伝えとして、仏像は焼かずに隠し、観音堂や他村の寺へ移したとも書く。
中津川市の史料館には、仏像を隠した場所と伝わる巨岩の「穴観音」の複製が展示されている。
九十九か寺が消えた島
隠岐の廃仏を進めたのは、藩の命令ではなかった。
龍谷大学の紀要に載った論文は、復活した公文派の政府、つまり島の庄屋と神職の独断だったと読む。
発端は、慶応4年の3月19日に、庄屋と神職に率いられた島民3000人余りが、松江藩の郡代を陣屋から追い出したことにある。
引き金は、山陰道鎮撫使の文書を郡代が先に開封したこと。
自治は80日あまり続き、5月10日に松江藩が陣屋を奪い返した。
廃仏が本格化するのは、翌年の3月以降だ。
明治2年の4月、尊攘派の真木和泉の弟、真木直人が権知事として着任した。
論文は、着任後に廃仏が本格化したとみて、真木が陰で後押しした面があったと書く。
面白いのは、島の側の言い分だ。
庄屋たちが裁判所に出した弁明書は、廃仏は少年たちが戯れにやったことで、庄屋が命じてはいないと述べる。
神仏分離令を理由に挙げない。
挙げたのは、外国船に備えて寺の鐘や家の鉄を集めたという海防の話だった。
結果は数字に残った。
消えた寺は99か寺。
還俗した僧は53人、島から脱走した僧は13人。
論文は、170町余の土地と約1500貫の梵鐘や仏具が取り上げられ、小学校や諸費用に充てられたとも書く。
記録に出る僧は合わせて66人で、寺の数より少ない。
住職のいない寺が、だいぶあったのかもしれない。
筆者の見立てだ。
明治12年以降に復興や移転、開基をした寺は、論文の数えで26か寺に及ぶ。
消えた99に、戻った26。
石仏を壊す者が相次いだとして、浜田県は明治3年の1月に、神仏の区別は廃仏の意味ではないと論したという。
島根県史の年表を写した個人のページに載る記事で、筆者は原本を見ていない。
行幸の前に参道が空いた
伊勢には、期限が先にあった。
宗教研究に載った論文によると、度会府は7月に置かれ、10月ごろから寺の整理が始まる。
整理が集中したのは、明治2年の3、4月までの短い間。
その2月に、府は天皇の神宮参拝に先立って、参道筋の仏閣や仏像を取り払えと布告した。
府の側の理屈は、神州に仏法は無用の長物だというものだった。
同じ論文では、明治2年3月の時点で、寺院259か寺のうち183か寺が廃寺で、残ったのは約3割とある。
ウィキペディアの伊勢の記述は、宇治山田で明治元年11月から翌年3月までに196の寺が閉鎖されたと書く。
全体の4分の3にあたるという。
196が4分の3なら、もとの寺は260か寺前後。
論文の259には近いが、廃寺の183とは13ずれる。
範囲か締め切りの日が違うのかもしれないが、確認できなかった。
その論文は、明治5年に僧侶の神前参拝が許されて、仏法を忌む理屈が曖昧になったとも書く。
行幸の前に空いた参道は、数年で理屈の方が先に崩れた。
ここまでの五か所を並べてみる。
薩摩は藩の財政と兵、松本は旧藩主が示した手本、苗木は国学に染まった藩士、隠岐は庄屋と神職、伊勢は天皇の参拝という期限。
壊した手は、毎回違った。
筆者の見立てでは、数字の食い違いは、数えた役所と時期が違うところから来る。
全国で一度に数えた記録は、筆者は確認できなかった。
二十五円か、二百五十円か
興福寺の五重塔にも、数字が二つある。
塔が売りに出され、買い手は焼いて金具だけ拾おうとしたが、延焼を恐れた近所の反対で止まったという。
この話の値段が、二十五円と二百五十円で割れている。
まず寺の事情から。
ウィキペディアの興福寺の項によると、慶応4年の春に僧たちは相次いで復飾を願い出て、春日社の新宮司になった。
明治4年に寺領が上知され、翌年には築地塀や堂宇の解体が相次いだ。
南日本新聞の連載は、奈良や京都の大寺で古仏が焼かれて金品を取られ、千年以上前の経典が土産物の包み紙になったと書く。
一乗院と大乗院という二つの門跡の門主も還俗し、それぞれ水谷川家と松園家を名乗ったと、ウィキペディアは書く。
明治4年1月に、旧一乗院の門跡邸が借用の名目で没収され、県庁として使われた。
主要な堂宇は学校や役所の庁舎に転用され、一乗院の跡はいま奈良地方裁判所、大乗院の跡は奈良ホテルになっている。
奈良時代からあった食堂と細殿も、明治7年に取り壊された。
国宝館が建ったのは、その跡地に昭和34年だ。
売値の出どころを並べる。
『明治維新神仏分離史料』の中巻に載る奈良の学者の談話は、二百五十円とする。
足場を組む金がないので火を放ち、金目の物だけ拾うつもりだったが、近所が危ないと見合わせたという。
同じ史料の別の報告は、二十五円と書く。
放送出版協会の本は、明治38年の新聞記事を引いて二百五十円とする。
『奈良市史』には、また別の話がある。
唐招提寺の末寺の住職が15歳のとき、師が5両で売りに出ていた塔を買った。
取り壊す金がなく、奉行所が15両で引き取ったという。
直接の見聞だが、物証はない。
奈良の歴史を扱うブログによれば、興福寺は公式には、塔の売却を伝承と見ている。
最初に活字になった年を考えてみる。
筆者が確かめられた範囲で、年の分かる最も古い出どころは明治38年の新聞だ。
事件の30年あまり後にあたる。
明治30年には古社寺保存法が公布され、宝物の売却と海外流出が禁じられた。
筆者の見立てでは、売られかけた塔が近所の反対で助かったという話は、売ってはならない宝という考えが定着してから広まったのではないか。
石地蔵を積んだ車と、竹槍の門徒たち
江戸時代の京都は、町の木戸ごとに石地蔵を置いた。
天明元年の『見た京物語』が、そう記す。
明治4年10月、京都府は路傍の堂や祠、地蔵の像を取り除けと布告した。
売れる堂祠は売って、代金は組の小学校へ納めよ、とも命じている。
宗教研究の廃仏毀釈特集に載った論文は、これを廃仏ではなく、開化政策と読む。
布告の文面にあるのは、ご利益があるというなら考えてみよ、という理屈だ。
地蔵のない町が必ず不幸なわけではなく、ある町が必ず安泰なわけでもない。
地蔵祭の禁止は、明治元年に槇村正直が命じたと語る話がある。
同じ論文は、その禁止令を他の史料で確認できず、明治4年の布告の誤りの可能性が高いとみる。
槇村が京都府に本格的に関わるのは、明治2年の4月からだ。
大阪府は、明治5年4月に路傍の地蔵堂の撤去を命じた。
同じ府は、道祖神を祭りたいという願いは聞き届けると、町の年寄に伝えていた。
仏教でなければ、道ばたに置いてよい。
線の引き方は、そんなところだ。
論文が引く明治5年8月の郵便報知に、大津の町の光景がある。
取り払った石の地蔵を車に積んで引いていくと、その前で線香や果物を供えて手を合わせる人がいた。
涙を流して「南無地蔵大菩薩」と叫びながら、後を追う者もいた。
京都の禁止布告が撤回されたのは、明治16年。
福井県史が引く史料に、石徹白の話がある。
明治2年4月27日の夜、村人が神社の前の河原で社内の仏像を打ち砕き、焼き捨てた。
その後、焼け跡から仏像の手や光背の焼け残りを拾って持ってくる人もいたと、史料は書く。
憤慨した村人たちは、その秋に京都の本願寺まで出訴した。
福岡県の遠賀町誌は、地元に廃仏の難はなく、神社と仏像が共存したと書く。
同じ町誌は、掘り出された線刻の石仏を、当時土をかぶせて隠したものと見る。
他地域の例として、石地蔵を小学校の土台や便所の踏み台に使った話も載せる。
罰を恐れて児童が便所に入らないので、教師が地蔵の上で用を足してみせたという。
この話の元の記録は、筆者は確認できていない。
三河の大浜で門徒が動いたのは、明治4年3月9日。
西尾市岩瀬文庫の展示解説によると、菊間藩の出張所が2月に寺の統廃合を下問した。
真宗の僧たちが詰問に向かった先で、群衆が庄屋宅を襲った。
大浜にヤソが出たという噂が走ったと、ウィキペディアは書く。
役人が1人死に、その年の暮れに、僧と門徒の2人に死罪の判決。
騒動のあと、藩は廃寺合併の方針を改めた。
福井藩は、明治4年2月8日付の弁官あての届書で、廃合寺は86件と届け出た。
福井県史は、北陸でもっともきびしかったのは富山藩で、それに比べると福井藩は比較的寛大な方だったと見る。
明治5年4月に教部省が置いた教導職は、敦賀県で793人。
うち僧侶が760人を占め、全国平均で神官が約6割だったのと、まるで逆の顔ぶれだった。
越前では、明治6年3月に3万人以上が一揆に加わったと、福井県史は書く。
護法一揆と呼ばれるこの種の騒ぎは、明治3年10月の多度津藩下騒動をはじめ10件ほどを数え、真宗の強い土地に集中した。
松本でも、城下に残った寺は真宗の4か寺だけだった。
松本城のガイド資料は、正行寺の住職が京都の本山から情報を得て、廃仏は藩の独断だと知り、圧力に屈しなかったと説明する。
台帳に写した仏像
国が数え始めたのは、壊したあとだった。
明治4年5月、古器旧物保存方の布告が出た。
滋賀県立公文書館の展示解説は、廃仏毀釈で仏像や文化財が壊され、売られ、海外へも出ていった結果だと説明する。
明治21年、宮内省に臨時全国宝物取調局。
近畿の宝物取調は21年から22年にかけて2度行われた。
ガラスの写真原板は、1484点。
文化遺産オンラインは、この資料を、今日へ続く文化財保護行政の基礎が築かれた過程を知る資料と位置づける。
数えたあとの行方は、像ごとに違った。
興福寺の西金堂にあった十大弟子像は奈良時代の作で、もとは10体の群像だった。
ウィキペディアの興福寺の項によると、4体が明治時代に寺の外へ流出し、寺に残るのは6体だけ。
外へ出た4体のうち、1体は関東大震災で焼け、残る3体は個人蔵、大阪市立美術館、東京藝術大学が持つ。
個人蔵の1体は、2014年にニューヨークの競売に出て、66万5千ドルで落札された。
明治30年6月に公布されたのが、古社寺保存法だ。
国立公文書館の解説によると、国は年5万円以上20万円以内の保存費を補助し、代わりに宝物の売却と海外流出を禁じた。
薩摩では、翌年の明治31年に、文化官僚の木脇啓四郎が廃仏の政策を「恐れ乍ら御失策と伺い奉る」と書いた。
書評は、こうした批判が書き残されるのは珍しいと添える。
