十二神将の胴の中にあった年号
2022年6月30日、延暦寺が発表をした。
焼けたと思われてきた仏像が、残っていた。
根本中堂の大改修に合わせて14体の仏像を初めて解体修理すると、うち8体の内部から「正慶元年」の墨書が見つかったのだ。
西暦なら1332年。僧の栄賢や仏師の頼弁の名も書かれていた。
問題の像は十二神将だった。
聖衆来迎寺の古文書には、1447年に京都の寺から延暦寺へ移したという記述がある。
1571年の焼き討ちで燃えたと、長いあいだ考えられてきた像だ。
延暦寺は、攻撃の前に像が山の外へ持ち出されて、災いを免れたとみている。
像は同じ年の夏、大津市歴史博物館で展示された。
根本中堂は信長の軍に全焼させられた、というのが通り相場になっている。
その堂の中の像が、実は無事だったんだよな。
焼け落ちた建物と、助かった中身。
この食い違いを頭に置いたまま、史料の数字を並べてみたい。
比叡山焼き討ちの死者は、三千人とも四千人とも言う。
手元の史料を並べると、数字は千から四千まで散らばる。
しかも、頭数を数えたと書く史料は、この記事で扱うものの中に一つもない。
数えた人が見えない。
聞き流された綸旨と、三井寺の屋敷
話は焼き討ちの二年前に戻る。
1569年、天台座主が朝廷に働きかけて、比叡山の寺領の回復を求める綸旨が出た。
概説書は、信長が寺領を横領したことが対立のきっかけだったと指摘する。
信長はその綸旨に従わなかった。
1570年の夏、摂津で三好勢と戦っていた信長の背後を、近江から南下してきた浅井長政と朝倉義景の軍が突いた。
両軍は比叡山に立てこもる。
これが志賀の陣。
最後は天皇の調停で和睦したが、山門との和睦は成らなかった。
宇佐山城を守っていた森可成が討ち死にしたのも、この戦いの中だ。
可成の遺骸を夜にまぎれて運び、葬った寺がある。
坂本の北にある聖衆来迎寺で、可成の墓は今も境内に建つ。
フロイスは、比叡山の僧が浅井・朝倉の軍に食料と宿を出して助け、信長の敵に回ったと書いている。
信長にとって、山門は敵に肩入れした相手。
1571年9月1日、信長は近江の一揆の城を攻めた。
概説書は、志村城だけで六百七十の首が挙がったと書く。
比叡山の数字より、ずっと細かい。
9月11日には、三井寺の山岡景猶の屋敷に陣を置いた。
三井寺は、延暦寺と長く争ってきた寺だ。
火種は古い。
宿所をそこに選んだことを、ある歴史家は対立の表れとして指摘している。
延暦寺は黄金三百を、堅田は二百を贈って、攻撃の中止を願った。
信長は受け取らず、「金のために来たのではなく、彼らを徹底的に罰するために来た」と答えたと、フロイスは手紙に書いている。
焼く側に回った例は、延暦寺にもある。
1536年の天文法華の乱では、延暦寺の僧兵が京都の日蓮宗の寺を焼き討ちにした。
山門は、傷つけられるだけの被害者ではなかった。
そう言い切れる材料が、史料のうえにはある。
「一宇も残さず」と書いた人
『信長公記』は、焼き討ちの当日を堂々と書く。
「根本中堂、三王廿一社を初め奉り、霊仏、霊社、僧坊、経巻、一宇も残さず」焼き払った、という書き方だ。
火は雲霞のように一時に回り、あたりは灰燼の地になったとも続く。
逃げた人の様子も細かい。
山の下の老若男女は、取るものも取りあえず、裸足で八王子山へ逃げ上り、日吉社の社内に逃げ籠った。
織田の兵は四方から鬨の声をあげて攻め上り、僧も俗人も子どもも、一人ずつ首を斬って信長の目にかけた。
命乞いの声にも許しはなく、「数千の屍、算を乱し」と原文は閉じる。
数字の書き方に目を向けてほしい。
原文は「数千の屍」と書き、捕らえた美女や幼い者については「其の員を知らず」と書く。
筆者の見立てでは、牛一は人数を数えていない。見た目の凄惨さを「数千」という語に預けたのだと思う。
では、書いた太田牛一はいつ書いたのか。
牛一は信長の旧臣で、信長の死後は丹羽長秀、のちに秀吉に仕えた。
『信長公記』はその頃の手元の記録をもとに編まれたと見られ、原本の成立は江戸時代の初め、慶長の初めごろとみる研究がある。
自筆本は京都の建勲神社と岡山大学の池田家文庫にあり、どちらも重要文化財だ。
建勲神社本は牛一の最終稿本と推測されている。
焼き討ちから約三十年。
そのあとの文章になる。
池田家本は、牛一が晩年まで手元に置いて手を入れ続けた本だと、明智継承会は紹介する。
筆者の見立てでは、当日の描写もその三十年のあいだに整えられた余地がある。
もう一つ、気になる並びがある。
前の年、信長は山門に条件を示したと『信長公記』は書く。
味方をすれば山門領を返し、中立を守るなら見逃す。どちらも守らなければ、根本中堂と山王二十一社を初めとして、ことごとく焼き払う、という内容だ。
予告に出てくる根本中堂と山王二十一社という建物の名が、結果の描写でも同じ順で並ぶ。
同じ順、同じ顔ぶれ。
予告の語句を、そのまま結果の描写へ運んだような並びだ。
筆者の見立てを書いておく。
予告と結果が同じ語順で閉じる話は、物語として締まりすぎている。
牛一は、あとから出来事の形を整えたのかもしれない。
僧が魚鳥を口にして淫乱だったという、焼く理由の説明がある。
それも信長の死後に書かれた文章で、焼き討ちを正当化する筆づかいだと指摘する研究者がいる。
遠くで書かれた数字、三、四千と千五百
現場から離れた場所で書かれた日記を見る。
奈良の興福寺にいた多聞院英俊は、その日の日記に書いた。
「比叡山、和邇、堅田、坂本、悉く信長より放火了と云々、実否これを知らず」。
黒煙が見えたという話は届いても、確かめようがなかった。
数字は、まだ出ない。
京都の公家、山科言継の日記は具体的だった。
夜明け前に織田弾正忠が堅田から上坂本を破って放火し、日吉社が残らず燃えた、と書く。
山上の東塔、西塔、無動寺も残らず放火された、とも続く。
山の衆は残らず討ち死にして、僧も俗人も男女三、四千人が斬り捨てられた、とも同じ日の記事に書いた。
「仏法破滅」「王法いかにあるべきや」という嘆きまで添えてある。
三、四千という数字は、この日記に出てくる。
大津市教育委員会の担当者が2021年に書いた紀要は、言継は現場にいたわけではなく、京都で耳に入った比叡山の惨状を、そのまま日記に記したのだと読む。
数が討たれたという話は届いていても、実際の数は分からない、とも書く。
言継の目に映ったのは、炎でなく噂。
その言継は、信長の入京も書き留めている。
日記は日付に細かい。
翌13日の巳の刻、信長は小姓衆と馬廻衆だけを連れて入京し、妙覚寺に泊まって将軍の足利義昭に会った。
概説書は、後始末は光秀らに任せたと書く。
宮中の女官の日記『御湯殿の上の日記』は、数を書かない。
概説書は、「ことのはもなき事」「天下のため笑止なること」と書かれたと紹介している。
言葉にならない、という反応だけが記録に残る。
沈黙も記録だ。
イエズス会のルイス・フロイスは、事件の数日後に手紙を書いた。
日付は1571年10月4日だった。
手紙は焼き討ちの日を「9月29日」と書くが、和暦の元亀2年9月12日を西暦に直すと9月30日になる。
一日のずれがあるのは、念のため頭に入れておいてほしい。
数は、こう書かれていた。
「千五百近くの仏僧が命を奪われ、それ以外の男女子供の俗人も同じ位の数が命を落とした」。
ただし書き出しは「私が聞いたところによると」だ。
解説には「フロイスの書簡は約1500人」と短く書くものがある。
手紙を読むと、僧が千五百で、俗人も同じくらいだ。
合わせれば三千になり、言継の三、四千と近い。
フロイスも言継も、現場から遠い場所で、人づてに聞いて書いた。
手紙には、『信長公記』にない場面もある。
抵抗の記述もある。
山上の僧は武器を取って抵抗し、およそ五十人の兵に傷を負わせた。
信長は鉄砲隊を出して、山や森に潜む僧を狩り出させた。
日本側の記録が描く「命乞いする者を斬る」図とは、少し景色が違う。
寺の数も揃わない。
手紙は、かつて建てられた寺を三千八百と書き、焼かれた寺は四百ほどと書く。
概説書は、言継の日記などを引いて「堂塔五百余棟」と紹介する。
現代の観光案内には四千五百という数字まで出てくるが、出どころは不明。
山の上で焼けていたのは二棟だった
発掘の話に移る。
1978年から、滋賀県教育委員会が東塔、西塔、横川で、建物の建て替えや道路の工事に合わせた調査を重ねる。
報告書は1980年から3冊出て、1981年には担当の技師が論文「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」を発表した。
結論は、思いのほか地味だった。
信長の火で焼けたと確かめられる建物は、根本中堂と大講堂の二棟。
二棟だけ、と軽く見ることはできない。根本中堂は、最澄が開いた一乗止観院の流れをくむ総本堂だ。
ほかの場所でも焼土層は出たが、焼き討ちよりずっと前に廃れた建物のものが大半。
出土品も同じ向きを示す。
全国文化財総覧の目録を見ると、東塔の調査で出たのは平安時代の骨壺と、経塚の銅の筒。
横川の調査でも、出てきたのは平安時代の経筒だった。
16世紀の遺物は少なく、坂本城の遺物と比べると差が目立つ。
ここで、焼き討ちの前の年の日記を開く。
元亀元年3月、焼き討ちの一年半前に、多聞院英俊は比叡山に登り、「堂も坊舎も一円はてきれたる体」と日記に書いた。
僧はおおかた坂本に下りて乱行不法が限りなく、学問も修行も怠られて「一山相果てる式」だと、みんなが口を揃えたという。
山の上は、信長が来る前から空き家が多かったらしい。
地形の見方を足しておく。
比叡山は標高848メートル。三塔は離れている。
延暦寺の三塔を歩いて回る観光ルートは、案内に片道およそ二時間四十分とある。
広い山を隙間なく攻めるのは無理だったはずだ、と先の紀要も書く。
放火は15日まで断続的に続いた、と書く概説書もある。
それでも、筆者の見立てでは「一宇も残さず」は誇張の度合いが大きい。
根拠は、焼けた建物が二棟しか確かめられていないことと、山上に人が少なかったという同時代の日記だ。
点の調査だ。
断っておくが、調査したのは限られた地点で、全山を掘ったわけではない。
小規模説には、反論もある。
2018年に出た『比叡山の僧兵たち』は、第一章の節に「焼き討ちはやはり大規模だった」と題を掲げている。
筆者が確かめたのは目次だけで、論拠の中身は未確認。
麓の坂本は燃えた
犠牲は、山の上ではなさそうだ。
『信長公記』が逃げ場所に挙げるのは、日吉社の裏にそびえる八王子山だった。
信長研究の概説書は、殺戮は八王子山を中心に行われたようだと書く。
八王子山は日吉大社の神体山で、標高は378メートルとも381メートルとも資料で揺れる。
山頂近くには奥宮がある。
麓の人々が手近な聖域へ駆け上がる動きは、自然に見える。
筆者の見立てでは、山上でなく麓の聖域に人が集まった結果が、八王子山の犠牲だった。
フロイスは、信長が最初に坂本の町を焼かせ、残っていた人々を撫で斬りにしたと書く。
1570年の志賀の陣でも信長は下坂本を焼き払っていて、坂本は延暦寺の荷が着く港町であり、僧の隠居所である里坊が並ぶ土地でもあった。
麓が焼かれる理由は、十分にある。
フロイスは、祭礼に使う七つの輿も焼かれたと書く。
山王七社の神輿のことと読める。
日吉大社は、全国に3,800ほどある山王さんの総本宮で、境内には約40の社がある。
日吉大社の山王祭は、いまも3月の神輿上げ神事から始まり、4月15日まで約一か月半続く。
焼けた神域は、祭りの形ごと再建されてきた。
麓には、焼け残った寺もある。
聖衆来迎寺には国宝の六道絵が伝わり、『来迎寺要書』には寺宝も人も事前に避難したとある。
情報は光秀の側から出たのではないか、と先の紀要は推測する。
可成を弔った縁がある寺だ、というのが根拠になっている。
ところが、掘ってみると話が割れる。
平成元年から翌年にかけて、坂本の里坊の跡に試掘の溝を入れた調査があった。
雑誌の記事によれば、延命院の境内からは、信長の時代の火災の痕跡がまったく見つからなかったという。
麓の町が全滅した、とは言いにくい結果だ。
一本の溝で町全体は語れない。
史料は麓の炎を何度も書き、発掘は一か所で焼け跡を見つけなかった。
どちらも事実として並ぶ。
この食い違いを埋める調査結果は、筆者の確認できた範囲では見当たらなかった。
坂本ケーブルの車内では、こんな放送が流れるという。
「大正末期、ケーブルを建設中に、土中から250体の石仏が見つかり」。
産経新聞の連載で、客員論説委員がそう書き、眼下の谷を「死の谷」と呼んだ。
石仏と焼き討ちを結ぶ根拠は、記事には示されていない。
八王子山で一千人と書いた人
当人の記録がある。
日吉社の社家、生源寺行丸が書いた『日吉社兵乱火災記』だ。
これまでの数字は、すべて外から聞いた話だった。
行丸は内陣にこもっていたところへ、織田方の兵が乱入した。
仲間とともに丸裸にされて放り出されたが、同じ織田方の下人が、坂本で奪った古い帷子を恵んでくれたという。
その軍勢にまぎれて逃げ、翌13日には仰木の陣屋から山中の小屋へ、そのあと伊香立まで落ちのびた。
数字が出てくる。
「八王子山の前後で討死は一千人に及ぶか」。
続けて、「多少は勘知せざるなり」、正確な数は把握していない、と添えてある。
ここまで四つの数字が出た。
牛一の「数千」は人数ではなく形容で、言継の「三、四千」は京での伝聞で、フロイスの千五百は聞き書きだった。
書き手が現場に一番近いのは行丸で、見積もりは八王子山の前後でおよそ千人になる。
筆者の見立てでは、どの数字も数えた結果ではなく、見聞きした印象の大きさを映している。
光秀が止めた話は、いつ出てきたか
信長の暴挙を光秀が必死に止めた、という話をよく聞く。
出どころは、どこか。
小説やドラマで繰り返された型だが、『信長公記』には出てこない。
諫める場面が現れるのは、小瀬甫庵の『信長記』のほうだ。
甫庵の本は慶長16年ごろに書かれ、元和8年に刊行された。
そこで諫めるのは佐久間信盛と武井夕庵で、「前代未聞の戦」という言葉が使われる。
光秀が諫めたという記事は『天台座主記』の異本にあり、先の紀要は、後世に付け加えられた記事であることは明白だと書く。
出どころは後世だ。
光秀本人の手紙が残っている。
焼き討ちの10日前、9月2日付で、雄琴の土豪に宛てた書状だ。
味方になった礼や恩賞の約束を書いたあとに、「仰木の事は是非ともなでぎりに可仕候」と続く。
仰木は、横川の麓にあたる土地だ。
もう一通ある。
1か月前の8月2日付で、草津の芦浦観音寺に宛てた書状だ。
「来る18日の殿様の御働きは必定」という趣旨で、信長が動く日を前もって知らせている。
この観音寺に、西塔北谷の僧、詮舜が身を寄せたと碑銘にある。
詮舜は31歳の回峰行者で、のちに秀吉との交渉役になる人物だ。
紀要は、光秀から観音寺、観音寺から詮舜へと、情報が先に流れたと推測する。
復興に駆けつけた僧を谷ごとに数えると、西塔北谷が突出して多い。詮舜の谷だ。
筆者の見立てを書く。
諫言の逸話は、のちに光秀が信長を討つ本能寺の変とつなげて読むと、光秀の動機を説明する材料として使いやすい。
手紙の事実の上に、後世の読み物が別の光秀を載せたように見える。
山門の側は、備えが薄かった。
紀要は、ある研究者の論考を引いて書く。
延暦寺の大衆は信長の予告をあくまで脅しと受け止め、日吉社や山上の堂舎まで焼く罰当たりはしないと見ていた、と。
十二神将を攻撃の前に出した者は、脅しだと思っていなかったのかもしれない。
焼き討ちのあと、信長は志賀郡を光秀に与えた。
光秀は坂本に居を構え、城を築いた。
信長は9月20日、岐阜に帰陣している。
諫めた者が褒美をもらったわけではなく、先頭に立った者が報われた、という流れだ。
ちなみに、築城の途中に気になる記録がある。
元亀3年12月、光秀は吉田兼和に、山王の敷地に城を普請したせいで美濃の親戚が病んだ、と相談した。
『兼見卿記』によれば、兼和は「山王敷地安鎮之札」を届けさせたという。
坂本の城は、山王の敷地にかかる場所に建った。
『天台座主記』には、天正7年の日吉大社の大宮再建に、坂本城主の浅野長吉が材木を寄附したとある。
ところが、そのころの坂本城主は光秀だった。
紀要は、光秀の名をはばかって浅野に仮託した記事ではないかと読む。
延暦寺にとって、光秀は恨みの的ではなかったらしい。
壊滅したことにしておくと、誰が得をしたか
信長が本能寺で倒れると、延暦寺の僧が戻ってきた。
天正10年11月、『天台座主記』は復興の動きを書く。
ここにも数字がある。
駆けつけた僧は、観光協会の解説では31人、紀要の表では32人と数が割れる。
施薬院全宗や詮舜らは、『比叡山再興勧進帳』をつくり、各地に寄付を求めた。
天正12年5月、秀吉は山門再興の判物を出し、一万貫を寄進した。
条件は、僧兵を置かないこと。
日吉大社の西本宮が天正14年に完成し、根本中堂は寛永19年に徳川家光の命で竣工した。
いまの根本中堂は、焼き討ちの71年後に建った堂だ。
平成6年には、延暦寺が世界文化遺産に登録された。
その堂は2016年度から大改修に入った。
内部の参拝は2026年1月から休止中で、再開は2028年1月の予定と案内されている。
復興の動きは、信長の生前にもあった。
日吉大社の天正7年の記録には、正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したが、信長がそれを押さえて止めたとある。
信長は、焼いた山を戻させなかった。
筆者の見立てを書く。
寄付を集める文書は、「全部を失った」と訴えるほうが効いただろう。
僧が復興のために描いた壊滅の絵が、大きな数字を長持ちさせたのかもしれない。
根拠は、復興が勧進帳を携えた寄付集めから始まったという、確かな順序だ。
信長の側にも得があった。
歴史雑誌の記事は、信長を大きく描きたい側にも虐殺の話は好都合だった、と書く。
江戸時代には、新井白石が『読史余論』で、残忍ではあるが天下に功のあることの一つだと評した。
長いあいだ、肯定的な評価が主流。
逃げきった僧のなかには、甲斐の武田信玄に庇護を求めた者もいる。
信玄は延暦寺の復興を企てたが、1573年に病死した。
焼き討ちのあと、延暦寺と日吉大社の領地は取り上げられ、光秀、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、中川重政に分けられた。
分け前は五つ。
延暦寺の側の変化も書いておく。
1970年、延暦寺の副執行だった僧が、山の機関紙で「新生比叡は信長に功あり」と書いた。
強い反発を受けたが、のちに執行になったその僧は、1992年に「元亀の兵乱殉難者鎮魂塚」を建てた。
毎年9月12日には、犠牲者と並んで信長も供養されている。
駅前に置かれた割れ鐘
坂本の生源寺は、最澄の生誕の地と伝わる寺だ。
西塔の里坊の筆頭にあたる寺でもある。
大津の観光協会の解説は、9月12日の早朝の話を伝える。
日吉大社の朝参りから帰る老人が、信長の軍勢が押し寄せてくるのを見つけた。
老人は坂本の人々に急を告げようと、生源寺の釣鐘を力いっぱい打ち鳴らした。
あまりに強く打ったので、鐘にひびが入り、音色が変わったという。
その鐘は、いま比叡山坂本駅前の広場に移されている。
