敗戦の翌年、この国には天皇が十九人いた。いや、数え方によっては三十人いたという説もある。冗談みたいな話だ。けれど当時の新聞を繰れば、こうした名乗りの記事がちゃんと活字になって残っているんだよな。
顔ぶれがまたすごい。名古屋の雑貨屋、三河の元住職、鹿児島の離島の神主、福島の山村の男。彼らはそれぞれ古びた巻物や言い伝えを抱えていた。そして自分こそが南朝の正統を継ぐ本物の天皇だと、名乗り出たわけだ。
騒ぎは派手に広がった。占領軍の機関紙が一面で報じ、大手紙が追いかけ、国会では法務大臣が答弁に立っている。最後には東京地裁の門前で追い払われた。この一連の騒ぎは、単なる奇人たちの珍事では片づかない。
なぜあの年に、しかも一斉に噴き出したのか。そこを掘っていくと、焼け跡の日本人が胸の内に抱えていた妙な穴の形が、ぼんやりと見えてくる。順番に見ていこう。
- 焼け跡の雑貨屋が、マッカーサー宛てに一通の請願書を投函した
- 「ばかばかしい」と放り出された封書を、雑誌記者が拾い上げた
- 配給のビールで乾杯した記者たち、六時間半の取材が生んだ誤解
- 一九四六年一月十八日、星条旗紙の題字の上に躍った大文字
- 菊の幕を張り、紋服に着替えて写真に納まる男
- 「なんら発言権がない」と東大教授はあっさり切り捨てた
- 入場無料で五百人、のちには入場料を取った全国遊説
- 「天皇制共産主義ですナ」と侍従長を名乗る男は言った
- 不敬罪か言論の自由か、国会とマッカーサーを巻き込んだ十カ月
- 名古屋の校門前、二つの「天皇」がもっとも接近した午後二時すぎ
- 三河の山里で系図を掘り出した男、三浦芳聖という別種の狂熱
- 硫黄島の「天皇さん」は、誰とも争わなかった
- 名古屋から福島、岡山から佐渡まで、雨後の筍のように生えた玉座
- 天照大神が乗り移ったと宣言した女性教祖と、二十人がかりで捕まった元横綱
- なぜ一九四六年だったのか、四つの条件が同時にそろった
- 明治四十四年、教科書のせいで国会が止まった
- 却下、また却下、「天皇は裁判権に服さない」と言われた日
- ストリップ劇場に現れた「天皇」と、池袋の裏長屋ですするうどん
- 大宅壮一の「一億総天皇家」と、ピエロという結論
- 令和のネットで生き延びた偽史、田布施とすり替え説の系譜
- 焼け跡が求めていたのは、正しい血筋ではなく別の物語だった
焼け跡の雑貨屋が、マッカーサー宛てに一通の請願書を投函した
昭和二十年十一月、名古屋市千種区の焼け跡に、一軒の店の残骸があった。持ち主は洋品雑貨商を営んでいた熊沢寛道、当時五十六歳。空襲で店を焼かれ、商売はほとんど立ちゆかなくなっていた。話はこの男から始まる。
彼が請願書を送った相手がすごい。東京の丸の内にある連合国軍総司令部の最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥だ。分厚い封書だった。中身をかいつまむと、現在の皇室は足利軍閥が私的な都合で担ぎ上げた北朝の血統にすぎない、というものだった。
皇位の正当な継承権は、大覚寺統すなわち南朝にある。そして自分こそがその南朝の直系である。これが熊沢の主張の骨組みだ。荒唐無稽に聞こえるが、熊沢にしてみればこれはその場の思いつきなどではなかった。
下地を作ったのは、養父の熊沢大然だ。大然はすでに明治十六年ごろから、証拠集めに乗り出していた。明治四十一年には、内大臣に対して上奏までしている。「自分は南朝の直系である」と訴え、「愛知県時之島の古墳を熊沢家の墳墓と認めてほしい」と求めている。
「八幡社の社格を昇格させてほしい」という願いも添えてあった。父から子へ、六十年以上にわたって握りしめられてきた執念が、占領という前代未聞の状況に出口を見つけた格好だった。すごい粘りだよな。
熊沢寛道の来歴は、皇族というにはあまりに庶民的だ。明治二十二年十二月十八日、愛知県の農家の三男として生まれた。幼名は金三郎。近所からは「金さ」と呼ばれていた。
小学校を出たあと、明治四十三年に徴兵で豊橋の騎兵連隊に入った。大正二年には浄土宗西山派の専門学寮へ入寮し、卒業後は布教僧として各地を回っている。話術が達者で筆も立ったというのは、この僧侶時代の訓練が効いていたのだろう。坊さん仕込みの弁舌ってやつだ。
昭和六年に還俗し、名古屋で洋品雑貨商を開業した。そのまま十四年間、ごく普通の商店主として暮らしている。ただ、中身は違った。大正九年に養父が死ぬと、彼は「南朝の天皇としてひそかに即位した」と、自分の中ではそう考えていたのだ。
以後は要人や明治神宮に、自分が正統の天皇だという上申書を延々と送り続けた。宛先は近衛文麿、東條英機、荒木貞夫、徳富蘇峰といった面々だ。昭和十年前後には、福島県双葉郡の浪江町や大堀村のあたりへ、後南朝の埋蔵金を掘りにも行っている。全部黙殺された。
当たり前だ。戦前は、皇位や皇族を僭称すること自体が不敬罪の対象になっていた。下手をすれば牢屋に入る話だった。
「ばかばかしい」と放り出された封書を、雑誌記者が拾い上げた
ではなぜ、二十年も無視され続けた男の主張が、いきなり世界にまで届いてしまったのか。ここが面白いところだ。きっかけは完全な偶然だった。
秦郁彦が『正論』平成元年六月号に書いた「熊沢天皇始末記」に、その場面が出てくる。昭和二十年十一月、東京丸の内の総司令部参謀第二部に属する翻訳通訳部でのことだ。若い中尉が一通の封書を読み、「ばかばかしい」と机に放り出したという。問題の一通だ。
この部署は、日本国民から総司令部に寄せられる投書を翻訳し、分析する仕事を担っていた。連日、山のような陳情と密告と苦情が届く。そのうちの一通が、名古屋の雑貨屋からの「私が本物の天皇です」だったわけだ。中尉が投げ出したのも無理はない。
たまたまその部屋に居合わせたのが、『タイム』『ライフ』の記者リチャード・ローターバックだった。彼は放り出された封書に興味を示した。「訳ができたら読ませてくれ」と頼み込む。中尉は面倒くさそうに封書を貸した。
ローターバックの動きは本気だった。仲間の記者にも声をかけ、勉強会まで開いて南北朝の歴史を頭に叩き込んだ。そのうえで熊沢側の代理人に連絡を取っている。外国人記者が南北朝の予習をしている光景って、想像するとちょっと笑えるよな。
昭和二十年十二月二十五日、クリスマスの日だ。一行は米軍専用車両で東京を発ち、夜半に名古屋へ着く。米軍用ホテルでジープを借り、焼け残った街の外れにある熊沢の家へ向かった。ジープで雑貨屋に乗りつけたのだ。
ここまでの経緯を考えると、この事件の見え方はだいぶ変わる。「日本の民衆が南朝の正統を求めて立ち上がった」というより、こうだ。「暇と好奇心を持て余した外国人記者団が、東洋の奇談を掘り当てた」。そっちの色合いのほうが濃い。
配給のビールで乾杯した記者たち、六時間半の取材が生んだ誤解
このときのことを、熊沢本人が十二年後に語り残している。『人物往来』昭和三十三年十一月号に載った「未発表・熊沢天皇回顧録」だ。彼の記憶によれば、ある日、五人の外国人記者が二世の通訳を伴って自宅にやってきた。
彼らは慣れない正座に脚を痛めながら、実に六時間半にわたって熊沢の話を聴き、写真を撮った。六時間半だ。正座でそれは、さぞつらかったろう。
話し終えたあと、熊沢が家にあった配給のビールを出してコップに注いでやる。すると記者たちは、そのコップを持って外へ出ていく。庭先で何やら乾杯している。不思議に思って通訳に尋ねると、「日本新皇室バンザイ、と言っているんですよ」という答えが返ってきた。
熊沢はこの光景を、自分の正統性が国際的に承認された瞬間として記憶した。しかもややこしいことに、彼はやってきた一団を「総司令部から派遣された歴史学者」だと思い込んでいたらしい。勘違いの上に勘違いだ。
のちの著書『南朝と足利天皇血統秘史 万世一系はいづこ』の冒頭には、『ライフ』の記事が掲げられている。その説明文がふるっている。「昭和二十一年マッカーサー元帥が全世界に裕仁天皇は歴史的の天皇ではなく、ヒロミチ天皇は沢山の証拠をもつ。これが真の日本天皇であろうと発表した記事」と書かれているのだ。
マッカーサーは、そんな発表を一度もしていない。だが熊沢は、死ぬまでこの誤読を手放さなかった。取材に来た記者たちが庭でビールを掲げていたあの晩、たぶん彼の中で何かが決定的に固まってしまったんだと思う。切ない話だ。
ちなみに取材陣の顔ぶれは豪華だった。ローターバックのほか、のちに『史上最大の作戦』を書くコーネリアス・ライアンがいた。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンのフランク・ケリー、ボルチモア・サンのロバート・コクレーンも一緒だ。『ライフ』の名カメラマン、アルフレッド・アイゼンスタットまで同行していた。
一九四六年一月十八日、星条旗紙の題字の上に躍った大文字
第一報は、日本の新聞ではなかった。昭和二十一年一月十八日付、日本と朝鮮半島向けに発行されていた米軍準機関紙、通称・星条旗紙の太平洋版だ。その一面、題字の上に「僭称者がヒロヒトの皇位を要求」という大文字が躍った。署名はピーター・グロツキー軍曹となっている。
主見出しは「五十六歳老商店主が真の元首の血統と発言」だった。記事の書き出しはこうだ。別の天皇がいま登場した。日本の皇位の血統は五百五十四年前の革命で破壊された、と主張している男がいる。
長身で上品、いまは戦禍の街の郊外でつつましく商店主をしているクマザワ・ヒロミチだ。彼が、自分を皇位に就けて歴史的不正を根絶するよう、マッカーサー元帥に請願した――。ずいぶん持ち上げた書き方だよな。
記事は続けて、彼が山のような歴史文書と、陵墓や神社や宝物のリストを所持していることを伝えた。少数の側近から「ヒロミチ天皇」と呼ばれていることも書いている。着物の話もある。天皇以外には厳禁されているはずの十六弁の菊の紋章を、彼は着物につけていた。
翌一月十九日付の同紙は、店の前に立つ熊沢と妻、三人の子どもの写真を一面右下に載せた。『ライフ』は一月二十一日付で同趣旨の記事を出している。エー・ピー通信やロイターも配信した。
占領下の日本にとって、外電に載るというのは事実上の公認と同じ重みを持つ。名古屋の焼け跡の雑貨屋は、一夜にして国際的な話題の人になった。とんでもない出世だ。
菊の幕を張り、紋服に着替えて写真に納まる男
日本の新聞が動いたのは翌日からだ。一月十九日付で、朝日が二面のコラム「青鉛筆」で軽く触れた。読売報知は二面最上段に「我こそ正統の天皇 名乗りをあげた南朝の後裔 マ元帥へ陳情書提出」と横見出しで報じている。
当時の新聞は朝刊のみで、原則二ページ建てという極端に薄い紙面だった。だから二面最上段というのは、かなりの扱いになる。しかもこの日の読売の同じ紙面には、「ふえた天皇制論議」という記事が並んでいる。並べ方が意味深だ。
同紙の投書欄「叫び」に寄せられる投書の第一位が天皇制の問題で、全体の二割近くを占めていた。国民の関心が、そこに集中していた証拠だった。
独自取材でいちばん早かったのは、地元の中部日本新聞。いまの中日新聞だ。一月二十日付の二面三段で、見出しは「菊花の紋も天下御免 南朝再興 熊澤寛道氏とは」。記者の筆致が、なかなか味わい深い。
まず熊沢の風貌を、こう描いている。作業服姿で語る氏は頭がはげて精力的な、見るからに一徹者らしい風采だ。そのあとが、また傑作だ。写真をと言えば、菊花の幕を部屋に巡らし、自分はあらためて紋服に着替え、さあとばかり、系図の巻き物を調べるポーズをつくる熊沢氏でもあった――。
この一行に、この事件の本質がほとんど全部入っている気がする。本人は大真面目だ。しかも、自分の絵になり方をちゃんと心得ていた。役者だよな、この人。
熊沢は記者に、菊の紋のことも語っている。十年ほど前に所轄署から十六弁の菊花紋を使うなと言われたが、家紋だからと拒絶した。そのほかは何も言われたことはない、とも語っている。
近隣住民の談話も併載されていて、これがまた実に微妙な温度だった。偏ったところがあり、なかなか利かん気の人だが、家庭は円満なようです。商売は市場に商品を出したり青果物を売っているが、あまり大きくはやっていない。褒めているのか、けなしているのか。
「なんら発言権がない」と東大教授はあっさり切り捨てた
学界の反応は速く、そして冷たかった。一月二十日付の読売は、二面のベタ記事で一段だけ「發言權なし 熊澤問題語る 東大相澤教授」を載せている。東京帝国大学国史学科の教授の見解だ。前半こそ、熊沢の言い分と重なる内容になっている。
明治四十四年の第二十七議会で南北朝の問題が大きく取り上げられ、南朝が正統であることが歴史的に証明されて、今日の歴史家の定論となった。五十七年にわたる両朝対立ののち、元中九年に後亀山天皇が後小松天皇に正式に譲位して南北朝合一となった。
この合一は足利義満の謀略によるものだ、と教授は言う。義満は講和条件をまったく無視して、以後も南朝を圧迫し続けた。ここまでは熊沢が喜びそうな話だ。
だが後半で、教授はばっさり切る。証拠資料があるなら、その正誤を鑑定するのは歴史家にとって極めて容易だ。ただし、その人物が本当の系図や資料を持っていたとしても、皇位継承問題については何らの発言権もない。
理由はこうだ。皇統の後裔という理由で発言権があるとすれば、日本人の中に正当な資料を持っている者がどれだけいるかわからない。しかも元中九年の合体以後、後小松天皇が皇位のすべての条件を満たして正当の天皇となった。そこから今日まで正当の皇位継承が行われてきているのだから、南朝の子孫といっても皇位継承問題にはなんら発言権がない――。
血筋の真偽で勝負する土俵にすら、上げてもらえなかったわけだ。これは厳しい。この論法は、のちに別の学者の筆でも繰り返される。法制史の第一人者だった瀧川政次郎が、『文藝春秋』昭和二十五年一月号に書いた「熊沢天皇吉野巡幸記」だ。
こちらは、より現代的な形になっている。主権在民の新憲法の下では、国民が認めて世襲の天皇なりとするものが世襲の天皇である。現在の日本国民が明治天皇の子孫以外の皇胤を天皇として認めないことは、国民投票を待たずして明らかだ、というものだ。正統性の根拠が血から国民の承認へ移った瞬間に、自称天皇たちの主張は制度的に土台を失っていた。
入場無料で五百人、のちには入場料を取った全国遊説
学者に否定されても、世間の食いつきはまったく別だった。読売報知は二月三日付で「熊澤天皇帝都へ」と報じている。熊沢が上京し、知人宅にいることを伝える記事だ。
四月二十日付の同紙二面コラム「街」は、同月二十二日に「熊沢天皇真相発表会」が開かれることを取り上げた。会場は東京の芝区田村町にあった飛行館で、午後一時からだった。扱いは、半ばジョークのようなものだ。
コラムには現場の様子まで書かれている。ビラを取り巻いて、反対派も疑問派も支持派も入り乱れての自由論議になった。口の悪い一人は「どうでもいいや」と吐き捨てた。これがいちばん正直な世論だったのかもしれない。
秦郁彦の「熊沢天皇始末記」下篇によれば、熊沢の講演会は当初は入場無料だった。それで平均五百人の聴衆を集めた。のちに資金難から、三十円、五十円という入場料を取るようになる。いまの感覚に直せば千二百円から二千円ほどだ。
焼け跡で食うや食わずの時代の話である。それだけ払って「本物の天皇」の話を聴きに来る人間が、全国にいたわけだ。支持者も集まった。熊沢のために資金を出し、住まいを提供する者が現れ、後援会の支部が各地にできた。
中には、大学教授の肩書きを持つ人物まで名を連ねていたと伝えられている。もちろん純粋な南朝崇拝者ばかりではない。この珍現象に食らいついて、何かうまい汁を吸おうという手合いも相当いた。人が集まれば、そういう連中も寄ってくる。
昭和二十一年五月には、政治団体「南朝奉戴国民同盟」が結成された。熊沢は全国を遊説し、自分こそが南朝の正系であると説いて回った。いよいよ本格的だ。
「天皇制共産主義ですナ」と侍従長を名乗る男は言った
この運動には、理論担当の側近がいた。吉田長蔵という、当時五十二歳の男だ。周囲からは「侍従長」あるいは「宮内大臣」と呼ばれていた。戦後創刊されたリベラル派の新聞「民報」は、昭和二十一年六月三日付でこの人物への突撃取材を載せている。
見出しは「天皇制共産主義ですナ スポークスマンの夢幻的御託宣 熊澤天皇とは」。書き出しからして、もう揶揄が全開だ。帝都に入洛中というので、城北の某アパートの一室に熊沢天皇謁見にまかり出た、とある。
肝心の吉田の答えが、いま読むとなかなか凄まじい。敗戦で熊沢天皇を持ち出したわけは、と問われたときの返事がこうだ。今度の戦争は北朝と軍閥がやったことだから、負けたのは北朝と軍閥、官僚、財閥、地方の特権階級だ。
終戦の詔書で、陛下も朕の身はどうなっても構わぬと言っている。だから私情を投げ打って、この際善処すべきだ。吉田の口はそれで止まらない。現天皇は大元帥として、当然戦争の大権を掌握していた戦争犯罪者である。国体護持の立場から南朝に大権を奉還すべきである、とも述べた。
共産党は天皇制絶対打倒だがどうか、と聞かれたときの答えがまたすごい。北朝の天皇制は国民に被害を与えた。だが南朝の天皇は圧制をしておらず、もし南朝が立てば幸福にいかないことはない。天皇制の下でも共産主義でよろしい、天皇共産主義ですナ――。
この理屈は口から出まかせのようでいて、当時の空気を正確につかんでいた。戦争責任を北朝と軍閥に押しつけ、南朝を持ってくれば天皇制と民主化の両方が救われる。実に都合のいい構図だ。これが、天皇制を残したいが戦争責任は誰かに取らせたいという当時の集合的な願望に、ぴたりとはまる。
吉田は行動にも出た。昭和二十一年七月五日、衆議院の院内控室に共産党議員を訪ね、共同闘争を申し入れている。雑誌「すとりいと」の記事によれば、その中身はこうだった。現天皇は皇統の根拠がない偽者である。共産党も天皇制の完全な廃止を主張せず、次善の策として正統の熊沢天皇の即位を認めてほしい――。
応対した徳田球一書記長らの返事は、こうだったという。党が熊沢天皇の即位を認めるわけにはいかない。現天皇の退位と天皇制の廃止が実現された暁には、自由に皇室の地位を要求すればいい。人民が投票で認めるなら、熊沢天皇側が皇室をつくるのを党は認める――。
混乱期とはいえ、奇妙にもほどがあるやりとりだ。自称天皇の側近と共産党が、皇室の扱いを大真面目に話し合っているんだから。正直、読んでいて頭がくらくらする。
不敬罪か言論の自由か、国会とマッカーサーを巻き込んだ十カ月
熊沢の派手な動きは、当然ながら不敬罪の問題を呼び込んだ。伏線になったのが、昭和二十一年五月十九日の食糧メーデーだ。「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね」と書かれたプラカードが掲げられた。掲げた共産党員は、天皇に対する不敬罪だとして六月二十二日に起訴されている。世に言うプラカード事件だ。
そこで六月二十八日、最後の帝国議会となった第九十回国会の予算委員会で、石田一松委員が質問に立った。石田は「のんき節」で一世を風靡した元演歌師だ。いわゆるタレント議員第一号ってやつだ。
彼はこう詰め寄った。これが不敬罪として起訴されるならまだ重大な問題がある、あの熊沢天皇の言動をいかに心得ておられるか。プラカードなどそんな軽い末梢的な問題ではない。熊沢は自分は日本の天皇の正統であって現在の裕仁天皇は邪なる血統の者であれは天皇ではないと、天皇そのものを否認している。これがいまだに起訴されたという話も聞かないし、不審に思っている――。
木村篤太郎法相の答弁は、煮え切らないものだった。検察当局で本人を呼び出して、あらゆる角度から研究しております。いまなお裏面における事柄については調査中であります。要するに、まだ何も決めていないわけだ。
これを受けて、熊沢自身が動く。七月六日付の朝日に「黒白を決しに 熊澤氏上京す」という記事が出た。法相の答弁を曖昧だと憤慨した熊沢が、五日朝に上京したと伝えている。自分は絶対に不敬罪などで罰せられる理由はない、と抗議するためだった。
面白いのは、記者から「あなたは世上伝えられるように即位を求めていますか」と聞かれた彼の答えだ。別に要求はしていません、自由な言論の時代になって憲兵の圧制がなくなったので持ち出したまでです――。拍子抜けする返事だよな。
一月二十一日付の読売報知の記事でも、彼は似たことを口にしていた。求めているのは祖先の墳墓の調査と公認、そして神社の社格の昇格だと語っていたのだ。侍従長の吉田が唱えた「譲位要求」と、本人が口にする「言論の自由」。どちらが本音だったのかは、いまとなっては誰にもわからない。
九月八日付の読売報知には、「不敬罪で告訴 熊澤天皇とアカハタを」という記事が載る。大森区田園調布の福田素順という人物が、七日に告発に踏み切ったのだ。相手は熊沢寛道と共産党書記長の徳田球一、それに党機関紙の編集部員三名だった。不敬罪で、東京地方検事局に告発している。
告発の根拠は、皇統は三種の神器によって受け継がれるものでこれにまさる証明はない、という理屈だった。この福田という人物、経歴がなかなか濃い。もともとは福田狂二を名乗った社会主義者で、のちに右翼へ転じて「皇道日報」を出していた男だ。
結論は早かった。十月二日付の朝日が「熊澤天皇ら不起訴」と報じる。東京地検は、天皇ご一身に対するそしりを内容とするものではないから犯罪は構成しない、と判断した。アカハタや徳田らについても、天皇の行動に対する政治的批判ないしその政治的責任の追及にとどまる、とした。
気になるのはここからだ。この不起訴に強い反応を示したのが、ほかならぬマッカーサーだった。十月十日付の毎日一面に「新憲法の精神を顯現 熊澤天皇不敬事件却下を称揚 マ元帥聲明」の記事が載る。声明は九日に発表されたものだ。
声明は、この不起訴を新憲法の根本観念の注目すべき適用だ、と持ち上げた。議会で採択されたばかりの新憲法に具体化された観念で、中身はこうだ。「すべての人々は法の前に平等であり、日本のいかなる個人でも、天皇でさえも、普通の人間性を否定した法的保護の下にあってはならぬ」。
声明はさらに踏み込んでいる。民主主義は生き生きとしたものであり、市民が自由に意思を発表することが許されなければ、それは死滅するだろう。国の象徴として天皇に与えられた保護は、市民に与えられた保護と同じでなければならぬ、とも述べた。憲法改正案が十月七日に衆議院の同意を得たばかりのタイミングである。
名古屋の雑貨屋の妄想じみた主張は、こうして戦後日本の言論の自由を測る物差しとして使われた。彼の主張の中身が正しかったからではない。あまりにも荒唐無稽な主張ですら罰されない、その一点こそが占領軍にとって都合のいい民主化の証明だったからだ。皮肉な役回りだよな。
名古屋の校門前、二つの「天皇」がもっとも接近した午後二時すぎ
昭和二十一年二月十九日、昭和天皇は神奈川県を皮切りに全国巡幸を始めた。焼け跡の国民の前に直接姿を現し、天皇の存在を国民と占領軍の双方にアピールするという、皇室側の生き残り戦術だった。十月二十二日、巡幸の列は名古屋に入る。市民は熱狂的に歓迎した。
ところが、そこにもう一人の「天皇」が現れる。翌十月二十三日付の朝日に、その記事がある。人波にもまれて動けぬ陛下、という写真つきの記事の下に、ごく短く「熊澤天皇現はる」が載っていた。小さな記事だ。
行幸の二十二日午後二時すぎ、名古屋市の矢田国民学校正門前でのことだ。天皇の行列の後尾の車に、十六弁の菊の紋付羽織を着た人物が乗っていた。二人のモーニング姿の紳士が付き添っている。熊沢寛道と、南朝奉戴国民同盟の関東代表・吉田長蔵、関西代表・日尾惇造の三人だった。
熊沢は「ただ対談ができればと思って来た」と語った。だが結局、目的を果たさず引き揚げた――。会えずじまいだ。
二人の天皇が物理的にもっとも接近した瞬間が、これだった。秦郁彦の記述によれば、巡幸の列が熊沢家の前を通ったとき、侍従が指さして「あれが熊沢天皇の家です」と伝えたという。なんとも言えない光景だ。
想像してみてほしい。片方は焼け跡の国民に取り囲まれ、帽子を振って歩いている。もう片方は菊の紋の羽織を着て車に乗り、面会を求めて空振りしている。そしてこの巡幸こそが、熊沢ブームの終わりの始まりだった。国民が生身の昭和天皇に熱狂すればするほど、代わりの天皇を用意する必要は消えていったからだ。
三河の山里で系図を掘り出した男、三浦芳聖という別種の狂熱
熊沢が「話術に長けた元布教僧」型だとすれば、愛知県三河の三浦芳聖はまったく別種の人物だった。生まれは明治三十七年九月十七日。愛知県額田郡豊富村大字牧平字大門、いまの岡崎市牧平町大門の旧家に、三男として生まれている。
京都の仏教専門学校に学び、大正十四年に豊橋の歩兵第十八連隊へ入隊した。除隊後の大正十五年十二月には、蒲郡の浄土宗西山深草派、恵照山日曜院の住職に就いている。ここまでは地方の真面目な宗教者の履歴だ。ごく普通のお坊さんだよな。
転機は、大正十三年六月三十日に訪れる。徴兵検査を終えた二十歳の芳聖は、父の遺言に従って、屋敷跡の蔵の南側を掘った。そこに三浦家の「大切なもの」が埋められていたのだ。出てきたのは巻物だった。
東京の下宿に持ち帰って、読んでみた。後醍醐天皇から継承した三種の神器を代々受け継いだ四人の天皇をはじめ、三浦家累代の事跡が細々と記されていたという。系譜はこうなっていた。
第九十六代後醍醐天皇、第九十七代興国天皇、第九十八代小松天皇、第九十九代松良天皇。第百代大宝天皇、そして後に三浦藤太夫と称して百姓になった――。しかもその系譜は、代々の当主が一子相伝で受け継ぐものだった。父の次は芳聖、と書かれていた。
本人はのちに、そのときの気持ちを書き残している。学校で習った歴史とまったく違う内容に、胸の中に金の棒でも差し込まれたような心地になった、と。そりゃそうなるよな。
三浦の主張は、熊沢よりはるかに複雑だ。南朝には二系統があったのだという。一つは、後醍醐天皇から皇位を継承して北陸に落ちた「内伝」の正統。もう一つは、後醍醐天皇が陽動作戦のために吉野に設けた偽装朝廷である「副統」だ。
要するに、教科書に載っている吉野の南朝そのものがダミーで、後亀山天皇は「擬天皇」にすぎない。大胆すぎる。本物の内伝の最後の天皇である美良親王が、岡崎市牧平町大門の地に三種の神器を封印して地下深く埋蔵した。
美良親王は天之岩戸籠りをして、皇后の姓である三浦を名乗って農民になった。三浦家はその嫡孫である――。ここまで作り込むと、もはや偽系図というより一つの創作神話に近い。設定の細かさがすごいんだよな。
三浦の戦後もまた劇的だった。昭和二十年一月三日、名古屋空襲で自宅兼道場を焼失し、豊川市萩町へ疎開する。八月十五日の敗戦後、二十四日に彼は切腹しようとした。そのとき、天照大御神から霊示を受けたとしている。
霊示の文言はこうだ。「汝は神皇正統嫡皇孫、天津日嗣の天皇である、勝手に死ぬことを許しません」。芳聖は自決をやめ、代わりに五十日間の断飲断食を実行して瀕死になった。
十月中旬には、石清水八幡宮に参籠している。そこで彼は誓約した。御神諭が本当なら世界に二人とない実証を示せ、幻覚なら命を召し上げて血統を絶やしてくれ、と。命がけの賭けだ。
翌朝、外へ出て太陽を見よという霊示を受けた。言われたとおり凝視したら、まったく眩しくなかった。以後、真夏の烈日を終日凝視できるようになった、というのが本人の記述だ。目を傷めるから、真似だけはしないでほしい。
昭和二十一年には、大政翼賛会時代の人脈を生かして「徳山会」を結成し、神国再建運動を始める。だが総司令部の妨害で頓挫し、公職追放と厳重監視処分を受けた。処分が解けたのは昭和二十七年四月だ。
彼が晩年に打ち込んだのが、「神風串呂」という独自の学だった。地図上の地名を直線で結び、その線上に並ぶ地名の意味から皇統の真実を読み解く、という手法だ。地名を暗号として読むのだ。
たとえば牧平町の「大門」は「大御門」、すなわち天皇を意味する。蔵王山は王が岩戸籠りしたことを表し、木曽の三浦山は三浦と名乗ったことを表す地文だ、といった具合になる。想像力の勝利だよな。
昭和三十二年一月には、ある写真の撮影を発表している。天照大御神の命に従って応神天皇陵の柵を越えて中に入り、「神霊写真」を撮ったというのだ。衣冠束帯姿の応神天皇が写っている、という触れ込みだった。とんでもない話だ。
熊沢が新聞と政治団体の世界で戦ったのに対し、三浦は宗教と神秘学の世界へ深く潜っていった。昭和四十六年三月三十日、六十八歳で自宅で亡くなった。彼の説を継ぐ研究者は、いまもインターネット上で串呂の解明記事を書き続けている。根強い人気だ。
硫黄島の「天皇さん」は、誰とも争わなかった
一方、まったく毛色の違う自称天皇が鹿児島にいた。長浜豊彦、明治二十九年生まれ。鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島、古くは鬼界ヶ島と呼ばれた島の住人だ。新聞がつけた呼び名は「長浜天皇」。滋賀の長浜とは何の関係もなく、単に姓が長浜だったというだけの話だ。
彼が主張したのは、南朝の血統ではない。安徳天皇の三十四代目の末裔だ、というのが彼の言い分だった。壇ノ浦で入水したとされる安徳天皇は、実は生きのびていた、という筋書きになる。平資盛らとともに海路で伊予、日向、大隅半島を経由し、文治三年ごろに硫黄島へ渡った。
島で櫛匣局を娶って一子をもうけた。それが隆盛親王で、長浜家の祖先だという。島の伝説では、安徳天皇は寛元元年にこの地で崩じたことになっている。壇ノ浦から、はるばる南の島へ。
長浜という人は、ほかの自称天皇とはまるで手ざわりが違った。小学校を出て海軍の志願兵となり、三等兵曹まで進んでいる。退官後は島の熊野神社の神主として安徳天皇を祀りながら、椿から採れる油と一本釣り漁の半農半漁、それに軍の恩給で暮らしていた。島の選挙管理委員会の委員長も務めている。
三浦のように、天皇としての威厳を演出することもない。熊沢のように、現天皇へ対抗意識をむき出しにすることもない。取材に来た記者たちの受けもよく、いかにも好々爺風だったという。「天皇さん」という呼び名も、報道が茶化してつけたものではなく、島民たちが敬愛を込めて呼んだものだった。いい話だよな。
長浜家には、ひとつ奇妙な逸話がある。家に「開けずの箱」があったのだ。幕末のころ、島津斉興の特使を名乗る者が来島して、言い残していったという。神器だから絶対に開けてはならない、違背すれば神罰が下って両目が失明する、と。
昭和五年ごろ、訪ねてきた平家研究家が「失明してもいいから中身を見せてほしい」と懇願した。命知らずにもほどがある。とうとう蓋が開けられた。中から出てきたのは、一通の封書と島津氏の花押。封書には、貴重な品をここの宮に置いておくのは危険だから預かっておく、と書かれていた。
肝心の家宝は、影も形もない。以来、長浜家は家宝を返せと言い、島津側は言いがかりだと突っぱねる不和が続いたと伝えられる。話としては痛快だ。
こういう「箱を開けたら中身がなかった」という話は、この一連の自称天皇騒動の全体を要約しているようにも読める。開けてみたら、空っぽ。長浜は昭和五十九年まで生き、島の名士として静かに世を去った。
名古屋から福島、岡山から佐渡まで、雨後の筍のように生えた玉座
昭和二十五年六月四日付の夕刊読売は、「夕べの話題」として一本の記事を出している。見出しは「六人の自称天皇 熊沢家本家争い 敗戦日本の茶番劇」。寛道以外の熊沢一族の人物までが「われこそ熊沢天皇」と名乗りをあげ、本家争いが起きているというのだ。
記事は、こうした自称天皇たちは目ぼしい者だけで全国に六人いる、と数えている。締めの一文がこれだ。これは敗戦日本の茶番劇にすぎないであろうか。
『特集人物往来』昭和三十四年四月号の「罷り通る自称天皇族」になると、顔ぶれはさらに増える。並べてみよう。まず熊沢天皇家の本家だと称する愛知県の「後熊沢天皇」と、同じく本流だとする名古屋の「第二代池の端天皇」。霊元天皇の子孫という京都の「安川天皇」に、後醍醐天皇の末裔と名乗る「仙海天皇」。
後亀山天皇の末裔と公表した岡山県の「酒井天皇」もいる。安徳天皇の末裔を任じた熊本県の「法天皇」、同じく安徳天皇三十三代の末裔という鹿児島の「長浜天皇」も並ぶ。長慶天皇三十五代の子孫と名乗る愛知県の「後長慶天皇」、後村上天皇の末裔と自称する福岡県の「上村天皇」も載っている。
順徳天皇の流れをくむ新潟県佐渡の「佐渡天皇」に、安徳天皇の子孫という高知県の「横倉天皇」――。キリがない。保阪正康が昭和六十二年の『文藝春秋ノンフィクション』に書いたのが、「天皇が十九人いた」だ。そこには、さらに岡山の「佐藤天皇」、静岡の「竹山天皇」、奈良の「伊藤天皇」らが登場する。全部で三十人ほどいたという説さえある。
個々の顔ぶれを追うと、これがまた味わい深い。名古屋の「外村天皇」こと外村光陽は、後醍醐天皇の子孫を名乗った人物だ。熊沢の南朝奉戴国民同盟に、理論武装のために参加している。昭和天皇の行幸の際には「あの天皇は偽物だ」と叫び、群衆に袋叩きにされたという話が伝わっている。
著作もある。昭和二十一年から二十二年にかけて、『正史・仲哀天皇』『殺された天皇』という二冊の本を出した。日本共和党から衆議院選挙に出馬したが、惨敗した。この外村の著書を不敬罪で告発したのが熊沢と同じ福田だったというのだから、告発マニアの勤勉さには恐れ入る。
福島県葛尾村の「葛尾天皇」こと松本忠致は、長慶天皇の子孫という伝承を持つ人物だった。後南朝の史跡と埋蔵金を探して歩く熊沢と、山中で出会って意気投合した。熊沢から「あなたも南朝後胤です」というお墨付きをもらったという。天皇が天皇を認定した格好だ。
元憲兵の「佐藤天皇」に至っては、動機がふるっている。当時は、総司令部が危険と判断した人物を公職追放にしていた。その対象に自分の名がないのが不服で、あえて安徳天皇の子孫を名乗り、目をつけられようとしたのだという。逆張りにもほどがある。
闇の石炭を流して逮捕された熊沢里吉という男は、警察の取り調べで熊沢家の宗家だと名乗り出た。名字がたまたま同じだっただけらしい。吉野の如意輪寺を勝手に自分の皇居だと決めた「竹原天皇」もいる。自称天皇総員会議の開催を提唱して全国を行脚した「仙海天皇」も忘れがたい。ここまでくると、カタログを眺めているだけで日が暮れるよな。
瀧川政次郎は『文藝春秋』昭和三十二年六月号の「自称天皇はどうして生れるか」で、鋭いことを書いている。多くの自称天皇には、共通点がある。子孫であると自称する天皇が、後醍醐天皇またはその子孫である南朝の諸天皇、もしくは安徳天皇なのだ。
これらの天皇はいずれも、三種の神器を擁した正統の天子だった。それでいて、あるいは海に投じ、あるいは奥山に朽ち果てた薄幸の天子でもある。その子孫がおられたのかどうか、定かには知られない状態にある。従って自称天皇の語る系譜はすこぶるあやふやなものだが、さりとてこれを否定する史料もない――。
要するに、史料の空白地帯にしか玉座は立てられない。歴史がしっかり記録している場所には、偽物の入り込む隙間がないわけだ。空白こそが、彼らの領土だった。
天照大神が乗り移ったと宣言した女性教祖と、二十人がかりで捕まった元横綱
同じ時期、天皇をめぐるもう一つの騒動が北陸で起きている。新宗教「璽宇」の教祖、璽光尊だ。本名は長岡良子、旧姓は大沢ナカ。明治三十六年四月二十二日に岡山県御津郡の農家に生まれた、元看護師だった。
大本教系の霊的グループの影響を受け、東京の蒲田で霊能者として活動していた。昭和二十年六月に神示を受けたとして、璽光尊を名乗る。同年十一月十五日には、教団の結成式を行った。動きは早い。
決定的だったのは昭和二十一年だ。昭和天皇が人間宣言を行ったことで、天皇の身体から天照大神が立ち去って自分の身体に移った、と彼女は宣言した。自らは「天璽照妙光良姫皇尊」と名乗り、「神聖天皇」を称した。住まいは「璽宇皇居」と呼んだ。
熊沢たちが武器にしたのは、古い系図と血統だった。これに対して璽光尊は、神格そのものの移動という霊的な論理を持ち出したわけだ。人間宣言が現御神であることを否定した瞬間に、空席になった神の座を自分が引き継いだと主張した。理屈としては、実によくできている。
彼女は総司令部に対しても、二度の直訴を成功させている。宮中や皇族にまで「参内」を呼びかけて、当然のように相手にされなかった。
この教団が全国区の話題になったのは、信者に有名人がいたからだ。一人は元横綱の双葉山定次。六十九連勝という不滅の記録を持つ、戦前戦中の国民的英雄である。昭和二十年に引退し、翌二十一年に入信した。
もう一人は囲碁の呉清源だ。当時すでに、日本囲碁界の頂点にいた棋士だった。呉はのちに回想を書き残していて、金沢での璽宇の生活がどれほど異様だったかを詳しく記している。
たとえば住まいの話。信者の家を借り上げると、璽光尊は床の間のある正房を「御光間」と決めてしまった。家主の夫婦は、三畳の女中部屋へ追いやられた。自分の家なのに、である。それでも家主夫婦は、文句ひとつ言わなかった。
ある日、璽光尊が、東京に大地震が起きるから救援に行くと言い出した。一同は背嚢を担ぎ、荷物を縛る。朝から晩まで、出発待機の姿勢を取り続けた。近所に下宿した新聞記者たちは、夜逃げの準備かと大騒ぎしたが、地震はいつまで経っても起きなかった。
もっと妙なのが、教祖の訓戒だ。無益な妄想は悪霊を招くから、考える暇を持つな。このせいで信者たちは、頭の虱を掻く時間すら惜しんで痒みに耐えていたという。聞いているだけで頭がかゆくなってくるよな。
破局は昭和二十二年一月に来た。石川県警察部が出頭を求めたのだ。理由は人心を煽っていることと、統制物資である米を大量に所持していることで、食糧管理法違反の疑い。璽光尊は応じなかった。
一月十八日から二十一日にかけて、捜索が入った。二十一日の午後十時ごろ、夜行列車で逃亡を図っているとの情報が入る。金沢署と玉川署の警官隊が、本拠地を急襲した。そこで起きたのが、大立ち回りだ。
二階へ上がる踊り場に立ちふさがったのが、双葉山だった。両手に太鼓のバチを握って、一歩も引かない。二十人以上の警官が取り囲んでも、逮捕までに十五分かかったという。元横綱の意地ってやつだ。
指揮官の警部は、元アマチュア相撲の選手だった。かつて双葉山の指導を受けた、崇拝者でもあった。師匠を捕縛する役目を負わされた男の気持ちを思うと、なんとも言えないものがある。皮肉なめぐり合わせだ。
結末はあっけなかった。璽光尊は精神鑑定にかけられ、誇大妄想性痴呆症と診断されて釈放。食糧管理法違反も、信者が自発的に拠出したものだから違法性はないとして、不起訴になった。
大捕物の割に、処分は軽かった。有名人の双葉山と呉清源を邪教から救い出すことが本当の目的だったからだ、とも言われている。双葉山は温泉地に隔離され、旧知の新聞記者らの説得を受けて教団を離れた。「夢から醒めた気持ちだ」というのが、彼の言葉だ。
呉清源も、昭和二十三年の暮れに離脱した。のちに「私には璽光尊の霊がつくようなことはなく、お気に入りにはなれませんでした」と淡々と述懐している。戦前の国民的英雄が新興宗教で暴れて逮捕された。その出来事に、多くの国民が失望した。
徳川夢声は翌年の座談で、うまいことを言っている。終戦後の三面記事の皮切りが小平事件と樋口事件だとすれば、それに続く璽光尊は蕪村というところか。評し方が粋だよな。
なぜ一九四六年だったのか、四つの条件が同時にそろった
ここまで並べてくると、なぜ昭和二十一年という一年に集中したのかが見えてくる。条件が四つ、ほぼ同時にそろっていた。一つずつ見ていこう。
一つめは、天皇の神格が公式に下ろされたことだ。昭和二十一年一月一日、官報号外に「新日本建設ニ関スル詔書」が載る。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず――。世に言う人間宣言だ。
もっとも、当時の紙面を見ると様子が違う。朝日の見出しは「年頭、国運振興の詔書渙発」、毎日は「新年に詔書を賜ふ 紐帯は信頼と敬愛」だった。どちらも神格否定には、ほとんど触れていない。天皇の神格が消えたことは、ニュースにすらならなかったのだ。
だが、消えたことに変わりはない。璽光尊が「天照大神が私に移った」と言い出したのは、まさにここを衝いたものだった。熊沢天皇の第一報が一月十八日だったのも、詔書からわずか十七日後という絶妙のタイミングだった。
二つめは、不敬罪が事実上機能しなくなったことだ。戦前なら、皇位を僭称すれば即座に検挙されている。熊沢の養父が明治以来ずっと黙殺されてきたのも、思想警察に睨まれてきたからだ。それが占領下では、天皇を偽物呼ばわりしても起訴されない。
十月九日のマッカーサー声明は、まさにそれを民主主義の証しとして誇ってみせた。取り締まりの蓋が外れた途端に、地下水のように溜まっていた偽系図と血統妄想がいっせいに噴き出したわけだ。一気にどっと来た。
三つめは、天皇制そのものが未定だったことだ。東京裁判は五月三日に開廷し、天皇の戦争責任が現実の議題になっていた。二月には総司令部が日本政府の憲法改正要綱を拒否し、象徴天皇を核とする草案を突きつけている。六月には臨時法制調査会が設置され、七月から九月にかけて新しい皇室典範が立案された。
十二月五日の衆議院本会議で、吉田茂が提案理由を説明した。翌年一月十六日に法律第三号として公布され、五月三日に施行される。この新典範で、皇位継承資格は嫡男系嫡出に限定された。皇族会議は解体されて皇室会議になり、十一の宮家が皇籍を離れることになった。まさに大改造だ。
二千年続いてきたとされる制度の設計図が、たった半年ばかりで書き換えられていた。制度が動いている最中は、外から手を突っ込む余地があるように見える。自称天皇たちがこぞって「いまなら間に合う」と考えたのは、ある意味で正確な状況判断だった。焦る気持ちもわかる。
四つめは、教育の残り火だ。ここがいちばん根が深い。話は明治の終わりまでさかのぼる。
明治四十四年、教科書のせいで国会が止まった
南北朝正閏論という言葉は、いまではほとんど死語だ。だが戦前の日本人にとっては、人格の一部だった。ことの起こりは国定教科書だ。
明治三十六年の『小学日本歴史』と、明治四十二年の改訂版『尋常小学日本歴史』がある。この二冊は実証的な歴史研究の成果を踏まえて、南北両朝は並立していたものとして記述していた。学問的には、これが常識だ。
ところが明治四十三年末、教師用教科書の改訂をめぐり、教育界から批判の声が上がる。国体と国民道徳の観点から、二つの朝廷が並び立っていたと教えるのは問題ではないか、というのだ。風向きが変わった。
そこに大逆事件が火を注いだ。秘密裁判での幸徳秋水の発言が引き合いに出された。天皇の正統性を揺るがす思想と教科書問題が、ここで結びつけられていく。政治問題化の火付け役になったのは、読売新聞だった。
明治四十四年一月十九日付の社説は、こう書いている。もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を睹るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし――。大げさな書きぶりだ。
当初、桂太郎首相は「学者の説は自在に任せ置く考なり」と、政治介入をしない意向だった。ところが野党の立憲国民党を率いる犬養毅が、この問題を第二次桂内閣の弾劾材料に使い始める。貴族院でも、体制から疎外されていた勢力が国民党と結び、南朝正統論を掲げて政府を攻撃した。歴史の議論というより、完全に政局だった。
二月、衆議院議員の藤沢元造が質問主意書を提出する。彼は政府から数々の圧力を受け、質問予定日に突然質問を取り下げた。結局、議員辞職に追い込まれている。それでも政府の窮地は解けない。
動いたのは、桂の後見役だった元老の山県有朋だ。山県が南朝正統論の立場で動いたことで、内閣は世論に押される形で教科書改訂を約束した。閣議は北朝の光厳天皇以下五天皇を歴代表から削除することを決め、明治天皇の裁可を仰いだ。政府が折れた。
ただしこの裁可は、詔書すら作成されていない極めて曖昧な形だった。近年の研究者からは、こんな推測も出ている。明治天皇は北朝の子孫であり、伏見宮系に皇位継承を助けられてきた。だから公式に南朝正統を確定させたくなかったのではないか、という推測だ。
とにかく、こうして南朝が正統と決まったわけだ。教科書執筆の責任者だった文部省編修官の喜田貞吉は休職処分となり、教科用図書調査委員も辞任した。時代の呼び名は「南北朝」から「吉野朝」に改められ、皇統譜令によって北朝の天皇は皇統譜から除外された。
文部省は、ご丁寧に説明まで添えている。光厳院というのは追号であって、皇位に即いたという意味ではない。草壁皇子を岡宮天皇と称するのと同じ、尊称にすぎないのだと。苦しい理屈だよな。
歴史学の側では田中義成らが抗議したが、教育の現場では南朝正統が絶対の前提になった。学問と教育が、公式に分離した瞬間だった。
この決着が、三十五年後にとんでもない副作用を生んだ。国家が「南朝こそ正統だ」と宣言してしまった以上、南朝の子孫を名乗る者は、少なくとも建前の上では正統の側に立てるからだ。怖いのはここから。
楠木正成が忠臣の代表として教科書に載り、吉野が聖地として語られ、後南朝の悲劇が愛好された。その結果、悲劇の隙間に自分の家系をねじ込む物語が、全国の家々で静かに育っていった。熊沢家の系図も三浦家の巻物も、この土壌の上に咲いた花だ。
しかも国が南朝正統を認めた範囲は、あくまで両朝並立の約六十年間に限られていた。明徳の和約による合一以後の北朝系皇統を、否定するものではなかったのだ。この一点を無視すれば、たしかに「現皇室は北朝、つまり傍系だ」という理屈が組み立てられる。抜け穴があった。
戦前の教育が国民に配って回った物語の部品を、敗戦後に別の設計図で組み直したのが自称天皇たちだった。部品は国のお墨付きだ。だからこそ厄介だった。
却下、また却下、「天皇は裁判権に服さない」と言われた日
熊沢の運動は、昭和二十二年にひとつのピークを迎える。三月に南朝奉戴国民同盟の総裁に就任し、十月には政治団体「正皇党」を結成した。昭和二十二年十月二十七日付の毎日が、「熊沢天皇が新党結成」と報じている。本部は大阪の阿倍野区で、党員は百余名。
綱領は三つあった。皇統の真正を期すために闘うこと、現天皇の退位を求めること、現実的平和国家の再建を期すこと、だ。この党から候補者を立てて選挙に出たが、結果は惨敗だった。
この選挙のとき、熊沢は例の古史古伝、竹内文書にも言及している。信雅王が先祖から伝えた宝物が、明治中期に虚無僧に盗まれた。それを大正九年に、天津教の竹内巨麿が古物商から買い取ったのだ、というのだ。偽史と偽史が手を結ぶ光景である。
賞味期限切れは、ここから急速に進んだ。昭和二十四年十月末、瀧川政次郎が吉野の後南朝旧跡に熊沢と同行している。瀧川は道中、熊沢に対して主張の根拠がないことを懇々と説諭した。これが効いた。
熊沢は現地の講演で、こう述べたという。「私は天皇になろうと考えているわけではない、ただ南朝の事績を顕彰して、ゆがめられて伝えられてきた日本の歴史をただしたいだけだ」。強気の姿勢が、明らかに萎んでいる。
そして昭和二十六年一月、熊沢は吉田長蔵と連名で、ついに昭和天皇を相手取った訴訟を東京地方裁判所に起こす。「現天皇不適格確認訴訟」、俗に皇位不適格訴訟と呼ばれるものだ。訴えの趣旨は、天皇裕仁は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのだから天皇として不適格だ、というものだった。
翌二月、東京地裁はこれを却下した。理由はたった一行で足りる。天皇は裁判権に服さない――。中身の審理に入るまでもない門前払いだった。血筋が本物かどうかを裁判所が調べてくれるという最後の希望も、こうして断たれた。
同じ年、学術誌『日本歴史』の誌上でも厳しい批判が出る。明治大学文学部長だった渡邊世祐が、熊沢側の主張する系図や資料を「偽作」と厳しく論難したのだ。吉田が反論したが、東大史料編纂所の村田正志に「俗論」と一蹴された。散々だよな。
九月にサンフランシスコ講和条約が締結されると、人々の関心は完全に別の場所へ移っていった。時代が先へ進んだ。熊沢だけが取り残された。
ストリップ劇場に現れた「天皇」と、池袋の裏長屋ですするうどん
熊沢寛道のその後は、正直、見ていられないほど寂しい。新聞に載ることはあった。ただし扱いは、社会面のコラムの俗な話題としてだ。
昭和二十五年六月二十九日付の読売朝刊社会面コラムには、こんな話が載った。東京の板橋の映画館が、金詰まりによる不入りを何とかしようと、熊沢をアトラクションに担ぎ出した。だが観客はいたって無関心だった、とある。
昭和二十六年四月二十一日付の毎日朝刊は、大阪の料理店で大暴れして検挙されたことを書いている。荒れた話だ。
極めつけは、昭和二十九年五月七日付の読売朝刊社会面コラムだ。書き出しはこうだった。南朝の正統を売り物の熊沢天皇こと熊沢寛道さんが六日夕、東京・浅草のストリップ劇場に現れ、女体鑑賞としゃれ込んだ。
お忍びならぬ、れっきとした菊の御紋の羽織と袴に、山高帽をかぶった姿だった。天皇はストリッパーが振りまく愛嬌に、にこりともしない。代わりに、民主天皇論を交えた感想を一席ぶった。「人民あっての天皇、みんながハダカ踊りを楽しむなら、ワシも楽しもう」。
種明かしをすると、これは某プロダクションが浅草を題材にした短編映画のロケの一コマだった。宣伝効果を狙って、人気落ち目の熊沢を大阪から引っ張り出したものだ。記事は、「この日は六区で大モテ。御巡幸気分を満喫しておいでだった」と結んでいる。
八年前に十六弁の菊の紋付羽織で昭和天皇の行列を追いかけた、その同じ紋服が、いまや浅草の宣伝小道具になっていた。落差がすごい。泣けてくるよな。
昭和三十年十二月二十二日付の毎日朝刊「ニュースの果て」も、熊沢を取り上げている。昭和三十二年五月二十三日付の朝日朝刊東京版「ストリートストーリー」も同じだ。いずれも、あの人はいま的な追跡企画。
それによれば、彼は大阪の妻子と離れていた。支援者である指圧療法師の、東京・池袋のマーケットに居候していた。路地裏でうどんをすする「天皇」の写真が、紙面に載っている。著書を執筆中、というのが当時の近況だった。
昭和三十二年五月には、腎臓病から奇跡的に回復し、日蓮宗に得度している。法名は尊熟。同じ年には自称天皇の位を「尊信天皇」なる人物に譲位し、自らは法皇を名乗るようになる。
昭和三十三年三月三日付の毎日には、写真付きの小記事が出た。東京都世田谷区の武徳館で、卜伝流のナベブタの型を披露したというものだ。そこで、消息はほぼ途絶えた。
昭和三十五年の総選挙では、天皇廃止論を主張したという理由で、日本共産党の候補への支持を表明している。かつて南朝の玉座を求めた男の、最後の政治的意思表示がこれだった。皮肉にもほどがある。
昭和四十一年六月十一日午後三時すぎ、熊沢寛道は亡くなった。場所は東京都板橋区東坂下の志村橋外科病院、死因は膵臓癌だった。五月二十九日に入院して以来、わさ夫人をはじめ家族がつききりで看病したという。
その日の朝日夕刊社会面に、「熊沢天皇死す 南朝直系と称して二十年」の見出しでベタ記事が載った。顔写真は入っていた。だが、それだけだ。最期のころは、板橋の日蓮宗の道場に居候のような形でいたらしい。
記事には、郷里の愛知県一宮市で盛大な葬儀をする、とある。墓は一宮市時之島の墓地にある。訃報は外電にも配信された。だがそれを記事にする海外のメディアは、もうなかったという。
大宅壮一の「一億総天皇家」と、ピエロという結論
熊沢の死を受けて、評論家の大宅壮一が昭和四十一年六月十八日付の読売に談話を寄せている。これが、この事件についての当時の総括として、いちばんよくできている。大宅の前置きはこうだ。
これで彼に拝顔の光栄に浴するチャンスはなくなったわけだが、これまで自分は彼の身辺から送られてきた各種の刊行物を通じて、この自称天皇の言動に興味を寄せていた。そのうえで、こう続けた。
熊沢天皇の場合、彼の主張が正しいかどうかを鑑定する能力が私にはない。私の想像では、比較的正しいものの一つであろう。しかしいまとなっては、それは問題ではない。血のつながりをたどっていけば、すべての日本人がどこかで皇室につながっていることになる。一億総天皇家ともいえよう。
問題は血のつながりの有無ではなく、そのつながりを世間が承認しているかどうか。というよりも、それにふさわしい地位、権力を保持してきたか、いまもつながっているかどうかということにかかっている。そうでないと単なるピエロに終わる、熊沢天皇がそのいい例だ――。
冷たいようだが、これが核心を突いている。正統性というのは、血の中に埋め込まれた物質ではない。社会が承認するかどうかという、関係の問題なんだよな。
反天皇制の立場から書かれた『戦後史の天皇 総解説』も、別の角度から似た結論に辿り着いている。天皇家の万世一系は、歴史を真摯に見れば幻想の産物だとわかる。熊沢の主張は、その幻想に別の幻想を対置したことにある。
人々は彼の出現に初めは驚き、戸惑い、そして幾分からかいの気持ちを込めて拍手を送った。熊沢が社会的な関心を呼んだのは、彼が一切の秩序を無視して自らの正統性を主張するというドン・キホーテぶりに理由があったのだろう――。言い得て妙だ。
学問の側の判定は、その後も揺らいでいない。平成九年に出た森茂暁の『闇の歴史、後南朝』は、応仁の乱に呼応して蜂起した南朝後胤について史料をたどっている。それでも、その人物が誰であるか、他の場面に登場する南朝後胤との関係はどうかといった肝心なところは、ほとんど不明だと断定した。
熊沢が先祖として掲げた熊野宮信雅王という人物の実在そのものが、そもそも確認できないのだ。学問的には、この件は決着している。学問の上では、ね。
令和のネットで生き延びた偽史、田布施とすり替え説の系譜
では、この騒動はきれいに終わったのか。終わっていない。いま「自称天皇」を検索すると、まとめ記事や動画や個人ブログが山ほど出てくる。しかも多くの場合、話は熊沢天皇から始まって、まったく別の場所に着地する。明治天皇すり替え説だ。
この説の骨子はこうだ。幕末の長州藩に、大室寅之祐なる青年がいた。薩長と一部の公家の企てによって睦仁親王が暗殺され、この大室が天皇にすり替えられた。以後、田布施出身者は秘密の系列を形成して、日本を支配し続けている――。
話を広めたのは、弁護士で歴史研究家だった鹿島昇の著作だ。その鹿島が心酔した人物こそ、戦後に「俺は大室天皇だ」と名乗った大室近祐という男だった。つまりこの陰謀論は、まさに昭和二十年代の自称天皇ブームの一員から生えている。根っこはつながっている。
この説がネット上で急拡大したのは、平成二十四年前後のことだと言われている。前年に東日本大震災と原発事故があった。社会不安の中で、人工地震説をはじめとする各種の陰謀論が大量に流通した時期だ。
しかも面白いことに、この説は左右を横断して支持される。左派は、特定政治家一族が日本を牛耳っているという筋書きに共鳴する。右派は、すり替えられた血統が日本を支配しているという筋書きに乗る。信じる方向はまるで違うのに、「すり替えがあった」という一点だけで一致してしまうんだよな。奇妙な共闘だ。
田布施を現地取材したルポによれば、大室近祐は平成八年に九十歳で亡くなっていた。取材に応じた親族は、すり替え説そのものを支持していなかった。仮に百歩譲ってすり替えがあったとしても、いまの皇室に敬意を抱いている。親族はそう語ったという。
法事で兄弟と、この話は自分たちの代で終いにしようと決めた、とも述べたという。近祐が建てたという記念碑は、地面から抜かれて無造作に横たわっていた。寂しい光景だ。当事者の家族が静かに幕を引こうとしている一方で、ネット上ではいまも同じ物語が拡散し続けている。
血統をめぐる物語というのは、当事者の手を離れたところで勝手に増殖する。止める人がいても止まらない。厄介な性質だ。
すり替え説への反証は、探せばいくらでもある。まず、伏見宮をはじめとする世襲親王家や多数の皇族が周囲にいた。明治天皇の皇女たちは、伏見宮系の王子と婚姻を結んでいる。偽者なら即座に見破られて継承争いが起きたはずだが、そんな内紛は起きていない。
宮中の御所言葉や隠語は、幼少期から宮廷で育たなければ身につかない。すり替えの証拠とされてきたいわゆるフルベッキ写真も、原版の調査によって維新志士の集合写真ではないことが決着している。孝明天皇と明治天皇の政治姿勢の違いは、成長と側近の影響で十分に説明がつく。
そもそも薩長にとって、幼帝という虎の子をわざわざ殺して替え玉を立てる動機がない。発覚すれば即座に朝敵になる愚策だ。これだけ並べても、信じる人は信じる。陰謀論の強さは、反証されるたびに「口封じされている証拠だ」と回収できる点にあるからだ。
焼け跡が求めていたのは、正しい血筋ではなく別の物語だった
改めて考えてみる。なぜあれほど多くの人間が、しかも同じ年に、玉座を名乗ったのか。彼らの動機は一枚岩ではない。
熊沢のように、親の代からの執念を引き継いだ者がいる。三浦のように、臨死体験と霊示によって使命感に取り憑かれた者もいる。佐藤のように、公職追放されなかったことへの屈折から名乗った者もいた。長浜のように、島の伝承を守る神主として静かに祀っていただけの者もいる。
中には熊沢の周囲に群がった人々のように、明らかに実利を狙った連中もいた。だが共通の背景はある。戦争に負けて、自分たちが命を懸けた価値の体系が丸ごと否定されたことだ。
天皇は現御神ではないと自分で宣言し、憲法が書き換えられ、皇室典範まで作り直される。信じてきた物語が壊れたとき、人は物語なしで生きられるほど強くない。壊れた物語の代わりに、別の物語を置きたくなる。人間ってそういうものだ。
そのとき手元にあった材料が、戦前の教育が全国民に配布した「南朝は正統である」という部品だった。国が三十五年前に自ら公認した物語だ。しかも南朝の末路は史料の空白地帯で、誰が生き延びたのか誰にもわからない。空白があれば、そこに何を書き込んでもいい。
楠木正成に涙し、吉野の悲劇に胸を痛めるように教育された世代が、その悲劇の続きに自分の家を接続した。彼らが偽物だったのは間違いない。だが彼らの偽り方は、国家が用意した鋳型に忠実に沿っていた。そこが不気味なところだ。
そして受け取る側にも空白があった。読売の投書欄で天皇制が第一位を占め、投書の二割近くを占めていた。これは、国民が天皇について何かを言いたくて仕方がなかったことを示している。言いたいが、答えは持っていない。
そこへ「本物の天皇が別にいる」というニュースが飛び込んでくれば、面白がって飛びつくに決まっている。人々は熊沢を信じたわけではない。信じるふりをして、天皇について公然と議論できる状況そのものを楽しんだのだ。だからこそブームは早く来て、早く去ったのだ。
昭和天皇が全国を回って国民に直接会い、講和条約が結ばれて世の中が落ち着くと、代替の天皇を面白がる必要は消えた。用済みになった彼らは、社会面のコラムのネタになり、映画館のアトラクションになり、最後にはストリップ劇場の宣伝要員にまで落ちた。何とも言えない末路だ。
熊沢寛道の主張のうち、たった一つだけ、いま読んでも妙に真っ当に響く言葉がある。昭和二十一年七月、記者に即位を求めているのかと聞かれて、彼が答えた一言だ。別に要求はしていません、自由な言論の時代になって憲兵の圧制がなくなったので持ち出したまでです――。
彼は結局、皇位を取れず、系図の正しさも認められなかった。裁判所には門前払いされ、学界には偽作と切り捨てられ、世間にはピエロと笑われた。それでも彼が名乗り出られたこと自体が、あの時代に起きた変化の大きさを測っている。
荒唐無稽な男が荒唐無稽なことを言っても、捕まらない社会になった。そのことを証明するために、この国は一年間、十九人の天皇を必要としたのかもしれない。焼け跡に立った菊の紋の羽織は、笑い話であると同時に、たしかに戦後日本の始まりを映した鏡だったんだよな。
