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宿を断られた上皇が怨霊と呼ばれるまで、承久の乱と隠岐の十九年

崎の港で戸を叩いた一行

承久三年の八月、隠岐の中ノ島の南にある崎という港に、小さな船が着いた。降りたのは、出家して間もない上皇と、ごくわずかな供。言い伝えでは、供の者が泊まる場所を求めて、村の家々の戸を一軒ずつ、順番に叩いて回ったという。宿が要る。

ところが、出てきた家の者は、上皇らの装束を見て恐れ多いと思ったのか、泊めるのを固く断ったらしい。戸は、どこも開かなかった。一行は近くの三穂神社で、その夜をしのいだと伝わる。宿を乞うて歩いた一帯は、宿乞と呼ばれるようになったという。

ここまでは土地の言い伝えだ。確かな記録の側には、鎌倉幕府の『吾妻鏡』が書く日付があり、承久三年八月五日、上皇は隠岐国海士郡の刈田郷に着いたとある。宿を断られた場面は、土地の口碑が伝える話だ。記録と口碑は、別の棚に置いておく。

この先も、記録に出る話と言い伝えは、その都度はっきり書き分けていく。断っておくと、怨霊の話の多くは、島に残る伝承ではなく、都の公家が書いた日記や、鎌倉の側の記録の中にある。島の言い伝えがどんな顔をしているかは、あとで触れよう。最初は、後鳥羽という人の話。

神器を持たずに帝になった子

寿永二年、平氏は安徳天皇を連れて西国へ落ちた。都に残った後白河法皇が次の帝に選んだのは、孫の尊成。この子が後鳥羽だ。三種の神器は平氏が持ち去ったままで、後鳥羽は神器のないまま践祚するという、異例の形で帝になった。のちの刀への執着の理由を、そこに見る人もいる。

後鳥羽の生まれは、治承四年、一一八〇年。源平の争乱のさなかに、高倉天皇の第四皇子として産声を上げた。四歳で践祚し、十九歳で位を譲ってからは、上皇として土御門、順徳、仲恭の三代、二十三年の院政を敷いた。ここからが長い。

院の御所には、北面に加えて西面の武士が置かれた。備えは固い。ただ、討幕のためではなく、武者の世には帝王にも武芸と兵力が要るという考えからだったと説く研究もある。

後鳥羽は歌の人でもあった。藤原定家らに命じて『新古今和歌集』を編ませ、仕上がったあとも自分で何度も切り継ぎを続けたほどだ。水練や相撲、狩りもこなし、刀を鍛え、目利きまでする。熊野への御幸は、十か月に一度の頻度。不羈奔放と評されるほど、じっとしていない人だった。

将軍が殺された年

承久元年の正月、三代将軍の源実朝が甥の公暁に殺された。源氏の将軍は、これで途絶える。実朝の妻は上皇の母の弟の娘にあたり、後鳥羽は実朝との関係を密にして、朝廷と幕府の融和を進めていた。鎌倉の将軍の席は、空席。

幕府は、将軍に上皇の皇子を迎えたいと申し入れたが、返ってきたのは、いずれ必ず下すが今はその時ではない、という言葉だった。『愚管抄』は、そんなことをすれば日本を二つに分けることになると上皇が案じた、と記す。交渉は、平行線。

同じころ、上皇は愛妾亀菊の所領である摂津の長江荘と椋橋荘の地頭を、やめさせろと迫った。院に近い西面の仁科盛遠への処分も、取り消せと求めている。執権の北条義時は、幕府の根幹が揺らぐとして拒む。弟の時房に千騎を与えて上洛させ、武力を背にした脅しをかけながら交渉もしたが、話はまとまらなかった。

後鳥羽は、皇子でなければ摂関家の子でもよいと、しぶしぶ折れ、幕府は摂関家の幼い三寅を鎌倉殿に迎えた。のちの九条頼経だ。鎌倉の主は、こうして決まった。

同じ年の七月にも、きな臭い事件があった。大内守護の源頼茂が、上皇の命を受けた在京の武士に攻められ、内裏の仁寿殿に籠って火を放ち、自害する。大内裏は焼け落ちた。再建の費用は幕府にも割り当てられ、公家も寺社も武士も渋る。上皇の不満は、募る一方だった。

承久三年四月二十日、順徳天皇は彗星の出現を理由に、四歳の子の懐成親王へ位を譲る。上皇になって身軽になった順徳は、討幕に積極的だった。土御門上皇は挙兵に反対し、摂政の近衛家実や、その父の基通をはじめ多くの公卿も、反対か消極的な構えを見せる。流れは、もう止まらない。

義時追討の官宣旨

四月の末、後鳥羽は城南寺の仏事の守護を名目に諸国の兵を集める。二十八日には、北面と西面の武士や近国の武士、大番役で在京していた武士ら、千余騎が院御所の高陽院に詰めた。五月十四日、京都守護の大江親広は京方についたが、同じ京都守護の伊賀光季は誘いを断った。道は、ここで二つに割れる。

翌十五日、光季の屋敷が襲われた。光季は少ない兵で奮戦の末に討ち死にしたものの、下人を落ち延びさせ、鎌倉へ急を知らせることには成功する。同じ日、上皇は五畿七道の御家人や守護、地頭に宛てて、義時追討の官宣旨を出した。三浦氏や武田氏ら有力な御家人には、別に院宣も送っている。

宛先に注意してほしい。追うべき相手として名指しされたのは、幕府ではなく北条義時個人だった。朝廷の狙いは、幕府そのものを倒すことだったのか、それとも義時一人を政治の場から外すことだったのか。近年は後者の説も出て、研究者の間でも意見が分かれる。

慈円は西園寺公経あての書状で、上皇は将軍問題でひどく腹を立てている、と書いた。『門葉記』に載る書状の話。挙兵の引き金は将軍の擁立への不満だったという見方は、こうした同時代の記録にも支えられている。

京方は楽観していた。朝敵になった以上、義時につく者は千人もいまい、と見たのだ。東国武士の庄家定は、義時方の武士は万を下るまい、自分も関東にいたなら義時に味方していた、と戒めて、上皇の不興を買った。

十八騎で鎌倉を出た泰時

五月十九日、伊賀光季の下人と西園寺公経の家司の三善長衡が、挙兵と光季の討ち死にを鎌倉へ知らせた。鎌倉の御家人たちは動揺する。少し遅れて京方の使者の押松も着いたが、警戒していた幕府方に捕らえられた。

尼御台の北条政子は、頼朝の恩は山より高く海より深い、と御家人に訴える。『吾妻鏡』はそう書く。ただ、声明を読み上げたのは安達景盛で、政子が庭先で自ら演説したと書くのは『承久記』のほうだ。同じ場面でも、書き手によって絵が違う。

御家人が演説に心を打たれて一つにまとまった、と見るのは、どうやら甘いらしい。甲斐国の武田信光が、出陣の後で隣国の小笠原長清に言い放つ場面が、慈光寺本の『承久記』にある。鎌倉が勝てば鎌倉に、京方が勝てば京方につくのが武士の習いだ、と。決め手は、損得の勘定。

十九日の軍議では、箱根と足柄で迎え撃つ案が有力だった。大江広元は、迷えば幕府方の結束が崩れるとして、すぐの出撃を主張する。政子も広元に賛成した。泰時は広元の進言を受けて、武蔵の軍勢を待たずに二十二日に鎌倉を発ったが、従う者は子の時氏ら十八騎にすぎない。

泰時は途中で鎌倉へ引き返し、上皇が自ら兵を率いて出てきた場合はどうするか、と義時に尋ねた。義時は答える。君の輿には弓は引けない、すぐに鎧を脱ぎ、弓の弦を切って降伏せよ、と。都から兵だけを送ってくるのなら、力の限り戦え、とも言ったという。『増鏡』が伝える場面。

幕府軍は進みながら膨れ上がり、東海道、東山道、北陸道の三手を合わせて、『吾妻鏡』によれば最後は十九万騎になった。京方が美濃へ向けた兵は、一万七千五百余騎。数の開きは大きかった。

宇治川の増水と閉ざされた門

六月五日、武田信光らの東山道軍が、大井戸の渡しで京方の大内惟信を破る。翌六日には、泰時と時房が率いる東海道軍の主力、十万騎が尾張川を渡り、墨俣の陣に攻めかかった。陣はもぬけの殻。杭瀬川で踏みとどまったのは、山田重忠だけだった。京方は総崩れになる。

京方は宇治と瀬田に兵を集めた。上皇は自ら武装して比叡山に登り、僧兵の力を借りようとする。延暦寺の返事は、衆徒の微力では東国の兵の強い勢いを防ぎがたいので、お断りする、というものだった。上皇が寺社を抑えてきたつけが、回ってきたのかもしれない。

六月十三日、宇治川をはさんで両軍がぶつかる。京方は橋を落とし、雨のように矢を射かけた。豪雨で川は増水し、幕府軍は渡れずに攻めあぐねる。翌十四日、佐々木信綱を先頭に、幕府軍は多くの溺死者を出しながらも、敵前で強引に川を渡り、陣を破った。京方は潰走した。

その夜、敗走した三浦胤義や山田重忠らは、最後の一戦をしようと、院の御所へ駆けつける。慈光寺本の『承久記』によれば、上皇は御所の門を固く閉ざし、駆けつけた彼らをそのまま追い返したという。山田重忠は門を叩き、大臆病の君に騙られたわ、と憤った。まあ、軍記物だ。台詞までそのとおりかは、分からない。

十五日、上皇は幕府軍に使いを送った。幕府軍は京へなだれ込み、寺社や京方の屋敷に火をかけ、略奪も働いた。上皇は、今回の乱は謀臣の企てで、義時追討の院宣は取り消す、と告げ、藤原秀康と三浦胤義の捕縛を命じる。見捨てられた胤義は東寺に立てこもり、兄の三浦義村の軍に決戦を挑んで自害した。重忠も、般若寺山で果てた。

七月に下った処分

乱は、五月十五日の挙兵から一か月ほどで終わる。後始末は容赦がない。七月九日、四歳の仲恭天皇は、即位の礼も大嘗祭も行われないまま、在位わずか七十八日で廃される。九条廃帝とも半帝とも呼ばれる。

後鳥羽は隠岐へ、順徳は佐渡へ流され、皇子の雅成親王は但馬へ、頼仁親王は備前へ送られた。討幕に反対していた土御門上皇は、自ら望んで土佐へ配流となり、のちに阿波へ移され、その地で病没した。都を追われたのは、五人。

上皇方の公卿のうち、一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂らは、鎌倉へ送られる途中で処刑された。坊門忠信らほかの近臣も、流罪や謹慎になる。没収された京方の所領は三千余か所に及び、多くに東国の御家人が地頭として入った。正直、重い処分。

後鳥羽に拘束されていた親幕派の西園寺公経は、内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導する立場に立った。京にいる御家人の支配は、すべて六波羅探題に委ねられた。朝廷は、幕府の目の下に置かれる。

後鳥羽の広大な荘園群は、没収された。かわりに院政を執ったのは、後鳥羽の兄の行助入道親王、のちの後高倉院で、荘園群はその手に寄進された。即位したのは、その子の後堀河天皇。実権は幕府が握ったままだった。

出家した上皇が乗った船

七月八日、後鳥羽は鳥羽殿で出家する。法名は良然とも金剛理とも伝わる。十三日に都を発った一行は、二十七日に出雲の大浜湊、今の美保関に着き、そこから船で日本海へ漕ぎ出した。海の向こうは、隠岐。

隠岐までは、沖合六十キロ余りの海路。供はごくわずかで、七人ほどだったとみられる。隠岐が選ばれた理由には、水が豊かで米もよく穫れ、食糧に困らない島だったことを挙げる解説がある。討幕に失敗した政治犯が、簡単には戻れない離島でもあった。

八月五日、上皇は海士郡の刈田郷に着いた。島の有力者だった村上氏が世話を引き受け、村上家に伝わる『村上家略記』によれば、翌六日に上皇を迎え入れたという。行在所は源福寺に置かれた。跡地は今は史跡で、すぐそばに火葬塚がある。

島で詠んだ歌と焼いた刀

島での上皇は、歌に打ち込んだ。配流のあと間もなく詠まれた『遠島御百首』は、後鳥羽の近臣たちに読まれ、隠岐での歌の中でも、もっとも広く親しまれた。我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け、という一首も、この百首に入る。島の口碑には、これを上陸の折の歌として語るものもある。

歌は、七百首近くにのぼる。命あれば茅が軒端の月もみつ知らぬは人の行くすえの空、という歌もその一つだ。『新古今和歌集』の改訂にも手を休めず、島で十八年かけて、のちに隠岐本と呼ばれる形に仕上げている。嘉禎二年には、都の歌人たちから歌を集めて『遠島御歌合』を催し、自ら判詞まで書いた。

都と島の行き来には、厳しい制限があった。それでも近臣は、海を渡る。上皇は島にいながら、家の運営も続けた。母の七条院が亡くなると、その所領は修明門院へ譲られたが、それは隠岐にいる後鳥羽の指示によるものだった。その所領が、修明門院の養う順徳の子らを支える元手になる。

刀にも熱を入れた。名のある刀鍛冶を島に呼んで鍛えさせ、仕上げの焼き入れを上皇が自分の手でした作もある、と伝わる。菊の紋を刻んだ刀は、菊御作の名で知られる。皇室の菊の紋の起源は、この刀の菊花紋だという説もある。

地元の言い伝えでは、上皇は毎日のように村上家へ茶を飲みに通ったという。後鳥羽さんが来たらお茶を進ぜませ、という言葉が、村上家には代々、言い伝えとして残っているらしい。村上家の伝えでは、上皇の食事は朝と夕の二回で、夕食には手間をかけた。

島の人たちは、牛同士を角突き合わせる牛突きを催して、遠い都から来た上皇を慰めようとした、という話もある。将棋も指したようだ。どれも土地に伝わる口伝で、いつの出来事なのか、年代までは確かめようがない。

焼火の神火という話

焼火山に、焼火神社がある。西ノ島の最高峰の八合目あたり、岩壁の洞窟に社殿を築いた神社で、航海安全の神として、遠く三陸の船乗りにまで信じられた。その縁起書に、後鳥羽が出てくる。

縁起が伝える話。隠岐に流された上皇が漁のための御幸に出て、暴風に遭う。歌を詠んで祈ると、波風はおさまった。今度は暗夜になって方角を見失い、さらに祈りを重ねると、海から神火が現れて、船を導いてくれた。着いたのが焼火山の西の麓、波止の港だったという。

上皇は一首詠んだ。灘ならば藻塩焼くやと思うべし何を焼く藻の煙なるらん、という歌だ。出迎えた翁が、何を焼く火の、と直したほうがよいと口を挟む。驚いた上皇が名を問うと、翁はこの地に久しく住む者で、今後は海の船を守ろうと答え、姿を消した。上皇は祠を建て、山は焼火山、寺は雲上寺と呼ばれるようになった。

別の書き方では、これは配流の船旅の途中の話になっている。縁起書で古いものは万治二年、一六五九年の奥書を持ち、承久から四百年以上もあとの書きものになる。時代が違う。船乗りたちの信仰に引き寄せて語られた話、と見る向きもある。

帰京を断られた年

文暦二年、一二三五年の春ごろ、九条道家が後鳥羽と順徳を都へ戻す案を持ち出したと、『明月記』は記す。執権の北条泰時は、受け入れなかった。泰時は、乱で幕府軍を率いた大将であり、乱の後始末を担った当人でもある。道家は仲恭天皇の叔父で、子の頼経は鎌倉の将軍だった。還京の話は、そこで頓挫。

村上家は船をたびたび都へ出し、ある史料によれば、帰京したいという上皇の手紙を、朝廷を通じて幕府に届けた。返ってきたのは、断りの一言。上皇は、戻ってくる船を待ちわびたという。

その二年後、嘉禎三年に書かれたと伝わる置文がある。万一この世の妄念に引かれて魔縁となるなら、世に災いをなすだろう、という趣旨だ。子孫が世を取ることがあれば、それはすべて自分の力のおかげだから、自分の菩提を弔うように、とも続く。魔縁は、魔物の意。

延応元年二月九日付の御手印置文は、国宝として水無瀬神宮に伝わる。手形を押した書状で、水無瀬と井内の荘園を近臣の藤原親成に譲ると約する、遺言とも呼ばれる文書だ。親成の一族はのち、上皇が離宮を構えた水無瀬の地に御影堂を建てて、亡き上皇を長く供養した。

二月二十二日、後鳥羽は行在所で亡くなる。享年六十。隠岐に着いてから、十九年がたっていた。遺体は刈田の山中で荼毘に付され、遺骨は近臣の藤原能茂が京へ持ち帰り、大原に納められたと伝わる。

平戸記が書いた死の連鎖

同じ年の五月、顕徳院という諡号が贈られた。徳の字がつく諡号を、怨霊の問題と絡めて論じる研究者もいる。その暮れから翌年にかけて、幕府の重鎮が相次いで世を去り、三浦義村は十二月に、北条時房は翌年の一月に亡くなった。

公家の平経高の日記『平戸記』は、この二人の死を後鳥羽院の怨霊のせいだと書いた。仁治三年、一二四二年に、乱の幕府軍を率いた北条泰時が死ぬと、これも祟りではないかという風聞が広まる。三人とも、乱の勝者の側の人間。ただ、書いたのは都の公家で、鎌倉の側の言い分ではない。

京の側でも、不幸が重なる。天福二年、一二三四年に、廃された仲恭と後堀河院が亡くなった。後堀河は、二十三歳。遺された四条天皇も、仁治三年の正月九日、十二歳で急死する。『百錬抄』や『五代帝王物語』は、いたずらで宮中にまいた滑石の粉で転び、そのまま死んだと書く。

四条の死で、幕府が立てた後高倉の皇統は途絶えた。九条道家は、順徳上皇の子の忠成王を推す。幕府は鶴岡八幡宮の神託を得たうえで、承久の乱に消極的だった土御門上皇の子、邦仁王を次の帝に選んだ。即位したのは、後嵯峨天皇。道家が望んだ形とは、違う結末だった。

その年の七月、顕徳院の号は後鳥羽院に改められた。理由には二つの見方がある。一つは、怨霊の噂を打ち消すためという見方だ。もう一つは、怨霊の噂が順徳の系統を推す側に有利に働き、後嵯峨の即位への批判に使われかねない、という見方だ。

順徳上皇は佐渡で、同じ年の九月十二日に亡くなった。在島は二十一年。後嵯峨が選ばれて、自分の子の即位も帰京も望みが絶たれた。『平戸記』は、そのために帰京を思い切ったのだと書き、絶食で命を縮めた可能性を指摘する研究もある。遺骨は翌年に都へ戻り、大原の後鳥羽院の法華堂のそばに安置された。

鶴岡八幡宮に建てられた今宮

『吾妻鏡』の宝治元年四月二十五日の条には、鶴岡八幡宮の北西の山麓に、後鳥羽院の怨霊をなぐさめる寺社を建てたとある。宝治元年は一二四七年、宝治合戦の直前。建てた理由は、史料によって違う。『神明鏡』は、前年の寛元の政変を院の怨霊の仕業と恐れたためだと書く。『皇代暦』は、将軍頼嗣の妻で執権時頼の妹の檜皮姫が病んだときの託宣のためだとする。

それが今宮。後鳥羽院を主神とし、順徳院と土御門院、それに護持僧の長賢をあわせて祀った。乱に勝った幕府の本拠で、負けた三人の院が祀られた。今も鶴岡八幡宮の境内には摂末社の今宮があり、後鳥羽、順徳、土御門の三上皇が祀られている。

水無瀬は、上皇が離宮を営んだ土地だ。そこの御影堂で、後鳥羽の霊は祀られた。『吾妻鏡』が成った十三世紀の末から十四世紀の初めにも、託宣は盛んに下り、祟りは続いたという。後嵯峨の皇統が定まったあとも、朝廷は怨霊の話を打ち消しきらず、供養を続けた。

島に残ったのは怨霊の話ではなかった

隠岐に残る後鳥羽院の伝承を調べた研究が、島根大学のリポジトリに載っている。その研究は、島の伝説が都で行われた怨霊の話とは全く無縁だと述べる。伝承の中身は、詠歌の話、上陸の話、焼火の話といった、流された院の歌物語が中心で、怨霊とは筋が違う。島の人が院を祖先の霊のように信仰する見方にも、同じ研究は触れる。島で語られる院は、歌の人だ。

源福寺の境内にあった火葬塚は、江戸時代に入るまでは、ただ石が置かれているだけの状態だったと伝わる。慶長十三年に隠岐へ流された飛鳥井雅賢が、そのありさまを嘆き、私財を投じて廟を建てた。のちに松江藩が修繕し、明暦四年には藩主の松平直政が御陵を造り直している。江戸の末、島の人が祠を建てた。名は後鳥羽院神社。

明治の初めの廃仏毀釈で源福寺は衰え、のちに隠岐神社をはさんで反対側の位置へ移った。明治六年、上皇の御霊は大阪の水無瀬神宮へ遷される。跡地は、宮内庁が管理する御火葬塚となっている。昭和十四年、没後七百年の年に海士町へ隠岐神社ができたのは、皇紀二千六百年の奉祝に合わせた計画の一つでもあった。

乱の呼び名も、時代で揺れた。江戸時代には、尊王の立場から承久の難と呼ぶ書き方も生まれる。大正九年版の国定教科書からは、上皇が起こしたのだから反乱ではない、という考えで、承久の変と書かれるようになった。戦後は『国史大辞典』などで、再び乱と書くのが主流になる。島根大の資料は、その時々の国家や為政者に都合のよい後鳥羽像があった、と整理する。

隠岐神社では、島の中学生が巫女を務めて承久楽を奉納し、この舞は隠岐神社にだけ伝わるという。海士町の人たちは、後鳥羽上皇をごとばんさんと呼んで親しんできた。

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