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石段はあと三十五段、時間にして三十秒足りなかった――天明三年の浅間山噴火に呑まれた鎌原村、「日本のポンペイ」の地下六メートルから出てきた二人の女

赤い橋の下をのぞくと、石段がまだ下へ続いている

群馬県の北西の端、嬬恋村の鎌原という集落に、どこにでもありそうな小さなお堂が建っている。萱葺きの屋根、十一面観音、境内には土産物屋。浅間山の火口から北へ十二キロ。まわりは見渡すかぎりのキャベツ畑だ。

お堂へ上がるには、まず小さな赤い橋を渡る。それから石段を十五段のぼる。普通に歩けば七、八秒で上がりきってしまう、何の変哲もない高さだ。

ただ、その赤い橋の欄干から下をのぞき込むと、様子がおかしい。橋の下に、石段の続きがあるのだ。掘り下げられた穴の底へ向かって、十五段目のさらに下に、同じ石段が沈んでいる。

あの下に、三十五段が埋まっている。

もともとこの石段は五十段あった。天明三年、西暦でいえば一七八三年の八月五日のことだ。浅間山から降ってきたものが、下の三十五段を六メートル近い深さで飲み込んだ。地上に残ったのは上の十五段だけ。その十五段を駆け上がりきった者だけが生き残り、間に合わなかった者は全員死んだ。

村の人口は五百七十人で、死者は四百七十七人。生き残ったのは九十三人だ。

昭和五十四年、その埋まった三十五段を掘った人たちがいる。地下六メートル、ほぼ最下段のあたりで、二体の人骨が出てきた。どちらも女で、一方がもう一方を背負う姿勢のまま、折り重なっていた。

しかも、ただの骨じゃない。髪の毛が残っていた。頭巾も残っていた。それだけじゃない。皮膚の一部と、目のあたりの組織が残っていた。

上の遺体は四十五歳から六十歳で、下の遺体は三十歳から五十歳。骨からは、この二人に血のつながりが認められなかった。

その日、鎌原村で何が起きたのか。あと三十五段、時間にしておそらく三十秒に満たない差が、なぜそこまで残酷に効いたのか。二百四十年以上たった今も、なぜこの場所には毎日人が詰めているのか。ここからが長い話になるけど、順番に見ていく。

五月九日から始まって、三か月かけて壊れていった山

天明三年の浅間山は、いきなり爆発したんじゃない。じわじわと三か月かけて壊れていった。

最初の噴火は旧暦四月九日、新暦でいえば五月九日。このとき記録されているのは鳴動だけで、灰が降ったかどうかも怪しい。それから一か月半近く沈黙する。六月二十五日に噴煙が上がり、東南東に灰が降った。また三週間黙る。

七月十七日には、北へ軽石。七月下旬からは、噴火の間隔がはっきり詰まり始める。七月二十七日から三十日にかけて、北東と東南東の二方向へ軽石と砂が落ちた。

この時期の降灰は遠い。会津、白河、佐渡、それに四百キロ以上離れた陸中大槌まで、灰の記録が残っているんだ。江戸でも空が汚れた。

八月二日から、噴火はほぼ連続になる。四日間、山は休まなくなった。噴煙柱は成層圏まで届き、偏西風に流されて東南東へ長くたなびいた。

麓の側はたまったものじゃない。軽井沢宿では夕立のように小石が降り、家が焼け、家が潰れ、中山道が一時不通になった。地元の古文書に残る「七夕の昼のやみ」というのは、旧暦七月七日の昼間が噴煙で夜のように暗くなったことを指している。

八月四日の夕方から翌五日の朝まで、約十五時間。浅間山はここで、生涯最大の力を出し切る。火砕物の降下量が跳ね上がり、山頂には新しい火砕丘が盛り上がった。

火口のまわりに高温の噴出物が猛烈な勢いで積もり、その重みで自分自身が崩れ、溶けて固まりながら北へ流れ出した。これが今の観光地「鬼押出し」の正体だ。溶けた岩が火口から静かに溢れたわけじゃない。降り積もった火砕物が押し固められて流れ出した、いわば火砕成の溶岩ってやつだ。

灰は主に東へ流れていたから、この十五時間、鎌原村は東南東の噴煙の真下じゃなかった。村の人たちは、山が唸り、空が暗く、地面が揺れる三か月をずっと耐えてきた。

でも、決定的な被害はまだ受けていない。そういう状態で、この朝を迎えた。逃げるという選択が現実味を帯びるほどの被害は、まだ来ていなかったのだ。

用水が止まった夜と、泥が湧き上がる沼

その一週間前から、山の中腹では変なことが起きている。

浅間山の北側の中腹に、当時「柳井沼」と呼ばれる沼があった。鬼押出しの溶岩の下に消えてしまったから、今はもう存在しない。役行者が浅間山を開いたときに名づけたという伝説まである古い沼で、毒蛇が水を吐く毒水だ、などと書かれた史料もある。硫黄や温泉が吹き出していたらしい。

上野国の毛呂義卿という人物が書き残した『天明三年七月砂降候以後之記録』には、こうある。七月の初め、滝原の者が草刈りに出て谷地を見たところ、泥が二間ばかり湧き上がっていた。二間といえば三メートル半を超える。それを見て恐ろしくなり、すぐに家財をまとめて立ち退いた者がいた、と。

もっと生々しいのが、無量院の住職が伝えた話だ。鎌原村の用水は、浅間山の中腹から引いてきていた。生活の水を山に頼っていたわけだ。その用水が、七月七日の晩、ぱたりと止まった。

村の長が不審に思い、八日の未明、水源を見に行った。そこで彼が見たものは何だったか。山のように泥が湧き出している光景だった。

彼は飛鳥のごとく引き返し、村に戻ると大声で叫んだ。大変だ、家財も捨てて逃げろ、逃げろ。自分の家に戻り、取るものも取りあえず、近所の者を引き連れて高い山へ逃れた。この一団は命を拾った。

鎌原村には、ちゃんと警報が出ていたわけだ。出ていたのに、村全体はそれで動かなかった。三か月も唸り続けている山に、人はどうしても慣れる。用水が止まっただけ、泥が湧いただけ。似たような騒ぎは何度もあっただろうね。

真夜中に叩き起こされて、家を捨てて山へ逃げろと言われて、素直に従える人間がどれだけいるか。

八月五日の朝、村では朝飯が炊かれ、馬に飼葉が与えられ、いつもの一日が始まっていた。山は? 鳴っていた。ただ、それはここ何十日も鳴りっぱなしだった。

四ツ半、黒鬼が大地を動かした

午前十時ごろに起きた大爆発の音は、京都まで聞こえたと伝わる。中国地方、四国でも聞いたという記録がある。爆発の直後、浅間山の北側の斜面から、何かが押し出した。

大武山義珍という人が書いた『浅間焼出大変記』の記述が、ほとんど文学のように怖い。原文を少し崩して引くと、こうなる。

七月八日の四ツ半どき、一番目の流れの先頭には、黒い鬼と見えるようなものがいて大地を動かしていた。家の囲いも、森も、何百年たったか分からない老木も、みな押しくじいた。砂の音が津波のように土を掃き立て、雷電が鳴り響いた、と。

二番目の流れは火石を百丈あまり、三百メートルも打ち上げた。青竜が紅の舌を巻き、両眼は日と月のようだった。まるで神話の怪物の描写だよな。

一時ばかり闇夜となり、火石の光が百万の雷のように響き、天地が崩れるかのようで、炎は空を突き抜けるばかりだった。田も畑も高い場所も残らず、ただ一面の泥の海のようになった。どこが畑の境だったか、誰にも分からない。老若男女、流れ死んだ。

この「流れ」が何だったのかは、実は今でも決着していない。長いこと高温の火砕流と考えられ、熱泥流という表現も広く使われてきた。ただ後述するように、鎌原村から出てきた品々は焦げても燃えてもいなかった。だから近年は「鎌原土石なだれ」「鎌原岩屑なだれ」と呼ぶ研究者が多い。

内閣府の報告書は、両方の性質を持つという判断から「鎌原火砕流/岩屑なだれ」という折衷的な言い方を採っている。

はっきりしているのは、その規模と速度だ。総量はおよそ一億立方メートルで、時速百キロを超える速度で北へ突進し、途中の地面をえぐり取りながら自分の体積を膨らませていった。

浅間山北麓に積もった分だけで四千七百万立方メートル、平均の厚さ二メートル二十センチ。中に含まれていた巨大な岩塊は、長径二十メートル超がざらで、最大では六十メートルを超えるものがある。着地したときにまだ高温で、内部のガスで膨れ続けた痕跡がある。六十メートルの焼けた岩が飛んできて着地したわけだ。

山頂から鎌原村までは十二キロだから、時速百キロなら七分あまり。爆発音を聞いてから村が消えるまで、十分もなかった。

五百七十人のうち、四百七十七人

鎌原村は信州街道の宿場だった。標高九百メートル弱で、中山道の脇街道に面し、人口五百数十人、戸数は百軒から百二十軒ほど。馬が二百頭いた。

単なる山村とは違う。荷を運び、人を泊め、街道の金が落ちる村だ。

そこへ流れが来た。村の形を思い出してほしい。村は南北に長く、街道に沿って町並みが伸びていた。高台に観音堂があり、そこへ五十段の石段が上がっていた。

毛呂義卿が書き留めた伝聞はこうだ。七月八日の昼四ツ前、おびただしく焼け上がり、火石を吹き飛ばして谷地に落ち込み、谷地の泥が湧き上がって松林を抜き、鎌原へ押しかけた。町の中の二百軒ばかりが、一軒残らず押し抜かれた。横町の者は後ろの山へ六十人ばかり逃げ上がることができたが、竪町の者はわずかに五人しか助からなかった、と。

同じ村の中で、いた場所によって生存率がここまで割れている。地形と、その日その時間にどこにいたかが、すべてを決めた。

生き残ったのは九十三人。内訳にはいくつかの伝えがある。観音堂の石段を駆け上がった者、村の後ろの山へ逃げ上がった者、そしてたまたまその日村の外に出ていた者、この三つだ。ある史料は、鎌原の村人のうち九人ほどが他国にいて死を免れた、と記している。奉公や出稼ぎに出ていた者が三十九人いた、という数字もある。

死者数は史料によって揺れる。四百七十七人が最も広く使われる数字で、これは『浅間山焼荒之日并其外家并名前帳』という当時の帳面に基づく。ほかに四百六十六人、四百八十三人という数字も残っている。

戸数も九十三軒、九十五軒、百十八戸、百五十二戸と、史料でばらつく。二百四十年前の、村役人がほぼ全滅した状況での集計だ。揃うほうがおかしいよな。

馬は二百頭のうち百七十頭が死んだ。全滅したという記録もある。耕地の九十五パーセント以上が使い物にならなくなった。

村は、五、六メートルの土砂の下に消えた。

吾妻川が詰まり、そして抜けた

話はここで終わらない。鎌原村を埋めた流れは、そのまま北へ進み、村の北を流れる吾妻川に落ちた。

大量の土砂と岩塊と、家と、馬と、人が、一気に川へ雪崩れ込む。川は詰まり、詰まった水は逆流して、上流の村を飲み込んだ。それで終わりじゃない。ほどなく、抜けた。

ここから先が、この災害の本当の広がりになる。吾妻川を下った泥流は「天明泥流」と呼ばれる。

長野原村では想定水位が五十五メートルに達した。村は完全に覆われ、二百人以上が死んだ。薬師堂の階段の下から三段目まで泥が埋まり、堂だけが残ったという伝承が残っている。琴橋も須川橋も流された。

対岸と連絡が取れず、矢に手紙を結んで射たが川幅が広くて届かず、竹で筏を組んで矢文を取りに行った、という記録がある。

川原湯の不動院の住職は、間一髪だった。泥の流れる音で目を覚まし、本尊を拝もうと障子を開けたら、竹藪が淵へ引き込まれるように見えた。ここからは一瞬の勝負だ。走り出た瞬間に寺が倒れた。百メートルほど南の観音堂を通り過ぎると、その堂も倒れた。

まだ終わらない。石垣を駆け抜けたところで、後ろから泥が打ち当たる音がした。振り返ると、三メートル半ほど下まで泥が上がっていた。単衣一枚で死を逃れた、と記されている。

吾妻渓谷の狭窄部では、巨大な岩塊と流木が噛み合って、高さ六十メートルから七十メートルの天然のダムができた。満水になるまでおよそ九分で、そこから決壊した。

東吾妻町に伝わる『天明浅間山焼見聞覚書』はこう書く。波の高さは五丈やら十丈やら、二度見て見定めた者はいない。一の波、二番の波、三番の波と、三度押し出した、と。

渋川で利根川に合流すると、今度は利根川の本流が詰まった。粥のように密度の高い泥が本流をせき止め、四キロ上流まで逆流して満水になった。前橋城でも被害が出ている。利根川に面した石垣が、五百四十メートルにわたって崩れ落ちた。

火石はまだ熱かった。研究者が古地磁気を測ったところ、こんなことが分かっている。山頂から七十キロ離れた利根川合流点付近まで、火石はキューリー温度以上の高温を保ったまま流れ着いていた。

とんでもない熱量だよな。堆積したあとも十二、三日は煙を上げ続けた。雨が降るたびにひび割れ、小さくなっていった。

江戸川の中洲が、遺体で洲になった

流れたのは泥だけじゃない。遺体が流れた。

伊勢崎市の戸谷塚のあたりには、七百体あまりが流れ着いたという。利根川と烏川が合流する地点で、当時の川筋の構造上、漂流物が溜まりやすかった。下流の中島村では三十六体を拾い上げて葬った。

深谷宿の向伯輔が書いた『泥濫觴』は、この事態を「七不思議」としてまとめている。泥河の人魚、というのは泥水の中を流れてきた遺体のことだ。ほかに、七夕の昼のやみ、夕立の砂、屋根の砂はき、水中の大石、竜の毛ふり、利根の干潟。

泥が流れてくる前、利根川の水が一滴も流れなくなり、三月の潮干のように干上がって魚がことごとく取れた、とも書いている。

『解体新書』の杉田玄白は、このとき五十歳で江戸にいた。彼の『後見草』に、下総国金町村の名主が郡代に訴え出た内容が引かれている。江戸川の水色が泥のように変わったので不審に思っていると、根こそぎ抜けた大木、人家の材木、調度の類が細かく打ち砕かれて流れてきた。

それに交じって、人の手足の切れたもの、人馬の死骸が数限りもないほど川一面に浮かんで、引きも切らない。宵から夜半にかけて次第にまばらになり、川下へ流れて行った、と。

幸手宿からの訴えは、もっとひどい。僧俗男女の屍が、水の色も見えないほど浮かんで流れてきた。手足が切れたもの、首のないもの。子を抱いたまま、蚊帳に巻かれたまま、機物を腰にまとわりつかせたまま。あるいは手と手を取り交わしたまま、体が半分切れ離れたまま。

上州群馬郡川島村と書きつけた荷駄を見つけて拾い上げ、人に尋ねると、伊香保という湯治場から遠く離れた村の名だと言われた。

東京都江戸川区の善養寺に、「天明三年浅間山噴火横死者供養碑」という石碑がある。江戸時代の随筆『親子草』には、市川御番所の手前にある毘沙門洲という洲の話が出てくる。船頭の話として、こう書かれている。浅間山が焼けたとき、わずかな洲だったところに人馬がことごとく流れ来てこの洲に掛かり、かくのごとく大きな洲になった、と。

遺体が積もって、中洲が大きくなった。

下小岩村の人たちは、それを一体ずつ収容して寺の無縁墓地に葬り、寛政七年の十三回忌に石碑を建てた。碑は昭和三十年ごろに行方不明になり、昭和四十六年に廃石の中から見つかって、現在の場所に建て直されている。

同じような供養碑は、吾妻川、利根川、江戸川の流域に百二十か所近く点在する。葛飾の柴又帝釈天には、噴火から十日後の七月十八日という早さで建てられた碑がある。

火口から百五十キロ以上離れた場所の人たちが、見も知らぬ上州の百姓の骸を川から引き上げて、二百年以上たった今も法要を続けているんだ。この災害の異様さは、その射程の長さにもある。

昭和五十四年、五十段目を掘り当てる

鎌原の村は、そのまま土の上で再建された。埋まった村の上に、新しい村が載ったわけだ。石段の上の十五段は、ずっと地表に出たままだった。

村には、あの石段は昔は百二十段あった、いや百五十段あった、という言い伝えがあった。

昭和五十年、地元の観音堂奉仕会が、十日ノ窪と呼ばれる場所で試掘を始める。自分たちの先祖がどう暮らしていたかを知りたい、というのが動機だった。この素人の試掘が呼び水になり、昭和五十四年、学習院大学の大石慎三郎を中心とする「浅間山麓埋没村落総合調査会」が本格的な発掘に入った。

文部省の科学研究費の総合研究として組まれたもので、研究代表者は日本近世史の児玉幸多だ。

調査団は、伝承の百二十段を採らなかった。地形と土石なだれの堆積物の深さから逆算して、五十段あたりに最下段があるはずだと踏み、その位置を掘った。

大石はのちに、このときの心境をこう書き残している。天明三年の悲劇の日、人々は我先にと必死になって観音堂めがけて駆けつけたはずである。無事に駆け上がった人もあるが、いま一歩というところで背後から押し寄せた流れに呑まれた人もいるはずである。この埋まった石段のどこかに、そんな人がいるのではないか。

重機が入り、地下へ掘り進んだ。石段が、次々に現れた。十六段、二十段、三十段。堆積物の厚さは想定どおりだった。地下六メートル、四十九段目から五十段目のあたりで、掘削が止まった。

何が起きたか、もう分かるよね。

白骨が出た。二体。折り重なっていた。

両方とも女だった。状態がまた生々しい。ほとんど白骨化していたが、一部はミイラ化しており、髪の毛が残り、頭巾が残り、皮膚と目のあたりの組織が残っていた。片方の髪は白髪だった。

問題は姿勢だ。一方がもう一方を背負っている形だった。背負われている側の腰は曲がっていた。

百二十段、という話はどうなったか。石段は、伝承の百二十段ではなく五十段だった。伝承は外れたわけだ。だが「生死を分けた十五段」という、もうひとつの言い伝えのほうは、最悪の形で当たった。

このニュースは全国を駆けめぐった。昭和五十八年には、イタリア文化財省のポンペイ遺跡総監督が嬬恋を視察に来ている。「日本のポンペイ」という呼び名は、このころ定着した。

上の女は四十五から六十歳、下の女は三十から五十歳

出土した二体は、その後、形質人類学的な鑑定にかけられた。

背負われていた側、つまり上になっていたほうは、四十五歳から六十歳。背負っていた側、下になっていたほうは、三十歳から五十歳だ。内閣府がまとめた資料には、はっきりとこう書かれている。お互いに血縁関係がないことがわかった、と。

この一行、よく読むととんでもないことを言っている。

発掘に立ち会った専門家と村の人たちは、当初こう推測した。岩なだれから逃れようと、嫁が姑を背負って、必死に高台の観音堂を目指したが、途中で力尽きたのではないか、と。血縁がないという鑑定結果は、この「嫁と姑」という読みを強く支持する。

江戸期の村で、三十代から四十代の女が、四十代後半から六十歳の血のつながらない女を背負って走る。そういう関係といえば、まず嫁と姑が浮かぶ。

ただ、ここは慎重にならないといけない。話はそんなに単純じゃない。

というのも、別系統の説明が並行して流通しているからだ。事典類には、こんな記述が載っている。二体の頭蓋骨から顔を復元したところ、よく似た顔立ちだったので、娘と母、あるいは歳の離れた姉妹など近親者と考えられる、と。

地元の住民も「おそらく娘が母を助けようと懸命に石段を上ったんだろう」と語ってきた。血縁がないという鑑定と、顔が似ていたから近親という推定は、正面からぶつかる。

年齢の推定値そのものにも、資料によって幅がある。四十歳前後が六十歳前後を背負っていた、と書く案内板もある。五十から六十歳を三十から五十歳が背負っていた、と書く資料もある。骨からの年齢推定はもともと十年単位の幅が出るものだ。江戸期の人骨で誤差が出ないほうがおかしい。

もっと根本的な問題もある。二体が折り重なっていたからといって、「背負っていた」と断定できるのか、という点だ。高速で流れてきた土砂に巻き込まれて倒れた二人が、たまたま重なった可能性は、物理的には排除できない。

ただ、この地点については、土砂災害の研究者からこんな見立てが出ている。遺体が原型をとどめていたことから、ここに到達した時点で流れの速度はほぼゼロだった、というものだ。台地状の尾根を回り込んで、勢いを失った土砂が静かに積み上がった、という現場の状況だ。

流れが遅かったのなら、遺体の姿勢は生前の姿勢を相当保っている理屈になる。この点は「背負っていた」説に有利に働く。

結局、確実に言えるのはここまでになる。二人の女が、石段の一番下で、重なって死んだ。一人は年上で、腰が曲がっていた。一人は年下だった。ここまでは骨が語る事実だ。

二人は同時にそこにいて、二人とも上へ行けなかった。血縁があったかどうかは、資料によって言うことが違う。

それでもこの二体が二百四十年後の人間を打つのは、血縁の有無より、三十五段という距離のほうだと思う。石段三十五段は、若い女が一人で走れば二十秒かからない。人を背負っていても、一分はかからない。その一分が、なかった。

学習院大学から出た一冊の報告書が書き換えたもの

昭和五十七年三月、学習院大学から一冊の報告書が刊行された。題は『天明三年(一七八三)浅間山大噴火による埋没村落(鎌原村)の発掘調査』。昭和五十六年度の文部省科学研究費、総合研究Aの研究成果報告書だ。

この報告書がやったのは、考古学と歴史学と火山学と土壌学を一つのテーブルに載せたことだった。近世史の研究者が古文書を読み、考古学者が家屋を掘り、火山学者が堆積物を見て、土壌学者が埋没した土壌を分析する。当時としては相当珍しい編成で、おかげでいくつもの通説が引っくり返った。

一番大きいのは、鎌原村の暮らしぶりの像が変わったことだ。

十日ノ窪の埋没家屋からは、千二百点とも千五百点とも言われる生活用品が出てきた。掘る前は、山奥の貧しい宿場という漠然とした像があった。蓋を開けてみたらどうか。出てきたのは、それとだいぶ違うものだった。

ガラス製の鏡、べっ甲の髪飾り、漆塗りの櫛、印鑑、そして佐賀の伊万里焼。美濃と瀬戸の焼き物も日常的に使われていた。北関東で瀬戸物が普及するのは明治から大正、というのが当時の常識だったから、これはひっくり返った。天明三年の鎌原村は、街道を通じて相当に活発な交易をしていた村だったわけだ。

もうひとつ大きかったのが、焼けていなかったことだ。

延命寺跡の発掘に立ち会った土砂災害の研究者は、こう記録している。延命寺の建屋の木材や生活用品は、ほとんど炭化していなかった。堆積物の中に高温だった本質岩塊は少なく、埋蔵物はあまり焼けていなかった、と。

これは決定的だった。高温の火砕流に襲われたのなら、有機物は炭になっていないとおかしい。木は焼け、布は消え、髪の毛など残るわけがない。

なのに、石段の二体には髪の毛が残っていた。頭巾も残っていた。まだある。家からは漆器が出た。

ならば、この村を埋めたのは高温の火砕流じゃない。比較的低温の乾いた土砂の流れだった、という結論になる。

この観察が、のちに早川由紀夫や井上公夫らが「鎌原土石なだれ」「鎌原岩なだれ」という呼び方を採用する根拠のひとつになった。鎌原の堆積物には本質岩塊が一割以下しか含まれておらず、大部分は浅間山北部の火山体を作っていた土砂だ、という分析も出てきた。

ただ、これで決着したかというと、そうじゃない。荒牧重雄は、巨大な本質岩塊を含む高温の火砕流が流下して地面を削り取ったと考えた。田村知栄子と早川由紀夫は、鬼押出し溶岩の先端が柳井沼に達したときに岩なだれを起こして熱雲が発生したと考えた。ここまでで、もう説が二つに割れている。

井上公夫らは、中腹の柳井沼付近で大規模な水蒸気爆発が起きたと考えた。嬬恋郷土資料館の関俊明は、噴火をきっかけに大規模な地すべりが起きたという見方を示している。四十年たっても、あの日あの山で何が起きたのかは、まだ確定していない。

幕府の役人が見た村と、随筆に残された知恵

災害の直後、江戸幕府は勘定吟味役の根岸九郎左衛門鎮衛に被害調査を命じた。のちに佐渡奉行、勘定奉行を経て江戸南町奉行になる人物だ。

根岸が江戸を発ったのは噴火から五十日後、八月二十八日。現地を細かく回り、村ごとの被害記録をまとめて『浅間山焼に付見聞覚書』として幕府に報告した。彼はそこで、正直に「分からない」と書いている。

泥や石がどこから湧き出したのか、聞き取った。ところが、浅間の絶頂のいわゆる御鉢から溢れたという者もあれば、中腹から吹き破ったという者もある。どちらとも決められない。浅間の近くの者に聞いても、はっきりしない。

その時は命を失わないように急いで逃げることを第一に考えていたので、ことごとく見届けてはいない、と申す者が多い。この点は全く事実だと聞こえる、と。

逃げている人間は、何が来たかを観察していない。当たり前の話だが、これを幕府への公式報告書に書ける役人はなかなかいない。

根岸はその後、幕府直轄工事の総支配役として現地で直接指揮を執った。随筆家でもあった彼は、『耳嚢』という随筆集に、鎌原で見たことを書き残している。

当時の百姓は家筋や素性というものにとにかくこだわっていた、と根岸は書く。相手によって挨拶の仕方まで差別があり、今は金持ちでも古くからの由緒ある家でなければ座敷にも上げない、というようなことがあった。

そこへ、村が消えた。

ここからが本題だ。被災者を収容する小屋を建てた当初、三人の世話役はこの点に気を配った。大笹村の名主の黒岩長左衛門、干俣村の干川小兵衛、大戸村の加部安左衛門。いずれも近隣の有力百姓だ。

彼らは生き残った者たちを集めてこう言った。このような大災害に遭っても生き残った九十三人は、互いに血のつながった一族だと思わなければいけない。彼らは全員に親族の誓いをさせ、家筋と素性の差を取り払った。

士農工商の世で、身分と家格をその場で無効にした。とんでもない決断だよな。

妻なき人の妻となり、主なき人の主となり

家族の組み替えは、そのあとに来る。

九十三人のうち、夫婦が揃っていたのは二十人ほどしかいなかった。あとは全員、家族の誰か、あるいは全員を失っている。

三人の世話役がやったのは、機械的といえば機械的な操作だった。夫を亡くした妻と、妻を亡くした夫を再婚させる。子を亡くした老人に、親を亡くした子を養子として与える。老夫婦だけになった家には若者を入れる。そうして九十三人を、実際に一つの一族としてまとめ直した。

日付まで残っている。天明三年十月二十四日、鎌原で七組の婚礼が行われた。十二月二十三日には、安治郎、富松、千之助の三組の婚礼が行われた。合わせて十組。世話役たちは、その門出に酒と肴を贈って祝った。

村は十世帯に再構成された。土地はどうしたか。被災を免れた土地は、九十三人に均等に配分された。用水の通る道に面して、東西に十間ずつ、短冊状に平等な地割りがなされた。

この区画は今も石の仕切りとして鎌原に残っている。土地の広さを均等に割る、という発想そのものが、身分制社会の村としては異常だ。

幕府は八月に食糧代を渡し、九月から御救普請を始めた。埋まった田畑のうち二十九町余の再開発と、総延長七千七百メートルに及ぶ道づくりで、費用は八百五十両あまり。

鎌原の生き残りだけでは人手が足りないので、近隣の村々から人足を募り、賃金は幕府が出した。その賃金のおかげで、周辺の困窮者たちも冬を安楽に過ごせたという。工事を請け負ったのは、あの黒岩長左衛門だった。

天明四年正月には十一軒が新築された。間口五間半、梁間三間が組頭と百姓代の二軒。残りは五間、梁間二間半だ。

この復興資金には、遠くからの金も入っている。噴火被害の復旧工事に幕府が投じた費用の大半にあたる十万両を、熊本藩が負担したと伝わっている。今の金で百億円ほど。藩の財政だけでは足りず、藩士や領民から寄付を集めたという。その十万両の一部が、鎌原にも回された。

二百三十三年後の二〇一六年、熊本地震のあと、鎌原地区の住民は義援金を集めて熊本へ送っている。恩返しのつもりだ、と。

復興の道のりは長かった。三十年後に二十一軒。三十三回忌に石碑を建て、四百七十七人全員の戒名を彫った。参道の入口に今も立っているその碑を読むと、「水」「流」という字がやたらに目につく。噴火から八十六年後の明治二年になって、村の人口はようやく元の規模に戻った。

多くの火山災害では、生き残った住民は避難した先で新しい町を作る。鎌原は、同じ場所に戻って、埋まった村の上に村を建てた。江戸時代は自由な移動が許されないという制度的な制約もあったが、それだけでは足りない。九十三人は、四百七十七人が埋まっている土の上に住み続けることを選んだのだ。

二百四十年、和讃が止まらない

もう一人、この物語に決定的な役割を果たした人物がいる。信州善光寺大勧進の第八十世住職、等順だ。

等順は天明二年に善光寺へ入ったばかりだった。翌年、浅間山が焼けた。そこからの動きが早い。彼は鎌原に駆けつけ、物資の調達に走り回り、観音堂に回向柱を建て、三十日間、被災者と一緒に念仏を唱え続けた。

被災者一人につき白米五合と銭五十文を、のべ三千人に施した。もう一つある。悲しみに沈む人々のために、融通念仏の血脈譜というお守りを新しく作って配った。古典落語の「お血脈」の由来だ。

翌天明四年、等順は善光寺で追善大法要を営み、被災者千四百九十名全員の名を記した経木塔婆を被災地へ送った。この千四百九十という数字は、今も吾妻川沿岸の犠牲者数の根拠のひとつになっている。

天明五年、噴火の三回忌の年に、等順は善光寺の本堂の前に回向柱を建て、初めての回向を営んだ。今の善光寺御開帳で、七年に一度、本堂前に立てられて数百万人が触れに来るあの回向柱は、ここから始まった。日本有数の宗教行事の原型が、鎌原の犠牲者供養にあるわけだ。

二〇二三年十一月、善光寺大勧進の第百四世貫主が鎌原観音堂を訪れ、噴火二百四十年の供養を営んだ。現役の大勧進住職が鎌原で供養したのは、等順以来二百四十年ぶりだった。

等順は、鎌原に今も残る「浅間山噴火大和讃」の中に登場する。夜ごと泣き続ける被災者の声を止めた「来迎の聖」として。

この和讃が、恐ろしい。明治の初めに作り直されたものらしいが、元はもっと古い。節をつけて唱えられる歌詞の一部を引く。

村村あまたある中で、一のあわれは鎌原よ。人畜田畑家屋まで、皆泥海の下となり。牛馬の数を数うれば、一百六十五頭なり。人間数を数うれば、老若男女諸共に、四百七十七人が、十万億土へ誘われて。

残りの人数九十三、悲しみさけぶあわれさよ。観音堂にと集まりて、七日七夜のその間、呑まず食わずに泣きあかす。

隣村有志の情けにて、妻なき人の妻となり、主なき人の主となり。細き煙を営みて、泣く泣く月日は送れども、夜毎夜毎の泣き声は、魂魄子の土に止まりて、子供は親を慕いしか、親は子故に迷いしか。

災害の統計が、そのまま歌になっている。何頭死んだ、何人死んだ、残りが何人。「妻なき人の妻となり」という、あの家族再編の決定が、ほとんど事務的な調子で歌い込まれている。

この和讃を、鎌原の人たちは今も唱えている。月に二回、集まって念仏とともに唱える。以前は各家を時計回りに回っていたが、近ごろは多目的センターに集まる形になった。四百七十七人全員の名前と当時の年齢が記された掛け軸を掲げて唱える。

毎年八月五日には供養祭があり、観音堂には当番が決められていて、二月を除いてほぼ毎日、誰かが詰めている。

掘った人、守ってきた人、訪ねた人

この場所に関わった三人の話を、それぞれ紹介したい。

延命寺の発掘現場に立った研究者

一九九〇年の十月、土砂災害を専門とする井上公夫は、鎌原観音堂のすぐ北側にある延命寺跡の発掘現場を見学した。彼はそれまで、天明三年の浅間山北麓を襲ったのは高温の火砕流だという通説の中で仕事をしていた。

現場で、彼は何を見たのか。それは予想と違うものだった。延命寺の建屋の木材も、寺で使われていた生活用品も、ほとんど炭化していない。堆積物の中の高温だった本質岩塊は少なく、埋蔵物はほとんど焼けていない。これは、高温の流れが村を襲ったという説明と矛盾する。

彼はその後、前橋市に住む萩原進を何度も訪ねる。萩原は一九一三年生まれ。浅間山の天明噴火に関する史料を六十年にわたって収集・整理し、『浅間山天明噴火史料集成』全五巻を編んだ人物だ。井上は萩原の自宅に何度も足を運び、一点ずつ史料の中身を教えてもらった。

史料の解釈にあたっての原則も、このやり取りの中で固まっていった。書かれた日付と作者の居住地が明確なものを重視し、作者の居住地付近の記載は信憑性が高いと判断する、という原則だ。

萩原の家で、井上はある絵図の模写を見せられる。安中の美濃部家が持っていた『浅間山嶺吾妻川村々絵図』を、萩原が書き写したものだ。浅間山の中腹に、青く塗られた沼が描かれていた。柳井と書かれている。今はもう存在しない沼だ。

この模写が、井上らを「中腹噴火説」へ導いていく。萩原は一九九七年に亡くなった。井上は北海道大学の荒牧重雄の研究室にも通い、柳井沼と中腹噴火の可能性について何度も議論した。今も結論は出ていない。それでも、四十年前に一人の研究者が発掘現場で「焦げていない」と気づいたことが、火山学の議論を動かし続けている。

観音堂を守り続けてきた人たち

一九七九年に石段から出た二体を最初に弔ったのは、村の人たちだった。観音堂で通夜が営まれ、故人を悼んだ。二人の身元は分からない。戒名も、遺族も、誰の家の嫁だったのかも分からない。それでも村は、二百年近くたって出てきた二人を、自分たちの先祖として弔った。

鎌原観音堂奉仕会という組織は、地元の鎌原地区の人たちで構成され、交替でお堂に詰めて、先祖の供養を一日も欠かさず営んでいる。観音堂の横には「おこもり堂」と呼ばれる建物がある。当番の人がそこにいて、訪ねてきた人にキャベツの漬物とお茶を無料でふるまう。頼まれれば解説もするし、御朱印も書いてくれる。

この人たちは、噴火を生き延びた九十三人の直系の子孫だ。

二〇二〇年に鎌原を訪ねた新聞記者が、奉仕会の人たちに質問している。なぜ二百年以上も続いているんですか、と。返ってきた答えは、こうだった。

この土の下に先祖が埋まっている。弔わなきゃ、と特に意識することなく続いてきている。なぜと言われても、と。

理由がないのだ。義務でもなく、観光のためでもなく、行政の事業でもない。ただ土の下に自分の先祖が埋まっているから続いている。

二〇一六年の時点で、和讃会の平均年齢は七十五歳を超えていた。春の彼岸には「身護団子」という団子を供える。八月五日の供養祭には、伊勢崎市の戸谷塚や境中島の住民が参列する。遺体が流れ着いたのを弔った縁で、今も交流が続いているのだ。

二百四十年前に上州の川べりで骸を拾った人たちの子孫と、その骸が流れ出した村の人たちの子孫が、毎年同じ場所で手を合わせている。

偶然、供養祭に出くわした人

二〇一五年八月五日、会津泉という人物が、小学五年生の孫を連れて浅間山に来ていた。孫の夏休みの自由研究のテーマが「火山」だったからだ。ネットや本で調べるより本物を見たほうがいい、というのが祖父の言い分だった。ここまでは、ごく普通の夏休みの話だ。

鬼押出しで溶岩を見て、浅間火山博物館に寄り、群馬側に下りて嬬恋郷土資料館へ足を伸ばした。すると、近くから笛の音が聞こえてきた。盆踊りの稽古かと思って行ってみると、獅子舞をやっている。テントが張られ、何かの行事が始まろうとしていた。

「浅間押し二百三十三回忌供養祭」だった。二百三十三年前の災害の法要を、今もやっている。

読経が始まったので、彼はいったん資料館に入り、埋没家屋から出てきた茶碗や日用品を見た。外に出ると、経とは違う歌声が聞こえてきた。お婆さんたちが十五人か二十人、節をつけて何かを歌っている。歌詞はよく分からなかったが、当時の悲惨な状況を歌っていることだけは伝わった。それが和讃だった。

ここで彼の経歴が効いてくる。彼は東日本大震災のあと、災害の記録と伝承をどう残すかという問題に、ずっと関わってきた人だった。石巻の大川小学校の遺族にこの話をしたら、驚かれた。無理もない。明治や昭和の大津波の教訓を忘れてしまったことを悔やんでいた気仙沼や釜石の元防災課長にも話したら、やはり驚かれた。

翌年、彼はクラウドファンディングを立ち上げる。鎌原観音堂和讃会の人たちを、南三陸町で開かれる郷土芸能大会「三陸海の盆」に招待するためのバス代だった。目標は四十万円。これは達成された。

平均年齢七十五歳を超える和讃会の人たちは、「ぜひとも三陸にみんなで行って、供養の念仏を捧げたい」と言った。考えてみてほしい。二百三十三年前の被災者の子孫が、五年前の被災者のところへ念仏を唱えに行った。

天明の飢饉は、本当に浅間山のせいなのか

学校で習う話では、浅間山の噴火が天明の大飢饉を引き起こしたことになっている。火山灰が日射を遮り、冷夏になり、作物が実らず、全国で百万人が死んだ、と。

この因果関係は、今ではだいぶ怪しくなっている。

一七八三年という年が、そもそも異常だった。話はいったんアイスランドへ飛ぶ。六月八日、アイスランド南東部のラキ火山が割れ目噴火を始めた。「炎のカーテン」と呼ばれる噴火が半年以上続き、大量の二酸化硫黄とフッ素が放出された。アイスランド国内では、人口五万人のうち一万人が餓死している。

同じ年、グリムスヴォトン火山も長期の噴火に入った。日本では、四月に青森の岩木山が噴火し、五月から浅間山が噴火した。

規模が違う。ラキ火山が出したマグマの量は、浅間山の約三十倍。放出された火山ガスの量は比較にならない。ラキの硫黄は北半球に広がり、ヨーロッパの平均気温を約一度下げ、北米のフィラデルフィアでも気温低下が観測された。

ベンジャミン・フランクリンが一七八三年の異常気象について書き残し、大噴火が気象に影響しうると初めて指摘したのも、この年の出来事だ。

浅間山の降灰は確かに深刻だった。関東一円に積もり、碓氷峠から倉賀野、新町のあたりでは田畑が全部灰に覆われて形も分からなくなった。

被害は田畑だけじゃない。降灰の重みだけで七十軒が潰れ、六十五軒が大破した。用水路が泥で詰まって水が回らなくなった。これは疑いようのない実害だ。

ただ、それが全国規模の飢饉の主因かというと、話が違ってくる。天明の飢饉は、すでに一七八二年から東北を中心に始まっていた。浅間山が噴火する前年から、すでに深刻だったのだ。前年からエルニーニョ現象があった、とみる説もある。天明四年の麦は意外に豊作で、夏ごろからいくらか事態が好転した、という記録もある。

二〇〇五年に出た論文が、ラキと浅間の双方の気候影響を比較し、日本の不作はラキの影響だと結論づけている。地球科学者の鎌田浩毅も、同じ方向の見方を示している。天明の大飢饉は、遠く大西洋にある火山の大噴火によって引き起こされた公算が大きい、と。

近年のラキ研究は、もっとややこしい話を出してきた。ラキのエアロゾルは北半球全体を冷やしたが、噴火の翌冬、北ユーラシアの一部はむしろ暖かくなった。場所によっては三度以上も。

エアロゾルが中緯度の成層圏を加熱し、極渦を強め、偏西風が暖かい海洋性の空気をユーラシアへ運んだ、という仕組みが提案されている。火山の気候影響は、噴火の規模だけでなく、どこでいつ噴火したかで大きく変わる。

忘れてはいけないのは、飢饉が自然現象だけの産物ではないことだ。幕府や藩の失政、米の流通の問題、備蓄の不足。天明の飢饉は複合的な災害だった。浅間山は、その複合の一要素として、関東の農業に確実な打撃を与え、利根川の河床を上げ、三年後の天明六年の大洪水の下地を作った。噴火の影響は、噴火の日に終わらない。

三十年ぶりに、また掘っている

二〇二一年十一月一日の午前十時半、嬬恋村鎌原地区に重機が入った。

鎌原の発掘調査が再開されたのだ。前回の調査が終わったのは一九九一年だから、実に三十年ぶりだ。嬬恋村教育委員会が主体となり、二〇二六年度までの六年間を予定している。目的ははっきりしていて、被災前の集落の全体像を確認し、「鎌原遺跡」として国史跡の指定を受けることだ。

調査を率いているのは、嬬恋郷土資料館の関俊明館長。彼はこう言っている。三十年前の発掘調査では、鎌原村の一部分しか調査できていない。火山災害の歴史をつないでいくためにも、鎌原村の全容を明らかにしたい、と。

観音堂の石段は百二十段から百五十段だったとも伝えられており、再び発掘を進めれば新たな発見があるかもしれない、とも。

初年度の対象は、前回まったく手をつけていなかった鎌原神社の周辺、半径三百メートルほど。十八地点を重機で掘削した。

成果が出た。神社の境内と周辺の畑の八か所で、土砂が噴火前の地層を削り取った痕跡が見つかったのだ。痕跡は噴火当時の地表とみられる黒土に残っていただけでなく、その下の黄褐色のローム層にまで及んでいた。表面の地層を全部飲み込むほどの勢いだったわけだ。この痕跡の向きを分析すれば、土石なだれがどの方向から来たかが復元できるかもしれない。

鎌原神社の境内には、噴火以前からあると言い伝えられるケヤキやカツラの巨木が五本残っている。調査の結果、周囲より標高の高い境内に黒土の層が確認された。関館長は、鎌原神社が小熊川沿いを流れてきた土石なだれの緩衝材になったのではないか、と分析している。木が村を守った、という話だ。

その後の年度では、現在の集落より浅間山寄りの高台にある「古屋敷」と呼ばれる地域の発掘も進められた。二〇二四年度には、「天明大笹温泉引湯道」の跡が初めて本格的に調査された。噴火からの復興事業で造られたとされる、温泉の引き水路だ。石垣と、木製の水道管である木樋が確認された。

噴火後、溶岩が止まったあたりで一時期温泉が湧いたため、村はそれを引いて温泉宿を始め、荒れた土地に産業を興したのだ。その物理的な証拠が出てきたわけだ。現地説明会が開かれ、参加者は石垣の並ぶ遺構を歩いた。

二〇二五年七月からは、嬬恋郷土資料館で企画展「鎌原発掘・五十年」が開かれている。昭和五十年の奉仕会による試掘から数えて、ちょうど半世紀だ。

災害遺跡の発掘が、被害の記録から復興の記録へ重心を移している。土の下に埋まっているのは、死んだ村だけじゃない。そのあと地表で必死に立て直された村の、基礎工事でもある。

なぜ、二百四十年たっても人がここへ来るのか

鎌原観音堂には、これといった名所の要素がない。伽藍は小さく、国宝も重文もなく、駅からも遠い。最寄りの万座鹿沢口駅からバスは一日二本、歩けば四十分かかる。それでも人は来る。

理由のひとつは、話の構造が異様に鋭いことだと思う。

災害の物語はたいてい、桁の大きさで人を圧倒する。何万人が死んだ、何キロが焼けた、と。鎌原の話は逆で、すべてが小さい数字に凝縮している。五十段のうち、十五段。

三十五段の差、それだけ。石段は今も地面に生えていて、誰でも実物を上れる。十五段を上りながら、あと三十五段が足の下にあると知る。距離感が、身体で分かってしまう。

抽象的な悲劇が、物理的な階段に翻訳されている。

もうひとつは、二体の女の遺体が、どうしても「読める」形をしていたことだ。骨が背負う姿勢のまま重なっていた。火山災害としては、めったにない話だ。ポンペイの石膏像が世界中の人を打つのと同じ理由で、鎌原の二体は打つ。

統計の一部じゃない。最後の数十秒に何を選んだかが、残ってしまっている。逃げる人間の判断が、そこで化石になっているわけだ。

三つ目の理由、これがおそらく一番効いている。この話には、続きがあることだ。

災害譚は普通、悲劇で終わる。鎌原は終わらない。生き残った九十三人は、その場に留まり、身分を捨て、血縁を組み替え、土地を等分に割り、四百七十七人の上に村を建て直した。妻なき人の妻となり、主なき人の主となる。

これは美談として消費される前に、まず異常な決断だ。江戸時代の村の秩序を、その場で一度壊してから作り直した。災害史の中でも、ここまで露骨に社会を組み替えた例はほとんどない。

しかもその再建が、二百四十年続いてしまった。子孫が同じ土地に住み続け、毎月和讃を唱え、毎日お堂に当番を出し、毎年八月五日に供養する。熊本が江戸時代に出した金を覚えていて、二百三十三年後に熊本へ送り返す。遺体が流れ着いた下流の村と、今も行き来がある。

浅間山は今も活火山で、二〇〇四年にも噴火した。この山の大規模な火砕噴火は、七百年ほどの間隔で起きている。天明三年から、まだ二百四十年ちょっとしか経っていない。

赤い橋の下をのぞくと、石段はまだ下へ続いている。あの穴は埋め戻されていない。埋め戻さないことが、この村の答えなのだと思う。上の十五段を毎日誰かが掃き、下の三十五段は掘られたまま残されている。三十五段分の距離が、二百四十年ずっと、そこに置いてある。

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