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天狗も雷獣も狸も、聞いた相手を添えて書き留めた――平戸の隠居大名・松浦静山の『甲子夜話』二百七十八巻と、正本の行方

版心に楽歳堂と刻まれた三十五冊

国立公文書館に、三十五冊の写本がある。罫紙の版心には「平戸藩楽歳堂蔵書」と刻まれていて、楽歳堂は平戸藩の文庫の名にあたる。公文書館の解説によれば、稿本を浄書した本に、明治になって修史館が欠けた部分を補い写した分も混じっているという。展示されているのは続編で、もとは昌平坂学問所の蔵書だった。

題は『甲子夜話』。肥前平戸藩の元藩主、松浦静山が書いた随筆だ。起筆は文政4年11月17日、甲子の夜。題はその夜に由来し、静山は号で、名は清といい、宝暦10年に生まれて天保12年6月29日に没した。

勧めたのは、親しかった林述斎だ。幕府の学問所を預かる大学頭で、静山より八つ下の友人。辞典類の解説では、述斎が静山の屋敷を訪ね、松浦家の鎮信が書いた『武功雑記』の話題が出たという。君もやってみてはどうかと述斎が言い、静山はその夜から筆を執った。

静山は文化3年に47歳で藩主を退いていた。62歳での起筆は、隠居して十五年目にあたる。以後は82歳で没するまで、二十年ほどかけて書き継いだ。最終の巻数は、二百七十八。

公文書館の展示解説は、中身を友人知人から寄せられた情報や資料、静山自身が見聞した怪談奇譚、世相風俗の記事と紹介している。個人的な所感や身辺雑記を綴った随筆とは違い、歴史資料としても高く評価されているという。述斎の発言も、作中に「林子曰く」「林話に」の形で出てくる。情報の出どころは、本文のあちこちに書き込まれているわけだ。

五十三歳の下僕は、立山の洞窟まで連れていかれた

巻七十三に、静山は自分の屋敷の下僕の話を書き留めた。上総の中崎村の農夫で、源左衛門という五十三歳の男。記事の頭に、名前と年と出身地がきちんと並んでいる。

七歳の祝いの日、源左衛門は馬の模様を染めた着物を着て、氏神の八幡宮に詣でた。社殿のわきから山伏が現れる。そのまま連れ去られてしまう。行方が知れないまま八年が過ぎ、家では死んだものとして仏事まで営んだ。すると山伏が、身が不浄になったと言って、相模の大山に置いていったという。

腰の札に国と郡の名が書いてあったので、里人はそれを頼りに、宿場から宿場へと送って家に帰した。着ていた着物は、少しも傷んでいなかったそうだ。三年は家にいて、十八歳のとき、同じ山伏がまた迎えに来る。背負われて目を閉じると、聞こえるのは風の音ばかり。

着いた先は越中の立山。大きな洞窟が口を開け、加賀の白山まで通じていて、途中に二十畳ほどの居所があり、僧と山伏が十一人並んで座っていたという。連れてきた山伏の名は権現で、源左衛門は長福房と呼ばれた。出された乾菓子が、この間に口にした唯一の食べ物だったらしい。

権現は白髪で、髭は膝まで届いたという。温和で慈愛に満ちていて、天狗というより仙人だと源左衛門は言う。鞍馬と貴船にも連れていかれ、千畳敷に僧たちが座ると、参詣人の願いが心の中まで聞こえてきたそうだ。天狗たちは議論し、この願いはもっともだから叶えてやろうと言う者もいれば、救いがたい愚か者だと大笑いする者もいた。

剣術と兵法を習い、一の谷の合戦を見せてもらったこともある。山の頂に色とりどりの旗が翻り、人馬が走り回り、鬨の声が上がったという。静山はこれを妖術だろうと受け止めた。

木の葉天狗の話も出る。天狗の世界では「ハクラウ」と呼び、年を経た狼がなるものだという。静山はここで、白い毛の生えた老いた者だから、ハクラウは白狼なのだろう、と自分の推量を足した。聞いた話に、すぐ語源の考証をつけている。

十九歳で人の世に帰された。天狗の仲間から抜ける証文と、兵法の巻物を二つ渡され、脇指と袈裟も授かった。最初に着ていた馬の模様の着物と、証文と、巻物の三品は、上総の氏神に奉納したという。奉納された巻物を、社の神職がこっそり開けたことがあり、目がくらんでほとんど読めず、梵字で書かれていたそうだ。

天狗が買い物に使う銭は、ハクラウたちが薪を採って売ったり、人に肩を貸して駄賃をもらったりして貯める。恐山の奥の十八里に「ぐひん堂」があり、毎月下旬には信州の善光寺から如来を招く。如来が来る夜は、松明が昼のように灯る。洞窟にいた間、源左衛門が食べたのは菓子を一度きりで、だから大小便の通じもなかったという。

脇指と袈裟は、まだ見ていない

ここからが静山の書き方の肝だ。話の終わりに、本人の弁だと断ったうえで、静山はこう書き足した。虚偽の疑いがないとは言えないが、この男はこれまで出鱈目を話したことがない。天地の間には、こういう妖魔の世界があるのだろうと思う、と。

信じ切ってはいない。かといって、切り捨てもしない。授かった脇指と袈裟は今も男が持っているというが、その一行に、静山は自分はまだ見ていないと添えている。見ていないものは見ていないと、わざわざ書く人だ。

天狗に連れていかれたと語る少年は、静山の下僕のほかにもいた。国学者の平田篤胤が聞き書きにまとめた『仙境異聞』の寅吉も、七歳のときに連れていかれたと語り、源左衛門と年が重なる。偶然かどうかは分からない。ちなみに、静山が寅吉に触れているかどうかは、確かめられなかった。

寅吉の聞き書きについて、柳田国男は『山の人生』にこう書いている。話に前後の矛盾が多くても、当時の学者たちは、ことごとく善意に解釈しようとした跡がある、と。同じ『山の人生』は、神隠しをする者の最有力の容疑者を、近世の人々の考えでは天狗や狗賓だったとも書く。

ここからは筆者の見立てだ。静山は、見ていないものを見ていないと添え、語り手の人柄は一言で保証しながら、断定は避けている。矛盾を探しはしないが、善意で全部を埋めてもいない。寅吉に向けられた学者たちの目とは、少し違う置き方に見える。

紫の山猫は羽織になった

巻二十には、画家の谷文晁から聞いた話が二つ並んでいる。一つ目の主は、常陸の太田が領地の中山備州で、静山は名の頭に「故」の字を付けている。備州はある年、領地で鉄砲を持って猟歩きをしていた。

山道を上っていくと、向こうから男が息を切らして走ってくる。山猫が追ってくるのだと言い、そのまま駆け去ってしまう。追ってきたのは犬より大きな猫で、毛は紫色、牙をむいていたが、鉄砲には玉が込めてあり、備州は一発で仕留めた。

あまりに珍しいので、皮を剥いで袖なしの羽織に仕立てた。しばらく自分で着たあと、出入りの医者に与えたという。前から肩を越して、腰のあたりが尾になる作りで、座ると尾が敷物を引くほどの大きさ。静山は末尾に、以上は文晁の話だと記した。

二つ目は、文晁が続けて語った話。獣の毛に紫色はまずないが、奥州の猫にはときどき紫色がいて、藤の花のような紫だという。奥州は養蚕が盛んで、蚕を鼠から守るために猫を大事にし、上等の猫の値は金五両ほど、馬は一両ほどだった。

土地によって値がここまで違うとは笑えると、文晁は言った。山猫が紫なのは、人家の飼い猫が年老いて山に入ったものか、ともいう。備前の神崎で、犬ほどもある三毛の猫が畑を歩くのを見た、という話も続く。

ここも筆者の見立てになる。怪物の話のすぐ後ろに、飼い猫の相場と、老いた猫の見立てが並んでいる。紫の山猫を妖怪にせず、獣として考え直そうとする口ぶりが、語り手の側にもあったように見える。

雷獣は煮て食えたのか

雷が落ちると獣が降ってくる。江戸の人々はそう信じていて、静山も雷獣の話を二か所に書いた。巻二の話は、秋田から来る。冬の秋田は雪が深く、夏よりも雷が多いが、落ちるたびにかならず猫に似た獣が一緒に落ちるという。

語ったのは、秋田藩の分家の殿様の叔父にあたる人だった。続きがある。秋田で、ある武士が屋根に落ちた雷獣を捕らえ、煮て食べたというのだ。静山はこれを受けて、雷獣は毒のないものと見える、と結論した。

巻八の話は、江戸の町中だ。二月十五日の朝、急な雷雨があり、鳥越の袋町にある丹羽家の屋敷の門に雷が落ちた。門番は火の玉が地面に落ちるのを見たが、雲が降りてきて火の玉を包み、空へ昇っていったという。

あとに獣が残り、門番が六尺棒で打つと、獣は長屋のほうへ逃げ込んだ。長屋の住人が手近な物を投げつけると、獣はその男の頬を引き裂いて逃げた。男はそのまま倒れ込んだ。静山は、毒気に当たったのだろうか、と書く。

門番は、獣が六、七匹いたように覚えていると語った。大きさは猫より大きく、鼠色で腹が白い。三本の柱に爪の跡が残り、評判を聞いた見物人が集まって、いつも静かな袋町が一時やかましくなったという。話をしたのは、隣の屋敷の家来。

巻三十四にも、大風の夜に落ちてきた獣の話がある。鉄砲洲の細川采女正の邸に落ちた海獣。大きさは猫ほどで、額から嘴のようなものが体の丈より長く伸び、先に鼻の穴が二つあった。語り手は「ある人」とあるだけで、名は出てこない。

同じ静山が、同じ生き物について、片方では食べても無害と書き、片方では引っかかれて人が倒れたと書く。食い違いをならして一つの説に仕立てることはしていない。語った人の立場をつけて、二つ並べて置いたわけだ。のちの事典は、雷獣の正体の有力候補に、テンの名を挙げる。

障子の溝に、細い竹が入っていた

巻四には、静山が「予が平戸城下」と書き出す狐の話がある。桜馬場という所の武士の屋敷で、狐が火を燃やすのを見た者がいた。若い武士たちが取り囲んで追うと、狐は人々を飛び越えて逃げ去ったが、そのとき何かが落ちる音がして、見れば人骨のような物が転がっている。

みなは、これが火を燃やすための物に違いないと言った。取り置けば燃やせなくなるはずだから、屋内に置いて、取りに来たところを生け捕りにしよう、と話がまとまる。障子を少し開けて待っていると、狐は本当にやって来た。障子の隙間から面を入れては引っ込めることを、何度も何度も繰り返す。

人々が今かと構えていると、狐はついに屋内に駆け入った。障子を閉めようとしても、閉まらない。その間に、狐は走り出てしまった。敷居の溝には、細い竹。枯れ骨も、いつの間にか取り返されていた。

静山の結びは、さきにのぞいたときに、この細竹を入れておいたのだろう、という推量。竹を入れる狐の姿を、誰かが見たとは書いていない。見ていないことは、見ていないと分かる言い方で置く人なんだよな。

続篇の巻二十二には、狸の話が続けて出てくる。一つ目は、静山が『四神地名録』を引いて書いたもの。武蔵の多摩郡国分寺村の名主、儀兵衛の家に、狸が書いたという筆跡が残っていたという。

儀兵衛の父の代に、京都の大徳寺の勧化を名乗る僧が泊まった。無言の行者と称して用事は書いて伝え、辺鄙な村の名主は、ありがたい僧だと思って、ごちそうして泊めたという。のちに聞くと、北武蔵のうちで犬に見とがめられ、食い殺されて狸の姿を現したそうだ。

現代語訳を載せた個人のブログで読める範囲では、ここに静山の判断が出てくる。この手の話には虚説が多く、だから狸の出家化けは、実説には聞こえない、と。ところが静山は、そのすぐ後に、自分の領地の話を続ける。

平戸の安満岳の里坊に、ある夜、少年が一人訪ねてきた。住僧は芋を茹で、黍を炊いて食べさせて泊めてやったが、少年は夜半を過ぎて出ていき、朝になっても戻らない。堂の後ろの竹やぶに倒れていて、よく見ると古狸だった。武蔵の狸と平戸の狸が、同じ巻に並んでいる。

ここで筆者の見立てを置く。ここまで読んだ話では、静山は記事の最後に、出どころか判断かを置いている。下僕の話には人柄の保証があり、雷獣には毒気かという疑いがあり、狐には「なるべし」があり、狸には実説に聞こえないがある。まあ、書き手が自分の目の位置を示している、ということだと思う。

三味線を持って登ってはいけない山

静山が自分の領地の話を書くと、舞台は平戸島になる。巻二十三の三十五条は、安満岳の話。山の上には忌み事が多く、山の神が嫌うからだと伝え、猫もその一つで、寺の坊では猫を飼うことが禁じられている。

大晦日の夜には、山上の寺の坊に人が集まる。一晩中ものまねをして笑い遊ぶのが毎年の習いで、鳴く真似も、吠える真似も、しないものはない。ただし鶏の声だけは、真似ると異変が起こる。だから誰もやらない。

春に遊びに来た人でも、三味線を弾けば神の怒りがあるという。理由は、三味線に猫の皮を張るから。静山はそう書いた。禁忌には、理由が一つ添えられている。

南方熊楠は『十二支考』の兎の章で、巻十一の平戸の記事を要約している。兎が麦畑を荒らすのを防ぐために、小さな札に、狐の仕業と兎が申している、と書いて畑に立てる。それを狐が見て怒り、兎を責めるのを恐れて、兎は害をやめる。農夫の間でそう伝えている、という。

この札を立てれば兎の害が必ずやむ。そこが不思議だ、と静山は添えたという。熊楠の要約でしか確かめられなかったので、原文の言い回しまでは分からない。

熊楠は同じ『十二支考』の馬の章で、続編五十七の記事も引く。平戸から三里ほどの生月島には、昔から牧馬場があるという。里の言い伝えでは、島に名馬草が生え、牝馬が食べれば名馬を産むが、絶壁の間に生えるので馬が落ちて死ぬこともある。熊楠は、前の文から推して、その場所が危なくて馬がしばしば足を失することから出た話らしい、と読んだ。

一年で二十巻、そして正本の行方

甲子夜話には序文がある。文政5年の十一月に、平戸藩の池内光風と吉川忠行が記し、公の機関の目録が、その一部を引いている。序は題の由来にも触れ、前の冬の霜月の甲子の夜から書き始めたので、そのまま題にしたのだという。静山は毎朝、夜明け前に自分で筆を執り、草稿や浄書は家来に命じたという。書き始めて一年ほどで、巻の数は二十ばかりになった、と序は言う。

序の用件は、目録を付ける話だった。後で探して比べたい記事が出てくるだろうから、巻ごとの目次を巻頭に掲げよ、と静山が命じたという。辞典の記述では、巻数は正編100、続編100、三編78の計278で、これに目録三巻が加わる。

数字を並べると、妙なことに気づく。最初の一年で二十巻、残る二百五十八巻を十八年余りで書いたとすれば、一年に十四巻ほどに落ち着く。平戸市の解説は全体で約7000項目と数えるので、割れば一巻に二十五項目ほどになる。筆者の計算だから、数え方の基準が違えば値は動く。

念のため、数字が揃わない点にも触れておくと、三編を80巻とする紹介が、ネット上にある。一方、東洋文庫の巻立ては三編の巻67から巻78までを最終の一冊に収め、辞典類も78巻だ。正直、80巻の根拠は、確かめられなかった。

平戸市の解説は、静山の直筆の正本は所在不明だと書く。残るのは、のちの当主の熈が作らせた副本だ。新聞のコラムによると、熈は隠居した父に、一万石もの賄料を送ったという。

副本の完成は嘉永6年だと、市の解説は言う。ところが同じ解説は西暦を1858年と添えていて、嘉永6年は1853年、1858年は安政5年にあたる。まあ、どちらかが書き違いなのかもしれないが、どちらが正しいかは確かめられなかった。

副本には14冊の欠けがあり、写本で補った分も含めて、長崎県の指定文化財になった。指定は平成17年3月25日で、所有者は平戸の松浦史料博物館だ。

「正本」の扱いにも、食い違いがある。別の論文は注で、松浦史料博物館に正本と副本の二種があると書く。市の解説の「所在不明」とは合わない。正本が何を指すのか、確かめられなかった。

ここで、別の経路で写された本を見てみる。愛知県の西尾市岩瀬文庫に、20冊の写本がある。罫紙の版心は、同じ「楽歳堂蔵書」だ。目録は、平戸藩で作った清書本の一つと書き、正編100巻のうち49巻分と総目録、続編3巻分が残るという。

冊の表紙には昌平坂学問所の付箋があり、朱の蔵書印は「林氏蔵書」で、目録はこれを林述斎の印と記す。表紙に「第廿六冊」と墨書された一冊は、巻七十三から七十五までを収めている。下僕の天狗話を書いた巻七十三が、述斎の蔵書印のある本の中にあるわけだ。早稲田大学にも、同じ印記のある7冊が伝わる。

ここも筆者の見立てだ。静山が清書本を作らせた当初から、述斎の手元にも写しが渡っていたのではないか。学問所の旧蔵本は、その延長にあるように見える。ただ、これは印記と付箋から組み立てた推定で、受け渡しの記録そのものは見つけていない。

東洋文庫の全二十冊

活字になったのは明治末で、1910年に国書刊行会が刊行している。のちに日本随筆大成にも入ったが、これは正編だけだ。続編と三編まで揃ったのは、平凡社の東洋文庫で、1977年4月から1983年11月にかけて全20冊が出た。

正編6冊、続編8冊、三編6冊という割り振り。底本は松浦家に伝わる楽歳堂蔵書本だ。静山の下僕の話も、狸の話も、この20冊の中に入っている。

九州大学では、近世史の研究者が全文検索のシステムを作り、公開した。東洋文庫の本文を底本にしたものだ。研究の計画書には、散逸した原本の所在を調べる作業と、活字版の底本になった二系統の写本について、図版を突き合わせる作業が書かれている。

同じ計画書は、楽歳堂文庫の蔵書が甲子夜話の重要な情報源になったとも記す。筆者の見立てでは、静山は聞いた話を本で裏づけたり、本の記述を話で確かめたりしていたのではないか。

県は文化財に指定し、大学は検索システムを作り、出版社は全20冊を揃えた。最後も筆者の見立てだ。二百七十八巻の随筆が今も手に取れるのは、読む人と使う人が、明治末から今まで途切れなかったからだと思う。

借りて写した人

南方熊楠は『十二支考』で、甲子夜話を何度も引いた。虎の章には、前年に柳田氏から借りて写し置いた『甲子夜話』十七に、旗本の一色熊蔵が語った話がある、と書く。狼が口を開けて人に近づき、骨が刺さっているのを見て抜いてやると、翌日に捨て子が門の外にいた。そういう話だ。

熊楠は、その子の肩に歯の痕のようなものがあったとも引いている。狼が連れてきた証だというわけだ。柳田氏が誰かは書いていないが、手紙のやりとりのあった民俗学者の柳田国男のことだと、筆者は読んだ。

別の章では、巻二十六の記事も引く。年に一、二度、佐渡から越後へ鹿が海を渡る。先頭は首と背だけが見え、あとの鹿は顎を前の鹿の尾に乗せて数十頭も続くので、遠くから見ると大きな竜が泳ぐようだという。江戸の大風の中に竜を見たという巻三十四の記事は、竜巻を誇張したものと読んでいる。静山が書き留めた奇談を、熊楠は自分の物差しで読み直していた。

静山が没したのは、天保12年6月29日だった。西暦では1841年8月15日にあたる。林述斎が没したのは、その半月後の7月14日。1841年8月30日になる。

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