板橋宿のはずれで、刀が振り下ろされた
慶応4年4月25日。新暦に直すと1868年の5月17日にあたり、場所は、日本橋から2里ほど離れた江戸の入口にあたる、中山道の最初の宿場、板橋宿に近い刑場だった。新選組の局長だった近藤勇は、ここで斬首されて、数え年35の生涯を閉じている。切腹は許されなかった。
武士にとって切腹は名誉ある死に方で、斬首は罪人に与えられる死に方だった。武士らしく腹を切りたいと願い出た話は、多くの本に出てくる。それでも新政府は、近藤を罪人として扱い、首を落とす道を選んだと伝わっている。日付だけは、どの本もまったく同じ形で書く。
首を斬った役人の名は、横倉喜三次と伝わる。処刑人の名前が残るのは珍しい。この男の刀が、近藤の胴体と首とを、まるで別々の運命へ送り出した。
ここまでは、記録の上でもほとんど動かない。ところが、その先で話は急に怪しくなる。近藤勇の首は、いったいどこにあるのか。
墓と呼ばれる場所は、東京にも福島にも愛知にも京都にもあって、どれが本物かを決める記録は、いまのところ見つかっていない。この文章では食い違う話を一つずつ並べながら、伝承は伝承として、確かな事実とは分けて書いていく。
流山の陣屋に、新政府軍が現れた
話は、処刑のおよそ3週間前にさかのぼる。慶応4年の4月、近藤は下総国の流山に陣を置いて、旧幕府軍を立て直そうとしていた。部隊は、ごく小さなものだった。
新政府軍が姿を見せたのは4月3日のことで、薩摩藩士の有馬藤太らが陣屋をぐるりと取り囲み、武装を解くよう求めている。新政府軍が陣屋を取り囲んだとき、近藤の手元には、まともに戦えるだけの兵力も、逃げ道も、もう残されていなかった。兵の数も装備もあまりに違いすぎて、最初から勝ち目はなかったと見てよい。
近藤は、土方歳三の説得もあって、出頭を決めたと伝わる。そのとき名乗ったのが、大久保大和という偽名だ。偽名はもうひとつ伝わる。内藤隼人。
新選組の名は、京都での働きのせいで、敵方から深く憎まれていた。本名を出せば何が起きるのか、近藤自身がいちばんよく分かっていたはずだ。身分を伏せて時間を稼ぎ、仲間が逃げのびる余地を作ろうとした、という見方もある。
偽名は通らなかった。板橋の本営へ連れて行かれると、元隊士の加納鷲雄らが近藤の顔を見て、新選組の局長だと見抜いたと伝わる。こうして、近藤の正体は割れた。
江戸城が開いた春
近藤が出頭してまもない4月11日に、江戸城は戦わないまま新政府軍へ明け渡された。近藤が捕らわれたのは、徳川の世を支えてきた大きな枠組みが、目の前で音を立てて崩れていく、まさにその時期だ。
新政府にとって、板橋に捕らえた近藤は、ほかの旧幕臣とは違う特別な存在だった。新選組の首魁を斬ることは、京都で命を落とした志士たちへの、いちばん分かりやすい答えになる。
許される道は、はじめから用意されていなかったと考えられる。旧幕府側の人間が罪を免れる理由は、慶応4年の春には、どこを探しても見当たらなかった。
処刑までの日々を、近藤は板橋で過ごしたと伝わる。その間に誰と言葉を交わし、何を思っていたのか。確かな記録は、驚くほど少ない。
多摩の百姓の子が、局長になるまで
近藤勇という人の来歴を、ここで押さえておきたい。生まれは天保5年、1834年で、武蔵国多摩郡の上石原村にあった農家、宮川家の三男として育った。幼名は勝五郎という。
剣術は天然理心流を学び、のちに師の近藤周助の養子となって、勇と名乗るようになった。武家の生まれではなかったが、腕ひとつで世に出ていった人だ。江戸の試衛館が、そのための場所になった。
その道場に集まった仲間たちと京都へ上ったのは、文久3年のことだ。ここから新選組の歴史が始まる。同じ道場の仲間には、土方歳三、沖田総司、永倉新八の名前が並ぶ。
元治元年の6月、池田屋事件で、近藤の名は一気に広まった。京都の治安を預かる組織の長として、味方からも敵からも名前を呼ばれる立場へ、押し上げられていく。
百姓の子が幕臣に取り立てられたのは、慶応3年のこと。出世の頂点に近い時期だ。それからわずか1年足らずで、板橋の刑場へ立たされる。
甲州で負けて、流山へ
慶応4年が明けると、鳥羽と伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた。新選組も京都を離れて江戸へ戻ることになり、近藤たちは時代の流れに押されるようにして、東へ向かった。
3月には、甲陽鎮撫隊と名を改めた一隊を率いて、甲州へ進んだ。ところが新政府軍に先を越されてしまい、勝沼での戦いに敗れて、隊は散り散りになった。勝負は、ここでほぼ決まった形だ。
江戸へ戻った近藤と土方は、それでも隊を立て直そうと動いた。下総の流山に陣を置いたのは、その途中のことだ。兵は少なく、先の見通しも立たなかった。
流山での出頭は、追い詰められた末の決断だったと見られる。全員が戦って死ぬより、自分が出ていくことで隊士たちを逃がす。そう考えたと語る本は、いくつもある。
切腹を願い出て、受け入れられなかった
板橋での取り調べのさなか、近藤が武士らしい最期を望んだという話は、複数の本が似た形で書いている。ただ、どの場面で誰に願ったのかは、本ごとに少しずつ違っていて、決め手になる記録はない。
願いは通らなかった。新政府側は、近藤を京都で多くの志士を斬った罪人として扱い、切腹ではなく斬首という重い処断を選んだ。この選び方が、新政府の姿勢をはっきり示している。
土佐藩の側には、坂本龍馬を斬ったのは新選組だという疑いが強く、谷干城らが近藤の厳しい処断を求めたとも伝わる。谷は、のちに西南戦争で熊本城に籠って戦った人でもある。誰がどこまで関わったのかは、読む本によって書き方が違う。
近藤の首は、胴体から切り離された。しかし首は、そのまま東京に留め置かれたわけではなかった。ここが最初の分かれ道。
首は塩漬けにされて、京都へ運ばれたと伝わる。京都は、近藤が名を上げた街だった。新政府はその街の人々に、新選組の局長の最期を見せる必要があったのだろう。
三条の河原に、首が晒された
京都へ着いた首は、三条の河原に晒された。三条大橋の西のたもとという言い方もあって、近藤が名を上げた池田屋は、この三条の川沿いにあった旅籠で、首が晒された場所からは、歩いてすぐの距離にあたる。かつて近藤が見廻った街の、ちょうど真ん中だ。
江戸時代の獄門では、斬った首を台に載せて、三日二夜のあいだ晒す決まりがあった。近藤の首もこの形に近い扱いを受けたと見られる。目的は、見せしめ。
見物の人は、連日のように押し寄せたという。新選組の局長の顔をひと目見ようという人たちが、河原にあふれた。恐れられた男の最期を、自分の目で確かめたかったのだろう。
どんな顔だったのか。記録は残らなかった。塩漬けにされた首の顔つきは、生前からずいぶん変わっていたのかもしれない。
晒し首の期間については、本によって書き方が違う。3日間とする本もあれば、それ以上とする本もあって、確かな日数は、書き手が拠った史料によって変わってしまう。
首は、いつ消えたのか
晒されたあとの首は、記録から姿を消す。正式な記録は、ここでぷつりと途切れて、そこから先は各地の寺や家に伝わる、伝承の世界に入っていく。話は数多くあるが、大きく分ければ3つに絞られる。
盗み出されて会津へ運ばれた話。京都の寺に納められた話と、愛知の寺へ移された話。この3つが、いまも別々の場所で、それぞれの言い伝えとして語られている。
どの話にも、近藤の同志か近藤を慕う者が、命がけで首を持ち去ったという筋がある。敵方が首をそのまま放っておくはずがない、という感覚が、話の土台に流れているのだろう。
ただし、どの話も同時代の確かな文書で裏づけられたわけではない。後の時代に書かれた覚え書きや、寺に伝わる言い伝えが、そのまま元になっている。
それぞれの話は、近藤の死から時間が過ぎたあとに文字になったものが多く、伝える寺や人によって、細部が少しずつ違う。3つの話を、順に見ていく。最初は、いちばん遠くへ行った話からだ。
会津へ運ばれた首と、一振りの刀
福島県の会津若松市にある天寧寺には、近藤勇の墓がある。会津の城下を見渡せる裏山の奥にあり、戦いの時代に作られたせいか、人目につきにくい場所にひっそりと置かれている。
この墓を建てたのは、土方歳三だと伝わる。近藤の死後、土方は会津の戦いに加わり、藩主の松平容保に頼んで、墓を設けたと言い伝えられている。墓に納められたのは、遺髪だったという話もある。
首そのものではない、という伝え方だ。いっぽうで、首が埋められたと説く人もいる。後者の話を支えるのは、1本の刀。
京都の霊山歴史館に、近藤勇が使ったとされる刀が収められている。霊山歴史館は東山にある幕末維新の博物館で、会津の寺ではなく京都の館に、会津ゆかりの刀が収まっていることになる。慶応元年の作で、長さは75.5センチ。刀工は阿州吉川六郎源祐芳と読める。刀身に刻まれた銘が、作られた年と作り手を伝える。
刀は、いまも残る。この刀の鞘には、墨で書かれた由来がある。書いたのは、のちに会津若松の市長を務めた松江豊寿だ。内容は、近藤の首が京都の三条河原に晒されたのを下僕が取り戻し、この刀と一緒に会津へ運んで葬った、というものだった。
鞘書きは、後の時代の人が書いたもの。下僕の名前は記されていない。首を運んだ道筋も、日付も分からない。
それでも、刀が実際に会津の地に伝わり、鞘書きが残ることは確かだ。首の話を完全な作り話とも言い切れない重みが、ここから生まれてくる。
会津は、新選組が最後まで仕えた松平容保の領地だった。近藤の首が最後にたどり着く場所として、筋は通っている。通りすぎるくらいに、よく通っている。
岡崎の寺に伝わる、もうひとつの首塚
愛知県岡崎市の本宿町に、法蔵寺という寺がある。境内には近藤勇の首塚と呼ばれる墓が立っていて、会津とはまったく別の筋書きで、首の行き先を語る場所になっている。訪ねるのに料金はかからない。
寺に伝わる話は、こうだ。京都の三条に晒された近藤の首を、新選組の隊士の誰かが持ち去ったという。その人物は、近藤が生前から敬っていた京都の寺の住職のもとへ首を運び、供養を頼んだと語られる。
住職の名は、称空義天という。京都の誓願寺の流れをくむ僧で、新京極の裏にある宝蔵寺の住職でもあったと伝わる。近藤の首はこの僧の手に渡り、のちの転任とともに岡崎へ移された、というのが寺の語る筋書きだ。
首を持ち去った人物の名は、伝え方で変わる。斎藤一だとする本がある。法蔵寺の言い伝えでは、山口という名の新選組隊士が首を持ってきたと語られる。斎藤一はのちに山口の姓を名乗った人で、同じ人物を指す見込みが高いが、それを確かめる文書は見つかっていない。
岡崎へ運ばれた首は、境内に埋められたという。最初は石碑に土をかぶせて、ひっそりと弔ったと言われている。人目を避けた理由は想像がつく。近藤は新政府から見れば賊だったから、墓を堂々と建てれば、寺にまで災いが及ぶと、誰もが分かっていたのだろう。
昭和33年に動いた調査
昭和33年、1958年の出来事。京都の誓願寺に残る史料から、近藤の首の顛末が明らかになったと伝わる。史料を手がかりに岡崎の法蔵寺で調べが行われ、墓碑の台座などが見つかったという。台座には土方歳三らの名が刻まれていたと言われ、近藤の仲間が関わった証拠として語られてきた。
刻まれた年号は慶応3年だったという話もあるが、いまはその部分が読めなくなっているらしい。慶応3年なら近藤の死より前になり、死者を弔う石ではなく、別の目的で建てられた石だった可能性も出てくる。この食い違いは、いまも説明がつかない。
調べの際に出てきたのは、人の骨ではなく守り刀だったという説も、一部で語られている。もしそうなら、ここは首塚ではなく刀塚だったことになる。ただ、この説が確かな調査報告として広く確認されているわけではない。法蔵寺は、いまも首塚として墓を守り続けている。
京都の宝蔵寺にも、首塚がある
3つ目の場所は京都だ。新京極の裏手、裏寺町にある宝蔵寺にも、近藤勇の首塚が建てられている。法蔵寺の話に出てきた住職、称空義天ゆかりの寺だと語られる。岡崎の話と京都の話は、同じ筋の前半と後半に当たる。
首を預かったのは京都の寺で、のちに愛知へ移るとき、首も連れていかれた。順序は、そうなる。京都の首塚と岡崎の首塚は、同じ首をめぐる別々の場所だが、矛盾はしない。前半と後半を、別の場所が記念しているだけだと読める。
ただし、これは伝承をつなげたときに見える形にすぎず、どちらの寺の記録にも、首を埋めた日付は書かれていない。会津の話と、京都から岡崎へ向かう話。2つは両立しない。首は1つしかないからだ。
胴体は、板橋に埋められた
首の話から、胴体に目を移す。こちらは、もう少し足場がしっかりしている。胴体は、板橋の近くの寿徳寺の墓地に、夜のうちにひっそりと葬られたと伝わる。夜の埋葬だった。場所は板橋駅の近く、北区の滝野川にあたり、墓地の一角に近藤勇の墓が立っている。
墓の隣には、新選組の殉難者を弔う碑がある。建てたのは元隊士の永倉新八だと伝わり、時期は明治9年、1876年のことだ。永倉は新選組の生き残りの中でも長く生きた人で、仲間の死を忘れないために、板橋の刑場跡へ碑を建てたという。
近藤の墓を前にして、元隊士はどんな顔をしたのか。記録はない。ただ、碑が実際にそこに立っていることだけは確かだ。墓も碑も、生き残った者たちの弔いが形になった物。
三鷹の龍源寺に、もうひとつの墓
東京の三鷹市大沢に、龍源寺がある。近藤が生まれた宮川家の菩提寺で、生家からも近い場所にあり、境内の墓は東京都の史跡に指定されている。墓石には、近藤勇墓と刻まれている。境内には、辞世の漢詩を刻んだ句碑も立つ。
故郷の寺に眠っていてほしい、という思いが形になった場所だ。由来には、こんな伝承が付く。近藤の甥で養子の近藤勇五郎が、板橋の埋葬地から遺体を掘り起こして、龍源寺へ移したというものだ。妻のつねが遺体を確かめたという、細かな話まで伝わる。
真偽は、分からない。ただし、これは伝承の域を出ない。罪人として処刑された人の遺体を、実際に掘り出せたのか。紹介する側の解説でさえ、掘り出したかどうかは分からないと断っている。龍源寺の墓を胴体の行き先として最も有力と見る人は多いが、板橋の寿徳寺の墓が偽物だと決める材料もない。
将門の首も、京都から飛んだと言われた
首が胴体とは別の場所に祀られる話は、近藤勇だけのものではない。平将門は天慶3年に討たれ、首は京都へ送られて晒されたと伝わり、その首が故郷の関東へ飛んで帰ったという伝説が、いまも語られている。首は、ときに伝説を生む。東京の大手町には、将門の首塚と呼ばれる場所がある。近藤の場合も、胴体は東京の墓に、首は京都から各地の寺へという2つの流れで、別々に語られてきた。
墓が並ぶと、何が見えてくるのか
整理しよう。胴体の墓は、板橋の寿徳寺と三鷹の龍源寺が候補になる。首の墓は、会津の天寧寺、岡崎の法蔵寺、京都の宝蔵寺が候補になる。ほかにも、近藤勇の墓として語られる場所は複数あり、荒川区の円通寺や米沢の寺を挙げる本もある。
数え方によって、墓の数は変わる。墓の数が増えるほど本物の場所は見えにくくなるが、供養を続ける人たちにとっては、どの墓も大切な弔いの場だ。墓がこれほど増えたのは、近藤という人が慕われていたからだ。慕う人が各地にいて、それぞれの場所で供養を続けた。遺髪や遺品を納めた墓も、人は墓と呼ぶ。
首が1つしかない以上、本物は多くても1か所になる。ほかは遺髪か、遺品か、思いだけを納めた墓だ。それでも、どの墓にも花が供えられ、命日には人が集まるという。供養の場としての重みは、どれも変わらない。
首を持ち出したのは誰か
伝承を並べると、首を持ち出した人物として3通りの名が出てくる。下僕、斎藤一、名前のない隊士。それぞれが違う寺と違う筋書きを背負っていて、同じ首の話が3つの顔で語られている。
下僕説は、霊山歴史館の刀の鞘書きに出てくる。斎藤説は、岡崎の法蔵寺と京都の宝蔵寺の筋に出てくる。どちらも根拠は、後世の書き付けや寺の言い伝えだ。同時代の文書に、名前が書かれているわけではない。
斎藤一は、新選組が解散したあとも会津で戦い続けた人だ。近藤の首の話に名前が出るのは、自然な流れではある。下僕のほうは、名前すら残らない立場の人だった。名前がないからこそ、後の人は物語を作りやすかったのかもしれない。
見張りの目をかいくぐって、京都の街で晒された首を取り戻す。それをやり遂げたとすれば、相当な覚悟と手際が要ったと想像できる。息が詰まるような話。
同時代の記録が沈黙している
ここで、はっきりしている点を確認しておく。首が三条河原に晒されたことは、複数の本が一致して書いていて、大きな異論は見当たらない。首が盗まれたという話は、確かな同時代の文書では確認されていない。どの寺の話も、後の時代に書かれた伝承の形をとる。裏づけは、ない。
首の行方は、正式には確定していない。事典や資料館の解説も、慎重にそう書くのが普通だ。寺の言い伝えも刀の鞘書きも、近藤の死から長い時間が過ぎたあとに文字になったもので、同時代の記録とは性格が違う。刀の鞘書きは明治以降に書かれた物で、寺の伝承はさらに後の時代にまとめられた。近藤の死から数十年のあいだに、語りの形ができあがったのだろう。
謎が解けないのは、調べが足りないからではない。決め手になる記録が、そもそも書かれなかったのだ。首を盗み出す行為は、公にはできない。公にできなければ、記録も残らない。
土方歳三が、会津で墓を建てた意味
天寧寺の墓の話に、もう一度戻る。土方歳三は、近藤の死を知ったあと、宇都宮や会津で戦った。傷を負いながらも、戦場を離れなかったと伝わる。近藤を最後まで局長として立てた人が墓を建てたという言い伝えは、土方の人柄とよく合う。
その後、土方は蝦夷地へ渡った。箱館の戦いで、明治2年の5月11日に戦死している。会津での墓参りが、近藤との最後の別れになったと語られる。墓の隣には、土方歳三の慰霊碑も建っていて、ふたりの名が並ぶ場所は会津の山の中にある。
遺髪か、首か。土方が見たものが、遺髪なのか首なのか。それは誰にも言い切れない。ただ土方にとって、そこが近藤の眠る場所だったことは、疑いようがなかったのだろう。
刑場跡のあたりを歩くと
板橋駅の近くに、近藤勇の墓はある。江戸の入口にあたる中山道の宿場町では、罪人の処刑も行われた。いまの街並みからは想像しにくいが、ここは確かに刑場の跡で、近藤の最期を見た土地だ。
近藤が最期を迎えたのは、江戸の外れ。生まれた多摩からも、駆け上がった京都からも、遠くない土地だ。墓の隣に立つ碑には、永倉新八が込めた思いが残る。生き残った者が、死んだ仲間の名を残そうとした跡だ。
首の行方は、いまも決まらない
近藤勇の首がどこにあるのか。会津の天寧寺か、岡崎の法蔵寺か、京都の宝蔵寺か。あるいは、そのどこにもないのか。
どの寺にも、墓を守る人たちがいる。供養は途切れず、命日が来れば人が集まる。真偽を決める必要は、その人たちにはあまりない。調べる側は事実と伝承を分けて書き、寺の側は伝承を受け継いで弔いを続ける。2つの立場は、ぶつからないまま並んでいる。
1868年の5月、板橋で斬られた1人の男の首は、京都の河原を経て、記録から消えた。その先を、日本中のいくつもの寺が、それぞれの形で語り続けている。墓石の前に立つ人は、首が埋まっているかどうかを、たぶん気にしない。ここに近藤勇がいる、と思って手を合わせる。それだけで、墓は墓になる。
