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湊川の民家で楠木正成は何を言ったのか。七生報国の出どころと、首の行方

注連縄の張られた森

湊川神社の北のはずれに、白い注連縄で囲まれた一角がある。クスノキが茂る、薄暗い場所。ここが御殉節地と呼ばれ、楠木正成が弟の正季と刺し違えた民家のあった所だと伝わる。2019年の産経新聞の連載は、この場所へ1日に20人も30人も、老若男女が手を合わせに来ると書いた。正月の初詣は、100万人を超える人波。

日付は、延元元年、建武3年の5月25日で、西暦に直すと1336年7月4日だ。場所は摂津国の湊川。いまの神戸市の中央区から兵庫区にかけての一帯だ。九州から攻め上ってきた足利尊氏と弟の直義の軍を、後醍醐天皇方の新田義貞と正成が迎え撃ち、勝ったのは足利方だった。楠木の軍は壊滅した。

木に南と書いて、楠になった

後醍醐天皇が笠置山にこもっていたとき、夢を見た、と太平記は書く。南に枝を伸ばした大木の下に、空いた上座がある。木に南と書けば、楠だ。天皇は楠という武士を探させ、河内の金剛山に正成がいると聞いて、呼び寄せた。字を割って読み解く、いかにも物語らしい出会いの場面だ。

史実の側は、事情が違う。天竜寺文書から、遅くとも1331年2月には、正成が後醍醐天皇方に付いていたと分かる。笠置山に天皇が入城したのは、その年の8月で、夢のお告げを待つまでもなく、2人はすでにつながっていた。

都を出る前に、2つの策が潰れた

1336年の初め、京都での戦いに敗れた尊氏と直義の兄弟は、兵庫から九州へ敗走した。朝廷の公家たちは、これで片がついたと大喜びする。正成だけは違った。尊氏はすぐ攻め上ってくる、と見て、浮かれる朝廷に苦言を呈している。建武の新政は評判が悪く、後醍醐天皇の人望は落ち、尊氏は武士たちの信頼を集めていたからだ。

正成は後醍醐天皇に、尊氏と和睦するよう進言したが、涙ながらの必死の訴えは、聞き入れられなかった。足利方の記録の梅松論も、人心は尊氏に移ったと見た正成が、涙を流して和睦を勧めたと伝える。同じ梅松論には、義貞を討ってその首を手土産に尊氏と手を結べ、と正成が奏上したという話まで載る。どこまで本当かは、正直、確かめようがない。

尊氏と直義が九州を平定し、大軍で東へ向かったのは、1336年の4月に入ってからだ。後醍醐天皇は新田義貞を兵庫へ急行させ、正成にも駆けつけるよう命じた。正成は別の策を出す。天皇をもう一度比叡山へ移し、足利軍をいったん京都へ引き入れて、兵糧が尽きるのを待つ。河内から正成が、比叡山から義貞が、疲れた敵を両側から挟み撃ちにする作戦だった。

太平記では、この策を公家の坊門清忠が退ける。1年のうちに2度も帝都を捨てて山へ逃げれば、帝位を軽く見せてしまう、というのが理屈だった。これまでの勝ちは武略の手柄とは言えない、帝の運が天に叶っていたからだ、とも言い切る。正成は「この上は、さのみ異儀を申すに及ばず」と引き下がり、5月16日に都を立って、500余騎を率いた。

産経新聞の記事が引く太平記の一節では、正成は「討死せよとの勅定ごさんなれ」と覚悟を口にする。湊川へ向かう途中、広厳寺で明極楚俊という僧に会い、生死の分かれ目でどうすべきかを問うたと伝わる。答えは「両頭倶に截断すれば、一剣天に倚って寒じ」で、生死を断ち切り、心を1本の剣にして天へ向けよ、という意味だ。正成はこの言葉で心を決めた、と記事は書く。

桜井の駅に、駅はなかった

太平記は、正成が息子を河内へ帰す場面を置く。西国街道の桜井の宿。11歳の正行を呼び、お前の顔を見るのは今日が最後だと思う、と告げる。獅子は子を産んで3日目に、崖から投げ落とす。正成は、討死と聞いたなら天下は将軍の世と心得よ、それでも降参はするなと泣く泣く言い含め、父子は東西に別れていく。

太平記の中で、正成と正行が顔を合わせる場面は、ここしかない。1370年ごろに完成した軍記物語の、たった1か所だ。それなのに、この一場面は能や唱歌の題材になり、国定教科書にまで載って、長く語られてきた。父と子の理想の姿を、多くの日本人が見たからだと、中世史の研究者は語る。正行がこのとき何を思ったかを書いた史料は、1つもない。

江戸の後期には、頼山陽の日本外史が、この別れを平易な文章で描いた。幕末の志士たちに楠公崇拝をあおった書物で、足利氏への酷評と、楠木父子への賛辞がその特色だ。河内長野市の資料は、桜井訣別は山陽によって史実化された、と整理する。

2005年から2008年にかけて、桜井駅跡の周辺が発掘された。出てきたのは、中世の有力者の屋敷らしき跡と、平安から近世まで続いた耕作地。駅の跡は、見つからなかった。2021年、この研究者は、桜井の別れも桜井駅という名も、虚構の可能性が高いと述べた。桜井は、淀川を渡って河内へ向かう分かれ道に当たる土地で、そこが別れの舞台に選ばれたのだとみる。

それでも1921年に、桜井駅跡は国の史跡に指定された。名目は「楠正成伝説地」。伝説地で指定されたのは、桜井ただ1か所。黒板勝美は、桜井の別れが物語にすぎないと認めながら、幕末に国民を奮い立たせた史蹟として残すべきだと説いた。父子の別れを記す碑は、1876年に大阪府権知事の渡邊昇が建てた。

和田岬の沖で、船が動いた

合戦を詳しく書いた史料は、おもに2つあり、南朝寄りの軍記物語の太平記と、足利氏寄りの史書の梅松論だ。太平記では、巻16の「正成兄弟討死事」が、この日の正成を描く。梅松論も、正成の最期を書く。

5月25日の朝8時ごろ、楠木と新田の連合軍は、湊川で足利軍とにらみ合った。太平記の布陣では、新田義貞が和田岬、楠木が湊川の西側に陣を取る。足利方は、尊氏が海の上、直義が陸の軍を率い、太平記はその数を50万騎と書くが、これは盛った数字だ。ある研究者の見方では、梅松論などから読む限り、兵力の差はそれほど大きくなかった。

勝負を分けたのは、細川定禅が率いる水軍の陽動だった。足利の船が東へ動く。新田軍もつられて、東へ動く。楠木軍だけが、取り残される。足利兄弟はその隙を突いて、新田軍と楠木軍をばらばらにし、孤立した楠木軍を囲みにかかる。

正成は、弟の正季に言う。「敵に前後を遮られ、もう逃げられない、前の敵を蹴散らして後ろの敵に当たろう」と、正成は決めた。700余騎を前後に立て、足利直義の軍の中へ駆け入っていく。菊水の旗を見た足利勢は取り囲んで討とうとしたが、正成と正季は東から西へ破り、北から南へ追い靡かせた。よい敵と見れば組み落として首を取り、手に合わぬ敵は一太刀で追い散らした。

太平記は、楠木勢が直義のそばまで迫ったと書き、直義は薬師寺十郎次郎の奮戦でかろうじて逃げ延びた、と続ける。直義は、危うい所だった。尊氏は弟が退くのを見て、新手と入れ替えて直義を討たせるなと命じる。吉良、高、上杉、石堂の軍6千余騎が、湊川の東に回り込んで後ろをふさぐ。正成は正季とともに引き返し、この新手に立ち向かった。

戦いは6時間に及ぶ。楠木勢は16度も突撃をくり返し、700余騎は73騎まで減った。疲れ果てた一行は、湊川の近くの民家へ駆け込んだ。梅松論は、義貞が敗走したあとも楠木勢が戦い続け、申の刻、午後4時ごろに七郎左衛門尉ら50余騎と自害した、と記す。

六間の客殿で、73人が二列に座った

正成は自害しようと、鎧を脱ぎ捨てる。体には、刀傷が11か所あった。ほかの72人も、みな同じように傷だらけだったという。太平記は、六間ある客殿に二列に座り、十念を唱えながら腹を切った、と描く。正成と正季が刺し違え、一族16人と家来50余人が、炎の中へ倒れ込んだ。

その場には、菊池武吉もいた。兄の武澄の使いで、須磨口の戦いの様子を見に来ていた若者だ。武吉は、正成が自害する場へ行き、見捨てることはできないと言って、ともに果てた。湊川神社には、一族の16柱とあわせて、この武吉も祀られている。

自害の場所には異説がある。湊川神社は、北の殉節地の奥が民家のあった所だと伝えるが、すぐ近くの広厳寺の無為庵という堂で果てた、という話もある。広厳寺は、湊川の戦いで焼けて荒れ、のちに千巌という僧が中興した寺だ。日本語版の楠木正成の項によれば、同寺は境内に墓所と自害の地を持ち、本堂には一族の位牌がある。産経新聞は、殉節地を「七生滅賊」の言葉が生まれた場所と紹介する。

墓の位置を記すのは、ある歴史書。殉節地から「百弓ばかり隔てたるところに葬りたる」と書くと、湊川神社は紹介している。殉節地と墓所を対角線で結んだ長方形の土地が、約500年のちに、神社の境内と定められた。境内の北西の隅に殉節地があり、東南の隅に墓碑が立つ。

七生まで、と答えたのは誰か

いよいよ、最期の台詞だ。太平記によれば、正成は弟に問う。九界のうち、どこへ生まれたいと願うか。弟は「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」と答える。正成も喜んで同意し、兄弟は刺し違えて果てた。

七生は、七度生まれ変わるという意味に読まれてきた。太平記の研究者によれば、ここでの七生は、六道輪廻を超えた永遠を指す。数を数える話じゃない。果てのない時間の話だ。朝敵を滅ぼし尽くすまで、何度でも人間に生まれる、という執念になる。

この台詞を言ったのが誰かも、実ははっきりしないが、太平記の古い形を残す西源院本では、弟の名は正氏と書かれる。後世に最も広く読まれた流布本では、正季だ。梅松論での呼び名は、七郎左衛門尉。七郎と正季が同じ人物かどうかは、史料の上では厳密に決められない。

太平記は、この台詞を美談として載せたのに、巻23では、同じ正成を怨霊として再登場させ、室町幕府を呪わせる。その霊は、読経の功徳でようやく鎮められる。史実の正成は、法華経を自分の手で写経するほど、仏教への信仰が篤い人物だった。七生滅賊の物語は本来の人となりに反する、と日本語版の楠木正成の項は指摘する。

滅賊が、報国になった

赤穂浪士の討ち入りの直後、元禄15年の落書は、大石内蔵助を楠木正成の再来に見立てた。幕末の松下村塾では、吉田松陰が塾生に七生説を説いた。久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋らが、楠公を理想とする志士に育っていく。正成を理想とする教えが倒幕の動きを後押しした、と河内長野市の資料は整理する。

念のため断っておくと、太平記にあるのは七生滅賊で、七生報国という字面は出てこない。七生滅賊が七生報国に変わったのは、いつなのか。手がかりは、1904年4月3日の萬朝報にある。海軍軍人の広瀬武夫の辞世として、「七生報国」の4字で始まる漢詩が載った。七生報国という語の用例は、遅くともここまでさかのぼれ、滅賊の2字が消えて、報国の2字に入れ替わっている。

教科書も、変わっていく。国定歴史教科書の正成の最期は、初めは「湊川の戦いで討ち死にしました」と短かった。1911年の改訂で、「七たび人間に生まれて朝敵を滅ぼさん」の一文が入る。この年は南北朝正閏問題が起き、「南北朝時代」の呼び名が「吉野朝時代」に改められた年でもある。1934年にも、国民はみな正成のような真心でお国のために尽くせ、という趣旨の加筆。

戦争が深まると、七生報国は遺書の決まり文句になった。知覧特攻平和会館の参事によれば、多くの特攻隊員の遺書にこの言葉が出てくる。人間魚雷の回天を考案した黒木博司少佐は、正成には及ばないまでも死にがいのある働き場所を求める、と報告した。沖縄戦の菊水作戦という名は、正成の家紋の菊水紋に由来し、戦後は、この言葉が軍国主義をあおったと批判された。

六条河原の首は、本物なのか

湊川で果てた正成の首は足利方に回収され、京都の六条河原に架けられた、と太平記は書いている。偽首の噂は、前からあった。見物した人々は、これを疑う。この年の春にも、別人の首が正成のものとして架けられたことがあったからだ。「これもにせ首ではあるまいか」と言う者が多かった、と太平記は伝える。

疑う声は狂歌にもなって札に書かれ、河原に立てられたが、その後、尊氏は首を取り寄せ、こう言ったという。長く親しく付き合った仲が哀れでならない、残された妻子も、せめてもう一度、死に顔を見たかろう、と尊氏は言う。首は、河内へ送られた。太平記は、その情けをありがたいと評している。

首を見た正成の妻と正行は、別れの日から覚悟はしていた。それでも、目を閉じて色の変わった顔を見ると、涙が止まらなかった。11歳の正行は、袖で涙を押さえ、持仏堂のほうへ向かう。不審に思った母が戸を開けると、正行は形見の菊水の刀を抜き、自害しようとしていた。母は腕にすがりついて叱り、刀を奪い取った。

「お前を桜井から帰したのは、父の菩提を弔わせるためでも、腹を切らせるためでもない」と、母は言う。父が死んでも、帝がどこかにおられると聞いたなら、生き残った一族や家来を養っておけ、という。もう一度戦って敵を滅ぼし、帝を再び皇位につけよ、という遺言を、母は思い出させた。それから正行は、遊びでも敵の首を取るまねをし、竹馬に乗って「将軍を追い撃つのだ」と言って暮らした。

江戸の初めに活字本が出た軍学書の太平記評判秘伝理尽鈔は、この首の返還に裏話を足す。首を送れと兄に進言したのは直義で、送れば人は尊氏を情け深いと思い、敵の志も鈍る策だった、と伝える。楠木の老中たちは、これは正成が語っていた手だと見抜いたうえで、首を受け取り、礼の文書を返した。ちなみに、太平記の本文にはない話だ。

首が納められたと伝わる塚は、河内長野市の観心寺にある。市の案内は、尊氏の命で送り届けられた首級が葬られている塚、と紹介する。観心寺は楠木家の菩提寺で、寺伝では、正成は8歳から15歳までここの中院で学んだ。境内には、建武の新政の成功を祈って正成が建て始め、湊川で討死したために1層目で止まった三重塔、建掛塔がある。首塚の修理は、1880年に完成。

ここまでは、太平記の筋書きだ。ここからが、史料の話。史実の尊氏は、湊川に近い寺で遺体を手厚く葬り、領地を寄進して僧に供養させたと、日本語版の楠木正季の項は書く。根拠に挙げられるのは諸庄々文書案という文書で、遺体の扱いは、太平記と史実で食い違う、と同じ項は指摘している。

神戸の兵庫区にも首にまつわる伝承があり、阿弥陀寺の境内に、楠公供養石と呼ばれる石が据えられている。湊川合戦で魚の御堂に本陣を置いた尊氏らが、正成の首を置いて首あらためをした石だと伝わる。魚の御堂は、平清盛が魚の供養に建てたと伝わる堂。戦災で変形し、色も変わった。

亀の背に載った碑

足利方の梅松論は、正成のような者を賢才武略の勇士と呼ぶと書き、敵も味方も惜しまぬ人はなかったと続ける。太平記は、智と仁と勇の三徳をそなえ、これほどの者は古今にいなかったと絶賛した。それでも、南北朝の争いが北朝の勝ちで終わると、正成は朝敵として扱われる。1559年に、子孫と称する楠木正虎が嘆願し、正親町天皇が勅免を出す。形は、先祖の非を子孫が悔いたから許す、という扱いだった。

正成の息子たちも、南朝方として戦い続けた。正行は、1348年に四條畷の戦いで戦死する。正時も、兄とともに四條畷で果てた。弟の正儀は南朝の参議にまで登り、橘氏の公卿としては約400年ぶりだった。

湊川の戦いのあと、墓は地元の人々にひっそり祀られていた、と湊川神社は説明する。それが記録の表に出たのは、豊臣秀吉の太閤検地のときだ。片桐且元が検地すると、正成の葬られた場所だと分かり、東西4間、南北6間の24坪が、年貢のかからない土地にされた。いまの玉垣の中に当たる。墓所の存在が、初めて公の記録に現れた出来事だった。

1643年に尼崎藩主になった青山幸利は、領内に楠公の墓があると知る。1646年、塚の目印として、松と梅を植えた。のちには、五輪の供養塔も建てる。名所図絵や紀行文にも描かれ、墓は世に知られ始めたわけだ。墓所に並ぶ、尼崎藩主6代の奉納灯籠。

本気で動いたのが、水戸の徳川光圀だ。水戸黄門として知られる人だ。若いころに史記の伯夷伝を読んで衝撃を受け、日本の歴史書を作ろうと決めた人でもある。その成果が、大日本史。南朝を正統とする考えに行き着けば、一番の忠臣として名が挙がるのは正成で、光圀は、墓碑を建てようと思い立つ。

きっかけは、2人の出会い。1人は、助さんのモデルとして知られる家臣の佐々宗淳。もう1人は、僧の千巌。千巌は1674年に荒れた広厳寺へ来て、復興に尽くしていた。1685年に宗淳が広厳寺を訪ねて千巌と会い、碑を建てる話が、そこから動き出す。

1692年4月、光圀は宗淳に建碑の指揮を命じた。碑石が据えられたのは、同じ年の8月12日だ。費用は183両余。表の「嗚呼忠臣楠子之墓」の8字は、光圀が自分で書いた。裏には、明の遺臣の朱舜水が書いた文章が彫られている。

碑石は大阪の青和泉石、亀の台座は京都の白川石、いちばん下は神戸の御影石だ。正成の故郷と、仕えた天皇のいた都と、果てた土地という、ゆかりの3か所の石が重ねられている。亀の下に控えるのは、亀の胴に龍の首をそなえた伝説の生き物で、朱子学の影響が大きいとみる郷土史家もいる。光圀は、兵庫に一度も来ていない。字は、宗淳が光圀の書を運んできて、石に彫らせたものだ。

碑は建てて終わりではなかった。1695年には、碑が烏などに汚されるのを恐れて、碑を覆う堂を建てる。あわせて、墓の維持を担う広厳寺の堂宇も造営され、11月25日に落成供養が営まれた。かかった費用は、1500両にのぼる。

碑ができると、参る人が増えた。1日に1000人以上、と湊川神社は書く。吉田松陰は碑の拓本を松下村塾に掲げ、横井小楠や新島襄も座右に置いたと伝わる。幕末には、松陰や坂本龍馬ら志士たちがこの墓に参ったと神社は説明し、墓碑は1951年に国の史跡に指定された。

塚が神社になるまで

幕末には、楠公を祀る社を建てたいという願い出が相次いだ。1864年に、薩摩の島津久光が、湊川に楠社を建てたいと朝廷へ願い出る。1867年には、尾張の徳川慶勝が、京都の神楽岡での建立を願った。1868年には、神戸裁判所の役人だった伊藤博文ら6人が、豪商の北風荘右衛門と相談して、創建の建議を出した。朝廷は、この建議を受け入れる。

明治天皇は同じ1868年に神社の創建を命じ、初代兵庫県知事となった伊藤博文は、境内地の選定にかかる。殉節地と墓所を対角線で結ぶ、7千余坪の長方形の土地が選ばれた。1872年5月24日に湊川神社が創建され、神社としては初めて別格官幣社の社格が与えられる。正成の佩刀と伝わる小竜景光は、のちに明治天皇の佩刀になった。

1874年の末には、福沢諭吉の学問のすすめ第七編が、正成の討死への批判と読まれて、楠公権助論という論争になる。1880年には、正成に正一位が贈られた。明治に入って南朝を正統と見る考えが定まると、正成は「大楠公」と呼ばれる。1935年には大楠公六百年記念大祭が開かれ、命日の5月25日に湊川神社で武者行列が行われた。参加者は3千人、沿道の見物は50万人と報じられる。

敗戦で、評価は揺れた。戦後の歴史学では、正成を悪党として見る方向が強まった。悪党とは、荘園領主や幕府に逆らった新興勢力を指す言葉で、悪者を意味しない。吉川英治は私本太平記で、戦前とは違う正成を描いた。日本放送協会のテレビ番組が「建武新政破れ、悪党楠木正成自刃す」という題で放送されて、湊川神社が抗議したこともある。

21世紀に入ってからの研究は、正成を1つの型に押し込めない。畿内の武士が複数の顔を持つのは、ふつうのことだったと、先の研究者は説く。正成は、交通と流通の道で財を稼ぐ商人であり、後醍醐天皇に仕える廷臣であり、幕府の御家人でもあった。建武政権では、最高政務機関の記録所の寄人にも抜擢され、幕府から訴えられた悪党の顔も、その1つだった。

湊川神社の社殿は先の大戦で焼け、戦後に再建され、天井には、全国の画家が奉納した164点の絵が並ぶ。境内の神能殿は、楠木家と観阿弥、世阿弥の血縁にちなむ。宝物殿の重要文化財の奥書には、建武2年8月25日に法華経の写経を終えた日付があり、署名は「橘朝臣正成」。湊川の戦いの、9か月前の筆だ。

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