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長篠の三段撃ちは誰が作ったのか、信長公記が書いたことと書かなかったこと

川を潜って城を抜けた男

天正三年五月十三日、三河の長篠城で兵糧蔵が燃えた。武田方が射込んだ火矢のために、城は貯えていた食糧のほとんどを失ってしまう。あと数日で落ちる。籠城しているのは五百の兵で、城の外へ出て助けを呼べる者がいなければ、誰にも知られないまま落ちるしかなかった。

使いの役を買って出たのが、鳥居強右衛門という男だった。本名は勝商で、強右衛門は通称だ。三河の宝飯郡の生まれで、奥平家に仕えていた数え三十六歳の家臣だと伝わる。命がけの役目。十四日の夜、強右衛門は川を潜って武田軍の目をくらまし、包囲の外へ抜け出して、岡崎城を目指して走った。

翌十五日の朝、雁峰山から狼煙が上がった。脱出に成功したという合図だったらしく、岡崎城に着いた強右衛門は、城主の奥平貞昌に代わって、援軍を送ってほしいと頼み込む。ところがこのとき岡崎には、信長の援軍がもう着いていて、出発の日取りまで決まっていたのだった。

織田と徳川を合わせた三万八千が翌日には出ると知った強右衛門は、この朗報を一刻も早く城の仲間に伝えようと、すぐに引き返した。十六日の早朝、城のすぐ近くの有海村で、武田の兵に見つかってしまう。脱出から、わずか二日。

捕らえられた強右衛門に、勝頼は、城の前まで連れて行くから援軍は来ないと叫べ、という取引を持ちかけた。そうすれば命は助けてやる、という話だ。強右衛門は、城の前へ引き出されることになった。

叫んだのは、命じられたのとは逆の言葉だった。あと二三日で数万の援軍が着くから、それまで持ちこたえよ、と。勝頼は怒り、その場で強右衛門を殺させたと伝わる。磔にされたという話がいちばんよく知られているが、死んだ場所も日付も、史料にははっきりと記されていない。

信長公記に載らなかった使者

ここで妙なことに気づく。長篠の戦いを語る定番の場面であるはずの強右衛門の話が、同じ時代に書かれた信長公記には、どこにも出てこないのだ。いちばん基本になる史料に見えない人物が、なぜここまで有名になったのか。不思議な話だ。

最古の記録は寛永元年に版行された甫庵信長記で、西暦なら一六二四年にあたり、長篠の戦いからおよそ五十年が過ぎていた。三河物語にも強右衛門は登場するが、使者を出した理由や脱出の様子は、甫庵信長記とは書き方が違っている。史料ごとに、細部が揺れる人物だ。

書かなかった理由は分からない。知らなかったのか、書くまでもないと見たのか、今の私たちに確かめる手立てはない。

脱出の前に詠んだという和歌も伝わる。我が君の命に代わる玉の緒の何いとひけむ武士の道。これも甫庵信長記に載る歌で、強右衛門本人が詠んだという保証は、どこを探しても見当たらない。

形に残った物はあり、新城市作手の甘泉寺には、信長が建てさせたと伝わる墓がある。磔にされた姿を描いた旗指物は、東京大学史料編纂所が持っていて、紀州藩士の落合家に伝わった品だ。落合左平次が作らせたらしい。

子孫も厚く遇された。子の信商は、父の功で百石を与えられ、のちに関ヶ原の戦いで安国寺恵瓊を捕らえた働きによって、二百石に加増されている。父の名は、子の出世にも効いたことになる。

飯田線の鳥居駅は強右衛門の最期の地にちなむ名だと伝わり、明治から太平洋戦争のころまで、国定教科書にも載った話だ。同時代の記録に名の無い男が、のちの世でいちばんの有名人になった。

信玄の三回忌に甲府を出た勝頼

信玄が世を去ったのは、一五七三年の春だった。死は伏せられていたが、天正元年の八月、奥三河の国衆だった奥平貞昌の一族が、武田から徳川へ寝返る。父の貞能は、本当に信玄は生きているのかと疑ったという。家康は貞昌を、武田と向き合う最前線の長篠城に置いた。

勝頼は天正三年四月十二日に父信玄の三回忌法要を済ませて甲府を出ると、高遠と二俣を通って遠江へ入り、そこから東三河へ攻め込んだ。十五日には足助城を囲み、十九日には開城させてしまう。勢いのある進軍。

五月十四日までに勝頼は長篠城を囲み、寝返った奥平が守る城を、最初に取り返しにかかった。そういう動きだったと見ていい。

別の話もあり、岡崎城を乗っ取ろうとした大賀弥四郎は、内通を知られて殺された。この失敗が武田の進軍を後押ししたという説もあるが、どこまで効いたのかは分からない。

山県昌景、馬場信春、内藤昌秀。信玄の時代からの重鎮たちは、信長が自ら出陣したと知って、撤退を進言したと伝わる。正直なところ、この話の出どころは軍記物に寄っている。甲陽軍鑑には、跡部勝資ら新しい側近が戦を主張し、宿老の意見は退けられたと書かれる。

勝頼は決戦を選んだ。決戦の日が近づく。若い当主が、父の重臣たちを押し切った形になる。古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して集まり、水盃を交わして別れたという。劇的な場面だが、どこまで事実なのかは分からない。

五百人と鉄砲二百丁の城

長篠城は、永正五年に菅沼元成が築いたと伝わる城だ。東三河から信濃へ抜ける道と、豊川の水運が交わる場所にあって、崖と川が守りの助けになる。天正元年の八月に菅沼正貞が徳川へ城を明け渡すと、家康は守りを固めるために城を広げた。

そこに入ったのが、奥平貞昌とおよそ五百の兵だった。鉄砲は二百丁ほど、大鉄砲まで備えていたという。小さな城にしては、火力が厚い。周りを谷川が囲む地形も味方して、攻める側は近づきにくかった。

武田の猛攻を何とかしのいでいた城は、五百で一万を超す軍勢を相手にした、小さな城の話でもある。兵糧蔵が焼けなければ、もっと長く持ったのかもしれない。惜しい話だ。

信長公記は、武田の軍勢を一万五千と書く。そのうち三千は、鳶ヶ巣山という場所に陣を置いて、長篠城を囲む形をとっていた。残る一万二千が、設楽原へ向かう。この三千が、あとで戦の流れを左右する。背後から崩されたとき、勝頼は大きな誤算を知ることになった。

連吾川を堀に見立てた陣

五月十八日、織田信長の軍三万と徳川家康の軍八千が設楽原に着陣した。決戦の場が決まる。長篠から少し離れた川沿いの野で、今の愛知県新城市にあたる。この戦は、設楽原の戦いとも呼ばれる。ここで武田を迎え撃つ。

信長公記は、織田と徳川を合わせて三万八千と書く。その中には、鳶ヶ巣山を突く別働隊の四千も入っているので、設楽原の本陣に残るのは三万四千ほどだ。向かい合う武田は一万二千ほどになる。倍を超える開き。

武田は兵を十三か所ほどに分けて西向きに布陣し、広い野に細かく散らした形になった。数の少ない側が兵を散らすのは、あまり得な布陣には見えない。

この数字を信用しない研究者もいる。高柳光寿は、織田を一万二千から一万三千、徳川を四千から五千、武田を八千から一万と見積もった。設楽原に出た武田の兵は六千から七千だった、という見方だ。それでも、織田と徳川がほぼ二倍の数で上回る形は変わらない。

信長は小川や連吾川を堀に見立てて、陣の構築を急がせた。三重の土塁を築き、そこに馬防柵を設けるという野戦の築城は、当時の日本ではかなり珍しいものだった。柵の役目は、馬の足を止めることだ。

突っ込んでくる武者を柵の前で受け止め、そこへ鉄砲を撃ち込む。足が止まれば、狙いを付ける間もできる。組み立てとしては、実に分かりやすい。ただし、分かりやすい話ほど、あとから作られた絵が混ざりやすい。

誰が書いた本を信じるのか

長篠を語る本は、書かれた時期も書いた人もばらばらだ。顔ぶれを先に並べておく。

信長公記を書いたのは、信長に仕えた太田牛一。主君の一代の出来事を書き留めた記録で、長篠の戦いを知るうえで基本になる史料のひとつだ。三河物語は、徳川家に仕えた大久保彦左衛門の著作で、家康側の目から書かれている。

甲陽軍鑑は武田の軍学を伝える書で、江戸時代の初めに世に出た。甫庵信長記は、江戸時代に入ってから書かれた信長の伝記で、読み物としては面白いが、史料としての信用度は高くない。

常山紀談は、江戸中期の逸話集になる。多聞院日記は奈良の寺の僧が、兼見卿記は京の神官が、それぞれ見聞を書き留めた日記だ。戦場から離れた人の耳に入った話だけに、数字の癖がよく出る。同じ戦でも、書いた人が違えば顔が変わる。

千挺ばかり、と太田牛一は書いた

その信長公記は、鉄砲について千挺ばかりと書き、指揮に当たった鉄砲奉行として五人の名を挙げる。佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政。千挺を五人で割れば、ひとり二百挺ほどを預かった計算だ。

のちに前田利家は加賀百万石の祖となり、佐々成政は越中の領主になるが、長篠では、どちらも信長に使われる奉行のひとりにすぎなかった。

鳶ヶ巣山を突く別働隊にも信長は鉄砲五百を付けたので、千と五百を合わせれば、およそ千五百になる。三万八千の兵に千五百挺。二十五人に一挺の割合だ。鉄砲を持たない兵のほうが、ずっと多かった。

三千挺という数もよく知られているが、その根拠になる写本には問題がある。甫庵本と池田本には、三の字が脇に書き足された箇所があり、後世の加筆かもしれない。数字は割れる。

信長公記が鉄砲奉行について書くのは、五人に指揮をとらせた、というところまでだ。どう撃たせたかは書かれていない。三段という言葉も、出てこない。

三段に並んだ絵はどこから来たか

絵や教科書の図には、鉄砲隊が三列に並ぶ姿が描かれる。一列目が撃ち、しゃがんで下がる。二列目が撃つ。その間に、一列目が弾を込め直す。見覚えのある図。

三千挺を三つに割れば、千挺ずつの三段になる。数字も図もきれいに収まる。収まりの良さが、この話を広める力になったのかもしれない。

三段撃ちの最初の記述は江戸時代に出版された通俗小説に見え、信長公記に書かれた話ではなかった。明治の教科書が史実として載せたことで、一気に広まった。

火縄銃は撃つまでに手間がかかり、火薬を入れ、弾を込め、棒で突き固めなければならない。火皿に口薬を盛り、火縄を挟んで構える。この手順を、三列が呼吸を合わせて回すことになる。

考えてみてほしい。三列が入れ替わるには、後ろへ下がる道と前へ出る道が要る。柵のすぐ後ろに鉄砲が並んだ場所で、その間を行き来する余地がどれだけあったのか。信長公記は、そんな動きを一言も書いていない。

火縄銃の再現実験をした研究者は、三段撃ちは不可能だと指摘した。机の上の図なら美しいが、柵の向こうからは本物の武者が迫ってくる。

三段撃ちが怪しいからといって、鉄砲が働かなかったことにはならない。信長公記には、押し寄せた武田の兵が鉄砲の一斉射撃で大半打ち倒された、と読める書きぶりがある。ちなみに、武田方も鉄砲を持っていた。

武田の騎馬隊は馬に乗っていたのか

武田といえば騎馬隊という像も強いが、甲斐では武田氏館跡から戦国時代の馬の全身骨格が出ている。貴重な例。

ところが、同じ時代の別の遺跡から出る馬は様子が違い、駄馬や農耕馬と見られる遺体が数多く見つかっている。立派な軍馬ばかりがそろっていたとは、ここからは読めない。

徳川方の家臣の日記には、武田の騎馬武者が数十人で集団を組んで攻めかかってきた、という記述がある。馬に乗った武者がかたまって突っ込んだことは、確かに書かれている。ただ、それを騎馬隊と呼べるかどうかは別の話だ。

馬が銃声に慣れていなかった、という説もある。ただ、武田家は以前から鉄砲を使っていた。長篠城が穴だらけになるほど、大量に持ち込んだと考えられる。

銃声を知らない馬が暴れた、と決めつけるのは難しい。勝敗を分けたものは、別のところにありそうだ。

軍議のあとで呼び止められた酒井忠次

五月二十日の夜に開かれた織田と徳川の軍議で、徳川四天王のひとりに数えられる酒井忠次が、ひとつの策を出した。鳶ヶ巣山の武田の陣を、夜のうちに背後から突くという策。

江戸時代の逸話集、常山紀談には続きがある。信長はこの案を小細工だと罵り、その場で退けた。ところが軍議が終わると、信長は忠次をこっそり呼びつける。

信長は、そなたの案は理にかなった最善の策だ、と忠次を褒めた。すぐに実行するよう命じたという。表では叱り、裏で採る。信長らしい話かもしれない。

この逸話が事実かどうかは分からず、常山紀談は事件から二百年近くあとに書かれた本だ。他の史料と並べて読む必要がある。

ともあれ、別働隊が動き出す。弓と鉄砲に優れた兵が二千ほど選ばれ、信長の鉄砲五百が加わった。検使として金森長近らも付き、全部で四千ほどになった。

鳶ヶ巣山の陣が落ちれば、長篠城は解き放たれる。武田の本隊からすれば、背後と退路を押さえられる形になり、心理の上でも重い圧迫だった。

朝から昼過ぎまで八時間

五月二十一日の早朝、鳶ヶ巣山の攻防が決着に向かうのと前後して、設楽原で戦いが始まった。時間にして八時間ほど、昼過ぎまで続いている。ここが山場だ。

八時間という長さを、考えてみてほしい。一度の突撃で終わる話ではなく、同じ柵の前に、武田の兵が何度も寄せたことになる。

季節は梅雨のさなかで、この日は晴れていたとも伝わる。雨なら火縄は湿り、鉄砲は使いにくい。

信長公記が先に挙げるのは、山県昌景の隊だ。一番手として織田の陣を攻め立て、鉄砲で過半数が倒された、と書かれる。二番手、三番手と、新手が次々に繰り出された。

柵の側の足軽は身を隠したまま鉄砲を撃ち続け、誰ひとり前へ出なかったという記述もある。柵は馬を止めるだけでなく、撃つ側を守る壁にもなった。武田軍は朝から昼過ぎまで、鉄砲の射程の中に留まり続けたことになる。

武田の布陣は、譜代筆頭の山県昌景と内藤昌秀が左翼、馬場信春、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続が右翼だった。中央には、信玄の弟の武田信廉と、甥の穴山信君がいた。

山県昌景は赤備えで知られ、馬場信春は鬼美濃の名で通った将だ。

その中央が早く退いた、という見方がある。中央の線が崩れて両翼が孤立し、損害が膨らんだ。討たれた武将には山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、原昌胤、真田兄弟、土屋昌続の名が並ぶ。

真田の兄弟は、のちの真田昌幸の兄にあたる。二人が討たれたことで、三男の昌幸が家を継ぐことになった。信玄の代から武田家を支えた家老衆が、一日のうちにほとんど失われた。

勝頼は、わずか数百人の旗本に守られて戦場を離れる。途中で菅沼定忠に助けられ、一度は武節城に籠もった。そこから信濃の高遠城まで下がっている。

死者は一万か、一千か

武田軍の死者について、信長公記は一万人以上と書く。ただし、この数には鳶ヶ巣山の攻防で出た犠牲も含まれる。

奈良の多聞院日記には、甲斐の国衆が千人あまり討ち死にした、と書かれる。信長公記の十分の一にあたり、同じ戦でこれほど開きがある。数字が合わない。

京の吉田兼見の日記、兼見卿記には、数千騎が討ち死にしたとある。信長公記の一万と多聞院日記の千の、ちょうど間に入る数字だ。

どの数字も、書いた人の居場所で色が変わる。信長公記は勝った側の中にいた人が書き、多聞院日記と兼見卿記は、遠い土地へ伝わった話を書き留めた。

どの数字を採るかで、戦の姿はずいぶん変わる。一万なら、武田は一戦で軍をほぼ失った。千なら、名のある武将は死んでも、兵の大半は甲斐へ帰ったことになる。

本当にそれだけの損害を与えたのかには、疑問が残る。三つの日記を並べると、ずれの大きさがよく見える。

合戦図屏風と、勝った側の褒美

長篠合戦図屏風は、十の作例が知られる。犬山城白帝文庫が持つ成瀬本が原本とされ、六曲一双で、十七世紀後半の延宝のころの作だ。戦から百年ほどあとになる。

大阪城天守閣、徳川美術館、名古屋市博物館は、それぞれ写本を所蔵する。三段撃ちの絵が教科書に載る前から、長篠は絵になる戦だったのだ。

長篠城を守り抜いた奥平貞昌は、信長の信の字を与えられて信昌と改める。偏諱と呼ばれる、主君から名の字を賜る名誉だった。家康からは長女の亀姫を正室に迎え、さらに名刀の大般若長光も贈られた。

信長はこの戦で天下人としての地位を固め、家康は三河の実権を握って、遠江の諏訪原城と二俣城を攻め落としていく。五百人で城を持たせた働きへの報いは、大きかった。誰が見ても手柄だ。

戦のあとに残った城と火縄銃

長篠城は、この戦の翌年の天正四年に廃城になった。昭和四年には国の史跡に指定され、今は新城市立の長篠城址史跡保存館が建っている。武田が囲み、強右衛門が抜け出した城は、土地の形として残る。

設楽原には、平成八年の四月に設楽原歴史資料館が開いた。長篠と設楽ヶ原の戦いの資料を集める館で、火縄銃と古式銃の収蔵と展示は、質も量も日本一の規模をうたう。三段撃ちの図ではなく、本物の銃が並ぶ場所だ。

長篠も設楽原も、同じ新城市の中。戦没者を弔う火おんどりという追悼の行事も、資料館の展示で紹介されている。

長篠のあと、勝頼は七年生きた

長篠で負けても、勝頼はすぐには倒れなかった。越後の上杉氏や相模の北条氏との同盟を固め、天正四年の二月には毛利輝元と手を結んでいる。九月には、上杉氏との和睦もまとまった。手は打っていた。

天正九年の正月、勝頼は韮崎に新府城を築き、本拠を躑躅ヶ崎館から移し始める。三月二十二日には高天神城が落ちた。信長との和睦交渉の最中で、相手を刺激するのを恐れて、後詰を出せなかった。この一件で武田の威信は傷つき、国衆は大きく動揺したと伝わる。

天正十年の二月、木曾義昌が背いて、領国は急に崩れていく。三月三日、勝頼は新府城に火をかけて逃げた。小山田信茂の岩殿城へ向かう道も阻まれ、武田ゆかりの天目山棲雲寺を目指す。

三月十一日、田野で滝川一益の追手に捕まり、巳の刻、午前十一時ごろに、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した。享年三十七。武田氏は、ここで滅びた。

上杉謙信は、勝頼を若いと見ながらも、信玄の掟を守る人物として軽んじなかったと伝わる。

勝頼の首と向き合った信長は、日本に隠れのない弓取りだが運がつきなさった、と評したと伝わる。同じ信長が、長篠でこの当主を迎え撃った。

敗因の見方は、今も分かれている。甲陽軍鑑は勝頼を、強過ぎる大将と呼んだ。近年の研究には、北条氏との敵対を招いた甲越同盟のほうが、長篠の敗北より重かったと見るものがある。武田の遺臣たちも、同じように受け止めていたらしい。

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