- 昼下がりの東海道に400人の行列が来た
- 行列の真ん中にいたのは薩摩の国父だった
- 開港から3年、横浜は外国人の町になっていた
- 日曜の遠乗りに出た4人
- 道を譲れというしきたりは、4人に伝わらなかった
- 鉄砲隊を抜けて、駕籠のすぐ近くまで
- 最初の一太刀は奈良原喜左衛門だった
- 桐屋の前から200メートル先で
- 本覚寺に逃げ込んだ2人とヘボンの手当て
- 遺体を取り戻した医官と、居留地の怒り
- 久光は神奈川を避けて、保土ヶ谷に泊まった
- 足軽の岡野新助が斬って逃げたという話
- 勅使は知らせたのに、大名は知らせなかったのか
- 10万ポンドと2万5千ポンド
- 鹿児島湾に7隻の軍艦が来た
- 講和の席で決まったこと
- 戦った相手と、薩摩は近づいていった
- 東海道の民は薩州さまと迎えた
- 京急生麦駅の近くに立つ碑
昼下がりの東海道に400人の行列が来た
文久2年8月21日。西暦なら1862年9月14日、日曜日にあたる日のこと、武蔵国橘樹郡の生麦村は、残暑の厳しい昼下がりを迎えていた。いまの横浜市鶴見区生麦のあたりだ。
村は東海道に沿って家が並ぶ集落で、江戸から西へ向かう旅人が絶えず行き交う。川崎宿のあとに生麦村、そのあとに神奈川宿と保土ヶ谷宿が続く道筋だ。
午後2時ごろ、街道の向こうから、薩摩藩の兵を中心にしたおよそ400人の大きな行列が近づいてきた。先頭から後ろまでが長く伸びて、土煙を上げながら、ゆっくりと進んでいく。
道ばたで見ていた村人は、頭を下げて息をひそめ、行列が通り過ぎるのをただ黙って待つしかなかった。大名行列と出会ったら、道を空けて地面に控えるのが、誰にとっても当たり前の暮らしだったからだ。
行列は江戸を発って、京都へ戻る途中にあり、この夜は神奈川宿に泊まる予定だった。その行列が、この日、生麦の街道で思わぬ相手と鉢合わせすることになる。
行列の真ん中にいたのは薩摩の国父だった
行列の主は島津久光、44歳。薩摩藩主島津茂久の実の父にあたり、藩の最高指導者として政治の舵を握っていた。藩主ではない。だが藩の誰もが、久光の言葉を藩の言葉として聞いていた。
久光は、先代の藩主だった島津斉彬の異母弟にあたる。斉彬が安政5年に世を去ったあと、藩主の座には久光の子が就き、久光はその父として藩の政治に力をふるうようになった。薩摩は斉彬の時代から、集成館という工場群を築いて、洋式の技術を取り入れてきた藩でもある。
この年の春、久光は兵を率いて京都へ上っている。伏見の寺田屋では、攘夷の挙兵をたくらむ藩の過激な若者たちを、同じ藩士の手で抑えこんだ。藩士同士の斬り合いになり、死者も出たほどで、幕府にも朝廷にも、薩摩の名が重く響き始めた時期だった。
夏には、およそ700人の軍勢を連れて江戸へ入り、朝廷の勅使である大原重徳を護衛しながら、幕府に改革を迫った。
その圧力に押されて、幕府は人事を改め、一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職に就いたのだ。江戸行きの、大きな成果だ。
久光は大原の一行より1日早く、8月21日に江戸を発った。成果を携えて京都へ戻る道を急いでいたわけで、薩摩の武士たちの胸には、高い誇りが満ちていたはずだ。
行列の先頭には藩士たちが並び、その後ろに久光の駕籠と鉄砲隊が続く。国父の駕籠は、行列の核にあたる場所にあった。
開港から3年、横浜は外国人の町になっていた
横浜が開かれたのは安政6年。日米修好通商条約に基づく開港で、わずか3年のうちに、海辺の小さな村が異国の商人の集まる町へ変わっていた。
居留地には商館が建ち、生糸や茶の取引が日に日に動く。外国人は日本の暮らしをよく知らないまま、日本の道を歩き、馬を走らせていた。
日本側は、ざわついていた。開国への反発は強く、外国人を追い払えという声が、あちこちでくすぶり続けていたのだ。
万延元年には、大老の井伊直弼が江戸城の門前で討たれた。桜田門外の変だ。井伊が安政の大獄で反対派を厳しく罰したのも、そのわずか前のことだった。翌年には、東禅寺にあったイギリス公使館が、水戸の浪士に襲われている。
外国人と武士が同じ道に立てば何かが起きると考える者は、日本にも居留地にも、きっといたに違いない。
生麦の街道は、そんな火種を抱えたまま、静かに昼の光を浴びていた。
日曜の遠乗りに出た4人
馬上にいたのは4人のイギリス人。男が3人、女が1人だ。
ひとりはチャールズ・レノックス・リチャードソンで、上海で長く商売をしてきた商人だった。このときは横浜を訪れており、日本の街道を馬で走るのを楽しみにしていたのかもしれない。
ウィリアム・マーシャルは横浜に住む生糸商人で、ウッドソープ・チャールズ・クラークは、横浜にある商店に勤めていた。
もう1人がマーガレット・ボロデール夫人で、マーシャルの従姉妹にあたる。香港で商いをする男の妻で、一行の中でただ1人の女性だった。
4人は横浜の居留地を出て、小舟で神奈川へ渡り、東海道を江戸の方角へ進んでいく。日曜日の乗馬を楽しんでいたか、川崎大師へ向かう途中だった、といわれる。
つまり薩摩の行列とは、正面から向かい合う形になったわけだ。
道を譲れというしきたりは、4人に伝わらなかった
外国人が自由に歩けるのは、決められた範囲の中だけだった。開港場から十里四方。川崎大師も、その範囲の中に入っている。
だから4人の遠乗りは、条約の上では何も咎められない行いだった。居留地の外国人にとって、東海道の遠乗りは、数少ない楽しみでもあったのだ。
ところが、日本側のしきたりは外国人に伝わっていなかった。行列と出会ったら馬から下りて、道を譲り、頭を下げて控える。そう教わった者は、居留地に1人もいなかったのかもしれない。
行列の先頭の藩士たちは、身振り手振りで合図を送った。馬から下りて、道を譲れ。そう説明したつもりだった。
だが外国人たちは、脇を通れと言われたのだと受け取り、言葉が通じないまま、意味だけがすれ違っていく。
行列は、ほぼ道幅いっぱいに広がっていた。4人は馬を進め、薩摩の行列の中を、逆向きにかき分けるようにして進んでいった。
事件の直前、マーシャルがリチャードソンに声をかけたという。面倒に巻き込むな、と。リチャードソンは言い返した。中国に14年住んでいて、こういう連中の扱い方は知っている、と。
その言葉が、彼の最後の強がりになった。
鉄砲隊を抜けて、駕籠のすぐ近くまで
4人は鉄砲隊の横も通り過ぎて、ついに、久光の駕籠のすぐ近くまで、馬を乗り入れてしまう。
供回りの藩士が、何かを叫んだ。外国人たちは、引き返せと言われたのだと受け取り、馬首を返そうとして、あたりかまわず動いた。
狭い道で馬が向きを変えるたびに行列の乱れが大きくなり、藩士の目に、これは無礼として映った。
供の列を乱し、国父の駕籠に近づく異人。許してよい事態ではなかった。
数人の藩士が、刀を抜いた。
最初の一太刀は奈良原喜左衛門だった
薩摩藩の記録『薩藩海軍史』によれば、最初に斬りつけたのは奈良原喜左衛門だ。当番供頭を務める、久光のすぐ近くに仕える藩士だ。
リチャードソンは深手を負いながらも、馬を駆って来た道を逃げ出した。そこへ鉄砲隊の久木村治休が追いつき、抜き打ちに斬り上げた一太刀が、リチャードソンにとって致命傷になる。
マーシャルとクラークも斬られたが、2人とも血を流しながら、必死に馬を飛ばして来た道を逃げていく。
ボロデール夫人も一撃を受けた。ただ、飛ばされたのは帽子と髪の一部だけで、身体は無傷で済み、夫人は馬を走らせて横浜の居留地を目指した。
あっという間の出来事だ。街道にいた村人は、何が起きたのか分からないまま、固まって見ていたかもしれない。
桐屋の前から200メートル先で
リチャードソンは深手を負ったまま、馬を走らせた。生麦村の桐屋という料理屋の前から、200メートルほど先まで逃げたところで、とうとう馬から落ちる。
道に倒れたところへ海江田信義が近づき、介錯のつもりでとどめを刺したと、記録にはある。のちに明治政府の官僚となる人物だ。
リチャードソンは、その場で息絶えた。
行列は、そのまま進んでいく。斬った側は無礼者を討っただけだと考え、斬られた側は道を歩いていただけで殺されたと受け取った。この食い違いが、のちの大きな騒ぎにつながる。
誰が最初に斬り、誰が致命傷を与えたか。細かい点は伝える史料によって揺れるが、行列の供回りの多数が一斉に斬ったことは、動かない。
久光の直接の命令がなくても、暗黙の了解のもとで行われたのは明らかだった。
本覚寺に逃げ込んだ2人とヘボンの手当て
重傷を負ったマーシャルとクラークは、血を流したまま神奈川の本覚寺へ飛び込んだ。当時のこの寺は、アメリカ領事館として使われていた。
そこにいたのは、宣教師で医師のジェームス・カーティス・ヘボンで、のちにヘボン式ローマ字で名を残す人物だ。
ヘボンは本覚寺で、2人の手当てにあたった。傷は深く、一刻を争う状態だったに違いなく、それでも2人は、どうにか命を取り留めた。
ボロデール夫人は、真っ先に居留地へ駆け戻り、仲間が襲われたと訴えて、救援を求めたのだ。
遺体を取り戻した医官と、居留地の怒り
イギリス公使館付きの医官、ウィリアム・ウィリスが馬で生麦へ向かう。地元の住民から妨げを受けながらも、リチャードソンの遺体を見つけて、横浜へ運んで帰る。
その夜から翌朝にかけて、居留地の外国人の多くが怒りで煮えたぎった。武器をとって報復に出ろ。そう叫ぶ声が、あちこちで上がる。
フランス公使のデュシェーヌ・ド・ベルクールは、その動きを後押しするようなそぶりを見せた。居留民たちの勢いは、さらに加速していく。
イギリス代理公使のジョン・ニール中佐は、冷静だった。戦力が足りない現実と、全面戦争になったときの不利を説いて、騒ぎを押さえ込もうとした。
騎馬の護衛隊を出すなと命じていたのが、ニールだ。ところが領事のヴァイスは、その禁止を無視して出動する。2人のあいだに、しこりが残った。
事件のあと、各国の公使や領事、海軍の士官、居留民が集まって話し合った。島津久光か、その高官を捕らえるという案まで出たらしい。戦争に直結しかねない話だ。
久光は神奈川を避けて、保土ヶ谷に泊まった
久光の一行は、横浜に近い神奈川宿を避けた。その夜の宿を保土ヶ谷宿に変えたのは、居留地の報復を警戒したからだろう。
大久保利通の日記には、藩士2人が居留地の様子を探りに出ていたと、その日の動きが記されている。
生麦村の役人は、事件を神奈川奉行へ届け出た。奉行が一行に報告を求めると、久光側は翌日付で、とんでもない答えを返してくる。
浪人が3人か4人、突然出てきて外国人を1人討ち果たし、どこかへ消えた。薩摩藩とは無関係だ。正直、無理のある言い訳だと思う。
奉行の引き止めにも耳を貸さず、一行は急いで京都へ向かった。
足軽の岡野新助が斬って逃げたという話
老中の板倉勝静は、薩摩藩の江戸留守居役に詳しい説明を求めたが、薩摩側は、また別の話を持ち出してくる。
足軽の岡野新助が、行列に馬で乗り込んできた異人を斬って逃げており、探してはいるが、いまも行方が分からない。
幕府は怒り、留守居役を呼びつけて問いただしたが、薩摩藩側は最後までしらを切り通した。
居留地が、そんな言い訳を信じるはずもなく、事件の責任は、幕府と薩摩の両方に向けられていった。
勅使は知らせたのに、大名は知らせなかったのか
事件の2日後、8月23日。ニール代理公使は、幕府側の窓口にあたる外国奉行の津田正路と会って、事件の責任を問いただした。
ニールは詰め寄った。勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせなかったのか。
津田の答えは、こうだ。勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもの。わざわざ知らせる必要はない。
この答えは、外国側には通じなかった。幕府が薩摩を抑えられていないという現実が、はっきり露わになった場面だ。
10万ポンドと2万5千ポンド
文久3年の年明け早々、イギリス本国の外務大臣の訓令が、ニールの元へ届いた。
これに基づいて、2月19日、ニールは幕府に要求を突きつける。謝罪と、賠償金10万ポンド。日本の金に直せば、およそ30万両にあたる大金だった。薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を派遣して直接交渉し、犯人の処罰と賠償金2万5千ポンドを求める。
幕府に圧力をかけるため、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの艦隊が、次々と横浜へ入港した。
将軍の徳川家茂は京都にいた。老中格の小笠原長行が急ぎ呼び戻され、交渉にあたる。幕府の中は割れ、一度は支払いに決まったが、期日の前日、5月2日になって延期が外国側に告げられた。
ニールは激怒し、海軍のキューパー提督に任せて、軍事行動をほのめかした。横浜には緊張が走る。
小笠原は独断で賠償金の支払いを命じ、5月9日、賠償金の全額がイギリス公使館へ運び込まれた。小笠原は上京したのち、大坂で老中を罷免されている。
鹿児島湾に7隻の軍艦が来た
イギリスは薩摩と直接交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾へ入れた。
交渉はまとまらなかった。7月2日、イギリス艦が薩摩の船を拿捕したのをきっかけに、薩摩藩が艦隊へ砲撃を始める。薩英戦争の始まりだ。
鹿児島の城下では500戸以上が焼け、斉彬が築いた集成館の工場も、砲撃の巻き添えになった。イギリスの旗艦では、艦長と副長が砲弾に当たって命を落としている。
圧倒的な力を持つはずの艦隊でさえ、思わぬ犠牲を出したのだ。薩摩の被害は大きかったが、イギリス艦隊の損傷も軽くはない。
7月4日、艦隊は鹿児島湾を去り、2日に始まった戦いは、わずか数日でいったん収まる。
どちらが勝ったとは言いにくい戦いだが、薩摩は、イギリスの軍事力を目の前で見ることになった。
講和の席で決まったこと
戦いから3か月あまりが過ぎた10月5日、イギリスと薩摩は、横浜のイギリス公使館で講和に至った。
薩摩は2万5千ポンドに相当する6万300両を支払う。藩に払える金はなく、海岸防禦費という名目で、幕府から借り入れた金だった。
幕府に責められた事件の賠償を、幕府から借りて払う。奇妙な話だが、これが実際の経緯だ。
講和の条件には、犯人の処罰もあったが、加害者は逃亡中とされたまま、処罰は行われていない。
戦った相手と、薩摩は近づいていった
不思議なのは、このあとだ。イギリスの軍事力を目の当たりにした薩摩では、攘夷の声が急速に下火になった。藩の考えは、開国の方向へ大きく傾いていく。
叩かれた相手から学ぶ。藩はそう割り切ったらしい。
慶応元年には、薩摩藩がイギリスへ留学生を送り出した。その数は19人。のちの明治の世で、政治や産業の世界に名を残す者たちが含まれていた。
事件の火種になった藩が、数年後には、相手の国へ若者を送り込む。歴史は、ときに皮肉な曲がり角を用意する。
東海道の民は薩州さまと迎えた
事件のあと、幕府では久光に敵意を持つ見方が一般的だった。ところが東海道筋の民衆は、さすがは薩州さまと歓呼して、久光の行列を迎えたという。
閏8月7日、久光は京都に入る。9日に参内すると、孝明天皇はわざわざ出御して、久光の働きをねぎらった。無位無官の者には、異例の待遇だ。
だが、事件をきっかけに朝廷は攘夷一色に染まっていき、それは久光にも、薩摩藩にも、思いもよらない成り行きだった。
薩摩が幕政改革で目指したのは攘夷ではなく、幕府が外国貿易を独り占めしていることへの不満が、本音だったのだ。
尊攘派が牛耳る京都に耐えきれず、久光は23日に京都を発って、鹿児島へ戻っている。
京急生麦駅の近くに立つ碑
事件から21年が過ぎた明治16年。12月に、現場の近くに生麦事件之碑が建てられた。
建てたのは黒川荘三。碑文を書いたのは中村正直だ。
碑は京急本線の生麦駅の近くにある。昭和63年11月1日には、横浜市の地域史跡に登録された。首都高速の工事のため、一時は東側の旧東海道脇へ仮に移されたこともあるという。
旧東海道だった道は、いまは住宅や商店が並ぶ道に変わった。車が走り、人が歩く。毎日の暮らしが流れている。
足を止めて碑の前に立ってほしい。ここで馬が止まった。ここで人が斬られた。そう思うと、静かな街の風景が違って見える。
4人のイギリス人のうち、街道に倒れたのはリチャードソンだけで、残る3人は生き延びて、あの日の出来事を語った。
薩摩の行列は、その夜のうちに保土ヶ谷へ入り、翌日にはまた西へ向かう。国父の駕籠は、止まらなかった。
