水茶屋「寿」で、板木は二日かけて削られた
安政2年12月13日と14日、日本橋通三丁目の水茶屋「寿」に板元たちが集められた。板元は家主と連れ立って来て、絵草紙掛の名主が二人、地本問屋の行事とともに立ち会った。やることは一つ。地震に関する無許可の板木を、その場で削り落とすことだ。
削られた板木は、車四台ぶんもあった。使えない板木は打ち割られ、まだ使える板木は行事が取り上げた。そう書き留めたのが『藤岡屋日記』だ。書き手の藤岡屋由蔵は、江戸の噂を集めて各藩の江戸詰の武士に売る、情報屋の元祖とも呼ばれる男だった。その日記の原本は、のちの関東大震災で焼けた。
削られたのは、鯰の絵だけにとどまらない。地震と出火の絵図、半紙本、大判の錦絵、その他もろもろを、当時の記録はまとめて「無改の品」と呼んだ。役所の改めを受けず、検閲の印を欠いた品という意味になる。
鯰絵という呼び名は、当時のものとは違う。同時代の記録には、錦絵、狂絵、戯画、鯰の絵、地震絵といった書き方が並ぶ。いまの呼び名が定着したのは、オランダの文化人類学者が1964年の学位論文でそう呼んだからだと解説される。話を、板木が削られた日の70日ほど前の夜へ戻す。
四つ時の鐘を聞いて、西村茂樹は便所に入った
旧暦10月2日は、朝に細かい雨が降り、すぐ止んで、一日曇りだった。夜は雲がまだらに出て、風はかすかだった。『安政乙卯武江地動之記』という当時の記録に、そうある。旧暦の二日だから、月は出ていない。江戸の夜は、闇。
佐野藩士の西村茂樹は、四つ時の鐘を聞いて、寝る前に便所へ入った。すると北西の方角から揺れが来た。最初の揺れが収まりかけたところへ二度目の大きな揺れが来て、家が崩れたと、本人の記録にある。
この二段の揺れは、研究者にとっても手がかりになった。歴史地震研究会の講演要旨は、初動と主要動が分かれて書かれている点から、震源は浅い地殻内ではないと読む。地震の規模は、マグニチュード7前後。
時刻の書き方も、出どころで揺れる。内閣府の報告書は午後10時ごろとし、歴史地震の論文は午後9時20分ごろとする。同じ四つ時が、報告によって40分ほどずれるわけだ。
火は30数か所から出て、焼けたのは1.5平方キロだった。関東大震災の約38平方キロに比べれば小さく、この夜は風が弱かった。町人地の家屋は、1万4000軒あまりが倒れたという。内閣府の報告書は、そう整理している。
町方で4千、全部で7千、いや1万
町奉行所が調べた町方の死者は、調べた時期と整理した本で違う。10月6日の最初の調べで4,394人、10月中旬の二度目で4,741人。別の研究書は、町奉行所の調べとして4,293人、負傷者2,759人という数字を挙げる。町方だけで、4千3百から4千7百までばらつくんだよな。
この数字に、武家と寺社領は入っていない。大名屋敷だけで死者は2,000人を超えると推定されるが、旗本と御家人の死者は分からないままだ。足し合わせて「1万人くらい」と整理する解説もある。
内閣府の専門調査会の報告書は、江戸市中の死者を1万人前後とする。大名屋敷266家のうち、116家で死者が出た。大名小路と呼ばれた丸の内のあたりでは、55家のほぼすべてが何らかの被害を受けている。建物の被害は、全体の約8割と推定される。
一方で、歴史地震の研究者が古記録を積み上げた数字は、7千台で止まる。どれも7千台だ。寺社奉行の屋敷で書かれた「公私日記」は約7,100人、掛川藩の江戸藩邸日記からは7,091人。被害地震の総覧は約7,341人を挙げ、2011年の論文は「7,095人を超える」と書いた。
寺社奉行の日記の数字について、研究者は、把握できた人数だから実際はこれを上回ったと考えられる、と断っている。内閣府の報告書も、旗本と御家人の分は不明とする。筆者の見立てを置くと、7千台と1万の差は、数え方の差だ。1万は、書き留められなかった分を見込んだ概算と読める。
吉原では、1,000人あまりが亡くなった。内閣府の広報誌に載った、分科会委員の寄稿による。遊郭は遊女が逃げないよう堀で囲まれ、出入り口は大門しかなかったから、人が大門に殺到したという。堀には反り橋が数か所あったが、この夜は降ろせなかった。壊れていたのか、錆びついていたのか、寄稿者は事実は分からないと記す。
幕府の動きは早かった。発災2日目から、市中の取締り、死者の無料埋葬、米の配給、物価の公定上限、義捐金の報奨が始まっている。同じ2日目の10月4日、江戸の町では別のものが動き出していた。刷り物。
百文に六枚の絵図が、摺りが間に合わないほど売れた
10月4日、大伝馬町一丁目の品川屋久助が、江戸絵図に焼けた場所を色で塗り分けた摺物を、百文に六枚の卸値で売り出した。1枚あたり約16文。これが摺りの間に合わないほど売れた、と『藤岡屋日記』は書く。
続いて馬喰町三丁目の両国屋庄吉が、地震と出火の場所を書き込んだ摺物を出し、これも評判になった。二人とも1万枚ほど摺ったという。日記は「摺り候由」と伝聞の形で書くから、情報屋が聞き込んだ数字だ。
日記が最初に挙げる売れ筋は、鯰の絵でなく焼け跡の絵図だった。そのあとに「出火場細見記」といった半紙本が出て、売れ行きがいいので、大判の錦絵、絵図、大津絵節にした品も出た。絵草紙掛の名主が板木と摺り溜めの取り上げを命じるのは、その段になってからだ。
笠亭仙果という書き手は、日記『なゐの日並』に、人気の絵を二つ書き残した。鹿島大明神を人々が拝む絵と、大鯰を打ちすえる絵だ。刷り物が出回り始めたのは10月4日、というのも同じ日記の記述だ。
仮名垣魯文は、もう少し派手な話を残した。魯文の没後に弟子がまとめた伝記『仮名反古』によれば、震災の翌朝に際物師が訪ねてきて、外で夜を明かした魯文に詞書を頼んだ。書いたのが「老なまづ」。絵は河鍋暁斎が描き、数千枚が売れたという。
魯文が文を作った絵は、同じ伝記にもう一枚ある。題は「雨には困ります野じゅくしばらくのそとね」。歌舞伎の「暫」のパロディで、柿色の素襖に大太刀の七代目團十郎が、足元に鯰坊主を踏み、要石でその首を押さえつける形だ。絵は歌川豊国の筆と、伝記は書く。
歌舞伎を題材にした鯰絵は、209点のうち28点だと論文は数える。事典は27点。この年の冬、江戸三座は類焼して顔見世を開けず、芝居の再開は翌年3月の市村座が最も早かった。論文は、芝居のない冬に、役者の似顔を描いた鯰絵が役者絵の代わりに買われたのではないか、と考える。
ところが、「老なまづ」には引っかかる点がある。画面には、吉原の仮宅の場所が書き込まれている。仮宅の営業と場所が決まったのは11月4日とする年表があり、東京大学の展示解説も、翌日の出版には疑問が残ると書く。
ここは筆者の見立て。日付は弟子の記憶のなかで前へ寄ったか、あとから手が入ったかのどちらかかもしれない。伝記が本人の手でなく、没後に弟子の手で書かれたこと。それが根拠のすべてだ。
鹿島様は、出雲へ出かけていた
旧暦10月は神無月で、八百万の神が出雲に集まって土地を留守にする。江戸では、10月はえびす講の月でもあった。鹿島の神が留守なら、鯰を押さえる者がいない。絵の詞書によれば、留守を預かった恵比寿は、釣れた良い鯛を肴に酒を飲み、鯰の見張りを怠った。
国立歴史民俗博物館の特集展示(2021年)の解説には、こんな絵が並ぶ。要石で大鯰を制する鹿島明神と、ひれ伏して謝る鯰たち。要石に寄りかかって居眠りする老人の夢の中で、鯰が暴れて町が燃える絵。地震を起こした責任を取って切腹し、腹から小判をあふれさせる鯰の絵もある。
護符もあった。「鯰退治」という絵では、まな板にのせられた鯰が料理されかけていて、枠の中に地震除けの札が書かれている。「東西南北天井へこの札を貼りおけば、家の潰るる憂いさらに無し」という文句が添えられている。絵がそのまま札を兼ねた、とみる研究者もいる。国内外の209点を調べた論文は、そのうち12点に梵字や注意書きがあると数える。
絵の中身は、復興が動き出すと変わった。国立公文書館の展示解説は、余震がおさまるにつれて地震の経済効果を歓迎する絵が出た、と整理する。鯰を福をもたらす「世直し鯰」として描く絵だ。『安政雑記』は、江戸で剣術指南を業にしていた藤川整斎の著で、全16冊ある。そこに残る落書「地震散」は、地震を振り出し薬にたとえ、職人や土方の冷えた腹をあたためる効能を述べた。
数字もある。同じ論文によれば、209点のうち約半数の92点に職人が描かれていた。描かれたのは、大工、左官、鳶、土方、石屋、家根屋、材木屋、それにけがを治す医者たちだ。11月4日に吉原の仮宅の営業が許可されると、儲けた職人が鯰と連れ立って仮宅へ通う絵も出た。
前の年の黒船来航を重ねた絵もある。『安政二年十月二日夜大地震鯰問答』は、地震鯰とペリーが首引きで力比べをする場面を描く。行司の判定は、鯰の勝ちだ。ペリーを直接描いた鯰絵は、事典によればこの1点だけが現存する。
ここも筆者の見立てを置く。鯰が悪者から福の神へ寄っていったのは、買い手の懐が変わったからかもしれない。売れる絵は、買う人の気分に合わせて変わるし、買い手に職人が増えれば、絵の中の職人も増えるわけだ。
「長十丈の鯰なりけり」は、いつの句か
地震は鯰のしわざ。江戸の人はそう信じていたし、いまも「昔から」と言う人は多い。ところが記録を遡ると、古い層には鯰が出てこない。
地震史の研究家だった武者金吉が1956年にまとめた『地震なまず』に、手がかりがある。静岡県松崎の寺で唐紙を張り替えたとき、下張りから建久年間(1190年代)の暦が出た。そこに「地震の虫」という怪物が印刷されていたと言う。武者は、その絵を自分では見ていないと断っている。12世紀末の絵は、虫。
次の手がかりは、1596年、文禄5年の閏7月だ。伏見を中心に畿内が大地震に襲われた。京都の公家の山科言経は、町なかで医者をして暮らしていて、その日記『言経卿記』が町の様子を細かく拾っている。
閏7月12日の夜更けに大地震があった。日記は15日の条に、妙なことを書く。13日から、歌を書いた紙を門に押す者が出て、誰の仕業か分からないまま、町々で押している。松と竹の葉も差している。歌は三首あり、うち一首が「ゆるぐともよもやぬけじの要石かしまの神のあらんかぎりは」だ。
この歌に、鯰はいない。歴史地震研究会の論文は、要石を国土をつなぎ止める長い石と読み、この歌から地震鯰を読み取ることはできないと書く。要石の信仰は13世紀に生まれ、室町時代を通じてそう呼ばれるようになった、という研究も引いている。
1624年、寛永元年の『大日本国地震之図』では、日本列島を龍蛇のような生き物が囲み、頭と尾が重なる常陸に要石が描かれる。論文の解説では、図の中の文字が、その生き物を魚と呼んでいるという。1662年、寛文2年の近江・若狭地震を記録した浅井了意の『かなめいし』には、「龍王いかる時は大地ふるふ」とある。地震を起こすのは龍だった。鯰は、まだ舞台に上がっていない。
地震と鯰が結びついて文字に現れるのは、俳諧だ。地震研究所の二代目所長だった石本巳四雄が見つけた。延宝4年、1676年の百韻に、「瀬戸の土金輪際をほりぬきて」という句があり、桃青が「弁才天に鯰ささぐる」と付けた。延宝6年、1678年の江戸三吟では、「大地震つづいて竜やのぼるらん」に、桃青が「長十丈の鯰なりけり」と付ける。桃青は、のちの芭蕉の号。
武者は、龍を鯰に見立てて笑いにした句だ、と読んだ。ここで筆者の見立てを置く。要石の歌は1596年、鯰の句は1676年で、記録を追えるかぎり、要石と鯰が一枚の絵に収まるまでには80年の間がある。安政の江戸っ子が「古来」と信じた鯰の犯人歴は、最も古い句から数えても約180年にすぎない。研究者の整理も、鯰が地震の犯人になった時期を17世紀後半とみる。
武者は、12世紀の地震虫と17世紀の地震鯰のあいだに約500年の空白があると書いた。いつどうして虫が鯰に変わったのかは、全く分からないという。別の手がかりとして挙げるのが、元禄3年に来日し、5年に帰国したドイツ人のケンペルだ。ケンペルは、日本人は地震を大きな鯨が地下を這うせいだと言う、と書いた。
武者の推測では、ケンペルは地震を起こす怪物だと大鯰の絵を示され、黒くて大きいので鯨と見まちがえたのだという。そうなら元禄のころに、鯰の俗説はすでに行われていた。推測は、推測のまま置く。
ネット上には、伏見城の普請で秀吉が「鯰の起こす地震に耐える城を」と家臣に書き送った、という話も出回る。1592年の書状とする記述もあれば、1586年の天正地震で琵琶湖の鯰を見たとする記述もあって、年さえそろわない。断っておくが、原文は確かめられなかったから、ここでは使わない。
五貫文払えば済む、と版元は高をくくった
11月1日、絵草紙掛の名主が、無許可の板木と摺り溜めの取り上げを命じた。この日、板元たち21人が四日市の水茶屋に集まった。摺師の嘆願書の文面が、日記に写されている。地震のあと問屋から仕事が来ず、やむなく改めのない板木を彫りました、というものだ。
翌2日、嘆願書は出されず、69番の板木が行事に差し出された。ところが3日から、新しい物が夥しく売り出される。小売店は、改印のある品を奥にしまい、改印のない品だけを店先に吊るして売った。
11月5日、浮説を取り締まる町触が出た。無責任な流言で、金融業者が貸し渋りを始めていたという。この日、摺物は380余種あるという噂が立った。9日には売買禁止の通達が出て、行事が二手に分かれ、市中の絵草紙屋を一軒ずつ回って連判状を取った。
連判状の文面は、いま読んでも手厳しい。手元の品は一切残さず差し出し、今後は吊り売りも買い入れもしない。もし一枚でも扱えば、どんな申し立てを受けても一言もありません、と10日付で小売の絵草紙屋が連印した。
それでも、新しい絵は出続けた。同心の報告書は、版元の腹の内まで書く。11月1日の取り調べのとき、版元たちは、69番は売らないと連印したうえで5貫文の過料を出せば済む、と高をくくった。そのまま出板を続け、数字は「二百六十四両」に達した、と読める。
この数字は、わけが分からなくなる。別の整理は、11月1日から12月4日までに納められた科料を364両とする。同じ日記に、264は板木の数としても出てくる。どれがどの数字を指すのか、筆者は原本を見られないので決めかねる。
12月4日の午後2時すぎ、北町奉行所の同心5人が手分けして、神田や下谷、芝、浅草などで絵草紙屋9人を捕らえた。腰縄をつけて茅場町の大番屋へ連れて行き、一夜を明かさせた。手先は30人も来ていたという。
地本問屋の世話役を務める家主は、生活に困ってやむなく売りましたと答えて、同心に叱られた。世話役の身で何を言うか、という叱り方だ。ほかの8人は、ただ恐れ入った。
6日、問屋、名主、家主、五人組が連名で嘆願書を出した。使用人が主人に内緒で隠し売りしたのに気づかなかった、監督不行き届きです、という言い分だ。同じ日の夜、9人は大番屋から引き取られた。日記は「前代未聞」と記し、江戸中の絵草紙関係者で心配しない者はいなかったと続ける。
その折の落首が、日記に残る。「数多喰ふ鯰ニ九人当られる、板元仮宅へ遊びニ行けれバ」。鯰を食い過ぎて九人が当たった、という食あたりに掛けた洒落らしい。落ちには、仮宅への遊びまで付いている。
10日には、絵草紙屋の連印がもう一度あった。茶代は一人100文で、集まったのは145人あまりだ。板木が削られたのは、その3日後になる。
削られた日の落首が、日記に並ぶ。「押へても鯰の絵だけつかまらず」と「尻尾は絵懸り鹿島でハ頭を押へ」。鹿島の要石が頭を押さえ、絵草紙掛が尻尾を押さえる、という洒落だ。
328番、87人、そして209点
日記の総括は短い。11月2日から12月13日までに、行事が取り上げた無改の板木は、絵図、半紙本、大判その他で「三百廿八番」、板元は87人。ある論文はこの数を「328枚」と書き写し、別の解説は「328種類」と書く。版元の数も、87人とする本と89人とする事典がある。
刷り物の種類は、噂の段階から揺れていた。11月5日に「380余種」、9日に「400種近く」。現代の整理も一本にならない。
地震に関する刷り物を320から400とする事典がある。色摺りの錦絵風のものだけで250を超えるとするのが、東京大学附属図書館の展示解説だ。国立歴史民俗博物館は「200種を超える」といい、論文は、国内外で確認できた鯰絵を209点と数える。取り締まりのあとも、重板や類板が相次いだと事典は書く。
筆者の見立てを置く。数字が合わないのは、数える単位が違うからだ。日記の「番」は板木の数、展示の「種」は絵柄の数、論文の「点」は今ある紙の数に当たる。取り上げで摺り溜めの紙は失われ、重板や類板で絵柄は増えたから、同じ物差しでは測れない。死者の数と同じ型の食い違いで、まあ、どれも間違いとは限らない。
『安政見聞誌』は、この絶板のあとの江戸の様子を書く。広い江戸のこと、絶板のあとも余った品がさまざまあり、その一つ二つを、雨の日の慰みに末へ載せる、という書き方だ。この本が、次の話になる。
呼び出された本の中に、鯰を見た男がいた
『安政見聞誌』は、安政3年の3月下旬に仕上がり、4月8日から売り出された。初めに900部を摺り、続けて2,000部を摺った。大評判だった、と『藤岡屋日記』は書く。
本所永倉町の篠崎某の話が載っている。魚釣りが好きで、10月2日の夜も、数珠子という仕掛けで鰻を捕ろうと川筋を回った。ところが鯰が騒いで鰻は1匹も取れず、取れたのは鯰ばかり3匹だった。
鯰が騒ぐときは必ず地震があると聞く。漁をやめて帰り、庭にむしろを敷いて家財を運び出した。妻はひそかに笑ったが、その夜に地震が来て、住居は壊れても器物は損なわれなかった。
出どころは、当時の見聞録『安政見聞誌』の記事だ。東京消防庁の事典がその一節を引いている。話には続きがあり、武者金吉の『地震なまず』によれば、隣家の男も釣りに出て、鯰の暴れるのを見た。気にもとめずに釣りを続けるうちに大地震が起き、驚いて戻ると、家も土蔵もつぶれ、家財はすべて砕けていたという。
武者は、事の真偽は保証できないが信用のできる本だから、でたらめではなかろうと書いた。東京消防庁の事典は、魚類学者の末広恭雄の言葉も引く。鯰が異常に動いても、必ず大地震が来るとは限らない。気象の変化や害敵、水質の悪化でも、魚には異変が出るという。筆者の見立てでは、鯰が騒いだのに何も起きなかった夜の話は、誰も書き留めない。
本は評判を呼び、4月25日に掛りの名主の手入れが入った。この本が話に出たのは、5月15日、北町奉行の井戸対馬守が登城した席だ。奉行は本を見て、退出後に掛りの名主を呼び出し、17日から吟味が始まった。
呼ばれたのは、板元、画師、作者、板木師、それに口絵に詠を寄せた狂言師だ。その詠が咎められ、句は「悟れかしこれぞ禅機の無門関ゆり崩れては一物もなし」だった。上は難渋の者へ救いを下さるのに、「一物もなし」とは思し召しに背く、という叱りだ。詠み手は、扇面に書いたものを写し取られたと答えて、構いなしになった。画師は、崩れた見附を描いたことで叱られた。
言い渡しは、6月2日の北の番所。板元は所払い。画師は画料1両の取り上げと過料5貫文、作者は作料1両2分の取り上げと過料5貫文。摺師と板木師にも、手間賃にあたる金の取り上げと過料5貫文が付いた。5貫文は、11月に版元たちが「それで済む」と高をくくった額と同じだ。
落首は、こうだった。「安政にならで地震がゆり出し、さて版元がうきめ三河や」。本板元の屋号は、三河屋。
