愛知県の豊明市に、国の史跡になっている公園がある。名前は桶狭間古戦場伝説地。境内には石碑と墓碑がいくつも並び、道を挟んだ向かいには高徳院という寺が建っている。
そこから少し北西へ行くと、今度は名古屋市緑区に別の公園が現れる。こちらも桶狭間古戦場を名乗り、織田信長が今川義元を討った現場はここだと、訪れた人に案内している。
二つの公園のあいだは、歩いて行けない距離ではない。それなのに町の境はきっちり一本引かれていて、公園はそれぞれ別の自治体に入っている。
戦いが終わって四百六十年以上たつのに、勝負の場所がひとつに決まらない。決まらない理由も、史料が足りないという単純な話には収まらず、読む人の立つ場所によって答えが変わる。
駿府を出た大軍
合戦の前の空気から確かめておく。永禄三年、西暦で一五六〇年。今川義元は駿河と遠江と三河の三国を治めていた。海道の弓取りと呼ばれた、東海道で一番の大名だ。
背後は固めてあった。甲斐の武田氏と相模の北条氏とのあいだに甲相駿の三国同盟が結ばれていたので、義元は西へ兵を向けても、後ろから突かれる心配が無い。
尾張では織田信秀が亡くなったあと、信長と弟の信勝が争っていた。今川はその混乱につけ込み、鳴海城、笠寺城、大高城、沓掛城といった国境の城を次々に手に入れていく。
信長は丸根砦と鷲津砦を築いて、大高城を孤立させる手を打った。兵糧の届かない城は、持ちこたえられないからだ。
五月十二日、義元は大軍を率いて駿府を出陣する。六日後の十八日に沓掛城へ入り、その夜、松平元康に三河勢を預けて、大高城へ兵糧を運ばせた。
清洲の軍議は、何も決めなかった
同じ十八日、清洲城では織田家の重臣たちが信長を囲んでいた。家老たちは城に籠もって守る策を勧めたが、信長は国境で迎え撃つ道を選ぶ。
軍議の席で信長は雑談ばかりで具体的な策を何も示さず、家老衆は「運の末には、知恵の鏡も曇る」と言い残して引き下がったと伝わる。決まったのは、迎え撃つことだけ。
信長が何を考えていたのかは、書き残されていない。
信長公記が書いている一日
合戦の経過でいちばん信用されている記録は、信長に仕えた太田牛一が書いた『信長公記』だ。牛一は戦いの時代を生きた人で、書き残した経過は、他の軍記と比べても細かい。
織田方の人が書いた記録である以上、今川側の動きは見えにくい。義元がどこで休んでいたのかも、細かな地形の説明がつかないまま、山の名前だけが記されている。
永禄三年五月十九日の夜明け前、丸根砦と鷲津砦が今川方に攻められたという知らせが清洲に届く。信長は飛び起きて、幸若舞の敦盛を舞い、そのまま出陣の支度を整えたと伝わる。
清洲を発ったのは午前四時頃で、供は小姓衆の五騎ほどだった。熱田神宮に着いたのは八時頃で、そこで兵を集めてから、鳴海城を囲む善照寺砦に入る。この時点でそろった軍勢は、二千から三千といわれる。
丸根砦を守っていたのは五百人余りの織田勢で、数の上では、二万五千ともいわれる今川の本隊とは比べものにならなかった。
正午頃、中島砦の前に出ていた佐々政次と千秋四郎の隊が、信長の出陣を聞いて勢いづき、単独で今川の前衛へ攻めかかる。だが逆に反撃を受けて、二人とも討ち取られた。
そのころ義元の本隊は、大高城の方面へ西に進んだあと、南へ進路を取っていた。丸根と鷲津が落ちた知らせに義元は大いに喜び、謡をうたわせたという。
義元が本隊を休ませていたのは、『信長公記』に出てくる「おけはざま山」だ。ここが問題の始まりになる。この山がどこなのかを、はっきり指す記述が、肝心の『信長公記』には見当たらない。
昼を過ぎた頃、視界を奪うほどの豪雨が降った。『信長公記』は「石水混じり」と書く。雹だったのかもしれない。
戦いが始まったのは午後二時頃で、夕刻までの数時間に勝負がついたとされる。雨が上がると、織田勢は東に向かって攻めかかり、義元は自分で太刀を抜いて戦ったという。
最初に槍をつけたのは服部一忠だった。義元はその膝を斬り割ったものの、毛利新介に組み伏せられて首を取られた。享年は数えで四十二。
後世の『水野勝成覚書』には、義元が首を討たれるとき、毛利の指を噛み切ったという話まで出てくる。
今川の大軍は、そこから一気に崩れた。深い田に足を取られた残兵は、次々に討たれていった。
ここまでは、おおむね動かない。例外は場所の一点。
おけはざま山は、どの山なのか
『信長公記』が書いた「おけはざま山」を現地の地図に置こうとして、研究者たちは長く苦労してきた。山の名前がひとつ出てくるだけで、周りの地形を語る言葉がほとんど添えられていない。
昭和四十一年、小島広次は、豊明市側の丘陵にある標高六十四・九メートルの三角点を、おけはざま山と見る説を出した。山の頂上に、義元の本陣があったという読みだ。
高田徹は、石塚山という場所を本陣と考えた。今のホシザキ電機の敷地付近にあたる。江戸中期の『尾州古城志』に、石塚山に義元が陣を張ったという記述があり、石塚山塁跡という遺構まで載せているからだ。
梶野渡は、山の西側にある広い平地を本陣と見た。場所は、名古屋市緑区の桶狭間北二丁目と三丁目から、豊明市の栄町西山にかけてのあたりだ。
さらに海福三千雄は、おけはざま山という特定の丘は無かったと考えた。山稜が連なる一帯を、まとめてそう呼んだという説だ。
名古屋市緑区の側では、尾畑太三が、田楽狭間あるいは坪と呼ばれる平地、とりわけ桶狭間北町公会堂のあたりを本陣の場所と見た。丘の上ではなく、谷あいの平地に陣を置いていたという読み方になる。
同じ『信長公記』を読みながら、本陣の位置は人によってずれる。数百メートルの差ではあるが、その差がそのまま二つの町の差になった。
もうひとつ厄介なのは、「おけはざま」という地名の中身が昔は広かったことだ。大脇郷と洞迫間にまたがる山あいを、ざっくり指す言葉だった。点ではなく、面の名前だったのだ。
江戸の軍記が書き足したもの
『信長公記』のあとに、戦いを語る本が次々に世へ出た。どれも読み物として面白く作られているが、場所の描き方は驚くほど揃わない。
慶長十六年、一六一一年に小瀬甫庵が書いた『信長記』は、『信長公記』を補う本のはずが、児玉増誉には「イツワリ多シ」と批判された。信長の進軍の道筋も、退却も、振る舞いも、大きく書き換えられている。
貞享二年、一六八五年の『総見記』は、「桶狭間ノ山ノ下ノ芝原」という言い方を使った。山の上ではなく、山の下の草地という書き方だ。
文化四年、一八〇七年の『桶狭間合戦記』には、こうある。「義元只今桶狭間山の北、松原に至て」。別の箇所では、沓掛を出陣して桶狭間山の中、田楽狭間に入ったと書く。
山の北の松原。山の中の田楽狭間。山の下なら芝原だ。同じ戦いを描いているのに、足場の置き方が本ごとに違う。
後の世の人は、どれか一つを選んで場所を決めるしかなかった。選ぶ基準が違えば、答えも違ってくる。
屋形はさま、田楽がつぼ
江戸時代に入ると、戦場の呼び名が史料に顔を出し始める。名前は一つに揃っていなかった。
「田楽がつぼ」は、一六〇二年の『中古日本治乱記』に初めて出る。寛永の後期にまとめられた『見聞集』には「田楽がくぼ」とあり、一六九〇年の『桶峡合戦記』は「田楽はさま」と書いた。
一方で「屋形はさま」は、一六六四年の『道中回文図絵』が初出になる。
一七〇六年頃の『今川義元桶迫間合戦覚』には、おけはさまから屋形はさまへの呼び替えが記録されている。江戸後期に向かって、呼び名が入れ替わっていった。
一八三六年の『尾張国地名考』は、天正の頃に、桶廻間も屋形はさまも落合も、大脇村の字から独立したと書いている。
屋形はさまと田楽がつぼは、やがて別々の場所の名前として扱われた。そのうち屋形はさまが豊明の伝説地になり、田楽坪が緑区側の古戦場になった。
同じ戦いを語る名前が、江戸の人々の頭の中ですでに分かれていたことになる。
沓掛の和歌に出てくる窪
話をさらにややこしくするのが、「田楽」という地名の古さだ。
豊明市の沓掛町には、今も田楽ケ窪という字名が使われていて、ここは室町の頃から和歌の名所として知られていた。『名所方角抄』や『あづまの道の記』、『富士見道記』といった旅の記録に、その名前が出てくる。
今川方の資料にも田楽窪の名が見えて、天正十五年、つまり一五八七年の記録に「五月十九日、礼部尾之田楽窪一戦而自吻矣」とある。戦いから二十七年後に書かれた文章だ。
義元が討たれたのは田楽窪だった。今川の側ではそう伝わっていたことになる。
その田楽窪が、沓掛の和歌の名所と同じ場所なのかどうかは、はっきりしない。
古い和歌の地名と、合戦の地名が、あとの時代に混ざった。そう疑う意見もある。江戸の人が田楽という名前から、戦場の「田楽がつぼ」「田楽はさま」を連想して、話が育った可能性もある。
名前が古いというだけでは、場所は決まらない。そこが何より厄介だ。
石碑が立ち始めた江戸の終わり
戦場の場所が形になって現れるのは、石碑からだ。
一番古い義元戦死地の目印は、明和八年、一七七一年の十二月に、人見桼と赤林信之が建てた桶峡七石表で、七基の石標が並ぶ。一号碑が今川義元、二号碑が松井宗信を示した。
文化六年、一八〇九年には、津島の神官である氷室豊長が桶峡弔古碑を建てた。文章を書いたのは秦鼎、字を書いたのは中西融だ。碑文には、戦いで二千五百人が死んだと記される。この数は、尾張藩初代の徳川義直が書いた『成功記』の内容と合う。
ところがこの碑の年は、後の記録で文化十三年、一八一六年と書き換わって伝わった。碑ひとつの年号でさえ、すぐに揺らいだわけだ。
嘉永六年、一八五三年には、尾張藩士が地蔵を建てた。通称はおばけ地蔵。あたりに幽霊が出ると恐れられていたが、地蔵が立ってからは姿を見せなくなったと伝わる。
万延元年、一八六〇年は義元の三百回忌だった。このとき仏式の墓碑が建つ。銘は「天澤寺殿四品前礼部侍郎秀峯哲公大居士」と刻まれている。
明治九年には、有松村の戸長だった山口正義が音頭を取り、愛知県令の安場保和も協力して、義元の墓と松井宗信の墓が建った。
明治三十九年には、明宮の行啓に合わせて墓の向きが東から南へ改められている。
江戸から明治にかけて、豊明側の屋形はさまには、供養の石が積み重なっていった。石は一度立てば、そこが現場だという顔をして動かない。
参謀本部が描いた奇襲の絵
明治三十一年、一八九八年。帝国陸軍の参謀本部が『日本戦史 桶狭間役』をまとめる。
この本が描いた絵が、長く日本人の常識になった。信長は善照寺砦から北へ回り込み、太子ケ根を通って、休んでいる今川本陣の背後を突いた。迂回奇襲説と呼ばれる筋書きだ。
もとをたどれば、この筋書きは小瀬甫庵の『信長記』に行き着く。少数の兵が大軍を一気に破る話は、読み物として申し分なかった。義元の軍勢は二万五千。その数字を置いたのも、この本だ。
ところが『信長公記』を丁寧に読むと、この説は怪しくなる。信長が迂回して背後に回ったとは書かれていない。東に向かって攻めかかった様子が読める。
現在では、迂回奇襲説はほぼ否定されている。ここで話が一周した。奇襲の道筋を失った研究者たちは、改めて本陣の位置を問い直す羽目になった。
本陣が山の上にあったのか、谷あいの平地にあったのかで、信長の攻め方の読みは大きく変わる。山上の本陣を背後から突くという絵と、東に向かって攻めかかったという記述とは、そのままでは重ならないからだ。
藤本正行は、『信長公記』の記述をそのまま採る立場から、こう考えた。信長は義元の居場所も動きも知らず、形勢を変えようと仕掛けた攻撃が、たまたま敵の本隊への正面突撃になったのだという。
昭和五十年代以降、藤本正行らが田楽坪を戦場とする新説を出す。名古屋市緑区の側が「こちらこそ」と声を上げ始めたのは、この頃からだ。
昭和十二年、伝説地という名の指定
話を少し戻す。
昭和十二年、一九三七年に、愛知郡の豊明村の村議会が、桶狭間の古戦場を史跡に指定してほしいと文部省へ申請を出した。
指定は通った。日付は十二月二十一日。ただし名前は「古戦場」ではなく「伝説地」になった。
理由は、合戦地の比定にいくつも説があって、屋形はさまが確定的とは言えなくなっていたからだ。文部省の担当者は、田楽坪も伝説地として指定する案を口にしたという。
その提案を梶野禄文が断ったので、田楽坪をあえて外す形で、豊明の伝説地だけが指定されることになった。
国が「伝説地」と名づけた意味は軽くない。事実の確定ではなく、そう伝わる場所を守る。その線引きが、最初から引かれていた。
昭和四十一年には、史跡のうち高徳院境内を除く部分が公園として整備される。今、訪れた人が目にする姿は、この頃に整ったものだ。
道を挟んだ向かいの高徳院には、今川義元本陣跡の石碑が立つ。大正四年、一九一五年には大正天皇の御大礼を記念する碑も建ち、伝説地の境内は、時代ごとに新しい石を受け入れながら広がってきた。
サワと本田のあいだ
では、本当に田楽坪のほうが正しいのか。
田楽坪説の大きな根拠のひとつが、慶長十三年、一六〇八年の検地だ。このとき石高が決まった本田が、田楽坪の付近にあった。一方、豊明の側にはそのような本田が見られないと、梶野渡は指摘した。
『信長公記』は、義元の軍が深田に足を取られたと書く。深い田があった場所でなければ、この記述が成り立たない。
ただし豊明側にも言い分がある。江戸前期に東海道を旅した山鹿素行は、日記に書いた。「デンガクツボ、こゝに今川義元の討死の所とて塚あり、左の山の間のサワにあり」。
サワとは湿地のことだ。豊明の伝説地は、大正の頃まで湿地だったといい、深田の記述とも矛盾しない。
『関東下向道記』は一六二八年の本で、東海道に面した地での戦死を示していて、これが豊明側の最古の記述とされる。
深田があった。塚があった。どちらの町も、同じ材料を手にして、別の結論を引き出している。
続明良洪範と、緑区の中での最期
小和田哲男は、また別の方向から攻めた。
小和田は『続明良洪範』という史料を重く見た。その読み方に従うと、義元は大高城へ退く途中で討たれたことになる。その場所は、名古屋市緑区の内側だ。
本陣は桶狭間山のどこかにあった。けれども義元が実際に討たれたのは、本陣とは違う場所かもしれない。この区別こそ、争いの急所。
本陣の位置と、最期の位置を別々に考えると、二つの伝承地は両方とも半分ずつ正しい可能性が出てくる。そうなれば、争いの前提そのものが崩れかねない。
小和田の説にも反対はある。どの説も、決定打を欠いたままだ。
首洗いの泉と馬つなぎの松
名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園は、平成二十二年、二〇一〇年に整備された。比べると新しい公園。
園内には、信長と義元の銅像が立つ。義元の墓碑もある。首洗いの泉と、馬つなぎの社松という名のついた場所まで用意された。
二〇一九年の三月には、観光案内所が開いた。甲冑を着て歩ける体験も用意されている。
豊明の伝説地は、石碑が語る古い場所だ。緑区の公園は、人を迎える設備が整った場所だ。どちらも同じ一日を指しているのに、訪れた人の受け取る印象はまるで違う。
古い石と、新しい銅像。そんな見比べをしたくなるが、地面の下の事実は、どちらにも味方しない。
首と引き換えに開いた城
現場がどこであれ、死者の数は記録された。『桶狭間合戦討死者書上』によれば、今川方の戦死者は二千七百五十三人、織田方は九百九十人余りだった。
碑に刻まれた二千五百人と、書上の二千七百五十三人は、数が少し食い違う。それでも二つの数字は、どちらも二千人台に収まっている。
義元の軍勢の総数には、いくつもの数字が並ぶ。長く影響力を持ったのは、参謀本部の『日本戦史』が示した二万五千だ。小和田も、義元の領国の石高から、二万五千が妥当だと考えている。
鳴海城を守っていた岡部元信は、主君の死を知っても踏みとどまり、頑強に抵抗を続けて、最後まで城を落とされなかった。やがて信長と交渉し、義元の首と引き換えに城を明け渡す。
織田勢は六月二十一日に沓掛城を攻め落とす。西三河から尾張にかけて、今川の勢力は一掃された。
信長の側から見れば、一日の勝負が領国の境を動かした。勝負の現場だけは、その後もずっと動かない。
捨城ならば拾はん
大高城にいた松平元康のもとへは、水野信元の使者、浅井道忠が駆けつけた。十九日の夕方、義元の戦死が告げられる。
元康はその夜のうちに城を出て、翌二十日に菩提寺の大樹寺へ入った。二十三日には「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入り、今川氏から自立する。
永禄五年、一五六二年には、今川氏真に無断で織田氏と講和した。清洲同盟と呼ばれる動きだ。その後の元康は、今川氏と公然と敵対し、三河の統一を進めていった。
隣り合う二つの村
最後に、二つの町の成り立ちを見ておく。
豊明の側は、もとは愛知郡の豊明村で、大脇村とその支郷の落合村から発展した村だった。
名古屋市緑区の側は、桶廻間村とその支郷の有松村から発展し、かつては知多郡の有松町を名乗っていた。
明治七年、一八七四年の七月に、大脇村は栄村へ統合され、このとき知多郡から愛知郡へ編入されている。
同じ戦場を抱えた二つの村は、郡が分かれた隣同士だった。やがて豊明市と名古屋市緑区という別の自治体になる。
古戦場の綱引きは、本家争いと呼ばれてきた。それでも二つの町のつながりは、深い。
同じ曹源寺の檀家に入り、庚申堂へ参拝する間柄だった。江戸の頃には、合戦の故地として連帯する気持ちもあった。
最近は、両方の町が合同でイベントを開く話も出ている。
豊明の伝説地には、義元と松井宗信の墓碑が立つ。緑区の公園は、田楽坪の平らな土地に広がる。
石碑の数なら豊明。深田の根拠なら緑区。勝ち負けの決まらない勝負が、今日も二つの公園で続いている。
