元役人が火を放った朝
天保8年、西暦でいえば1837年に、大坂で一人の元役人が幕府に対して公然と反旗を翻した。その名は大塩平八郎。かつて大坂町奉行所で汚職摘発に辣腕を振るった与力であり、陽明学者としても知られた人物だった。
彼はある朝、自分の屋敷にみずから火を放って焼き払った。「救民」と大書した旗を掲げ、門弟や近隣の農民とともに武装蜂起して、豪商や奉行所を襲撃する。世に言う大塩平八郎の乱だ。
反乱そのものはわずか半日で鎮圧された。それでもこの事件には、乱から百九十年近くを経た現在まで、数多くの謎が残されたままだ。
とりわけ大きな謎が、この事件には一つ残されている。乱の後、およそ40日間にわたって大坂市中で逃走を続けた大塩は、最終的に本当に自害して果てたのか。
発見された遺体は、火薬による爆発と焼失で判別不可能な状態だった。だから「大塩はまだ生きているのではないか」という生存説・潜伏説が、事件直後から江戸時代の人々の間で広く語られることになる。
十四歳で奉行所へ
大塩平八郎。幼名は文之助、諱は正高で、後に後素と改名した。生まれは寛政5年、西暦で言えば1793年のことで、場所は大坂天満の与力屋敷だった。
十四歳で与力見習いとして大坂町奉行所に出仕し、まだ若いうちから汚職の摘発で次々に功績を挙げていく。二十代の役人が挙げる手柄としては、当時としても異例の早さだった。
本人が生涯誇りとした実績は三つある。奉行所内の不正官吏であった弓削新右衛門を摘発した事件。禁教であったキリシタン類似宗教を摘発した一件もある。そして、戒律を破った僧侶を処断した件。
いずれも奉行所の身内や、寺社という聖域へ正面から踏み込んでいく、敵を作らずには済まない仕事だった。敵を作らずに済む種類の手柄ではない。
洗心洞という私塾
文政7年(1824年)頃、大塩は独学で陽明学を修めた。自邸に私塾「洗心洞」を開き、「知行合一」という言葉を掲げて門弟を指導するようになる。
学者としての大塩の評価は、当時から相当に高いものだった。頼山陽からは「小陽明」と称されるほどの学識を持っていたと伝わる。
その一方で、性格はとにかく厳格かつ短気だったという。門弟たちは講義のあいだじゅう、大塩の顔をまともに見ることもできないほど緊張していたと伝わる。
知ることと行うことを切り離さない。それが陽明学の芯にある。その姿勢が、後の蜂起へまっすぐつながっていく。
飢饉の中で米が江戸へ運ばれた
天保7年から翌8年にかけて、後に「天保の大飢饉」と呼ばれる飢えが、西日本を中心に深刻化していった。
このとき大坂東町奉行の座に就いていたのが、跡部良弼という幕臣の一人だった。老中・水野忠邦の実弟にあたる人物だ。
跡部は将軍宣下の儀式費用を捻出するため、飢饉のさなかにもかかわらず大坂の米を江戸へ廻送することを強行した。
大塩はこの米の廻送という施策に、真正面から強く反発する。豪商への救済米の放出を求め、さらに大坂の豪商・鴻池家から1万両を借り上げる案まで奉行へ献策した。
聞き入れられなかった。
すでに与力の職を退いていた大塩は、上への献策をあきらめ、今度は自分の手だけで動き出す。蔵書のおよそ5万冊を売り払って救済金に充て、そのうえ私財まで投じて窮民の救済へ奔走していった。
それでも、飢饉そのものを止めるには至らない。
半日で壊滅した蜂起
天保8年2月19日、西暦なら1837年3月25日の早朝。大塩は自邸に火を放ち、門弟や近隣の農民らとともに蜂起した。
当初、大塩たちが立てていた計画は、これとはまるで違う。奉行の跡部良弼らが視察に出てくる機を狙い、路上から大砲で狙撃する手はずになっていた。
ところが事前に門弟の一部から密告があり、計画が漏れてしまう。決行は前倒しされた。
「救民」の旗を掲げた蜂起勢は、大坂北船場一帯に並ぶ豪商の店を次々と襲撃していった。しかし幕府側の反撃と鎮圧の前に、蜂起勢はわずか半日ほどで壊滅する。
払った代償は、あまりにも重かった。街そのものが燃えている。この戦闘と火災により、大坂市中の1万世帯以上が焼け出され、市街地のおよそ5分の1が焼失する大惨事になった。
救おうとした当の相手を、結果として焼き出してしまう。この救民と焼失という皮肉な組み合わせこそが、大塩の乱への評価をいまだに二つへ割り続けている。
四十日の潜伏と、判別できない遺体
鎮圧後、大塩と養子の格之助は逃走した。約40日間にわたり、大坂市中に潜伏を続けたとされる。
3月27日、包囲の網が閉じる。潜伏先であった靱油掛町の商人・美吉屋五郎兵衛宅が役人に囲まれた。
追い詰められた大塩は、養子の格之助とともに火薬を用いて自ら火を放ち、自害したと記録に残っている。
問題は、その後に残された遺体だった。爆発と火災により激しく損壊し、顔の判別が困難な状態だったのだ。
そこで幕府は、激しく損壊したその遺体を塩漬けのまま保存しておくという、異様な処置をとっている。
翌天保9年(1838年)8月、大塩および関係者19名の遺体は、塩漬け保存されたまま磔刑に処される。死者を改めて処刑するという、異例の措置だった。
幕府が下した処罰の範囲も、異様なほど広かった。関係者は数百人におよび、斬首17名、遠島23名を含めて、処罰対象は750人にも達したと伝えられている。
通説は「確実に死んだ」
歴史学界における通説は揺らいでいない。大塩平八郎は、潜伏先での爆発によって確実に死亡したとされる。
通説の根拠は、その日の状況そのものにある。逃げ道が無い。潜伏先だった商家は役人の手で完全に包囲され、大塩も格之助も逃げ場を失っていた。
もう一つが幕府の対応になる。損壊した遺体をわざわざ塩漬けにしたうえ、翌年になってから正式な磔刑へ処してもいる。その厳格さは、当時の幕府がこの事件を極めて重大視し、大塩の死を公式に確定させることへ強くこだわった証だと解釈されてきた。
乱そのものが持っていた意味も、決して小さくはなかった。元幕吏による公然たる武装蜂起という前代未聞の事件として、幕藩体制の権威を大きく揺るがした出来事と評価されている。
この事件の波紋は、大坂だけでは収まらず全国へ広がっていく。大塩の檄文は写本の形で各地に伝わり、越後柏崎で生田万が起こした「生田万の乱」をはじめ、大塩門弟を名乗る者による反乱や騒擾が相次いでいく。
これらは天保期の社会不安を語るうえで欠かせない事件になった。
「大塩はまだ生きている」
ただし、遺体の状態は本人と判別できないほど損壊している。その一点から、当時から根強い生存説・潜伏説が語られてきた。
もっとも広く流布したのは、爆死を偽装したという筋書きだ。ひそかに大坂を脱出し、国内のどこかに潜伏し続けているのではないか。
この噂は街談巷説として、大坂から江戸まで、庶民のあいだへ急速に広まっていった。
噂は噂で終わらなかった。はっきりとした実害まで生んでいる。大塩の名を騙り、豪商への打ちこわしを予告する脅迫状までが、各地で出回るようになった。
死んだはずの男の名前が、まだ武器として使われている。
黒船を率いて戻ってくる
さらに大胆な異説が、当時の庶民のあいだで語られていた。大塩がひそかに国外へ逃げ延びたという、いわゆる「海外逃亡説」だ。
こちらの下敷きにあるのは、当時の海の状況だった。天保の頃の日本近海には、外国船がたびたび姿を見せるようになる。
起きた時期も、大塩の乱とよく似た頃合いだった。モリソン号事件、つまりアメリカ商船モリソン号が日本人漂流民の送還と通商を求めて来航し、幕府が異国船打払令に基づいて砲撃した事件だ。
そこからが早い。噂は手のつけられない形で膨らんでいく。大塩が外国勢力と結託し、いずれ黒船を率いて江戸を襲撃する。現実離れした話が、まことしやかに流布したと伝えられている。
この手の噂の正体は分かりやすい。鎖国下の日本社会が抱えていた異国船への漠然とした不安と、体制に反旗を翻した英雄への期待や願望。その二つが結びついた結果だろうね。
受け入れられなかった結末
生存説の下敷きには、大塩という人物へ庶民が抱いた複雑な感情があった。
役人でありながら汚職を憎んだ男である。飢饉に苦しむ民のために立ち上がった。そんな元役人が、四十日の逃亡の末にあっけなく爆死して終わってしまう。
当時の人々の一部は、その素っ気ない結末をどうしても受け入れられなかったのではないか。そう読むこともできる。
大塩はまだどこかで生きていて、いずれ再び立ち上がるのではないか。そうした願望混じりの噂こそが、生存説をこれほど長く生き永らえさせる土壌になったとみられている。
禁書から近代文学へ
大塩平八郎の乱は、明治以降も参照され続けた。自由民権運動や社会改革を志す人々にとって、体制批判の先駆者だったのだ。
大塩の著作である『洗心洞箚記』や『古本大学刮目』は、江戸時代のあいだ、ずっと禁書の扱いを受けていた。その禁書が明治維新の後になって、門人たちの手でようやく世に出される。
明治に入って、大塩への評価は一気に反転する。大塩の思想は「知行合一」を体現した行動主義的知識人の象徴として、改めて読み直されるようになる。
大塩の名は、やがて文学の世界へも移っていった。森鷗外が短編小説『大塩平八郎』を著し、乱の顛末を克明に描いている。
ネットで生き続ける生存説
現代のインターネット上でも、大塩平八郎は人気の題材だ。反骨の元役人。幕府に立ち向かった正義の乱。そんな見出しで、歴史考察系のブログやSNSに繰り返し登場する。
特に効いているのが、遺体が判別不能だった点だろうね。生存説・潜伏説を語るうえで、これ以上ない材料になった。
投稿される考察の中身にも、ずいぶん幅がある。薩摩に匿われていたのではないか。船で密かに蝦夷地まで逃れ、名を変えて余生を送ったのではないか。史料的な根拠には乏しいものの、想像力の豊かな考察記事がたびたび投稿されてきた。
並べられる相手も決まっている。西郷隆盛生存説。豊臣秀頼生存伝説。そうした幕末維新期の生存伝説と一緒に紹介されることも多い。
ループする二つの言い分
歴史系の掲示板やまとめサイトでは、議論の型が決まっている。
片方は、いわゆる隠蔽の裏読みにあたる。遺体を塩漬けにしてまで磔へ処した幕府の執念こそ、逆に大塩の生存を疑わせる状況証拠ではないか。
もう一方は冷静な反論になる。当時の慣習どおり、単に見せしめとして遺体を晒しただけにすぎない。
この応酬がテンプレートのようにループする。当然ながら、どちらにも決着はつかない。史料が足りない。
もう一つ、混同されやすい論点もある。大塩の檄文が写本の形で全国へ伝わり、各地で大塩門弟を名乗る蜂起が相次いだ、という史実のほうだ。これが「大塩の思想は本人の死後もなお生き続けた」というロマン的な語り口で紹介され、生存説と思想的影響力の広がりが混ざったまま語られる傾向がある。
決着していない百九十年
生存説や海外逃亡説を裏付けられる確実な同時代史料は、現在のところどこからも見つかっていない。
集まっている状況証拠は、いずれも死亡説のほうへ傾いている。潜伏先の完全包囲。爆発による自害という経緯。そして幕府がその遺体を執拗に保存し、翌年になってからわざわざ正式な磔刑という手続きを踏んだこと。
この幕府の執拗さは、裏返しでもある。大塩の死を確実なものとして内外に示す必要があった。つまり幕府自身が、生存説の流布を強く警戒していたことをうかがわせる。
もっとも、限界も残る。遺体の身元を確認する精度そのものが、現代の科学捜査とは比べものにならないほど低かった時代である。あの遺体が絶対に大塩本人だったと断定できる物的証拠は、やはり乏しい。
可能性も残されている。大坂周辺の未整理の藩政史料や個人文書の中から、乱後の足取りに関する新資料が見つかるかもしれない。この百九十年来の論争に完全な終止符が打たれたとは、まだ言い切れない。
大坂天満周辺には、大塩にまつわる史跡や慰霊碑が残されている。地元での呼び名は今も変わらない。救民のために立ち上がった義人だ。
