正月十五日の朝、坂下門の前は人であふれていた
文久二年正月十五日。西暦なら一八六二年二月十三日にあたる。小正月のこの日、江戸城の西の丸下は、朝から人の気配でざわついていた。
毎月十五日は、江戸城に大名が総登城して将軍に拝謁する、決まりの日だ。坂下門の前の広場には、各藩の供回りが次々に集まり、駕籠が止まり、槍が立ち、行列と行列が肩をぶつけ合う。ひどい混雑。
午前八時ごろ、その人混みへ一つの行列が近づいた。老中、安藤信正の登城行列だ。信正は磐城平藩の藩主で、屋敷は江戸城の西の丸下にあり、そこから坂下門までは、百メートルあまりしかない。ほんの短い道のり。駕籠のまわりには、四、五十人の供がついていて、備えは厚かった。
訴状を差し出すふりをした男
行列が坂下門の前にさしかかったとき、ごった返す人混みの中から、一人の男が走り出た。手には書き付けを持っていて、直訴の訴状を差し出すふりをしながら、駕籠へ迫っていく。供の者が止めに入ろうとした、その一瞬だった。
男は、駕籠に向けて短筒を撃った。弾は駕籠をそれて、そばについていた小姓の足に当たる。撃ったのは越後の医者、河本杜太郎だったとされるが、平山兵介だとする書き物もあり、誰の一発かは揺れる。
銃声が合図になって、人混みのあちこちから抜き身が躍り出ると、待ち受けていた男たちが一斉に行列へ斬り込んだ。坂下門の前の混雑は、奇襲を仕掛ける側に都合がよかった。警護の士は、一時、混乱状態に陥る。
その隙を突いて、平山兵介が駕籠のすぐそばまで駆け寄り、刀を突き入れる。手応えはあった。刃が届いたのは、駕籠の中にいた安藤の背中だけで、傷は一寸にとどまった。念のため書いておくと、一寸はおよそ三センチだ。
安藤は背中に傷を負ったまま、一人で坂下門の中へ、城内へと駆け込んだ。残った供の者たちが、斬り込んだ男たちを迎え撃ち、数の上では、四、五十人対六人という一方的な斬り合いになる。六人は、供の者たちの前に、一人残らずその場で命を落とした。警護の側にも十数人の負傷者が出たが、死者は出ていない。老中の命は、一寸の傷だけで助かった。
六人の懐から出てきた書き付け
死んだ六人の懐からは、それぞれの変名が記された書き付けが見つかった。斬奸趣意書という。老中を斬る理由を書き並べた文書で、桜田門外の変にならった形だ。六人は、一人ずつ別の名を名乗っていた。
平山は細谷忠斎、小田は浅田儀助、黒沢は吉野政介と名乗った。高畑は相田千之助、河野は三島三郎、河本は豊原邦之助だ。川辺が持参した分は、椋木八太郎が起草し、大橋訥庵が添削したとされる。平山たち六人が書いたとする書き物もあり、筆者は揺れる。
根にあるのは、安藤が自分の権威を振りかざし、天朝を軽んじているという非難だ。罪状は三つに分けて読める。一つ目は、外国への譲歩だ。
安藤は異国人の言うままに、日本の周りの海の測量を許し、国の形勢まで残らず教えてしまった。外夷との応接では密談が数刻に及び、品川の御殿山を貸し与え、江戸で第一の要地を外夷に渡した。趣意書はそう責める。
その御殿山では外国公使館の工事が進んでいたが、建物は、この年の暮れに焼き討ちされる。襲ったのは高杉晋作ら長州の若者で、のちに初代の総理大臣となる伊藤博文も、その中にいた。
二つ目は、和宮の縁組だ。皇妹の縁組を、表向きは朝廷から下されたものに見せかけた。公武合体の姿を作ってみせただけで、実のところは奸謀と威力で奪い取ったのだ。趣意書は、そう言い切っている。言葉の温度は高い。
三つ目が、いちばん重い。安藤はひそかに天子の譲位を企み、和学者に廃帝の古例を調べさせた。北条や足利にも勝る逆謀だと、趣意書は書いた。結びでは、幕府に攘夷を行わせ、万民の困窮を救うよう求めている。
ここまでが、六人の言い分。何を信じて斬り込んだのかは、この三つでほぼ分かる。先に言っておくと、書いてあることが事実かどうかは、別の問いになる。その点は、あとで触れる。
死んだのは誰だったのか
六人の名を挙げておく。平山兵介、小田彦三郎、黒沢五郎、高畑総次郎。この四人が水戸の浪士で、残る二人は医者であり、河野顕三は下野の人、河本杜太郎は越後の人と伝わる。
水戸の浪士だけの事件ではない。下野や越後の人間が、同じ朝に同じ門の前で死に、計画の中心には、水戸の外にいた学者の名が出てくる。名は、大橋訥庵という。
黒沢五郎と高畑総次郎には、前の年の経歴がある。ちなみに二人は、水戸の浪士がイギリス公使館の置かれた東禅寺を襲った事件に加わっていた。外国人に向けた刃を持ったまま、安藤の行列へ向かったことになる。
もう一人、斬り込みに加わるはずの男がいた。水戸の浪士、川辺左次衛門。刻限に遅れて門前に間に合わず、長州藩邸へ趣意書を届け、そこで腹を切ったと伝わる。
応対したのは、のちの木戸孝允にあたる桂小五郎と、伊藤博文だった。二人は幕府から事件との関わりを追及されたが、長井雅楽の尽力で釈放される。事件の死者を六人と数えるか七人と数えるかは、川辺の扱いで変わる。
一刀流の遣い手、平山兵介
一行の中心にいたのは、平山兵介だ。水戸藩士で、本名は平山繁義といい、一刀流の遣い手だったと伝わる。一八四一年の生まれで、数えの二十二歳という若さで、この朝を迎えた。
水戸の藩内は、桜田門外の前から割れていて、安政五年、朝廷は幕府を通さず、水戸藩へ直接、勅書を下す。戊午の密勅と呼ばれ、幕府の頭越しに出された形の勅書だった。
大老の井伊直弼は、これを許さず、勅書の返上を迫り、関わった公家や志士たちを、次々に処罰していく。安政の大獄と呼ばれる弾圧。前藩主の徳川斉昭も、この流れの中で永蟄居を命じられた。
水戸藩の内では、返上に応じるかどうかで意見が割れる。応じる側は鎮派、あくまで拒む側は激派と呼ばれ、平山のような若い藩士は、激派の側に立った。
激派の若者の中には、藩を離れて外へ出ていく者が、次々に出る。桜田門外で井伊直弼を討った浪士たちも、そうして水戸を離れた者が中心だった。平山も、その流れの中にいたのだ。
徳川斉昭が亡くなったあと、平山は同志たちと、一八六〇年の暮れに脱藩したと伝わる。目指したのは京と大坂だが、同志が堺で捕らえられ、平山は旅の僧に姿を変えて水戸へ戻った。
一八六一年五月に帰り着くと、平山は細谷忠斎という変名を使って藩内にもぐり込む。老中が孝明天皇の退位を進めているという噂が、平山を決行へ向かわせる。
頼みにした長州は動かなかった
平山たちは、最初から六人だけでやるつもりではなかった。万延元年七月、水戸の西丸帯刀、野村彝之介、住谷寅之介らは、長州の桂小五郎、松島剛蔵らと、共に動くと約束していた。丙辰丸の盟約、成破の盟約などと呼ばれる約束だ。
この約束に基づいて、安藤の暗殺や、横浜での外国人襲撃が計画された。ところが、長州藩の中では、長井雅楽の公武合体論が主流を占めるようになる。藩士の参加は、難しくなった。長井の航海遠略策は、安藤が承認した公武合体の策でもあった。
長州の側は、計画の延期を持ちかけたが、機を逸することを恐れた水戸の側は、長州の後援なしでやると決める。頼みの綱は切れても、決行の日は動かせなかった。
日本橋の塾に、千数百人が集まった
水戸の外に、この計画を支えたもう一人の中心人物がいた。宇都宮藩の儒者、大橋訥庵だ。一八一六年の生まれで、兵学者清水赤城の四男にあたる。訥庵という号は、父っつあんにかけた洒落だという。
佐藤一斎に学んで朱子学を修め、天保十二年に日本橋で思誠塾を開いた。門下は千数百人にのぼったと伝わり、嘉永三年には、宇都宮藩主戸田忠温の侍講にも抜擢された。塾は、安政の大地震で倒れたあと、小梅村に移っている。
ペリーが来たあと、訥庵は開国論を激しく攻めるようになる。安政四年には『闢邪小言』を書いて西洋の文明を批判し、尊王攘夷の論は、年を追うごとに先鋭になっていった。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎の遺体を、門弟とともに小塚原刑場で棺に納め、埋葬したこともある。
文久元年には『政権快復秘策』をまとめ、和宮の降嫁を進める公武合体に反発して、幕府を倒す手立てを練る。九月には門弟を京へ送って秘策を上奏させたが、朝廷が採ることはなかった。輪王寺宮を擁立して攘夷の兵を挙げる案もあったが、人数が集まらなかった。
水戸の激派から、安藤を暗殺したいという回答が届く。訥庵は、老中の暗殺を時期尚早と考えていたが、水戸の強い意向もあって、暗殺計画を立てる中心に立つ。訥庵夫人の弟で宇都宮の商人、菊池教中や、真岡の医者、小山長円らも協力した。
水戸の側の中心は、野村彝之介、原市之進、下野隼次郎、住谷寅之介ら水戸藩士だった。水戸と下野の志士が、ここで手を結んだことになる。商人の横田藤四郎は二人の子とともに、児島強介や河野顕三らと並んで、草莽の士として計画に加わった。
決行は、当初は十二月十五日の予定だった。十二月十二日、水戸の側から延期の要請があり、決行は二十八日になる。日取りは、二転三転した。
訥庵の義弟の菊池教中は、襲撃のあとに生き残った者を会津藩邸へ行かせ、直訴させる案を出す。訥庵はこれに反対し、成否にかかわらず全員が自決する覚悟がなければ、計画は成功しないと返した。全員が死ぬ覚悟を、訥庵は求めていた。
十二月二十六日、訥庵は宇都宮の志士と会い、決行を年明けに延ばすことを確かめる。正月十五日は上元の式日で、諸大名が総登城して将軍に拝謁する日だ。人の集まる日を狙った。
決行の三日前に、中心人物は牢の中にいた
ところが、この計画は、事件が起きるよりも前に、すでに漏れていたのだ。正月八日、訥庵は徳川慶喜を擁立するための上書を出そうとし、この動きを、一橋家の近習が幕府へ密告した。正月十二日、訥庵は南町奉行に捕らえられ、十三日には、思誠塾に家宅捜索が入る。襲撃の三日前に、首謀者はもう牢の中にいたのだ。
宇都宮側の参加者も捕縛され、計画は大きく狂ったが、水戸の浪士たちは、残った者だけで決行する。実質的な首謀者を欠いたまま、六人は十五日の朝を迎えた。
訥庵と交友があっただけで、捕らえられた者もいる。佐賀の中野方蔵は五月二十五日に獄中で死に、親友の江藤新平は、翌月の六月二十七日に脱藩した。江藤は、のちに明治政府の司法卿を務めた人物だ。事件の波紋は、江戸の外へ広がっていた。
桜田門外の雪の朝
話を二年前に戻す。万延元年三月三日、雪の降る桜田門外で、登城する大老、井伊直弼の行列を、水戸の脱藩浪士たちが襲った。供は六十人前後だったと伝わる。
雪の中を進む彦根藩の供の者は、雨具を着け、刀の柄に袋をかけていて、すぐに抜けなかった者が多いと伝わる。襲ったのは十八人で、水戸の脱藩浪士が十七人、薩摩藩を脱した者が一人だった。先頭の男が直訴を装って駕籠へ近づくと、銃声が響き、斬り込みが始まり、井伊は駕籠の中で討たれ、首を取られた。
首を取ったのは、薩摩を脱したその一人だったと伝わり、坂下門外の朝と、ほとんど同じ段取りだ。大老は、将軍の下で臨時に置かれる最高職で、日々の政務を回す老中とは重さが違う。その大老が、江戸城の門前で首を取られた。
幕府は井伊の死をしばらく伏せ、大老は傷を負っただけだという届けを出し、家の相続を整える時間を稼ぐ。幕府の威信は、この朝に決定的に傷ついた。
磐城平の殿様、安藤信正
井伊のあとを受けて、幕政の中心に立ったのが、安藤信正だった。陸奥国磐城平藩の藩主で、いまの福島県いわき市にあたる。弘化四年に家督を継いだ第五代の藩主で、老中に就いたのは、桜田門外の変が起きる前の、安政七年の正月十五日だった。
老中に就いて、わずか一か月半。桜田門外の変で井伊が討たれた。信正は、井伊に罷免されていた久世広周を老中に呼び戻し、二人で幕政を取り仕切る、久世・安藤政権をつくった。
信正は、強硬な弾圧は改めたものの、井伊の開国路線を受け継ぎ、幕府の威信を取り戻すために選んだのが、公武合体だ。外国人の襲撃事件が続くなかで、粘り強い交渉によって、外国との戦争だけは避けようとした。開港と開市の延期を求めて、使節を送り出す手配も進めた。
金の面で知られるのは、金貨が海外へ流れ出るのを防ぐための改鋳、万延小判だ。五品江戸廻送令も出し、物価の高騰を抑えにかかる。水戸藩に対しては、強硬な姿勢で臨んでもいた。外国御用取扱の功で、一万石を加増されてもいる。文久二年には、亡き直弼の責任を、跡を継いだ井伊直憲に取らせ、彦根藩を十万石減封した。
趣意書が描いた安藤は、外夷の言いなりになる弱腰の老中だった。政策を並べてみると、同じ人物とは思えないほど違って見える。正直、この落差は大きい。
皇女の輿が江戸に入ったあとで
尊王攘夷は天皇を尊んで外国を退ける考え、公武合体は朝廷と幕府が手を結んで国を立て直す考えだ。どちらも天皇を重んじるが、違うのは、幕府をどう扱うかだった。
安藤が進めたのは、後者の公武合体だ。その象徴が、孝明天皇の妹、和宮を将軍徳川家茂に嫁がせる縁組だった。話は、すんなりとは進まない。
孝明天皇は外国人を嫌って通商条約に勅許を与えず、幕府は、その天皇に妹君の降嫁を頼まなければならない。和宮には、有栖川宮熾仁親王との婚約もあり、天皇はこの縁組にも乗り気ではなく、幕府の申し出を、はじめは断っていた。
公家の岩倉具視は、攘夷の実行を条件にして受け入れる道を説き、幕府は、年限を切って攘夷に戻すと朝廷へ約束する。文久元年十月十八日、降嫁は勅許された。和宮は二日後に京都を発ち、中山道を江戸へ向かった。
江戸入りは、同じ年の十一月だ。家茂との婚儀の日取りは、事件から一か月足らず先に迫っていた。家茂と和宮は、どちらも弘化三年の生まれで、同い年の夫婦になる。尊攘派の目には、幕府が朝廷の権威を利用して軽んじる話に映った。
駕籠のまわりを固めた四、五十人
桜田門外の失敗は、幕府の側にも重く残っている。井伊の行列は不意を突かれて崩れ、老中の行列に、同じ隙を見せるわけにはいかなかった。
桜田門外の変のあと、老中だけでなく、登城する大名の警備は、どの家もそろって厳重になっていた。供の人数は、書き物によって揺れる。四十五人とするものもあれば、五十人を超えるとするものもある。
数え方で印象は変わるかもしれないが、六人の何倍もいたことは動かない。襲撃の側は、混雑に紛れて駕籠のそばまで届いたが、その刃で届いたのは、平山の一突きだけだった。それが、背中の一寸になる。
桜田門外では、警護の者に峻烈な処分が下り、重傷者は配流、軽症者は切腹、傷のない者は斬首のうえ家名断絶だった。坂下門外は、安藤の命が助かったため、家臣への処罰は行われなかった。
傷が背中にあった
安藤は死を免れる。それでも文久二年四月十一日、事件の三か月後に老中を罷免され、六月には久世広周も職を去る。八月十六日、隠居と謹慎を命じられ、磐城平藩は二万石を召し上げられて、五万石の藩が三万石になる。十一月には、永蟄居の処分も下った。
跡を継いだ長男の信民は、翌年の八月に亡くなる。藩主の座は、甥の信勇に移った。信民の死後に生まれた遺児の信守が、のちに家督を継ぐ。
理由として語られるのが、傷の位置だ。武家社会では、背中の傷は逃げた証と見られ、武士としての名誉を失うものと考えられた。幕府は、背中に傷を受けるのは武士の風上に置けないと判断したと伝わる。罷免の引き金は、傷の程度ではなく、傷のついた場所だったとされる。
傷の深さも、書き物で揺れる。背中に軽い傷を負っただけだとするものがあり、駕籠の中で身を伏せ、背中などに深い刀傷を受けたとするものもある。正直、ここは読む書き物で印象が変わる。
安藤は、傷の手当てを受けた包帯姿のまま、イギリス公使との会見に臨んだという記録がある。公使は、傷を負いながら幕府の権力者として意地を見せる姿に、感嘆したという。外国の使いの前で気丈に振る舞った老中が、国内では傷の場所で責められた。皮肉な話。
ただ、理由を傷だけに絞る見方ばかりではない。背中の傷のほかに、外国人から金を受け取ったという疑いも、周囲から囁かれた。事件で公武合体の進め方は行き詰まり、傷は引き金にすぎず、本当の理由は政策の失敗にあったという読み方もある。ここは説が分かれる。
畳を楯にしたという磐城平の戦い
罷免されたあとの安藤は表の政治から退き、慶応四年三月、隠居の身だった信正は故郷の磐城平へ戻る。戊辰の戦いが起きており、若い藩主の信勇に代わって、藩政を指揮したのは信正だった。信正は、奥羽越列藩同盟に加わる道を選ぶ。同盟では、輪王寺宮が軍事総督に迎えられた。訥庵がかつて旗印にしようとした宮の座と、同じ座の人物だ。
磐城平の戦いでは、町家から運んだ畳を楯にし、旗指物をいくつも立てて、大軍が潜んでいるように見せたという話が伝わる。信正の策だとされるが、確かな記録は手元にない。ただの虚勢。
七月十三日に磐城平城は落ち、信正は九月に降伏して謹慎した。永蟄居を命じられ、許されたのは明治二年九月だ。明治四年、信正は世を去った。享年五十二。墓は、いわき市平の良善寺にある。
廃帝の噂は本当だったのか
ここからが、諸説の領分だ。史実と分けて書いておく。確かなのは、趣意書が廃帝の古例を調べさせたと書いたことと、平山が、老中が退位を進めているという噂で動いたことだ。
廃帝とは、天皇を位から退けることをいう。古例とは、その前例のことだ。趣意書は、安藤がその前例の調べまで命じたと言い切っている。
安藤が本当にそう動いたのかは、手元の材料では確かめられない。噂の出どころも分からない。分かるのは、噂が先にあり、六人がそれを信じたところまでだ。
趣意書は、縁組の件も廃帝の件も、朝廷を軽んじる行いとして責めている。和宮の降嫁と、廃帝の噂。この二つは、尊攘派の頭の中でつながっていたらしい。
噂の中で、名指しされた学者がいた。和学者の塙次郎。幕府の命で廃帝の先例を調べていると、そう信じた若者たちがいた。
同じ文久二年の十二月、塙次郎は江戸の路上で斬られた。手を下したのは、川辺に応対したあの伊藤博文と、山尾庸三だったと伝わる。噂は、坂下門の外で止まらなかった。
史料で動かないのは、次のあたりだ。文久二年正月十五日の朝、坂下門の外で老中の行列が襲われた。襲った六人は全員が死に、安藤は背中に傷を負って助かり、四月に罷免された。
そこから先は、書き物によって揺れる。供の人数、銃を撃った者、趣意書の筆者、傷の深さ、罷免の本当の理由。どれも、伝わる話の域にとどまる。
出獄して四日で、訥庵は世を去った
捕らえられた訥庵は、伝馬町の牢屋敷に入れられ、環境は劣悪で、同志の多くが獄中で死んだ。宇都宮藩の家老、間瀬和三郎らが、赦免のために動く。
訥庵は七月八日に出獄し、身柄は宇都宮藩邸に預けられる。その四日後の十二日、突然病に倒れ、そのまま亡くなった。享年四十七。
死因には異説がある。毒を盛られたとする話も伝わるが、どちらが正しいのか、決め手になる記録は手元にない。この七月には、一橋慶喜が将軍後見職についた。七月六日。訥庵が擁立を企てた人物が、幕政の表に出た月だった。
墓は谷中の天王寺にある。大橋家の墓地。明治二十四年には、従四位が追贈された。幕府に刃を向けた学者に、新しい世が位を贈ったことになる。
事件のあと、江戸の空気が変わった
坂下門外の変は、老中一人の失脚だけで終わる事件ではなかった。公武合体を進める流れは勢いを失い、尊王攘夷の運動は、反対にいっそう盛んになる。朝廷の権威は、重みを増した。
桜田門外から、わずか二年。江戸城の門前で、幕政の中心にいる人物が、二度続けて襲われた。桜田門外に続く幕閣の襲撃は、幕府の権威が落ちていく流れを、いちだんと早めたとされる。
同じ年の四月には、京の伏見で寺田屋事件が起き、薩摩の尊攘派が、同じ藩の者に討たれた事件だ。老中が罷免された月に、京でも血が流れた。
川辺に応対した桂と伊藤を救ったのは、朝廷と幕府の仲立ちを唱えた長州藩士、長井雅楽だ。その長井も、のちに長州藩を追われ、切腹に追い込まれる。藩論が尊攘へ傾いたためだ。
幕府は、責任を安藤個人に負わせて体制を保とうとした。それでも権威の傷は隠せなかったという評価があり、和宮の降嫁と引き換えに約束した攘夷も、あとを引く。のちに将軍家茂は、朝廷に呼ばれて京へ上った。徳川の将軍が上洛するのは、二百年以上ぶりのことだった。
坂下門から百メートル
坂下門から百メートルあまり。そこに、安藤の屋敷、磐城平藩の上屋敷があった。いま、その一帯は皇居外苑の一部になっている。あの朝、六人の男は門の前で死んだ。老中は、背中に傷を負って門の内へ入った。
