雪の朝、数分で首が落ちた
安政7年3月3日、西暦なら1860年3月24日、江戸城桜田門外で江戸幕府の最高権力者が白昼公然と斬り殺された。
殺されたのは大老・井伊直弼、当時の幕政の頂点に立っていた男だった。襲ったのは水戸藩を脱藩した浪士17名と、薩摩藩士がひとり。締めて18名になる。
登城途中の行列が、雪の降る中で急襲された。不運も重なった。警護の彦根藩士たちは刀の柄に鞘袋をかけていたため、肝心のところで抜刀が遅れてしまう。
わずか数分のうちに大老の首級が奪われる。江戸幕府開闢以来、前代未聞の椿事だった。
分水嶺になった事件
この事件は単なる要人暗殺では終わらなかった。
引き金になったのは「安政の大獄」による強権政治への反発であり、性格としては明確な政治的テロにあたる。
この一件が、その後の幕末史の流れを決めてしまう。尊王攘夷運動が一気に激化し、やがて公武合体路線への転換が起きた。
そこから倒幕への道筋がついてしまう。こうなると、もう後戻りはできない。日本近代史上もっとも重要な事件の一つに数えられている。
しかし、単独犯行説では説明のつかない不自然な点が多い。
だから事件直後から論争が絶えなかった。黒幕は誰なのか。争点はその一点。
水戸藩の組織的な指令だったのか、それとも薩摩藩か、さらに奥にいる朝廷までもが糸を引いていたのか。
将軍継嗣問題という遠因
事件の遠因は安政5年、1858年にさかのぼる。
この年、江戸幕府は第13代将軍・徳川家定の後継をめぐる継嗣問題で、上から下まで大きく揺れていた。
一橋慶喜を推す一橋派がいた。顔ぶれは前水戸藩主の徳川斉昭に、福井藩主の松平慶永ら。対する南紀派が推したのは、紀州藩主の徳川慶福、のちの家茂だった。
激しい対立の末、南紀派の主張が通る。慶福が跡継ぎとして決まった。
これは一橋派にとっても、慶喜を支持していた朝廷の意向にとっても、真正面から反する決着になった。
勅許なしの調印
同年6月19日、事態はさらに大きく動く。
大老に就任したばかりの井伊直弼が、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約へ調印したのだ。
攘夷を強く望んでいた孝明天皇は、この報せに激怒したという。
同年8月、孝明天皇は異例の措置に出る。幕政の刷新と諸藩の結束を求める「戊午の密勅」を、幕府をまるごと飛び越えて直接水戸藩へ下したのだ。
江戸幕府にとっては、朝廷の権威が個別の藩へじかに及んだ前代未聞の事態にほかならない。
安政の大獄
井伊直弼の解釈は、どこまでも明快。これは天皇の真意ではなく、水戸藩が仕組んだ陰謀にほかならない。直弼はそう断じている。
そして翌安政6年にかけて、前例のない大弾圧が始まる。後に安政の大獄と呼ばれることになる粛清だった。
連座した者は皇族から公家、大名、藩士、学者、浪人にまで及ぶ。その数は100名を超えている。
吉田松陰や橋本左内といった人物が次々に処刑され、その苛烈さが尊攘志士たちの怒りを頂点まで押し上げた。
相模屋に集まった十八人
こうした空気の中で、水戸藩の尊攘急進派は井伊直弼の排除を「義挙」として計画し始める。
安政7年3月2日の夜のことだ。品川宿の旅籠「相模屋」に、実行メンバーが静かに集結する。
水戸脱藩浪士が17名に、薩摩藩士の有村次左衛門がひとり加わって、合わせて18名になる。
参加者は全員すでに藩から離脱しており、もはや後戻りのできない捨て身の覚悟を固めていた。
翌3月3日は五節句のひとつ「雛の節句」。諸大名がそろって総登城する日にあたっていた。
鞘袋という致命傷
その朝は、季節外れの牡丹雪が朝から降りしきっていた。
彦根藩邸を出た井伊直弼の行列は総勢約60名。桜田門まで3から4町の道のりを進んでいた。
ここに弱点があった。致命的な弱点。彦根藩士たちは雪除けのため刀の柄へ鞘袋をかけており、いざというとき抜刀が遅れる。
行列が杵築藩邸の前へ差し掛かる。そのときだった。
水戸浪士の森五六郎が、駕籠訴を装って行列へ接近する。これが合図だった。雪が降っている。その中で、いくつもの銃声が続けざまに上がった。
煙草二服ほどの間
直弼は腰から太腿にかけて銃創を負ってしまい、狭い駕籠の中でまったく身動きが取れなくなる。
彦根藩士の多くが混乱して逃げ惑う中、剣豪の河西忠左衛門や永田太郎兵衛正備らは踏みとどまって奮戦する。
それでも次第に数で押し切られていき、やがて駕籠を守る者がひとりもいなくなった。
稲田重蔵をはじめとする浪士たちが駕籠へ取りつき、上から何度も刀を突き立てていく。
とどめを刺したのは薩摩藩士の有村次左衛門だった。駕籠の戸を開け、直弼の髷をつかんで外へ引きずり出す。薬丸自顕流の気合とともに、首を斬り落とした。
直弼の首は、一撃では落ちなかったという。数度にわたる斬撃の末に、ようやく落命したと伝えられている。
襲撃開始から絶命まで、煙草二服ほどの間。ほんの数分のことだった。大老の首が落ちるまでに、それだけの時間しかかかっていない。
十八人のその後
事件の後、実行者たちはそれぞれまったく異なる運命をたどる。
現場では稲田重蔵が斬り死にし、有村次左衛門をはじめ数名は深手を負ったまま、その場で自刃している。
自訴した者もいる。佐野竹之介・斎藤監物ら8名は自ら老中屋敷へ出向き、斬奸趣意書を提出した。
後に細川家などへお預けとなった末、文久元年7月26日、伝馬町の獄舎でまとめて斬首されることになる。
逃亡を続けた広木松之介は各地を転々としながら潜伏し、事件からちょうど3年後の文久2年3月3日に鎌倉で自刃した。
総指揮を執った関鉄之介は各地を転々としたのち越後で捕縛され、文久2年5月に斬首されている。
唯一天寿を全うした男
ただ一人だけ、まるで違う生き方をした者がいる。海後磋磯之介という男だ。
彼は生涯にわたって、この事件の詳細について誰にも一言も語ろうとしなかった。
明治政府のもとでは警察官として勤め上げ、明治36年に76歳で静かに没している。
薩摩藩士の有村雄助、次左衛門の兄は別の末路をたどった。藩の意向に反した行動を咎められ、藩命によって自刃させられる。
彦根藩の対応もまた異例だった。直弼の死をただちには公表せず、しばらくのあいだ病気療養中という扱いで発表を遅らせた。末期養子の手続きなど、藩を存続させるための策を一通り整えたうえで、ようやく死去を公表している。
通説は「黒幕はいない」
歴史学界における通説は、はっきりしている。
安政の大獄で弾圧された水戸藩尊攘急進派による、組織性を伴わない独立的な実行行動。そういう見方になる。
水戸藩庁そのものは、この事件について公式の指令を一切出してはいなかった。
それどころか、藩庁の動きはまるで逆である。金子孫二郎や高橋多一郎ら首謀者格の藩士に対して、江戸出立を思いとどまるよう説諭していた記録まで残っていた。
事件後、水戸藩は幕府へ上申した。浪士らはすでに脱藩者であるから、藩とは無関係に厳正へ処分されたい。そう述べて、公式の関与を否定してみせる。
島津久光は止めていた
薩摩藩についても、事情はよく似ていた。
実権を握っていた島津久光は、精忠組と呼ばれる急進派藩士たちの計画をあらかじめ把握していた。
驚くほど壮大な計画。水戸浪士と結んで大老暗殺を実行し、それと同時に藩兵を率いて京へ上るという筋書きだった。
久光はこの性急な行動を強く制止し、大半の藩士をなんとか思いとどまらせている。
最後に残ったのは二人だけ。結局、計画に加わり続けたのは有村兄弟だけだった。個人の意志で計画に加わり続け、藩の組織的な後ろ盾を欠いたまま実行へ及んでいる。
通説はこう見ている。複数藩にまたがる横のネットワークはあったが、藩ぐるみの組織的謀略ではない。つまり黒幕不在論に近い立場になる。
薩摩藩黒幕説
他方、事件の政治的インパクトの大きさは憶測を呼んだ。実行犯の中に薩摩藩士が加わっていた点も効いている。
第一の異説が、いわゆる「薩摩藩黒幕説」。
有村次左衛門・雄助兄弟が加わっていたこと。そして水戸浪士たちの間で共有されていた、ある期待だ。
行動を起こせば薩摩が3000の兵を率いて上洛し、天皇の勅を得て幕政改革を断行してくれる。そういう話だ。
この構想が事実だったとすれば、事件の見え方はまるごと変わってくる。井伊暗殺は薩摩藩の壮大なシナリオの一部として計画され、水戸浪士は捨て駒として利用されたにすぎない。
この説を採る論者は、島津久光による有村兄弟への苛烈な処分を疑う。実兄の雄助を切腹に追い込んだのは、深く関与していたことを隠蔽するための口封じだったのではないか。
朝廷黒幕説
第二の異説は「朝廷黒幕説」。朝廷が糸を引いていたという見方になる。
戊午の密勅という、朝廷から水戸藩への異例の直接介入がある。あれこそが事実上の討伐令だったのではないか。
孝明天皇自身が、間接的に大老排除を望んでいたという見方になる。
もっとも、密勅の文言はあくまで幕政の刷新を求めるものにすぎず、暗殺を明示的に指示してはいない。
この説は、どこまでいっても状況証拠を並べた解釈の域にとどまっている。
井伊直弼生存説
第三が、井伊直弼自身の死をめぐる「替え玉・生存説」。
彦根藩が直弼の死を数十日にわたって公表せず、病気療養中として扱い続けたこと。この不自然な間が、いくつもの憶測を生むことになった。
実はまだ生きているのではないか。あるいは影武者が立てられたのではないか。
定説では、彦根藩を存続させるための実務的な措置だとされた。末期養子による家督相続の手続きを整えるためだ。
それでも隠蔽の期間の長さと徹底ぶりから、いまだに都市伝説として語られている。
陰謀論の宝庫
歴史系まとめサイトや掲示板文化の中では、桜田門外の変は幕末史屈指の陰謀論の宝庫として扱われてきた。
5ch、旧2chの日本史板や幕末スレッドには、定番のネタがある。
有村次左衛門が実行犯に選ばれたのは、薩摩藩が万一の失敗時に責任を水戸側へなすりつけるための保険だったのではないか。実行部隊の構成そのものを陰謀論的に読み解くレスだ。
IF系の考察スレッドも人気が高い。もし井伊直弼が生きていたら幕末史はどう変わっていたか。note等のブログ記事でも、たびたび特集されるテーマだ。
動画で再構成される運命
歴史考察系YouTubeチャンネルでは、この事件は日本史上最大級の暗殺テロとして扱われる。
実行犯たちのその後の壮絶な運命が、ドラマチックに再構成されている。切腹させられた者がいる。斬首された者。各地を逃げ続けた者。
その中には大胆な解釈を展開するものもある。薩摩藩の真の狙いは、倒幕の口実づくりにあった。
彦根藩の死亡隠蔽についても語られてきた。大老の首を取り返せなかった屈辱を隠すための情報統制だった、という読み方になる。現代の危機管理や広報戦略になぞらえて論じられることもある。
もっとも、これらのネット言説の多くは史料的な裏付けを欠く憶測の域を出ない。エンターテインメントとしての側面が強いよね。まあ、それはそれで面白い。
薩摩黒幕説への反証
薩摩藩黒幕説に対する最大の反証は、久光の動きそのものにある。
彼は精忠組の突出計画を事前に察知し、実際に多くの藩士を押しとどめて上洛計画そのものを頓挫させていた。
もし薩摩藩が組織的に暗殺を主導していたのなら、これでは辻褄が合わなくなる。直後に藩兵を動かして上洛するという後続の軍事行動が起きていなければならないからだ。
ところが動かない。実際には、そうした軍事行動が一切見られなかった。
有村兄弟への処分についても読み方が変わる。口封じとみるより、脱藩・突出という藩規律違反への厳格な対応だと解釈するほうが、史料の流れには整合的だった。
密勅に暗殺の文字は無い
朝廷黒幕説についても同じことが言える。
戊午の密勅の文面は、あくまで幕政改革を求めるものにすぎない。大老の排除や暗殺を指示する内容は一切含まれていなかった。
孝明天皇自身が強硬な攘夷論者だったこと自体は、まず間違いない。
もっとも、暴力的な倒幕や大老暗殺を望んでいたことを示す一次史料は確認されていない。
生存・替え玉説に至っては、さらに弱い。彦根藩の死去公表が遅れたことは確かだが、これは末期養子による家督継承の手続き完了を待つための実務的措置であり、江戸期の大名家にはよくある対応だった。遺体の検分記録や、後年の藩関係者による証言と矛盾する点も特に見当たらなかった。
決定打を欠いたまま
これらの異説は、いずれも共通の弱点を抱えている。
状況証拠としては面白い。だが、どれも決定的な一次史料による裏付けを欠いている。
検討の余地は、まだ十分に残されている。関鉄之介の獄中詩集『遣悶集』。海後磋磯之介の遺稿『春雪偉談』。
こうした当事者に近い記録を精読し、薩摩藩と水戸藩双方の内部文書を突き合わせていけば、見えてくるものもあるだろうね。
