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早良親王の怨霊と長岡京の放棄、絶食して死んだ皇太子と償い続けた兄の15年

灯りの下で矢が飛んだ夜

延暦4年、西暦で785年の9月23日の夜だった。

場所は、造営のまっ最中だった長岡京。

藤原種継は、灯りをかかげた夜の現場に立って、新しい都を造る大工事の指揮を執っていた。

そこへ、不意の矢。

矢を受けた種継は、そのまま回復することなく、翌日には息を引き取り、長岡京の造営は大黒柱を失った。

種継は、桓武天皇が新しい都づくりを任せた官人だ。

前の年の784年に造長岡宮使となり、中納言や式部卿まで兼ねるほどの勢いで、出世の階段を駆け上がっていた。

奈良の平城京から長岡へ都を移す大事業の責任者が、造営の最中に殺されたのだ。

動揺は計り知れない。

天皇が長岡の宮へ移り住んでから、まだ1年もたっていなかった。

桓武天皇は事件の夜に長岡におらず、平城京にいて、翌24日になってから長岡へ戻っている。

その日のうちに、大伴継人や大伴竹良ら数十人が捕らえられ、斬罪や流罪の処分を受けた。

処分は早かった。

斬られた者の数も、流された者の数も、史料はただ淡々と書き並べるだけで、朝廷の怒りの大きさがそこから伝わってくる。

事件の1か月ほど前、大伴家持が亡くなっていた。

万葉集の歌人として知られる人で、おそらく赴任先の陸奥で亡くなったのに、その名が取り調べの中で突然出てくる。

『日本紀略』は、家持が「大伴と佐伯の両氏に唱えて、種継を除くべし」と言い出したと書く。

継人らは、それを皇太子に申し上げて実行したと自白した、という。

言い出した本人は、もう反論できる場所にいなかった。

皇太子が移された先は乙訓寺だった

この事件で名前が挙がった皇太子が、早良親王だった。

桓武天皇の同母弟で、母はどちらも高野新笠。

兄が帝になり、弟が次の帝に決まっているという並びの中で、その弟が種継暗殺の黒幕として名指しされてしまう。

ここからが話の本番だ。

早良親王が生まれたころ、皇統は天武天皇の系統で受け継がれていた。

父の光仁天皇は、のちに即位する白壁王で、天智天皇の孫にあたる。

皇位が回ってくる見込みは、ほとんどなかったと見られている。

早良親王の前半生は、皇位とは縁の薄い道だった。

母方の血筋が下級の貴族だったこともあり、11歳で東大寺に入って出家している。

父の光仁天皇が即位した770年からは、周りに親王禅師と呼ばれるようになった。

東大寺の開山にあたる良弁の後継者格で、東大寺や造東大寺司に指示を出せるほどの高い地位にいた。

奈良の仏教界の頂点に近い人物。

それでも東大寺との縁は、還俗のあとも切れなかった。

実忠という僧の記録によれば、東大寺は寺の大事を決めるとき、必ず親王に相談してから進めたという。

皇太子の座にいながら、奈良の大寺の相談役でもあった。

この立場は、のちの研究で何度も取り上げられる。

生まれた年には、説が分かれている。

立太子のとき32歳だったという記録から逆算して、750年ごろと見る人が多い。

別の寺の記録には、21歳で受戒して大安寺の東院に移ったとあり、そちらを信じるなら生年は750年より前になる。

いずれにしても、30代で皇太子になった人だ。

名前の早良は、乳母の氏姓にちなむと考えられている。

還俗したのは781年、兄の桓武天皇が即位した日の翌日に皇太子へ立った。

東宮の長官にあたる春宮大夫には、あの大伴家持が就き、次官の春宮亮には紀白麻呂が任じられた。

長岡宮の跡からは、墨で「春宮」と書かれた須恵器が出土している。

皇太子の宮が、この都の中に確かにあった証拠。

種継は、その同じ都で造営を仕切っていた。

なぜ桓武は、自分の息子の安殿ではなく、弟を皇太子に選んだのか。

安殿親王は、すでに生まれていた。

父の光仁天皇の意向だったと見る説が、かつては多かった。

最近は、別の説も出ている。

桓武が急に亡くなると安殿は幼い帝になってしまうから、それを避けるために弟を立てたという説がある。

母の身分が低かった桓武が、同じ母を持つ弟を皇太子にして、自分の正統性を示したという説もある。

決め手はない。

春宮傅という東宮の筆頭の席は、783年に藤原田麻呂が亡くなってから空いていた。

田麻呂は、種継の叔父にあたる。

大伴家持が亡くなったのは、そのわずか2年後だった。

東宮の筆頭は空席で、次席の家持も世を去り、皇太子の周りは入れ替わりの時期にあった。

皇太子になってからの早良親王には、妃を迎えた記録も、子をもうけた記録も見えない。

子のいない皇太子。

子孫を残さなかったことが、立太子の理由の一つだったと見る研究者もいる。

親王が亡くなれば桓武の子の安殿親王に皇位が移る、という筋書きが、最初から描かれていた可能性がある。

ただし、それが本人の意思なのか兄の要求なのかは、史料から分からない。

28日、関係者の自白を告げる宣命が出され、彼らは皇太子の許しを得て暗殺を実行したという筋立てが示された。

皇太子は、その日の夜8時ごろに乙訓寺へ移され、そこで幽閉された。

乙訓寺は、今の京都府長岡京市にある寺で、のちに空海が別当に任じられたことでも知られる。

事件からわずか5日後のことだった。

奇妙なのは、同じ事件を書いた『続日本紀』に、早良親王の名が出てこないことだ。

種継が射られたことも、継人らが捕まったことも、きちんと書いてある。

皇太子の関与や処罰には一言も触れず、親王の関わりが読めるのは『日本紀略』だけだ。

『続日本紀』は797年に完成するが、その後に関与の部分が削られたという。

削る前の本を見た『日本紀略』にだけ、記述が残ったと説明されている。

10月8日、桓武天皇は早良親王を皇太子から外したことを、天智天皇陵、志貴皇子陵、光仁天皇陵に報告した。

志貴皇子は、光仁天皇の父だ。

祖先の墓へ告げる形で、廃太子を固めたわけだ。

11月25日には、桓武の息子の安殿親王が新しい皇太子に立った。

後の平城天皇。

十日あまり、水も飲まなかった

乙訓寺に押し込められた早良親王は、やがて飲食を絶つ。

十日あまりが過ぎたころ、宮内卿の石川垣守らが、親王を船に乗せて、流刑先の淡路へ送ろうとした。

親王はもう、ものを食べておらず、流刑の船が出たとき、命はすでに尽きかけていたのだ。

河内国の高瀬橋のあたりで、親王は息を引き取った。

今の大阪府守口市、高瀬神社の付近。

遺体は、そのまま淡路へ運ばれて葬られた。

流刑地に着く前に、本人が先に亡くなっていた。

『西宮記』は崇道天皇の国忌を10月7日とするが、『日本紀略』の記述と合わず、10月17日が正しい命日と考えられている。

『日本紀略』は、親王が自分から飲食を断ったと伝える。

無実の罪を着せられた皇太子が、抗議のために食を絶ったという像は強く、後の怨霊の物語に、そのまま使われていく。

ここが分かれ道だ。

史料が書いているのは、絶食していたところまでだ。

心の中までは書いてくれない。

絶食には、別の読み方もある。

『水鏡』は「供御を止め奉り」と書き、寺の記録『両処記文』には「水漿を通ぜず」とある。

こうした言い回しから、桓武天皇が飲食物を与えず、餓死させたのではないかと見る説が出ている。

のちの伊予親王の事件でも、桓武の子の親王と母の藤原吉子を幽閉して飲食を止めたと、『日本紀略』は書く。

807年のことで、前例があるというのがその説の根拠だ。

もう1本、気になる話がある。

『扶桑略記』の797年の条に出てくる、菅原寺にいた興福寺の僧、善珠のことだ。

善珠は早良親王の使者に向かって、前世の残した業が災いを招いているから、この世では怨みを抱かぬように、と諭した。

それを聞いた親王は耐え忍ぶことにしたというのに、怨みを抱くなと諭された人が、後に怨霊と呼ばれる。

皮肉な話だ。

ちなみに、三入八幡神社という社には、親王の終焉の地とされる石積みが残る。

史料にある高瀬橋とは別の話なのか、同じ場所を指すのかは、ここからは決められない。

それでも、土地の人が親王の最期を覚えておこうとした気配は伝わるし、死んだ場所が2つ語られること自体が裏づけになる。

本当に関わっていたのか

早良親王が暗殺に関わっていたのかどうかは、はっきりしない。

研究者の見方も、真っ二つに割れている。

無実の罪だと考える人もいれば、無関係とは言えないと考える人もいて、どちらの説にもそれなりの理由がある。

割れ方が極端だ。

北山茂夫は、大伴家持の死に危機感を抱いた継人らが、勢いで種継を殺したと見た。

桓武と側近は、それを皇太子の謀反に仕立て、安殿親王を立てるために利用したというのだ。

実の息子を皇太子にしたい兄が、弟を消した。

なるほどと思わせる筋書き。

別の見方もある。

桓武天皇は、僧侶が政治に口を出した道鏡の事件を見て、奈良の大寺の腐敗を問題にしていた。

長岡京の造営には、その影響力から離れる狙いもあったという。

東大寺の中心にいた早良親王は、奈良の寺々とつながりが深い。

種継暗殺の背後に寺の反対勢力を見た桓武が、親王の責任を問うた、という説だ。

一方で、早良親王が遷都に積極的だったと見る反論もある。

東大寺の修繕に関わった職人たちが長岡京の造営に回されていたから、皇太子が遷都に反対していたとは考えにくい、という理屈になる。

同じ材料から出た、正反対の結論。

史料が少ないというのは、こういうことだ。

関根淳は、高官を暗殺する計画が皇太子に無断で動くとは考えにくいとして、親王の許可はあったと見る。

中川久仁子も、留守を預かる立場で、配下の東宮官人から謀反人を出した責任は免れないと考えた。

どちらも、親王を完全な被害者とはしない立場だ。

どの説が正しいのか、今のところ決着はついていない。

続けざまに人が死んだ

早良親王が亡くなったあと、桓武天皇の周りでは不幸が続き、788年以降は息子の安殿親王が病気になる。

桓武の妃の藤原旅子、藤原乙牟漏、坂上又子も、病で世を去った。

母の高野新笠までが亡くなる。

乙牟漏は、安殿親王の母だった。

高野新笠は桓武と早良親王、2人の実の母にあたり、兄と弟の両方を産んだ人が、息子の死から数年で亡くなった。

桓武の身辺からは、病と死の知らせが途切れない。

そこへ疫病の流行と飢饉が重なったが、内裏の不幸も国の不作も、原因が分からない。

朝廷は神祇官に占わせた。

結果は、早良親王の祟り。

祟りという言葉は、今では迷信の一言で片づけられがちだ。

正直、ピンとこない話だ。

当時の朝廷にとっては違い、占いの結果は公式の診断書のようなもので、放っておけば次の災いが来る。

朝廷は、費用をかけて動いた。

792年、朝廷は早良親王の墓に守冢1烟を充て、淡路の墓に墓守の家を置いた。

守冢とは、墓を守る家のことだ。

1烟は1戸にあたる。

廃太子にされた罪人の墓に国が人を付けるのは、それまでの扱いからすれば大きな転換だった。

朝廷は、弟の墓を公式に管理し始めたのだ。

償いの第一歩は、墓守の家1軒から始まった。

淡路へ向かった僧と使者たち

797年、善珠が僧正の位を与えられた。

表向きの理由は、善珠が修法で早良親王の怒りを鎮め、安殿親王の病を治したことだ。

かつて親王に怨むなと諭した僧が、その怒りを鎮める役を負ったわけだ。

ただし善珠は同じ年の4月に世を去っていて、桓武と安殿の不安は、かえって高まったとする指摘もある。

この年の5月20日、朝廷は親王の霊に謝るために、僧2人を淡路へ送った。

謝罪は1度で終わらなかった。

799年にも、春宮亮の大伴是成と、伝燈大法師の泰信が淡路へ派遣されている。

謝罪の使者が何度も海を渡ったのに、墓の前で何を語ったのかは、記録に残っていない。

799年には、和気広虫と、その弟の和気清麻呂が相次いで亡くなった。

清麻呂は、早良親王の怨霊を恐れる桓武に、平安京への遷都を勧めたと伝わる。

姉弟の死が親王の怨霊と結びつけられ、淡路への使者が出たとする研究もある。

人が亡くなるたびに祟りの影が濃くなり、朝廷が不安に追い立てられていた様子が見える。

長岡の都を捨てる

長岡京は、784年の遷都から約10年で放棄され、794年に都は平安京へ移った。

なぜ新しい都を捨てたのか。

早良親王の祟りを恐れたからだと、よく語られる。

長岡京の跡は、今の向日市と長岡京市を中心に広がっている。

乙訓寺があるのも、同じ長岡京市だ。

使われた期間は、10年あまり。

この説明は、半分だけ正しい。

祟りを恐れた遷都という筋書きは広く知られているが、正直、決め手になる記録があるわけじゃない。

長岡京は川に近く、水の害に悩まされたという見方もある。

都を移した理由は、祟りだけでは説明しきれない。

時期だけを並べてみる。

785年に事件が起き、788年から身内の不幸が続き、792年に墓守の家が置かれ、794年に遷都が行われる。

年表の上では、見事に重なっている。

祟りと遷都を1本の線で結ぶと、話は分かりやすくなる。

弟を殺した兄が祟りを恐れて都を捨てた、という分かりやすい話は、史実の細かい凹凸を平らにしてしまう。

実際の朝廷は、もっと雑多な事情を抱えていた。

崇道天皇という名

800年7月23日、朝廷は早良親王に崇道天皇の名を贈った。

皇太子のまま世を去った人に、天皇の称号を与える異例の措置だ。

墓は山陵と呼ばれ、春宮亮の大伴是成が、陰陽師や僧らを連れて山陵へ向かい、陳謝している。

淡路国津名郡の2烟が墓守に充てられ、792年の1烟から数が増えている。

朝廷の償いが、一歩ずつ手厚くなる様子が読み取れる。

この日、もう1人の名誉回復が行われた。

井上内親王。

早良親王と並んで、皇后の位が追って贈られた。

2人はどちらも、非業の死を遂げた人たちだ。

朝廷が怨霊と向き合った、最初期の例に数えられる。

早良親王は皇位に就いたことがなく、歴代天皇には数えられていないから、追って贈られた天皇号は、あくまで鎮魂のためのものだ。

称号を差し出すことで、怒りを収めてもらおうとした。

死者に最高の肩書を与える。

それが当時にできた、最大の謝罪だった。

墓を奈良へ移す

805年4月、桓武天皇は各地に命じて、崇道天皇のために小倉を作らせている。

正税40束を納めさせる指示も出され、さらに改葬崇道天皇司という役所が任命された。

淡路の墓を、大和国へ移すための役人だ。

親王は、若いころ過ごした奈良の地へ戻っていった。

改葬先は、今の奈良市八島町にある崇道天皇陵に当たると考えられている。

延喜式には、八島陵の範囲が東西5町、南北4町で、墓守が2烟と記される。

現在の陵は、江戸時代に定められたものだ。

流された先から育った土地へ、兄はそこまでして弟の魂を帰そうとした。

桓武天皇は、前の年の暮れから体調を崩していた。

親王の鎮魂には、いっそう力が入る。

改葬の手配が進む一方で、天皇自身の命は尽きかけていた。

翌年の3月、その日が来る。

806年3月17日

806年3月17日、桓武天皇は危篤に陥った。

この日、天皇は種継暗殺の事件に関わった人々の位を戻させている。

大伴家持、大伴継人、紀白麻呂の名が並び、事件のあと取り上げられていた位が、ようやく戻った。

家持は皇太子の宮の春宮大夫、白麻呂は次官の春宮亮。

皇太子の宮を支えた幹部が、21年越しにそろって位を戻された。

同じ日、諸国の国分寺の僧に、春と秋の2月と9月、7日間にわたって金剛般若経を読ませる命令が出た。

崇道天皇のための供養。

国分寺は、聖武天皇の詔で諸国に置かれた官立の寺だ。

その命令を出した日のうちに、桓武天皇は亡くなった。

弟へ詫びる手配が、兄の最後の仕事になった。

5月18日、安殿親王が即位し、平城天皇となる。

代替わりの年だ。

その年の冬には、早良親王のために八嶋寺を創建している。

叔父を弔うための寺。

親王の祟りは、代が替わっても続いていた。

平城天皇から位を譲られた嵯峨天皇も、病にかかると早良親王の祟りを恐れたという。

嵯峨は、平城の弟だ。

810年7月27日には、親王のために僧100人を得度させている。

2日後の29日には、法華経の書写も命じた。

桓武から数えて、3人の天皇が親王に頭を下げ続けた。

記録に残る話と、土地に残る話

ここまでの話を、いったん仕分けしてみる。

記録に残るのは、廃太子、乙訓寺への幽閉、絶食、高瀬橋での死、守冢の設置、崇道天皇の追号、そして改葬だ。

どれも、朝廷が自分で書き残した動きになる。

疑う余地が小さいのは、ここまでだ。

早良親王が本当に暗殺へ加わったのかは、別の話だ。

自分から絶食したのか、飲食を止められたのかも、研究者のあいだで割れている。

祟りと遷都を1本につなぐ筋書きも、後から整えられた語りの色が濃い。

史実のように聞こえる部分にも、分かれ目はある。

土地に残る話は、また違う顔をしている。

三入八幡神社の石積みや、淡路の墓の伝承地がそうだ。

朝廷の記録には出てこない場所に、親王の死を覚えておく土地の側の記憶が宿る。

どちらが正しいと決める必要はない。

淡路の墓はどこにあるのか

最初に葬られた淡路の墓の場所は、はっきりしない。

墓守が置かれたのが津名郡だったので、同じ郡内にあったとは考えられている。

それ以上のことは史料に書いておらず、伝承地は2か所ある。

手がかりは少ない。

1つは、淡路市下河合の高島の森。

江戸時代の地誌には、廃帝、つまり淳仁天皇の陵だという土地の言い伝えが載っている。

別の地誌がここを崇道天皇陵としたため、どちらの陵なのか論争になった。

同じ場所に、2人の貴人の名が重なった。

もう1つは、淡路市仁井の天王の森だ。

早良親王の陵だという口碑が地元にあり、1898年には仁井村の住人たちが、宮内省に発掘を願い出ている。

今の墓は、奈良にある。

淡路には、親王の墓だったかもしれない森が2つ残った。

今も祀られる社と、読み上げられる名

奈良市の八島町の近くには、親王を祀る嶋田神社がある。

さらに北の奈良町にも、崇道天皇社と御霊神社があり、親王は祭神として祀られている。

近くには親王にゆかりのある寺社が点在し、奈良の町に、親王の記憶が深く染みこんでいる。

京都の左京区上高野には、崇道神社が鎮座する。

京の鬼門にあたる場所で、早良親王だけを祭神とする京都で唯一の神社だ。

鬼門は北東。

その方角に、祟った人を祀る社が建っている。

怨霊と守り神は、紙一重だ。

東大寺の二月堂で行われる修二会は、3月のお水取りの名でも知られる法会で、そこでも親王の名は呼ばれる。

法会の最後に、神名帳を読み上げる段がある。

そこで11柱の御霊の名が唱えられ、冒頭に出てくるのが八嶋ノ御霊、つまり早良親王だ。

出家した若い日を過ごした寺で、今も毎年その名が読み上げられる。

863年には、京の神泉苑で御霊会が開かれた。

御霊会は、疫病や災いを御霊のしわざと見て、読経や歌舞で慰める法会だ。

祭られたのは、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使、橘逸勢、文室宮田麻呂の6座だと伝わる。

早良親王は崇道天皇として、その筆頭に名を連ねた。

怨みを抱いて死んだ人の霊を国が表立って慰める仕組みは、後の菅原道真の北野の祟りにも受け継がれていく。

祟る死者を丁重に祀って鎮め、守ってもらおうとする信仰は、御霊信仰と呼ばれる。

1001年の『権記』には、大安寺に崇道天皇の御在所があったと記されている。

大安寺は、親王が若いころに移り住んだ寺だ。

11世紀に入っても、親王の慰霊の場は大安寺に残っていた。

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