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戦犯の呪い――ウォルトン・ウォーカー中将、処刑と同日同時刻の事故死

coredakeに転がっていた、たった一行の噂

発端は短い噂話だ。coredakeにある、戦争にまつわる不思議な話の短編集に、こんな一文が載っているんだよな。「A級戦犯の処刑を担当した軍人(ウォルトン・ウォーカー)はA級戦犯が処刑されたのと同じ日づけ、同じ時刻に、同じ人数(七人)、謎の自動車事故で死んだ」。

細部には誤りが混じっている。ただ、この噂の核には実在の人物と実在の事件が横たわっている。アメリカ陸軍中将ウォルトン・ウォーカーの死と、極東国際軍事裁判で処刑された7人のA級戦犯たち。この二つの出来事の間には、確かに奇妙な符合がある。

1948年12月23日、巣鴨の真夜中

話は処刑の夜から始まる。極東国際軍事裁判で死刑判決を受けた東條英機ら7人のA級戦犯は、1948年12月23日午前0時過ぎに絞首刑に処された。場所は巣鴨プリズン。教誨師として立ち会ったのは花山信勝だった。

花山の記録「巣鴨の生と死」によれば、処刑を指揮した責任者はウォルトン・ウォーカー中将だったという。遺体は深夜のうちにトラックで運び出された。行き先は横浜の久保山火葬場。火葬されたのち遺灰は太平洋に散骨され、宗教的儀礼を伴わない、徹底して秘匿された処理だった。ずいぶん冷たいやり方だ。

2年後の同じ日、朝鮮半島でジープが横転した

ウォーカー中将はその後、朝鮮戦争で第8軍司令官を務めた。彼は釜山橋頭堡の防衛を指揮し、「退却はない」の一言で戦線を支えた猛将として知られるようになる。ここまでは、まるで英雄譚。

暗転は1950年12月23日。ソウル北方の議政府付近を移動中だったウォーカーは、韓国軍のトラックとジープが衝突する事故に巻き込まれた。搭乗していたジープは横転し、ほぼ即死状態だった。

処刑からちょうど2年後の同日、しかも祥月命日にあたるこの偶然に、当時の関係者は強い衝撃を受けたと伝わっている。日付を並べただけで、背中がひやっとする話だ。偶然にしては出来すぎだよな。

静岡県熱海市には、七士の墓である興亜観音がある。遺族や関係者はウォーカーの頓死を知り、「怨親平等」の思想のもとに彼の霊を弔う墓標を建てたという。そんな逸話まである。敵将の霊を、だ。

噂の「同時刻」と「七人」を突き合わせる

ただ、噂の細部にはいくつかの誤りがある。時刻から見ていこう。事故発生時刻は現地資料によれば午前10時前後とされ、「深夜0時」という処刑時刻との一致は確認できない。

人数の話も怪しい。「同じ人数(七人)が死んだ」という部分だ。当時ジープに同乗していたのはウォーカー本人を含め4人程度で、死亡したのは彼一人だったとする記録が有力だ。七人とは、まるで話が違う。

事故日にも揺れがある。韓国語資料では、12月23日午前とする記録が一般的だ。和文資料の中には、時刻や状況の描写に食い違いが見られるものもある。話は伝聞を重ねるうちに、「時刻まで一致する怪奇譚」として整形されていった線が濃い。

気になるのはここからだ。ウォーカーの上司だったジョージ・パットン将軍もまた、終戦直後の1945年12月に自動車事故で命を落としている。師弟そろって交通事故死という偶然だ。これも、戦後の日本であれこれと語られる素地になったんだと思う。

人はなぜ、この一致を「呪い」と呼びたくなるのか

処刑は重い行為だ。たとえ国際法上正当なものであっても、執行に関わった人間には強い心理的負荷がかかる。日本側には、七士の遺骨を密かに回収して供養してきた歴史があり、興亜観音の存在そのものがその象徴だ。

処刑を「不当な死」として弔う文化的土壌は、既に存在していた。そこに「処刑責任者が同じ日に死んだ」という一致が加わり、両者を因果的に結びつける物語が自然と生まれたんじゃないか。そりゃ噂にもなる。

統計で見ると、話はもっと地味になる。12月23日という特定の日付に、無数にいる元軍人の誰かが事故死する確率だって、決してゼロじゃない。人間の認知は、意味のある偶然に強く引きつけられる性質を持つ。そこが厄介だ。

処刑と事故という二つの「死」が、同じ日付を持つ。その事実だけで因果関係を見出したくなるのも、人間としてはある意味、自然な心の働きでもある。正直、背筋が寒い。

実話に尾ひれがついて、怪談は仕上がっていく

ウォルトン・ウォーカーの死は、記録の裏づけがある実話だ。それでいて語り継がれる過程で細部が整えられ、「呪い」の物語として完成度を増していった。典型例と言っていい。

骨格はシンプルだ。処刑の責任者が、ちょうど2年後の同日に事故死した。この部分だけでも十分に不気味だ。そこにどれだけの尾ひれがついたかを検証すること自体が、この種の戦争怪談を読み解く鍵になるんだ。

噂の出どころは、三つの史実の継ぎ目にある

ウォーカー中将の死をめぐる噂は、戦後日本の戦記ファンや軍事史愛好家の間で、少しずつ形になっていった。単発の逸話じゃない。いくつもの断片が寄り集まって、形を整えていった物語だと言っていい。

土台の一つ目は、教誨師として東條英機ら7名の最期に立ち会った花山信勝の記録『巣鴨の生と死』だ。ここには刑の執行に関する具体的な記述が残されている。これが一本目の柱。

もう一つの土台が、興亜観音・殉国七士之碑だ。ここは松井石根大将が唱えた「怨親平等」の思想のもとに、七士の遺骨が祀られている実在の慰霊施設だ。二本目の柱だな。

処刑の記録と、慰霊の場の存在。この二つの史実が、朝鮮戦争のさなかに起きたウォーカーの事故死という、第三の事実と結びついた。そのとき「処刑責任者は同じ日に死んだ」という一行の噂が生まれる土壌が整ったわけだ。

模型・戦記ブログの世界には、この因縁を丹念に年表化して紹介する記事がいくつかある。そこでは日付の一致そのものより、「なぜ人はこの一致に意味を見出さずにいられないのか」という問いのほうに筆が割かれている。これが面白い。

二つの12月23日を、もう一度ゆっくりたどる

物語は1948年12月23日、東京・巣鴨プリズンから始まる。極東国際軍事裁判で死刑を宣告された東條英機以下7名は、深夜0時を回ったばかりの時刻に絞首台に立たされた。立ち会った教誨師・花山信勝は、彼らが最期に残した言葉や態度を丹念に書き記している。重い記録だ。

刑の執行を指揮する責任者の一人として、この場にウォルトン・ウォーカー中将がいたとされる。処刑後、遺体はただちにトラックに乗せられ、闇にまぎれるように横浜の久保山火葬場へと運ばれた。すべて夜のうちの出来事。

火葬された遺灰は、遺族の元に届けられることなく、そのまま太平洋の海上に散骨されたという。占領軍が、事後の混乱や神格化というものをどれほど強く警戒していたかが、このやり方からうかがえる。徹底して秘匿された処理だった。

それから2年後、舞台は真冬の朝鮮半島に移る。ウォーカーは朝鮮戦争で、圧倒的な兵力差の北朝鮮軍を相手に釜山橋頭堡を死守していた。「バタンダウンの精神で、退却はない」という趣旨の檄で戦線を支え続けた猛将として、名を上げていたんだ。

1950年12月23日、ウォーカーの乗るジープは真冬のソウル北方、議政府付近の道を移動していた。対向してきた韓国軍の輸送車列と接触したその瞬間、ジープは弾かれるように横転する。一瞬の出来事だ。

同乗していた者たちがなすすべもなく見守る中、投げ出されたウォーカーの体は車体の下敷きとなった。ほぼ即死に近い状態で息を引き取った。あまりにあっけない。

処刑からちょうど満2年、暦の上でも祥月命日にあたる日だった。よりによって、この日だ。処刑の指揮を執ったとされる将軍が事故死した。その知らせは、現地の関係者だけでなく日本側の慰霊関係者にも強い衝撃を与えたと伝えられている。

「七人」と「同時刻」は、あとから盛られた

噂として人から人へ広まる過程で、この話にはいくつかの「盛られた」細部が付け加えられていった。代表格は「同じ人数、七人が死んだ」というバージョンだ。記録をたどると話はだいぶ違う。

事故当時ジープに同乗していたのはウォーカー本人を含めて数名程度にとどまり、死亡したのはウォーカー一人だったとする資料が有力とされている。処刑された7人という数字と、事故の犠牲者数が、いつのまにか同一視されてしまった。それが噂を一段と怪奇的に見せる要因になったんだろう。数字の魔力だな。

もう一つの盛られた細部が「同じ時刻」だ。巣鴨での刑執行は深夜0時過ぎ。対して議政府での事故発生は、現地資料によればおおむね午前10時前後とされており、時刻そのものは一致していない。

日付の一致だけでも、十分に不気味な事実だ。そこへ伝聞を重ねるうちに、「人数」「時刻」までもが少しずつ足並みを揃えるように整形されていった。これがこの噂の成立過程について、もっとも妥当な見方だろう。盛りに盛った、というやつだ。

上官パットンもまた、道路の上で死んでいた

この物語に厚みを持たせているのが、ウォーカーの上官ジョージ・S・パットン将軍にまつわる因縁だ。パットンは第二次世界大戦の欧州戦線で、猛将として名を轟かせた。ウォーカーはその麾下で軍団長を務めた、いわば直系の部下にあたる。言ってみれば弟子筋。

そのパットンもまた、終戦からわずか半年余りの1945年12月に命を落としている。ドイツ国内を走行中の自動車事故だった。師と仰いだ上官も、その部下であるウォーカーも、揃って交通事故によって非業の死を遂げたわけだ。偶然が重なりすぎている。

これは単体でも、十分に語り草になる偶然だ。戦記ファンの間では、ウォーカーの死をめぐる「因縁」の物語にさらなる説得力を与える要素として、しばしば併記される。並べられると、妙な気分になる。

興亜観音の関係者による回想にも、印象的な逸話が残されている。ウォーカーの副官が、現地の韓国軍将校から「七士の墓に参拝してはどうか」と助言された、という話なんだ。副官は実際に興亜観音を訪れたらしい。律儀な話だ。

これを受けて興亜観音側は、「怨親平等」の思想のもとにウォーカーの霊を手厚く弔ったと伝えられている。処刑する側と、される側。その対立関係を超えて双方が弔いの対象になった点に、この逸話特有の余韻がある。

ネットの戦記界隈は、この話をどう見ているか

軍事史系のブログや模型製作者のブログ、戦記考察系のまとめサイトでも、この逸話はたびたび取り上げられている。寄せられるコメントはこんな感じだ。「事実は小説より奇なりとはまさにこのこと」。まあ、定番の反応だ。

日付が一致してるだけでもゾッとするのに、そこに人数まで足されて都市伝説化していくプロセスが面白い、という趣旨の声もある。怖がりつつも、ちゃんと面白がっている。その感覚はよくわかる。

軍事史に詳しい層からは、冷静な指摘も根強い。「時刻や人数の一致は後付けの誇張であり、史実として過大評価すべきではない」というものだ。単なる怪談として消費せず、史実の骨格と、そこに付け加えられた尾ひれを丁寧に切り分けようとする議論がしばしば交わされる。こっちは真っ当な意見。

パットンの事故死も、別の逸話とあわせて語られがちだ。生前から交通事故を予言するような発言をしていた、という話だ。「猛将は皆、最後は戦場ではなく道路の上で命を落とす運命だったのか」という感慨めいた書き込みも散見される。妙に引っかかる。

巣鴨プリズンの跡地と、熱海の興亜観音

巣鴨プリズンは、現在の東京・池袋でサンシャインシティが建っている場所に、かつて存在した拘置施設だ。A級戦犯として起訴された者たちがここに収容され、多くがここで刑の執行を待った。現在この地には「永久平和を願って」と刻まれた碑が残されている。それが跡地の今。

興亜観音・殉国七士之碑は、静岡県熱海市伊豆山にある。支那事変での日中双方の戦没者を分け隔てなく弔うという、松井石根大将の思想のもとに観音像が建立された。のちに付け加えられたのが七士の慰霊碑で、今でも参拝者が絶えない。実在の史跡なんだよな。

処刑を執行したとされる占領軍の将軍が、遠く離れた朝鮮の戦場で命を落とした。その霊はめぐりめぐって、この興亜観音で弔われた。妙な巡り合わせだ。勝者と敗者、あるいは処刑する者とされる者という単純な二分法を、この顛末は越えていく。

戦争という出来事が、いかに複雑な因果と記憶を後世に残すか。実在の史跡に根ざしたこの逸話は、そのことを物語る。ずしりと重い話だ。

釜山の土壇場を救った直後の、あっけない最期

ウォーカーが指揮した朝鮮戦争の緒戦、釜山橋頭堡の攻防そのものも、この逸話に厚みを与える背景だ。1950年夏、北朝鮮軍の猛攻によって、国連軍・韓国軍は朝鮮半島南東の一角にまで追い詰められた。まさに海に背を向けて戦う、絶体絶命の状況だった。崖っぷちだ。

この土壇場でウォーカーが発したとされるのが、ある訓示だ。「これ以上退却の余地はない、我々は最後の一人まで戦う」という趣旨のもので、後年まで語り継がれる名文句になった。橋頭堡は最終的に持ちこたえ、仁川上陸作戦への反攻の足がかりとなった。見事な粘りだ。

歴戦の指揮官が、朝鮮戦争の危機を救った直後の出来事だった。平時同然の移動中の交通事故という、あまりにあっけない形で命を落としたんだ。この落差そのものが因縁話に一種の悲劇性を与え、戦史ファンの心を長く捉えて離さない理由なのかもしれない。単なる怪奇現象の噂話とは、そこが違う。

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