京都市西京区の老ノ坂峠。山城と丹波の国境に近い旧道の脇に、杉の巨木が茂る暗い森がある。2010年に氏子から聞き取りをした研究者の記録によれば、鳥居をくぐって石段を上ると二つ目の鳥居があり、その奥に小さな祠が建つ。祠には酒が供えてあった。
祠の裏には、高さ1メートルほどの塚がある。酒呑童子の首は、ここに埋まっているという。首塚大明神。地元では首塚さんとも呼ばれる。祀られているのは、鬼だ。
首を埋めたのは、鬼退治を終えた源頼光の一行だった。大江山で斬った首を証拠に都へ運ぶ途中、この峠で足を止めると、道ばたの子安地蔵が告げたと伝わる。鬼の首のような不浄なものを、天子様のおられる都へ持ち込んではならん、と。
坂田金時が、証拠の品だからと首を持ち上げようとしたが、首は急に重くなり、びくともしない。一行はやむなくその場に埋めて、塚を築いた。これが首塚の由緒だ。
説明板にはもう一つ話が載る。首を斬られるとき、童子は今までの罪を悔い、これからは首から上の病に苦しむ人を助けたいと言い残したという。首塚大明神が、首から上の病に霊験あらたかと伝わる由来は、ここにある。
一条天皇の都から、人が消えていった
物語の舞台は一条天皇の時代、10世紀の末から11世紀の初めにかけての京だ。若者や姫君が次々と神隠しに遭い、安倍晴明に占わせると、丹波の大江山に棲む鬼の仕業だと出た。鬼の名は、酒呑童子。
帝は源頼光と藤原保昌に、鬼の追討を命じる。年代は伝本で食い違い、長徳元年の995年とも、正暦元年の990年ともいう。頼光は948年に生まれて1021年に没した実在の武将で、藤原道長に近い人物とされる。物語の中の頼光が、史実の頼光と同じ働きをしたとは限らない。
頼光が呼び寄せたのが、渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武の四天王。江戸時代の絵巻には、一行が石清水八幡宮、熊野、住吉の三社にこもって祈る場面がある。老翁の姿で夢に現れた八幡大菩薩は、山伏のように心を合わせよと告げた。
一行は山伏に化けた。甲冑や武器は笈に隠す。山伏なら寝る場所も食べ物も施してもらえて、関所の金も免じられたから、変装には都合がよかったという。
山中で出会った老翁たちは、鬼にだけ効く酒を授けた。神便鬼毒酒。鬼が飲めば力が抜け、人が飲めば力が増すと伝わる。川のほとりでは血のついた着物を洗う姫君に出会い、鬼の居場所を教わった。
人の血の酒と、手足の肴
屋敷に通された一行を、童子は酒と肴でもてなした。酒は人の血で、肴は人の肉。江戸時代の絵巻には、手足と血を出して食ってみろと童子が頼光らを試す場面もある。頼光はひるまず、ぺろりと平らげてみせた。
客を迎えた昼の童子は、鬼の姿をしていない。一丈ほどの童子の姿で、色とりどりの小袖に白い袴をつけ、眼差しには威厳があった。知恵深そうにも見えたというから、化け物の気配はまるでない。
童子は自分の名を明かす。酒を深く愛するので、手下が酒天童子と呼ぶのだという。身の上話も始まった。伝教大師が比叡山に寺を開いて居られなくなり、近江の山々をさまよい、嘉祥2年の849年ごろから大江山に住みついたと語る。
御伽草子の版本には、手下の名が並ぶ。頭は茨木童子で、四天王は星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子だ。茨木童子は都で女に化けたとき、渡辺綱に腕を斬られたと、童子自身が宴で語る。
酒がまわって童子は寝所へ消え、頼光たちは笈から鎧を出して身にまとい、神々の助けで固い扉を破った。江戸時代の絵巻では、眠る童子はすでに二丈あまりの鬼神に変わっている。黒鉄の縄で手足を柱に縛り、四天王が押さえ、保昌が胸に乗りかかり、頼光が首を落とした。
斬られた首は空へ舞い上がった。鬼神に横道なきものを。そう叫んで、頼光の兜に食いついた。頼光は兜を重ねてかぶっていて、難を逃れたとされる。だまし討ちを責める声は、鬼のほうから上がったのだ。
昼は一丈の童子、夜は五丈の鬼
現存する最古の絵巻『大江山絵詞』は、逸翁美術館が所蔵する重要文化財だ。南北朝の後期から室町の初めに作られたとみられる。ここに描かれた鬼の正体は、実に派手だった。
身の丈は五丈、約15メートル。頭と体は赤く、左足は黒、右手は黄、右足は白、左手は青。五色に塗り分けられた巨体に、五本の角と15の目がついていた。
童子の姿は昼だけで、夜になればこの異形が現れる。昼は人の顔をして客をもてなし、夜は五色の鬼身に戻る。二つの顔を持つ頭領だった。
酒の席で、童子は毒酒を口にして上機嫌になる。甘露のようだと褒めたと伝わる。人を食らう鬼が、客の酒を無邪気に喜ぶ。この落差が、絵巻をいまも面白くしているのかもしれない。
首は宇治の宝蔵に納められた
『大江山絵詞』に、老ノ坂の首塚は出てこない。凱旋した頼光と保昌は鬼王の首を持って都へ入り、首は大路を引き渡されたのち、宇治の宝蔵に納められたと書く。首が重くなる話も、地蔵も、見当たらない。首塚の影はない。
宇治の宝蔵は、平等院にあった。民俗学者の小松和彦は、酒呑童子、玉藻前、大嶽丸を中世の三大妖怪に挙げる。退治されたのち遺骸や遺骸の一部が宝蔵に納められた点が、三者に共通するという。倒した相手の大きさを見せつけるための、戦勝の記念品だった。
首が老ノ坂へ運ばれる筋が文献に現れるのは、江戸時代に入ってからだ。1681年ごろの『前太平記』は、首を鉄の串に刺して油小路を引き渡し、三条河原に晒したと書く。奇怪な者の首を洛中に捨ててはならぬと、峠まで返して埋めたのだという。
1689年に丹後、若狭、近江を旅した貝原益軒は、大江の坂の嶺に近い地蔵堂の話を書き残した。そのやや西南に松林があり、俗に酒顚童子の首塚だというが、益軒は土地の言い伝えとして記しただけだった。
1717年には亀山の俳人が『盥魚』に、千丈ヶ嶽で退治した首を京へ運ぶ途中、老ノ坂に埋めたと記す。時代が下るほど、話は具体的になる。老ノ坂への埋葬を記す文献は、このあたりから現れる。
亀岡の藩士が書き留めた、塚の醒めた話
亀岡藩士の矢部朴斎は、文化5年から天保15年にかけて地誌『桑下漫録』を編んだ。首塚の項には酒を供えて頭痛を祈るとあり、江戸の後期にはすでに、そんな習わしが記録されていた。
朴斎の筆は冷めている。塚の上の小さな祠は、50年ほど前にはなかったように覚えていて、近年の物だろうと書く。ある人は、童子の首塚とは信じがたく、桓武天皇の母である高野氏の陵ではないかと語ったという。
朴斎は沓掛村の西に、田の中へ大石を積んだ場所を見つけ、村の老人に尋ねた。老人は童子の話をしなかった。昔からただ塚と呼ぶだけで、何の塚かは知らないという。
確かなことは何もない。それでも祠は建ち、信仰は育った。塚はもともと古墳だった可能性が高く、首塚の伝説は古代の埋葬地の上に育ったのだろうと、2011年の論文は書く。
子安地蔵が首を止めた理由
首を止めた地蔵は、もともと安産を願う子安地蔵だった。江戸時代の地誌には、市森長者の娘の桜姫が難産で亡くなり、恵心僧都の前に現れたと載る。塚に生えた栢の木で地蔵を彫り、堂を建てたのが始まりだという。
産婦が松の木の切れ端をくわえると、お産が軽くなる。そんな習わしもあった。鬼の首と産む女の祈りが同じ峠にあるのは、奇妙に見える。
この地蔵像は、明治8年の京都博覧会に出品されたまま、会期が終わっても戻らなかった。ようやく元の場所に帰ったのは、昭和34年。管理していた王子村と沓掛村が、返還のときにどちらも譲らず、揉めたせいだと伝わる。
老ノ坂は、京の西の入口に当たる。逢坂、山崎、和邇と並んで、四堺祭の祭場になった場所だ。魔物が王城に入るのを鎮める祭りだから、不浄な首を都へ入れまいと止めた地蔵の話は、この峠の役目と重なると、高橋昌明は指摘する。
首が重くなる話は、ほかにもある
首を京へ運ぶ途中で重くなり、その場に埋めた。この筋は、老ノ坂だけのものではない。岐阜県可児郡御嵩町の鬼の首塚にも、よく似た話が伝わる。
時は鎌倉時代の初め、建久から正治にかけて。強盗の男が岩窟に住みついて里人を困らせ、生まれが不破の関だったため、関の太郎、鬼の太郎と呼ばれた。
土地の地頭に頼まれた家臣4人が、太郎を倒した。首を検分のため京へ運ぼうとすると、この地で急に重くなって進めない。そこで首を埋めたのが、鬼の首塚だという。
日本の首塚を調べた遠藤秀男の『日本の首塚』は、全国に首塚が113基あると数えた。大半は合戦の戦死者の首で、鬼の首塚は3例しかない。御嵩の鬼は、鬼と呼ばれた人間の首だった。人間の盗賊の首と、鬼の首。重くなる話は、どちらにも使われた。
大江山はふたつある
京都府には、大江山と呼ばれる山が二つある。一つは老ノ坂の南にそびえる大江山で、大枝山とも書き、標高は480メートル。低い山だ。もう一つは丹後と丹波の境に近く、千丈ヶ嶽を主峰とする連峰で、福知山市大江町にある。
今は後者を酒呑童子の山と考えるのが普通だ。千丈ヶ嶽は標高832メートル。2007年8月に丹後天橋立大江山国定公園へ指定され、雲海の名所として人を集める。
古代から中世にかけて大江山といえば、京に近い大枝山を指したらしい。盗賊が旅人を悩ませた話が、遠い丹後の山へ移って伝わったとみる説もある。老ノ坂の鬼と丹後の鬼は、同じ名前の山で結ばれていた。
福知山市の山麓に建つ日本の鬼の交流博物館は、大江町仏性寺の河守鉱山跡に、1993年4月に開いた。所蔵は約3000点。前庭には高さ5メートル、重さ10トンの巨大な鬼瓦、平成の大鬼が据えてある。
八合目の稲荷と、迷った頼光
大江山の八合目にある鬼嶽稲荷神社は、道に迷った頼光の一行が、稲荷の助けで進む道を知ったと伝わる場所だ。近くの鬼丸稲荷には、頼光が名刀の切れ味を試したという巨岩がある。
丹後の成相寺には、神便鬼毒酒に使ったと伝わる徳利と酒杯が収められていて、伝説の道具が寺に残るのは珍しい。
大江町の鬼ヶ茶屋は、江戸の後期に土産の冊子を売った。1845年以降の『大江山千丈ケ嶽 酒呑童子由来』だ。切られた童子の首が炎を吹いて都の方へ飛び、老ノ坂に落ちたと書く。首は七条河原に7日晒され、のちに老ノ坂へ葬られて、首塚明神と呼ばれた。
お土産として売り出すために作られた冊子が、丹後の千丈ヶ嶽と老ノ坂の首塚を一本の筋にまとめた。ちなみに大江町では1980年代に鬼によるまちづくりが始まり、役場の職員が年長者から聞き取りを重ねて、多くの伝承を集めている。
大江山には鬼の話が三つ重なっている
福知山市の博物館は、大江山の鬼伝説を三つに分けて紹介し、いちばん古いのが日子坐王の土蜘蛛退治だ。『丹後風土記残缺』に、陸耳御笠という土蜘蛛が青葉山で人を苦しめたとある。崇神天皇の弟の日子坐王が討ちに向かい、由良川筋の激戦の末、土蜘蛛は大江山へ逃げ込んだ。
この書物は、京都の白川家に伝わった丹後風土記の一部を、僧の智海が写したものだと伝わる。偽書の可能性を指す声もあり、確かな史料とは言いにくい。
二つ目は麻呂子親王の鬼退治。6世紀の末ごろ、英胡、軽足、土熊という鬼が悪鬼を集めて庶民を苦しめた。用明天皇の第三皇子である親王は、七仏薬師の法を修めて出陣した。
道中には不思議が続く。商人が埋めようとした死馬は、親王の祈りで地中からいなないて蘇った。老翁は、頭に明鏡をつけた白い犬を献上する。犬の案内で鬼にたどり着き、英胡と軽足を討ったが、土熊だけ見失った。犬の明鏡に姿が映り、土熊も討てたという。
三つ目が、頼光の酒呑童子だ。麻呂子親王の話は、酒呑童子伝説に大きな影響を与えたとみられる。博物館の館長は、国と国との争いで負けた側を鬼に見立て、逃げ込んだ先に鬼伝説が生まれた可能性を語る。大江山は丹波と丹後の境にある。
鉱山と鬼の相性
博物館が建つ河守鉱山の跡は主に銅を産した鉱山で、大江山連峰には緻密で重い橄欖岩や蛇紋岩が広がる。蛇の皮のような光沢から、蛇紋岩の名がついた。
鬼を鉱山で働く者に重ねる説がある。金属の器を伝えた渡来の人々が、土地の人の目には鬼と映ったとみる研究者もいる。丹後には浦島太郎、羽衣、山椒大夫と、数々の伝説が並ぶ。
海の向こうと行き来した古い国に、都の王権が刃を向けた記憶が、鬼退治に姿を変えたと読む研究者もいる。大和の王権と丹後の勢力との対立が、鬼退治伝説を生んだという推測だ。
もちろん、証拠はない。まあ、鬼の山の足もとに銅の鉱山があったことだけは、地図の上の事実として残る。
峠は盗賊の稼ぎ場だった
老ノ坂は、京から丹波と山陰へ向かうただ一つの主要道が通る関門で、『続日本紀』は大枝を五関の一つに数える。室町時代には天龍寺が管理する関所と、老ノ坂城が置かれた。人も物も、噂も通った。
人が通れば、狙う者も集まる。『今昔物語集』巻29の第23話は、夫婦が大江山のあたりで若い男に襲われ、夫が縛られる話だ。芥川龍之介の『藪の中』の種になり、黒澤明が映画『羅生門』に仕立てた。盗賊の記録は多い。
記録も残る。『法家問答』には、商人が大江山の山中で20人の強盗に襲われ、借りた馬まで奪われたとある。1114年には、丹波や因幡の人が30人ほどで組んで強盗を働いたと、白河上皇に報告された。1239年、鎌倉幕府は大江山の盗賊の鎮圧を、土地の地頭に命じた。
貝原益軒は、酒顚童子を古の盗賊だと断じ、夜叉の形をまねて人を脅し、財宝と女を奪ったと書く。『丹波志』も、首塚の由来を記したあとに、実は盗賊だと言うと付け加える。国文学者の佐竹昭広は、史実の山賊征伐が伝説の背景にあると唱えた。
大江山の名は、歌にも詠まれた。小式部内侍の「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」だ。百人一首にも入る。歌の生野は、絵巻で頼光一行が山の麓で最初に着く里と、同じ名前だった。
赤い鬼と、994年の疱瘡
盗賊説には、別の見方が対立する。歴史家の高橋昌明は、1992年の中公新書『酒呑童子の誕生』で、原像は疱瘡をはやらせる疫神だと説いた。
正暦5年、994年に、疱瘡が大流行した。一条天皇の時代には、九州で広がった疫病が京に入り、甚大な被害を出したという。物語の舞台と年代が重なる。
大江山は、疫病を都に入れないための四堺祭の拠点の一つだったという。老ノ坂は、その祭場だった。疫神が出入りする境の山に、鬼が棲んだことになる。
鬼の体が赤く描かれる点も、疱瘡の症状と重なるといわれる。高橋は、大江山の岩穴を生と死の境と見た。その奥の御殿は、一口でいえば竜宮だという。山賊より疫神を重く見る説が有力だと書く論文もある。
生まれ故郷が三つ並ぶ
御伽草子の童子は、酒の席で身の上を語る。本国は越後の者だと言う。出身地は定まらない。新潟県燕市の国上寺には、童子の生い立ちを記す絵巻があり、幼名は外道丸、母の胎内に3年いて生まれたという。
美貌の稚児だった外道丸のもとには、村の娘から恋文が山ほど届いた。読まずに焼き捨てると、煙が立ちのぼって顔を包み、鬼の顔になったという。思いを伝えられなかった女たちの恋心が、煙になったと語られる。
近江の伊吹山にも、生い立ちの話がある。奈良絵本『酒典童子』では、須川の長者の娘と、八岐大蛇が姿を変えた伊吹大明神とのあいだに生まれた。比叡山に預けられ、鬼踊りの面をつけたまま眠ると、翌朝には面が外れなくなっていた。
奈良の白毫寺には、死体の肉を師の僧に食べさせた稚児の話が伝わり、捨てられた場所はちご坂と呼ばれる。越後の三傑に酒呑童子、上杉謙信、良寛を挙げたのは、河井継之助だったという。三つの話を、一人の生涯としてつなぐことはできない。決め手はない。
保昌が脇役に退いた日
古い形の物語では、頼光と保昌は対等の大将だった。『保元物語』や『梅松論』も、昔の名将に田村、利仁、頼光、保昌を並べる。保昌が頼光の郎党のように扱われるのは、後世の筋だ。保昌は脇へ退いた。
二人の仲は、実際には穏やかでなかったらしい。『御堂関白記』は寛仁元年の1017年3月8日に、頼光の弟の頼親が、保昌の郎党だった清原致信を殺した事件を記す。致信は清少納言の兄だ。この話を載せた『古事談』では、致信を殺した側が頼光の四天王に置き換わっている。
室町の中ごろから戦国にかけて、主役は頼光と四天王へ移った。1720年に大坂の渋川清右衛門が出した御伽文庫の酒呑童子は、そうした形で広く読み継がれる。
最古の『大江山絵詞』は、もと下総の香取神社の大宮司家に伝わった。歴史家の鈴木哲雄は『酒天童子絵巻の謎』で、絵巻を作り伝えたのは京ではなく坂東の武士だったと論じる。都の武者への憧れが、絵巻に込められたという読みだ。
童子切という刀
東京国立博物館に、国宝の太刀がある。銘は安綱、名物の童子切安綱。平安時代の伯耆の刀工が打ち、刃長は80.0センチ、反りは2.7センチ。天下五剣の一つに数えられる。
江戸時代の『享保名物帳』は、頼光が丹波の大江山で酒呑童子を斬った太刀だと記す。足利将軍家に伝わり、豊臣秀吉、徳川家康、秀忠の手を経て、越前藩主の松平忠直に贈られた。のちに津山藩の松平家へ移った。
童子切という号は、凶賊を斬った名刀の評判が、酒呑童子の伝説と結びついてついたと考えられる。酒呑童子の伝説自体は、室町時代に生まれたとみられる。応永27年、1420年の目録に酒天童子物語一帖と見えるのが、確実な最古の記録だという。
兵庫県の多田神社に伝わる安綱銘の鬼切丸にも、酒呑童子を退治した伝承がある。北野天満宮の鬼切丸の解説板には、2017年まで、頼光が大江山の酒呑童子退治で用いたとあった。名前の取り合いが起きるほど、この手柄は人気が高い。
首を山車に載せた江戸の祭
酒呑童子の首は、祭の主役にもなる。東京の神田祭では、かつて天下祭と呼ばれた時代に、大江山凱陣が人気の出し物だった。頼光や四天王に扮した人々が、童子の首をかたどった山車と練り歩く。
曳山が失われて長く途絶えたが、2007年の神幸祭で、高さ4メートルのバルーンとして復元された。約170年ぶりの復活だ。江戸名所図会の神田明神祭礼の図にも、その姿が描かれている。
佐賀県の唐津くんちでは、11月に米屋町の曳山、酒呑童子と源頼光の兜が市内を巡る。新潟県燕市には、酒呑童子行列がある。生まれ故郷とされる町が、恐ろしい鬼を祭の主役に据えた。
明治から昭和の初めにかけて、酒呑童子の話は国語の教科書にも載っていた。能の『大江山』、歌舞伎、浄瑠璃、絵巻。形を変えながら、鬼退治の筋書きは広まっていった。
鳥居をくぐると呪われるという噂
老ノ坂の首塚が、今の姿になったのは新しい。1984年10月、祠は宗教法人として認められた。祭神は鬼王、酒呑童子。1986年3月に、社殿、鳥居、擁壁などが完成した。冒頭の説明板の日付も、同じ年の3月だ。
首から上の病に効くという話は、頭と脳の連想から、学業成就の願掛けにも広がった。参拝者が周りの木の皮を剥いでお守りに持ち帰り、枕に入れると効くと聞いて、剥がれた幹が所々に目立つという。
心霊スポットとしての噂もある。インターネットの心霊スポットまとめでは、鳥居をくぐると呪われる、心霊写真がよく撮れる、と書かれていた。2011年の論文が、その書き込みを拾っている。念のため書くと、噂の出どころは確かめられない。
国道9号が峠を貫き、バイパスが通ってから、旧道を歩く人はほとんどいない。毎年4月15日の例祭には、2010年の記録で80人ほどが集まった。祈祷が終わると、参詣者は社殿の裏へまわり、塚の上から酒をかける。
