お伊勢お多賀の子でござる
滋賀県犬上郡多賀町。鈴鹿山系の西の麓に広がる静かな町に、多賀大社が鎮座している。祀られているのは伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)、つまり日本の国土そのものを生んだとされる夫婦神だ。日本でも屈指の古社にあたる。
近世には、こんな俗謡が広く歌われた。
お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる。
伊勢神宮の祭神は天照大神。その親神を祀るのが多賀だという理屈で、この社は長らく伊勢と並び称される信仰を集めてきた。
その境内や周辺に、まことしやかな噂がある。古代の神事に使われた神鏡が今も社の奥に封印されたまま眠っている、という話だ。
根拠はあるのか。実際の歴史と伝承から検証していく。
『古事記』が語る「淡海の多賀」
創建は「伝・上古」とされ、正確な年代は分かっていない。
手がかりは『古事記』にある。三貴子分治の段の末尾に、国生みを終えた伊耶那岐大神が「淡海(近江)の多賀」に鎮座したという一文が置かれており、これが由緒の核になった。
ところが問題がある。
同じ神話を伝える『日本書紀』では、相当する記述が「淡路」なのだ。近江説と淡路説。この二つの伝承が、千年以上のあいだ並び立つ形で残されてきた。
江戸期の国学者・本居宣長も、この食い違いを見逃さなかった。畢生の大著『古事記伝』のなかで、「淡海」は「淡路」の誤写ではないかという説を正面から提示している。
本居説は現代の文献学でも有力視される。決着のつかない論争として、学界ではいまだに扱われてきた。
もっとも、多賀の人々にとっては話が別だった。文献学上の解釈がどうあれ、地元に根付いた「創造神が鎮まる土地」という誇りのほうが、日々の暮らしのなかでははるかに重い。江戸時代のあいだにこの近江説に基づく信仰が全国へ広まっていった経緯は、動かしようのない歴史として残っている。
杉坂峠の三本杉
境内から東へおよそ6キロ。鈴鹿山系へ分け入る山あいに、杉坂峠がある。
ここに「三本杉」と呼ばれる巨木が、県下最大級の杉として天を突くようにそびえている。
伝承はこうだ。国生みを終えた伊耶那岐大神が、まさにこの杉坂の地へ天から舞い降りた。
空腹だった大神をもてなそうと、里の老人が心を込めて粟飯を炊いて献上する。大神はいたく喜んだ。食事の後に使った杉の箸を、そのまま足元の大地へ無造作に突き立てたと伝えられている。
その箸が根付いた。枝葉を伸ばして成長した結果が、現在の三本杉なのだという。
規格外の巨木だ。地上からおよそ1.1メートルの高さで幹が二股に分かれ、太い方は幹回り6.7メートル、細い方でも4.3メートルある。合計すればゆうに11メートルを超える幹囲を誇る。
この地は伝承の舞台に留まらない。多賀大社の重要な祭礼である万灯祭の、火の起源地としての役割も担ってきた。
祭礼で焚かれる「最元火」は、今も杉坂峠のこの地で神職の手によって拝受され、山道を下って多賀の社まで運ばれてくる。
神が降臨したと伝わる場所の火が、毎年欠かさず社殿へ運ばれる。その一事が、二千年近い時間を超えて神話と現在の祭祀がひとつながりになっていることを静かに示している。
元正天皇の病が癒えた
全国区の知名度を得た決定的な転機は、奈良時代にあった。元正天皇にまつわる霊験譚だ。
天皇が重い病に伏せられたとき、多賀の神職たちは一心に祈りを捧げた。穢れなき齋火で強飯(こわいい)を炊く。神域の霊木から削り出した特別な杓子をその強飯に添え、はるばる朝廷へ奉納したと伝わる。
すると天皇の病はたちどころに快方へ向かい、ついには全快されたという。
この一件が効いた。延命長寿・病気平癒の霊験あらたかな古社として、多賀大社の名は都でも一躍評判になる。以後、多くの参拝者が延命を願って近江の多賀を目指すようになった。
お多賀杓子と、おたまじゃくし
霊験を象徴する杓子。これが今日「お多賀杓子」として知られる授与品の起源になった。
もとの呼び名は「お魂杓子」だったという。米を意味する古語「稲魂(いなだま)」に由来する名で、時代を経るうちに「お多賀杓子」へと転じていった。
江戸期にはさらに形状や呼び名が変化していく。「おたましゃくし」から「お玉」へ略された。
そして後年、これが水中を泳ぐ小さな生き物の呼び名、すなわち「おたまじゃくし」の語源になったという説まで広まっている。
神社の授与品の名が、両生類の幼生の呼び名にまで転用される。多賀信仰がいかに庶民の生活の細部まで深く浸透していたかを示す、なかなか鮮やかなエピソードだ。
多賀坊人という広告代理店
この延命信仰を全国津々浦々まで広めた役割を担ったのが、「多賀坊人(たがぼうにん)」と呼ばれる宗教者たちだった。
彼らは修験道の呪術や加持祈祷、治病の術を身につけている。ただ、その実質的な役割は、現代でいう広告代理店兼ツアーコンダクターにかなり近い。
極彩色で多賀の由緒と神威を描いた「多賀参詣曼荼羅」を携え、彼らは村から村へと全国を巡り歩いた。お多賀杓子を配布しながら、一度は近江のお多賀様へお参りを、と勧誘してまわる。
先の俗謡も、この地道な布教活動の集大成として庶民の間に定着していった言葉だった。
伊勢神宮の祭神である天照大神。その親神を祀る神社。つまりお伊勢様の親にあたる神社として売り出したわけだ。
この巧みなブランディングこそが、多賀信仰を伊勢参りに匹敵する規模まで押し上げた最大の要因になったとみていい。
秀吉が母の命を願った
戦国の天下人・豊臣秀吉もまた、この延命信仰の篤い信者の一人だった。
天正16年(1588年)、母である大政所(なか)が重い病に倒れる。秀吉は多賀大社へ切実な祈願を捧げたと伝わる。
三年、それが叶わぬのなら二年。いや、せめて三十日でもよいから母の命を永らえさせてほしい。
母の病はその後、快方へ向かった。
感謝の証として、秀吉は米一万石という破格の寄進をした。現在境内に残る国の名勝庭園は、この一万石の寄進を元手にして築造されたという説が有力視されている。
参道に架かる美しい石造りの太鼓橋も、俗に「太閤橋」と呼ばれる。この時期の秀吉による大がかりな社殿整備と重なる時代の橋だ。
急な反り橋の形状は、渡る者を選ぶような急勾配で知られている。地元では、太閤様の心の高さそのままに架けられた橋なのだ、と語られることもあるという。
時の天下人までもが母の延命をこの神社へ託した。この史実が、命を延ばす神社というイメージを江戸期にさらに揺るぎないものへと育てていった。
鎌倉から江戸へ、信仰が広がる
鎌倉時代以降、多賀社は神官と有力な御家人による衆議制で運営されるようになる。
近江国が交通の要衝だったことも大きく手伝った。東山道と中山道が走り、北国街道が分岐する土地だ。人と物が動けば、信仰も一緒に動いていく。多賀信仰は街道網に乗って全国へ広がっていった。
江戸期には、お多賀杓子を初穂として授かる風習が定着する。飯を盛る道具が家の神棚に据えられ、一家の健康を守る護符として扱われた。長寿・延命の神として、いよいよ篤く信仰された。
現在も年間およそ50万人が参拝に訪れる。正月三が日だけで数十万人が門前町を埋める光景は、近江の冬の風物詩として定着した。滋賀県を代表する神社だ。
神鏡の噂は、どこから来たか
さて、本題の「隠された神鏡」に入る。
調べた範囲では、これは近年になって現れた新しい層の物語だった。インターネット上のオカルト系まとめサイトや、都市伝説を解説するブログの一部で繰り返し語られてきた話にあたる。
日本の都市伝説と怖い話を集めたと称するあるサイトがある。そこでは多賀大社の項目に「古代の神器が眠る聖地」という見出しが堂々と立てられていた。
内容はこうだ。三種の神器のひとつ、八咫鏡と伊邪那岐命の関係性から連想を広げていく。多賀大社の奥深くには、代々の神職しか知らない秘められた神鏡が今も安置されているのではないか。そういう趣旨の考察が、かなりの分量をかけて展開されていた。
この種のサイトには共通する特徴がある。
社伝や一次史料からの直接的な引用が無い。三種の神器のルーツに近い神を祀る古社なのだから、何か特別な神宝があってもおかしくない。その連想と願望をベースにして、物語の骨格が組み立てられている。
鏡は、なぜ特別なのか
噂が生まれる土壌には、日本神話における鏡という宝物の位置づけがある。
『古事記』『日本書紀』が語る三種の神器。八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。
このうち鏡は特別だ。天照大神が天岩戸に隠れた際、その姿を映し出す依代として用いられ、のちに天孫降臨に際してニニギノミコトへ授けられたともされる。
考古学的な裏付けもある。鏡・剣・玉の組み合わせは、4世紀から5世紀の豪族の古墳副葬品に頻繁に見られる形式だ。古代日本で支配者の象徴として重視されていたことが分かっている。
多賀大社の祭神である伊耶那岐命は、天照大神の親神にあたる。
三種の神器のルーツにも近い神が鎮座する古社なのだから、何か特別な神宝が眠っているに違いない。その連想が、後世になって隠された神鏡の噂を生んだ。そう考えるほうが筋は通る。
裏付ける記述が見つからない
多賀大社が実際に神鏡を秘蔵しているという記録は、社伝にも公式な由緒にも見当たらない。
公式な由緒書や近江の郷土史料をどれだけ渉猟してみても、秘蔵の神鏡を直接裏付けるような記述は一行も出てこなかった。
多くの神社で鏡が御神体として祀られること自体は、ごく一般的な慣習だ。それを特別に封印された秘宝として扱う伝承となると、多賀大社に限っては確認できない。
神宝を伏せる神社が無いわけではない。ただ、その場合でも「何かがある」ことだけは社伝がはっきり明記するのが通例で、多賀にはその明記すら見当たらない。
奥へ進むほど、何かが潜んでいそうな
とはいえ、こうした噂が生まれること自体は不自然ではなかった。
境内の奥深くには大瀧神社がある。水神である高龗神・闇龗神という龍神が祀られている場所だ。滝と岩場に囲まれたこの一帯は、本殿前の明るい空気とはまるで質の違う静けさに沈んでいる。
参拝したスピリチュアル系ブロガーたちは、一人称の体験談を数多く書き残してきた。猛々しい岩肌と滝の轟音の中に、荒々しいまでの龍神の力強さを見る。眷属からのメッセージを受け取った気がした。
多賀大社という広大な神域には、本殿だけでなく大瀧神社や犬上神社といった摂末社が点在している。それぞれに異なる神格と物語が折り重なっている構造だ。
奥へ進むほど何かが潜んでいそうな空間。その構造そのものが、まだ知られていない秘宝が眠っているのではないかという想像力を刺激する下地になった。
SNSやパワースポット系のブログにも、体感を語る投稿が多い。多賀大社は行くたびに違う空気を感じる。奥宮に近づくと急に涼しくなった。
神秘性を求める参拝者たちの感受性。そこに二千年近い神話・信仰史の重みが結びつく。令和の時代になお新しい伝説の芽が生まれ続ける理由は、だいたいそのあたりにありそうだ。
新しい神話の一断片
多賀大社をめぐる隠された神鏡の都市伝説は、実在する史料や社伝に基づくものとは言えない。
伊邪那岐命という神話上の重要な神格。鏡という三種の神器の象徴性。この二つが結びついて生まれた後付けの物語とみるのが、いちばん妥当なところだろうね。
正体は考古学的発見でも古文書の新発見でもなかった。伊邪那岐命という始原の神格が持つ物語的な重力に、現代のインターネット言説が引き寄せられて生まれた断片にすぎない。
それでも、『古事記』まで遡る淡海の多賀の鎮座伝承がある。杉坂峠の神木伝説がある。近世に花開いたお多賀参りの信仰史も残っている。それ自体が十分に神秘的だ。
噂の真偽を追うより先に、見ておくべきものがある。二千年近い歴史を持つ古社が、いまも変わらず静かに息づいている。そのことのほうだ。
