日本の正史は、天武天皇が何歳で死んだかを書いていない。生年も書いていないし、何年に生まれ、何歳で即位し、何歳で崩御したのか、『日本書紀』は一行も記していないんだ。これだけなら「古い時代だから仕方ない」で済む話だよね。
済まないのは、その『日本書紀』の編纂を命じたのが天武天皇その人だからだ。自分が作らせた国史に、自分の年齢だけが抜けていて、しかも抜けているのは天武だけじゃない。ここが面白いところで、後で丁寧にやる。
五百年ほど経った鎌倉時代、突然どこからともなく「天武は六十五歳で死んだ」という数字が中世の史書に湧いて出る。これを素直に逆算すると、弟であるはずの天武が、兄であるはずの天智より四歳年上になる。
ここから、日本古代史でいちばん厄介で、いちばん人を狂わせる論争が始まった。今日はその話をする。長い話になるけど、途中で止まらないと思う。
まず、何がどう食い違っているのかを正確に押さえる
論争の話をする前に、数字の出どころを一つずつ確定させておきたい。ここを曖昧にしたまま議論すると、全員が違う数字を握ったまま殴り合う羽目になる。この論争は、五十年間ずっとそうだった。
通説では、天智天皇の生年は六二六年、推古天皇三十四年だ。崩御は六七一年、天智十年十二月三日。数え年で四十六歳。これが教科書に載っている数字だ。
天武天皇のほうは、生年がわからない。崩御は六八六年、朱鳥元年九月九日。享年も不明で、教科書には何も書けない。
中世に成立した『一代要記』と『本朝皇胤紹運録』は、天武の享年を六十五歳としている。六八六年から数え年で逆算すれば、生まれたのは六二二年、推古三十年になり、天智の六二六年より四年早い。
弟のほうが四歳年上。これが「年齢矛盾」と呼ばれてきた問題の全部だ。単純と言えば単純だが、この単純さが恐ろしい。この四年をどう処理するかで、飛鳥時代の見え方が根こそぎ変わってしまうんだよな。
天智の「四十六歳」は、たった一行から出ている
天智の側の数字から疑ってかかると、四十六歳というのが『日本書紀』の直接書いた数字じゃないとわかる。ここが最初の落とし穴になる。
根拠は、舒明天皇紀の末尾にある一文。舒明十三年、六四一年の冬十月、天皇が百済宮で崩御し、宮の北で殯が行われた。そこにこう書かれている。「是の時、東宮開別皇子、年十六にして之を誄す」。
開別皇子というのは天智のことで、父の葬儀で弔いの言葉を述べたとき、十六歳だった。この一行だけが根拠なんだ。数え年十六なら、逆算して六二六年生まれ。
以後の年齢は全部そこから積み上げられていて、乙巳の変のとき二十歳、即位のとき四十三歳、崩御のとき四十六歳になる。全部この一行が土台だ。
一本の柱で支えられた家というのは、その柱を疑われると一気に崩れる。疑う人は、ちゃんといた。歴史学者の水野祐は、この誄の記事がもともと別の記事だったのではないか、と考えた。「舒明天皇の即位とともに葛城皇子が皇太子に任じられた」という記事が、誄の話に書き換わってしまったのではないか、というわけだ。
もしそうなら、十六という数字は天智の年齢とは無関係になる。水野は中世史料に従って、天智の享年を五十八歳と見た。そうすると天智の生年は六一四年になり、六二二年生まれの天武はちゃんと弟になって、矛盾は消える。きれいに消えすぎて、逆に怖い。
天智の年齢には、『上宮聖徳法王帝説』という別系統の証言もある。聖徳太子の伝記としては現存最古のもので、作者も成立年代もわからない。それでも記紀より古い素材を含むとされ、評価が高い。
そこにこうある。「乙巳の年六月十一日、近江天皇、生まれて廿一年、林太郎を殺す」。近江天皇は天智、林太郎は蘇我入鹿のことで、乙巳の変が六四五年だから、そのとき天智は二十一歳になる。
『日本書紀』から計算すると二十歳のはずで、一歳ずれている。たった一歳だ。けれどこの本には、聖徳太子の没年が一年ずれるという有名な問題もある。この一年のずれが何に由来するのかは、今も決着していない。いちばん確かだと思われている天智の年齢ですら、一年の幅で揺れているわけだ。
天武の「六十五歳」は、五百年後に湧いた数字だ
では天武の側はどうか。こちらはもっと悪い。『日本書紀』は天武の年齢を書かない。『続日本紀』にも当然ない。
天武の年齢を記した史料が現れるのは、崩御から五百年以上経った鎌倉時代の『一代要記』が最初だ。ここで六十五歳という数字が出てくる。
その後、南北朝時代に北畠親房が書いた『神皇正統記』は七十三歳とし、逆算すれば六一四年、推古二十二年生まれになる。同じ系統の『如是院年代記』も七十三歳。
ところが室町時代になると、系譜研究の基本書として今も使われる『本朝皇胤紹運録』が、六十五歳に戻している。しかも紹運録は誕生を推古三十一年、六二三年と書いている。六十五歳という享年と六八六年という没年から計算すると、一年合わない。
編者自身が別々の伝承を継ぎ合わせているのが透けて見えるよね。整理すると、天武の享年について中世が持っていた数字は、六十五と七十三の二系統だ。生年に直せば六二二年前後と六一四年前後。どちらを採っても、天智の六二六年より前になる。
この数字がどこから来たのかは、誰にもわからない。中世の編者たちが何か古い記録を見ていたのか、口伝を拾ったのか、それとも机の上で作ったのか、手がかりが一つもない。
四百年から六百年の空白があって、その空白の向こうから数字だけが飛んでくる。史料批判をやる人間にとって、これほど扱いに困る素材はそうそうない。正直、お手上げに近い。
一九七四年、外部から石が投げ込まれた
この矛盾自体は、専門家には昔から知られていた。知られてはいたけど、大きな問題としては扱われてこなかった。中世の数字は当てにならない、で片付いていたんだ。その均衡を壊したのは、歴史学者ではなかった。
一九七四年、作家の佐々克明が「天智・天武は兄弟だったか」という論考を発表する。彼の論法はシンプルで、それゆえに強烈だった。
理屈はこうだ。天智の生年は『日本書紀』から六二六年、天武の生年は『一代要記』と『本朝皇胤紹運録』から六二二年。だから天武のほうが四歳年上であり、『日本書紀』が二人を同母兄弟としたのは事実を隠すための操作である、と。
佐々が突いたのは、数字そのものより専門家の態度のほうだった。古代史研究は『書紀』を優先すると言いながら、都合が悪くなると『書紀』の記事のほうを恣意的に読み替えてしまう。この年齢矛盾はその象徴的な現れではないのか、と。
この批判は痛かった。後で見るように、学界の通説は「六十五は五十六の書き間違いだろう」という、根拠のない一文字入れ替えの上に成り立っていたからだ。
佐々はさらに踏み込んで、天武の正体を新羅の王族、金多遂だと考えた。ここまで来ると、たいていの人はついていけなくなる。それでも彼が投げた石は、確実に水面を割った。以後三十年、この問題は在野の研究者と作家たちの主戦場になる。
学界の答え――「六十五は五十六の写し間違いだ」
学界側がこの矛盾をどう処理してきたかを見ておこう。ここが、なかなか気まずい。
歴史学者の川崎庸之はこう書いた。「『本朝皇胤紹運録』を中心とした六十五歳説は、同腹の兄を超えてしまうことになる」。「もし六十五歳を五十六歳に写し間違えたとみることができれば、中大兄皇子との年齢差は五歳となり」。文はここで切れず、こう続く。
「二人の間に間人皇女を数えなければならないことについても、そんなに不自然ではなくなってくる」。「だからしばらくこの仮説の下に考えていきたい」。読んでのとおり、これは論証じゃない。作業仮説だと本人も断っている。
ところが、壬申の乱研究の第一人者だった直木孝次郎がこれを受け入れたことで、五十六歳説は事実上の定説になった。天武は六三一年、舒明三年生まれで天智の五歳下となり、矛盾は解消されて、教科書にもそう書かれるようになった。
でも冷静に見れば、これは数字をひっくり返してつじつまを合わせただけだ。六十五を五十六にする根拠は「そうすれば矛盾が消えるから」以外にないうえに、副作用まである。
天智と天武の生年を引き下げると、母である皇極天皇の出産年齢が跳ね上がるんだ。皇極は五九四年生まれとされるから、天智を産んだのが三十三歳、天武を産んだのが三十八歳という計算だ。飛鳥時代の女性としては、ずいぶん遅い。
矛盾を一つ消すために、別の場所に矛盾を押し込んだ形だ。今ではこの五十六歳説も、数字を操作してつじつまを合わせる手つきそのものが批判されて、支持されなくなった。
おかげで学界の今の立場は、天武の生年は不明、という振り出しに戻っている。何十年もかけて、わからないものはわからない、というところまで戻ってきた。個人的には、これがいちばん誠実な結論だと思う。
坂本太郎の反論――「同じ本の中では逆転しない」
異説に対する学界側の中心的な反論は、一九七四年の講演で坂本太郎が述べたもので、今も生きている。論点はこうだ。年齢矛盾は、『日本書紀』から天智の生年を取り、中世史料から天武の生年を取ってきて、二つを並べたときにだけ発生する。
ところが『一代要記』も『本朝皇胤紹運録』も、天智の年齢をちゃんと書いている。中世史料は天智の享年を五十八歳や六十二歳と、ずいぶん高く記しているんだ。だから同じ本の中で天智と天武を比べれば、天智のほうが年上のままで、逆転は起きない。
これは効く反論だ。『神皇正統記』は天智を五十八歳、天武を七十三歳とする。逆算すればどちらも六一四年生まれで同い年になるが、同書は天武を天智の同母弟と明記している。『如是院年代記』も『仁寿鏡』も、二人を同年生まれとして扱っている。
中世の編者たちは、二人の年齢を高めに設定しつつ、決して長幼の順を逆転させなかった。逆転を起こすのは、異なる本から都合のいい数字だけを抜き出して組み合わせた現代の読み手のほうなんだよな。
この操作を「史料の切り貼り」と呼ぶか、「中世の知恵を剥がして真相に迫った」と呼ぶかで、立場が分かれる。異説側は後者を主張した。中世の編者たちは、天武が年上だという伝承を知っていた。でも『日本書紀』に逆らえないので、天智の年齢のほうをかさ上げして辻褄を合わせた、と。
だから、かさ上げされた天智の享年を捨てて『日本書紀』の四十六歳に戻す。そのうえで天武の六十五歳だけを採用すれば、隠された真実が現れる。そういう論法だ。
うまい理屈だ。うますぎる。この論法の弱点は、何を残して何を捨てるかを決める基準が、結局「そのほうが面白い結論が出るから」以外にないところにある。
「中世の知恵」を検証する――敏達と崇峻という比較材料
坂本の反論を補強する地味だが強力な材料として、天智と天武以外にも同じ現象が起きている天皇がいるんだ。欽明天皇の第二子である敏達天皇と、第十二子である崇峻天皇だ。
この二人も『日本書紀』には年齢が書かれていない。中世の史書にはちゃんと数字があって、『扶桑略記』では敏達が五六二年生まれ、崇峻が五二一年生まれだ。四十年の差がついていて、第二子より第十二子のほうが四十歳も年上という計算だ。『愚管抄』では敏達が五五九年または五四八年、崇峻は五二一年。『神皇正統記』では敏達が五二五年、崇峻が五二一年で、ここではほぼ並ぶ。
見てほしいのは、時代が下るにつれて敏達の生年がじりじり繰り上げられていくところだ。『日本書紀』の記述と少しでも整合させようという力が働いているのが、露骨に見える。天智と天武で起きたこととまったく同じ構造。
中世の史書にある天皇の生年や没年齢は、古代から伝わった確実な伝承とは考えにくい。編者ごとに出所不明の数字を抱えていて、それを『日本書紀』と衝突しないように調整した結果だと見るのが自然だ。天武の六十五歳だけを「古代からの真正な伝承」として特別扱いする理由は、どこを探しても見当たらない。
ちなみに、なぜ『日本書紀』は欽明以降の天皇の年齢を書かなくなるのか、というのも面白い問題だ。欽明より前の二十八人のうち、年齢不明は八人だけなのに、欽明以降の十一人では九人が不明になる。時代が新しくなるほど情報が減るという、逆立ちした現象が起きている。
神話時代の天皇には百何十歳という年齢が堂々と書いてあって、実在が確実な飛鳥の天皇には何も書いていない。どう考えても変だ。この気持ち悪さこそが、天武の年齢問題の本当の背景だと思う。
史料を一枚ずつ剥がす
ここからが本番だ。この問題に関わる文書を、一点ずつ丁寧に見ていきたい。誰が、いつ、どういう立場で書いたのか、それを知らないまま数字だけ比べるから、この論争は五十年も空転した。
『日本書紀』舒明天皇二年正月条
最初はここだ。天武の系譜が確定する記事は、ここにしかない。舒明二年、六三〇年の春正月、宝皇女を立てて皇后とした。
原文はこう続く。「后、二男一女を生めり。一を葛城皇子と曰す。二を間人皇女と曰す。三を大海皇子と曰す」。
葛城皇子には「近江大津宮に天の下治しめしし天皇」、大海皇子には「浄御原宮に天の下治しめしし天皇」という割注が付く。後世の編者が、この二人が後の天智と天武であることを念のため書き足しているわけだ。
ここで押さえたい細かい点が二つある。ひとつは、原文の表記が「大海人皇子」ではなく「大海皇子」で、人の字がないこと。もうひとつは、この記事が生年を一切書いていないこと。三人の子の名前が順番に並ぶだけで、いつ生まれたかは書かれない。
最大の問題は、この記事が立后の年である六三〇年の下にまとめて置かれていることだ。中大兄は六二六年生まれとされるから、この記事の四年前に生まれている。これは出生記事じゃなくて、後からまとめて系譜を整理した記事なんだ。
だから「三曰」という順番が生まれた順を正確に反映している保証は、本文の上にはどこにもない。異説側はここを突く。学界側は、日本書紀の后妃と子の記載順は身分の高下によって並べられており、年齢順や入内順だという保証はない、と反論する。どちらも決め手を欠く。
『日本書紀』天武天皇即位前紀
巻第二十八の冒頭。「天渟中原瀛真人天皇は、天命開別天皇の同母弟なり。幼くして大海人皇子と曰す」。
生まれながらにして際立った姿があり、壮年に及んで雄々しく武勇に優れ、よく天文と遁甲をなした。「天命開別天皇の女、菟野皇女を納れて正妃とす。天命開別天皇の元年、立ちて東宮となる」。
一行目の「同母弟」が、すべての土台だ。異説はこの三文字を疑うところから始まる。
すぐ後に来る「よく天文と遁甲をなした」という記述が、また異様なんだ。歴代天皇の紹介で、占術の技能を真っ先に書かれる人は他にいない。遁甲というのは方位と時間を組み合わせた道教系の術で、軍事にも使われる。この一行が、後で見る「天武という人物の異物感」の入口になる。
もう一つ気をつけたいのは「天命開別天皇の元年、立ちて東宮となる」の部分だ。天武紀は、天智元年に大海人が皇太子になったと書いている。ところが天智紀のほうには、立太子の記事がまったくない。同じ本の中で、片方は皇太子だと言い、もう片方は沈黙しているわけだ。これは編纂上の相当な不整合で、後で詳しく扱う。
『日本書紀』皇極天皇即位前紀
異説の全部がここから生えてくる、爆弾みたいな一文がある。皇極天皇、諱は宝皇女。彼女は舒明天皇の皇后になる前に、別の男と結婚していた。
橘豊日天皇、つまり用明天皇の孫である高向王に嫁いで、一男を生んだ。その子の名を漢皇子という。これだけだ。
『日本書紀』全三十巻を通して、漢皇子という人物が登場するのはこの一箇所しかない。生没年不詳で、事績もない。その後どうなったかも書かれない。
母は後に天皇になり、異父弟は天智天皇になり、その一族が国の中心にいる。それなのに、長男だけが記録から蒸発しているんだ。
高向王のほうも謎が多い。用明天皇の孫とされるが父の名がわからず、田目皇子の子とする説がある。用明は蘇我系の天皇だから、高向王も漢皇子も蘇我氏と近い場所にいた人物と見られる。「漢」という字は、渡来系の氏族を指す語でもある。
この空白に、異説論者たちは一斉に飛び込んだ。まあ、無理もない話だ。
『上宮聖徳法王帝説』
先に触れた、天智二十一歳の記述を持つ文書で、作者不明、成立年代不明、全一巻。聖徳太子の伝記としては現存最古で、記紀とは別系統の古い素材を含むと評価されている。近代の文献批判が進むにつれて、記紀を補完する信用度の高い古典として一気に注目を集めた。
この本の値打ちは、天智の年齢を一歳ずらすことより、「記紀とは別の年代観が確かに存在した」と示している点にある。仏教公伝の年についても、欽明天皇の在位年数についても、この本は『日本書紀』と食い違う。同じ出来事について、複数の年代観が古代に併存していた。
だとすれば、天武の年齢についても『日本書紀』とは別の伝承が流れていた可能性を、頭から否定はできない。異説側の最大の拠り所は、ここにある。
『一代要記』と『本朝皇胤紹運録』
天武六十五歳説の出所のうち、『一代要記』は鎌倉時代成立とされる歴代天皇の要覧で、編者はわかっていない。『本朝皇胤紹運録』は室町時代、応永年間に洞院満季が編纂した皇室系図の集大成だ。以後の系譜研究の基本文献として、今日まで現役で使われている。
紹運録が優れているのは、単なる系図じゃなく、天皇ごとに生年・崩年・享年・陵墓を書き込んでいる点だ。だからこそ、天武の享年六十五という数字が重く受け取られてきた。
ただ、先ほど触れたように、紹運録は天武の誕生を推古三十一年、六二三年としている。六十五歳という享年と六八六年という没年から計算すると一年ずれるのは、編者が複数の伝承を突き合わせきれていない痕跡だ。
紹運録は天智の享年も五十八歳と記していて、同じ本の中では天智のほうがはっきり年上なんだ。この事実を無視して六十五だけを抜き出すのは、やっぱり乱暴だと思う。
『阿不幾乃山陵記』と『明月記』
これは年齢の議論そのものには関わらない。けれど、天武という人物が実在した肉体として記録に残った、唯一の生々しい史料だ。
文暦二年、一二三五年三月二十日と二十一日の両夜、明日香村野口にある古墳に盗賊が入った。後の天武・持統合葬陵、檜隈大内陵で、役人が現場に入り、石室の内部を克明に記録した。それが『阿不幾乃山陵記』だ。
記録によれば、陵の形は八角で、石壇が一周し、周囲はおよそ一町、五重に築かれていた。南面に石の門があり、門の前に石橋があった。石室は磨いた切石で組まれ、前室と玄室の二つに分かれている。
前室と玄室の境には金銅の観音開きの扉があって、蓮の花の模様の金具が大小六個付いていた。玄室は全面に朱が塗られ、金銅の透かし彫りの棺台の上に、長さ二メートル余りの漆塗りの棺が据えられていた。
問題は中身だ。棺は暴かれ、遺体は引きずり出されていた。石室の中に、天武の遺骨と白い髪が散乱していた。想像するだけで気が滅入る。
持統の遺骨は火葬されて、銀の骨壺に収められていた。賊は骨壺そのものを目当てにしていたので、中の骨は近くに投げ捨てられていた。ひどい話だ。
藤原定家が、これを『明月記』嘉禎元年四月二十二日条に書き残している。「御陵をあばき盗む事、天武天皇大内山陵と。ただ白骨相遺り、また御白髪なお残ると」。
同年六月六日条にはこうある。「山陵を見奉る者、伝々の説あり。聞く毎に哀慟の思いを増す。女帝の御骨に於いては、銀の箱を犯し用いるため路頭に棄て奉り了んぬ。塵灰といへども、なお尋ね収めらるべきか」。
生年不明、享年不明、正体を疑われ続けている男の、確実に残った情報が「白髪だった」だけというのは、なかなかすごい話だと思う。ちなみにこの『阿不幾乃山陵記』は長く行方不明で、一八八〇年、明治十三年に京都栂尾の高山寺から発見された。翌年二月一日、この文書を決め手として野口王墓が天武・持統合葬陵に治定され、今日に至っている。
同時代の記録を、三つ、じっくり読む
中世の数字ばかり見ていても仕方がない。天武と同時代、つまり七世紀から八世紀初頭の記録は、この二人の関係について何を語るのか。三つ選んで、腰を据えて読んでみたい。
天智七年五月五日、蒲生野の遊猟
『日本書紀』天智七年、六六八年の夏五月五日の記事。五月五日は薬狩りの日で、朝廷が野に出て薬草を摘み、鹿を追う年中行事だ。原文を引いておく。「五月五日、天皇、蒲生野に縦猟したまふ。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、皆悉く従へり」。
短い記事だ。でもこの日の場面は、日本文学史で指折りの有名さを誇る。この遊猟の席で額田王が詠んだのが、あの歌だ。「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」。
大海人皇子の返歌はこうだ。「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」。額田王は、もともと大海人の妻で十市皇女を産んだ女性であり、その後に中大兄のもとへ移ったとされる。
だから兄弟と一人の女という三角関係が壬申の乱の遠因になった、という説が昔から根強い。近年は、この二首は宴席の座興として作られた掛け合いで、実際の恋愛感情を反映したものではない、という読みのほうが優勢だ。どちらにせよ、この場に兄と弟と女がいたことは動かない。
ここで注目したいのは歌ではなく記事のほうの「大皇弟」という三文字だ。天皇に従った人物の筆頭が、名前じゃなく「大皇弟」という称号で書かれている。この称号が、実は日本古代史の中でも指折りの謎なんだ。
天智八年十月十五日、鎌足の枕元
もう一つは、天智八年、六六九年十月十五日の記事。原文を見てほしい。「庚申、天皇、東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣はし、大織冠と大臣の位を授く。仍りて姓を賜ひて藤原氏と為す。此より以後、通じて藤原内大臣と曰ふ」。
中臣鎌足が死の床にあっても、天智は自ら行かず、弟を使者に立てた。大海人は鎌足の家へ赴き、最高位の冠位である大織冠と、大臣の位と、藤原という新しい姓を授ける。
藤原氏という日本史上最大の氏族が、この日この場所で誕生した。その誕生に立ち会って勅を読み上げたのが、大海人皇子だ。鎌足はその数日後に死ぬ。
この場面はよくできていて、天智が病床の功臣に最大級の栄誉を与える。でも自分では行かない。行ったのは、後にその藤原氏と深く結びつくことになる弟のほうだった。
天武の子である舎人親王が『日本書紀』の編纂を統括し、鎌足の子である藤原不比等がその時代の実権を握る。この日の一場面は、その後の百年を先取りしているんだよな。ここでも大海人は「東宮大皇弟」と呼ばれている。名前がなく、称号だけだ。
持統元年正月、殯宮に立った男たちの順番
三つ目は天武の死後の記録で、朱鳥元年九月九日、天武は飛鳥浄御原宮で崩御した。九月十一日に哭が始まり、南庭に殯宮が建てられる。十月二日、大津皇子が謀反の疑いで捕らえられ、翌日死を賜る。殯宮での儀式は、そこから二年以上続いた。
その最初の本格的な誄の場面が、『日本書紀』に記録されている。夜明けに僧尼が殯庭で哭してから退き、その日はじめて供物が進められて誄が始まる。誄を述べた者の順番が、そのまま列挙されているんだ。
「第一に大海宿禰荒蒲、壬生の事を誄す」。「次に浄大肆の伊勢王、諸王の事を誄す」。「次に直大参の県犬養宿禰大伴、宮内の事を総べて誄す」。「次に浄広肆の河内王、左右大舎人の事を誄す」。「次に直大参の当麻真人国見、左右兵衛の事を誄す」。
以下、内命婦、宮内官人と続いていくこの順番が、重要だ。誄というのは死者の生涯と功業を読み上げる儀式で、誰が何について語るかが厳密に決まっている。
天武の葬儀で最初に立った人物は、王族でも大臣でもなかった。大海宿禰荒蒲という、それほど身分の高くない氏族の男だ。彼が語ったのは「壬生の事」。壬生とは養育のことだ。
天武の葬儀で最初に読み上げられたのは、彼を育てた話だったわけだ。国家の最高権力者の生涯を締めくくる儀式が、幼少期の養育の記憶から始まっている。しかも語り手は、天武の名の由来とされる凡海氏の人間。
大海人という名は、この一族に養育されたことに由来する、というのが通説だ。『日本書紀』にそう明記した箇所はなく、この誄の記事から逆算して推測されているだけだ。天武の名前の由来が、彼の葬式の記録から推測されている。そういう人なんだ、この天皇は。
異説を、ひとつずつ
ここからは、この五十年に提出された読みを順番に潰していきたい。先に言っておくと、どれも一長一短で、どれも決め手を欠く。
佐々克明の新羅王族説
一九七四年に口火を切った佐々克明は、年齢矛盾を指摘したうえで、天武の正体を新羅の王族である金多遂だとした。材料は、天武の周辺に新羅系の影が濃いこと、白村江の敗戦後の外交で新羅との距離が一気に縮まることだ。『日本書紀』が天武の出自を隠したがっているように見えることも、ここに組み合わされた。
この説の最大の弱点は身も蓋もなくて、倭国の大王に外国人がそのまま即位できるとは考えにくい、という一点に尽きる。この時代の大王位は、古来の氏族たちの推戴があって初めて成立する。
継体天皇の例を見ても、傍系とはいえ大王の血統を引いていることは絶対条件だった。それは新羅でも百済でも同じだ。血統のない外来者が最高位に就くという想定は、当時の政治構造そのものと衝突する。今日この説をそのまま支持する人は、ほとんどいない。ただ、彼が投げた「年齢矛盾」という石そのものは残った。
小林惠子の漢皇子説、そして高句麗宰相説
一九七八年、小林惠子が「天武天皇の年齢と出自について」という論考を発表する。副題は、大化の改新から壬申の乱にいたる常識的歴史観への疑問。ここで初めて、皇極の前夫との子である漢皇子こそが大海人皇子である、という説が提出された。天武は天智の同母弟ではなく異父兄である、と。
小林はさらに、その父である高向王を、大化の改新の推進者として知られる遣唐使の高向玄理だと考えた。この時点で相当に無理があるのは、天武が生まれたはずの時期、玄理は唐へ渡航中のはずだからだ。小林は、別名で一度帰国していたと考えて処理する。
一九九〇年、彼女は『天武は高句麗から来た』でさらに踏み込み、天武の正体を高句麗末期の実力者、淵蓋蘇文だとしたんだ。根拠として並べられたものが、これが妙に噛み合っている。
二人は年齢が近いうえに、高句麗の史書に淵蓋蘇文が登場しなくなる頃、『日本書紀』に大海人が登場し始める。高句麗の官職名である大莫離支は、古代朝鮮語で海の人を意味する。
淵蓋蘇文は日頃「自分は水の中から生まれた」と称し、天武の和風諡号にも水を示す文字が並ぶ。二人とも仏教や儒教より道教に傾倒していて、武勇の人だった。決定的なのが、中国の史書にない淵蓋蘇文の詳しい没年月と遺言が、なぜか『日本書紀』にだけ書かれていることだ。
面白い。恐ろしく面白い。けれど根拠のほとんどが連想と語呂合わせの域を出ておらず、佐々説と同じ「外国人が即位できるのか」という壁に正面から当たる。学問としては採用されていない。それでも、この説が世に与えた影響は大きかった。
大和岩雄の異父兄弟説
異説の中でいちばん筋が通っているのが、大和岩雄の説。一九九一年の『天智・天武天皇の謎』、二〇一〇年の『日本書紀成立考――天武・天智異父兄弟考』などで展開されている。
大和も天武を漢皇子と見る。ただ、父は高向玄理じゃなく、『日本書紀』が書いているとおり用明天皇の孫の高向王だとする。外国から来た誰かを持ち込む必要はなく、用明の孫なら大王家の血は引いているし、皇位継承の資格は満たす。
この説なら年齢矛盾は自然に解けて、漢皇子は皇極が舒明と再婚する前の子だから、中大兄より年長で当然だ。『日本書紀』は「同母弟」と書き、「皇弟」「大皇弟」「東宮」を何度も何度も強調する。大和の読みでは、それは天武が簒奪者ではなく天智の正当な後継者だと示すためだった。
証拠のひとつとして、大和は天武と高向氏の縁の深さを挙げる。指摘の一つ目は、天武を養育した凡海氏と、役小角で知られる賀茂役君氏が、ともに葛城とその周辺に住んでいたことだ。二つ目は、賀茂系氏族が壬申の乱で天武側について活躍していることだ。
作家の豊田有恒も、遁甲の線から指摘をしている。天武が遁甲を能くしたことについて、『日本書紀』に天文遁甲を学んだと記される大友村主高聰と高向氏が同族であることだ。大和もこれに賛同している。
弱点は、漢皇子が天武だという直接の証拠がただの一つもないことだ。名前が一致するわけでも、事績が重なるわけでもない。
空白の人物と、出自の記述が薄い人物を、空白であるという理由だけで重ねている。証明のしようがない仮説で、その意味ではフィクションと変わらない。けれどフィクションにしては、あまりに座りがいいところが、厄介なんだ。
井沢元彦による増幅
この論争を一般に広めたのは、間違いなく井沢元彦。『逆説の日本史』第二巻、古代怨霊編で、彼は年齢矛盾を実に明快に提示した。没年齢六十五歳なら、天武は六二二年生まれ。ところが兄のはずの天智は六二六年生まれで、弟の天武のほうが四年早く生まれた計算になる。この短い文章が、たぶん何十万人にこの問題を知らせた。
井沢はさらに、小林惠子の指摘として二つの事実を紹介する。ひとつ目は、皇室の菩提寺である京都の泉涌寺霊明殿には歴代天皇の位牌が祀られているが、天武系の天皇の位牌だけがない。ふたつ目は、平安時代以降の記録を調べると、天武系の天皇陵に対する奉幣の儀がまったく行われていないことだ。仏式でも神式でも、天武系だけが皇室の祭祀から外されている、と。
これが事実だとすると相当に不気味な話で、異説側の情緒的な支えになってきた。ただ、位牌の不在や奉幣の記録の欠落には、もっと単純な説明も十分に成り立つ。光仁天皇以降の皇統が天智系に戻ったことによる、系譜上の整理。恨みや隠蔽まで読み込まなくても、話は通る。でも「読み込みたくなる」のは確かだ。
天武年少説――逆方向からの異論
ここまでと真逆の説も紹介しておきたい。天武は天智より年上どころか、むしろ十歳以上年下の弟で、四十代前半で崩御したのではないか、という読みだ。
根拠は明快で、しかも痛いところを突く。天武は兄の娘を、大田皇女、鵜野讃良皇女、大江皇女、新田部皇女と四人も娶っている。
鵜野讃良は六四五年生まれで、六五七年に十三歳で大海人に嫁いだとされる。通説の六三一年生まれなら、このとき大海人は二十七歳で、それはまだいい。
でも天智の末娘に近い新田部皇女まで妻にしていることを考えると、年齢差は二十歳以上になる。身分の高い皇女が、そこまで年の離れた男に次々と嫁がされるものなのか。まして六十五歳説や七十三歳説を採れば、この年齢差はさらに開いて非現実的になる。
もう一点、天武の最初の子とされる大伯皇女が生まれたのは六六一年だ。通説の生年でも三十一歳、六十五歳説なら三十九歳で、皇族の第一子としては明らかに遅い。額田王との間に生まれた十市皇女がいるから話は単純じゃないけど、それでも遅い。
もう一つ、『万葉集』の読み方の問題がある。蒲生野のあの掛け合いを、四十代になろうとする男女の宴席の余興と読むのか。それより、二十代の若い二人のやりとりと読んだほうが自然じゃないか、という感覚だ。史料操作としては弱いが、読み手の実感としては無視しにくい。
この説にも決定的な弱点がある。『日本書紀』『万葉集』『懐風藻』のどれもが、大海人を一貫して「皇弟」と呼んでいることだ。年齢がどうであれ、当時の人々の認識としては弟だった。ここを崩す材料が、やはりない。
状況証拠と呼ばれてきたもの
異説側が繰り返し挙げてきた傍証を、まとめて検分しておきたい。数字以外の部分で、何が引っかかるとされてきたのか。
第一に、天智が実の弟に娘を四人も与えていることの不自然さ。実の兄弟ならここまでする必要がない、政略結婚として過剰だ、という主張だ。ただ、この時代の皇族内婚は極端に濃密なんだ。
天武の子の草壁は、天智の娘の阿閉皇女と結婚している。大津は山辺皇女を娶り、天智の子の川島皇子は天武の娘の泊瀬部皇女と結婚している。天智系と天武系は、幾重にも縫い合わされていた。四人という数字だけを取り出して異常と言うのは、この時代の常態を見誤っている公算が大きい。
第二に、大海人の『日本書紀』での登場が異常に遅いこと。初めて姿を現すのは、孝徳紀の白雉四年、六五三年の記事だ。中大兄が孝徳天皇の許しを得ないまま、皇極上皇と間人皇后を奉じて飛鳥へ引き上げた。そのとき従った「皇弟」がそれだ。
母や姉と並んで兄に従っただけの、ほとんど無力な描かれ方をしている。通説の年齢なら二十三歳で、壮年の皇族としては存在感が薄すぎる、というのが異説側の指摘だ。ただ、『日本書紀』では天皇でも立太子か即位より前に登場することはあまりない、という反論もある。
第三に、称号の問題がいちばん面白い。『日本書紀』での大海人の呼ばれ方は、時期によってはっきり変わるんだ。
白雉四年から白雉五年までは「皇弟」で、天智三年から天智八年までは「大皇弟」だ。天智八年十月からは「東宮大皇弟」になり、天智十年一月には一度だけ「東宮太皇弟」という表記が現れ、以後は「東宮」だけになる。
問題は「大皇弟」で、単なる皇弟じゃなく大の字が付く。天皇の弟という以上の何かを含意しているように見える。ここに引っかかった論者は多く、退位した天皇の弟を指すのだ、天子の弟を指すのだ、などという読みがいくつも提出されてきた。
天智三年、六六四年二月九日の記事が、これまた変だ。「天皇、大皇弟に命じて、冠位の階名を増換し、及び氏上・民部・家部等の事を宣らしむ」。ここで大皇弟は、二十六階の冠位を宣言する役を務めている。
でもこのとき天智はまだ即位していない。称制の身なのに、それを「天皇」と書いている。この記事だけ、時制も称号も浮いているんだ。
天智十年、六七一年一月六日の記事もある。「東宮太皇弟、宣を奉りて、冠位・法度の事を施行す」。そのすぐ後に「或本に云はく、大友皇子命を宣す」という割注が入る。
同じ一つの行為について、大海人がやったという本文と、大友皇子がやったという別伝が並べて書かれているわけだ。編者はどちらか一方に決めなかった。あるいは、決められなかった。ここには、後継者をめぐる二つの記憶がそのまま化石になって残る。
第四に、立太子記事の不在。天武紀は「天智元年に東宮に立った」と明記するのに、天智紀にはその記事がない。しかも天智七年に立太子したはずなのに、天智八年五月まで「大皇弟」と書かれ続ける。「東宮」の語が現れるのは、同年十月の鎌足見舞いの記事からだ。天智紀は、天武紀の立太子記事を無視しているように見える。
今の学界は、大海人を皇太弟として記述する部分は編者による文飾で、冊立の事実は確認できない、と見ている。こうして並べると、確かに変ではある。ただ、これらの変さが指しているのは「天武が天智の弟ではなかった」ことじゃない。「大海人と大友のどちらが後継者だったのかについて、編纂の時点で複数の記憶が争っていた」ことのほうだろう。それが穏当な読み方だと思う。
飛鳥という時代の決まりごとを知らないと、この話は読めない
年齢だけ見ていてもこの問題は解けないから、ここで一度、時代の枠組みを押さえておきたい。最初は即位年齢の問題で、この時代には、おおむね四十歳前後で即位するという通念があったらしい。舒明は三十七歳、皇極は四十九歳、孝徳は五十歳で即位している。
中大兄は乙巳の変の後すぐには即位せず、孝徳、斉明と二代を挟んだ。六六八年、四十三歳でようやく即位した。この遅さも、たいていこの通念で説明される。天武の即位は六七三年二月二十七日で、通説の生年なら四十三歳、六十五歳説なら五十二歳になる。
次は称制という制度だ。斉明天皇が六六一年に筑紫で崩御したあと、中大兄は即位せずに七年間政務を執った。これを称制といい、正式な天皇ではないが、実質的に天皇の仕事をする。
この期間があるせいで、天智紀の年号と実際の即位年がずれ、記事の年次がひどく読みにくくなっている。先ほどの「天皇、大皇弟に命じて」の記事が浮いて見えるのも、この称制期間に起きた出来事だからだ。ややこしい話だけどね。
殯もそうで、天皇が死んでから埋葬されるまで、遺体を仮の宮に安置して長期間の儀式を続ける習慣があった。天武の殯は異例に長く、六八六年九月の崩御から六八八年十一月の埋葬まで二年以上続いている。
その間に大津皇子が消され、草壁皇子が皇太子として固められ、皇后が実権を握った。殯の期間は、単なる喪の期間じゃなく、次の権力を決める政治の期間だった。
系譜編纂そのものの制度も見ておく。天武は壬申の乱から九年後の六八一年三月に、国史編纂を命じている。完成は七二〇年で、天武の子である舎人親王が統括した。
『日本書紀』は、勝った側が、勝った側の子孫の手で、自分たちの正統性を書いた本なんだ。天武の系譜記述をそのまま信じていいのか、という疑問は、そこから当然に出てくる。出てくるのだが、では代わりに何を信じるのかという問いに、誰も答えられていない。それが五十年の膠着の正体だ。
なぜこの説はこれほど広まったのか
学界がほぼ相手にしていないこの異説が、これほど根強く生き残っている理由を考えたい。理由は一つじゃない。
第一に、数字が単純で強い。六二二と六二六、たった四年。これだけだ。
専門知識がいらず、誰でも指を折って確かめられる。歴史の異説がヒットするための条件を、完璧に満たしているわけだ。
第二に、正史が沈黙していること自体が、想像力の燃料。書かれていないことは、いくらでも埋められるし、埋めた内容を否定する材料もない。
漢皇子という、名前だけあって中身のない人物が『日本書紀』に一箇所だけ置かれているのも、致命的に効いた。空白の器がそこにあって、行き場のない天武という中身がすぐ隣にある。重ねたくなるのが人情だよね。
第三に、この説には「隠蔽されていた真実」という物語構造がある。国家が編んだ正史が嘘をつき、五百年後に地方の系図がぽろりと本当のことを漏らす。これは面白い。面白すぎる。人は情報を、正しいかどうかより、物語として噛み合うかどうかで評価してしまう。
第四に、学界側の対応のまずさがある。六十五を五十六の誤写とする処理は、根拠を欠いたまま数十年通用した。異説側が「都合が悪くなると書紀のほうを書き換える」と批判したのは、この件に関する限り正しかった。
専門家が一度でも手つきを見せると、以後の反論は全部その手つきの記憶と一緒に読まれる。信用というのはそういうふうに減るんだ。第五に、天武という人物そのものが、そもそも異物として書かれている点で、これは次に見る。
天武という人物の、消せない異物感
年齢を抜きにしても、この天皇はどこか浮いている。和風諡号は天渟中原瀛真人天皇。瀛というのは東の海に浮かぶ神仙の島で、蓬莱、方丈と並ぶ三神山のひとつだ。真人は道教で仙人の上位に置かれる存在を指す。
この諡号は、まるごと道教の語彙でできているわけだ。日本を東瀛と呼ぶこともある。それにしても、神仙の島に住む最高位の仙人という自己規定は強烈だ。
六八四年、天武十三年十月一日、彼は八色の姓を定める。上から真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置で、最上位に置かれたのが真人だった。
自分の諡号と同じ語を、氏族制度の頂点に据えたわけだ。同日、守山公、路公、高橋公、三国公、当麻公など十三氏に真人の姓が与えられている。いずれも天皇の後裔でありながら、本流からは遠い氏族だった。
『日本書紀』は彼が天文と遁甲をよくしたと書き、実際に使わせてもいる。壬申の乱の最中、六七二年六月二十四日、伊賀の横河にさしかかったところで黒雲が現れて天を覆った。天皇はこれを怪しみ、式を執って占い、これは天下が二分される兆しである、しかし最後には自分が天下を取るだろう、と言った。
式盤を自分の手で操作して天象を読み解くのは相当に高度な技能で、貴族の教養として片付けられるものじゃない。六七五年一月五日、彼は日本で最初の占星台を建て、六七六年には陰陽寮という官庁を設置した。占いという技術を国家の管理下に置いたんだ。
政権転覆に占いが使えることを、彼は自分の身をもって証明していた。だから、自分以外の誰にも使わせないようにした。この動機は、すごくわかりやすい。
陵もそうで、天武と持統が眠る檜隈大内陵は八角墳。八角形というのは東西南北に北東、北西、南東、南西を加えた八紘、つまり天下すべての方角を意味する。これも道教的な方角観だとされる。
仏教も神道も国家的に整備した人が、自分の名前と、身分制度の頂点と、占術官庁と、墓の形については道教で固めている。この一貫性は、偶然とは思えない。彼の思想の芯にあったのは、たぶん道教だ。
その道教的な色合いの濃さが、彼を「日本の外から来たのではないか」という想像に結びつけてきた。この連想自体は根拠として弱い。でも読者を掴む力は、異様に強い。
位牌のない仏壇と、消えた王統
天武の血統がその後どうなったかも見ておきたい。ここに、この論争が今も終わらない理由の一つがある。
天武の後、皇位は持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳と天武系で続く。ところが七七〇年に称徳天皇が急死すると、皇位は光仁天皇に移る。光仁は天智の孫で、即位のとき六十二歳。
ここで皇統は天智系に戻り、以後、天武系の人間は一人も皇位に就かなかった。天武が壬申の乱で滅ぼした側の血が、百年かけて戻ってきて、天武の血を絶やした。歴史というのは時々こういう露骨な形をとる。
先ほど触れた、泉涌寺霊明殿に天武系の位牌がないという話もある。平安期以降、天武系の天皇陵に奉幣が行われた記録が見当たらない、という話もそうだ。事実関係の評価には慎重であるべきだ。
桓武天皇は平城京を捨てて、山背の地に都を移した。これについて、天武系の色を洗い流すためだったのではないか、という読みが繰り返し出てくる。その読みが絶えないのは、この構図があるからだ。
天武という人物の仕事を並べてみる。日本という国号を確立し、天皇という称号を制度化した。律令の編纂を始め、国史の編纂を命じ、藤原京の造営に着手した。今の我々が「古代日本」として認識しているものの骨格は、ほぼ全部この人の手によるものだ。
それなのに、生年も享年もわからない。実の兄弟かどうかを疑われ続けている。血統は絶えた。位牌もない。
国のかたちを作った人物の輪郭が、いちばんぼやけている。この非対称が、たぶんこの話の中心にある。
結局のところ、どう考えるのが妥当か
正直に書くと、天武が天智の弟ではなかった、と断定できる材料はどこにもない。年齢矛盾は、坂本太郎が言うとおり、異なる史料から都合のいい数字だけを抜き出して並べたときにだけ発生する。同じ本の中では逆転しない。
中世の数字は出所不明で、敏達と崇峻の例が示すように、編者ごとにいくらでも動く。漢皇子と天武を結ぶ直接の証拠はゼロ。同時代のすべての史料が、大海人を「皇弟」と呼んでいる。だから学問的には異説は成り立たない、というのが結論だ。
ただ同時に、通説のほうも何も証明できていない。天武の生年は不明のままで、五十六歳説という応急処置は撤回された。『日本書紀』が同母弟と書いているから同母弟である、という以上のことは言えない。その『日本書紀』は、天武の命令で、天武の子が作った本だ。
我々は、当事者が自分で書かせた文書を根拠に、当事者の出自を確認しているわけだ。この循環から出る道が、今のところ一本もない。これが、この問題の本当の姿だと思う。
異説が正しいのでも、通説が強いわけでもない。ただ、確かめる手段がないだけだ。確かめる手段がないところに、人は必ず物語を建てる。五十年前に佐々克明が投げた石は、たぶんこれからも水面を揺らし続ける。
改めてこの問題を頭から並べ直すと、いちばん奇妙なのは、論争の焦点がずっと「天武は誰だったのか」に置かれてきたことだ。本当に問うべきだったのは、たぶん別のことだった。なぜ『日本書紀』は天武の年齢を書かなかったのか、じゃない。なぜ欽明天皇より後の天皇の年齢を、まとめて書かなくなったのか、のほうだ。
数字を見ればわかるとおり、宣化天皇以前の二十八人のうち、年齢が不明なのは八人だけ。欽明以降の十一人では九人が不明で、時代が新しくなるほど情報が減っている。
神代の天皇には百何十歳という数字が堂々と書いてあり、実在が疑いようのない飛鳥の天皇には何も書いていない。これは記録が失われたんじゃなくて、記録の方針が変わったと考えるほうが自然だ。
推測を承知で言えば、古い時代の天皇の年齢は、暦の体系の中で計算して作り出された数字だった公算が大きい。神武以下の長大な寿命は、王朝の始まりを一定の年代に置くための逆算の産物で、作った数字だから書ける。
ところが欽明以降になると、実在の人物の実際の記憶が残っている。作った数字を書けば、生きている誰かが「違う」と言うから、書けなくなった。あるいは、書ける確かな数字が朝廷の手元になかった。
だとすると、天武の年齢が書かれていないことは、隠蔽じゃなく単なる制度上の欠落になって、特別扱いする理由がなくなる。この読みはつまらないけど、たぶん正しい。歴史の謎の八割くらいは、たぶんこの手のつまらない答えで説明がついてしまう。
もう一つ、この五十年の論争が示したのは、史料の扱い方をめぐる根深い問題のほうだった。並べてみると、よくわかる。異説側の論法は、複数の史料から自分の結論に合う数字だけを取り出して並べる、というものだった。学界側の処理は、中世史料の数字を一文字書き換えて矛盾を消す、というものだった。
方向は逆だが、やっていることは同じだ。どちらも、先に結論があって、後から史料を裁断している。これは古代史に限った話じゃない。
手元に不完全なデータが二系統あって、両者が食い違うとき、人は必ず自分の期待に近いほうを「信頼できる史料」と呼ぶ。期待から遠いほうは「後世の付会」と呼ぶ。呼び名を変えるだけで、証拠を捨てているという自覚が消える。この論争がここまで長引いた理由の半分は、たぶんそこにある。
もう半分は空白の魅力で、漢皇子という人物について、我々が知っていることは名前だけだ。母は後に二度天皇になり、異父弟は乙巳の変を起こして即位し、その一族が国の中心にいた。それなのに、この長男は名前を記されたきり、二度と現れない。死んだのか、出家したのか、他家に出されたのか、何も書かれていない。
こういう空白は放っておかれず、必ず誰かが埋めにくる。天武の出自を疑う人は、漢皇子を天武にした。蘇我氏に関心のある人は漢皇子を入鹿にし、渡来系の文脈で読む人は父の高向王を遣唐使にした。
同じ空白に、まったく違うものが次々と流し込まれている。流し込まれたものは、空白だからこそ、どれも否定できない。
歴史の記録というのは、書かれたことより、書かれなかったことのほうが強い引力を持つ。この事件はその見本みたいなものだと思う。天武は膨大な事績を残した。壬申の乱の一か月は、異様に細かく記録されている。
八色の姓の日付も、占星台を建てた日も、陰陽寮を置いた年もわかっている。それでも、生まれた年だけがない。数千行の記録の中に空いた一行の穴が、その数千行より大きな影を落としている。
白髪の話に戻りたい。一二三五年三月、盗賊が檜隈大内陵に入り、天武の棺を暴いて遺体を引きずり出した。役人が入ったとき、石室の中に散らばっていたのは骨と白い髪。藤原定家はこれを聞いて、聞くたびに哀しみが増す、と日記に書いた。持統の骨は、銀の壺だけが目当てだったので、外に放り出されていた。
天武が何歳で死んだのかを、我々は永久に知ることができない。でも、彼が白髪になるまで生きたことだけは、五百五十年後の盗掘によって確定した。四十三歳だったのか、五十六歳だったのか、六十五歳だったのか、七十三歳だったのか。それは決まらないまま、白髪だけが残っている。
古代史の面白さと救いのなさは、たぶんそういうところにある。国のかたちを決めた男について、確実にわかっていることが、暴かれた墓に散っていた髪の色だけなんだ。
