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皇子の死は頼豪の七年前だった――三井寺の戒壇悲願と、鼠になった怨霊が比叡山を食い破るまで

ねずみの宮は北を向いている

三井寺の観音堂へ上る石段の脇に、小さな社がある。社の名は十八明神社。参拝者は「ねずみの宮さん」と呼ぶらしい。社殿は北の比叡山のほうを向いて建ち、それは鼠の霊を祀るからだとも伝える、と寺の公式な案内にある。

寺の説明はこうだ。白河院の時代に、頼豪阿闍梨という三井寺の高僧が、皇子の誕生を祈ったことから話は始まる。祈りは叶い、褒美として戒壇道場の建立が許されたのに、比叡山が強訴をして、勅許は取り消されてしまった。

怒った頼豪は二十一日のあいだ護摩を焚き、壇上で果てる。その強い念が八万四千の鼠になって山へ押し寄せ、堂塔も仏像も経巻も喰い荒らす。寺はこれを『太平記』が伝える話として紹介している。

社そのものは、円珍が875年に建てたと伝わる。いまの建物は1836年の再建で、足もとには琵琶湖疏水が通っているという。寺の案内は、本来は伽藍を守る神を祀る社であって、ねずみの宮はあくまで通称だと断っている。

ただ、この話は年表を横に置くと、頭から合わない。まあ、順に見ていこう。

「綸言汗のごとし」と頼豪は言った

いちばん知られた形は、『平家物語』巻三の頼豪の段だ。白河院は中宮賢子との間に皇子がほしくて、霊験あらたかと評判の三井寺の僧、頼豪を呼び寄せた。「願いが叶えば褒美は望みしだい」と約束する。

平家は賢子を京極大殿、藤原師実の娘と書くが、注釈によれば、実の父は源顕房で、師実の猶子だった。頼豪は「やすう候」と答えた。三井寺へ帰ると、百日のあいだ心を砕いて祈りつづける。

中宮はほどなく身ごもり、平家の本文によれば承保元年十二月十六日に皇子が無事に生まれた。院は大いに喜び、望みを尋ねる。頼豪が願ったのは、三井寺に戒壇を建てること。

院は「僧正くらいを言い出すかと思っていた、思いの外の望みだ」と言った。許せば山門が怒って世が乱れ、両門が合戦に及び、ついには天台の仏法そのものが滅びてしまう。そう述べて、願いを退けた。

頼豪は「口惜しい」と三井寺へ帰り、食を断って死のうとし、驚いた院は、師弟の縁がある大江匡房を遣わした。匡房がわざわざ訪ねても、頼豪は護摩の煙でくすぶる持仏堂に閉じこもったまま、会おうとしない。声だけが返ってきた。

「天子の言葉は汗と同じで、一度出れば戻らぬと聞く。この望みが叶わぬなら、わが祈り出した皇子を取り返し、魔道へ連れて行く」。平家の本文を現代の言葉に直すと、そうなる。

頼豪はまもなく餓死した。やがて皇子は病みつき、白髪の老僧が錫杖を持って枕元に立つ姿を、人々は夢にも現にも見るようになる。皇子は四歳で亡くなった。名は敦文親王。

白河院は今度は延暦寺の座主に次の皇子の祈りを命じ、のちの堀河天皇が生まれた。話はそこで終わる。念のため言っておくと、ここまで鼠は一匹も出てこない。

平家はこの段を、中宮徳子の御産の話の流れに置く。締めの一文は「怨霊は昔もおそろしき事なり」。今度の御産で大赦が行われたのに、俊寛僧都ひとりだけが赦免されなかった、と続く。

筆者の見立てを書く。この段の役目は、頼豪の祟りそのものより、怨霊の恐ろしさを聞き手に思い出させることにあった。俊寛の話へ橋を架ける役、とも読める。

皇子は七年も先に死んでいた

この筋には、致命的な食い違いがある。皇子の死のほうが、頼豪の死より前なのだ。年を並べて確かめてみる。

賢子が中宮に立てられたのは承保元年の六月。皇子は同じ年の暮れに生まれ、翌年に親王宣下を受けた。嫡子として、周囲の期待を集めた子。

敦文親王は承保4年九月六日、当時はやっていた痘瘡にかかって、わずか四歳で亡くなった。人名辞典などはそう書く。西暦では1077年。

頼豪が亡くなったのは応徳元年、1084年だ。親王の死から七年あとになる。呪い殺すも何も、頼豪はまだ生きていた。母の賢子も同じ1084年に、二十八歳の若さで世を去っている。

平家の筋なら、頼豪の餓死は皇子の死の少し前、つまり1070年代なかばの出来事でなければならない。注釈によれば、匡房が美作守だったのは1074年から1080年までで、この肩書きの使者が1084年の頼豪を訪ねることはない。話が合わない。

月日は出どころで割れる。人名の事典類は十一月四日と書き、立命館大学の資料サイトが引く奇談の辞典は五月四日と書く。生年も1002年と1004年に分かれる。決め手がないので、年だけを採る。

平家は皇子の没日を「承暦元年八月六日」と書く。しかし承暦に改元されたのは承保4年の十一月十七日で、八月六日はまだ承保の年内にあたる。注釈も「正確には承保4年」と正している。

誕生日も合わない。平家は十二月十六日とするが、人名辞典は十二月二十六日。十日の差がある。細かい話だけど、物語の数字は当てにしないほうがいい。

辞典類は、頼豪の没後に親王が亡くなるという筋を、年代の上で史実と合わない虚構だと指摘する。年表を引けば済む話だ。ここからが本題で、嘘とわかったあとに、その嘘の事情が見えてくる。

承保二年の二月、山と寺は何をしていたか

頼豪の戒壇の願いまで、作り話だったわけじゃない。背景には、三井寺と比叡山の長い対立がある。年表で追えるぶんだけ追う。

三井寺の正式な名は長等山園城寺。天台宗寺門派の総本山で、寺の公式な年表によると、すべては993年に始まる。延暦寺で円珍の門下と円仁の門下が争い、円珍門下は比叡山を下って一斉に三井寺へ入った。以後、延暦寺を山門、三井寺を寺門と呼ぶ。同じ天台宗が、二つに割れたのだ。

戒壇とは、僧が正式に戒を受ける壇のこと。『平家物語』の注釈によれば、奈良時代に東大寺などの三か所に設けられ、比叡山の戒壇は823年に加わった。寺門の僧は、山の戒壇で受けることをしばしば山門に拒まれた。奈良の東大寺まで出向くしかない事態もある。自前の戒壇は、寺門にとって長年の悲願だった。

両派は理屈も戦わせた。ウィキペディアの「山門寺門の争い」の項によると、寺門は山門を批判している。円仁は東大寺で小乗戒を受けたが、最初の大乗戒は義真が行ったのだから、正流は義真と円珍だ、と。

『太平記』は寺門の言い分をもう一つ引く。866年に園城寺は延暦寺の別院になったが、円珍は弟子に、南都の小乗の戒は受けず必ず大乗戒壇院で受けよと遺した。だから本寺と末寺の関係は歴然だ、というわけだ。

1039年に明尊が戒壇の設立を朝廷に願い出た。1041年、朝廷が諸宗に可否を尋ねると、反対したのは延暦寺だけ。それでも許可は下りなかった。

『太平記』には、このときの場面が残る。帝は決められず、告文を比叡山の根本中堂に納めた。七日目の夜、夢に延暦寺の慶命僧正が現れ、戒壇を許せば年来の祈りが怨みに変わってしまうと告げる。翌夜は弓矢を持った老翁が現れた。

老翁は赤山明神と名乗り、戒壇を奏上した者に矢を射ると言う。帝は夢に震え、寺門の望みを黙殺した。赤山禅院は、993年に円珍門下が襲った円仁門下の寺だ。

似た夢は『源平盛衰記』の頼豪の段にも出てくる。関白師実が「頼豪の怨みを宥める間だけでも、戒壇を許してはどうか」と帝に申し出る。ところが帝は、赤衣の老翁が鏑矢を爪よる夢を見て、許さなかった。

頼豪は、この流れの中にいた僧になる。三井寺の公式な連載は、頼豪が長吏の行円から法を受け、実相房と称したと書く。事典は、1037年に入壇伝法を受けたとも書く。戒壇の請願に動いたこと自体は、事実と見られている。

ただし、皇子誕生の褒美として願ったという筋立ては、事典に載るだけだ。同時代の記録で裏を取ることは、筆者にはできなかった。ここだけは、裏が取れない。

ウィキペディアの同じ項は、『一代要記』を引いてこう書く。このころ朝廷は園城寺の戒壇を許す方針に傾き、頼豪が白河天皇に働きかけた。これを知った山門が承保2年、1075年に寺門と争い、話はうやむやになる。

天台寺門宗の年表も、1075年の二月に「戒壇の事で両衆徒が抗争」と記す。皇子が生まれた翌年の二月に起きたのは、帝と僧の問答じゃない。僧同士の抗争だった。

さかのぼると、似た形がもうひとつある。1070年、天台座主の後任争いから寺門の戒壇運動が再燃したとき、寺門は後三条天皇の病を新羅明神の祟りだと主張した。『百錬抄』によるという。朝廷は新羅明神に奉幣したものの、そのかいもなく、後三条は1073年に亡くなった。寺の記録『寺門伝記補録』は、後三条の代の奏上が退けられて頼豪が憂え、帝が病で亡くなったと書く、と辞典は紹介する。

ここは筆者の見立てだ。戒壇を拒んだ天皇のそばで不幸が起き、それが寺門の祟りとして語られる型が、頼豪の話より前に一度できていた。頼豪の話は、その型が白河の代に移された姿に見える。

永保元年六月九日、三井寺は燃えた

1081年、永保元年に進む。皇子が亡くなって四年後。ここから数字が増えるので、落ち着いて読んでほしい。

この年の四月、日吉社の祭りで大津浜の者と山の法師が揉め、それが山門と寺門の抗争に広がった。六月九日、山門の僧徒数千人が園城寺を焼いた。『扶桑略記』が数えた被害は、御願の堂が15所、堂院79所、経蔵15所、塔3基、鐘楼6宇、神社4所、僧房621、舎宅1493。

山門は奪った品を船13艘と馬60頭に積んで引き上げたという。九月には寺門の僧兵が三百人余りで延暦寺を襲い、山門は堀を作って防いだ。朝廷が検非違使を遣わして寺門側の首謀者を罰すると、山門は数百人でふたたび園城寺を焼いた。

年表は九月十五日に「坊舎ことごとく灰燼に帰す」と記す。二十四日には、源義家らが園城寺側の僧徒を討ったともある。三井寺は、一年のうちに二度の炎上。

頼豪は、この間ずっと生きていた。亡くなる三年前の出来事になる。園城寺の金堂が再建されたのは1084年の四月と事典は書き、頼豪はその同じ年に世を去った。

これも筆者の見立てだ。皇子の死と頼豪の死が七年離れていても、その間に三井寺は二度焼かれ、戒壇の願いは1075年のうやむやのまま動かない。頼豪の死に山への恨みを読み込む材料は、それを聞く人々の側に、すでにそろっていた。

愚管抄の頼豪に鼠はいない

話がいつ、どんな形で文字になったかを追ってみる。私が本文を確かめられた早い例のひとつが、『愚管抄』だ。『愚管抄』は承久2年、1220年ごろの成立と事典は書く。作者の慈円は天台宗の僧で、天台座主を四度務めた。頼豪の死から百三十年余りあとの本になる。

慈円の書く頼豪は、平家とほぼ同じ骨組みだ。皇子の祈り、戒壇の願い、勅許なし、持仏堂へのこもり、匡房の訪問。匡房の目に映った頼豪は、目が深くくぼみ、顔の様子も分からないほどで、白髪が長く伸びていたという。

『源平盛衰記』になると、この姿が膨らむ。爪も切らず垢が積もり、匡房は天狗とかやもかくやと覚えて物恐ろしかった、と書く。足されるたびに、頼豪は怪物へ近づいていく。

勅許が下りなかった理由も違う。慈円は、山門の衆徒が訴えたからだと書く。平家は、院が山門の怒りを恐れて、自分の判断で願いを退けた形にしている。

結末も違う。頼豪が死ぬと、ほどなく皇子も三歳で亡くなる。鼠は一行も出てこない。延暦寺の座主に祈らせて堀河天皇が生まれた、と進む。平家は享年を四歳とするから、年齢もひとつ違う。

同じ巻の少し前には、村上天皇の時代の元方大納言の例も出てくる。慈円は、思い死にして悪霊となったのだろうか、と書く。頼豪も「今は思ひ死にこそ候なれ」と言う。同じ語だ。

筆者の見立てを書く。恨みを抱いて死んだ者が悪霊になるという型の中に、慈円は頼豪を置いた。鼠を足さなくても、話としては完結している。

結びも気になる。慈円は、この件は少しも飾らない事実だから、山法師には思い当たるところが深いだろう、と書く。山門の座主を務めた人が、山門の僧に向けて語っているわけだ。

書かれた時期にも目が向く。愚管抄の数年前、1214年の四月に山門は園城寺を焼き尽くした。年表によれば、翌1215年の三月には寺門の衆徒が延暦寺の東坂本を焼き、朝廷は張本人十二名を処刑している。

東坂本は、のちに鼠の祠の場所として語られる土地だ。偶然かもしれない。ただ、戒壇の争いが燃えるたびに、頼豪の話が語り直される下地はあった。

鉄の牙と石の身を足したのは太平記だった

鼠が書かれた本文で、私が確かめられた古い例は延慶本だ。1309年から10年にかけて根来寺で書写された本で、古い形を残すと国立公文書館は解説する。その延慶本の頼豪は、「山の支へにこそ、我が宿願は遂げざりしか」と言って大きな鼠になり、山の聖教を食い損じる。「この鼠を神として祝え」という議が出て、社を造って祀ったところ、暴れていた鼠はようやく静まった。

それが東坂本の「ねずみのほくら」だ、と延慶本は言い添える。「今も山には頼豪ねずみと申すなる」とも書く。鼠と社が、最初から一組で出てくるのだ。

『源平盛衰記』の鼠は、もっと厄介になる。堀河天皇が生まれると頼豪の死霊はさらに怖くなり、大鼠になって谷々坊々の聖教を食い散らす。打ち殺しても踏み殺しても増えるばかりで、ついに鼠の宝蔵を建てて神に祀った。

盛衰記の頼豪は、鼠になる前に長い抗弁もする。大乗円頓の器でありながら小乗の戒を受けねばならぬのが恨めしい、と訴えるのだ。戒壇を持てず、山門に受戒を拒まれてきた寺門の僧の悩みが、そのまま頼豪の言葉になっている。

『太平記』は、さらに盛る。巻十五で、頼豪の亡霊は「鉄の牙、石の身なる八万四千の鼠」となって比叡山に登り、仏像も経巻も噛み破る。防ぐ術がなく、頼豪を一社の神に崇めた。鉄鼠という名の元は、この牙と身体だ。

太平記の頼豪は、平家と違う点も多い。匡房は師弟の縁がある人でなく、頼豪の弟に当たる。皇子は母后の膝の上を離れないうちに亡くなる。頼豪は髪も剃らず爪も切らず、二十一日のうちに壇上で死ぬ。

三井寺の案内が二十一日と書くのも、太平記の筋と同じだ。寺が語る頼豪は、平家の頼豪より太平記の頼豪に近い。並べてみると、すぐ分かる。

鼠の話は、14世紀には歌の世界にも出てくる。元応元年、1319年の宴曲の集には「鼠神といははれ給ひて」という詞が見える。南北朝のころの連歌集『菟玖波集』にも、頼豪を踏まえた句が載っている。

なぜ太平記が、ここで頼豪を語るのか。巻十五の頭は、南北朝の戦のさなかだ。足利方が、山門に敵対する三井寺を味方につけようと、忠節を尽くせば戒壇の造営に武家も力を貸す、という御教書を出す。

太平記はそこへ頼豪の因縁と、戒壇のために園城寺が焼かれた回数を並べる。承暦のころから文保元年までに七度。ウィキペディアの「園城寺」の項は、全焼が七回、大規模なものが十回、小規模まで含めると五十回に上ると整理する。

数え方しだいで、七にも十にもなるわけだ。結びは、将軍の軽はずみを天魔のしわざ、仏法が滅ぶ因縁だと聞く人が非難した、というもの。戒壇が政治の取引に使われる場面で、山門の怖さを説く話として、頼豪の鼠は引かれていた。

筆者の見立てを足しておく。鼠のいない頼豪は、足されるたびに大きくなった。鉄の牙が付いたのは、戒壇の話を持ち出すたびに、山の怖さを盛る必要があったからかもしれない。

鼠の社を、山も寺も手放さなかった

では誰が、この話を残したのか。三井寺は十八明神社で、いまも頼豪を語る。山の側はどうだったかというと、日吉大社に「鼠社」がある。

日吉大社は、全国に三千八百余りある日吉、日枝、山王社の総本宮で、比叡山の地主神を祀る。鼠社は、その本殿から離れた飛び地の小さな祠だ。京都新聞の連載「ふるさと昔語り」によると、日吉大社の言い分は、頼豪を祀ったものじゃない、というものだった。

安土桃山時代に書かれた同社の『神道秘密記』は、頼豪の伝説を「非説なり」と退けて、十二支の子を祀る祠だと記す。山の側の否定は、古い。連載に登場した権禰宜は、こう話していた。鼠は穀物を食べるなど暮らしを荒らす「災いの元」だったので、頼豪の話と結びついたのではないか、と。

ご利益はネズミよけ。ただ、いまは手を合わせる人も少ない。例祭の山王祭は四月十二日から十五日までの四日間で、七基の御輿が出る。鼠社は、その御輿が巡る競争の終点になるそうだ。

「ほくら」の字は、宝蔵、秀倉、禿倉と本によって揺れる。延慶本は早くから、東坂本のほくらを頼豪の鼠の社として書いた。山の側がこれほどはっきり否定しても、祠は頼豪の鼠という名から最後まで逃げられなかった。

坂本には、猫を祀る宮もある。別の説では、鉄鼠は比叡山の高僧の法力で現れた大猫に退治され、猫の宮は園城寺のほうを睨んで建つ、という。ユネスコ無形文化遺産に登録された山形県の新庄まつりの公式サイトにも、頼豪伝説の風流が載る。高僧が大猫に変じて大鼠を食い殺す筋だ。

絵と物語の世界でも、頼豪は大事にされた。鳥山石燕は1776年刊の『画図百鬼夜行』に、頼豪の霊が鼠と化したと添え書きして鉄鼠を描いた。事典類は鉄鼠の名を石燕の命名と書くが、林羅山の『本朝神社考』に「鉄鼠」の字がある、と指摘する解説もある。

平賀源内の『そしり草』にも「一念鉄鼠となりて」と出る。1808年には曲亭馬琴が、読本『頼豪阿闍梨恠鼠伝』を出して、頼豪の鼠をもう一度世に出した。八巻九冊で、葛飾北斎が挿絵を描いたと三井寺の公式な連載は紹介する。

木曽義仲の遺児の義高が、頼豪から鼠を操る妖術を授かる、という大筋だ。かつて義仲が征夷大将軍になるために頼豪の祠へ願書を納めた縁で、頼豪は義高に力を貸す。祟る側だった怨霊が、願いを聞く側に回った。

筆者の見立ては、こうなる。この伝説は、役に立つ者が支え続けて残った。山には鼠を鎮めた証になり、寺には山の横暴を忘れさせない証になる。作家や絵師にとっては、ちょうどいい怪物。

許された戒壇は半月で取り上げられた

頼豪が望んだ戒壇は、結局どうなったのか。1257年、園城寺の僧たちは戒壇の建立を訴え、1258年には山徒が中止を強訴した。そして1259年の三月、寺門の衆徒は戒壇が許されないのを恨み、自分たちの唐院の経蔵に火をかけた。鼠が経巻を食い荒らす話の寺は、自分で経蔵を焼いたのだ。

1260年の一月、園城寺の三摩耶戒壇が勅許された。寺の側には、鶴岡八幡宮の別当を務めた隆弁がいて、執権の北条時頼と幕府の後ろ盾もあった。山門は日吉、祇園、北野の神輿を奉じて入京し、延暦寺以下の末寺末社をすべて閉門するストライキまで決行する。勅許は半月ほどで引っ込められた。幕府の力をもってしても戒壇は叶わなかった、と『吾妻鏡』を引く事典は書く。

1264年、寺門が勅許のないまま戒を授けると、山徒は園城寺を焼いた。この時、梵鐘が比叡山へ持ち去られている。弁慶の引き摺り鐘として知られ、いまは寺の霊鐘堂に安置されているものだ。鐘は1267年に戻された。

1319年の四月十八日、園城寺で戒壇と金堂の供養が行われた。七日後の二十五日、山徒はまた園城寺を焼く。花園院は日記に「これは法滅の期であろうか」と嘆いている。

寺はこれ以降、戒壇の建立を諦めたと、ウィキペディアの「園城寺」の項は書く。頼豪が望んだ戒壇が、朝廷の許しを得て建ったという記録は、筆者には見つけられなかった。

観音堂へ上る石段の脇で、社殿はいまも比叡山のほうを向いている。

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