小枝橋のたもとで、ラッパが鳴った
慶応4年1月3日の夕方、京都の南を走る鳥羽街道で、行列が足を止めていた。先頭にいたのは、旧幕府の大目付の滝川具挙と、その護衛についた京都見廻組だ。道の先には薩摩の兵。通せと言う側と通さぬと言う側が、小枝橋に近い赤池のあたりで、長いあいだにらみ合っていた。
滝川が持っていたのは、「討薩の表」という書面だった。薩摩の西郷隆盛や大久保利通らを引き渡せと朝廷に求める内容で、これを届けるために入京する、というのが旧幕府側の言い分だ。薩摩の斥候は、通行を認めない。京都へ問い合わせて返事が来るまで、いったん控えてくれ、という返答だった。
午前から、同じやりとりが繰り返された。見廻組はいったん小枝橋を渡って引き返したが、薩摩の小銃4隊と砲4門はその後を追って鴨川を越え、左岸に広がっていく。右岸の小枝橋の近くにも、1隊が身を潜めていた。旧幕府軍の先頭は、赤池のあたりで、戦う隊形でなく行軍の隊形のまま止まっていた。鳥羽街道の指揮官の竹中重固は伏見へ向かっていて、使者のはずの滝川が、実際の指揮を執っていたとみられる。
午後5時ごろ、滝川が最後の通告を出した。「最早や夕刻ともなるによって、強行して入京す」。薩摩の椎原小弥太は、「われわれは朝命を奉じ、この地を守るものゆえ臨機の応対を仕る」と返した。話し合いは、そこで行き止まりになった。
旧幕府軍が封鎖を押し切ろうと縦隊のまま動き出すと、椎原と山口仲吾は自陣へ走り、「手切れだ」と叫んだ。ラッパの音。それを合図に、薩摩の銃と砲が一斉に火を噴いた。
先頭の見廻組は、和装に甲冑や鎖帷子をつけ、刀と槍を持っていた。銃は持っていない。与頭の佐々木只三郎が叱咤して指揮を立て直し、前方の薩摩軍へ突撃をかけたが、薩摩軍の射撃の前に撃退された。その間に後ろの旧幕府軍が隊形を整え、歩兵第一連隊や桑名藩の砲兵が、次々と前へ出て撃ち始める。戦いは、ここから本物になる。
鳥羽の銃声は、伏見にも届いた。間もなく伏見の市街でも、戦闘が始まる。のちに戊辰戦争と呼ばれる内乱が、この夕方に幕を開けた。
念のため書いておくと、慶応4年1月3日は、新暦の1868年1月27日にあたる。戦いは6日、新暦の30日まで続く。戊辰戦争の初戦は、4日で決着。
3日の夜、鳥羽の旧幕府軍は下鳥羽まで下がり、陣を作る。そこには公卿の菊亭家の米蔵があり、幕府の築造兵が、積んであった米俵を使って陣地にした。夜戦を避けた薩摩と長州の兵は、深追いをせず、元の位置にとどまっている。
師走の江戸で、藩邸が焼かれた
そもそも慶喜は、このとき京都にいなかった。慶応3年10月14日に政権を朝廷へ返し、12月9日の王政復古の大号令で、幕府という仕組みそのものが廃された。新政府は慶喜に、官職を辞めて領地を差し出せと迫る。慶喜が二条城を出て大坂城へ退いたのは、12日の夕方から翌13日にかけてだ。
二条城を出る前の日、慶喜は諸隊長を集めて、勝手に動くなと厳しく言い渡している。「我らが生きてかくある間は、決して妄動すべきではないぞ」。旗本5000人余、会津兵3000人余、桑名兵1500人余には、城外へ出ることまで禁じた。
城内の空気は、すでに荒れていた。会津藩士の手代木勝任は、福井藩士の中根雪江らに「先んずれば人を制す」と詰め寄る。中根は「天皇の目前で戦の兆しをつくれば、朝敵も同然でござる」と説き、かろうじてなだめた。
火種は、江戸にあった。慶応3年12月25日の早朝、三田の薩摩藩邸が、庄内藩を中心とする幕府側の兵に取り囲まれる。賊の引き渡しを求めて断られた幕府側は、そのまま討ち入りに踏み切った。集まった兵は、庄内、上山、鯖江、岩槻などの藩を合わせて950人ほどだったという。戦いが始まって3時間ほどで、藩邸のあちこちから火の手が上がる。
幕府側が踏み切ったのには、理由があった。西郷隆盛の指示で、相楽総三ら浪士が数百人、藩邸に集められていたのだ。彼らは「御用盗」を名乗って、押し込みや放火、辻斬りをくり返し、庄内藩の屯所を銃撃したこともある。そのたびに、浪士たちは藩邸へ逃げ込んだ。辞典の言葉では、討幕派の挑発。
交渉に出た庄内藩士の安倍藤蔵が「もはや手切れでござる」と呼びかけたのが、討ち入りの合図になった。藩邸の留守居役、篠崎彦十郎ら数十人が戦死し、浪士の取締役だった益満休之助は捕らえられた。相楽らは、船で兵庫へ逃れる。知らせを受けた西郷は、渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』によると、「これで討幕の名分は立ち申した」と喜んだ。
西郷はすぐに土佐の谷干城を呼んだ。「遂に戦端は開かれましたぞ」。5月の約束どおり、乾退助を大将にして出兵してほしい、と頼んだという。5月の約束とは、薩摩と土佐が結んだ薩土討幕の密約のことだ。江戸で挑発を重ねた側が、乗ってきた相手を見て次の手を打ったわけだ。
焼き討ちの報せは、大坂城へ飛ぶ。滝川具挙らが12月28日に着いて事情を伝えると、城中の幕臣や会津、桑名の藩士たちの怒りが爆発した。冷静な声もあったらしい。こちらから兵を出せば相手の思うつぼだ、という意見で、薩摩を討つ熱気の前では、それも通らなかった。
皮肉な話がある。その同じ28日、辞官納地の条件がゆるめられ、慶喜の新政権入りが決まっていた。それでも、幕臣たちの怒りは収まらなかった。京都で進みかけた妥協の話を、江戸の火が押し流す。
大坂城の周りでは、すでに12月の中ごろから、旧幕府側が京坂の要地に兵を置いていた。西宮に小浜藩兵500、守口に伊勢亀山藩兵200余、河堀口に姫路藩兵200余。大坂城の外には14カ所の柵門が設けられ、十三川の渡し口や守口、枚方、山崎、八幡、淀が、幕府陸軍の兵で固められた。伏見には、幕府陸軍と新選組が置かれた。叛旗を翻す構えは、もうできている。
慶喜も、その熱気を抑えきれなかった。薩摩の奸臣の引き渡しを求める「討薩の表」に同意し、1月2日、旧幕府軍は大坂を発って京都へ北上する。本営は淀に置かれた。会津兵は船で淀川をさかのぼり、その日のうちに伏見へ上陸している。
海でも撃ち合いがあった。1月2日の夕刻、神戸沖を行く薩摩の船、平運丸が、幕府の軍艦から砲撃を受ける。ここを事実上の開戦と見る書き方もある。陸の戦いが始まる前に、大坂湾ではもう火蓋が切られていた。
15000対5000、数字だけを見れば
数字だけを見れば、勝負は決まっていた。旧幕府軍は約15000人、新政府軍は約5000人。旧幕府側の兵が、3倍もいる。ところが、戦いの結果は逆になった。
旧幕府軍の中身は、幕府の兵が5000、会津が3000、桑名が1500で、そこへ高松や大垣、浜田などの藩兵が加わる。新政府軍は、薩摩3000に長州1500とする書き方がある。事典によっては、4500とも4000とも書く。数え方ひとつで、500や1000は動く。
3日の現場に絞ると、数字はもう少し細かくなる。鳥羽方面は、新政府側が薩摩の小銃隊と砲に長州の1小隊を加えて約1000、旧幕府側が幕府の歩兵と桑名、松山の兵を合わせて約5000だ。伏見方面は、新政府側が薩摩の小銃隊と砲、長州の2中隊、あとから加わった土佐の4小隊で2000余、旧幕府側は約5000だった。ある辞典の記述では、そうなる。
3日に鳥羽街道を北上したのは、京都見廻組400人、幕府陸軍の歩兵第一連隊と第五連隊、伝習第一大隊、桑名藩の4個中隊だった。砲は、幕府側が6門、桑名藩が6門。会津と新選組は、伏見の市街へ向かう。
兵の数より、持っている物の差が大きかった。薩摩と長州は、ほとんどの兵が西洋式の銃を持っていたのに対し、旧幕府側で新式の銃を使えたのは、幕府陸軍の兵だけだった。薩長は、薩摩が藩内で作った国産の四斤山砲を、この戦いから多用していく。兵の数の差を埋めたのは、新しい銃と砲。
小枝橋の前の陣で、薩摩は凹の字の形に兵を置いていた。前へ出た旧幕府軍は、正面と左右から撃たれる形になる。そこへ長州の1小隊が駆けつけ、攻めかかる旧幕府軍の右の側面を撃ち、旧幕府軍は大損害を出して下鳥羽の方へ下がった。1000人いた幕府歩兵の第一連隊は、過半数が戦死したと伝わる。
戦いが終わるまでの戦死者は、旧幕府軍が約280、新政府軍が約110。概説書の多くが載せる、おおよその数字。3倍の兵を持った側のほうが、死者は2倍以上も多い。
奉行所が燃えた夜
伏見には、旧幕府側の拠点として伏見奉行所があった。そこに新選組が陣取り、隊士は150人前後と伝わる。隊長の近藤勇は、不在。12月18日に伏見街道で撃たれ、右肩に重傷を負って、大坂で療養していたからだ。指揮を執ったのは、副長の土方歳三だ。
会津の先鋒約200人も、2日の夕方に伏見へ上陸していた。陣にしたのは、寺の本堂だった。畳を楯にして鉄砲を撃ち合ったとも伝わる。
奉行所を見下ろす高台の御香宮に陣取ったのが、薩摩の砲兵だった。鳥羽の砲声が聞こえて間もなく、御香宮の東の高台に据えた大砲が火を噴き、奉行所へ砲弾が撃ち込まれる。土方は大砲で応じ、約1時間の砲撃戦を続けたあと、二番隊長の永倉新八に、決死隊を連れて斬り込むよう命じた。永倉以下18人は、土塀を乗り越えて薩摩の陣へ突っ込む。両側の民家から火が上がって、深追いはできなかったと伝わる。
砲撃は、やまなかった。やがて奉行所が燃え始め、新選組は陣を捨てて会津の隊と合流する。高瀬川の堤のあたりまで下がるしかなかった。刀と槍で挑んだ側が、銃と砲に押し返されたのだ。
奉行所の跡には、碑が立つ。御香宮は、いまも同じ場所にある。
3日の御所では、会議が割れていた
2日の午前、京都の朝議は、まだ慶喜の処遇を論じていた。そこへ幕兵が進軍してくるという報せが入る。大久保利通は岩倉具視に決断を迫り、薩摩と長州の兵は鳥羽と伏見に増やされた。その兵が翌日の夕方、小枝橋で旧幕府軍を迎える。
3日の京都では、新政府の緊急会議が開かれていた。大久保は、旧幕府軍に入京を許せば新政府が崩れる、いま要るのは錦旗と徳川征討の布告だ、と強く主張する。反対したのは、議定の松平春嶽だ。これは薩摩と旧幕府勢力の勝手な私闘で、政府は無関係だという立場だった。
会議は紛糾する。決着をつけたのは、議定になっていた岩倉具視だった。岩倉が徳川征討に賛成すると、会議の大勢は決まった。朝廷の戦か、薩摩の私闘か。その答えは、新政府の中でさえ割れていた。
明けて4日、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任じられた。のちの小松宮彰仁親王だ。親王は天皇から、錦旗と節刀を授かる。節刀とは、朝敵を討つ将軍に渡される刀だ。親王は薩摩と広島の藩兵を率い、東寺に本営を置いた。
この日から、同じ兵が官軍と賊軍に分かれた。薩摩と長州は官軍になり、旧幕府軍は賊軍と呼ばれる側に回る。それまで私闘と見て様子をうかがっていた諸藩が、旧幕府の劣勢を見て、新政府支持に傾いていく。旗1本で、戦場の意味が変わった。
土佐の山田隊や吉松隊も、4日に動いた。藩命を待たず、薩土の密約を守って参戦したと伝わる。旗が翻るより先に、薩摩のそばには土佐の兵が立っていた。
錦の布は山口で縫われた
その旗は、いつ誰が用意したのか。注文は、戦いの前の年、慶応3年10月6日にさかのぼる。薩摩の大久保利通と長州の品川弥二郎が、京都の北の岩倉村にある中御門経之の別邸で、岩倉具視から旗の調製を頼まれた。当時の岩倉は、蟄居の身で京都の北の村に暮らしていた。
図案を描いたのは、岩倉の腹心で国学者の玉松操。生地の手配は、大久保が受け持った。愛妾のおゆうは祇園の茶屋、一力の娘で、本名を杉浦勇という。その彼女を通じて、西陣で織らせた大和錦と紅白の緞子を調達する。秘密が漏れないよう、女物の帯の注文にしたという話も伝わる。
できた布は、半分が京都の薩摩藩邸で旗に仕立てられた。残る半分は、品川が長州へ持ち帰る。行き先は山口。旧藩庁のすぐそばにある、養蚕のための建物の1室が仕事場になった。
建物は竹垣で囲まれ、人の出入りは厳しく見張られた。作業のことを知っていたのは、品川のほか木戸孝允ら、藩の中枢のごく一部だけだったという。萩の有職師、岡吉春が作ったらしい。完成は、慶応3年の終わりだったという。
旗は、2本1組。赤地の錦に、金色の日像と銀色の月像をあしらう。当時を知る人の談話では、長さが1丈5尺、およそ4.5メートルあった。3枚を張り合わせた幅は、4尺5寸、1.35メートルほどだったらしい。完成した旗は別々の箱に納められ、萩の神官が祝詞をあげて「本物」に仕立てた、とその談話にはある。
この旗を、偽物と呼ぶ人もいる。錦旗は本来、朝廷が朝敵を討つ将軍に与えるものだ。討たれる側を討つ側が、自分たちで作ってしまった、という理屈になる。宮中に錦旗の実物の用意がなく、討幕の旗印がどうしても要ったので、自分たちで作るしかなかった、という説明もある。見方は割れる。
錦旗の初見は、承久3年、1221年にさかのぼる。後鳥羽上皇が城南宮の馬場で、流鏑馬にことよせて武将10人に与えた。小枝橋は、その城南宮の西にかかる橋だ。647年を置いて、同じ城南宮のそばで始まった戦いに、もう1度錦旗が出てくる。
千両松と、開かなかった淀の城門
4日の夕方までに、旧幕府軍は淀まで下がった。淀城を拠点にして、新政府軍の進撃を食い止めるつもりだった。その淀城が頼りにならないと分かるのは、翌日の夜だ。
5日の早朝、新政府軍は全軍を3手に分け、伏見街道、鳥羽街道、山崎街道の3つの道から、旧幕府軍の拠点の淀へ向けて進撃を始めた。旧幕府軍も、それぞれの方面に兵を出して迎え撃つ。鳥羽街道を南下する薩摩の隊は、富ノ森の近くで、旧幕府軍の大砲に一斉に撃たれた。
砲隊長の大山弥助が、抜刀して叫んだと伝わる。「砲を捨て、銃を取れ」。隊は砲弾の飛び交う中を富ノ森へ突っ込み、旧幕府軍は陣地を捨てて、納所まで下がった。大山弥助は、のちの大山巌だ。
錦の御旗が前線に翻った日は、書物によって、4日とも5日とも、6日とも書かれる。旗を見た旧幕府軍の士気は、大きくくじかれた。朝敵とみなされることへの恐れが、陣中に広がっていく。日付は割れるが、旗を見て旧幕府軍が崩れた、という筋は同じだ。
伏見から淀へ向かう道は、宇治川の堤の上を行く、細い1本道だ。右手は湿地で、左は宇治川。兵を広げる余地は、ない。ここが千両松だ。堤の下で待ち構えた新選組と会津の別選隊は、斬り込みで、長州の奇兵隊を一時は壊滅寸前まで追い込んだという。
薩摩の銃隊が駆けつけると、旧幕府軍は力尽きて下がる。薩摩の砲撃が降るなか、鉄砲の足りない旧幕府側は、抜刀して応じたと伝わる。のちにここは宇治川の流れが付け替えられ、淀競馬場ができた。「戊辰役両軍激戦地」の碑が、いまも立つ。
この堤で、新選組の井上源三郎が、腹に銃弾を受けて戦死した。40歳だった。試衛館以来の古参の隊士だ。11歳だった甥の泰助は、叔父の首と刀を持ち帰ろうとしたが、重くて運びきれず、途中で埋めたと伝わる。
敗れた旧幕府軍は、拠点の淀城に入ろうとした。ところが、城門は開かない。淀藩が入城を拒んだのだ。藩主の稲葉正邦は老中として江戸にいて、城には、留守を預かる家臣たちがいるだけだった。表向きの理由は、城主が不在で決められない、というもの。
旧幕府軍の負けぶりと錦の御旗を見て、留守の家臣たちは旧幕府を見限った、と解説書は書く。淀藩は、譜代の藩だった。最後の拠り所のはずの城が、味方を入れない。行き場を失った軍は、淀の小橋と大橋を焼いて追撃を止め、八幡と橋本へ下がった。
山崎の対岸から、味方の砲声
6日、旧幕府軍は橋本に布陣した。淀川をはさんだ対岸の山崎の関門には、旧幕府側として、津藩の兵約1000が、高浜の台場で守りについている。津藩は、藤堂家の藩。家康に「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」とまで言われた家柄だ。
その津藩は、すでに5日のうちに朝廷の側へ帰順していて、6日の昼ごろ、山崎の関門から対岸の旧幕府軍へ砲火を浴びせた。橋本の旧幕府軍は、横から撃たれて総崩れになった。別働隊に橋本の楠葉台場を攻められ、大坂へ向けて退いていく。この戦いで命を落とした一人に、見廻組の佐々木只三郎がいる。
旗は、歌にもなった。のちに東へ進んだ新政府軍が歌い、日本で初めての軍歌ともいわれる「宮さん宮さん」には、錦の御旗が登場する。「お馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな」と歌い出す。作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎という説はあるが、確証はないという。
開陽丸が見つからない夜
5日、大坂城の大広間で、慶喜が演説をした。千騎が一騎になるまで退くな、城が燃えても守る、江戸には自分の志を継ぐ忠臣がいる、という趣旨だったと伝わる。聞いた将兵の士気は上がったという。翌日の夜、その慶喜が城から消えた。
その5日の深夜、慶喜は会津藩の神保修理を呼び、善後策を尋ねたという。神保の答えは、速やかに江戸へ帰り、落ち着いて手を打つのがよい、というものだった。のちに慶喜は、その説を利用して江戸へ帰り、固く恭順謹慎しようと決めたが、誰にも打ち明けなかった、と話した。
連れていたのは、老中の板倉勝静と酒井忠惇、若年寄の永井尚志ら。会津の松平容保と桑名の松平定敬の兄弟も、出る直前に同行を命じられた。2人は固辞したが、許されなかったという。前線では、会津と桑名の兵が、まだ戦っていた。
一行は川船で、天保山沖へ出た。目当ての軍艦、開陽丸が、すぐには見つからない。近くにいたアメリカの軍艦イロコイ号に、いったん乗り込んだ。アメリカ公使が書いた乗船許可の書状を、慶喜は持っていたらしい。
開陽丸の艦長、榎本武揚は大坂城にいて、船にはいなかった。慶喜は副長の沢太郎左衛門に命じて、江戸へ向かわせる。船の上で、容保は慶喜に尋ねたと伝わる。あれほど戦えと言っておきながら、なぜ急に東へ帰るのか、と。慶喜は「あれは一種の方便だよ」と答えたという。
7日に慶喜の追討令が出され、10日には官位も剥奪される。慶喜が江戸城へ帰り着いたのは12日で、2月9日には、慶喜を追う軍が東へ向かうことが決まった。大坂城は、薩長が接収した。
なぜ逃げたのかは、見方が分かれる。慶喜は水戸の生まれで、禁門の変では、御所を守る軍を自ら率いて長州兵を退けた人でもある。朝敵になることを何より恐れた、と見る人がいる。会津の側は、慶喜のいつもの変節だと受け取った、と『会津戊辰戦史』にある。
新選組も、幕府の軍艦で江戸へ引き上げた。開戦のとき、大坂で新しく募った隊士を含めて、150人ほどだった。江戸で集まり直せたのは、40数人。ある集計では、戦死は重傷後の死を含めて22人にのぼる。
山崎烝は、重傷のまま船に乗り、江戸へ向かう途中で亡くなったと伝わる。隊士の吉村貫一郎は、敗戦のあと大坂の南部藩邸で帰藩を願ったが断られ、切腹したと伝わる。どちらも、江戸の土を踏めなかった。
余った布は額に入った
山口の旧藩庁に近い養蚕所の跡には、いまは石碑と案内板が立つ。山口市の観光案内は、旗の現物は確認されていない、と書く。手がかりは、製造のときに余った生地。額に収められた生地は、山口県立山口博物館に収蔵されている。
旗は、絵になって伝わる。明治21年、1888年のことだ。政府の依頼を受けた長州出身の絵師、浮田可成が、戊辰戦争で使われた錦旗と軍旗を17種34枚の絵図にした。4巻にまとまったのが、『戊辰所用錦旗及軍旗真図』だ。
製作の経緯は、品川弥二郎が岩倉の秘書だった山本復一へ宛てた書簡で、早くから知られていた。岩倉の伝記を編む山本の問いに、品川が文章で答えたもので、明治22年、1889年のものとみられる。その原本の所在は、長いあいだ分からなかった。
2023年12月、京都市の郷土史家が、ある目録の1行に目を留めた。京都府立京都学・歴彩館に寄託された資料の中で、「錦御旗」「品川弥二郎書状等」の文字が並んでいる。実物を閲覧すると、それは書簡の原本だった。研究者は、内容を裏付ける貴重な一次史料だと話している。書簡には、旗に使ったという赤い布地が添えられていた。
