奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

その古文書は、たった一人の男が江戸時代に書いていた――椿井文書、三十以上の自治体史に載り、史跡指定の根拠にまでなった日本最大級の偽文書

山の権利を調べていたら、あるはずの城が消えた

2003年の終わり頃の話から始めよう。大阪府枚方市の市史資料室に、ひとりの大学院生が非常勤職員として座っていた。馬部隆弘、当時27歳。専門は日本中世史で、仕事は市が預かっている古文書の整理と、市民からの問い合わせ対応だ。地味と言えばこれ以上なく地味な職場だ。

そこに、ひとつ依頼が来る。市内の津田山を里山として整備するので、展望台の説明板に「津田城」のことを書いてほしい、という話だった。津田城は地元では有名な中世の山城で、建物はもう無く、城跡と言われる場所だけが残っている。枚方を代表する城。

説明板に数行書くだけの、簡単な仕事のはずだった。ところが調べ始めると、どうも様子がおかしい。縄張図がまったく城らしくないのだ。津田城の話は江戸時代の中頃から急に出てくるのに、戦国時代まで遡れる文献は一本も見つからない。

掘っていくうちに、馬部はとんでもない結論に行き着いた。津田城なんて城は、最初から存在しなかったのだ。じゃあ、なぜそんな嘘が生まれたのか。江戸時代に、津田山の支配権を争って津田村と隣の穂谷村が延々とやり合っていたからだ。

「うちの村ゆかりの城があの山にあった」と言えれば、山は津田村のものだと主張できる。だから津田村の人たちは、城をひとつ創作した。話が面白くなるのはここからだ。対抗する穂谷村のほうにも、負けず劣らずの主張があった。

あの山のふもとには、古代に朝廷が氷を貯蔵した「氷室」があったのだ、と。だから津田山周辺の中心は津田村ではなく穂谷村なのだ、と。これも嘘だった。しかも穂谷村の主張を裏づける古文書を調べていくと、そこに聞き慣れない名前が出てくる。

椿井政隆。

「あれ、どこかで聞いた名前だな」。馬部はそう思い、念のため近くの村の史料をめくってみた。すると同じ匂いのする古文書が、次から次へと出てくる。隣の村からも、その隣からも、滋賀からも奈良からも京都からも出てくるのだ。

これが、日本最大級の偽文書と呼ばれることになる「椿井文書(つばいもんじょ)」との、最初の遭遇だった。まさか一人の男の仕業が、ここまで広がっているとは誰も思わない。本当の厄介さがわかるのは、まだずっと先のことになる。

ダンボール百五十箱の古文書が、水に沈んだ日

とはいえ、この時点の馬部に、椿井文書を一生の研究にする気はまだなかった。仕事としては「津田村も穂谷村も嘘をついていました」と報告すれば終わりだ。趣味で史料集をめくってはコピーを取る、その程度の付き合いのつもりだった。人生の転機は、まったく別の方向からやってくる。

2005年2月のこと。彼が所属する市史資料室が、市役所から新しくできる中央図書館へ移転することになった。移転先には古文書用の部屋を作ってもらう約束だったが、工事が間に合わない。それでも元の部屋は明け渡さなければならない。

仕方なく、市民から預かっていた古文書の入ったダンボールを、図書館の6階の空き部屋にいったん仮置きした。全部で150箱。市民の家々から借りている、この世に一点ずつしかないものばかりだ。

翌日、点検業者が地下で消火栓の水圧チェックを始めた。各階のバルブは全部閉めてある。閉まっているからこそ、地下の栓を開けると管に圧がかかる。理屈としてはそうなるはずだった。

ところが、30秒全開にしても水圧がかからない。業者も首をかしげ、もう一度やった。それでもかからない。合計およそ1分間、地下の栓が全開になり、何トンもの水がどこかへ消えた計算だ。

この図書館、公称は6階建てだった。でも構造上は7階、要は屋根裏部屋があり、当然そこにも消火栓がある。そのバルブだけが全開になっていた。水は7階のフロアに噴き出し、ビルの隙間を伝って、6階のある一室に集中的に流れ込んだ。

古文書を仮置きした部屋だ。馬部はそのとき市役所側で、翌日運ぶ荷物をまとめていた。そこに電話が入る。昨日運び込んだ部屋が、水浸しになりました。

結果的に、元興寺文化財研究所が凍結真空乾燥処理を行い、判読不能になった文書はゼロで食い止められた。でも後始末は途方もない。乾燥処理、所蔵者への説明と謝罪、そして返却。

馬部は「5年はかかる」と覚悟し、結局8年間、枚方に留まることになった。大学院生が非常勤で腰かけるつもりだった職場に、8年。その8年のあいだ、彼は水に濡れた古文書を一点ずつ扱いながら、かたわらで椿井文書を集め続けた。

人生を変える事故というのは、たぶんこういうものを言うんだと思う。彼はのちに「椿井文書と椿井政隆に対する私の愛情は、他のどのファンにも負けないはずである」と本に書くことになる。その愛情の始まりの場所は、何トンもの水をかぶった紙の山だった。

椿井政隆という、恐ろしく熱量の高い男

では、二百年ものあいだ近畿一円の歴史をひっかき回すことになった椿井政隆とは、どういう人物なのか。明和7年(1770)5月25日、山城国相楽郡椿井村に生まれた。いまの京都府木津川市山城町椿井だ。木津川の右岸、奈良と京都のちょうど境目あたりの村になる。

幼名は藤千代、市郎丸。成長して通称は右馬丞、のちに権之助(権之輔とも書く)となった。諱ははじめ政昌、のち政隆。号は南龍堂、懐英、応龍子、王順、南龍子広雄など、やたらと多い。この号の多さが、のちに研究者を混乱させる伏線になる。

家は椿井村の土豪、要するに地主で、食うには困らない。文政6年(1823)に出た人名録『續浪華郷友録』にも、ちゃんと名前が載っている。「南龍堂 椿井流兵学古実国学 有職及物産 名広雄 字慶龍 山城泉何辺上狛士 椿井権之輔」という調子だ。兵学、国学、有職故実、本草学に通じた在野の知識人、という自己紹介だ。

弓術の免許を発行した記録もある。三十代半ばまでは、膳所(いまの大津市)あたりで国学を学んでいたらしい。彼はまず、まっとうな国学者・考証家として世に出ようとしていた。ただ、馬部の評価は容赦がない。

歴史学者としての椿井政隆が書いた本は「どうしようもない本」だった。他人の本をほぼ丸写しして、少し付け加えた程度のものだったという。鳴かず飛ばずだった。三十代半ばを境に、彼は偽文書を作り始める。

最初の依頼主は、おそらくいまの滋賀県栗東市にある金勝寺だと馬部はみている。初期の椿井文書には、金勝寺を実際よりはるかに巨大な寺院として描こうとする意思がはっきり出ているからだ。学者としては誰も褒めてくれなかった男が、頼まれて偽物を作ってみたら、ことのほか喜ばれた。

ああ、こっちなら受け入れられるんだ。そう思ったんじゃないか、というのが馬部の見立てだ。金銭が目的だったとは考えにくい。地主だから暮らしには困っていないのだ。

馬部は繰り返し「受け入れられたい願望のほうだと思う」と語っている。「ジグソーパズルに熱中するように、歴史の隙間を埋めることをただ楽しんでいたように見える」とも言う。2025年3月に滋賀県湖南市で開かれた市民向け講演では、動機を「おもちゃのブロックで街を作る子どもの気持ちに近いのでは」と表現した。

レゴで町を作って、この家とこの家は友達で、ここには寺があって、と設定を足していく。あの感覚だ。ただ、彼の場合は使ったブロックが本物の紙と墨だった。作った町が近畿一円で、遊びに付き合わされたのが二百年分の日本人だった、というわけだ。

人物像の締めくくりにふさわしいエピソードがひとつある。彼が書いたとみられる『平群姓正嫡椿井家系図』には、文政2年(1819)6月11日、江州蒲生郡の麻生山で、長さ三十丈あまりの大蛇を斬り殺した、と書いてある。自分の系図に自分で大蛇退治を書き込む男。

しかも文化元年(1804)に大津でナウマンゾウの化石が出て、「龍の骨が出た」と騒ぎになったことがあった。そのとき彼は、骨の写生図の写しに「これは椿井の祖先が退治した龍である」と書き足している。蝦夷地の絵図にまで「かつて私が蝦夷を探検した折に」などと書く。絶対に行っていないのに。

ちなみに馬部は椿井政隆の墓を探して、山城町椿井まで出かけている。けれど本人の墓は見つけられていない。見つかったのは、明治25年に亡くなった子孫の墓と、そこに刻まれた「大正二年六月 遠族今井良政建之」という一行だった。この今井という名前が、あとで効いてくる。

一枚では作らない――外堀を全部埋めるという発明

椿井文書がそこらの偽系図と決定的に違うのは、作り方である。普通、偽文書は一枚だけ作る。うちの先祖は誰々から手紙をもらった、という一枚だ。でもそれは疑われたら終わりで、裏づけが何もない。

椿井政隆はそこを逆手に取った。彼のやり方はこうだ。まず、依頼のあった村や神社の周辺に住む富農の家の系図を、いくつか適当に作る。

次に、中世の合戦に参陣した人名をずらりと並べた「連名帳」を作る。そこに載せる名前と年代を、さっき作った系図とぴったり符合させるのがミソだ。系図と連名帳が、互いを裏づける形になる。

続いて、その村の寺社の縁起や、史跡の由緒書を作る。そこに登場する人物は、もちろん系図に載っている人物だ。最後に、それらの寺社と史跡と家々を、一枚の絵図の上にまとめて描き込む。

絵図を見れば、「この村にはこういう寺があって、こういう家があって、こういう歴史があった」というのが一望できるようになる。ここまででも相当しつこい。椿井の真骨頂は、その先にある。

彼は、いま作った寺を「興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)」という文書に登録するのだ。これは奈良の興福寺の末寺を、国ごとにリストアップした台帳という体裁の文書だ。大和・山城・河内・伊賀・摂津・近江にわたって、221もの寺社が並ぶ。

奥書には嘉吉元年(1441)とある。室町時代の、権威ある寺院台帳。これが、丸ごと椿井の偽作。

仕掛けの意味がわかるだろうか。滋賀のある村で「うちの寺は昔こんなに立派だった」と主張したいとする。その村の縁起書一本では、ただの自称だ。

ところが奈良の興福寺に伝わる室町時代の台帳をめくったら、同じ寺の名前が同じ規模で載っている。まったく無関係な、遠く離れた場所にある、別系統の史料が一致したわけだ。これはもう本物だろう、となる。

逆に、各地の史料と内容が一致することで、「興福寺官務牒疏」そのものの信憑性も上がっていく。互いが互いの保証人になる、閉じた円環だ。しかも椿井は、この円環を国をまたいで張り巡らせた。

山城と近江と河内と大和、四つも五つも国をまたいで史料が符合する。研究者のほうは自分の担当地域しか見ていないから、AとBが同じ人間の作品だなんて思いもしない。歴史学者の呉座勇一は書評で、専門家が騙された最大の要因はテクニックではなく「規模」だ、と的確に指摘している。

椿井の頭のなかでは、椿井家は興福寺の侍として畿内一円で活動した名家、ということになっていた。だから彼が手を出した土地には、ほぼ必ず興福寺の影が差す。馬部は、ここに一番わかりやすい判別法があると言う。

中世の興福寺は、大和国では守護のような存在だった。でも、さすがに滋賀や大阪にまで強い影響力を及ぼすはずがない。だから滋賀や大阪の文書なのに興福寺が出てきたら、まず疑う。

ついでに言えば、「牒疏」という史料名自体が他ではまず出てこない。馬部は「そういう名前を見ただけでむず痒くなりますね」と言っている。わかる人にはわかる、椿井の匂いってやつだ。

どこがどう偽物なのか、実物で確かめてみる

抽象的な話ばかりでも面白くないので、具体的にどこが偽物なのか、実例で見ていこう。ここが椿井文書の一番おいしいところだ。

まず、滋賀県湖南市の西応寺に伝わる「円満山少菩提寺四至封疆之絵図」。中世に栄えた山岳寺院・少菩提寺とその領域を描いた、なかなか壮麗な彩色絵図だ。絵図の上部には「明応元年壬子四月二十五日」と、制作年月日が書かれている。室町時代、1492年だ。

ところが、この日付は存在しない。明応という元号が始まるのは、その年の7月19日だからだ。4月25日の時点では、まだ前の元号の延徳4年。

要は、後の時代の人間が「1492年=明応元年」と年表を見て逆算した、としか説明のつかない書き方をしている。こういうのを「未来年号」と呼ぶ。椿井文書には、これが異様に多い。

同じ絵図には、もっと素朴な破綻もある。周辺の村々の名前が小判型の枠のなかに記されているのだが、この様式は江戸幕府が国絵図を作らせるときに指示したものだ。室町時代の絵図に出てくるはずがない。

次は、大阪大谷大学図書館が所蔵する書状を見てみよう。興福寺の前官務・順盛と官務・澄胤の連署書状で、「文明十二」(1480年)の日付がある。いかにも中世の書状然としたものだ。

まず、河内国の話なのに興福寺が出てくる時点で怪しい。おまけに椿井が力を入れていた「普賢寺」という集落名も入っている。ここまでで、ほぼ答えは出ている。

決定打は、むしろ古文書学の作法のほうにある。書状の文末が「謹言」で終わるときは、年号を書かずに月日だけを記す。逆に「如件(くだんのごとし)」で終わるときは年号が入る。これが中世の書状のルール。

ところがこの書状、「謹言」で終わっているのに堂々と「文明十二」と年号が入っている。書式を知らないわけではないはずなのに、そこを外しているのだ。

もうひとつ、花押の問題がある。花押は署名の代わりに書く一種のサインだが、これは本来、署名に重ねて書くものだ。判子を名前に重ねて捺すのと同じ理屈だ。

ところが椿井文書の花押は、署名とわずかに離れている。全部そうなのだ。馬部はここに二つの理由を見ている。

ひとつは、署名と花押が重なると完全に謀書謀判、いまで言う有印文書偽造になってしまうから。離れていれば「これはサインじゃありません」と言い逃れが立つ。もうひとつが、実に椿井らしい。

彼は花押をひとつひとつ、それなりの自負を持ってデザインしていた。署名に重ねたら、せっかくのデザインが欠けてしまう。しかも手元に残すこの原本をもとに、人に渡す「写し」を作るのだから、原本の花押が欠けていると写しづらい。要するに、作品として惜しかったわけだ。

「興福寺官務牒疏」そのものの化けの皮も、剥がすと薄い。この文書は嘉吉元年の奥書を持つのに、本文中の年紀が「年号―数字―干支―年」という順で書かれた箇所が多い。これは近世の書き方で、中世は「年号―数字―年―干支」だ。

研究者の沼田頼輔が整理したこの法則は、椿井文書を見抜く物差しとして何度も使われてきた。山城の普賢寺を説明するくだりでは、『日本書紀』の古い地名「筒城郷」をわざわざ使っている。平安時代の『和名抄』の時点で、すでに「綴喜郷」が成立しているのにだ。

古めかしければ古めかしいほどいいだろう、という発想が透けている。おまけに「交衆」「朱智荘」「息長」といった、他の史料にはまず出てこない言葉が並ぶ。これらはいわば椿井語。

馬部は、南山城の寺社縁起に「朱智」の二文字が入っていたら椿井文書とみて間違いない、とまで書いている。ここまで言い切れるのは、よほど見てきた人だけだろう。

現物の素性も怪しい。「興福寺官務牒疏」には写本が三つある。宮内庁書陵部本と東京国立博物館本は明治の写しで、原本と思われるのが興福寺本だ。

ところが興福寺の宝物館長によれば、この興福寺本は幕末頃に外部から献納されたもので、興福寺に伝来したものではないという。装丁や書風からも、江戸中期以前には遡らない。近畿一円の椿井文書を束ねていた「権威の総元締め」自体が、椿井が興福寺に納めさせた自作だった公算が大きい。

もっと直接的に、内容の改竄がバレている例もある。枚方市の三之宮神社に伝わる「穂谷三之宮大明神年表録」には、嘉禄二年(1226)三月二日の棟札の写しがある。相当古い時期の記録として、冒頭近くに置かれている。

ところが津田村の尊光寺に残る別系統の記録「当郷旧跡名勝誌」にも、内容がほぼ同じ棟札が出てくる。こちらでは「嘉吉二年(1442)三月二日」だ。願主の名前も、奉加した村の並びも、大工の名前まで一致する。

要するに、嘉吉二年の棟札を嘉禄二年に書き換えて、二百年ぶん古い位置にずらして置き直したわけだ。何のためかと言えば、穂谷村が大昔からこの神社と深く関わっていたことにするためだ。手口がいちいち細かい。

物としての作り込みも、なかなかの凝りようだ。中村直勝が戦前に記録したところによると、紙は煤で染めた間合紙で、書体は明朝体。表装は織子や安物の紅地の錦襴、木箱は切り口を墨で塗って古色をつけた桐箱や春慶塗だった。

年号は承平から元亀、天正あたりに集中する。署名は「興福寺公文所某」といった調子だ。絵図には必要もないほど細かい文字が書き込まれ、朱印の代わりに朱書きがしてある。

なぜ明朝体かというのが、また面白い。中村は「鎌倉時代の文書を明朝体で偽造すれば、たちどころに時代錯誤が発見されるはずなのに、あえて明朝体を採用しているのは何故か」と首をひねった。

そのうえで彼は、明朝体なら文字に巧拙が出にくいと考えた。いわば職人でも書ける字だから、大量生産に向いていたのではないかと推測している。馬部も、椿井が神社の縁起を作るときに一行あたり十二字から十五字程度の大ぶりな明朝体を好んで使ったことを指摘している。

極めつけはこれだ。枚方市のある家に伝わる偽文書では、虫食い穴が偽装されていた。線香を押しつけて穴を開けたのだ。

ただ、縁の部分にお焦げが残っていた。馬部は「お焦げくらいきれいに払っときゃいいのに」と呆れている。これが椿井本人の手によるものかは別として、当時の偽作現場の空気はよく伝わってくる。

筆跡も、同一人物の作と思われないよう、意識的に使い分けられていた。にもかかわらず、遊びの痕跡は堂々と残っている。ある家系図では、親子の名前が「俊春」「俊夏」「俊秋」と並んでいるのだ。

春夏秋。わかる人が見れば、ここで確実に噴き出す。正直、書いた本人もにやにやしていたんじゃないかと思う。

馬部は、これらの詰めの甘さは意図的なものだと考えている。法に触れる事態になったときに「戯れで作ったものです」と言い逃れできるように、あえて完璧にしていない。未来年号も、離れた花押も、季節の名前も、全部その保険だ。

二百年後に自分を追いかけてくる研究者のことまでは、さすがに計算していなかっただろうけれど。

焼いたのは信長ということにしておけ

椿井政隆が一人で異常だったのかというと、実はそうでもない。江戸後期という時代そのものが、偽文書を大量に必要としていた。ここを押さえておかないと、話の半分が見えなくなる。

江戸時代の庄屋クラスの家では、歴史は教養として学ぶものだった。というより、学ばないと仕事にならない。山や水の権利がどういう由来で自分の村のものになっているのか説明できなければ、庄屋は務まらないからだ。

そうやって歴史をそこそこ勉強してしまうと、今度は「わが家はこういう家だから庄屋をしているのだ」という記録を作りたくなる。人情として、ごく自然に。そこから一歩進んで、先祖が歴史上の有名人からもらった手紙っぽいものを自分で作る。

これが当たり前にやられていた。馬部によれば、河内で古文書を整理していると、楠木正成由来の系図だの何だのは「いくらでも出てくる」そうだ。ただ、それらは人に見せて自慢するためのものじゃない。あくまで内輪の遊びである。

もうひとつ、時代の共通言語のような定型がある。近畿地方の神社で「いまの社殿は新しいけれど、うちは本当は由緒ある古い神社なんです」と言いたいとき、鉄板の説明が用意されていた。

古い社殿は、織田信長に焼かれました。

これがまあ、使い勝手がいい。豊臣秀吉は大阪で人気があるから犯人にはできない。徳川家康は当時「神」なので、名前を勝手に使うと罪に問われる危険がある。

その点、信長なら織田家の本流は滅んでいるし、各地で暴れ回った印象もあるから、それっぽい話になる。みんな同じことを考える。結果として、近畿で信長に焼かれたことになっている神社の大半は嘘だ、と馬部は言い切っている。

信州なら武田氏のせいにすればいい。滅んでいる勢力は使いやすいわけだ。

椿井政隆の偽作も、この共通言語の上に乗っている。みんなが頭のなかで「こうだったらいいな」と思い描く、ありそうな歴史。それを実際に紙と墨で形にしてしまうかどうかだけが、彼と他の人間の違いだった。

もうひとつ、思想的な補助線がある。国学だ。馬部は「国学というのは妄想する学問なんですよ」と言い、そう言った直後にきちんと言い直している。過去の社会を理想とする学問なのだ、と。

江戸中期以降、享保の改革をはじめ、幕政改革が何度も行われる。改革が要るということは、世の中が乱れているということでもある。傾いた国を立て直すにはどうすればいいか。

律令によって整然と治まっていた古代こそが理想だ、その理想郷を復元的に描き出せ。国学はそう考える。だから国学者は、失われた過去を「復元」する。

本居宣長だって十九歳のときに、存在しない「端原氏」という一族の城下町の絵図を、細部まで作り込んで描いている。ちなみにこれは国の重要文化財だ。椿井より少し前の時代には、森幸安という男が平安京や大坂の膨大な絵図を考証して描いている。三百枚に及ぶという。

では宣長や森幸安と椿井政隆の間に、どこで線が引かれるのか。馬部の答えは明快だ。森幸安は、自分が描いたことを隠さない。椿井政隆は、架空の中世の人物が描いたことにしてしまう。そこだけが決定的に違う。

椿井の仕事には、もうひとつ近世の学問の文脈がある。儒学者の並河誠所が享保年間に編纂した地誌『五畿内志』だ。この本は、『延喜式』神名帳に載る式内社の所在地を徹底的に比定していった。

ただ、比定しきれないところは相当強引なこじつけもやっている。当時から「あれは危うい」という批判があった。椿井政隆は、その並河の弱点を埋める方向に働いた。

並河の説には、じつはこういう古文書の裏づけがあったのです。そういう形の史料を後から作って差し込むのが、彼の常套手段だ。並河の説が補強され、同時に、並河という権威に依拠した椿井文書の信憑性も上がる。

ここでもまた円環。京田辺の牛頭天王社が古代の「朱智神社」だったという話も、この文脈のなかで作られていった。

死後に爆発した――質流れした偽文書と、神職たちの行列

さて、ここまでが椿井政隆存命中の話だ。天保8年(1837)12月26日、彼は六十八歳で没する。

存命中の椿井の評判は、それほど良くなかったらしい。馬部は講演で、同時代の文書に「うさんくさい人物」という評が残っていると述べている。京や大坂の都市部には偽物を見破れる学者がいる。だから椿井は知識人の多い場所での活動を避け、郡部を回っていた節もある。

彼が生きているあいだは、被害はまだ局地的だった。椿井文書が近畿一円に爆発的に広がるのは、彼の死後である。

嫡子の椿井万次郎政福の代で、椿井家は零落した。明治7、8年頃には土地も家屋も家財も売り払い、その日暮らしになる。最後に残った大量の古文書を、長持二棹ぶん、木津の今井家に質入れした。

やがて椿井家は家族が次々に亡くなり、断絶する。質は流れ、明治20年(1887)を過ぎた頃、古文書は完全に今井家のものになった。ここで時代の風向きが、恐ろしく都合よく吹く。

明治4年頃から、政府は祭政一致を掲げて神職の人事権を握り、社格の制度を作った。無社格の神社を中心に統廃合を進める、神社合祀政策だ。各神社は、自分の社歴を証明しなければならなくなった。

でも、村の小さな神社に古記録などあるはずがない。このときの光景を、当事者の子として見ていた人物がいる。中村直勝だ。

明治23年、滋賀県内の宮司家に生まれ、のちに京都帝国大学で古文書学を担当する歴史学者だ。彼はこう書き残している。明治三十年前後、自分の小学校時代のことだ。

せいぜい小学校を出た程度の地方神職に、歴史の調査などできるはずがない。比較的上等だった父でさえ五里霧中だった。滋賀県下の神職たちは、寄ると触ると自分の神社の由緒調査について苦い話を交わしていた、と。

やがて噂が立つ。南山城の木津に行けば、どんな神社の縁起書でもある、と。中村の記述は、ここから妙に生々しくなる。

神職たちは弁当持ちで汽車に乗り、その家を訪ねた。応対する側は、何十櫃も古記録があるのですぐには在るとも無いとも言えない、調べて見つかったらお知らせします、と返す。神職はいったん帰る。

それから早くて二か月、遅くて六か月して、手紙が来る。お望みのものを幸いにして見つけ出しましたので、取りに来てください。うまい商売だよな、と思わず唸ってしまう。

隣村の日吉神社が社格を上げた。その向こうの天満宮も上がった。どうやって社歴がわかったのかと尋ねると、木津へ行ったら、うちの神社の由緒書一巻がちょうどあったので譲ってもらった、と言う。

それを聞いて悲観していた神職は、慌てて木津へ向かう。そういう連鎖だった。売る側もしたたかだった。中村によれば、時には「いま分かっている社歴」をまず注文主本人に喋らせたそうだ。財産の具合を見定めたうえで、上等・下等の由緒や縁起や境内図を出してきた、と彼は記している。

要はオーダーメイド。実際の取引の記録も残っている。滋賀県野洲郡の中畑村の場合、明治35年2月25日から、村人二人が木津まで出かけた。

一度では聞き入れてもらえない。何度も頼み込んで三、四日滞在するよう言われ、四日間粘って、ようやく神社の歴史の書物を譲り受けた。謝礼は金十八円。

二人分の四日間の滞在費と往復旅費が、金七円七十八銭五厘。当時としては大変な出費だ。溺れる者には藁より有難い縁起一巻、と中村は書く。

もっと大口の例が、枚方市の三之宮神社文書だ。明治21年2月、三之宮神社の神職・三松俊季は、朱智神社の中川政勝からある話を聞かされる。木津の今井家が近江・山城・丹波・河内の四か国にわたる大量の古文書を持っていて、そのなかに三之宮神社関係のものがあるらしい、というのだ。

三松は資金集めに走るが、なかなか集まらない。七年が過ぎた明治28年11月、三松の熱弁にほだされた津田村の三宅源治郎が、穂谷の氏子総代・上武庄太郎を誘った。三人で木津へ向かい、買い取った文書は翌年、神社に奉納された。ここからが、ちょっと笑える話になる。

このとき今井家が語った来歴が、なかなか壮大だった。いわく、相楽郡に椿井権之丞という郷士がいて、維新以前は南都興福寺の侍。維新のどさくさで興福寺の宝庫から古文書を長持二棹ぶん持ち出し、自家に秘蔵していた。

ところが零落して質入れし、一家は滅亡した。そういう筋書きだ。明治44年、三宅源治郎はこの話を「郷社三之宮神社古文書伝来之記」として書き残した。この一本の記録が、のちに馬部が椿井政隆にたどり着く糸口になる。

ただ、この来歴には無理がある。買い取った文書のうち「穂谷三之宮大明神年表録」も「穂谷惣社記録」も、明らかに穂谷村の言い分に沿って作られている。興福寺の蔵にあった中世文書が、なぜ河内の一つの村の言い分に都合よく仕上がっているのか。

同時に買った「河州交野郡五ヶ郷惣侍中連名帳」には、江戸時代の津田地域の有力農民の苗字が網羅的に載っている。中世の文書に、そんなものが載るはずがない。馬部は、これらは穂谷村が「系図屋」とも言うべき椿井家に作らせたものだと結論づけた。

要するに穂谷村は、椿井政隆に作らせた自村向けの偽文書をいったん手放していた。それを七十年後に、隣村の人間まで巻き込んで買い戻していた計算だ。なんとも間の抜けた、けれど当人たちにとっては真剣そのものの話だ。

その今井家は明治30年代に、ぱたりと販売をやめる。十分に元を取ったのだろう、と馬部は書く。売れ残った千点ほどは近くの飯田家に譲られ、そのままの状態で残った。

王仁の墓は、こうして大阪府の史跡になった

椿井文書が現代にどこまで影響したかを示す、いちばん重い例がある。大阪府枚方市藤阪にある「伝王仁墓」だ。

王仁(わに)は、応神天皇の時代に百済から渡来し、『論語』十巻と『千字文』一巻を伝えたとされる人物である。『古事記』には和邇吉師の名で出てくる。ただ、実在そのものを疑う研究者も少なくない。

話の出発点は、ひとつの自然石だった。藤阪村には昔から「おに墓」と呼ばれる石があり、歯痛やおこりに効くと信じられていた。こういう素朴な民間信仰は、日本中どこにでもある。

そこに江戸時代、儒学者の並河誠所が現れる。彼は『五畿内志』の編纂で畿内を巡見していて、この石を見てこう言った。「オニ」は「ワニ」が訛ったもので、これは本来「王仁の墓」である、と。

当地の領主に進言し、享保16年(1731)に「博士王仁之墓」の石碑が建てられた。文政10年(1827)には、招提村の家村孫右衛門らが発起人となって、有栖川宮家の筆による「博士王仁墳」の顕彰碑も建てられている。

この時点で、王仁墓は「伝承」じゃなくて「学説」なんだよね。地元に伝わっていたのは、あくまで歯痛に効くオニの墓だった。しかも当時から、並河の比定は強引すぎると批判があった。

並河から約一世紀後、椿井政隆が動く。彼が作ったのが「王仁墳廟来朝紀」だ。王仁が藤坂村で没して葬られた経緯を記した古文書で、元和二年(1616)の日付がある。

作成者として名前が挙がっているのは、交野郡禁野村の和田寺の住職・道俊。この道俊は王仁の子孫という設定だ。文中にはご丁寧に、王仁の墓を土地の者が「於爾(オニ)の墓」と誤って訛った、という一文まで入っている。

仕掛けがわかるだろうか。並河誠所が藤坂村を調査したときに、和田寺でこの古文書を見た。だから「オニは王仁の訛り」と書いたのだ。そういう筋書きを、後から用意したわけだ。

『五畿内志』という幕府公認の権威ある地誌が典拠にした古文書、という位置づけがこれで与えられた。同時に、『五畿内志』の危うい学説にも根拠があった形になる。並河があたかも実見したかのようなものを作ることで信じ込ませる、椿井の常套手段そのものだ。

しかも「王仁墳廟来朝紀」の内容は、椿井が同時に作った津田村の西村家の系図と連動している。その系図は王仁を始祖とし、近世初期のところに「西村大学助俊秋」とその次男「禁野和田寺住侶道俊」が載っている。文書と系図が互いを保証し合う、いつもの構造である。

ちなみにこの「王仁墳廟来朝紀」、和田寺に伝来したものじゃない。明治初年に藤坂村の山中氏が入手したものだったことが、昭和14年の大阪朝日新聞ですでに報じられている。戦前の時点で、もう新聞に出ていたわけだ。

そこから先は、時代の力が加勢した。明治以降、王仁は天皇に仕えた文教の祖として顕彰され始める。三・一独立運動のあと、朝鮮半島統治の方針が変わり、皇民化政策が進んでいった。そのなかで、日本と朝鮮を大昔に結びつけた人物として王仁が再注目された。

昭和2年に王仁神社奉賛会が結成され、5年に建設の奉告祭と地鎮祭。満州事変で建設は延期になる。昭和9年、北河内郡菅原村が大阪府に史跡指定を申請した。

昭和13年(1938)5月11日、「伝王仁墓」として大阪府の史跡に指定された。指定の根拠に使われた資料のなかには、椿井文書だけでなく「水戸黄門が王仁墓にやってきた」という講談由来の話まで混じっていたという。戦前の史跡指定とは、そういうものだった。

戦後、この場所は今度は日韓友好の象徴になる。昭和59年に第1回博士王仁まつりが開かれ、韓国領事が参加した。翌年には地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足し、韓国・全羅南道霊岩郡の王仁廟の竣工式に招かれている。

2006年には、霊岩郡から提供された資材で「百済門」が建った。2008年には、枚方市と霊岩郡が友好都市になる。こうなると、もう動かせない。

馬部の本にも「現在も王仁墓の史跡指定は解除されておらず」「真正な古文書として一度利用されてしまったがために、払拭することができない」と書かれている。2020年、テレビ局の取材が動いた直後に、枚方市のサイトから王仁墓に関するページが消えた。

馬部は市の職員時代、何年も広報に「消してくれ」と言い続けて動かなかった。それなのに、と何とも言えない気持ちを語っている。当時の市の幹部は、発信内容は改めるとしたうえで「王仁墓として親しまれてきたのは事実で、伝承は大切にしたい」とも述べていた。

誰が悪いという話にしづらい。しかし確実に嘘の上に建っている史跡が、そこにある。

七夕伝説は、二百年前に発明された

もうひとつ、地域の暮らしにまで根を下ろした例を見ておきたい。滋賀県米原市の「七夕伝説」だ。

1987年、『近江町史』編纂にともなう史料調査で、蛭子神社から「世継神社縁起之事」という古文書が見つかった。天正15年(1587)に、世継六右衛門定明という人物が書いたという体裁だ。中身がまた良くできている。

蛭子神社はかつて世継神社と呼ばれ、雄略天皇の第四皇子・星川稚宮皇子と、仁賢天皇の第二皇女・朝嬬皇女が祀られていた。二人の悲恋を知った僧侶が合祀した、という筋立てだ。

地理的な符合も揃っていた。近くを流れる川の名は天野川。北側の蛭子神社には高さ六十センチほどの「七夕石」があり、川を挟んだ南側の朝妻神社には「彦星塚」と呼ばれる宝篋印塔がある。

織姫と彦星が、川を挟んで向かい合っている。当時の中日新聞は「七夕伝説の湖北発祥説が浮上」と報じ、地元は沸いた。

七夕まつりは年を追うごとに盛大になり、七夕が近づくと小学校ではふるさとの歴史を教える特別授業が行われるようになった。米原市による、朝妻神社の彦星塚の史跡指定まで実現。話としては最高によくできている。

でも馬部の検証によれば、「世継神社縁起之事」は椿井文書だ。決め手のひとつは、椿井が神社の縁起を作るときに使う独特の明朝体で書かれていること。もうひとつは、椿井がこだわり続けた「息長」という語が登場することだ。

何より、この七夕伝説はそれ以前の文献にまったく出てこない。享保19年(1734)成立の『近江輿地志略』には「朝妻川」も「天川」も出てくるのに、七夕の話は一言もない。蛭子神社は祭神不詳とされている。

椿井はこの地域で、「筑摩社並七ヶ寺之絵図」という絵図も描いている。いまの米原駅周辺を描いたものだ。馬部は、この絵図の制作背景に琵琶湖の漁業権をめぐる村同士の対立があったとみる。

他の史料では、この一帯の漁業権は磯村が押さえていた。ところが椿井の絵図では磯村の存在が大きく後退し、一帯がまるごと筑摩村の土地だったかのように描かれている。この絵図が一枚あれば、「もともとここは筑摩村の領地で、磯村はもっと狭かった」と主張できる。

ただ、ここでも話は単純に終わらない。琵琶湖の湖底遺跡を潜って調べてきた考古学者がいる。滋賀県立大学名誉教授の林博通だ。

林は、実際の調査でこの絵図を参考にしていた。椿井文書の信頼性が低いとは聞いていたが、後世の地図と一致する部分があるのを確認していたからだ。林はこう言っている。

誇張や省略は多々あるが、江戸後期の状況を伝える部分も少なくない。いまは干拓されて存在しない筑摩江という内湖も描かれていて、そこに描かれた小さな島は、明治期の二万分の一地形図でも同じ位置にある。椿井が地理に相当こだわっていたことがわかる、と。

湖南市の少菩提寺絵図でも、似たことが起きている。2013年の台風で山が崩れ、古い瓦が流れ出た。翌年から地元の教育委員会とまちづくり協議会が跡地周辺を調査したところ、建物があったとみられる平地が見つかり、鎌倉から室町時代の瓦が焼けた状態で出土した。

場所は、絵図に「開山堂」と描かれたあたり。椿井は現地を歩き、伝承を聞き、そのうえで想像で絵を描いていたのだ。

だから、椿井文書は「全部が嘘」というわけでもない。事実の上に、織り込むように嘘が入っている。この配合比が、椿井文書をここまで厄介な存在にしている。

偽物だから文化財じゃないのか――湖南市で起きた綱引き

2024年、椿井文書は思いがけない形でニュースになった。滋賀県湖南市が、市の指定文化財を解除する方針を固めた、というニュースだ。対象は先ほどから何度も出ている「紙本著色少菩提寺絵図」、要は「円満山少菩提寺四至封疆之絵図」だ。

この絵図は1977年、当時の甲西町が室町時代の絵画として文化財に指定した。1992年には町の教育委員会が、西応寺の入り口に案内板を設置している。2001年には土地区画整理事業を記念して、県道沿いに高さ約3メートル、幅約7メートルという巨大な絵図のプレートまで建てられた。

住宅地の斜面に、いきなり中世の大伽藍が広がっている。なかなかの存在感だ。2008年には「菩提寺まちづくり協議会」が設立され、2015年には湖南市立菩提寺まちづくりセンターが開設。

同時に開かれた歴史文化資料室には、この絵図の複製が掲げられた。災害時の避難所としての公的施設をどう作るかという議論から始まった地域づくりが、最終的にこの絵図を核として形になっていった。地域のアイデンティティそのもの。

そこに、偽文書という指摘が来た。湖南市は2021年度に「市指定文化財の指定基準」を新たに作成する。その基準に沿って、2022年10月、市の文化財保護審議会は解除方針を決めた。

理由はこうだ。室町時代の絵画ではない、絵図としての指定は厳しい、史料・古文書としては正確性に欠ける、というものだ。これに地元が反発した。

2024年5月8日、「菩提寺の文化財を守る会」が解除に反対する緊急の要望書を市長に提出する。事務局の田中秀明さんは、江戸時代に住人や寺が希望して椿井に描いてもらったもので、椿井は現地調査もしている、と語った。椿井文書だから解除するのではなく中身をしっかり見てほしい、市は何が文化財かを考えてほしい、とも。

西応寺の住職・奥野賢悟さんは、こう言っている。椿井をもって「偽物」「意味がない」というのは、あまりに短絡的だ。百パーセント確かではないかもしれないが、地域の人々は昔も今もこれをよりどころにして生きてきた。今回の問題を通して、文化財のあり方を考え直してもいいのではないか、と。

面白いのは、ここで馬部隆弘が解除に反対したことだ。偽物だと暴いた張本人が、である。彼の言い分はこうだ。

湖南市の審議会は「偽物はだめ」の一点張りで、価値の議論をほとんどしていない。調査もせずに結論を出しており、指定文化財を解除する理由になっていない。椿井文書は、江戸時代の人々の心性や歴史観に迫るうえで格好の素材だ。

行政判断で「価値がない」となれば、貴重な史料の散逸につながる。偽文書とわかったうえで歴史的な価値を位置づけ直す動きがあるのに、それに水を差してしまう。筋は通っている。

焼失や盗難以外の理由で現存する文化財の指定を解除するのは、極めて異例である。大津市や日野町も椿井文書を指定文化財にしているから、湖南市の判断は他の自治体にも波及しうる。小さな市の話では済まないわけだ。

2025年3月8日、菩提寺まちづくりセンターで、馬部を招いた講演会が開かれた。集まった市民は約五十人。彼は椿井の作成手法を説明し、動機を「おもちゃのブロックで街を作る子どもの気持ちに近いのでは」と語った。

そのうえで、こう評価した。中世史料としては使えないが、近世の情報や当時の調査の実態を知るには貴重だ、と。偽物を暴いた人間が、偽物を作った男の調査能力をすごく高いと褒めている。この構図そのものが、この問題の複雑さを言い当てている。

知っていたのに、誰も大きな声では言わなかった

ここで、いちばん薄ら寒い話をしたい。椿井文書が偽物だという指摘は、馬部隆弘が最初ではない。まったく最初じゃない。むしろ驚くほど昔から、断続的に、あちこちで指摘されてきた。

1926年、『近江栗太郡志』を編纂していた中川泉三は、「興福寺官務牒疏」についてこう記した。大和人の椿井某が紅葉山文庫に献納した旧記であり、正確な原本に後から故意に偽説を記入したもののようだ。寛政・文化の頃に近江の各郡を巡って地方の依頼を受け、その土地を見て編成したものだ、と。

ほぼ正解。1927年の『東浅井郡志』には、椿井政隆が織田信長関係の古文書を偽作して載せたことが具体的に書かれている。彼が興福寺衆徒の家の出で、寺社の縁起を出すことで有名な木津の今井氏と姻戚関係にある、とまで記されているのだ。

1936年、考古学者の島田貞彦が随筆に書く。山城の木津には専門の系図屋がいて、頼めば金一封の内容に応じて素町人でも水呑百姓でも立派な祖先をつけてくれる、世に木津文書として特殊扱いされている、と。

1938年には佐伯啓造が「この辺に横行する偽書椿井文書によるのであろう」と書いた。角田文衛も、「いわゆる木津文書とて近世椿井氏の仮構するところに出づるもの」であるか疑わしく、と書いている。戦前の段階で、ここまで名指しされていたわけだ。

1962年と1968年には、京大で古文書学を担当した中村直勝が、詳細な回想を公表した。滋賀県内の神社で縁起書を見せられ、いつ頃どこでいくらで買ったかまで言い当てて総代を驚かせた、という話まで残している。

それでも彼は「決してこれが偽物であるとは言わない」で、社殿の奥に納めて他見を許さぬよう、写本を作ってそれを見せるように、と忠告して帰ることにしていた。優しさと言えば優しさだが、情報は外へ出ない。

1963年には田中重久が「南山城に椿井文書と詐称する偽文書の横行していたことは有名」と書く。1979年には永島福太郎が、戦前に大和の社寺を調査していて近代の偽作に気づいた、いわゆる木津文書だ、と回想している。

自治体史でも、1980年の『宇治田原町史』は、飯田家に残るいわゆる椿井文書について「現在その信憑性が強く疑われていて、信頼できない」と明記した。1987年の『山城町史』も「信頼度の低い『椿井文書』」と書いた。1988年には藤本孝一が「興福寺官務牒疏」を正面から検討し、椿井文書と鑑定している。

これだけ指摘があって、なぜ止まらなかったのか。ひとつには、情報の錯綜。戦前の京大では、若い大学院生たちがしばしば椿井文書について議論していた。その一方で、中川泉三がとっくに偽作と見抜いていた「興福寺官務牒疏」を、正しい中世文書だと誤解している院生もいた。

「椿井家が偽作していた」という情報と、「明治時代に木津で販売されていた」という情報が同時に流れていたのだ。それが混線した結果、中村直勝ほどの人が「明治三十年頃に木津の椿井氏が偽作していた」と、時期をずらして理解してしまう。江戸時代の話なのか明治時代の話なのかが曖昧なまま、噂として流通していたわけだ。

戦後になると、皇国史観からの脱却を急ぐあまり、戦前の研究成果や人脈との断絶が生じた。戦前に共有されかけていた警戒感は、そこで切れる。やがて高度経済成長期、全国で自治体史編纂ブームが起きる。

椿井文書は「再発見」された。中世史料は現存数が少ないから、残っているというだけで価値がある。しかも絵図は見栄えがする。自治体史は市民も読者だから、図版が豊富になるよう編集される。

かくして、椿井文書はこれ以上ないほど歓迎された。でも、いちばん重い問題はここじゃない。気づいた研究者が、黙殺したことだ。

馬部はこう言っている。これまで椿井文書の存在に気づいた研究者たちは、偽文書を研究するのは時間の無駄だと黙殺してきたのだろう。でも、そういう情報が広く共有されなかったから、郷土史の根拠として使われ続けてきたのだ、と。

呉座勇一はもっと直截に書いた。歴史学界は椿井文書の怪しさに気づいても、行政や郷土史家との軋轢を避け、口を閉ざしてきた、と。正直、ここがいちばんこたえる。

偽物だと気づく。分析しても業績にならないから、触らない。触らないから、誰にも伝えない。伝えないから、次の研究者がまた本物として使う。

その研究が自治体史に載る。自治体史に載ったから、次はそれが引用される。この連鎖が二十世紀の終わりまで、平気で続いた。

もうひとつ、専門の細分化という構造問題もある。馬部の説明が身も蓋もなくて面白い。古代や中世は史料の多くが活字化されているので、現物を読む必要のない分野がある。

くずし字が読めないまま古代を専攻したり、逆に活字時代の近代を専攻したりする学生は意外に多い。しかも優秀な人は、くずし字を読まないまま良い論文を書いて立派な研究者になる。だから現物を見れば偽物とわかるものを、見破れない人が結構いる。

くずし字を日常的に読むのは、基本的に近世専攻だけだ。彼らは毎日当たり前のように古文書を素手で触っているから、現物を見ないと気が済まない頭になっている。馬部は中世が専門だが、学生の最初の頃は近世をやっていた。

だから史料は現物か写真に当たるのが当たり前という感覚があり、椿井文書もできるだけ写真に当たった。彼は「中世どっぷりだったら、たぶん何歳になっても気づかなかったと思います」と言っている。

活字になると、偽物独特の雰囲気が消える。馬部自身、最初に活字で見ていたときは本物だと思っていた。何とも言えない違和感を覚えたのは、写真を見てはじめてのことだ。

十五年以上見続けた結果、いまでは古典籍商が中世文書としてSNSに上げた写真を一目見ただけで、椿井文書と確信できるようになった。実際それで、2019年度に大阪大谷大学はまとまった数の椿井文書を購入している。目利きもここまで来ると、もう職人芸だ。

大阪大谷大学が買った八十四点と、千点の売れ残り

その購入の話をしておこう。椿井文書の「本店在庫」にあたるものは、今井家から近くの飯田家に移っていた。明治30年代に今井家が販売をやめたあとの売れ残りである。売れ残りとはいえ、千点ほどがまとまった状態で残っていた。

この飯田家文書、けっこう早い段階から学界の視野に入っていた。昭和10年(1935)、東京帝国大学史料編纂所が調査に乗り出している。ただ、当時の東大は一部を本物と判断したらしく、「興福寺文書」として影写本を作っている。

昭和57年からの木津町史編纂の過程では、再調査が行われた。南山城に関係するものを中心に、撮影と目録化がなされている。日本を代表する史料編纂機関も地元の教育委員会も、この山を前にして、どれが偽物でどれが本物かを最後まで切り分けられなかったわけだ。

2019年度、大阪大谷大学が古物商などを経由して購入した古文書は84点。馬部が精査したところ、そのうち63点が椿井文書で、残りの21点は椿井政隆自身が収集した本物の文書と判断された。

しかもこの一群は、飯田家文書から授戒に関する文書を意識的に抜き取ったもののようだった。市場に出る過程で誰かが束をばらし、売れそうな部分を抜いている。馬部が繰り返し警鐘を鳴らすのはここだ。

各地域には貴重な古文書が数多く埋もれている。近年はネットオークションに出品されて散逸することも増えている、と。放っておけば、ばらばらになって消えていく。

ちなみに、ここで名前の出る椿井政隆の「収集家」としての顔も外せない。1986年、藤田恒春は「元亀の起請文」という25通の中世文書が、一巻の巻物に仕立てられている件を調べた。巻頭に「南龍子広雄」の署名があること、これが椿井権之輔と同一人物であろうことを突き止めた。

この巻物に収められた文書自体は、本物と鑑定されている。椿井政隆は、本物の古文書を熱心に集め、整理し、巻物に仕立てる人間でもあった。馬部は藤田の研究を踏まえたうえで、収集家としての顔と偽作者としての顔、その両面を見なければ椿井政隆の実像には迫れない、と明言している。

アテルイの首塚という、現代版の椿井文書

椿井文書そのものではないが、同じ仕組みが二十世紀の日本で再生された例がある。枚方市の「伝阿弖流為母礼之塚」だ。馬部が枚方時代にもうひとつ格闘した問題でもある。

蝦夷の首長アテルイとその副将モレが、延暦21年(802)に河内国で処刑されたことは史料にある。ただ、場所は特定されていない。『日本紀略』には「河内国□山」とあるだけで、その一字は写本によって「杜山」「植山」「椙山」などと揺れている。

明治33年(1900)に、吉田東伍が『大日本地名辞書』で「植山=宇山」説を出した。『大阪府全志』や旧『枚方市史』が、これを踏襲した。あくまで学説であって、伝承じゃない。

ところが1979年頃、牧野地区のある女性が夢を見た。長い白髪で白いあご髭の人が、何かを訴えかけてくる。気になった女性は市史編纂室に電話して、昔この辺りで何かありましたか、と尋ねた。

応対した担当者の田宮久史は、半ば冗談として答えた。昔このあたりで蝦夷の酋長が斬られた話がありますよ、と。ここから話が転がり出す。

女性は確信した。夢の人はその酋長に違いない、恨みをもって成仏できずに苦しんでいる、きちんと祀ってあげなさい、と市に要望した。市は当然、応じない。

それならと、女性は独力で祀り始め、犬の糞尿から守るために柵を立て、綱を張り、何やら曰くありげに飾り立てた。市も他の市民も、一市民の酔狂と見て放置した。

しかし時が経つと、木は繁茂し、柵は強化され、一帯は妙な存在感を持ち始める。田宮が1990年に記したメモには、こうある。一種、聖域の雰囲気をただよわせるようになった。

そこへ、河北新報大阪支社の記者が取材に来る。記者は田宮からこの女性の話を聞き、片埜神社の宮司を取材して、アテルイの墓を発見したとばかりに報じた。一気に火がついた。

1993年の市議会で、枚方市の教育委員会社会教育部長はこう答弁している。もちろん地元にはこれを裏付ける伝承なり伝説のたぐいは一切ない。枚方市としては、歴史的根拠のない場所を確たる証拠もないのにアテルイの墓にはできないし、説明板なり顕彰碑を建設すべきではない、と。

この時点で、行政はきちんと踏みとどまっていた。当時、岩手県人会などの求めを断った結果、アテルイの碑は代わりに京都の清水寺に建てられている。ここまでは筋が通っていたのだ。

ところが十年あまりで、風向きが変わる。2003年の市発行の子ども向け冊子と教育委員会の社会科副読本が、アテルイの首塚を実在の史跡として写真入りで紹介した。2005年の副読本も同様だ。

2006年には建立実行委員会が結成され、2007年3月4日、牧野公園に「伝阿弖流為母礼之塚」が除幕された。高さ約143センチ、幅約120センチの生駒石。碑文は、清水寺の森清範貫主の揮毫。

式典では市長が挨拶し、岩手県奥州市の助役が市長メッセージを代読した。馬部はこの経緯を論文にまとめ、副題に「官民一体となった史蹟の捏造」と付けた。相当に強い言葉だ。

彼はまた、枚方市史資料室にある広報課旧蔵アルバムから、1952年の造成直前と直後の写真を探し出した。そのうえで、造成前の牧野公園はもともと片埜神社境内の荒れ地で、塚らしいものは見当たらない、と報告している。

この件については、馬部の側にも批判がある。地元には「蝦夷が殺害された」という言い伝えがあると熱心に主張する市民が、何人もいた。けれど馬部は、それらはどう聞いても先祖代々のものじゃなく、吉田東伍の学説が発端になったものばかりだった、として伝承として扱わなかった。

そこを、聞いた話を消したのではないかと批判する声が出ている。伝承と学説の境目はどこか、という問いは、正直、そう簡単には決着しない。

ただ、押さえておきたいのはこの一点だ。一人の夢から始まった話が、三十年足らずで、石碑と式典と教科書を備えた「地域の歴史」になった。椿井政隆は二百年かけて同じことをやったが、条件さえ揃えば、それは三十年でもできる。

偽文書は、なぜ必要とされてきたのか

ここで少し視野を広げておきたい。椿井政隆が異常な個人だった、で終わらせると本質を見誤るからだ。日本の偽文書研究は、網野善彦が大きく切り拓いた分野である。

2004年には、久野俊彦と時枝務の編で『偽文書学入門』という本が出た。網野の論考を軸に、時代も分野も横断して論考が並ぶ。中世史における偽文書、〈由来〉〈由緒〉と偽文書、武田浪人を事例にした近世の偽文書、近世の神道・神社と偽文書、といった具合だ。

さらに呪符や守札と偽文書、職人の由来書、近代の超古代史から「近代偽撰国史」へ、と続く。偽文書は、偽物だから捨てるものじゃない。それが作られ受け入れられた社会そのものを語る史料である、という立場だ。

そもそも中世の日本には、偽造や変造の規模の大小を問わなければ、ほとんど無数の偽文書が存在していた。中世史の研究はまず史料の真偽批判から始めなければならない、と言われるほどだ。

綸旨の偽造、荘園の権利を主張するための偽下文、寺社の権益を守るための偽牒。土地と権利をめぐる争いがあるところ、必ず紙が偽造される。人間のやることは、いつの時代もそう変わらない。

近世に入ると、様相が少し変わる。歴史学者の磯田道史が的確にまとめている。江戸後期から幕末にかけては「由緒の時代」だった。

身分制社会が動揺し始めると、豪農や豪商は自分の家柄をよく見せるために由緒を必要とする。寺社も村も、利権のために由緒を欲する。歴史ファンが偽系図師として活躍し、武将の偽書状も大量に作られた。

磯田は自身の古文書調査の経験から、滋賀と山梨で偽文書を多く見た、とも記している。武田浪人の事例が研究対象になるのも、たぶん偶然じゃないだろう。

明治になると、神社合祀と社格制度が需要をもう一段押し上げた。国学の隆盛から国家神道への流れのなかで社格がものを言うようになり、村々は自分の神社の格を意識するようになる。

椿井文書の需要はじわじわ高まり、国家神道が軌道に乗る頃、ちょうど質流れで市場に出た。需要と供給が、最悪のタイミングで完璧に噛み合ったわけだ。

なお、日本の偽書として有名な「竹内文献」や「東日流外三郡誌」と椿井文書は、性質がだいぶ違う。磯田は、この点をはっきり指摘している。超古代史系の偽書は実害が少ない。

荒唐無稽なので、歴史学者もちゃんと「作品だ」とわかって相手にしない。行政も、教育や観光誘致に利用しない。ところが江戸時代に作られた偽文書は厄介だ。

捏造でも二百年物の古文書であり、大学教授や自治体の文化財担当ですら偽物と見抜けない。おまけに中身は、イエやムラに都合のよい「由緒」である。

文化の香りが欲しい自治体は、無邪気にこれを利用する。遺跡でない場所が遺跡になり、看板と記念碑が建つ。荒唐無稽さが足りないからこそ、椿井文書は危険だった。

馬部説に対する異論も、ちゃんとある

公平を期すために書いておくと、馬部の議論がすべて無条件で受け入れられているわけじゃない。いちばんまとまった批判は、2020年に日野智貴が発表したものだ。論点は、おおむね三つある。

第一に、現物を見ていない文書まで椿井文書と断定しているのではないか。馬部は著書で、明治26年に草内の天神社が新たに発見された「旧記」に従って咋岡神社へ改称した件を取り上げている。今井家が椿井文書を頒布していた時期と重なることから、「この『旧記』は椿井文書とみて間違いあるまい」と書いた。

その正体は、高橋美久二が触れている「山城国草内村宮神之記」だろうと推測しつつ、馬部は「残念ながら現物にはあたれていない」と認めている。日野はここを突いた。推測に推測を重ねて神社の縁起を偽物扱いするのは、学問の方法としても崇敬者へのマナーとしても問題がある、と批判した。

第二に、「朱智」という語が入っていれば椿井文書だ、という判定基準の強さ。これに対して馬部は、まず『延喜式』神名帳に載る綴喜郡の朱智神社が早い段階で所在不明になっていたことを証明した、と反論している。そのうえで、椿井政隆が天王村の牛頭天王社こそが朱智神社だと見せかける偽文書を量産したと論じている。だから南山城の寺社縁起に「朱智」が出てくれば椿井文書だと説明したのだ、というわけだ。

第三に、伝王仁墓について。日野は、王仁墓の伝承は並河誠所や椿井政隆より前から存在していて、貝原好古や松下見林も記録している、と主張した。だから「王仁墳廟来朝紀」が偽作だとしても、史跡指定を取り消す必要などない、と。

馬部はこれに対し、そもそも自分は「オニの墓」という伝承と「王仁の墓」という学説を区別しているのだ、と応じている。彼が確認できた最も古い王仁墓の記述は、「当郷旧跡名勝誌」が引く寛文9年(1669)の奉加帳だ。そこには「何れの記録より考えたるらん、いぶかし」という疑いの言葉が添えられている。

当時から、学説として扱われていたわけだ。「王仁墳廟来朝紀」は、その学説を伝承のように変換してしまったところが問題なのだ、というのが馬部の言い分だ。

学説と伝承の線引き。どこまでが実証で、どこからが状況証拠か。この綱引きは、たぶんまだしばらく続く。

もっと根本的な留保もある。藤本孝一は1988年の時点で椿井文書を鑑定しながら、こう書いていた。椿井家では縁起や絵図を作る際、現代人が偽文書を作るような考えはまったくなかったのではないか。

現地の景観とよく合っていて、作図にあたり現地調査や史料採訪を行っていたと思える。江戸中期から流行する国学の考証学によっているのではないか。ただし考証に耽るあまり、上代から説き起こし、室町時代に編纂されたもののように叙述したところに、後世をまどわすものがあった、と。

これは馬部の「偽文書作家」としての椿井像とは、だいぶ温度が違う。悪意の偽造者か、のめり込みすぎた考証家か。馬部は、藤田恒春が明らかにした収集家としての椿井像の上に自分の研究を積み重ねたのであって、二項対立ではないと繰り返し説明している。

ただ、素人が横に並べて混乱するのも無理はない。同じ一人の男が、本物の中世文書を丹念に集めて巻物に仕立てる一方で、平然と存在しない年号の絵図を描いているのだから。そりゃ混乱もする。

なぜ偽物が正史になるのか

さて、いちばん重要な問いに戻る。なぜ、偽物は正史になってしまうのか。馬部が挙げるメカニズムのうち、一番ぞっとするのが「伝言ゲーム」だ。

たとえば、中世の寺院に関する史料があるとする。研究者だって、これを百パーセント鵜呑みにはしていない。せいぜい五割だ。

だから自治体史には「この史料は江戸時代の写しかもしれないが、中世は立派な寺院だったという伝承が江戸時代にはあったのだろう」と書く。慎重に、微妙な言葉でぼかして書くわけだ。学術的には正しい態度である。

ところがそれを読んだ町内会誌の編集者は、「中世には立派な寺院がありました」と書く。ぼかしは消える。断定になる。読んだ人は、それを百パーセントの史実として受け取る。

しかも椿井文書は、研究者側の願望に応える形で書かれている。史料が欠けている部分を埋める内容が多く、研究者が「そうであったらいいのに」と思うことが、ちょうど書いてある。

中世にきっと栄えていただろうと思われる寺について、椿井政隆が「栄えていた」と書いてくれている。都合がよすぎて、疑いにくい。もうひとつ、人間の側の問題もある。

馬部の言葉が一番身も蓋もない。結局、一度使ってしまったら、それを使ってしまった言い訳ばかり考えて、否定ができないんですよ。嘘を定着させてしまった自分の人生を否定してしまうことになるので。

これは冷たい指摘というより、人間観察として正確だと思う。四十年にわたって七夕まつりを育ててきた人に、あれは全部嘘でしたと言うのは、その人の四十年を否定することに限りなく近い。考えてみてほしい、自分がその立場だったらどうか。

米原市議の北村喜代隆は、馬部の本のある一文を「ひどい書かれ方」と受け止めた。「大人が勝手に楽しむ分には構わないが、子供にすり込むのは教育上いかがなものかと思われる」という一文だ。当然だと思う。

それでも彼は、行政としてきちんと椿井文書を研究すべきだと市教育委員会に提案した。小学生に配る地元の歴史年表の江戸時代の欄に、あえて椿井政隆の名前を入れた。偽文書作者とはいえ、地元の歴史に深く関わる人物だから、という理由で。

これはこれで、ひとつの誠実な着地の仕方だ。制度の話もしておきたい。馬部の提案は具体的だ。

最低でも歴史学者を一人、行政に置くこと。そうすれば市民は「これは嘘ですか、本当ですか」と聞きに行ける。

米原の七夕伝説だって、大学院を出た歴史学者が一人いて、きちんと聞きに行けていれば、と彼は言う。「これは江戸後期に初めて出てくる史料で、よく見たら椿井文書ですよ」というレファレンス程度のことは誰でもできたはずだ、と。

考古学は、すでにこれを実現している。文化財保護法によって、開発が埋蔵文化財に影響する場合は教育委員会への届け出が義務づけられている。やむを得ず破壊する場合は、開発者負担で記録を取ることになっている。

だから教育委員会に考古学者がいる。文献史学にも同じ仕組みを作ればいい。歴史学者が行政に一人もいなければ、全国で椿井文書現象が起こる。そう警鐘を鳴らしてシステムを作るべきだ、という主張だ。

彼は、こうも付け加えている。怪しいものは怪しいもので、面白おかしくやるのはいい。それは否定しない。むしろ椿井文書で盛り上がればいいと思っている。

問題は、怪しいものを正しい歴史として紹介してしまった人が、引くに引けなくなって、また誰かを引っかけてしまうことだ。町内会誌を編集する人は本来、引っかかってはいけない人なのに、みんなそろって騙されたら、もう後に引けない。結果、みんな不幸になる。

なぜ二百年前のフェイクが、いま読まれるのか

椿井政隆は、SNSもテレビも新聞も持っていなかった。持っていたのは紙と墨と筆、それと膨大な時間と、国学の教養と、恐ろしく高い調査能力と、あきれるほどの熱量だけだ。

にもかかわらず、彼が作った偽の歴史は、近畿一円の三十を超える自治体史に載った。府の史跡指定の根拠のひとつになり、町おこしの核になり、祭りになり、小学校の総合学習になった。彼の死から百八十年以上経って、なお現役である。

この二百年越しの現象を見ていると、いま私たちがフェイクニュースと呼んでいるものの構造が、そっくりそのまま見える。まず、嘘は単体では生き残れない。相互に補強し合うネットワークになったとき、はじめて強くなる。

椿井は、系図と連名帳と縁起と絵図と台帳を張り巡らせた。いまなら、複数のまとめサイトと、それを引用する動画と、それを引用する投稿が、同じことをやる。どこから見ても裏が取れているように見える閉じた円環。

「別のソースにも同じことが書いてある」という安心感ほど、当てにならないものはない。次に、嘘は事実の上に載って初めて信じられる。椿井の絵図は、現地を歩いて描かれていた。

だから発掘すると、本当に瓦が出る。全部が嘘なら、とっくに誰かが気づいていた。八割の本物に二割の嘘を混ぜるのが、一番効く。

三つ目に、嘘は「こうであってほしい」という願いに寄り添ったときに定着する。うちの村は由緒正しくあってほしい、うちの神社には歴史があってほしい、この山はうちのものであってほしい。研究者ですら「中世にはきっと立派な寺があったはずだ」という願いを持っている。

椿井政隆がやったのは、要するに、人が求めている歴史像を先回りして「証明」してみせることだった。この需要は、二百年経っても一ミリも減っていない。

最後に、一度公的に承認された嘘は、訂正がとほうもなく難しい。石碑が建ち、指定文化財になり、教科書に載り、友好都市の根拠になる。そこまで来ると、訂正のコストは真実の価値を軽く上回ってしまう。

馬部が繰り返し言う「公共機関が動けば嘘も真になる」というのは、そういうことだ。では、椿井文書は消してしまえばいいのか。おそらく違う。

指定文化財の解除に、暴いた本人が反対しているのは象徴的だ。中世史料としては使えない。それは確定している。

でも、近世の人々が何を理想とし、何を「あったことにしたかった」のか。当時どんな調査が可能だったのか。そういう問いに答える素材としては、これほど豊かなものはない。偽文書は、その時代の願いの化石なのだ。

湖南市の西応寺の住職が言った言葉を、もう一度置いておきたい。百パーセント確かではないかもしれないが、地域の人々は昔も今もこれをよりどころにして生きてきた。今回の問題を通して、文化財のあり方を考え直してもいいのではないか。

これは「嘘でもいいじゃないか」という開き直りとは違う。史実と、人々の心のありようは、別々に記録できるはずだ、という話だと思う。むしろ怖いのは、その二つを混ぜたまま、混ざっていることに誰も気づかない状態のほうなのだ。

馬部隆弘は、椿井政隆を「多分僕みたいな人間ですよ。表向きはちゃんとした研究者にみられながらも、中身はかなりふざけてるっていう」と評したことがある。馬部によれば、十五年以上追いかけた結果、椿井が偽文書を作りそうな集落へ行くと案の定そこで作っていた。初めて見る椿井文書でも、何を目的に偽装したのかすぐわかるようになった。もう手に取るようにわかって一体化するんです、と彼は言う。

二百年前、南山城の村に、誰にも認められない歴史書を書いていた一人の男。その彼が方向を変えて作り始めたのが、人が求める歴史のほうだ。それは驚くほどうまくいって、彼の死後、彼が想像したよりはるかに遠くまで行った。

滋賀の祭りになり、大阪の史跡になり、韓国との友好都市の遠い遠い遠因にまでなった。その男を追い詰めた研究者は、最後にこう書き残している。椿井文書と椿井政隆に対する私の愛情は、他のどのファンにも負けないはずである、と。

嘘をついた人間を憎むより、なぜその嘘がこれほど必要とされたのかを見る。たぶんそれが、二百年分の偽物を一人で掘り起こした人間がたどり着いた、いちばん実用的な結論なんだと思う。

タイトルとURLをコピーしました