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山中鹿之助の「七難八苦」は誰が言わせたのか、尼子再興10年と三日月の祈りの出どころ

家来に暇を出した書状

1578年7月8日の日付がある書状が、一通だけ残る。宛名は遠藤勘介。差出人は山中幸盛、のちに鹿之助の名で呼ばれる尼子家の侍だ。尼子再興軍が上月城で毛利の大軍に囲まれ、城を明け渡して間もない頃の日付にあたる。

文面は短い。長い牢人暮らしのあとのこの籠城は比類のない戦いぶりで、その働きは一生忘れない、と書く。これからはどこへなりとも奉公してほしい、と丁寧な言葉で淡々とつづっている。家来に暇を出して、新しい奉公先を許す手紙だった。

この手紙に、月の話は出てこない。三日月も七難八苦も、尼子再興への誓いも、一字として書かれていない。月の影すらない。あるのは、戦い抜いた男が仲間に新しい奉公先を許す、乾いた実務の文面だけだ。幸盛が自分の家来を抱えていたこともこの書状からわかるが、後世が作り上げた鹿之助の姿とは、ずいぶん距離がある。

今、鹿之助といえば三日月だ。鹿の角と三日月の飾りが付いた兜をかぶり、夜空の細い月に向かって「願わくは、我に七難八苦を与え給え」と祈る。そんな姿が定番になり、銅像も絵本も、たいていはこの場面を選ぶ。ところが、この台詞がいつ誰の口から出たのかを追うと、話は江戸時代の軍記物を通り越して、明治の島根まで下ってくる。

鹿の角と三日月の兜

鹿之助は、出雲の月山富田城の麓で生まれたと伝わる。生まれた年は1545年とするのが通説だが、軍記の記述から1540年と読む説もある。次男だった鹿之助は、いったん尼子家の重臣、亀井家の養子になり、のちに山中家へ戻って、兄の幸高に替わって家督を継いだ。若い頃の確かな記録は少なく、軍記ごとに、生まれた場所まで食い違う。

鹿之助といえば兜だ。三日月の前立てに、鹿の角の脇立て。通説では山中家に代々伝わる品で、病弱な兄から家督を譲られたとき、一緒に受け継いだ。鹿介という名も、この脇立てにちなんで、家督を継ぐときに改めたと説明される。

軍記を並べると、兜の様子は少しずつ違う。甫庵太閤記と雲陽軍実記を見比べても、細かい形が合わない。ちなみに、名前の由来には、山の中を鹿のように駆け回る姿から付けたという別説もある。それでも講談や小説は、たいていあの三日月と鹿の角の姿で鹿之助を描き、それが定番になった。

顔つきの描かれ方も、本によって違う。甫庵太閤記の幼い鹿之助は、目つきが鋭く、手足が太く、立ち振る舞いがきっぱりとして不敵ですらある。雲陽軍実記が19歳の鹿之助を描くと、背丈は5尺あまりで中肉、色白で、容貌のすぐれた男になる。猛々しい子供と、色白の美男。同じ人物の話とは思えない。

戦前の教科書は、この兜を少年時代の場面に使った。甚次郎と呼ばれていた少年が兄に呼ばれて座敷へ行くと、そこには母もいて、床の間に鹿の角と三日月の付いた兜が飾ってある。兄は、尼子家の恩を忘れるな、大人になったら毛利を討てと言い渡す。少年はその日から鹿介と名乗った。

30日のうちに手柄を

江戸時代の軍記物にも、鹿之助が三日月に祈る場面は出てくる。願いの中身は、まるで違う。陰徳太平記によると、16歳の鹿之助は三日月に向かって「願わくは三十日を限り、英名を博せしめ給え」と祈った。苦難を求める台詞ではない。手柄を急ぐ若者の、ただの願掛け。

願いは、すぐに叶った。主君の尼子義久に従って伯耆の尾高城を攻めたとき、鹿之助は菊池音八という名高い豪傑と一騎討ちになり、これを討ち取る。以来、三日月を拝むのが習慣になり、その信仰は生涯変わらなかったという。一騎討ちの勝利と三日月が、ここで結びついたわけだ。

最も古い鹿之助の伝記を載せるのは、江戸時代の初めに出た甫庵太閤記だという。小瀬甫庵が書いた本で、巻19に山中鹿助伝が入り、月に祈る場面もここに出てくると解説される。鹿之助の死からは、かなり後の世に書かれた本だ。この本が広く読まれたことが、のちの鹿之助像に響いた、と見る人もいる。

軍記物は読み物でもある。史実の記録としては、割り引いて読む本だ。それでも、三日月を拝んだという話の根は、少なくともこのあたりまで遡れる。同時代の手紙や記録には出てこない、と指摘する人が多い。鹿之助本人が月に祈ったかどうかは、確かめようがない。

兵糧が尽きた月山富田城

尼子氏は、出雲の月山富田城を本拠にした戦国大名だ。1564年の弓浜合戦で尼子軍は毛利軍に勝ったが、続く伯耆の尾高城の戦いで敗れ、以後の伯耆は毛利軍に制圧され、尼子軍は各地で敗れて補給の道を断たれていく。月山富田城は、孤立した。

1565年4月、毛利軍は城の北西にある星上山に本陣を置き、城下の麦を刈り払う麦薙ぎから攻め寄せた。鹿之助は塩谷口で吉川元春の軍と戦ってこれを撃退し、高野監物という敵を一騎討ちで討ち取ったという。品川将員との一騎討ちも、軍記は語る。

城は落ちなかった。落ちる前に、中の兵糧が尽きた。逃げ出す者が相次ぎ、これ以上は戦えないと見た当主の尼子義久は、降伏を申し出る。永禄9年(1566年)11月28日、城は毛利軍の手に渡る。戦国大名としての尼子氏は、ここで一度滅びた。

義久たち3兄弟は円明寺に連れていかれて幽閉され、鹿之助は付き従いたいと願い出たが、許されなかった。出雲大社で、主君に別れを告げる。旧臣の中には毛利に仕える者もいたのに、鹿之助は別の道を選んだ。再興への道は、ここからが長い。

京の寺で見つけた若者

旗が要る。尼子の旧臣たちが探し出したのは、京都の東福寺で僧になっていた一族の若者だった。新宮党の遺児で、名を勝久という。祖父の尼子国久は、かつて新宮党として栄えた一門の人で、勝久は還俗させられ、再興の旗印に担ぎ出される。

動いたのは1569年だった。毛利元就の軍は九州で大友氏と戦っていて、本国は手薄になっていた。勝久を奉じる軍は丹後や但馬の海賊の力を借り、山名祐豊の支援も受けて、海から出雲の忠山城や新山城へ攻め込む。石見で追い込まれた味方を救いに走った鹿之助は、出雲市の斐川地域にあたる原手で毛利軍を破り、そのあと出雲の16の城を攻め取った。兵は6000余りに膨らむ。

出雲の国人では、米原綱寛や三刀屋久扶が相次いで味方に付き、出雲のほぼ一円が尼子方の手に入る。月山富田城だけは、毛利方の天野隆重が守り切った。10月に山口で大内輝弘が挙兵すると、毛利軍は九州から引き揚げてくる。大内家の再興を目指した輝弘の乱は半月足らずで鎮まり、輝弘は富海で自刃した。形勢は、ここから傾く。

1570年2月、布部山の戦いで尼子軍は大敗した。教科書は、味方7000で敵を迎え撃ったと書く。出雲の拠点は、新山城と高瀬城の2つにまで減った。それでもその秋、毛利元就が病に倒れて輝元や隆景らが本国へ戻ると、尼子方は息を吹き返す。

1571年の6月、元就は74歳で世を去った。その2か月後、新山城が落ち、勝久は隠岐へ逃れた。鹿之助たち主力は、因幡や但馬のほうへ転戦する。出雲での再興は、ここで潰えた。

鳥取城を落とした1000人

1573年の初め、鹿之助は但馬から因幡へ攻め込んだ。桐山城を拠点にして、山名豊国を味方に付け、毛利方の武田高信と戦う。8月の甑山城の戦いで武田軍に決定的な勝ちを収め、9月下旬には鳥取城を落とした。尼子方はおよそ1000、籠もる武田軍はおよそ5000。5倍の敵を押し切った。

勢いは止まらず、10日ほどで15の城を攻め落としたと伝わる。兵は3000余りに増え、東因幡は尼子方の手に入り、私部城が再興軍の新しい本拠になった。ところが11月、味方だった山名豊国が毛利方へ寝返る。鳥取城は、1か月余りで奪い返された。

その間も鹿之助は、反毛利の大友氏や備前の浦上氏と連絡を取り、密かに信長の家臣の柴田勝家とも通じて、立て直しをはかっていた。1575年6月には若桜鬼ヶ城を落として拠点を移す。因幡から但馬や播磨へ抜ける山道の要にあたる城だ。

この年、毛利の吉川元春と小早川隆景は約4万7000の兵で因幡へ攻め込み、秋には若桜鬼ヶ城にも攻撃が始まった。尼子方はこれを守り抜き、晩秋になると、毛利軍のほうが引き揚げていく。数で勝る敵を、山城の守りで追い払った形だ。

孤立は深まっていた。但馬の山名祐豊が毛利と和睦して頼みにしていた支援が切れ、備前の浦上氏は衰え、美作の三浦氏は毛利に降り、尼子再興軍は因幡でほとんど味方を失った。1576年5月、若桜鬼ヶ城を退去する。行き先は、織田信長のいる京都。

島根県が公開している尼子氏の講座資料に、気になる指摘がある。因幡に入った頃から、史料に出てくる名前が、勝久より鹿介のほうで多くなるというのだ。鹿介が軍の主導権を握ったのかもしれない。土地に基盤を持つ軍が、鹿介を中心にした傭兵に近い集団へ変わりつつあった可能性も、資料は挙げている。

勝久を支える忠臣か、自分の才覚で勢力を広げた将か。資料は、鹿介の立ち位置を、これから検討すべき点としている。講談の鹿之助は、主君のために苦難を願う忠臣だが、史料の側から見ると、答えはまだ出ていない。

信長が与えた名馬

京で、鹿之助は織田信長に会った。信長は鹿之助を「良き男」と呼び、四十里鹿毛という名馬を与えたという。毛利と敵対する信長にとって、尼子の残党は都合のいい味方でもあった。1577年10月、信長は鹿之助への全面的な支援を表明する。

その年の冬、羽柴秀吉が播磨の上月城を攻め落とした。秀吉は城を尼子勝久と鹿之助に任せ、毛利との最前線を守らせる。いまの兵庫県佐用町にあった小さな山城で、播磨と美作と備前の境に建つ要所。10年近くさまよった再興軍が、ようやく手にした城だった。

戦の前には目が見えなくなる

鹿之助には、戦の心得を語った逸話も伝わる。明智光秀の家臣だった野々口丹波が、鹿之助に尋ねたという。自分は一騎討ちで3度首を取ったが、そのときの様子は朦朧として覚えていない。たった1度の戦いを細かく覚えている者もいるが、あれは生まれつき勇気があるからなのか。

鹿之助は感心して答えた。あなたは正直な人だ、言葉を飾って名を上げようとする人が多い世の中で、めずらしい。自分も首が4つか5つの頃は同じで、7つか8つで夜が明けたようになり、10になると、敵の兜の内側を突いた場所まで見えたという。そこまで来ると、子供の遊びのように杖で討ち倒せる。経験を重ねれば、あなたにもわかる。

別の話もある。野々口彦助という人が、手柄の立て方を尋ねた。鹿之助は、合戦の前には必ず目が見えなくなるものだ、よく心得ておけ、と言ったという。彦助は、それほどのこととも思わなかった。朝霧で物の色も区別がつかない戦場に立ったとき、彦助は鹿之助の言葉を思い出す。

目をふさいで心を静め、もう一度開くと、あたりがはっきり見えた。彦助は敵の首を取り、見事に手柄を立てたという。初陣を終えた2人の若者が、鹿之助に話しかけたこともあるという。ひとりは、敵に向かうと震えて、相手がどんな鎧だったかも覚えていないと言った。もうひとりは、敵の鎧も馬も組み合った場所も、はっきり覚えていると言った。

2人が帰ったあと、鹿之助は傍らの人に語る。最初の若者は、立派な武士になるだろう、と。後の若者は、他人の挙げた首を拾って手柄にしたのかもしれないし、さもなくば次の戦で討たれる、と。はたして後日、その言葉のとおりになったという。

3つの話に出てくる鹿之助は、月に祈る忠臣ではない。戦場の怖さを知り抜いた、古参の武者だ。戦いの前の恐れを、隠さずに口にする人だったらしい。

見捨てられた上月城

翌1578年の2月、三木城の別所長治が信長に背いた。毛利はこの機を逃さず、4月に3万を超える兵で播磨へ入り、18日に上月城を囲む。率いたのは吉川元春と小早川隆景。毛利輝元は遠い備中高松城に本陣を置き、前線を両川に任せた。救援に出た秀吉は、荒木村重らと1万の軍で高倉山に陣を敷く。

信長が秀吉に命じたのは、上月城を助けることより、三木城を攻めることを優先せよ、という方針だった。6月21日、高倉山で秀吉の軍は毛利軍に敗れる。26日、秀吉は陣を引き払った。城を捨てて脱出するよう勧める書状が尼子方に送られたが、尼子の側は聞き入れず、秀吉の軍が去ったあとも籠城を続けたという。城に、兵糧は残らなかった。

7月3日、勝久は一族とともに腹を切った。降伏の条件は、城兵の助命。勝久は鹿之助に、一時でも尼子家を再興できたことに感謝する、と言い残したと伝わる。城は数日のうちに毛利の手に落ち、鹿之助は捕らえられて、毛利輝元のもとへ送られる道についた。

阿井の渡し

場所は備中の高梁川、阿井の渡し。いまの岡山県高梁市落合町阿部のあたり。護送の途中、鹿之助はここで殺された。日付は7月17日とするのが通説で、雲陽軍実記は13日と書き、10日とする解説もある。冒頭の書状から、10日もたたないうちの出来事だった。

手を下したのは、河村新左衛門と福間彦右衛門の二人だと伝わる。高梁市の公式の年表にも、天正6年の出来事としてこの一件が載っている。なぜ鹿之助が輝元のもとへ送られたのか、理由ははっきりしないという解説がある。毛利にとって、生かしておくには危険な男だったからだ、と語る解説もある。

名将言行録には、討たれた鹿之助の髭の話が出てくる。針の先のように尖って硬く、障子を突くと簡単に貫くほどだったという。後の世の本は、最期の姿をそんな細部で書き残した。享年は通説で34、雲陽軍実記に従えば39。

首は、毛利輝元のもとへ届けられ、さらに鞆へ送られたと伝わる。足利義昭が身を寄せていた、備後の鞆の浦。福山市の鞆の寺町には、首を葬ったという塚がある。

籠手田安定の筆跡

では、七難八苦という台詞は、どこから来たのか。日付のはっきりした手がかりが、一つある。明治20年、1887年12月19日の日付が入った書だ。書いたのは籠手田安定、当時の島根県知事。滋賀県立琵琶湖文化館が所蔵している。

題は山中幸盛。三日月に七難八苦を願い、主君の再興を果たそうとする心は武勇の鑑だと称える内容だという。所蔵館は、島根の英雄に自分の苦労を重ねて書いたのだろうと見る。籠手田は、1878年に滋賀県の2代目の県令となり、1885年に島根県知事へ着任した人だ。

ここで別の解説が出てくる。松江藩の儒者だった桃節山が、七難八苦という台詞を考え出し、それを三日月への祈りに結びつけて今の形にしたのが籠手田だという。明治25年に補訂された出雲私史が、台詞の初出だと書く解説もある。

もう一人、疑われる人物がいる。明治の文人、大町桂月だ。桂月の山中鹿之助には、こんな一節がある。「これより後、常に三日月を拝し、祈って曰く、願はくば我をして七難八苦に遭はしめ給へと」。『山中鹿介紀行』を書いた藤岡大拙は、この言い回しを、桂月が鹿之助の生涯から逆算して作ったのではないかと見る。

桂月は、「幸盛の伝を読みて泣かざるものは、断じて男児に非る也」とまで書いた熱烈な崇拝者だった。漢詩にも、「七難八苦、天真を練る」と詠んでいる。苦難に満ちた鹿之助の人生を、後世の人は、本人が望んだものと解釈した。

七難八苦は、もともと仏教の言葉だ。八苦は、生まれる、老いる、病む、死ぬの4つの苦しみが土台になる。そこへ、愛する人と別れる苦しみと、憎む相手と会う苦しみが加わる。求めても得られない苦しみと、心身が思うようにならない苦しみも入る。

七難は、経典ごとに中身が違う。観音経なら、火難、水難、羅刹難、王難、鬼難、枷鎖難、怨賊難の7つ。最初にこの言葉を台詞に選んだ人が経典を意識していたのかどうか、記録からは分からない。

似た心を詠んだ歌も、江戸時代にある。「憂きことのなおこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」。熊沢蕃山が詠んだといわれる歌だ。つらいことよ、もっと積もれ、限りある身の力を試したい、という意味になる。

大正2年に笹川臨風が出した『山中鹿之助』は、三日月に手を合わせて七難八苦を願う場面を描いたという。明治から大正にかけては、尼子十勇士伝や立川文庫の山中鹿之助も読まれ、鹿之助は国民的な英雄になった。1911年12月には、月山富田城の頂上に幸盛の記念碑が建った。

三日月の影という教材

決定的だったのは、教科書だ。戦前の国定教科書、小学国語読本に「三日月の影」という教材が載った。書いたのは、読本の編集の中心にいた文部官僚の井上赳。載った年は、昭和11年とも12年とも書かれる。

筋は、こうなっている。少年が兄から兜を譲られ、鹿介と名乗り、山の端にかかる三日月を仰いで「願はくは、我に七難八苦を與え給え」と祈る。やがて富田城は兵糧が尽きて落ち、鹿介は京都へ上って再興を企て、信長を頼り、秀吉の軍に加わって、上月城に籠もる。

教科書の上月城は、いまの解説とだいぶ違う。毛利の兵は3万前後と書く解説が目立つのに、教科書では7万の大軍になる。鹿介は、主君に志を告げ、吉川元春を討つために、わざと捕らわれの身になる。護送の理由は分からないとする解説もあるのに、教科書は筋を通した。

七難八苦はもとより望むところ、と教科書の鹿介は思う。苦難を自分から選んだ男の、一本筋の通った最期ができあがった。阿井の渡しの場面も、教科書は劇的に描く。川へ飛び込んだ鹿介が、組みついてきた河村新左衛門を水中で組み伏せる。そこへ福間彦右衛門が、後ろからもとどりをつかんで引き倒す。

結びは、月ごとに三日月の影を川面に浮かべる甲部川の流れ。戦後、この英雄像は、軍国主義と結びついたものとして見直された。鹿之助への関心は、急に薄れていく。かつて熱狂的に支持された人物が、平和な時代に顧みられなくなった。

戦後も、鹿之助は小説の題材であり続ける。松本清張は、昭和30年前後に『山中鹿之助』を少年少女向けに書いた。長く雑誌掲載のままで、初めて1冊になったのは2015年。

墓と銅像と願解き

鹿之助の墓は、一か所に収まらない。ウィキペディアの墓所欄には、阿井の渡し、観泉寺、幸盛寺、本満寺、玉林院、金戒光明寺、徳雲寺、静観寺の8か所が並ぶ。鳥取県の幸盛寺には、亀井茲矩が舅にあたる鹿之助の遺骨を高梁から移して墓を築いたと、説明板に書いてある。茲矩は、鹿之助の養女を妻に迎えて、亀井の名跡を継いだ人だ。

出雲の巌倉寺には、供養塔が立つ。堀尾吉晴の妻が1602年に建てたと、説明板にある。関ヶ原のあとに出雲の新しい領主となった堀尾家の側にも、鹿之助を偲ぶ人がいた。鹿之助の死から、24年がたっている。

鹿之助は、尼子三傑の一人にも数えられる。頼山陽は、漢詩に「虎狼の世界に麒麟を見る」と詠んだ。鹿之助には、山陰の麒麟児という渾名が付く。

勝海舟は、氷川清話で鹿介を大石良雄と並べて褒めた。ここ数百年の歴史で、逆境に落ち着いて向き合えた人物は、ほとんどいない。いるとすれば鹿介と大石良雄くらいだ、というのが海舟の言い分だ。

月山富田城跡の太鼓壇には、三日月に祈る鹿之助の銅像が立つ。山中鹿介幸盛祈月像という名で、没後400年にあたる1978年に建てられた。兜の三日月も、鹿の角も、きちんと付いている。安来市広瀬町布部には、鹿介神社もある。願いが叶うと、お礼に古い武器を納める習わしがあった。

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