- 公園のベンチに、その女は座っていた
- そもそも、ウルバッハ・ビーテ病とは何なのか
- 一九二九年、ウィーンのふたりの医師
- なぜ南アフリカに集まるのか
- イー・シー・エム・ワンという遺伝子
- 石になる扁桃体
- 一九八六年十一月七日、アイオワの診察室
- 顔から恐怖だけが読めない
- 種明かしは二〇〇五年に来た
- 知っているのに、体が学ばない
- ヘビ屋の午後
- ウェイヴァリー・ヒルズの、あの夜
- 十本のホラー映画
- 三か月、一日三回鳴るアラーム
- 十歳のドーベルマン
- 覚えない体、繰り返される夜
- 二〇一三年二月、一息の気体
- 二〇一六年、もう一度だけ
- 恐怖と不安は、そもそも同じものなのか
- 同じ病気の、まったく違う人たち
- ウィーンの、三十八歳の男性
- 前史――サルたちが教えたこと
- 恐怖を持たない人間は、心的外傷を負うのか
- 「恐怖がゼロ」は、言い過ぎではないのか
- 三十年、研究対象であり続けるということ
- なぜこの話は、これほど人を惹きつけるのか
公園のベンチに、その女は座っていた
街灯のまばらな夜の公園で、遠くのほうから犬の吠える声が聞こえていた。
女はベンチにひとりで腰かけていて、時刻は深夜に近かった。地元の人間なら、治安のよくないその場所に、まずその時間帯に入ろうとは思わない。
そこへ近づいてきた男が、彼女の喉元に刃物を突きつけた。殺してやる、という意味のことを言った。普通なら心臓が跳ね上がり、喉が締まり、足がすくむ場面である。
ところが彼女は、すくまなかった。
震えもしなければ、悲鳴も上げなかった。落ち着き払った声で、やめてくれ、という趣旨のことを口にしたと記録されている。あまりにも動じないので、男のほうが調子を狂わせた。男は結局、彼女を放して立ち去った。
普通の人間なら、この夜を境にその公園を一生避けるだろうし、似た夜道の輪郭を見ただけで胃が縮むようになる。それが恐怖という感情の仕事である。
ところが彼女は違った。翌日も、その次の日も、彼女は同じ道を歩いた。恐怖という感情が、彼女の脳から抜け落ちていたからである。
研究者たちが彼女に与えた呼称は、エス・エムという。論文の世界では、二十世紀後半以降もっとも有名な脳損傷の症例のひとりだ。原因はウルバッハ・ビーテ病という、名前すら聞いたことのない人が大半だろう病気である。この病気は彼女の左右の扁桃体を、じわじわと石に変えていった。
これから、その一部始終を追いかける。彼女がヘビを撫でた午後の話と、お化け屋敷でお化けを指で突いた夜の話。そして二〇一三年、たった一息の気体が、失われたはずの恐怖を体の内側から引きずり出した瞬間の話である。
そもそも、ウルバッハ・ビーテ病とは何なのか
すべての出発点がここにあるので、まずはこの病気の話から始めたい。
ウルバッハ・ビーテ病は、類脂質蛋白症とも呼ばれる。体のあちこちに、ヒアリンと呼ばれる硝子様の物質が沈着していく遺伝性の病気だ。常染色体劣性で遺伝するので、両親がともに保因者でないと発症しない。だから患者は世界中に散らばらず、特定の土地に固まって現れる。
最初の症状は、たいてい産まれてすぐに気づかれる。赤ん坊が泣かない、正確に言えば泣き声が出ないのだ。声帯の周辺の組織が厚くなっているせいで、くぐもった呻きのような音しか出せない。
エス・エムもそうで、産科の医師たちはこの子の声はおかしいと気づき、皮膚にも特徴的な病変を見つけている。診断がついたのは、そう遅くない時期のことだ。
成長するにつれて、症状は増えていく。まぶたの縁に、数珠のような小さな粒が並ぶ。この所見には専用の呼び名まである。皮膚は蝋のような質感になり、傷が治りにくくなる。しわが早く刻まれ、実年齢よりずっと年上に見える。
エス・エムは、この皮膚の症状をとても気にしていた。年に何度も、声帯まわりの沈着物を削る手術も受けている。放っておくと気道がふさがるからだ。彼女は自分の声を笑われ続けて育った。研究者たちが記録している中で、彼女がもっとも傷ついたと語るのは、脳の話ではなく皮膚と声の話である。
ここは押さえておきたいところで、彼女にとって最大の苦痛は恐怖の欠如ではなかった。
一九二九年、ウィーンのふたりの医師
この病気が医学の文献に登場したのは、一九二九年のウィーンでのことだ。報告したのはエーリヒ・ウルバッハとカミロ・ビーテのふたりである。
ウルバッハは皮膚科の医師で、ビーテは耳鼻咽喉科を専門としていた。この組み合わせがいかにも象徴的である。皮膚の異常と声のかすれという、ふたつの科にまたがる症状が、ひとりの患者の中で同時に起きていた。だから皮膚科医と耳鼻科医が並んで名を連ねることになった。
病名は、そのままふたりの名を冠して残ったのである。彼らは当時、この病気の原因が遺伝子にあるとは知らない。ましてや、患者の脳の奥で扁桃体が石灰化しているなどとは想像もしていない。それが分かるのは、半世紀以上あとの話になる。
報告例の数は、今日に至るまで多くない。文献をまとめた資料によれば、一世紀近くかけて世界で数百例。四百例前後という見積もりが一般的だ。数百万人にひとり、といった規模の希少疾患である。
そのうちのおよそ四分の一が南アフリカに集中しているのが、この病気のいちばん奇妙なところだ。
なぜ南アフリカに集まるのか
理由は、いわゆる創始者効果である。
南アフリカ北ケープ州には、ナミビア国境に近いナマクアランドという乾いた山岳地帯がある。この一帯に患者が濃く固まって存在している。
さかのぼると、十七世紀半ばにケルンから移住してきた一組の夫婦に行き着くという系譜が示されている。集団が小さく、外との婚姻が少ない環境では、まれな変異が薄まらずに濃縮されていく。オランダ系、ドイツ系、そしてコイサン系の血が混ざった、この隔離された共同体の中で、変異は静かに受け継がれた。
結果として、世界でもっとも症例が集まる場所ができあがった。研究者にとっては皮肉な僥倖で、世界に数百例しかない病気をまとめて診察できる場所が、地球上に一か所だけ存在することになったのである。後述するが、この南アフリカのコホートは、エス・エムの物語にまったく別の角度から光を当てることになる。
イー・シー・エム・ワンという遺伝子
原因遺伝子が特定されたのは二〇〇二年だ。第一染色体上にある、細胞外基質タンパク質をつくる遺伝子である。名称はイー・シー・エム・ワンといい、浜田らの研究グループが同定した。
この遺伝子に変異が入ると、細胞と細胞のあいだを埋める足場のような構造がうまく作れなくなる。だから皮膚が壊れやすくなり、粘膜が厚くなり、傷が治らないというところまでは分かりやすい。
分からないのは、そこから先だ。
なぜこの遺伝子の変異が、よりによって脳の扁桃体だけを狙い撃ちにするのか。この問いに、まだ完全な答えは出ていない。
現在までに、この遺伝子上で四十を超える異なる変異が報告されている。エス・エムの変異も特定されている。ボン大学のヴォルフラム・クンツが彼女の遺伝子を解析し、六番目のエクソンで一塩基が欠けていることを突き止めた。この型は、臨床的により重い経過をたどると予測される。実際、彼女の症状は同じ病気の患者の中でも重いほうだった。
脳の損傷範囲についても同じことが言える。
石になる扁桃体
扁桃体は、左右の側頭葉の内側に埋まっている。アーモンドくらいの大きさの灰色の塊で、名前の由来もアーモンドである。
この病気の患者のうち、およそ半数から七割強で、この扁桃体が両側とも石灰化する。石灰化とは要するに、カルシウムが沈着して硬くなることだ。血管の壁にカルシウムが溜まり、それが固まり、周囲の組織が壊死していく。生きた神経組織が、少しずつ石に置き換わっていく。
見落とせないのは、これが生まれつきではないという点だ。
石灰化は進行するもので、多くの症例では十歳前後から始まると考えられている。そこから思春期を通じてゆっくり広がり、成人期にかけて完成する。病気の罹病期間が長いほど石灰化の範囲も広い、という相関を示した報告もある。
エス・エムの場合も、この時間軸に沿っていた。彼女が最後に恐怖を感じた記憶は、十歳ごろのものである。石が育ちはじめた時期と、恐怖が消えていった時期は、おそらく重なっている。
もうひとつ、この病気の異様さを支えているのは選択性だ。石灰化はほぼ扁桃体だけに起きて、海馬も前頭葉も島皮質も脳幹も無事なままである。だから知能は落ちないし、記憶も基本的には保たれ、言葉も普通に話せる。
つまりこの病気は、外科医が絶対に真似できない精度で、扁桃体だけを取り除く。神経科学者にとって、これほど残酷で、これほど貴重な実験はない。
一九八六年十一月七日、アイオワの診察室
エス・エムがはじめて研究の舞台に現れたのは、一九八六年十一月七日のことである。
場所はアイオワ大学の神経心理学クリニック。神経内科医からの紹介で、二十歳の彼女がやってきた。迎えたのはダニエル・トラネルという若い神経心理学者だ。
その日の予定は、ごく普通の神経心理検査だった。ところがそれが、三十年以上続くプロジェクトの初日になった。
彼女はやがて、アントニオ・ダマシオとハンナ・ダマシオが立ち上げたアイオワ神経学患者登録に組み入れられる。この登録は最終的に三千人以上の脳損傷患者を集めることになるが、彼女の登録番号は四十六番と、かなり初期の患者だった。
最初の脳の画像を見た時点で、研究者たちは異変に気づいた。左右対称に、扁桃体の位置に高信号の塊がある。豆のような形をした、はっきりした影だ。
片側だけの扁桃体損傷なら、脳卒中や手術のあとで珍しくない。両側の損傷も、ヘルペス脳炎のあとなどで見られる。ただしその場合、損傷は必ず扁桃体の外にまで広がっている。両側で、しかも扁桃体にほぼ限局している。そんな患者を、彼らは見たことがなかった。
こうして、ひとりの女性の脳をめぐる長い長い研究が始まった。以後、彼女を対象とした査読つき論文は数十本にのぼる。神経心理学、神経科学だけではない。哲学、社会学、法学、経済学、人類学。彼女の脳から出てきた知見は、そういう分野にまで波及していった。
顔から恐怖だけが読めない
最初の大きな発見は、一九九四年にネイチャー誌上で発表された。著者はラルフ・アドルフス、ダニエル・トラネル、ハンナ・ダマシオ、アントニオ・ダマシオの四人だったのだ。
やったことはシンプルで、人の顔写真を見せて、この人は今どんな感情か、と尋ねるだけである。喜び、悲しみ、怒り、驚き、嫌悪、恐怖といった基本的な表情を並べていく。
エス・エムは、ほとんどの表情を正しく読み取れた。喜びの顔は喜びと分かるし、怒りも悲しみも分かる。
ところが恐怖の顔だけ、読めなかった。
目を見開き、上まぶたを持ち上げ、口をわずかに開いた、あの怯えた顔。誰でも一目で分かるはずの表情が、彼女には分からない。何かは分かるが、それが恐怖だとは出てこない。驚きの表情も、いくらか苦手だった。恐怖と驚きは顔のつくりが似ているから、これは理にかなっている。
大事なのは、彼女が顔そのものを見分けられなくなったわけではないことだ。誰の顔かは正確に言い当てるし、視覚にも問題はない。恐怖という言葉の意味も知っている。恐怖とは何かと聞けば、辞書どおりの説明ができる。
壊れていたのは、他人の顔に浮かんだ恐怖のしるしを拾い上げる機能だけだった。
種明かしは二〇〇五年に来た
では、なぜ恐怖の顔だけが読めないのか。この謎が解けるまで、十一年かかった。
二〇〇五年、ふたたびネイチャーに論文が出る。アドルフスらのグループによるものだ。
彼らは視線を追跡し、エス・エムが顔写真を見るときに目玉がどこを向いているかを測った。
結果は明快で、彼女は相手の目をまるで見ていなかった。
自由に顔を眺めさせると、健常な人は自然と目の領域に視線を集める。彼女はそこへ行かず、口のあたりばかり見ている。そして恐怖という感情は、顔の中でもとりわけ目に出る。見開かれた白目こそが、怯えの決定的な証拠だからだ。
つまり彼女は、恐怖の証拠が置いてある場所を素通りしていた。読めないのではなく、読みに行っていなかった。
ここからが、この研究のいちばん美しいところだ。
研究者たちは彼女に、目を見てください、と指示してみた。
たったそれだけで、彼女の恐怖認識は正常な範囲に戻った。
ひとことの言語的な指示が、十一年間説明のつかなかった障害を消したのである。この結果は、扁桃体の仕事についての理解を書き換えた。扁桃体は感情そのものを作る箱ではなく、どこを見るべきかを自動で決める装置なのではないか。そういう見方が力を持つようになる。この発想は、のちに自閉スペクトラム症の視線研究にも影響を与えていく。
知っているのに、体が学ばない
もうひとつ、一九九五年にサイエンスに出た実験を紹介しておきたい。著者にはアントワーヌ・ベカラ、ダニエル・トラネル、ハンナ・ダマシオ、ラルフ・アドルフス、アントニオ・ダマシオらが並ぶ。
恐怖条件づけという古典的な手続きがある。ある色や音を見せた直後に、不快な刺激を与える。これを繰り返すと、その色や音を見ただけで体が反応するようになる。手のひらが汗ばみ、皮膚の電気抵抗が変わる、意識ではなく体のほうの反応である。
エス・エムでは、この体の反応が育たなかった。何度繰り返しても、条件刺激に対する皮膚の反応が現れない。
ところが、彼女は言葉のレベルではきちんと学習していた。どの色のあとに嫌なことが起きたか、聞けば正確に答えられる。
この論文の面白いところは、対比の相手を用意した点だ。海馬だけが両側で壊れた患者では、正反対のことが起きた。体は学習するのに、何が起きたか説明できない。両方壊れた患者は、どちらもできない。
知識と体の反応が別の場所で別々に動いていることを、人間で証明した実験である。
エス・エムは危険を知っているのに、体のほうがそれを覚えない。この乖離が、後で彼女の人生に容赦なくのしかかってくる。
ヘビ屋の午後
さて、ここからがこの話の本番になる。
二〇〇三年ごろから、ファインスタインらのチームは、実験室の外での彼女を調べ始める。検査室で数字を取るのではなく、現実の恐怖に彼女をさらしたらどうなるのかを見ようとしたのである。
まず連れて行ったのは、エキゾチックアニマルを扱うペットショップである。
出発前、彼女は嫌そうな顔をしていた。ヘビは嫌いだし、クモも嫌い、見かけたら避ける。そう言っていたのだから、本人の申告としては平均的な人間と変わらない。
店に入ると、ガラスの水槽が壁一面に並んでいる。その中でとぐろを巻いているものがいる。
彼女はまっすぐ、そこへ歩いていった。
自分から水槽に近づき、店員に頼んで、小さめのヘビを持たせてもらう。そこから三分以上、彼女はヘビを離さなかった。
彼女がやったことは、恐る恐る持つ、ではなかった。鱗を指で擦り、舌が出てくるところに触り、体がうねる動きを顔を近づけてじっと観察したのである。
そして口をついて出た言葉は、これだ。正直、想像していた反応とは真逆だった。
これ、すごい。
もうひとつ、彼女は妙な質問をしている。この子たちがこっちを見るとき、何が見えてるんだろう。
好奇心である。恐怖ではなく好奇心が、そのとき彼女の中に立ち上がっていた。
このあと、事態はやや厄介になる。彼女は危険な種類の大きなヘビのほうへ行きたがった。店員がだめだと止めても引き下がらず、記録によれば十五回も触らせてくれと頼んでいる。
タランチュラのケースの前でも同じことが起きた。手を伸ばしかけて、噛まれる危険があるので、まわりの人間に止められている。
なぜ触りたがるのか、ヘビもクモも嫌いだと言っていたのに。研究者がそう尋ねると、彼女は好奇心に負けた、と答えた。
このあいだ、彼女は自分の恐怖の強さを、ゼロから十の目盛りで申告し続けていたが、数字は一度も二を超えなかった。
ここには、この症例の核心が凝縮されている。彼女は言葉のレベルでは、ヘビは危険で嫌なものだと知っている。知っているのに、体がまったく反応しない。そして反応がないところに残るのは、剥き出しの好奇心だけだ。
危険という信号が消えると、人はこうなる。
ウェイヴァリー・ヒルズの、あの夜
次に彼女が連れて行かれたのは、ケンタッキー州にある元結核療養所だった。ウェイヴァリー・ヒルズという名前で知られている。
世界でもっとも幽霊が出るとされる場所のひとつだ。長い廊下、崩れかけた病棟、大量に死者を出した歴史。そこがハロウィンの時期になると、本格的なお化け屋敷として営業する。
チームはハロウィンの夜、そこへ行った。
一行は、彼女のほかに、面識のない女性が五人。合わせて六人で暗い建物に入っていく。
普通、こういうときの人は固まって前に出たがらず、誰かの背中に隠れる。
エス・エムは、自分から先頭に立った。
暗い廊下に躊躇なく踏み込んでいく。角を曲がると仕掛けが作動し、化け物の扮装をした演者が悲鳴を狙って飛び出してくる。
後ろの五人は、悲鳴を上げた。
彼女は、笑った。
笑って、そのうえ化け物のほうへ近づいていき、話しかけようとまでしたのだ。ここは職場ですか、みたいな調子である。演者からすれば、およそ予定にない反応だ。
極めつけの場面として、彼女は好奇心にかられて化け物の頭を指で突いている。
驚いたのは化け物のほうで、脅かす側が脅かされる側にびっくりさせられた。
この夜、彼女が申告した恐怖の数値は、最初から最後までゼロだった。
ただし退屈していたわけではなく、彼女はむしろ興奮していたのである。楽しかった、と語り、その感覚をジェットコースターに乗っているときの気分だと表現している。
ここも見逃せないところで、恐怖のない彼女は無感動な人間ではなく、刺激にはきちんと反応するし、むしろ人一倍面白がる。抜け落ちているのは、興奮のうちの危ないという成分だけだ。
十本のホラー映画
実験室に戻ってからは、映画を使った。
恐怖を狙った映画のクリップを十本。あいだに、嫌悪、怒り、悲しみ、喜び、驚きを狙ったクリップを挟む。こうすると、彼女の感情がまるごと死んでいるのか、恐怖だけが欠けているのかが分かる。
使われた作品には、リング、ブレア・ウィッチ・プロジェクト、シャイニング、羊たちの沈黙、セブン、ハロウィン、アラクノフォビアなどが並ぶ、まっとうなラインナップだった。
結果は、ここまでの流れどおりである。恐怖の場面で、彼女は怖がらなかった。
そのかわり、彼女は面白がった。展開に身を乗り出して興奮し、ある作品については題名を教えてくれと頼んでいる。あとでレンタルして自分で観たい、というのである。
一方、ほかの感情はきちんと動いた。笑うところでは笑い、気持ち悪い場面では気持ち悪がり、怒りの場面では怒った。壊れているのは、恐怖という一本の回路だけだ。
このとき彼女は、鋭いことを口にしている。たぶん普通の人はこれを怖がるんだと思う、自分は怖くないけれど。
自分に何が欠けているかを彼女は理解していて、理解したうえで感じない。
三か月、一日三回鳴るアラーム
自己申告だけでは弱いことを研究者たちは分かっていたから、測り方を何重にも重ねた。
まず、恐怖や不安を測る質問紙を八種類、それを数年にわたって何度も実施した。恐怖の一覧表、社会的な回避と苦痛、不安への過敏さ、パニックと恐怖症の質問票と、角度の違うものを揃えている。
すべてで、彼女の点数は床に張りついた。標準的な平均を大きく下回るどころか、ほぼ最低値である。
次に、体験サンプリングという手法を使った。小さな携帯端末を彼女に持たせ、三か月間、生活のあいだじゅう持ち歩いてもらう。一日三回、ランダムな時刻にアラームが鳴る。鳴ったらその瞬間の気分を、五十種類の感情語について評定する。
三か月で百五十六回分のデータが集まった。
そのうち、常に最低評定だった感情語が六つある。怯えている、神経質、怖い、罪悪感、恥ずかしい、恐ろしい。この六つは、三か月間ずっと底のままだった。
逆に、三か月でもっとも高く評定された感情語は何だったか。
恐れ知らず、という語である。
それだけではなく、研究者たちは彼女の日記を読み込み、家族や親しい人に話を聞き、警察の記録まで当たった。過去に遡って、彼女が恐怖を感じた出来事がないかを探したのである。
成人期については、ひとつも見つからなかった。
十歳のドーベルマン
ただし、子ども時代には見つかった。
十歳より前の記憶の中に、彼女が確かに怖がった出来事がいくつか残っている。
暗闇が怖くて、姉のベッドに潜り込んだこと。夜の墓地を歩いていて、兄が木の陰から飛び出してきたこと。このときは泣き叫んで逃げたという。
そしてもうひとつ、決定的な記憶がある。母親の友人の家での出来事で、彼女はそこで飼われていたドーベルマンに手を伸ばした。
以下は、彼女自身の言葉として記録に残っているものである。
いきなり隅っこに追いつめられて、唸られて、逃がしてもらえなかった。ママ、ママ、助けてって叫んだ。叫ぶたびに犬が近づいてきて、歯をむいた。家の人が入ってきて、動かないで、動かないでって言った。その人が鎖をつかんで、ゆっくり、ドアのほうへ、急がないで、急ぐと飛びかかるから、ゆっくり、と言ったのである。
お腹がぎゅっと縮んだのを覚えている。動くのが怖かった。泣きながら、家に帰りたいって言ってた。あれが、本当に怖かった唯一のとき。腹の底からぞっとするやつ。
この証言は、この症例の中でもとりわけ重い。
理由は大きく二つある。ひとつは、彼女が恐怖を体験として知っているという証明になること。恐怖を語彙としてしか知らない人間の描写ではない。すくむ体、逃げたい衝動、内臓の感覚、思考の内容。恐怖という状態のすべての部品が、この語りには揃っている。
もうひとつは時間の問題で、この記憶はおよそ十歳ごろのものである。そしてこの病気の脳内石灰化は、多くの症例で十歳前後に始まるとされる。
つまり彼女の恐怖は、生まれつきなかったのではない。持っていたものを、思春期をかけて失った。石が育つのと入れ替わりに、感情がひとつ、消えていったのである。
覚えない体、繰り返される夜
ここからは、あまり気持ちのいい話ではない。
恐怖がないというのは、映画を怖がらずに済むという話ではなかった。彼女の人生において、それは端的に危険だった。
記録されているだけでも、彼女は複数回、生命に関わる暴力にさらされている。刃物を突きつけられたこと、銃を頭に当てられたこと、殺すという言葉を面と向かって浴びせられたこと、そして家庭内での暴力。しかもそれは一度ではない。
具体的な描写は、ここでは避ける。本人の尊厳に関わるし、書き連ねる意味もない。事実として、彼女が住んでいた地域の治安が悪かったこと、そして彼女自身が危険な相手を見分けられなかったことが、重なった結果だとだけ記しておく。
問題は、そのあとに起きることだ。
銃を頭に突きつけられた一件では、彼女はその出来事を、変なことがあった、程度に受け止めていた。以前から届いていた脅しと結びつけて考えることもしなかった。
もっと切実なのは、その後の行動である。彼女は危険な場所を避けるようにならなかった。同じ道を歩き、同じ相手に近づいた。ある襲撃のあとでは、加害者から車で送ってもらって帰宅したという記録さえある。
理由ははっきりしている。恐怖の役割は危険を経験させることではなく、危険を二度と繰り返させないことだ。
一度怖い目に遭えば、その場所、その顔、その時間帯に、体が勝手に警報を鳴らすようになる。これが恐怖条件づけの本質だが、彼女にはその学習ができない。一九九五年の実験が示したとおりだ。
だから彼女の人生では、危険が学習されずに、ただ繰り返された。
研究者たちの表現を借りるなら、彼女の行動は何度も何度も、避けるべき当の状況へと彼女を連れ戻した。
この一文は、この症例研究全体の結論に近い。扁桃体が何のためにあるのかと言えば、答えはただ生き延びるためである。
もうひとつ、彼女には対人距離の感覚がなかった。他人とどれくらい離れて立つべきかという基準が、まるで働かない。見ず知らずの相手と鼻先が触れそうな距離で向き合っても、平気だった。
信頼の判断も壊れていて、顔写真を見せて、この人は近づきやすいか、信頼できるかを尋ねる実験がある。健常な人が明らかに危険だと感じる顔を、彼女は近づきやすく、信頼できると評定した。
危険な相手を危険だと感じず、距離を取れず、学習もしない。この三つが揃った人間が治安のよくない土地で暮らしていたら、何が起きるかは想像に難くない。
二〇一三年二月、一息の気体
そして、この物語の折り返し点が来る。
二〇一三年二月三日、ネイチャー・ニューロサイエンスにオンラインで論文が出た。筆頭にジャスティン・ファインスタイン、責任著者にダニエル・トラネル、そしてもうひとりの上席著者としてジョン・ウェミーが名を連ねている。共同筆頭著者にはコリン・ブザとルネ・フルレマンがいた。
やったことは、シンプルで、そして相当に大胆だ。
三十五パーセントの二酸化炭素を含む気体を、一息だけ吸わせる。
これは実験心理学の世界では確立された手法である。数十秒から一分程度、短いパニック発作を人工的に起こす。窒息しかけているという信号が体内で発生し、脳がそれを危機と判断する。外から危険が来るのではなく、体の内側から警報が鳴る仕組みだ。
被験者は三人で、全員が扁桃体を両側で損傷した患者である。エス・エムと、もうふたりの女性。この二人は一卵性双生児で、記号ではビー・ジーとエー・エムと呼ばれる。三人とも、パニック発作の既往はない。比較のために、健常な参加者が十二人参加した。
吸入の直前、両者のあいだにはっきりした違いが出た。
健常な参加者の多くは、吸う前から汗をかき、心拍が上がっていたのである。これから何か嫌なことが起きると分かっているからだ。これが予期不安で、外の情報を扁桃体が処理して体を身構えさせている。
三人の患者には、それがまったくなかった。落ち着き払っていて、エス・エムはいつもどおり平然としていた。
そして、吸ったのである。
数秒後、彼女は助けを求めて叫んだ。
三人とも同じで、息を求めて喘ぎ、心拍が跳ね上がり、呼吸数が急上昇し、顔が苦悶に歪み、装着していたマスクをむしり取ろうとした。
ファインスタインは、後にこう表現している。彼女たちは命が危ないと思っていた、と。
そして吸入が終わったあと、彼女たちが語った内容が、この研究の最大の成果になった。三人はその感覚を、これまでの人生で一度も味わったことのない、まったく新しいものだと述べた。そしてそれを、パニックという言葉で呼んだ。
数字も明快だった。扁桃体損傷の三人は、三人ともパニック発作を起こした。つまり百パーセントである。健常な比較群十二人のうちパニックを起こしたのは三人で、二十五パーセントだ。
パニック発作の既往がない人が二酸化炭素を吸ったときの発作率としては、この二十五パーセントは平凡な数字である。異常なのは、扁桃体のない三人が全員パニックを起こしたほうだ。
ウェミーはこの結果に完全に不意を突かれたと語っている。彼はマウスの研究で、扁桃体が直接二酸化炭素を感知して恐怖を作ることを示していた。人間でも同じだろうと踏んでいたのである。
意味するところは、大きく二つある。
まずひとつ、恐怖とパニックを生み出す経路はひとつではない。外から来る脅威を処理する経路には扁桃体が要る。ヘビも、お化け屋敷も、暗い公園も、この経路だ。ところが体の内側から来る脅威には、別の経路がある。脳幹か、間脳か、島皮質か、候補はいくつも挙がっているが、少なくとも扁桃体は通らない。
そしてふたつめに、正常な扁桃体はむしろパニックを抑えている可能性がある。損傷群のほうが発作率が高かったからだ。恐怖の中枢どころか、内側から来るパニックに対しては、むしろブレーキとして働いているのかもしれない。
失われたはずの恐怖が、扁桃体を経由せずに体の内側から蘇った。この結果は、恐怖の神経科学の教科書を書き換えるほどの衝撃を持っていた。
二〇一六年、もう一度だけ
この発見は、その後も追試されている。
二〇一六年三月、ジャーナル・オブ・ニューロサイエンスに続報が出た。サヒブ・カルサ、ジャスティン・ファインスタイン、ラルフ・アドルフス、ルネ・フルレマンらによるものだ。
今度は二酸化炭素ではなく、イソプロテレノールという薬剤を使った。アドレナリンに似た働きをする物質を、静脈に一気に注入する。すると心臓がどきどきし、呼吸が乱れる。生理食塩水を注入する条件と比較する、単盲検の設計だ。
対象になったのは、あの一卵性双生児のビー・ジーとエー・エムである。
結果は部分的な再現で、ふたりとも不安が上昇し、そのうちビー・ジーは本格的なパニックを起こした。エー・エムは不安の上昇にとどまった。
ただし、エー・エムには別の発見があったのだ。彼女は息苦しさをまったく自覚できなかったのである。呼吸の異常を体が感じ取れていない。研究者たちはこれを、内受容感覚の障害の可能性として指摘した。
つまり扁桃体は、体内から上がってくる感覚の変化を検出する働きにも、何らかの形で関わっているのかもしれない。パニックを作るためではなく、体の中の異変に気づくために、である。ここから話はいよいよ込み入ってくる。
恐怖と不安は、そもそも同じものなのか
ここで、少し概念の整理をしておきたい。
日本語だと、恐怖と不安は近い言葉に見える。ところが神経科学の文脈では、この二つは意識して区別される。
恐怖は、目の前にある明確な脅威への反応だ。立ち上がるのが速く、脅威が去れば速やかに引く。ヘビが目の前にいる、刃物が喉元にある。そういう状態が恐怖と呼ばれる。
不安のほうは違って、対象がはっきりしないか、あるいは遠い。いつ来るか分からないが何かよくないことが起きそうだ、という状態が続き、立ち上がりは遅く、いつまでも尾を引く。
動物実験の世界では長らく、この二つを別の場所が担当していると考えられてきた。急性の恐怖は扁桃体、持続する不安は分界条床核という、扁桃体の隣にある構造。そういう分業モデルが長く語られてきた。
ただし、近年この単純な分業には強い反論が出ている。人間の脳画像研究でも、動物の研究でも、この二つの領域はどちらも、確実な脅威にも不確実な脅威にも反応することが示されてきた。厳密な二重解離は成り立たない、というのが現在の主流に近い。両者は密接につながった一体の回路であり、そこで異なる種類の脅威情報が統合されている、という見方である。
エス・エムの症例が面白いのは、この議論に別の軸を持ち込んだからである。恐怖か不安かではなく、外から来るか内から来るか。この軸は、それまでほとんど誰も真剣に扱っていなかった。
彼女の脳を調べた画像からは、扁桃体の隣にある分界条床核は無事だと報告されている。海馬も無事だし、島皮質も、腹内側前頭前野も、視床下部も、脳幹の中脳水道周囲灰白質も無事である。損傷は扁桃体とそのすぐ周囲、前嗅内皮質のあたりまで。
だから彼女の身に起きたことは、脳のどこが何をしているのかを切り分ける、途方もなく精密なメスになった。
同じ病気の、まったく違う人たち
さて、ここで南アフリカに戻りたい。
エス・エムだけを見ていると、扁桃体が壊れた人間は恐怖を失う、という結論に直行しそうになる。ところがそうならない症例が、まとまった数で存在する。
二〇一二年、トランスレーショナル・サイキアトリーという雑誌に、驚くべき報告が出た。デイヴィッド・テルバーグ、バラク・モーガン、ダン・スタイン、ヤック・ファン・ホンクらによるものだ。
彼らが調べたのは、ナマクアランドの山岳地帯に暮らす、五人の女性患者である。全員がウルバッハ・ビーテ病で、全員に両側の扁桃体石灰化があった。
ここで決定的なのは、石灰化の範囲だ。
高解像度の画像で調べたところ、この五人の損傷は扁桃体の中の基底外側部という一区画にほぼ限られていた。扁桃体は単一の塊ではなく、いくつもの亜核の集合体で、それぞれ役割が違う。この五人では、中心内側部にあたる領域が機能的に無事だった。
エス・エムは違って、損傷は扁桃体のほぼ全体に及んでいる。報告されている中でも、もっとも完全に近い扁桃体損傷のひとつだ。
そして、結果は正反対になった。
この五人は、恐怖に対して過敏だった。
意識に上らない速さで恐怖の表情を提示する課題で、彼女たちは健常者より強く反応したのである。動く顔の表情を見せる課題では、目の領域を健常者より長く見つめた。そのうえで、恐怖の表情を健常者より正確に読み取った。
読めなかったエス・エムと、上手に読めたこの五人。同じ病気で、同じ両側の扁桃体石灰化なのに、である。
説明として提示されたのは、抑制の解除という考え方だ。げっ歯類の研究では、基底外側部が生得的な恐怖反応を抑え込んでいることが示されている。その抑え役が壊れると、抑えられていた側が前に出てくる。だから恐怖に対する警戒が過剰になる。
エス・エムの場合は、抑え役だけでなく、抑えられていた側も一緒に潰れた。だから脅威を脅威として評価すること自体ができなくなった、という整理になる。
この対比が効いてくる。扁桃体が壊れると恐怖がなくなるという素朴な図式は、これで成立しなくなる。どこがどれだけ壊れたかで、結果は正反対にもなる。
この南アフリカのコホートからは、さらに変わった知見も出ている。彼女たちは信頼ゲームで見知らぬ相手に無防備なほど気前よく投資した。倫理的なジレンマ課題では、大勢を救うために誰かを犠牲にする選択を、どうしても支持できなかった。この方向の研究を続ける研究者たちは、扁桃体の基底外側部を恐怖の中枢ではなく、他者の必要と意図を秤にかける社会的な羅針盤として捉えなおすべきだと主張している。
ウィーンの、三十八歳の男性
もうひとつ、対比になる症例を挙げておきたい。
二〇〇六年、アーカイブス・オブ・ニューロロジーに、ウィーンの医科大学から一例報告が出た。ゲラルト・ヴィースト、エヴァ・レーナー・バウムガルトナー、クリストフ・バウムガルトナーによる。
患者は三十八歳の男性で、四歳のときに皮膚の症状からウルバッハ・ビーテ病と診断されていた。そこから三十四年間、神経学的にはとくに問題なく過ごしてきた。感情の発達も普通で、恐怖やパニックについて異常はなかったのである。
三十八歳になって、彼は突然、自然発生のパニック発作を起こすようになる。何の引き金もなく、動悸がして、呼吸が速くなり、今にも死ぬという感覚に襲われる。発作は五分から二十分続き、数日おきに繰り返された。同時に、抑うつ的な気分も現れた。
検査をすると、脳の画像には両側の扁桃体の選択的な石灰化があり、しかも扁桃体複合体の全体に及んでいたのである。てんかんの可能性は、五日間にわたる脳波の監視で除外された。
つまりこの男性は、扁桃体をほぼ全部失った状態で、パニック発作を起こしていた。
これは二〇一三年の二酸化炭素実験の七年前である。当時この報告は、扁桃体がパニックの発生に必須ではないことを示す、孤立した奇妙な一例として扱われていた。あとから振り返ると、これは予兆だった。
ちなみに、この患者にはもうひとつ興味深い所見があったのだ。彼は自伝的な出来事の記憶が落ちていたのである。旅行に行った都市の名前は言えるのに、そこで何があったかを思い出せない。事実は残るが、エピソードが残らないのだ。感情を伴う記憶の定着に扁桃体が関わっている、という説を支持する所見だ。
抗うつ薬による治療でパニック発作と抑うつは消えたが、記憶の障害だけが残った。
前史――サルたちが教えたこと
エス・エムの物語を正しく味わうには、その手前にある研究史を知っておいたほうがいい。
出発点は一九三〇年代で、ハインリヒ・クリューヴァーとポール・ビューシーというふたりの研究者が、サルの側頭葉を両側で切除する実験を行った。一九三九年に、彼らはその結果をまとめている。
手術後のサルには、奇妙な変化の束が現れた。物を見ても何なのか分からなくなり、何でも口に入れ、手当たり次第に触りたがり、性行動が過剰になる。そして、極端におとなしくなった。
このおとなしさこそが問題だった。ヘビを見せても怖がらず、人間が近づいても逃げない。恐怖という反応そのものが消えていた。
この症候群は、ふたりの名を取って呼ばれるようになる。ただしこの時点では、側頭葉全体を切っていた。責任がどの部分にあるかは分からない。
一九五六年、ローレンス・ウェイスクランツが、より狭く扁桃体複合体だけを除去する実験を行った。すると、恐怖の消失やおとなしさは、扁桃体の除去だけで再現された。犯人は扁桃体だと、ここで特定される。
そこから一気に不穏な実験に進むのが、一九六〇年代末のアーサー・クリングの仕事だ。
一九六九年、プエルトリコ沖のカヨ・サンティアゴという小島で、野生のアカゲザルを捕獲し、扁桃体を除去し、群れに戻すという研究が行われた。実験室ではなく、自然の中でどうなるかを見る試みである。
結果は残酷なものだった。手術を受けたサルたちは群れから排除され、攻撃され、海に追い込まれた。二週間のうちに、年長の個体は餓死や傷や溺死で全て死んだ。報告書には、彼らは危険な衝突を予見して避ける能力を欠いているように見える、という趣旨の記述がある。
同じころ、クリングはアフリカでも同じ実験をした。ザンベジ川沿いに暮らすベルベットモンキーが対象だ。
放したサルたちは、すぐに群れから離れて低木の茂みに隠れるか、木の高い枝に登った。すぐそばに食べ物も水もあるのに、食べるところも飲むところも観察されなかった。そして七時間のうちに全頭が行方不明になり、二度と見つからなかったのである。クリングは後年、彼らは捕食者に取られたのだろうと述べている。
答えは、身も蓋もないほど明確だった。扁桃体なしで野生を生き抜くことはできない。
そして、ちょうどこの実験が行われていた一九六八年の冬、アメリカでは三歳の誕生日を迎えた女の子がいた。彼女の脳の中では、これから数十年をかけて、外科医が真似できない精度の実験が、勝手に進行しようとしていた。
恐怖を持たない人間は、心的外傷を負うのか
ここで、視点を反対側に振ってみたい。
恐怖が足りない側の話をしてきたが、世の中で圧倒的に多いのは、恐怖が過剰な側の苦しみだ。心的外傷後ストレス障害、パニック症、恐怖症、全般不安症と、数え上げればきりがない。
エス・エムの症例は、その治療にどう関係するのか。
ヒントになるのは、二〇〇七年末にネイチャー・ニューロサイエンスに出た、マイケル・ケーニヒスとジョーダン・グラフマンらの論文だ。
対象はベトナム戦争の退役軍人である。頭部に穿通性の外傷を負い、脳のどこかが局所的に壊れた人たち。合わせて百九十三人で、そこに戦闘は経験したが脳損傷のない五十二人を加えた。
全員に構造化面接を行い、生涯のうちに心的外傷後ストレス障害を発症したかを判定した。そのうえで、損傷部位ごとに発症率を比べる。
脳損傷のない群では、四十八パーセントが発症していた。激しい戦闘を経験した退役軍人としては、妥当な数字だ。腹内側前頭前野にも扁桃体にも損傷がない群でも、四十パーセントだった。
腹内側前頭前野が壊れた群では、十八パーセントに下がった。
そして扁桃体が壊れた群では、発症率がゼロ、ひとりもいなかったのである。
この差は、周囲の側頭葉の損傷では説明できない。扁桃体を含まない側頭葉損傷の群では三十二パーセントが発症していたからだ。海馬の損傷でも説明できず、扁桃体が無事で海馬だけ壊れた九人のうち四人が発症していた。
つまり犯人は扁桃体で、そこが壊れていると恐ろしい体験をしても、それが心的外傷後ストレス障害という形で定着しない。
さらに目を引くのは、この研究の扁桃体損傷が片側だったことだ。片方壊れているだけで、発症率がゼロになった。
エス・エムのケースと重ね合わせると、話は分かりやすくなる。彼女は普通なら心的外傷を負って当然の出来事を、複数回くぐり抜けている。それでも、悪夢に苦しみ、フラッシュバックに襲われ、その場所を避けて暮らす、という典型的な経過をたどらなかった。過去の暴力について尋ねると、彼女は怒りを語る。恐怖ではなく怒りであり、そして持続する苦痛や回避を示さない。
ここから、治療への応用が語られてきた。扁桃体の働きを一時的に、選択的に落とすことができれば、心的外傷の定着を防げるのではないか。あるいは、すでに定着した恐怖記憶を消せるのではないか。
ただし、そう単純にはいかない。二〇一三年の二酸化炭素実験が、そのことを示している。
扁桃体を落としても、体の内側から来るパニックは止まらない。それどころか、抑えが外れて強く出る可能性さえある。パニック症の患者が苦しんでいるのは、まさにこの内側から来るほうの恐怖だ。息が苦しい、心臓がおかしい、このまま死ぬ。
つまり、恐怖のスイッチをひとつ切れば済む話ではなかった。恐怖には少なくとも二本の道があり、切るべき道は、疾患によって違う。この認識自体が、二〇一三年以降の大きな収穫である。
なお、この研究の中心にいたファインスタインは、その後まったく違う方向にも進んでいる。塩水に浮かぶ浮遊タンクを使い、外からの感覚入力を極限まで減らす環境で、不安の強い人がどうなるかを調べる研究だ。五十人の患者を対象にした報告では、一時間の浮遊で不安が大きく下がった。面白いのは、その理由として、内受容感覚が高まることが挙げられている点である。外の刺激を切ると、体の内側の感覚が前に出てくる。
エス・エムが教えた二本の道の話が、そのまま治療の設計に反映されている。
「恐怖がゼロ」は、言い過ぎではないのか
ここまで読んで、気持ちよく信じたくなったかもしれない。恐怖のない女で、完全にゼロ。
そこには、いくつもの留保が要る。研究者自身が、それを丁寧に列挙している。
第一に、自己申告の限界がある。ある人が何を感じているかを外から確かめる方法は今のところ存在せず、本人に聞くしかない。そして本人が正確に答えているという保証もない。実験の場では、期待される答えを言ってしまう力も働く。研究チームはこれを自覚していたからこそ、質問紙、体験サンプリング、行動観察、日記、家族への聞き取り、警察記録と、方法を何重にも重ねた。
それでも、原理的な限界は消えない。
第二に、被験者がひとりであることだ。エス・エムの症例から言えるのは、厳密には、エス・エムについてのことだけである。双子のビー・ジーとエー・エムによる追試はあるが、母数としては心もとない。
第三に、損傷が発達過程で進行したという点がある。彼女の扁桃体は、大人になってから一気に壊れたのではない。十歳前後から思春期をかけて、じわじわ壊れていった。この間に、脳の他の部分が何らかの形で適応した可能性は否定できない。実際、成人してから扁桃体を損傷した患者エス・ピーと比較すると、恐怖の自己申告はエス・エムのほうがはるかに低かった。
同じ扁桃体損傷でも、いつ壊れたかで結果が変わる。
第四に、損傷が扁桃体だけに限られていない点だ。彼女の病変は、前嗅内皮質やその周囲の白質にわずかに広がっている。通過する神経線維も巻き込んでいる。近年では、内側側頭葉の外にも小さな病変が見つかっているという指摘もある。厳密な意味での純粋な扁桃体損傷ではない。
第五に、病気そのものの全身症状が交絡している。かすれた声と老けて見える皮膚が、彼女の社会的な振る舞いや自己評価に、扁桃体とは無関係に影響した可能性は十分にある。人との距離感の異常も、信頼判断の甘さも、全部が扁桃体のせいとは言い切れない。
そして第六に、そもそも恐怖という言葉の使い方への異議がある。
ジョセフ・ルドゥーは、扁桃体を恐怖の中枢と呼ぶことに一貫して反対してきた研究者だ。彼の主張はおおよそこうだ。扁桃体が担っているのは、脅威を検出して防御反応を起こす、意識に上らない仕組みである。一方、怖いという主観的な感じは、大脳新皮質を含む認知的な過程が組み立てるものだ。この二つを混ぜて呼ぶから話がおかしくなる、と。
この立場からすると、二〇一三年の二酸化炭素実験の結果は、むしろ当然ということになる。防御反応の回路と、意識される感じは別物なのだから、片方を壊してももう片方が残っていて何の不思議もない。
さらに言えば、エス・エムがヘビに触れたときの反応を、恐怖がないと呼ぶべきか、危険評価ができないと呼ぶべきか。その二つはまったく同じではない。彼女は自分が触っているものが危険だと知っていて、それでも体が動かなかった。これを恐怖の欠如と呼ぶのは、ひとつの解釈にすぎない。
要するに、恐怖が完全にゼロという言い方は、見出しとしては強いが、記述としては粗い。実際に起きていたことは、外から来る脅威に対する評価と反応が、極端に落ちていた、というほうが正確だ。そしてその極端さが通常の人間の範囲を大きく外れていた点だけでも、十分に異様である。
三十年、研究対象であり続けるということ
倫理の話をしないわけにはいかない。
エス・エムは、二十歳のときからおよそ三十年、研究の対象であり続けた。彼女を扱った査読つき論文は数十本。国際的な教科書に載り、一般向けの記事に何度も取り上げられた。
その過程で、彼女は何をされたか。
生きたヘビとタランチュラの前に立たされ、世界屈指と言われるお化け屋敷を歩かされ、十本のホラー映画を見せられた。三か月間、一日三回のアラームに付き合わされ、そしてパニック発作を人工的に起こす気体を吸わされた。
ひとつずつ見れば、いずれも倫理審査を通る手続きである。参加は同意に基づいており、危険な動物に触れそうになったときは周囲が止めている。二酸化炭素の吸入も、標準的な実験手法だ。
それでも、引っかかるところは残る。
まず問題になるのが、同意の質である。恐怖を感じない人が、危険を伴う実験のリスクを、健常な人と同じ重みで理解できるのか。危険性を説明されても、それが自分にとって危険だという体の反応が起きない人に対して、通常の説明と同意はどこまで機能するのか。この問いは、率直に言って難しい。
次に、研究者と被験者の非対称性がある。研究チームは彼女の生活のかなりの部分を知っていた。日記を読み、家族に話を聞き、警察記録を確認していた。研究者たちは、彼女が特定の相手に近づかないよう助言したと記録している。金銭管理が破綻して生活が立ち行かなくなったとき、代理受給の仕組みを整える手伝いもしている。
つまり彼らは、研究者であると同時に、生活の支援者でもあった。
これは美談として読むこともできるし、境界の問題として読むこともできる。研究上の関係が、被験者の生活の一部を支えている構造は、参加を断りにくくさせる。彼女には、この関係以外に長続きした人間関係がほとんどなかった。
さらに公表の問題として、彼女が受けた暴力の記録が、匿名化されたうえで論文と書籍に書かれている。人類の知識としては、これらの記述には代えがたい価値がある。同時に、当人にとっては、人生でもっとも傷ついた出来事が、世界中の研究者に読まれるということでもある。
そして得られた利益の配分だが、彼女の脳から出てきた知見は恐怖とパニックの理解を大きく前に進めた。将来的に、不安症や心的外傷後ストレス障害の治療につながるかもしれない。
一方の彼女は、成人期の大半を無職で過ごし、障害給付で暮らしてきた。一九九〇年代の後半、福祉から就労への移行プログラムの一環で、三年間だけ警備員として働いたことがある。彼女はその仕事を気に入っていたが、勤務先の建物が閉鎖されて職を失った。
恐怖を感じない人が、警備員という職を自分で選んだ。この事実の重さは、なかなか言葉にしにくい。
研究チーム自身は、この非対称性を認めている。彼女の脳が持つ稀少さが、科学的な必要性を生み、その必要性が研究を正当化した。ただし科学が得たものと、彼女個人が負ったリスクは釣り合っていない。この落差は、いまも解消されていない。
読者としてできることは、たぶんひとつだけだ。彼女を面白い脳の持ち主として消費しないこと。この記事も、その線をどこかで踏み越えているかもしれない。書きながら、そのことは考えている。
なぜこの話は、これほど人を惹きつけるのか
最後に、この症例がなぜこんなに語られるのかを考えておきたい。
理由のひとつは、単純な羨望だと思う。
怖くない人生というのは、多くの人にとって一度は夢想する状態だろう。人前で話すのが怖い、失敗が怖い、病気が怖い、老いるのが怖い、死ぬのが怖い。恐怖は生きているあいだじゅう、人間にまとわりついてくる。
その全部が抜け落ちた人が実在すると聞けば、それは羨ましく響く。恐れ知らずというのは、褒め言葉として使われる語だ。
ところが実際の記録を追うと、憧れは急速にしぼんでいく。
恐怖がない人生は、勇敢な人生ではなかった。彼女は勇気を出して危険に立ち向かったのではない。危険が危険に見えていなかっただけだ。勇気とは、怖いと知りながら進むことを言う。恐怖が消えた場所に残るのは、勇気ではなく、無防備さである。
もうひとつの理由は、境界の話だからだと思う。
私たちは普段、自分の感情を自分のものだと思っている。怖いと感じるのは、私が怖がっているからだ。ところが彼女の症例は、そこに石灰化した小さな組織を差し込んでくる。アーモンド大の部品が壊れると、感情がひとつ、丸ごと消える。
これは怖い話で、私という感覚の土台が思ったよりずっと物質的だという事実を突きつけてくる。
三つめに、二〇一三年の実験がこの物語を完成させた。
もし話が二〇一一年で終わっていたら、これは切ない話ではあっても、閉じた話にはならなかった。恐怖のない女がいる、以上。
そこに、失われたはずの恐怖が、体の内側から蘇る場面が加わった。しかも彼女自身が、生まれてはじめて味わう感覚だと語った。
これは物語として、ほとんど出来すぎている。
失った感情が、まったく別の扉から帰ってくる。そして帰ってきたそれは、彼女がずっと持っていなかったものだった。
たぶん、この話が人を掴んで離さないのは、ここが理由だ。恐怖は、脳のどこか一か所にしまってある物ではなかった。もっと古く、もっと深く、体そのものに配線されている何かだった。
彼女の扁桃体はすっかり石になったのだ。それでも、息ができなくなった瞬間、彼女は命を守れと叫んだのである。
さて、ここから先は総括と、書ききれなかった論点の追加である。
まず、この症例の骨格をもう一度、時系列で押さえ直したい。ここを曖昧にしたまま読むと、いろいろな話が混ざる。
一九二九年、ウィーンでエーリヒ・ウルバッハとカミロ・ビーテが病気を初記載する。一九六五年、エス・エムが生まれる。産まれた直後から、泣き声が出ないことで異常が疑われた。一九六八年、彼女が三歳の誕生日を迎えたころ、アーサー・クリングが野生のサルの扁桃体を除去する実験を行っている。十歳前後に脳内の石灰化が始まり、同じころ彼女は最後の恐怖体験である大型犬の記憶を残している。
一九八六年十一月七日、二十歳の彼女がアイオワ大学のダニエル・トラネルの前に現れる。一九九〇年、最初の神経心理学的な報告が出る。一九九四年、顔から恐怖が読めないという発見がネイチャーに載る。一九九五年、恐怖条件づけの障害がサイエンスに載る。一九九八年、信頼と接近しやすさの判断の障害がネイチャーに載る。
二〇〇二年、原因遺伝子イー・シー・エム・ワンが同定される。二〇〇三年、実生活を含む長期の事例研究が始まる。二〇〇五年、目を見ていないという種明かしがネイチャーに載る。二〇〇九年、対人距離の障害が報告される。二〇一一年一月、ヘビとお化け屋敷とホラー映画の研究がカレント・バイオロジーに出る。
二〇一二年、南アフリカの五人の患者が恐怖に過敏だという報告がトランスレーショナル・サイキアトリーに出る。二〇一三年二月、二酸化炭素実験がネイチャー・ニューロサイエンスに出る。二〇一五年、彼女は五十歳の誕生日を迎える。二〇一六年、イソプロテレノールによる部分的な追試がジャーナル・オブ・ニューロサイエンスに出る。同年、この症例をまとめた書籍の一章が刊行される。
この年表を眺めて感じるのは、発見の順番の妙だ。
最初に見つかったのは、顔の表情という、いかにも実験室らしい題材だった。そこから十年以上かけて、視線という機構の問題へ降りていく。さらにそこから、現実のヘビとお化け屋敷へ出ていく。そして最後に、体の内側という、誰も見ていなかった方向に到達する。
外から内へ、抽象から具体へ、そしてまた具体から根源へ。この動きが、一人の被験者の三十年を通じて起きた。神経科学の研究史として、ちょっと類例がない。
次に、この症例について、本編では触れきれなかった論点をいくつか足しておく。
ひとつめに挙げたいのは、感情記憶の問題である。
一般に、感情を強く揺さぶられた出来事は、記憶に残りやすい。怖い体験、嬉しい体験は、なんでもない一日より鮮明に残る。この記憶の増強に、扁桃体が関わっていることは、かなり前から知られていた。
エス・エムでは、この増強が起きにくい。中立的な内容の記憶は普通に定着する。ところが感情的に強い内容については、定着の増強が働かない。
これは地味に見えて、生活への影響が大きい。危ない目に遭った出来事が、特別扱いされずに、ほかの日常と同じ棚に片づけられていくということだからだ。恐怖の学習ができないという話と、この記憶の話は、実は同じ現象の別の面を見ている。
ウィーンの三十八歳の男性で見つかった、自伝的エピソードの記憶障害も、同じ系列に並ぶ所見だと考えられている。旅先の都市名は覚えているのに、そこで何が起きたかを思い出せない。感情の色がつかない記憶は、出来事としての手ざわりを失うのかもしれない。
ふたつめに挙げたいのは、意思決定の話である。
エス・エムは、金銭に関わる意思決定でも独特の振る舞いをする。損失を避ける傾向、いわゆる損失回避が、彼女ではほとんど見られなかった。同じ金額でも、得るときの嬉しさより失うときの痛みのほうが大きい。これは人間に広く見られる非対称性だ。彼女には、この非対称性がなかった。
カードを引いて損得を積み上げていく課題でも、彼女は不利な選択をする前に体が警告を出さなかった。健常な人は、不利な山に手を伸ばす直前に、無意識のうちに皮膚の反応が出る。何かまずい、という体の合図が出るのだが、彼女にはそれが出ない。
つまり彼女の場合、危険が身体感覚として先回りしてこない。これは経済的な判断にも、日常の判断にも効いてくる。彼女が生活費の管理で困難を抱えたことと、無関係ではないだろう。
みっつめに挙げたいのは、社会性の問題である。
彼女は非常に社交的で初対面の相手にもすぐ打ち解ける、ここまでは長所に見える性質を持っていた。
ところが、その打ち解け方が極端だった。会ったばかりの人に内輪の込み入った事情を一気に話し、すぐに親友だと見なす。そして相手に頼み事を重ね、相手が距離を置こうとすると関係を切る。
結果として、彼女には長続きした関係がほとんど残らなかった。外向的で、人懐こくて、それでいて深く孤独だった。
これも扁桃体の話に接続できる。他人との適切な距離を測るには、相手の顔から警戒すべき信号を読み、そこに合わせて自分の振る舞いを調整する必要がある。彼女はその読み取りができないから、接近が過剰になり、そのたびに相手が離れていく。
恐怖の欠如は、危険からの防御を失わせただけではない。人間関係を維持する繊細な調節も、一緒に持っていった。
よっつめに、この症例を理解するうえでいちばん誤解されやすい点を明示しておきたい。
彼女は無感情ではない。
ここを取り違えると、話が丸ごと壊れる。彼女は笑うし、怒るし、悲しむし、嫌悪もするし、驚きもする。三か月の体験サンプリングでも、恐怖に関する語だけが底に張りついていて、それ以外は普通に上下していた。ホラー映画を見て興奮し、お化け屋敷でジェットコースターのようだと言った。
そして暴力を受けた記憶について尋ねられたときには、恐怖ではなく怒りを語ったのである。
感情という機能がまるごと落ちたのではない。恐怖という一本の線だけが切れていた。この選択性こそが、この症例を科学的に価値あるものにしている。何もかも壊れた脳からは、何も分からない。ひとつだけ壊れた脳が、その部品の役割を教えてくれる。
いつつめに、恐怖という言葉の輸入の問題にも触れておきたい。
日本語で恐怖と言うと、幽霊やホラー映画に近い語感を持ちやすい。ところが研究の文脈での恐怖は、もっと乾いた概念だ。脅威の検出、防御反応の起動、回避の学習という、一連の働きを指している。
だから、恐怖を感じない女、という見出しは、正確でありながらミスリードでもある。彼女に起きていたのは、幽霊を怖がらないという話ではない。危険という情報が、行動を変える力を持たなくなっていた、という話だ。
この違いを意識すると、二〇一三年の実験の意味もより鮮明になる。あのとき彼女に起きたことは、幽霊を怖がるのとは全然違う次元の出来事だった。息ができない、死ぬ。この信号は扁桃体を通らずに直接に警報を鳴らした、もっと古い層の話である。
むっつめに、今後どうなるのか。
正直なところ、この症例からこれ以上の新しい発見が出てくるかは分からない。彼女は五十代に入り、病気は進行している。舌、歯茎、唇、まぶた、涙管と沈着はあちこちに広がり、体調は下り坂だという記録がある。研究チームは、近年の検査で言語性記憶の低下の兆しも報告している。
一方で、南アフリカのコホートを対象とした研究は続いている。あちらは扁桃体の中の一区画だけが壊れた人たちだ。彼女たちを通じて、扁桃体の亜核ごとの役割分担が、少しずつ解像度を上げつつある。
そして、二〇一三年に開いた内受容感覚という扉の先は、まだほとんど手つかずだ。体の内側から上がってくる信号が、どこで、どう危機として翻訳されるのか。脳幹なのか、島皮質なのか、その両方なのか。パニック症という、人口の相当な割合が苦しんでいる病気の核心に、この問いは直結している。
ファインスタイン自身が、この症例研究をまとめた文章の最後に、こう書いている。エス・エムが世界に教える最後の教訓がひとつあるとすれば、それは、内側から来る恐怖という、ほとんど手つかずの領域に研究の焦点を移すべきだということだ、と。
最後に、ひとつだけ、書き手として言っておきたいことがある。
この記事の主人公は、症例ではなく、ひとりの人間である。
彼女は産まれたときから声を笑われ、皮膚のせいで実年齢より老けて見えることをずっと気にしていた。三人の子どもをひとりで育て、警備員の仕事を気に入っていた。友達を作りたかったのに、作った友達をいつも失ったのである。
そして、恐怖という警報装置を持たないまま、治安の悪い土地で三十年以上を生き延びた。
野生に放されたサルたちは、数時間から二週間で全滅した。彼女は、生き延びたのである。
その事実が、この長い話の中で、いちばん静かで、いちばん重い一行だと思っている。
