奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

脚が一本、多すぎる――健康な左脚を「これは自分ではない」と言い続けた人々と、彼らを四十年間「変態」と呼んだ医学が、ようやく脳の地図にたどり着くまで

脚が一本、多すぎる

自分の左脚を見下ろして、「これは自分の脚じゃない」と思ったことがあるだろうか。たぶんない。普通はない。脚は生まれたときからそこにあって、ぶつければ痛いし、蚊に刺されれば痒い。所有権を疑う機会がそもそも人生に用意されていない。

ところが、疑う人がいる。というより、疑うどころか、確信している人がいる。膝の少し上に、本人にしか見えない線が一本走っていて、その線から下は自分ではない。他人のものでもない。ただ、余っている。彼らはそれを「余分」と呼ぶ。多いのだ。四本の手足があると、自分は不完全になってしまう。三本でようやく完成する。

こう書くと、たいていの人はまず笑う。次に気味悪がる。そして「変な性癖でしょ」と言って話を終わらせる。医学もおおむね同じ順序をたどった。四十年以上、この状態は「性的倒錯」の棚に置かれていた。棚から降ろされて、神経の問題かもしれないと真顔で検討されるようになったのは、ほんの二十年ちょっと前のことだ。

そして2019年、世界保健機関が国際疾病分類の第11版に、6C21という番号を振った正式な診断名を載せた。ボディ・インテグリティ・ディスフォリア。日本語では身体完全同一性障害、あるいは身体完全性違和と訳される。長らくBIIDという略称で呼ばれてきた状態に、公式の住所ができた瞬間だった。

この記事は、その住所ができるまでの話だ。スコットランドの小さな病院で本当に健康な脚が切り落とされた事件、ティフアナの闇クリニックで死んだ79歳の男、電話をかけまくって52人分の人生を聞き取った精神科医、そして脳のなかの「身体の地図」に穴が開いているらしいと言い出した神経科学者たち。登場人物は多い。どれも実在の人だ。だからできるだけ、笑ったり気味悪がったりしないで書く。

一九九七年九月十六日、フォルカーク

スコットランド中部、エディンバラとグラスゴーのあいだにフォルカークという町がある。運河とローマ時代の城壁跡で知られる、特にどうということのない工業の町だ。そこのフォルカーク・アンド・ディストリクト・ロイヤル・インファーマリーという地域病院の手術室で、1997年9月16日、ひとつの切断手術がおこなわれた。

執刀したのはロバート・スミスという外科医。当時52歳、外科医歴29年、1982年からこの病院に勤めていた。専門は一般外科で、とりわけ血管外科に関心があった。つまり彼の日常業務は、糖尿病や末梢動脈疾患で壊死しかけた脚を、なんとか切らずに済ませることだ。それでも年に30件ほどの切断はやる。切りたくないのに切らなければならない仕事を、彼は三十年近く続けてきた。

その日、手術台の上にいたのはイングランド南東部エセックス在住のケヴィン・ライトという男性だった。大学で助手として働いていた。妻はスーザンといって助産師をしている。当時、生後21カ月の息子がいた。どこにでもいる家庭人だ。

彼の左脚には、何の異常もなかった。血は通っていたし、神経も生きていたし、走ろうと思えば走れた。それでもスミスは、膝の上でその脚を切り落とした。

なぜか。ライトは8歳のときから、その脚が欲しくなかったからだ。

「ただ、自分の一部じゃなかった」

新聞に事件が出た翌週、ライトは一度だけ取材に応じている。彼が語ったのは、拍子抜けするほど静かな話だった。

8歳のとき、彼は自分の左脚が要らないと気づいた。理由は分からない。ドラマチックな事故もトラウマもない。ただ、そこにあるものが自分の一部として感じられなかった。「僕はただ、それが欲しくなかった。自分の一部という感じがしなかったんです」と彼は言った。「なぜだか分からなかった。でも、この脚は要らないと分かっていた」

子どもながらに、これは人に言ってはいけない種類の話だと理解していた。だから誰にも言わなかった。友達にも、親にも、恋人にも。結婚しても言わなかった。妻に打ち明けたのは28歳、結婚して七年目のことだ。スーザンは「驚いたけれど、受け入れた」という。彼女が受け入れたことで、ライトは初めて専門家を探す勇気を持った。

しかしそこから先が長かった。「医療関係者でこれを知っている人はほとんどいなかったし、知りたがる人はもっと少なかった」と彼は言っている。「真っ暗闇でした」。自分と同じ人間がどこかにいるはずだと思っていたが、それを確かめる手段がなかった。1990年代前半のことだ。まだ検索エンジンで「切断願望」と打ち込む習慣が世界にない。

一度は、イングランドの外科医が私費での手術を引き受けてくれた。1995年のことだ。しかし予定日の三日前、病院側が世間の反応を恐れて中止を通告してきた。ライトはこのとき人生の底に落ちた。彼は後に、脚を切ってくれる医者が見つからなかった時期に自殺を考えたことを認めている。

そのすぐあと、知人がスコットランドに切断手術に関心のある外科医がいるらしいと教えてくれた。ロバート・スミスだ。二人は1996年初めにロンドンで会った。

一年半、迷った外科医

スミスが後に語ったところによると、最初にこの依頼を聞いたときの感想は「まったく、完全に、奇妙だ」だった。それでも彼は突っぱねなかった。「明らかに議論を呼ぶことだとは思いました。でも興味を惹かれた。そして、ええ、彼の話に心を動かされました」

そこから彼は一年半かけて調べた。これは重要なところだ。スミスは思いつきで脚を切ったわけではない。地元の精神科医に相談した。その精神科医は反対した。それでも彼は調べ続けた。医療訴訟から医師を守る互助組織であるメディカル・ディフェンス・ユニオンに問い合わせ、患者の最善の利益であると医師が信じ、あらゆる確認を重ねているのであれば、という条件つきで了承を得た。英国医師会の倫理委員会にも話を通した。

患者は二人の精神科医と一人の心理士による評価を受けた。うち一人の精神科医は性別違和の治療を専門にしていた。三人とも、この人にとって外科手術以外の解決はないと結論した。

「一年半かかりました、最初の患者に踏み切るまでに」と彼は後にBBCに語っている。「これらの患者たちが、長年の精神科医や心理士の治療からほとんど何も得ていないことが、だんだん確信に変わっていったんです」

彼はまず、地元の私立病院キングズ・パークで手術をしたいと考えた。国民保健サービスに費用を負担させるべき筋合いの話ではないと考えたからだ。私立病院の医療諮問委員会は賛成した。ところが経営側が、悪い評判を恐れて拒んだ。最後の手段として、彼は勤務先であるフォルカーク・ロイヤルの当時の医療部長ダグラス・ハーパーに相談し、了承を得た。最高経営責任者だったマーガレット・ダフィーからも書面の許可を取った。

そして手術がおこなわれた。ライトが払ったのは手術室の使用料と五日間の入院費で、報道によって金額に幅があるが、千数百ポンドから三千ポンド程度とされている。スミス自身は執刀料を一切受け取っていない。「国民保健サービスの病院でやったので、自分の報酬は放棄しました」と彼は説明している。金は病院に入った。

術後、ライトは変わった。「もちろん僕は別人になったわけじゃない。でも、別人と言ってもいいくらいです」と彼は言う。「幸福と満足があります。生活がずっと落ち着いて、ずっと楽になった」。そして、こう続けた。「あの脚を取ることで、あの外科医は僕を完全にしてくれた」

スミスの側の総括も短い。「ケヴィンは今、幸せな男です。後悔はありません」

二人目、そして三人目で止まった

1999年4月、スミスは二人目の手術をした。患者はドイツ人の男性で、ハンス・シャウブという名で報じられた。当時71歳。この人はライトから話を聞いて訪ねてきた。つまり、患者が患者を紹介したことになる。この手術も、当時の医療部長の了承を得ておこなわれた。ダフィーはすでに病院を去っていた。

問題は三人目で起きた。1999年夏、スミスはアメリカ人の患者の評価を始めたいと考え、新しく発足したフォース・バレー急性期病院トラストの最高経営責任者ジム・カリーに許可を求めた。ここで初めて、経営陣と理事会が過去二件の手術の存在を知る。

許可は保留され、倫理小委員会による調査が始まった。六カ月の調査を経て、2000年1月末に報告が出る直前、話が新聞に漏れた。

世論が爆発した一週間

2000年1月31日、スコットランドのヘラルド紙が「切断手術めぐり内部調査」と報じた。翌2月1日にはガーディアン紙が全国版で扱い、そこから一週間、英国のメディアはこの話で埋まった。

トラスト理事長のイアン・マレンは記者会見で厳しい表現を使った。「この種の手術が、病院の地元での評判に及ぼしうる影響や、地域住民のあいだに生じうる懸念への配慮なしにおこなわれるのは、適切だとは思いません」。さらに、「フォルカークのような国民保健サービスの病院が、明らかに異例な手術のために他所から患者を輸入し、私費診療で扱うのは適切ではない」とも述べた。トラストは以後の同種手術を事実上禁止した。

地元選出の議員デニス・カナヴァンは「信じがたい」と言い、公的調査を要求した。「医師会には、こうした行為を禁じる倫理規定があってしかるべきだと思っていた」。彼は後に、この手術を「猥褻」だと呼び、法律で禁じるべきだと主張している。スコットランド保健相の報道官は、政府としての調査はおこなわないと表明した。

一方、スミスは折れなかった。2月の記者会見で彼はこう言い切っている。「これまで自分が執刀したなかで、もっとも満足のいく手術でした。あの患者たちにとって、自分がやったことが正しかったことに疑いはありません」。そして、切ってもらえなかった人がどうなるかについても警告した。「彼らは自分で法を執行しようとするかもしれない。線路に横たわって列車に轢かれるかもしれない。散弾銃で脚を撃ち落とすかもしれない。

彼らは本当に、切羽詰まった人たちなんです」

医学界の反応は割れた。ロードアイランド州のバトラー病院で身体醜形障害プログラムを率いていたキャサリン・フィリップスは、この種の患者に手術がうまくいくことはまずない、と否定的だった。逆に、こういう例外的な状況でなら効果があり得ると認める精神科医もいた。

ややこしいことに、報道の途中でひとつの事実が出てきた。ライトが、身体障害のある人に惹かれる人々の情報交換サイト「オーバーグラウンド」の運営に関わっていたのだ。性的フェティシズムだったのではないか、という批判がすぐ出た。スミスの答えははっきりしていた。「性的なフェティッシュが要因だったなら、私はあの手術をしなかった」。

彼はサイトを事前に見ており、そこが障害に関する幅広い情報を扱う場であって、ライト自身の問題はその「スペクトラムの端」にある切断願望だと理解した上で判断したと説明した。「私が騙されたとは思いません。結局のところ、患者は極めて満足していて、生活が大きく良い方向に変わったのだから、私は正しいことをしたのです」

八月、スミスは諦めきれずに、私立のアビー・キングズ・パーク病院に手術の許可を申請した。八月二十五日、断られた。経営責任者エリック・ヘミングの手紙にはこうあった。もっと時間をかけて結論を出したかったが、世間の関心が大きすぎて業務の妨げになっている。そして印象的な一文が添えられていた。「身体醜形障害をめぐる状況を研究してきた我々の多くは、当初の不信と嫌悪を疑い始めているかもしれない。

それでも我々は、依然としてきわめて不確かなままです」

その三人目の患者、つまり許可が下りずに脚を残したまま帰ったアメリカ人の名前は、グレッグ・ファースといった。この名前は、この話のもっと前と、もっと暗い場所にも出てくる。

名前をつけた男、ジョン・マネー

話を1970年代に戻す。

この状態に最初の学術的な名前をつけたのは、ジョンズ・ホプキンス大学の心理学者ジョン・マネーだ。ニュージーランド出身で、性の心理学の分野では毀誉褒貶の激しい大物だった。1977年、彼はラッセル・ジョバリス、グレッグ・ファースとの共著で、ジャーナル・オブ・セックス・リサーチ誌にこう題した論文を出した。「アポテムノフィリア――パラフィリアとしての自己要求切断の二症例」。

掲載は13巻2号、115ページから125ページ。

アポテムノフィリアはギリシャ語からの造語だ。アポは「離れて」、テムノは「切られたもの」、フィリアは「愛」。つなげると「切断への愛」になる。マネーはこれを、切断された人に性的に惹かれる状態であるアクロトモフィリアと区別した。前者は自分が切断されたい。後者は切断された他人に惹かれる。

そして、この語尾が決定的だった。フィリアという接尾辞は、その状態を「パラフィリア」、つまり性的倒錯の一族に登録してしまう。マネー自身、論文でこう書いている。この強迫は妄想ではなく固定観念である。切断された断端が性愛化されていること、そして障害を負いながら過剰に達成すること、この二つに関係している。ほとんどのパラフィリアがそうであるように、これはもっぱら男性に起きるだろう、と。

彼が扱った二人は、どちらも男性で、どちらも両性愛者だと述べていた。一人は左脚、もう一人は右脚。切断への欲求は11歳から13歳ごろに始まり、以後固定した。一人は2歳のとき脚を負傷し、二年間歩けなかった過去を持っていた。彼は自分の脚を損なおうと何度か試みたが、痛みが快楽だったわけではまったくない。

マネーの解釈は、今読むとかなり独特だ。両性愛でありながら男性性を保つ手段として、切断が働いているのではないか、と彼は考えた。さらに、「手足を失う恐怖が、切断されて超人的な達成をもって現れたいという衝動へと変質する」という、恐怖の反転として説明しようとした。1975年のインタビューでは、彼はこの心理をこう要約している。「ほら見て、母さん、手も足もないのに、僕はまだやれるんだよ」

冷たい言い方だ。でも、この一言に当時の医学の限界が全部入っている。マネーは彼らの言葉を、性欲と自己顕示の変形として翻訳した。当事者自身が繰り返し使う「完全になりたい」「これは自分ではない」という言葉は、翻訳の過程で削り落とされた。

なお、マネーがこの主題に注目したきっかけは学術的な発見ではない。1972年、雑誌ペントハウスの読者投稿欄に載った一連の手紙だ。自分も切断されたいと書いた人々の投書が続いたのを、五年後に彼が拾い上げた。学問の入口が成人向け雑誌の投書欄だったという事実は、この分野がその後どう扱われたかを、ある意味で予告している。

もっとも、記録そのものはもっと古い。1886年、リヒャルト・フォン・クラフト=エビングが『性の精神病理』で、身体の欠損に惹かれる人々の症例を並べている。十七歳のころから女性の変形した足に興奮した二十八歳の技師。幼いころから足が悪いふりをして、松葉杖の代わりに二本の箒で歩き回っていた男。

さらに遡れば、十八世紀に、ある英国人が銃を突きつけてフランスの外科医に自分の脚を切らせたという話が、複数の研究者に引用されている。人はずっといた。呼び名がなかっただけだ。

インターネットが全部変えた

1990年代後半、この話に決定的な変化が起きる。インターネットだ。

それまで、この感覚を持つ人は、世界に自分ひとりだと思って生きるのが普通だった。クラフト=エビングの時代なら、生涯そう思って死ぬことすらありえた。ところが検索窓に単語をひとつ打ち込むと、同じことを書いている人が何百人も出てくる。

生物倫理学者のカール・エリオットは、この分野を取材した2000年の記事のなかで、ある当事者の言葉を引いている。「初めて検索エンジンに『切断された人』と打ち込んだとき、手のひらが汗でびっしょりでした」。そして結果を見たとき、それは「啓示だった」という。

ネット上には独特の語彙が育っていた。切断された人に惹かれる人はデヴォティー、つまり「信奉者」。自分が切断されたい人はワナビー、つまり「なりたがり」。そして、障害はないのに松葉杖や車椅子や装具を使って、しばしば人前で障害者として振る舞う人はプリテンダー、つまり「装う人」。

この三分類を1997年に整理したのは、ニュージャージーでポリオ後遺症のプログラムを運営していた心理生理学者リチャード・ブルーノだった。ブルーノ自身はこれを「作為性障害」の一種と見ており、要は愛されたい、世話されたいという欲求の変形だと考えていた。この解釈は後に主流ではなくなるが、語彙のほうは定着した。

エリオットが潜り込んだ「アンピュティー・バイ・チョイス」というメーリングリストは、購読者が千四百人いた。彼は最初、その書庫を読んで純粋に気味が悪かったと正直に書いている。しかし自己紹介をして、大学教員としてこの主題を調べていると告げると、様子が変わった。まず会話がぴたりと止まった。パブに見知らぬ客が入ってきたときのように。そして数日のうちに、十数人が個別に連絡してきた。

そのなかには、聡明で明晰な人がたくさんいた。何人かは自分を理解するために心理職に就いていた。切断を成し遂げた少数の人たちは、意外にも、自分の欲求と和解できているように見えた。しかし助けを必要としている人も多かった。強迫的で、追い詰められ、それだけに食い尽くされていた。彼らは精神科医を信用していなかった。薬も欲しがらなかった。彼らが知りたいのはひとつだけだった。

切ってくれる外科医を紹介してくれないか。

エリオットはこう書いている。自分は遠い国の民族誌学者になったような気がした。現地の習慣を知らないのに、住民のほうは自分が助けてくれると信じている。そして、ロバート・スミスがどんな気持ちだったのかが分かり始めた、と。

ティフアナのホテルで死んだ男

ここで、この話でもっとも重い事件に触れる。

1998年5月9日、メキシコのティフアナのクリニックで、79歳の男性が左脚を切断された。名前はフィリップ・ボンディ。ニューヨーク在住の元人工衛星技術者で、退職して久しかった。十年前に心臓手術を受けている。健康な脚を切りたいという願望を、長く抱えていた。

執刀したのはジョン・ロナルド・ブラウンという男だ。1922年生まれ、当時77歳。かつてはカリフォルニアで医師をしていたが、1977年に重過失で医師免許を取り消されている。無免許医療で服役した経歴もあった。彼は性別適合手術を非公式に請け負うことで、サンディエゴ周辺では悪名高かった。あだ名は「肉屋のブラウン」。メキシコで医療をおこなう免許も、彼は持っていなかった。

ボンディは一万ドルを払った。手術のあと、彼はブラウンに連れられて国境を越え、カリフォルニア州ナショナル・シティのホテルにチェックインした。ブラウンは彼をそこに置いて、切り取った脚を砂漠に埋めに行った。

その日、ボンディはニューヨークの友人に電話をかけている。脚がなくなって最高の気分だ、と彼は言った。ただ松葉杖がうまく使えず、何度も転んでしまう、とも言った。声がかすれていた。友人は嫌な予感がした。翌日、彼は飛行機でサンディエゴに飛び、同じホテルに部屋を取った。

次の朝、彼はボンディの部屋のベッドで、死んでいる友人を見つけた。死因はガス壊疽。裁判で証言した外科医によれば、ブラウンは断端を覆うのに十分な皮弁を残していなかった。皮膚が張りすぎて血流が届かず、組織が死に、ウェルシュ菌が繁殖した。適切な処置をすれば治せる感染症だ。放置すれば一日か二日で人を殺す。

サンディエゴ郡の検察は、ブラウンを第二級殺人で起訴した。医療事故としては異例に重い罪名だ。担当検察官のステイシー・ラニングは、ブラウンが「ただ切り落としただけ」だと主張した。有罪を勝ち取るには、ブラウンに常習的な無謀さがあったことを示す必要があった。裁判では、彼の手術を受けたトランスジェンダー女性たちが次々に証言台に立ち、その後たどった医療上の苦難を語った。

ブラウンは、事件のあとも一部の元患者から支持されていたという。

陪審は全員一致で有罪とした。1999年12月、彼は十五年から終身の刑を言い渡された。上訴審では、切断自体はメキシコで起きたのだからカリフォルニアに管轄はない、という主張がなされたが、退けられた。準備行為も術後管理もカリフォルニアでおこなわれ、被害者はカリフォルニアで死んだ。ブラウンは2010年に死去している。

ボンディを見つけた友人の名前は、グレッグ・ファース。フォルカークで三人目の患者になるはずだった、あのアメリカ人だ。

手術台の手前で降りた男

グレッグ・ファースはニューヨークのユング派分析家だった。専門は、終末期にある子どもたちのカウンセリング。子どもの絵を通した心理療法についての本を書き、遊戯療法を子どもの心の健康を測る手段として提唱していた。写真で見ると、白髪まじりの、穏やかそうな人だ。実際、記者が受けた印象もそうだった。子どもとうまくやれそうな人物に見える、と。

その彼が、四歳か五歳のころから、自分の右脚を「異物」として感じていた。きっかけは、幼いころに公共の場で見た切断された人の姿だったという。これも典型的なパターンで、当事者の多くが「初めて見た切断された人」の記憶を鮮明に持っている。

彼は何十年も、脚を切ってくれる医者を探し続けた。まともな外科医が引き受けるわけがない。だから彼は「周縁の医者」を探した。奇妙な手術を専門にしている人間なら、これも引き受けるかもしれない。そう考えて、1996年、サンディエゴの闇の性別適合手術を報じた新聞記事を読み、ブラウンにたどり着いた。

一度目は1997年春、ティフアナのクリニックまで行ったが、麻酔を担当するはずだったメキシコ人医師が手術の中身を知って降りた。二度目は1998年4月27日。サンディエゴでブラウンと落ち合い、一万ドルを渡した。三千ドルから値が上がっていた。二人はチュラ・ビスタの医療器具店で松葉杖を買い、車でメキシコへ向かった。

クリニックで順番を待っているとき、ファースは降りた。助手が大きなナイフを持って部屋に入ってくるのを見たのだ。「ここは自分がいるべき場所じゃない、と分かりました」と彼は後に語っている。

そして彼は、電話をかけた。二十六年来の友人であるボンディに。同じものを抱えた仲間として、切断願望のネットワークのなかで知り合った相手に。あなたが代わりにどうか、と。

十二日後、ボンディは死んだ。

裁判で、ファースは免責と引き換えに証言した。当初、警察には友人は交通事故で死んだと話していた。彼が法廷に入ってきたとき、傍聴席の人々が身を乗り出した。まだ両脚があるかどうか、確かめようとしたのだ。あった。

検察官のラニングは、その後もファースと友人関係を保った。それでも彼女は、彼の病を理解できないままだった。証言の打ち合わせをしていたとき、彼女はふと思ったという。「彼は男の人がよくやるように脚を組んで、私のオフィスに座っていて、膝の上に本とメモを載せてバランスを取っていました。私は彼を見て言ったんです。手術したら、そんなふうにはできなくなりますよ、って」

ファースの返事は短かった。「あなたは救いようがないですね」

彼はやめなかった。2000年、彼はスコットランドに渡り、ロバート・スミスに会った。三人の心理職が彼のケースを検討し、スミスは執刀に同意した。二人は共著で本を書き、この状態に「アンピュティー・アイデンティティ・ディスオーダー」、切断者同一性障害という新しい名前を提案した。フィリアという語尾を捨てた最初の本格的な試みだった。しかし手術は、フォルカークでも、私立病院でも、認められなかった。

拒否の報を受けたファースは、BBCの取材にこう答えている。「これは私が手術を受けるかどうかの話ではなかったんです。この症候群の話であり、この症候群に苦しむ人たちのために道が開かれるかどうかの話でした」。そして、「スコットランドは前に進んで、いくつか手術を試み、それは大変うまくいった。将来もっと研究が積み上がれば、また検討してくれるかもしれない。あるいは別の国で検討されるのかもしれません」

彼が言う「もっと研究」は、実際に、その数年後から始まることになる。

五十二本の電話

2000年10月から2001年4月にかけての半年間、コロンビア大学精神医学教室のマイケル・ファーストという精神科医が、電話をかけ続けていた。

ファーストは無名の研究者ではない。アメリカ精神医学会の診断基準である『精神疾患の診断・統計マニュアル』第四版のテキスト改訂版で編集責任者を務めた人物だ。診断名を作る側の中枢にいた人が、この主題に手を伸ばしたことの意味は大きい。

彼は三つの経路で対象者を集めた。切断願望を扱うウェブサイトと掲示板、そこからの紹介、そして自分の臨床からの紹介。集まったのは52人。平均年齢48.6歳、23歳から77歳まで。男性47人、女性4人、出生時に性分化疾患があった人が1人。この人はのちに性別適合手術を受けている。

インタビューは構造化されていて、質問は126問あった。結果は2005年、サイコロジカル・メディシン誌の35巻6号、919ページから928ページに掲載された。題は「四肢切断への欲求――パラフィリアか、精神病か、それとも新しい種類の同一性障害か」。オンラインでの先行公開は2004年8月だった。

数字がいくつも出てくるが、重要なものだけ拾う。

まず、52人のうち9人、つまり17パーセントが、実際に腕か脚を失っていた。そのうち三分の二は、命に関わる方法を自分で用いていた。残る三分の一は、外科医に健康な四肢を切らせていた。

次に、切断を望む理由として最も多かったのは、性的興奮ではなかった。自分の解剖学的な体と、「本当の自分」という感覚とのあいだのずれを正すこと。73パーセントがこれを第一の動機として挙げた。ある学術的な要約では、同一性の修正を主要動機とした者が85パーセント、性的興奮を主要な理由とした者は24パーセントとされている。

そして、妄想的な人は一人もいなかった。これは決定的だ。彼らは全員、自分の願望が世間から見て異様であることを完全に理解していた。他人がその脚を正常だと見ていることも理解していた。その上で、それでも要らない、と言っていた。

一人を除く全員が、子ども時代か思春期の初めに、この感覚が始まったと述べた。精神療法を受けた人、薬物療法を受けた人がいたが、欲求の強さは変わらなかった。

最後の一行が、この論文をもっとも議論の的にした。望んだ場所での切断を得た6人は、切断後、これまでの人生でいちばん気分がよいと報告し、切断への欲求は消失していた。

ファーストの結論はこうだった。これは極めて稀な、しかし臨床的に独立した状態である。そして、性同一性障害との類似性を反映して、「自分の解剖学的な身体同一性という根本的な感覚の、発達における異常な機能不全」として捉えられるのではないか。

彼はこの状態に、ボディ・インテグリティ・アイデンティティ・ディスオーダーという名前を与えた。頭文字を取ってBIID。身体完全同一性障害。

言葉が変わることには意味がある。アポテムノフィリアは「切断を愛する」と言っている。BIIDは「身体の完全性についての同一性の問題」と言っている。前者は倒錯を、後者は自己を指している。指し示す方向がまるで違う。

ファーストは当初、より率直に「切断者同一性障害」と呼ぶことも検討していた。性同一性障害との並行関係をむき出しにする名前だ。実際、当事者も臨床家も、この比較を繰り返し口にしてきた。ロンドンのヒリンドン病院の精神科医ラッセル・リードは、BBCのドキュメンタリーでこう言っている。「トランスセクシュアルの人たちは、理想の身体像に合わせるために健康な身体の一部を取り除きたいと望みます。

私にとってはそこがつながりでした。手足を取りたいと望む人たちが、まったく同じ程度の強迫と必要性と切迫感を持っているのを見たのです」

「線」の話

ここで、数字ではなく言葉のほうを見たい。当事者が自分の状態をどう説明するか、その説明の癖には、はっきりした共通点がある。

オランダのアムステルダム大学医療センターのリアンネ・ブロムらが2012年にプロス・ワン誌に発表した調査は、54人の当事者から回答を集めた。そのなかの一人は、こう書いている。「私の脚がどこで終わり、断端がどこから始まるべきか、その線を正確に感じられます。ときどきその線が痛んだり、しびれたりします」

線。これがほとんど全員に共通する。しかも、その線は人生を通じてほぼ動かない。膝上何センチ、と本人には決まっている。ファーストの調査でも、チューリヒの研究チームの調査でも、対象者たちは自分の望む切断線を極めて正確に、かつ何十年も一貫して指し示した。単なる気分や流行なら、こうはならない。

別の人は言う。「私は左脚がないほうが完全だと感じます。あるほうが、過剰なんです」。ドイツの心理学者エーリヒ・カステンが記録した男性はこう述べた。「魂は、脚が一本しかない身体に属していると感じている。身体はこの内側の現実に対応していない」。もう一人はこうだ。「太ももで断端が終わっている感じがして、二本の太ももの断端で生きたいという強い『欲求』がある。この言葉が正しいのかは分からないけれど」

言葉が見つからない、という留保が繰り返し出てくるのも特徴だ。彼らは自分が何を言っているのかを説明するための語彙を持っていない。持っていないという事実そのものを、彼らは律儀に報告する。

ブロムらの調査の数字も、ファーストのそれとよく一致していた。回答者の79.6パーセントが男性。年齢は18歳から76歳。三分の二近くが大学の学位を持っていた。感覚の始まりは平均6.7歳、範囲は3歳から15歳。つまり、就学前後にはもう始まっている。

内訳では、四肢の切断を望む人が30人で55.6パーセント、それ以外の形の障害を望む人が24人で44.4パーセント。後者のうち23人は何らかの麻痺を望み、1人は内反足を望んでいた。片側だけの改変を望む人20人のうち、70パーセントが利き手・利き足でない側を指定していた。

そして、左に偏る。これは古くから指摘されてきた特徴で、右脚だけの切断を望む人より、左脚だけの切断を望む人のほうが、おおよそ三倍近く多いと報告されている。この「左への偏り」が、後に脳研究の出発点になる。

なお、性的な要素が完全にないわけではない。ブロムらの調査では、ほぼ半数が何らかの性的興奮の要素を認めた。ただし、それが身体改変を望む第一の理由だと答えた人は一人もいなかった。回答者58人のうち4人は、動機が性的興奮そのもの、あるいは注目を集めること、あるいは改変の過程そのものだったため、均質な標本を作るという理由で分析から除外されている。境界線は、思っているよりずっと具体的に引かれる。

脚を切りたいだけではない――派生する形

この状態を「脚を切りたい人の病気」だと要約すると、実像から外れる。望まれる形は一つではない。

もっとも大きな一群は、対麻痺、つまり腰から下の麻痺を望む人たちだ。ブロムらの調査では、実に回答者の四割以上がこちらだった。神経学の常識から言えば、脚がないことと脚が動かないことは、まったく別の状態である。実際、当事者の感覚もそう分かれる。対麻痺を望む人は切断という発想を嫌悪することが多く、逆に切断を望む人は、腰から下が麻痺しても「正しい身体」になった気はしないだろうと語る。

にもかかわらず、二つの群は他の点でよく似ている。発症年齢も、性的要素の割合も、「装う」行動の頻度も、ほとんど差がない。だからチューリヒの研究者たちは、両者は同じスペクトラムに属すると考えている。

ひとつ興味深い違いがある。オーストラリアのメリタ・ジュマーラらが2012年に対麻痺を望む16人を調べたところ、女性の割合が37.5パーセントに達した。切断願望の集団では女性は数パーセントにとどまるのに、である。研究者たちは、脳の左右差の性差がこの違いに関係しているのではないかと推測している。

さらに稀な形もある。失明を望む人。失聴を望む人。腕の切断を望む人。指や足指だけの切断を望む人。あるいは、内反足のような特定の変形を望む人。切断を望む人のなかでも、上肢より下肢が圧倒的に多く、およそ八割が脚だと報告されている。

そして、望む部位は必ずしも永久に固定ではない。ブロムらの調査では、27.8パーセントの人が、望む部位が時間とともに変わったと述べている。うち5人は、脚の切断から脊髄の切断へと移っていた。左から右へ移った例、ひとつの願望が満たされた後に新しい願望が現れた例も、症例報告として存在する。これは後で触れるが、純粋な神経説にとって扱いにくい事実だ。

「装う」ということ

そして、この状態を語るうえで欠かせないのがプリテンディング、つまり装う行動である。

当事者の多くは、望む身体の状態を日常的に模倣する。松葉杖をつく。車椅子に座る。装具をつける。脚を折り曲げて縛る。片脚を使わないようにして動作を組み立てる。人前でやる人もいれば、寝室のカーテンを閉めてやる人もいる。

これは奇行ではない。緩和なのだ。実際に身体の一部が「ない」状態を視覚と運動の両方で再現すると、望む身体像と現実の身体との落差が一時的に埋まり、苦痛が下がる。当事者が繰り返し語るのはこの一点だ。国際疾病分類の診断要件にも、「装う」ことに費やされる時間が生活を侵食していることが、機能障害の指標として明記されている。

ユタ州に住むクロエ・ジェニングス=ホワイトは、この装う行動を公にしている数少ない当事者の一人だ。ロンドン生まれ、ケンブリッジ大学で博士号を取った化学者。四歳のとき、自転車事故で脚に装具をつけていた叔母オリーヴを訪ねた。そして彼女は、装具のほうを欲しがった。「私もあれが欲しかった」と彼女は言う。

「なぜ自分はあれが必要な状態で生まれてこなかったんだろうと思って、自分には何かおかしいところがあるんだと感じました」

それから五十年、彼女は自分の状態に名前がないまま生きた。装具を自作した時期もあった。2008年春、マイケル・ファーストの研究に参加して、初めて診断がついた。ファーストは彼女に、車椅子を使ってみるよう勧めた。

彼女は最初、抵抗した。「私は本当に対麻痺になりたかった。もう、ふりをしたくなかったんです」。それでも同意した。2008年7月、仕事から帰ると、妻のダニエルが二人でネット注文した車椅子を組み立てて待っていた。

「魔法みたいでした」と彼女は言う。「全部が変わった」。ただし彼女はすぐ、人目を気にした。必要がないのに使っているのだから。最初は家のなかだけで使った。家事はほとんどダニエルの負担になった。

彼女はやがて、当事者向けのサイトに寄稿を始め、友人や家族に打ち明けた。中傷が届いた。殺害予告も届いた。それでも、二人を除いてすべての友人が理解を示した、と彼女は言っている。デートしていた相手の一人は「絶対に理解できない」と言って関係を絶った。

彼女が語るなかで、いちばん重たいのは次の部分だ。彼女はスキーで最も危険なコースを選んで滑る。運転中は事故の場面を頭のなかで組み立てる。「対麻痺になる可能性のある活動をすると、BIIDが引き起こす不安から解放される感覚があるんです」。実際に、スキーと自動車で怪我をしている。本人は、無意識にそう仕向けたのだろうと言う。

彼女を診ている精神科医マーク・マランは、記者にこう問い返した。「私がよく投げかける問いはこうです。車椅子を使うふりをしている人がいるほうがいいのか、それとも自殺されるほうがいいのか」。彼はさらに、一時的な神経ブロックで四肢を使えなくして、望む状態を試させるという治療案にも触れている。気が変わる余地を残す方法として。

装う行動と自傷願望の距離は、こういう例では紙一重だ。それでも、装うことは自傷ではない。むしろ多くの当事者にとって、それは自傷しないでいるための足場になっている。

神経科学が首を突っ込んだ

さて、脳の話に入る。

きっかけは、単純な観察の積み重ねだった。第一に、望まれる切断が左脚に大きく偏る。第二に、彼らの語りが、神経内科でよく知られたいくつかの症候群に不気味なほど似ている。

その症候群とは、たとえばソマトパラフレニアだ。脳卒中などで右半球の頭頂葉が傷ついた患者が、自分の左腕を指して「これは私のものではない」「弟のものだ」と言い張る。あるいはアソマトグノジア、身体の一部が存在しないと感じる状態。あるいはミソプレジア、自分の身体の一部を憎悪する状態。いずれも右頭頂葉の機能不全と結びついている。

つまり、右頭頂葉が壊れると、人は左半身の一部を「自分のものではない」と感じるようになる。これは何十年も前から知られていた。

ならば、と考えた人がいた。生まれつき右頭頂葉のある領域がうまく働いていない人がいたら、どうなるか。その人は、左脚を「最初からあるべきではないもの」として感じ続けるのではないか。

カリフォルニア大学サンディエゴ校のヴィラヤヌル・ラマチャンドランの研究室が、この仮説に最初の実験的な裏づけを与えた。2008年、デイヴィッド・ブラング、ポール・マクギーオク、ラマチャンドランの三名が、ニューロリポート誌の19巻13号に短い報告を出した。題は率直に「アポテムノフィリア――神経疾患である」。

方法は驚くほど地味だ。二人の当事者の脚を、望む切断線の上と下、両脚それぞれで軽く針で刺し、そのときの皮膚電気反応を測った。皮膚電気反応は交感神経の興奮を反映する指標で、意識的に制御できない。被験者は目を閉じ、刺す場所はランダム。刺す側の検査者も、どちらの脚のどこが「望まれた切断線」なのかを知らされていない。

結果ははっきりしていた。29歳の男性では、切断線より下の反応が、反対側の脚に比べて二倍。同じ脚の線の上下でも二倍の差があり、健常な側の脚に仮に引いた同じ高さの線では差が出なかった。両脚の切断を望む63歳の男性では、両脚とも線の下で三倍の反応が出た。健常な対照群五人では、どこにも差が出なかった。

つまり、本人が「自分のものではない」と言う領域は、触られたときに身体が別の反応をしていた。意識ではどうにもできない層で、である。

右上頭頂小葉が黙っている

三年後、同じグループがもっと直接的な証拠を出した。2011年、マクギーオク、ブラング、タオ・ソン、ローランド・リー、ミンシオン・ホァン、ラマチャンドランによる論文が、ジャーナル・オブ・ニューロロジー・ニューロサージェリー・アンド・サイキアトリー誌の82巻12号、1314ページから1319ページに載った。題は「ゼノメリア――新しい右頭頂葉症候群」。

四人の被験者に脳磁図をかぶせ、望む切断線の上と下を触りながら、脳のどこが反応するかを見た。結果、右の上頭頂小葉という領域だけが、当事者の「問題の脚」を触ったときに、はっきり反応が落ちていた。刺激後40ミリ秒から140ミリ秒の平均活動で、同じ人の健常な脚を触ったときとも、健常者の脚を触ったときとも、有意な差が出た。他の関心領域では差が出なかった。

著者たちの解釈はこうだ。右上頭頂小葉は、ばらばらの感覚入力を統合して「自分には身体がある」という一貫した感覚を作るのに、理想的な位置にある。ここの活性化が不十分だと、奇妙な事態が起きる。当該の四肢が触られているのは感じられるのに、その四肢が身体像に組み込まれない。感覚は届いているが、地図に載っていない。その不整合が、切断への欲求を生む。

そしてこの論文で、彼らは新しい呼び名を提案した。ゼノメリア。ギリシャ語のクセノス、つまり「異質な」と、メロス、つまり「肢」を合わせた造語で、「異物としての手足」という意味になる。アポテムノフィリアもBIIDも、どちらも解釈を含んだ名前だ。前者は性的倒錯を、後者は同一性障害を前提にしている。ゼノメリアはどちらも前提にしない。ただ、現象だけを言う。

命名の歴史がここで三巡目に入ったことになる。1977年に性の言葉で名づけられ、2005年に自己の言葉で名づけ直され、2011年に神経の言葉で名づけ直された。同じ人間について。

チューリヒの十五人

一方、スイスでは別のグループが動いていた。チューリヒ大学病院の神経心理学部門を率いていたペーター・ブルッガーが中心だ。

彼らは十五人の男性を集めた。全員が片脚、または両脚の切断を強く望んでいる。全員、その脚への疎外感が幼少期からあった。全員、正確に区切られた範囲に限定されている。神経学的検査は全員正常。神経心理学的検査も正常。精神科的評価で精神病性障害は除外された。

このうち13人と、性別・年齢を一致させた対照13人に磁気共鳴画像検査をおこない、大脳皮質の表面形状を細かく解析した。結果は2013年、ブレイン誌の136巻1号、318ページから329ページに掲載された。レオニー・ヒルティ、ユルゲン・ヘンギ、デボラ・ヴィタッコ、ベルント・クレーマー、アントネッラ・パラ、ロジェ・リューヒンガー、ルッツ・イェンケ、ペーター・ブルッガーの連名だ。

見つかったのは、右半球の異常が中心だった。右の上頭頂小葉で皮質の厚みが薄い。一次と二次の体性感覚野、下頭頂小葉、前部島皮質で皮質の表面積が小さい。中心溝には逆に厚みが増した領域があった。左半球では、下頭頂小葉と二次体性感覚野の表面積が大きくなっていた。

つまり、脳磁図で機能が落ちていた場所が、構造でも痩せていた。しかも異常が右に偏っている。切断を望まれる脚が左に偏るという臨床事実と、方向が一致する。

著者たちは、もうひとつ大胆な推測を書いている。なぜ腕ではなく脚なのか。なぜこの状態にはしばしば性的な色合いがつきまとうのか。一次体性感覚野では、脚を表す領域と性器を表す領域が隣り合っている。二次体性感覚野の脚の領域は、前部島皮質と空間的に近く、島皮質は直接の性器刺激を超えた性的覚醒を媒介することが知られている。脳の地図の上で、脚と性は隣人なのだ。

だとすれば、この状態にエロティックな色がつくのは倒錯の証拠ではなく、単に配線の地理の問題かもしれない。

ただし著者たちは、最後にきちんと留保を置いている。これらの構造的な違いが原因なのか、それとも、身体と自己の長年にわたる不一致が結果として脳を変えたのか、それは分からない、と。

二〇二〇年、より厳しい条件で

初期の脳研究には弱点があった。被験者が少ない。望む部位がばらばら。そして統計の閾値が甘く、厳しい多重比較補正をかけると結果が残らないものがあった。実際、別のグループが2013年にプロス・ワン誌で発表した機能的磁気共鳴画像の研究では、頭頂皮質や右島皮質はむしろ触覚刺激に対して過敏に反応し、所有感の有無で差が出たのは前運動皮質のほうだった、という一見矛盾する結果が出ている。

そこで2020年、チューリヒとイタリアの合同チームが、条件を揃えてやり直した。ジャンルカ・サエッタ、ユルゲン・ヘンギ、マルティナ・ガンドラ、ラウラ・ザッパローリ、ジェラルド・サルヴァート、マヌエラ・ベルリンジェーリ、マウリツィオ・スベルナ、エラルド・パウレズ、ガブリエラ・ボッティーニ、ペーター・ブルッガーによる論文が、カレント・バイオロジー誌の30巻11号、2191ページから2195ページに出た。

題は「身体完全性違和の神経相関」。

集めたのは16人の男性。全員が「左脚」の切断を望んでいる。望む部位を統一したのが肝で、これによって左右差の解釈が濁らなくなる。対照も16人。安静時の機能的結合と、灰白質の密度の両方を同時に見た。統計は、これまでより厳しい水準を使った。

結果はこうだ。左脚の一次感覚運動表象が置かれている右傍中心小葉が、脳の他の領域との機能的結合を落としていた。ただし、この領域には構造的な異常がなかった。これは臨床所見と合っている。当事者の左脚は、触覚も運動も正常なのだ。

そして右上頭頂小葉が、機能的結合も灰白質の量も、どちらも落ちていた。さらに左の腹側前運動皮質、つまり四肢の情報を多感覚的に統合する領域が萎縮していた。

いちばん面白いのはここからだ。右上頭頂小葉の灰白質が少ない人ほど、切断への欲求が強かった。そして、車椅子や松葉杖を使って切断された人を装う行動が多かった。この二つの相関が、独自に作られた尺度による評価と一致した。

第一著者のサエッタは、こう説明している。「手足が自分のものだという感覚は、感覚運動の四肢領域が他のすべての脳領域とどれだけ機能的につながっているかに依存しています。この感覚に決定的に関わっているのが、身体がどう見えるべきかを表現する最も重要な領域である右頭頂領域の、機能的結合と灰白質密度でもあるのです」

そして彼はこう続ける。「右頭頂領域の灰白質が少ないほど、切断への欲求が強く、当事者は切断された人のようにふるまう。この模倣行動は、身体がどう見えてほしいかと、実際にどう見えるかのあいだの、苦痛に満ちた不一致に対処する助けになっているのです」

ブルッガーの総括は、慎重で誠実だ。「私たちは、精神状態と脳の構造・機能の変化のあいだに、明確な関連を示しました。ただし、この神経的な特徴が先にあって正常な四肢所有感の発達を妨げたのか、それとも所有感を欠いているという何十年もの懸念が身体意識を媒介する脳回路を変化させたのかは、答えられません」

鶏が先か卵が先か。神経科学がここに答えを出せていないことは、はっきりさせておいたほうがいい。

神経説では説明しきれないこと

脳の話は魅力的だ。魅力的すぎるので、留保を書いておく。

第一に、望む部位が変わる例がある。左脚から右脚に移った症例が報告されている。ひとつの願望が満たされたあとで、新しい部位に願望が生じた症例もある。脚の切断から脊髄の切断へと望みが移った人が、ブロムらの調査だけで五人いた。生まれつきの局所的な脳の配線異常だけで、こういう移動を説明するのは難しい。

第二に、幻肢の問題がある。ドイツのサラ・ノルとエーリヒ・カステンが、実際に切断を達成した21人を追跡した調査では、多くの人が幻肢感覚を報告していた。つまり、失った脚が「まだある」感覚だ。もしこの状態が「脳の身体地図にその脚が最初から載っていない」ことによるなら、切断後に幻肢が出るのは筋が通らない。少なくとも、単純な地図欠損モデルには合わない。

第三に、社会と文化の層がある。ブルッガー自身が、ベアトリーチェ・レンゲンハーガー、メリタ・ジュマーラとの共著で2013年に書いた論文で、これを強調している。当事者の疎外感は、しばしば自分の身体の内側だけで完結しない。切断された人や麻痺のある人の身体を見て、共感し、憧れることを通して立ち上がる。他人の身体と比べることではじめて、自分が切断された姿を思い描ける。

「脳は、その人の歴史に応じて可塑的であり、その歴史は文化を背景に生きられる」というのが彼らの立場だ。

彼らはさらに、その論文で当事者の言葉を一つ引いている。ある男性が、当事者コミュニティのサイトについて書いたものだ。「BIIDでは、麻痺は脚を超える。感情のなかにまで染み込んでくる。……リンクからそこへ迷い込んで、それきり離れなかった。あそこは、その麻痺を恥ずかしくないものにしてくれるんです」

脳の話は正しいかもしれない。しかしそれだけでは、人が何十年も一人で秘密を抱え、恥じ、隠し、ある日ネットで自分と同じ人を見つけて涙ぐむという部分を、まったく説明しない。

なぜ長く「変態」だったのか

ここで一度立ち止まって、この状態が四十年以上「倒錯」の棚に置かれていた理由を、いくつかに分けて考えたい。

ひとつは、最初の名前が悪すぎた。アポテムノフィリアという語尾は、それだけで議論を性の領域に閉じ込める。しかもマネーが最初に扱った二例は、たまたま性的な要素が濃かった。二例だ。それが四十年、教科書に残った。

ふたつめは、当事者が黙っていたことだ。ケヴィン・ライトは8歳から28歳まで誰にも言わなかった。ジェニングス=ホワイトは五十年ちかく名前を知らなかった。国際疾病分類の臨床記述にも、この状態について恥の感情を持つ人が多く、抑うつなどの症状で受診しながら、障害を望む気持ちについては医療者に話さないことがある、と明記されている。データが集まらなければ、仮説は検証されない。

仮説が検証されなければ、最初の仮説が残り続ける。

みっつめは、医学の側の嫌悪感だ。健康な身体を損ないたいという願いは、医療のすべての本能に逆らう。生物倫理学者のアーサー・キャプランは、フォルカーク事件の直後、記者にイディッシュ語を交えてこう吐き捨てている。「メシュゲネだ。まったくの気違い沙汰だよ」。彼の主張は明確だった。治療とは病に屈して強迫に合わせることではない。しかもこれは「害をなすな」の問題だけではない。

「脚を切り落とせ、と走り回っている人が、その決定を下す能力を持っているのか」という問題でもある。

よっつめは、報道の構造だ。2000年の英国報道では、この状態はほぼ一貫して「身体醜形障害の稀な形」と説明された。今から見れば誤りだ。身体醜形障害の人は、鼻や肌や髪の形が醜いと信じ込み、それを直そうとする。他人が自分を醜いと思っていると確信している。ところが切断を望む人たちは、自分の脚が醜いとは言わない。形は正常だと認める。他人が異常を見ていないことも認める。

彼らが問題にしているのは外見ではなく、所属だ。この違いは決定的なのに、当時の記事は全部同じ診断名を貼った。

いつつめは、周辺のノイズだ。切断された人に性的に惹かれるデヴォティーは、切断されたい人よりずっと数が多いとされる。ネット上ではこの二つが同じ場所に混在した。区別しないまま眺めれば、全体がひとつの奇怪な性的サブカルチャーに見える。実際、スミス自身が「切断を望む人には二つの群がある」と繰り返し説明しなければならなかった。大きいほうの群はその概念に性的に興奮する。

彼が執刀した二人は、四本の手足があると不完全で、三本なら完全になると感じる小さいほうの群だった。

そして最後に、これがいちばん大きいかもしれないが、比較対象が政治的に危険だった。性同一性障害との並行関係は、当事者にとっては説明の助けになる。しかし、それを口にするだけで別の論争に巻き込まれる。医学は長いこと、この比較を持ち出すこと自体を避けた。

二〇一九年、名前が変わった

その状況が変わった。

世界保健機関は、国際疾病分類の第11版に、身体完全性違和という診断名を収載した。コードは6C21。位置づけは、「身体的苦痛または身体的体験の障害」という章のなかで、6C20の身体的苦痛症の隣だ。パラフィリアの章ではない。身体醜形障害と同じ強迫症の章でもない。身体の「体験」の障害として置かれた。

第11版は2018年に公表され、2019年5月の世界保健総会で採択され、2022年1月に発効した。

診断要件を、要点だけ書き下す。まず、重大な形で身体的な障害を得たいという、強く持続的な欲求があること。例として、主要な四肢の切断、対麻痺、失明が挙げられている。次に、その始まりが思春期初期までであること。そして、現在の障害のない身体構成に対する持続的な違和感、あるいは「これは適切ではない」という強い感覚を伴うこと。

さらに、有害な結果が生じていること。二つの経路が示されている。ひとつは、欲求へのとらわれ、装う行為に費やす時間が、生産性や余暇や社会的機能を著しく妨げていること。具体例として、「装うのが難しくなるから親密な関係を持ちたがらない」という状況が挙がっている。もうひとつは、実際に障害を得ようとする試みによって、健康や生命が重大な危険にさらされたこと。

そして除外規定。他の精神・行動・神経発達の障害、神経系の疾患、他の医学的状態、そして詐病では説明がつかないこと。加えて、青年期および成人期の性別不合とは区別されること。

追加の特徴として記述されているものも興味深い。当事者は、自分は望む障害を持って生まれてくるはずだったと感じることがある。装う行動が伴う。自傷によって障害を得ようとした人のなかには、それが自分でやったことだと見えないよう、事故に見せかけようとする人がいる。多くの当事者に性的な要素がある。そして、恥の感情が一般的である。

診断名の作り手たちがこの状態をどう位置づけたかは、世界精神医学会の学術誌に載った第11版の解説論文にも書かれている。欲求はさまざまな形で表れる、と。望む障害を持つ自分を空想すること。何時間も車椅子に座ったり、脚の装具をつけて脚力の低下を模倣したりする「装う」行動。そして、望む状態を実現する方法を探して時間を費やすこと。

少数だが、空想を超えて実行に移す人がいて、健康な四肢の選択的切断を求めるか、切断以外に治療法がなくなる程度まで自ら四肢を損なう。

なお、アメリカ精神医学会の『精神疾患の診断・統計マニュアル』第五版は、2013年の刊行時にこれを正式な診断としては採用しなかった。研究用の項目として第三部に置かれるにとどまっている。国際的な分類と、アメリカの分類が食い違ったままなのは、この分野の未決着を示している。

診断名がついたことの実務的な意味は、二〇二五年に英国から出たある症例報告がはっきり示している。ジョナサン・モンク=カンリフ、ジョーダン・リン、アニーシュ・パテルによるもので、五十歳の男性の事例だ。八歳のときから脚の切断を望んでいた。使える支援の乏しさに苛立ち、それを求めること自体を恥じていた。オンラインの掲示板での話し合いののち、彼は自分の脚に重い凍傷を負わせ、結果として膝下の切断に至った。

本人は結果に満足している。

この症例で著者たちが確認したのは、新しい診断要件が実際にうまく当てはまり、しかも本人に受け入れられたということだ。診断は歓迎され、彼の体験を正当なものとして認め、他のどんな診断よりも説明力があった。装う行動として松葉杖を使っていたこと、家族に打ち明けられずにいたこと、恥のために家庭医に相談をためらっていたこと。すべてが記述に合致した。合致しなかったのは、性的な要素だけだった。

そのうえで著者たちは、はっきり書いている。治療経路が明確でないことが、この患者にとって医原性の害につながった可能性がある。診断が正式に認められたのに、専門家にも患者にも指針がないままである、と。名前がついたことは終点ではない。始点にすぎない。

切るべきか、という問い

ここが、この話でもっとも答えの出ていない部分だ。

推進側の代表的な議論は、2005年にジャーナル・オブ・アプライド・フィロソフィー誌の22巻1号に載った、ティム・ベインとニール・レヴィの論文「選択による切断者」だ。彼らの論法は三本立てだった。害の最小化、自律の尊重、そして治療上の効果。当事者が重い苦痛を抱えており、他に有効な治療がないのなら、彼らは合理性と自律性の基準を十分に満たしているのだから、外科医が要請に応じることを認めるべきだ、と。

反対側にも強い論文がある。ダニエル・パトローネが2009年にジャーナル・オブ・メディカル・エシックス誌に発表したものは、推進派が使うアナロジーそのものを標的にした。彼らは「これは他の問題のない医療行為と同じだ」と示すことで結論を導いている。しかしそのアナロジーが不適切なら、議論は崩れる。医療における自律の尊重を正しく理解するなら、切断要求に応じることは禁じられる、というのが彼の結論だ。

キャプランのような立場は、より根本的に、患者が判断能力を持つのかを疑う。フィリップスのような臨床家は、この種の手術が助けになることはほぼないと考える。一方で、リードのような臨床家は、「牛が帰ってくるまで話し続けたっていい。何も変わらない。彼らはやっぱり切断を望むし、それを私は事実として知っている」と言う。

引退した精神科医リチャード・フォックスがBBCの番組で述べた一文は、この論争の温度を端的に伝える。「正直に言おう。これは死に至りうる状態なんだ」

では、実際に切った人はどうなったのか。データは乏しいが、ゼロではない。

ファーストの2005年の調査では、望んだ場所を切断した6人が、その後これまでで最良の状態にあり、欲求は消えたと報告した。ブロムらの2012年の調査では、切断を経験した少数の人たちが、していない人より障害の自己評価が有意に低かった。

もっとも直接的なのは、サラ・ノルとエーリヒ・カステンが2014年にサイコロジー・アンド・ビヘイビオラル・サイエンシズ誌の3巻6号に発表した追跡調査だ。彼らは、実際に望む手術を達成した21人を見つけ出した。男性18人、女性3人、27歳から73歳、平均53.5歳。多くは、医療の規制が緩い国で現金払いの手術を受けていた。

結果は明快だった。精神療法も薬物療法もリラクセーション法もほとんど効果がなく、ときには欲求を強めさえした。手術後に後悔した人は一人もいなかった。この項目の回答には、ばらつきすら存在しなかった。全員がゼロ、つまり「まったく後悔していない」を選んだ。生活全般の満足度、仕事の満足度、私生活、健康状態、性的満足、身体への同一化。すべての領域で有意な改善があった。

抑うつと幸福、内向と外向、不安と勇気、神経質と平静、攻撃性と穏やかさ、無気力と熱意、惨めさと自信。自己評価のすべての次元で改善した。

不便はある。義肢がうまく合わない。床が散らかっていたり地面が凸凹していたりすると歩きにくい。長い距離はスクーターが要る。義肢なしの姿を醜いと言われることがある。それでも当事者たちは、そうした不便を「願いが叶った幸福に比べれば耐えられる」と評価した。

ある回答者はこう書いている。「二〇一〇年の七月から完全に車椅子で暮らすようになって、私は抑うつから解放され、人生を楽しめています。車椅子でも自分の職業で働けます。それ以前は、BIIDが私を二重生活に押し込んでいた。その強制がなくなりました」。別の回答者。「今、鏡を見ると、いつもそうありたかった自分が見えます。太ももの断端が好きです。もう切断のことを考えなくていい。家族の前で気持ちを隠さなくていい。

落ち着いていて、リラックスしています。生きる力が増えました」

ただし、この調査の限界は誰にでも分かる。回答者は当事者コミュニティを通じて集められた。手術に満足した人ほど答えやすいだろう。不満だった人、あるいは死んでしまった人は、この標本に入らない。21人という数も小さい。それでも、「切ったら必ず後悔する」という広く信じられた前提に、実証的な疑問符がついたことは事実だ。

そしてファーストは、失明のような他の障害については、はっきり線を引いている。切断については成功した実例の蓄積がある。しかし失明を望む人については、それがない。「盲目になりたいという人は、信仰に賭けているようなものです」と彼は言う。「倫理的に、それを認めるのは大きな問題です。最初に試した人がひどく失望しないかどうか、私たちには見当もつかないのだから」

この線の引き方が実際の事件に試されたのが、2015年にアメリカで報じられた、失明を望んだ女性の一件だ。ノースカロライナ州のジュエル・シュピングという女性が、心理職の男性の手を借りて、自分の目に薬品を入れさせたと語り、大きく報道された。ただしこの話には注意が要る。時期や経緯について、彼女自身の説明が報道によって食い違っており、地元局には事故だったと話していた時期がある。

ネット上の過去の投稿と突き合わせた検証記事も出た。何が実際に起きたのかは、いまも完全にはっきりしていない。

はっきりしているのは、この件をめぐる倫理の議論のほうだ。彼女が自律的な主体で、特定の処置を求める権利があるとしても、その権利は絶対ではない。臨床家には、その権利が自らの受託者としての責任と衝突する場合、応じない義務がある。そして失明については、成功例の蓄積という要件が満たされていない。

ファースト自身が挙げる四つの条件、つまり、障害を負わせるのではなく人生を食い尽くした状態を治療しているという認識、可逆的な手段をすべて尽くしていること、本人に判断能力があるという証拠、そして満足に終わった実績の蓄積。四つ目が欠けている以上、話は違ってくる。

ちなみにファーストは、この分野で研究プロトコルが作られない理由についても率直だ。障壁は精神医学の側にはない。外科の側が、これまでのところ応じないのだ、と。

「新しい狂い方」という不安

最後に、この話にはもうひとつ、別の角度からの懸念が寄せられてきた。

カール・エリオットが2000年12月のアトランティック誌に書いた記事の題は、「新しい狂い方」だった。彼の問いはこうだ。もし医師が切断を始めたら、その欲求は広がるのではないか。

多くの人はこう答えるだろう。広がるわけがない。ほとんどの人は手足を失いたくない。他人が切っているからといって自分も切りたくなる理由はない。死刑があるからといって処刑されたい人が増えないのと同じだ。もし切断を求める人が増えたとしても、それは黙っていた人が声を上げるようになっただけだ、と。

エリオットは、そう単純ではないかもしれないと考えた。彼は科学史家イアン・ハッキングの議論を持ち出す。ハッキングは、十九世紀末のフランスで若い男たちが次々に記憶を失って大陸をさまよった「遁走」の流行や、二十世紀後半のアメリカにおける多重人格障害の流行を分析して、「一過性の精神疾患」という概念を提出した。それは想像上の病ではない。しかし、ある時代とある場所に限定して成立する病だ。

ハッキングは、これを「生態学的ニッチ」という比喩で説明する。ホッキョクグマが北極の生態系に適応しているのと同じ意味で、ある種の狂い方は、ある文化的・歴史的条件のなかでのみ繁栄できる。ニッチが消えれば、その病も消える。彼の問いはこうだ。ある時代、ある場所で、これが狂い方のひとつとして成立するのを可能にしているものは何か。

もうひとつ、ハッキングが重視するのが「ループ効果」だ。分類は、分類される対象に影響する。物と違って、人は自分がどう分類されたかを知り、それに応じて行動と自己認識を変える。ハッキングによれば、一九七〇年代、治療者が多重人格を疑う患者に子ども時代の虐待について尋ねるようになり、患者は虐待の記憶を思い出すようになり、その記憶が診断を補強し、診断された人は多重人格らしく振る舞い始めた。

誰も嘘をついていない。それでも、分類が現実を作った。

エリオットが指摘するのは、こういうことだ。ある現象を精神医学の診断として扱うこと自体が、つまり治療し、診断マニュアルに載せ、測定尺度を作り、重症度の指標を決め、治療費の償還の仕組みを整え、製薬会社に薬の開発を促し、患者を自助グループにつなぎ、原因についての論文を書くことが、より広い文化の力と共謀して、その障害を広げてしまうことがある。

これは重い指摘だ。しかも、意地悪ではない。エリオット自身は、当事者たちを軽んじていない。彼は取材の途中で、電話の向こうの穏やかな男性が、すでに十年前に自分で脚を失っていたことを知って絶句している。彼が書いた一節は、この記事のなかでいちばん誠実な部分だと思う。

「事実はこうだ。誰もアポテムノフィリアを本当には理解していない。誰も病態生理を理解していない。手術以外の選択肢があるかどうかも分からない。手術がどれくらいうまくいくかについての信頼できるデータもない。切断を求める人の多くは絶望していて、搾取されやすい状態にある」

そして彼は、ある当事者からのメールを引いている。「私は絶えず内なる怒りのなかにいます。必要な切断を得るためなら、死の危険も引き受けるつもりです。内側の私の人生は、このまま続けるにはあまりにつらすぎる」

エリオットの結論は、答えではなく板挟みだ。この人たちには助けが必要だ。しかし、問題の治療法が不可逆で、しかも人を障害者にするものであるとき、その助けが何であるべきかは、まったく明らかではない。

地図と身体のあいだで

ここまで書いてきて、はっきりしていることを並べておく。

この感覚を持つ人は、幼稚園から小学校低学年のころに、それを自覚する。平均すると六歳か七歳だ。理由になる事故もトラウマも、たいていは見つからない。彼らは妄想を持っていない。自分の願望が世間から見て異様であることを完全に理解している。他人がその脚を正常だと見ていることも理解している。その上で、要らない、と言う。彼らは望む切断線を正確に示し、その線は何十年も動かない。精神療法も薬も、この線を消さない。

そして脳では、右の頭頂葉、とくに上頭頂小葉のあたりで、機能的な結合と灰白質の量が落ちている。切断されたがっている脚を触ったとき、そこは黙っている。皮膚のほうは、意識では制御できないやり方で、線の下と上で違う反応をしている。

つまり、感覚は届いているのに、地図に載らない。触られているのは分かる。でも、それが「自分」の一部として組み上がらない。この不整合が何十年も続くと、人は、地図のほうではなく身体のほうを直したくなる。

それを奇癖と呼ぶのは、もう難しい。かといって、脳の局所的な異常ですべてが片づくわけでもない。望む部位は移ることがある。切断後に幻肢が出ることもある。文化と社会の層が、この感覚の輪郭を確実に形作っている。

医学は、この四十年でひとつのことを学んだ。当事者の言葉を、他の理論に翻訳しないで、まず額面通りに受け取るということだ。マネーは「完全になりたい」を性欲に翻訳した。二〇〇〇年の新聞は「醜いと思い込んでいる」に翻訳した。どちらも当事者が一度も言っていないことだった。ファーストがやったのは、翻訳をやめて、五十二人に同じ質問をして、返ってきた答えをそのまま数えることだった。

それだけで、四十年動かなかった分類が動いた。

残っている問題は、たぶんもっと難しい。診断名はできた。診断要件もできた。しかし治療の指針はまだない。恥ずかしさのために医療機関を避ける人はまだいる。規制の緩い国で現金を払う人もいれば、自分で凍傷を負わせて医師の判断を待つ人もいる。ティフアナのホテルで一人死んだのは、正規の医療がこの人たちを引き受けなかったからだ、という指摘は、いまも有効なままだ。

ケヴィン・ライトは、脚を失ったあと一度だけ取材に応じて、それきり公には語っていない。彼は最後にこう言った。落ち着いた、と。生活がずっと楽になった、と。

ロバート・スミスは、二度と健康な脚を切ることを許されなかった。彼は最後まで自分の判断を撤回しなかったが、こうも言っている。「私はあの手術ばかりをやり続けたいわけではありません。たぶん、気が狂ってしまう」

このふたつの発言のあいだに、この問題のすべてがある。片方には、四十年待って、ようやく自分の身体になった人がいる。もう片方には、その願いを叶えられる立場にいながら、そのことに耐えられなくなりそうだった医者がいる。どちらも本気だった。どちらも正気だった。そして、どちらの側にも、まだ整理されていない問いが山ほど残っている。

私たちのほとんどは、朝起きて、自分の脚が自分のものであることを一度も疑わずに一日を終える。その当たり前が、脳のなかで毎秒、丁寧に組み立てられている作業の結果であることを、この人たちは思い出させてくれる。組み立てが一箇所ずれると、人は自分の身体のなかで、生涯にわたる違和感を抱えて生きることになる。

それは、変態でも、甘えでも、注目集めでもない。ただ、地図と身体が合っていない。それだけのことが、これほど長いあいだ、これほど多くの人生を静かに削ってきた。

タイトルとURLをコピーしました