障害物を避けて歩いた盲目の男
私には何も見えません。そう本人が明確に語る患者が、障害物を一つも倒すことなく、杖もガイドもなしに複雑な廊下を歩き切ってしまった。
その光景を目の当たりにした研究者たちが、思わず拍手をしてしまったという逸話が残っている。
舞台の中心にいたのは、かつて医師として働いていた男性だった。研究上は「TN」というイニシャルで知られる患者だ。
TNは相次いだ二度の脳卒中によって、大脳の後方にある左右両方の一次視覚野、いわゆるV1を完全に破壊されてしまった。
目そのものに異常は無い。網膜、角膜、水晶体。どこも壊れてはいなかった。
しかし、目から入った光の情報を「見る」という意識的な体験へ変換する中枢が壊れている。TNは医学的にも本人の自覚のうえでも、完全に盲目の状態にあった。
廊下の実験
実験を行ったのは、オランダ・ティルブルフ大学のベアトリス・ド・ジェルダーらの研究チームだ。
彼らはゴミ箱や箱、三脚などを無造作に並べた長い廊下を用意し、そこをTNに歩かせるという単純きわまりない課題を出した。
結果は、まるで予想外。
TNは一度もぶつかることなく、障害物のあいだを縫うようにして最後まで歩き通してしまったのだ。
実験後、本人は自分がどうやって物を避けたのか、まったく説明できなかった。
ただ歩いただけだと思った。そういう趣旨の発言を残している。
目は見えているのに、本人には見えている自覚がまったくない。この矛盾した現象こそが盲視、英語でいうブラインドサイトだ。脳科学における最大の謎の一つに数えられてきた。
戦場から始まった観察
盲視という現象そのものは、TNの症例よりもはるかに古くから断片的に報告されていた。
すでに第一次世界大戦の時期に記録がある。頭部に銃創を負った兵士たちの中に、視覚野を損傷しながらも奇妙な視覚的反応を示す者がいたという。
体系的な科学研究の対象として本格的に取り上げられるようになったのは、1960年代以降のことだ。
転機が訪れたのは1967年頃。ケンブリッジ大学の研究者たちが、サルを使った実験に取り組んでいた。視覚野を切除した個体が、視覚的な課題でなお高い正答率を示すと分かった。
この報告をきっかけに、現象への関心が一気に高まっていく。
名前を与えた研究者
人間における最初期の詳細な報告は、1973年に出された。
報告したのは、ドイツの研究者エルンスト・ペッペルらのグループだった。一次視覚野に損傷を持つ患者が、見えていないはずの場所へ視線を動かす。その動きに統計的な有意差があったという。
翌年に出たのが、決定的な一本。
1974年、イギリスの心理学者ローレンス・ワイスクランツが、後に医学史へ名を残す患者「DB」の詳細な症例研究を発表した。そしてこの現象に、blindsight、盲視という名前を与えたのだ。
DBは腫瘍の摘出手術によって右の視覚野を大きく失い、視野の左側が完全に見えなくなっていた。
ところが、見えないはずの領域に提示された光や図形の位置、傾き、動きの方向を言い当ててしまう。本人は見えている感覚など一切ないと述べながら、偶然では説明できない高い精度を叩き出した。
ワイスクランツはこの現象を、その後三十五年以上にわたって追跡し続ける。盲視研究という分野そのものを切り開いた第一人者にあたる。
黒い背景の上を黒い影が動く
DBに続いて盲視研究の中心的な存在となったのが、患者「GY」だった。
GYは10代の頃の交通事故によって左の一次視覚野を損傷し、右視野の大部分が見えない状態になっている。
彼を対象とした数々の実験で、一つの特徴が浮かび上がった。視覚的な刺激が強い場合、GYはしばしば「何かある感じ」を報告する。
本人はその感覚を、独特の言葉で表現したと伝えられている。黒い背景の上を、黒い影のようなものが動いている感じ。
研究者たちはこれを分類した。まったく何も感じない典型的な盲視をタイプI、漠然とした気配だけは感じ取れるものをタイプII盲視と呼ぶ。
勘、あるいは気配
見えているとは言えないが、何かが分かる。この独特の感覚は、盲視患者に共通してしばしば語られる体験だ。
当事者たちはこれを、勘や気配といった言葉で表現することが多い。
目で見て確認しているわけではない。それなのに、なぜかそこに何かがあることが分かってしまう。あるいは体が勝手にそちらへ反応してしまう。
この不思議な感覚こそが、盲視が第六感になぞらえられる所以だろうね。
研究者たちは、こうした証言の積み重ねから一つの見取り図へたどり着いた。視覚的な意識体験と、視覚情報に基づく行動制御とが、脳の中で別々の仕組みによって処理されている可能性である。
見えない顔の表情に反応する
盲視研究の中でもとりわけ人々を驚かせたのが、感情表現を伴う顔や身体の画像に対する反応の実験だった。
患者GYやDBを対象とした研究では、彼らに見えていないはずの視野へ、喜びや恐怖を表す顔や身体のポーズの画像が提示された。
本人は画像の存在を意識的にはまったく認識できない。それにもかかわらず、その感情に応じた無意識の反応を示すことが確認されている。
もっと奇妙な結果もあった。正直、意味が分からない。
こうした見えていない画像に対する反応の速度は、意識的に見えている画像に対する反応よりも、むしろ速かったというのだ。
ただし、はっきりした限界もある。画像に写っている人物が誰か、性別は何か。そこまでの詳細な識別は、盲視患者にはできなかった。
この結果が示すものは大きい。恐怖や喜びという原始的な感情情報の処理。それは意識的な視覚認識の経路とは別の、より古くて速い神経回路が担っている。
脳科学界に大きな衝撃を与えた報告だった。
上丘と視床枕
では、意識には上らないのに、なぜ視覚情報が行動へ反映されるのか。研究者たちが提示してきた仮説はいくつかある。
第一に有力視されているのが、網膜から中脳にある上丘へと直接投射する古い経路だ。
上丘は進化の上でとても古い脳の構造で、眼球運動や空間内での定位反応に深く関わる。この経路を通じた信号が、意識には上らないまま体を動かす反応を引き起こしている可能性が指摘されてきた。
第二の仮説は、迂回路を想定する。上丘からさらに視床の一部である視床枕を経由し、一次視覚野を飛ばして高次の視覚野へ情報が届けられるという筋書きだ。
第三の候補もある。網膜から外側膝状体を経て、これもまた一次視覚野を通らずに周辺の視覚関連領域へ情報が伝わる経路。
サルでも同じことが起きる
1995年には、重要な実証実験が行われた。
アラン・カウィーらの研究グループがサルを用いた実験に取り組んだ。視覚野を損傷した個体でも、同じ行動的な乖離が生じると示した。
この結果は、盲視が人間に特有の現象ではないことを裏付ける。哺乳類に広く共有された神経基盤を持つ可能性が見えてきた。
どの経路がどの程度寄与しているのか。その点については、研究者の間でなお議論が続いている。
複数の経路が症例ごとに違う形で組み合わさっている可能性も指摘されており、話は単純ではない。
SFと超能力のあいだで
盲視という現象の持つ神秘性は、学術の枠を超えてポップカルチャーにも影響を与えてきた。
見えないのに分かる。この設定は超能力やESP、いわゆる超感覚的知覚を扱う物語と親和性が高い。
盲目のキャラクターが特殊な感覚で戦うという設定は、漫画やアニメ、映画の世界でたびたび描かれてきた。
カナダの作家ピーター・ワッツが発表したSF小説には、そのまま「Blindsight」というタイトルが付けられている。意識とは何か、知性に意識は本当に必要なのかという哲学的な問いを扱う作品として読まれてきた。
インターネット上の議論も熱い。これはもう超能力そのものではないか。意識というものがいかに脳の限られた機能に過ぎないかがよく分かる。盲視を紹介する記事には、そうした反応がずらりと並ぶ。
単なる神経科学の一トピックを超えて、意識の本質そのものを考えさせる格好の題材として、一般の関心を強く引きつけてきた。
本当に意識はゼロなのか
もっとも、盲視研究がすべての研究者に無条件で受け入れられてきたわけではない。
とりわけ議論の的となってきた問いがある。盲視患者は本当に、まったく意識的な視覚体験を持っていないと言い切れるのか。
デンマークの研究者モアテン・オーバーガードらは、慎重な立場をとってきた。盲視とされる患者の中に、ごく微弱ながら意識的な視覚体験が残っているケースが混ざっているのではないか。そういう指摘になる。
いわゆるタイプII盲視の存在は、盲視が完全に無意識の現象であるという単純な図式に一石を投じるものだと論じられている。
つまり盲視とは、意識ゼロと意識フルのあいだにある連続的なグラデーションの中で、どこかに位置する現象なのではないか。そういう視点だ。
この論争は、まだ決着していない。たぶん当分つかないだろうね。
「見る」は一つの機能ではない
盲視という現象をあらためて眺めると、見えてくるものがある。
私たちが当たり前だと思っている「見る」という体験は、実は単一の仕組みではなかった。意識に上る経路と上らない経路という、少なくとも二重の神経システムによって支えられている。
TNが廊下を迷いなく歩き切った瞬間、研究者たちが思わず拍手をしたというエピソードがあった。科学者自身でさえ予想を超えた光景に直面したときの驚愕を、よく表している。
DBやGYが語った「勘で分かる」という言葉も重い。当事者の視点からしか語り得ない、貴重な一次資料として今も参照され続けている。
意識とは何のためにあるのか。なぜ視覚には、意識に上る回路と上らない回路の両方が進化の過程で残されたのか。
盲視という一見マニアックな神経心理学のトピックは、人間という存在の根幹に関わる問いを静かに突きつけてくる。
SFや超能力伝説と結びつけて語られることが多いのも、たぶん理由は同じだ。日常の常識を超えてくる不気味さと魅力を、読者の多くが本能的に感じ取っている。
