むしろで囲んだ解剖台
1897年6月6日、午後2時。甲府の向町にある盛岩寺の境内で、ひとりの農婦の解剖が始まった。台は急ごしらえで、まわりをむしろで囲ってある。山梨県では、病気で亡くなった人の体を開いて調べた例が、それまで一度もなかった。
横たわっていたのは杉山なか、54歳。亡くなったのは前日の6月5日で、解剖を願い出る書面を県病院へ出してから、ちょうど6日後のことだった。
向の村に生まれ、婿を迎えて家を継いだ農家の主で、夫を助けて農作業に励む、しっかり者だったらしい。
願書の実物の所在は分からない。伝わるのは、誰かが書き写した写しだけだ。そこには、自分の体を解剖して病気の原因を探り、のちの世の資料として役立ててほしいと、はっきり書かれていた。「私は死して瞑目できましょう」という一節が、現代語訳で残る。
執刀は県病院長の下平用彩で、助手は石和の医師、吉岡順作ら4人。集まった医師は、甲府の近隣から57人にのぼった。県内で初めての病理解剖だった。この解剖は、山梨日日新聞が2日後の6月8日付で報じている。
地元の研究会が郷土の記録をもとにまとめた文章には、境内の木によじ登って中をのぞく村人もいたとある。6月の日差しの下で、作業は日没まで続いた。肝臓、胆管、脾臓、腸の一部が取り出され、のちの調べのために、それぞれアルコールに漬けられる。
肝臓の表面には白い斑点がいくつも散り、太くなった門脈には、血の通り道をふさぐ詰まりが見つかった。腸と肝臓からは虫卵が出た。だが虫そのものは、どこにもいない。
腹が太鼓のように膨れて死ぬ
なかが患っていた病を、甲府盆地では水腫脹満と呼んだ。はらっぱり、とも言う。のちには地方病という名で通るようになる。
初めは熱と下痢が出る。慢性になると手足が痩せ、皮膚が黄色く変わり、腹に水がたまって、見た目にも分かるほど膨らんでいく。そこまで来ると、人の世話なしには動けない。酒を飲まない子どもでも発病するので、酒で傷める肝臓の病とは違うことは、医者の目にも明らかだった。
一番古い記録は、戦国の末の話だとする見方がある。武田家の家臣、小幡昌盛が病の身で籠に乗り、主君に別れを告げに来る場面が『甲陽軍鑑』に出てくるからだ。「積聚の脹満」と書かれた症状が、この病に似ているという。江戸の1700年頃に水腫脹満の薬が売られていたという伝承が残る。1811年の医書『翻訳断毒論』には「甲斐の中郡には水腫多く」と出てくる。
土地の人は、この病を言葉にして覚え込んでいた。「水腫脹満茶碗のかけら」は、割れた茶碗と同じで二度と元に戻らないという意味。「夏細りに寒痩せ、たまに太れば脹満」は、貧しくて痩せているのに太るとしたら病のときだけ、という嘆きだ。
子どもには、こんな戒めが語られていた。きれいだからとホタルを捕ると、腹が太鼓のように膨れて死ぬし、セキレイを捕まえても同じ目に遭う。吉岡順作が患者の住まいを地図に落としたところ、笛吹川の支流の水路に沿って、病人が並んでいたという。
ここから筆者の見立てになる。ホタルが棲むのは、カワニナのいる澄んだ流れだ。のちに杉浦健造は、有病地にホタルが多いことへ早くから目をつけている。ホタルを捕るなという戒めは、結果として子どもを水辺から遠ざけた。迷信の形をしていても、守れば得をする実務があったわけだ。
嫁に行くなら棺桶を背負って行け
幕末の文久年間のころから、盆地の村々には、嫁入りを嘆く歌が流れていたと伝わる。「竜地、団子へ嫁に行くなら、棺桶を背負って行け」。「中の割に嫁へ行くなら、買ってやるぞや経帷子に棺桶」。野牛島には「嫁にはいやよ野牛島は、能蔵池葭水飲むつらさよ」という歌もある。
どの歌にも、流行地の名がそのまま入っている。論文や百科事典が口碑として紹介するもので、嫁ぎ先の水が命に関わると思われていたことが分かる。能蔵池の葭水というくだりは、水を飲んで病にかかるという当時の信じ方を映す。歌が生まれたのは、虫が見つかる40年ほど前のことだ。
病にかかるのは貧しい農民に多く、暮らしに余裕のある家はあまり患わなかったという記述がある。医者にかかれないまま亡くなる人が多かった、と推測する研究もある。小作の仕事につきまとう病。盆地に生まれた者の宿命。そうまで言われた。
1874年11月30日には、こんな話も記録に出てくる。甲府盆地の南西にある宮沢村と大師村の戸長を兼ねていた西川藤三郎が、両村の49戸の世帯主を集め、村を離れようと持ちかけた。盆地でもいちばん低い湿地帯の村で、高台の村々には病人が少ないことを、農民たちは知っていた。
百科事典の整理では、陳情は毎年のように出され、移転が認められたのは三十数年後の明治の末だという。ところが南アルプス市の地元の郷土紹介は、宮沢地区の移転を1898年の釜無川の水害のあとと書く。1899年から1909年にかけて、北へ順に移ったそうだ。移転先の道祖神の台座には、土地が低く水害が多かったからだと刻まれていて、病の名は出てこない。
どちらが正しいのか、ここでは決められない。ただ、低い土地の村ほど病人が多いことは、農民のほうがよく知っていた。釜無川は暴れ川で、流域には広い湿地が横たわる。貝の生息地は盆地の1市58か町村、約1万町歩に及んだと、宮入慶之助記念館のページは書く。
筆者の見立てを足しておく。村人は標高と病気の関係を知っていたが、虫の存在までは知らなかった。だから逃げ場は高台しかなく、田を捨てて水から離れるしかなかったんだと思う。
身長140センチの徴兵検査
1881年8月27日、東山梨郡春日居村の戸長、田中武平太が、県令の藤村紫朗に願書を出した。題は『水腫脹満に関する御指揮願い』。約60戸の村で、病人がいるのは中ほどの小松地区だけで、東西の端には出ない。そう書いて、略図を添えた。
願書には「原因は皆目判らず。水だろうか、土だろうか、それとも身体に原因があるのだろうか」とある。まあ、これ以上に率直な文面もないだろう。
1884年には、県が派遣した医師が小松の患者を診て、井戸水など暮らしの様子を調べた。原因は分からない。1887年には県病院長の長町耕平らが、広まったばかりの検便を試し、見慣れない虫卵を見つける。鉤虫の卵だろうと考えたが、病気との結びつきまでは見えなかった。
流れを変えたのは、軍だったようだ。1886年、徴兵検査を担当した軍医の石井良斉は、中巨摩郡と北巨摩郡の特定の村から来た、20歳前後の青年に気づく。身長は140センチあまりで子どもほどしかなく、腹は腹水で膨れ、手足は細く、顔は青白かった。
日清戦争の前で、富国強兵が国の方針の時代だ。軍は事態を重く見て、知事に原因の究明を強く求めたと、百科事典は整理している。嘆願書が出てから5年。ようやく行政が本気になったわけだ。
猫の門脈に32匹
杉山なかの解剖には、24歳の三神三朗が立ち会っていた。大鎌田村で開業したばかりの内科医で、診る患者の死因は、老衰のほかはほとんどこの病だった。県病院の病理の技師から、肝臓の虫卵が従来の鉤虫の卵よりずっと大きいと聞かされる。新しい寄生虫がいる。三神はそう確信した。
当時は高価だったドイツ製の顕微鏡を自費で買い、患者の便を集めて調べると、大きな虫卵が見つかった。1900年の『山梨県医師会会報第3号』に、「肝臓脾臓肥大に就て」と題して報告する。同じ号には、杉山なかを解剖した下平用彩と、軍医の石井良斉の報告も載った。1902年4月15日には、県病院で討論会が開かれた。
ここで三神は、返事に詰まる。便の中の卵と肝臓の中の卵が同じものだという証拠が、まだなかったからだ。狭い土地で婚姻が繰り返されたせいで起きる、遺伝の病だろうという意見まで出た。当事者には、とても飲めない言い分だった。
この討論会に来ていたのが、岡山医学専門学校の桂田富士郎。肝臓ジストマを研究する35歳の教授で、1904年の春にはるばる岡山から、三神の家を訪ねてくる。虫卵に蓋がないことに目をつけ、アフリカなどで知られるビルハルツ住血吸虫の卵と似ていると見た。
蓋のない卵を産む虫は、雌雄が別で血管の中に棲むはずだ。下剤を使うと卵だけが出て虫が出ないことも、その見立てを支えた。調べる場所は、腸と肝臓をつなぐ門脈に絞られる。
事典の記述では、4月9日に三神の診療所で、腹の膨れた雌猫が解剖された。三神家の飼い猫で、名は姫だったという。肝臓と腸はアルコールに漬けられ、桂田が岡山へ持ち帰った。
7月下旬、桂田が再び甲府を訪れる。同じ猫を使ってもう一度解剖すると、門脈の中から生きた虫が32匹出てきた。雄24匹、雌8匹で、5組は雌雄が抱き合っていた。日付は7月30日で、三神の医院の庭にはその日付を刻んだ碑がある。
ただし、発見の日付は資料によって揺れる。5月26日に岡山の教授が猫から見つけたと書く会報がある。事典は、5月26日に断片を見つけ、7月30日に生きた虫を見つけたと整理する。碑の7月30日をとる記述が多いので、ここでもそれに従う。
桂田は8月13日の官報で報告し、ドイツ語の論文も出して、日本住血吸虫と名づけている。論文の中で、三神への賛辞を惜しまなかった。翌年にはシンガポールで、英国人の医師が同じ虫を見つけて別の名をつけている。だが桂田の報告のほうが先で、命名は桂田のものとして世界に認められた。
口を覆った牛だけが病んだ
虫は見つかった。では、どこから体に入るのか。口から入る経口感染か、皮膚から入る経皮感染か。説は二つに割れた。
東京帝国大学の医局にいた土屋岩保は、1905年に盆地のあちこちで犬と猫を調べる。虫が見つかるのは、門脈だけだ。皮膚から入るならほかの血管にもいるはずなので、口から入るのだという推論に、多くの研究者が賛成した。
川や用水の水は飲むなと命じられ、飲み水には煮沸が義務づけられる。それでも、新しい患者は出続けた。農民たちは、田や川に入ると手足がかぶれることを知っている。泥かぶれと呼び、病は必ずそれを経て来るのだと、経験で分かっていた。
1909年6月、決着をつける実験が二つの土地で行われた。桂田は岡山県の有病地の水田で犬と猫を使い、京都帝国大学の藤浪鑑は、広島県の片山の水田で17頭の牛を4組に分ける。牛は病気のない広島市から運ばれた。藤浪は経口説の側に立つ人で、結果には絶対の自信があったと百科事典は書く。
口に袋をかぶせて飲み食いできなくした6頭は、全頭が感染。全身を防水具で覆って口だけ自由にした牛は、1頭も感染しなかった。口から入ると信じた学者の予想は、そっくり逆の結果になった。
同じころ、京都帝国大学皮膚科の松浦有志太郎が、自分の足で確かめている。右足は素足、左足にはゴムのゲートルをつけて、有病地の水田を数時間歩く。赤い斑点が出たのは、素足の右足だけだった。1か月ほどたって京都へ戻り、念のため自分で検便すると、血便の中に日本住血吸虫の虫卵があった。幸い重くならず、71歳で亡くなっている。
土屋も追試で結果を認め、知事に「地方病の感染は皮膚から」と報告した。1904年の発見から5年。農民が最初から知っていたことを、学会がようやく追いかけた計算になる。
皮膚から入るとなれば煮沸では防げず、小作の農民に「田に入るな」と言うのは、仕事を奪うのと同じだ。逃げ道はない。命がけの米作りが、そのまま続くことになった。
子どもに配られた絵本
貝の正体を探すあいだ、盆地の医師たちは別の貝を疑っていた。用水路に広く棲むカワニナだ。杉浦健造は1909年、カワニナに似た貝の生息と地方病の関係を、吉岡順作と共同で論文にまとめている。吉岡と土屋岩保も、カワニナを水槽に入れて実験を重ねたが、立証には至らなかった。
健造は25歳の1891年に杉浦醫院を開き、連日60人を超える患者を診た。県の広報誌によれば、その多くが水腫脹満だったという。私財を投じた人だ。
1911年には、山梨県で初めての本格的な患者調査が行われている。調べたのは69,131人で、地方病が疑われる所見は7,893人、割合は11.4%。肝臓が腫れていたのが7,443人、脾臓が腫れていたのが1,326人で、腹水がたまっていたのは110人だった。
1913年の夏、九州帝国大学の宮入慶之助と助手の鈴木稔が、佐賀県で中間宿主の小さな巻貝を見つける。同じ種類の貝は、甲府盆地にも多数いた。虫の一生が、これで全部つながった。だが病は、そこで終わらない。
県は1916年に対策費1,600円を計上し、貝を拾い集める事業を始める。市町村ごとに3人が講習を受け、拾った量に応じて買い上げる仕組みで、8年間に50市町村で拾った貝は約38石5斗に達した。7キロリットルほどになる。
1917年5月には、山梨県医師会の地方病研究部が、子ども向けの冊子『俺は地方病博士だ』を出した。杉浦醫院の記録では、川遊びをする凸坊と茶目吉を、洋服を着てひげを生やしたおじさんが、襟をつかんで引き上げる絵本だという。
おじさんは「地方病は貧国弱兵病だ」と少年に説き、国が貧しく弱くなるという言い方に、時代がそのまま出ている。部数は、論文が約2万部、杉浦醫院の記録は1万5千部と書いていて、資料同士で食い違う。
1924年から、石灰で貝を殺す事業が14年続き、動員は延べ110,688人、石灰は23,518トンに達した。費用が残る5年分を見ると、国費は6%、県費は15%で、寄付金が81%を占める。住民が自分たちの金で貝を殺したわけだ。
1932年には寄生虫予防法が施行された。検査や治療、便所の改良、薬の費用は住民でなく国と県と市町村が持つことになり、陳情を重ねた末の法律だったと、論文は書く。
効果は出た。石灰をまいた土地で調べた貝のうち、虫に感染していたものは19.1%から4.9%に減る。だが、まいたのは対象の土地に1回きりだった。
貝は戻る。1942年から43年の検査では、8,093人中1,256人から虫卵が見つかった。15.5%だ。戦争が深まると石灰は値上がりし、事業は立ち行かなくなっていく。
寄生虫検査列車が甲府駅に入った
戦争が終わると、米軍が来た。フィリピンのレイテ島の戦いで、兵隊が日本住血吸虫に大勢感染した経験があったからだ。1945年に専門家が山梨の流行地へ入り、日本側の研究者と共同で調べ始めた。
1947年12月10日には、検査車両を含む4両編成の「寄生虫検査列車」が、甲府駅に停まった。甲府市などの住民3,055人が、この日に検査を受けている。県庁の中には、臨時の研究所も置かれた。米軍と共同で開発した皮内反応の検査は、その後の集団検診の土台になる。
案内役のひとりが、昭和町で医院を開く杉浦三郎だ。1947年10月には昭和天皇が有病地を視察していて、県の広報誌には、玉幡村で三郎が案内する写真が載る。1949年に県立の医学研究所ができると、三郎は初代の地方病部長になった。
検便のやり方も変わった。便を少しガラス板に塗って見る従来の方法では、盆地の住民の0.1%にしか虫卵が出ない。遠心沈殿法に替えると2.7%まで見つかった。見逃していた人が、それだけいたわけだ。
治療の薬も、そのころには形になっていた。酒石酸アンチモンからつくられたスチブナールは、1923年12月に実用化されている。ただし、二十数回の静脈注射が要る。関節の激しい痛みや吐き気も、ついて回った。博物館の展示には、その辛さが証言で伝わるとある。
殺貝には、米軍の研究から見つかったペンタクロロフェノールのナトリウム塩が使われ始める。山梨県での実用化は1953年。動力の噴霧器で散布し、1シーズンに延べ1万人以上が動いた。
作業は1戸から1人を出す形で、すべて無償だった。どの家にも患者か死者がいて、事の重さが身に染みていたから、無償の作業にも人が集まったのだと、論文は書く。毒は魚にも効いて、散布の時期には魚の被害が出たため、1971年に水質汚濁の薬に指定され、使用は止まる。
2179キロの溝
貝は、泥と草のある土の水路を好む。固めれば、棲めなくなる。1948年に試験が行われ、1950年から公費で本格的に工事が進んだ。1961年には、寄生虫病予防法にコンクリート化の計画を立てて実施する決まりが加わる。
1950年から1985年の35年間に造られた水路は、総延長で2179.1キロ。事業費は112.7億円で、年にならすと3.1億円になる。一年に平均で約60キロの溝が、盆地のどこかで固められていった計算だ。県立博物館には、1961年のコンクリート溝のプレートが残る。
1973年9月には、参議院に質問主意書が出た。山梨県内では21市町村に有病地が及び、まだ113キロの溝を造る必要がある、という内容だった。貝を棲めなくするのが根本の対策だと、国会でも語られていたわけだ。
殺貝の薬も入れ替わった。ユリミンという粒状の薬は、散布に要る人数がそれまでの10分の1ですんだ。
指定された有病地の面積は、1955年に19,603ヘクタール。1975年には11,764ヘクタール、1984年に5,628ヘクタール、1995年には3,537ヘクタールまで減る。果樹の畑が多い盆地の東南部は、早くに指定を外れた。
虫卵が見つかる人は、1965年に326人、1970年に17人、1975年に9人と減っていく。1977年の3人が最後だった。感染した貝が最後に出たのは1976年で、調べた25,333個のうち3個。最後の新しい患者の年は、資料によって1978年とも1979年とも書かれる。
1983年には、実験用のマウスが感染した。県は綿密に調べたが、ほかに陽性は出ず、流行にはならない。1984年に県は「新たな流行はない」と判断する。それでも、監視はさらに10年続けた。
1996年2月13日、県の委員会が「山梨地方病の流行は終息し安全である」と答申し、2月19日に知事が終息宣言を出した。貝は今も生きている。そのため、安全宣言とは呼ばず終息宣言にしたのだと、宮入慶之助記念館のページは書く。
ホタルが消えた川
昭和町の鎌田川は、かつて県内有数のホタルの川だった。源氏ホタルは1930年に国の天然記念物に指定され、組合村長を務めていた杉浦健造が尽力したと伝わる。杉浦家では毎年、蛍見の会が開かれ、県内の名士を招いたそうだ。
その健造が、貝を食べるアヒルやホタルの幼虫を田や池に放して、駆除を試みていた。茶碗と箸で拾った貝が、7年で米俵96俵になったという話も残る。健造は1933年、67歳で世を去った。
水路のコンクリート化と薬の散布で、貝の棲む場所と一緒に、カワニナも消えた。昭和町のホタルは絶滅し、天然記念物の指定は1976年に解かれる。薬とコンクリートが環境に与えた負荷は大きく、今後も見守る必要がある。貝の研究をまとめた論文は、そう書いている。
終息のあとも、貝はいる。1996年に定点ひとつあたり8.4個だった採取数は、2005年には62.3個に増えた。虫を持つ貝は、1つもなかった。
2026年は、終息宣言から30年にあたる。節目の年だった。県は2月7日に記念のシンポジウムを開き、県立博物館は5月23日から6月29日まで展示を催した。
宮入慶之助記念館のページには、2000年9月に旧流行地の旭町のあたりを訪ねた記録がある。田の水が引いたコンクリートの堰に、米粒ほどの小さな貝が、かなりたくさんついていた。近くで稲を刈っていた老夫婦は、こう話したという。「安全宣言は出ているけど、やっぱりちょっと不安だはな」。
