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五十歳の脳に、八十歳の痕があった――アメフト選手を切った監察医と、それを二十年否定し続けたリーグの話

2002年9月のある土曜日、ピッツバーグは朝から霧だった。アレゲニー郡監察医務院の検死室に、その日の当番だったベネット・オマルという若い病理医が入っていく。34歳。ナイジェリア生まれ。五人いる病理医のなかで一番下っ端だから、週末当番はいつも回ってくる。

台の上には、身長175センチ、体重110キロ強の男の遺体があった。名前はマイク・ウェブスター。50歳。

オマルはアメリカンフットボールを知らなかった。ナイジェリアで育ち、サッカーのゴールキーパーをやっていた男である。デブが集まってぶつかり合う、意味のよく分からない競技、くらいの認識だった。だから「今日はマイク・ウェブスターだ」と言われても、誰のことか分からない。周りに聞いた。

「マイク・ウェブスターって誰?」。全員が、宇宙人でも見るような顔をしたという。ピッツバーグでそれを聞くのは、日本で「長嶋って誰?」と聞くのに近い。

ウェブスターはスティーラーズの伝説のセンターだった。1974年ドラフト5巡目。17シーズン、245試合。スーパーボウル制覇4回だ。プロボウル9回。

177試合連続出場。1997年に殿堂入り。あだ名は「アイアン・マイク」。真冬でも袖を切った半袖ユニフォームで出てくる、寒さも痛みも感じない男、ということになっていた。

ただ、台の上の遺体は50歳には見えなかった。オマルは後年、こう言っている。「彼は70代に見えた」。手がひどかった。指が全部、あらぬ方向を向いていて、握手したら手のひらのおかしいところに骨が当たる。

何度も折れて、そのたびにテープで巻いて、また出ていったのだろう。

オマルは胸を開き、肋骨を切り、心臓を取り出した。冠動脈がぼろぼろだった。心筋症もあったのである。心臓発作。死因はそれで説明がついた。

そこでやめてもよかった。

「この脳は、50歳の脳じゃない」

やめられなかったのは、その朝テレビを見ていたからだ。ニュースがウェブスターの死を伝えていて、ついでにこの数年の転落ぶりも流していた。引退後に何もかもを失った男の話だった。

ウェブスターは1991年3月に引退している。そこから先が長い。頭痛が止まらない。「頭のてっぺんが吹き飛ぶような痛みだ」と医者に訴えている。眠れない。

痛くて横になれないから、椅子に座ったまま数時間だけ眠る。記憶が保たない。自分が離婚しているかどうかも思い出せない時期があった。ビジネスに手を出しては失敗し、金は消えた。一時はホームレス同然で、黒いピックアップトラックの中や駅で寝ていたのである。

元同僚のテリー・ブラッドショーが生活費を出し、オーナーのダン・ルーニーが三か月以上ホテル代を払った時期もある。それでも彼は何週間も連絡を絶って消えた。

1999年2月には、リタリンの処方箋19枚を偽造したとして手錠をかけられている。保釈金2000ドルを工面するために、友人がスーパーボウルの優勝リング4個を担保に入れた。あのリングは今も金庫の中にあるという。

最後の数年は、末の息子ギャレットと二人暮らしだった。家具のない部屋に、床に寝る生活。当時まだ十代だったギャレットが、父に「いま食べる時間だよ」「シャワーを浴びて」と言う役をやっていた。父が夜中に他人の部屋のドアを鍵で開けようとして立ち往生するので、ギャレットは自分たちの窓に旗を立てた。どの部屋が家か、目印になるように。

これ全部を、オマルは検死台の前で思い出していた。そして考えた。ボクサーの「パンチドランカー」というやつがあったな、と。妄想、猜疑心、爆発的な怒り、記憶の消失。あれと臨床像がよく似ている。

頭を殴られ続けることでボクサーの脳が壊れるなら、フットボール選手の脳も壊れるんじゃないのか。

技師が脳を取り出して手渡した。オマルは覚悟していた。アルツハイマー病の脳みたいに、萎縮して、しわしわで、見るからに醜い脳が出てくるはずだ、と。

出てきたのは、普通の脳だった。

「がっかりした」と彼は後に語っている。「冗談だろ、と思った」。灰白質のひだは規則正しく、挫傷もない、出血もない、萎縮もない。CTもMRIも正常。ボクサーの脳に典型的に見られる透明中隔腔もない。

何もない。

普通なら、ここで脳を切って、所見なし、で終わりだ。オマルは切らなかった。「待て。この脳を固定しよう。この脳と時間を過ごそう。

何かおかしい。何かが合わない」。そう言ってホルマリンに漬けた。

ここが、この話の分岐点だった。監察医が「死因が確定した遺体の脳」をわざわざ保存するのは、常識的にはやりすぎである。上司のシリル・ウェクトに「この脳を研究させてほしい、特殊な検査をしたい」と頼みに行った。許可は出た。

それから彼は、脳をプラスチックの容器に入れて自宅に持ち帰ったのである。ピッツバーグのチャーチル地区のコンドミニアム。リビングの隅にテーブルを置き、まな板とナイフと顕微鏡を並べた。妻のプレマだけが見ていた。図書館から論文を取り寄せまくったので、司書から「本当にご本人ですか」と確認の電話が来たという。

取り寄せの量が異常だったからだ。外傷、フットボール、ヘルメット、アルツハイマー病、脳震盪、衝撃、G、蛋白質の蓄積、パンチドランカー。読んで、見て、また読んだ。「心が知らないものは、目には見えない」というのが彼の口癖だった。

染色を頼んだのはピッツバーグ大学の脳研究室、恩師のロナルド・ハミルトンのところである。特殊染色のスライドを何枚も、何セットも作らせた。検体の出所は伏せてある。誰の脳かは誰も知らない。ただ、枚数が多すぎて、途中から自腹を切るようになった。

監察医の給料でやることではない。

ある金曜の夜、彼は仕事場に一人でいた。独身だった。7時ごろ、机の上に置きっぱなしだったスライドの束が目に入る。「ああ、マイク・ウェブスターだ」。リンゴをかじりながら、一枚を顕微鏡に乗せた。

茶色と赤の染みが、視野いっぱいに散らばっていた。

タウ蛋白の巨大な沈着だったのである。神経原線維変化。神経突起の糸くずのようなもの。彼は一度スライドを外して、本当にウェブスターの検体か確認した。もう一度見た。

もう一度見たのである。「50歳の脳にあるべきではない変化が、そこにあった。しかも、見た目は正常だった脳に、だ」。

ここでオマルが気づいたのが、この話の核心である。分布が、アルツハイマー病と違ったのだ。

アルツハイマー病では、タウは海馬と嗅内皮質から始まる。そこに必ず出る。そこから新皮質へ広がっていく。ところがウェブスターの脳では、前頭葉、側頭葉、頭頂葉、後頭葉の皮質、帯状回、島皮質に神経原線維変化があった。なのに海馬と嗅内皮質にはなかった。

順番が逆というより、そもそも別の病気の地図だったのだ。

彼はスライドを家に持ち帰り、しばらく抱えていたのである。それからハミルトンのところへ持っていく。ハミルトンは覗いて即座に「アルツハイマー病だね」と言い、そして止まった。「待て。この患者、何歳だ」。

「50歳」。「本当に?症状は?」。「マイク・ウェブスターです」。

ハミルトンの顔が固まった。オマルは聞いた。「私はこう思うんですが。私はおかしいですか」。ハミルトンは言った。

「いや、おかしくない。これは何かだ」。そしてスティーヴン・デコスキーのところへ行けと言った。アルツハイマー病研究の大御所である。

デコスキーの部屋には二分で帰るつもりだった。二時間いた。デコスキーの結論は「これはアルツハイマー病ではない。別の何かだ。ボクサーの痴呆に近いかもしれない」。

無名の監察医に大御所が二時間を割いた。その時点でオマルは、自分が何かを掴んだと確信した。

CTEという名前は、逃げ道を兼ねた「保険」だった

オマルは病名を考えたのである。ここが彼の面白いところで、命名の理由がかなり戦略的なんだよな。

過去の文献では、この手の病態はずっと記述的な名前で呼ばれてきた。「パンチドランク症候群」「拳闘家痴呆」。要するに「ボクサーがなる、あれ」という呼び方である。誰も、独立した疾患単位として名前をつけ、病理を定義し、いずれ国際疾病分類の番号を取れる形に整えることをしなかった。オマルはそれをやろうとした。

同時に、自分が間違っている可能性も考えていたのである。だから「間違っていたときに逃げ込める、記述的で、しかも語呂のいい頭文字」を選んだ。chronicは「長期の」、traumaticは「外傷に関係する」、encephalopathyは「悪い脳」。全部足しても「長く続く、外傷性の、脳の不調」という当たり前のことしか言っていない。もし疾患単位として否定されても、その言葉自体は死なない。

こうしてCTE、慢性外傷性脳症という三文字が生まれた。2005年7月、専門誌「ニューロサージェリー」に、論文は載った。タイトルは「あるナショナル・フットボール・リーグ選手における慢性外傷性脳症」。著者はオマル、デコスキー、ミンスター、カンボー、ハミルトン、ウェクトの六人。ウェブスターの死から、ほぼ三年が経っていた。

オマルは、リーグの医師たちが喜ぶと本気で思っていたらしい。反復する頭部への衝撃が重い脳の障害を起こしうるという科学的な証拠なんだから、これを使って問題を直せばいい、と。

リーグの委員会から「撤回しろ」という手紙が来た

返ってきたのは、撤回要求だった。

2006年5月号の同誌に、三人連名のレターが載る。アイラ・キャソン、エリオット・ペルマン、デヴィッド・ヴィアーノ。肩書きはNFLの軽度外傷性脳損傷委員会。ペルマンはジェッツのチームドクターで、この委員会の委員長を務めていた。

主張はこうだ。オマルらの症例は、慢性外傷性脳症の診断基準を満たしていない。根拠として持ち出されたのは、1973年にコーセリスらが引退ボクサー15人の脳を調べた古典的研究である。そこで示された四つの所見はこうだ。透明中隔腔または有窓化した中隔、小脳下面の瘢痕、黒質の脱色素、新皮質に広範な神経原線維変化があり老人斑はほぼない。

これがCTEの定義だ、と彼らは言った。

ウェブスターの脳は、このうち黒質の所見しか満たしていない。だから「CTEと矛盾しない」という記述は完全に誤りである、と。

さらに臨床情報の不足を突いた。オフェンシブラインマンは他のポジションに比べて脳震盪の発生率が低い。論文には脳震盪の既往も、頭部外傷で退場した記録も書かれていない。試合外の外傷歴がないと書いてあるが、プロ入り前の高校と大学のフットボールを無視している。つまり、この人物が「慢性の」「外傷性の」「脳症」であったという臨床的証拠が足りない。

ゆえに、この用語を彼に当てはめるべきではない。

レターの最後は、こう締められていた。著者らに対し、論文を撤回するか、さらに詳細な調査のうえでタイトルごと十分に改訂するよう強く求める。

科学論文の世界で「撤回しろ」というのは、かなり強い言葉である。普通、撤回を求めるのはデータの捏造や汚染、研究不正の疑いがあるときだ。解釈の違いでは、まず言わない。

オマルらは同じ号で反論した。コーセリス自身が、四徴すべてが揃ったのは症例の三分の二だけだと書いている。透明中隔腔がなければ拳闘家痴呆ではない、などとは誰も主張していない。ボクサーはヘルメットをかぶらず、殴られ方も違う。フットボールで同じ像が出るとは限らない。

そして、50歳の男の新皮質に、老人斑を伴わない神経原線維変化が広がっているという事実そのものが、明らかに病的である。海馬と嗅内皮質にそれがないのだから、アルツハイマー病ではありえない。ついでに、二例目が既に手元にある、とも書いた。

同じ号に、査読者の一人だった神経心理学者ケネス・クートナーのコメントが載っている。こっちのほうが辛辣だ。要旨はこう。神経病理は神経心理学者の専門外だから所見の当否は論じない。ただし、キャソンらが根拠に使っているのはボクシングの研究ばかりで、フットボールの頭部外傷の力学は同じではない。

そして「適切な病歴が取られていない」という批判については、こういう事実に触れていない。この選手が現役だった当時、リーグは外傷性脳損傷を体系的に評価しても、一貫して診断しても、神経心理検査を使ってもいなかったのだ。記録がないことは、脳震盪がなかったことの証明にはならない。最後にこう書いている。撤回を求めるのは行き過ぎであり、不適切だと私は考える。

キャソンらは2006年11月号でさらに反撃した。二例目のテリー・ロングについて、公表されていない訂正死亡診断書では死因が別の中毒によるものになっている。その物質自体が脳を傷つけると指摘した。つまり所見が混濁している、と。オマルらが返信で「広範な」という語を使ったことも突いた。

原著では「まばらな」と書いていたじゃないか、まばらと広範は違う言葉だ、と。

それから、地裁の判断を援用したことに噛みついた。「いつから法廷が科学的真実の裁定者になったのか」。

結局、「ニューロサージェリー」誌は論文を撤回しなかった。

2008年10月、リーグは別の手を打つ。独立した研究者を送り込んで、オマルのスライドを自分の目で見せろと言ってきた。選ばれたのはニューヨークのアルバート・アインシュタイン医科大学のピーター・デイヴィス。アルツハイマー病研究30年のベテランで、リーグからは一銭も受け取らない、駐車場代すら受け取らないという徹底ぶりだった。彼は最初から懐疑的で、そのことを何度も公言していた。

何千という脳を見てきたが、オマルが記述するような量のタウ沈着など見たことがない、と。

二日かけて、スライドを一枚ずつ見た。「うわ」という声が、何度も出たという。デイヴィスは信じる側に回った。それでも最後に、染色そのものへの疑いだけが残った。技師が最新の機材を使っていない可能性がある、と。

だから彼は組織片をニューヨークに持ち帰り、自分の研究室で自分の機材でスライドを作り直した。

結果は、さらに悪かった。タウの病理は、ウェストヴァージニアで見たものより強かったのである。最も進行したアルツハイマー病の症例でも見たことのない量が、まったく違う領域に出ていた。

デイヴィスはリーグに報告書を書いた。結論は、オマルは正しい。そしてオマル宛にこう書き送った。あなたは何かを発見したと私は確信している。この発見は神経変性疾患研究の分野にとって非常に重要になりうる。

これはすごい話だ。あなたは本当に、大変な藪蛇を突いてしまった。

二人目、三人目――40代で人格が変わっていった男たち

ウェブスターの死から二年も経たないうちに、オマルは出勤して、同僚にこう言われた。「おい、脳の人。また一件あるぞ」。

「何の話ですか」

「テリー・ロングが死んだ。お前は非番だったから、シャキール先生が解剖して脳を取っておいてくれた。脳は正常に見えたそうだ」

テリー・ロングも元スティーラーズのラインマンだった。45歳。オマルは遺族に会いに行き、生前の症状を聞いた。ウェブスターとよく似ていた。

三人目は、アンドレ・ウォーターズである。イーグルスとカーディナルスで12シーズンを戦ったセーフティ。「ダーティ・ウォーターズ」の異名で知られた、頭から突っ込むタイプのタックラーだった。2006年11月、44歳で亡くなった。

ここから先は、オマルではなく別の男の話になる。

「弟さんの脳を、貸していただけませんか」

クリストファー・ノウィンスキーという男がいる。ハーバードでディフェンシブタックルをやり、卒業後にWWEのプロレスラーになった。リングネームは「クリス・ハーバード」。ところが度重なる脳震盪で、24歳のときに脳震盪後症候群で引退せざるを得なくなる。片頭痛が止まらず、短期記憶がおかしくなり、脳震盪のあとにホテルの部屋を寝ながら破壊したこともあった。

彼は2006年に「ヘッド・ゲームズ」という本を書いていた。その第4章で、ピッツバーグで二人のスティーラーズの脳を調べた監察医、ベネット・オマルという人物を紹介している。

本が出た一か月後、ノウィンスキーはアンドレ・ウォーターズの死をニュースで知る。ロングと同じくらいの年齢。同じような死に方。しかもウォーターズは頭から突っ込むことで有名だった選手だ。彼はインターネットでウォーターズの脳震盪歴を検索した。

1994年のフィラデルフィア・インクワイアラー紙のインタビューでのことだ。キャリアで何回脳震盪をしたかと聞かれたウォーターズは、こう答えている。「15回で数えるのをやめた」。そのあとにこう続けている。ふらついたら気付け薬を嗅いで、そのまま出続けた、と。

1991年には試合中の脳震盪で入院し、帰りの飛行機で発作のような症状を起こしたが、翌週には出場している。

ノウィンスキーは、まずフロリダ州ヒルズバラ郡の監察医レシェク・クロストウスキーに連絡した。素朴に、監察医なら死の背景に関心があるだろうと思ったのだ。返ってきた答えは「死因なら分かっている」。ノウィンスキーは資料を送り、数週間のやり取りを重ねた。最終的に監察医はこう言った。

遺族の許可があるなら、私には止められない。

残っていたのは、手続き上の理由で保存されていた脳の一部だった。小さなスモモくらいの大きさのもの、数片。

ノウィンスキーはウォーターズの母ウィリー・オラ・ペリーに電話をかけた。「あれは、私がやったなかで最もつらい飛び込みの電話だった」と彼は言っている。姉のトレイシー・レーンが折り返してきた。ノウィンスキーはこう切り出した。「この話には、もっと続きがあるかもしれないと思っています」。

自分が誰で、何をしていて、テリー・ロングという人がいて、これは同じケースかもしれない、という賭けなんだ、と。

妹のサンドラ・ピンクニーは、話を聞くうちに、それが不気味な依頼ではなく筋の通った依頼だと理解した。家族はずっと「なぜ」を抱えていたからだ。陽気で気前がよかった弟が、なぜ最後にああなったのか。

ピンクニーは12月中旬に書類にサインした。ホルマリンに入れられた四つの脳片が、翌日配達でフロリダからピッツバーグへ送られた。

三週間後の2007年1月4日、オマルの検査結果が出る。44歳の男の脳が、アルツハイマー病を抱えた80代の脳のように見えた。

ニューヨーク・タイムズのアラン・シュワルツがこれを記事にして、話は一気に広がった。ノウィンスキーはそのとき、悲しさと高揚が同時に来るような気分だったという。三人の元NFL選手が、50歳になる前に死に、三人ともCTEだった。それ以前の感覚では、この病気になる確率は「百万分の一」みたいな語られ方をしていたのだ。三打数三安打。

「これは、フットボールをたくさんやった人間にとって、いい知らせではなかった」とノウィンスキーは言う。

四人目はジャスティン・ストゼルチック。同じくスティーラーズのラインマンで、2004年に36歳で死んでいる。母メアリー・ストゼルチックが脳の検査を許可した。彼は最後の時期、声が聞こえると言い、路上で金を配り、異様に信心深くなり、そして高速道路で長い逃走の末に事故で亡くなった。オマルの記録によれば、ストゼルチックには文書化された脳震盪の既往が一件もなかったのである。

それでも神経原線維変化と神経突起の糸は、そこにあった。オマルはこう言っている。「フットボール選手が8年も10年もプレーして、脳震盪を一度も、強い衝撃を一度も受けないなんてことはありえない」。

ボストンの冷凍庫に、脳が集まりはじめた

2007年6月14日、ノウィンスキーは脳神経外科医ロバート・カントゥと組んだ。そしてスポーツ・レガシー研究所という非営利団体を作る。カントゥは1980年代に競技復帰のガイドラインを最初に書いた人で、当時はほとんど無視されていた。

ノウィンスキーには足りないものがあったのである。科学だ。症例報告をいくつ積んでも足りない。そこで彼はボストン大学のロバート・スターンに話を持ち込んだ。するとスターンが「その病理を見られる人なら、心当たりがある」と言う。

アン・マッキーである。

マッキーはボストンの退役軍人医療センターで神経病理を見ていた。アルツハイマー病研究者としてのキャリアが長い。タウ蛋白の世界的な専門家であり、そして本人はグリーンベイ・パッカーズの熱烈なファンだった。日曜日にはチーズ型の帽子をかぶってテレビの前に座る人である。

彼女が最初にCTEを見たのは、ポール・ペンダーという地元の有名ボクサーの症例だった。認知症の末期を同じ病院で過ごし、アルツハイマー研究の対象になっていたので、脳を評価したのが彼女だった。

ノウィンスキーから「フットボール選手の脳を見てくれませんか」と言われたときのことを、マッキーはこう振り返っている。「神経病理医にとってこれは、冗談だろ、という話です。ぜひ見たい、に決まっている」。CLFの記録によれば、このときノウィンスキーの依頼はもっと踏み込んでいた。もし我々が遺族と協力して、亡くなった元フットボール選手の脳を集められたら、それを調べてくれますか、と。

当時、文献に発表されていたCTEの症例は世界で45例しかなかった。しかもほとんどはボクサーで、40年以上前のものだった。マッキーはイエスと答えたのである。

2008年、ボストン退役軍人医療システム、ボストン大学、そしてスポーツ・レガシー研究所の三者で脳バンクが立ち上がる。世界で初めて、CTEの研究に特化した組織だった。

マッキーが元プロフットボール選手でCTEを見つけた最初の例は、ジョン・グリムズリーである。2008年2月、彼は銃の手入れ中の事故として処理された死に方をした。一週間後、マッキーがその脳を見た。タウで詰まっていたのである。「これは前頭皮質です」と彼女は言う。

「洞察、判断、知性を担当する部分。完全に渋滞していて、脳細胞を絞め殺すもつれた異常蛋白でいっぱいです」。

二人目の提供者は、トム・マクヘイル。元NFLのラインマンで、2008年に45歳で亡くなった。妻のリサ・マクヘイルが脳の提供を決めた。彼女は2009年のスーパーボウルの時期に開かれた記者会見で、夫がCTEと診断されたことを自分の口から公表する。そのあとで「ほかに何かできることはありますか」と聞いた。

このころ、提供の申し出が急増していた。ノウィンスキーはリサに、団体の最初の職員にならないかと持ちかけたのである。彼女はそれから1000を超える遺族に付き添うことになる。脳が届いたあと、家族の窓口として医療記録を集める。生前の競技歴、軍歴、頭部外傷の履歴を聞き取る。

そして最後に神経病理医から診断結果を告げられる電話に、必ず同席する。

同席する側の人間が、同じことを経験した遺族だというのが、この仕組みのいちばん重い部分だと思う。

マッキーはこう言っている。「私は脳の提供を長くやってきましたが、こういう取り組みは普通、軌道に乗るまでに何十年もかかるんです。ところが、まったく難しくなかった。人が『はい』と言ってくれることに関しては、驚くほど簡単でした」。

理由も彼女は分かっていたのである。「この仕事のいちばん大きな転換点は、自ら命を絶った人たちの脳が届くようになったことでした。自死は家族を、ほかの何とも違うやり方で引き裂きます。そういう家族の思いがあまりに強くて、この研究はもう止められなくなったんです」

もうひとつ、彼女にとって決定的だった症例がある。エリック・ペリーという18歳の高校生だった。四度目の脳震盪から10日後に亡くなっている。マッキーはほかの検体と同じように処理した。「18歳の脳に、ごく小さな点が、前頭葉のごく狭い範囲に、この病気とそっくりの姿で見つかったんです。

ショックでした。ただし、本当に小さな点だった。この病気は、こういうふうに始まるのか、と」

2009年12月20日、リーグはボストン大学に100万ドルを寄付すると発表した。そのうえで、選手たちに脳の提供を呼びかけると言った。撤回を要求していた同じ組織である。

そのすぐあと、スポーツ・レガシー研究所がパーティーを開いた。場所はボストン・ハーバー・ホテル、コミッショナーのロジャー・グッデルに賞を贈る会である。大きなケーキが出た。てっぺんには、フットボール型の脳が砂糖菓子で作って乗せてあったという。

オマルはその話を聞いて、友人に電話をかけた。台に乗せられたマイク・ウェブスターのことしか、頭に浮かばなかったという。「ケーキだってさ」と彼は言った。「ケーキ」

2017年、「111人中110人」という数字が世界を殴った

2017年7月25日、米国医師会雑誌(JAMA)に、その後どこへ行っても引用されることになる論文が出た。筆頭はジェシー・メズ、責任著者はアン・マッキー。タイトルは「アメリカンフットボール選手における慢性外傷性脳症の臨床病理学的評価」。

調べたのは、脳バンクに提供された元フットボール選手202人の脳である。死亡時年齢の中央値は66歳。神経病理の評価と、遺族への聞き取りによる臨床評価は、互いに盲検で行われた。つまり病理を見る人は生前の症状を知らず、症状を聞き取る人は病理の結果を知らない。

結果はこうだった。202人中177人、87%にCTEの病理が見つかった。平均競技歴は15.1年。

問題は内訳のほうだ。高校どまりの14人では3人、21%。大学どまりの53人では48人、91%。セミプロの14人では9人、64%だ。カナディアン・フットボール・リーグの8人では7人、88%。

そしてNFL経験者の111人では、110人。99%だ。

この「111人中110人」という数字が、その週の世界中の見出しになった。

さらに読むと、もっと嫌な数字が並んでいる。軽症(ステージIとII)のCTEだった人の死亡時年齢の中央値は44歳。重症(ステージIIIとIV)では71歳。軽症群の最も多い死因は自死で27%、重症群では認知症やパーキンソニズムなど神経変性関連が47%だった。

つまり、若くして亡くなった人たちの病理はまだ軽く、長く生きた人たちの病理は重かった。病気が進むには時間がかかる。しかし若い段階で亡くなってしまう人がいる。

症状のほうも出ている。軽症の27人のうち、行動や気分の症状があったのが26人、96%。認知症状が23人、85%。認知症の兆候が9人、33%だ。重症の84人では、行動や気分が75人、認知症状が80人、認知症の兆候が71人、85%だった。

競技ポジションも公表されている。CTEと診断された177人のうち、オフェンシブラインマンが37人だった。ディフェンシブラインマンが35人、ランニングバックが31人。ぶつかる回数が多いポジションほど多い。

その数字には、はじめから穴が空いている

ここで冷静になったほうがいい。この研究の論文自体が、自分の限界を最初の行に書いているからだ。使われている言葉は「convenience sample」、都合のいい標本、という意味である。

脳バンクに脳が届くのは、ランダムではない。届くのは、生前に本人や家族が「この人は何かおかしかった」と感じていたケースだ。マッキー自身が2013年のインタビューで、こう言っている。症状のある人の家族のほうが、まったく無症状だった人の家族より、脳を提供する可能性がずっと高い、それは選択バイアスだ、と。そのうえで彼女はこう続けた。

それでも我々は、この病気の実例をあまりにたくさん集めてしまった、と。

「99%」を「NFL経験者の99%がCTEになる」と読むのは、完全な誤読である。これは「症状を心配した遺族が脳を送ってきたNFL経験者111人のうち110人がCTEだった」という意味しかない。分母が元NFL選手全体ではないのだ。

この点については、かなり強い批判がある。2024年に「スポーツ・メディシン」誌に載った検討では、批判はもっと構造的なところに及んでいる。要旨を並べるとこうなる。

第一に、CTEの病理診断の定義そのものが動いている。2016年の第一次基準では、病的な指標となるタウが「神経細胞とアストロサイトに」たまっていることとされていた。ところが2021年の第二次基準では、アストロサイトの条件が落ちた。神経細胞にたまっていることが必須になり、かわりに軟膜表面からの深さという要素が加わる。

つまり10年前の研究で「症例」と数えられたものが、今日の基準では症例に数えられない可能性がある。実際、2017年は111人中110人だった。ところが2023年に同じ脳バンクが165人分を追加して284人で集計したときは、251人、88%になっている。定義を変えれば有病率が動く。それは当たり前のことだが、外から見ると数字だけが独り歩きする。

第二に、脳バンク由来の研究を「症例対照研究」として扱うのは筋が悪い。なぜなら、その脳バンクは「反復する頭部衝撃にさらされていたこと」を理由に検体を集めているからだ。曝露を基準に症例を選んでおいて、症例群の曝露率を計算しても意味がない。そこから計算されるオッズ比も、実質を持たない。

第三に、病理医どうしで判定が割れることがある。加齢に伴うタウのアストログリア病変、いわゆるARTAGなどと区別するのは、いまも難しい課題だとされている。

そして決定打に近いのが、グラント・アイバーソンらが2023年に「フロンティアズ・イン・ニューロロジー」に出した研究である。アマチュアどまりのアメリカンフットボール経験者の脳を、複数の判定者で見た。結果は、全員が一致して「確定的にCTEだ」と言える症例は一例もなかった。一部の判定者が「CTEの特徴がある可能性がある」としたものが5.4%。

生前に気分障害があった人でも、自死という死に方をした人でも、この結果は同じだった。アマチュアどまりの経験者では、CTEの病理はまれだ、というのが彼らの結論である。

一方、マッキーらは2023年に「アクタ・ニューロパソロジカ」で反論している。発表されたCTE症例の97%以上が、反復する頭部衝撃への曝露が確認された人だった。因果関係を疑う声はあるが、証拠の重みは因果関係が高い確率で存在することを示している。それに代わるもっともらしい仮説の証拠がまったくないことが、その結論を補強している。

アメリカンフットボールをプレーした年数とCTEのあいだには堅牢な用量反応関係がある。その関係は選択バイアスを厳密に補正しても残る。むしろ最近の研究は、選択バイアスがリスクを過小評価させている可能性を示唆している、と。

要するに、決着はついていない。ついていないまま、社会のほうが先に動いた。この順番が、この話をややこしくしている。

脳溝の底、血管のまわり――CTEだけが持つ指紋

では、CTEとは病理学的に何なのか。ここは正確に書いておきたい。

第一次のNINDS・NIBIB合意会議は2015年に開かれ、2016年に発表された。そこがCTEの「病的特徴を決定づける病変」を、こう定義している。異常な過剰リン酸化タウが、神経細胞とアストログリアの中に、皮質の脳溝の底にある小さな血管の周囲に、不規則なパターンで集まっていること。

2021年の第二次会議は、これを少し絞った。血管周囲のタウ集積には必ず神経細胞が関与していること。アストロサイトのタウはあってもなくてもいい。そして、その病変は軟膜直下の表層よりも深い皮質層に見られること。逆に、軟膜下の棘状アストロサイトや、純粋にアストロサイトだけの血管周囲タウは、加齢に伴う変化(ARTAG)である。

CTEの最低基準を満たさない。

なぜ「脳溝の底の、血管のまわり」なのか。これが不気味なほど腑に落ちる。

脳は、しわくちゃに折り畳まれている。頭に衝撃が来ると、脳は頭蓋の中で回転し、ねじれる。そのとき最も大きな機械的変形が起きるのが、折り目の谷底、つまり脳溝の深部なのだ。コンピュータによる三次元モデルと有限要素モデルが、それを裏づける。頭部衝撃の際にいちばん歪む場所として、まさに脳溝の底と血管の周囲を予測するのだ。

つまりCTEの病理は、「その場所にストレスがかかった」という物理の痕跡が、20年後にタウという形で読める、ということである。脳が自分の受けた力を、位置情報つきで記録してしまっている。

アルツハイマー病との違いも、ここで効いてくる。アルツハイマー病のタウは海馬と嗅内皮質から始まり、老人斑を伴う。CTEのタウは脳溝の底から始まり、血管を囲み、老人斑を伴わないことが多い。分子レベルで見ても、CTEのタウ線維は、加齢でもアルツハイマー病でも他のどのタウオパチーでも見られない独特の立体構造をとる。2023年のマッキーらの総説は、そこを「ユニーク」と言い切っている。

ステージIからIVへ、20年から40年かけて

マッキーが提案し、いまも使われている病期分類は四段階である。

ステージIでは、神経原線維変化とアストロサイトのタウ、点状の神経突起が、脳溝の底の小血管をぐるりと囲む形で、一つか二つの孤立した震源として現れる。多くは前頭皮質。肉眼では脳は正常に見える。

ステージIIでは、震源が三つ以上になり、複数の皮質領域に散らばる。病巣は大きくなり、隣接する皮質の表層にも神経原線維変化が出る。青斑核とマイネルト基底核にも変化が出はじめる。

ステージIIIでは、脳溝の底のタウが融合して大きな血管周囲の斑になる。皮質の表層にも変化が広がる。そして、ここで内側側頭葉に入る。海馬、嗅内皮質、嗅周皮質、扁桃体。脳幹のタウも広範になる。

このあたりから肉眼でも分かるようになってくる。大脳の萎縮、脳室の拡大、透明中隔の異常。

ステージIVでは、大脳、内側側頭葉、間脳が肉眼で萎縮している。黒質と青斑核が脱色素する。

2021年の第二次会議は、限られた枚数のパラフィン切片しか手元にない現場のために、もっと簡単な作業手順も出した。特徴的な病変が一つでもあれば診断とし、そのうえで「Low CTE」と「High CTE」に二分する。だいたいLowがステージIとII、HighがステージIIIとIVに対応する。

臨床の経過は、遅い。発症は最後の外傷から8年から10年後に起きることが多く、進行は40年かけることもある。記憶の低下より先に、行動と人格の変化が出やすい、というのがマッキーの記述である。

なぜ生きている人では確定診断できないのか

ここがこの病気の、いちばん残酷なところだ。

CTEは、いまも死後の診断でしかない。脳を取り出し、切って、染めて、顕微鏡で見るしかない。生きている人に「あなたはCTEです」と言える検査は、存在しない。

代わりに用意されたのが、TES、外傷性脳症症候群という臨床側の枠組みである。2021年、ダグラス・カッツらが「ニューロロジー」誌に発表した合意基準は、20人の臨床研究者が四回のデルファイ法を回して作った。

要件は四つ。反復する頭部衝撃への実質的な曝露があること。中核的な臨床症状として、エピソード記憶あるいは遂行機能の障害、そして/または神経行動学的な脱制御があること。進行性の経過をとること。そして、それらの症状が他の神経疾患・精神疾患・身体疾患で完全には説明できないこと。

この三つ目までを満たせばTESと診断し、そのうえで機能的な自立度を五段階で評価する。

さらに、曝露量や症状、補足的所見を組み合わせて「CTE病理がある確からしさ」を暫定的に等級づける。あくまで暫定である。

なぜバイオマーカーを入れないのか。2021年の時点で、委員会はこう判断した。CTEのバイオマーカー開発は、基準に組み込めるほど成熟していない。研究はある。タウPETのトレーサーで元NFL選手の前頭部や内側側頭部にシグナルが強く出たという2019年の報告もある。

血液や髄液のリン酸化タウ、ニューロフィラメント軽鎖の研究もある。ただ、どれも標本が小さく、対照群が弱く、そして何より死後の検証ができていない。

論文は最後にこう書いている。CTEの診断は生きているうちには確定できない、ということを、臨床医も研究者も一般の人も正しく理解することが不可欠である。そして、CTEのリスクがあると思われる人については、治療可能な状態と、神経変性を悪化させたり加速させたりしうる併存疾患がないかを、きちんと評価しなければならない、と。

要するに、症状に苦しんでいる元選手が病院に行っても、医者は「それはCTEです」とは言えない。言えるのは「TESの基準は満たしています」「うつ病かもしれない」「睡眠時無呼吸があります」「アルコールの影響もあります」といったことだけだ。本人は答えが欲しくて来ているのに、答えは死んでからしか出ない。

この構造そのものが、遺族が脳を送るという行動を生んだ。答えは死後にしか出ないと分かっているから、死んだあとで答えを取りに行く。それがこの20年、ボストンで起きていたことである。

本体は「大きな一発」ではなく「小さな無数」だった

この20年でいちばん大きく変わったのは、たぶんここだ。

はじめ、話は「脳震盪」の問題として語られていた。派手なヘルメット同士の衝突。担架。翌週の欠場だ。つまり、診断がつくイベントとしての外傷。

ところが脳バンクのデータを積んでいくと、話が合わなくなってきた。まず、ウェブスターはオフェンシブラインマンだった。ラインマンは脳震盪の報告が少ないポジションである。ストゼルチックには文書化された脳震盪が一件もなかった。それでも二人ともCTEだった。

かわりに、はっきり相関したのはプレー年数のほうである。2023年の若年者研究では、フットボール経験者でCTEがあった人はなかった人より、競技歴が平均2.81年長かった。2017年のJAMA論文でも、軽症群の平均競技歴は13年、重症群は15.8年だった。何回派手にやられたか、ではなく、何年ぶつかり続けたか。

ここでいう「ぶつかる」は、試合中の派手な衝突だけを指さない。ヘルメットに加速度計を仕込んで計測した研究がある。2007年シーズンの大学チーム三つを調べたものでは、一人の選手が一シーズンに受けた頭部衝撃の最大値は、チームごとに1022回、1412回、1444回だった。中央値でも、練習一回あたり4.8回から7.5回、試合一回あたり12.1回から16.3回。ラインマンとラインバッカーが最も多い。

オフェンシブラインマンは前方からの衝撃の割合が高く、クォーターバックは後方からの割合が高い。

つまり、ラインマンは毎回のスナップで、ほぼ必ず頭に何かが当たる。誰も脳震盪とは呼ばない、意識も飛ばない、記録にも残らない衝撃を、練習と試合で年に千回近く受ける。それを15年やる。

この「小さくて数えられない衝撃」のことを、英語ではサブコンカッシブ・インパクト、日本語では亜脳震盪性衝撃などと呼ぶ。本体はこっちだった、というのがこの分野の転換点だ。

2023年8月にJAMAニューロロジーに載った研究は、その意味をいちばん露骨に見せた。30歳未満で亡くなった接触競技経験者152人の脳を調べたものである。平均年齢22.97歳。年齢の幅は13歳から29歳。

63人、41.4%にCTEがあった。そのうち60人、95.2%は軽症のステージIかIIで、39人はステージIだった。ステージIVは一人もいない。

そしてここが効いてくるのだが、CTEと診断された63人のうち45人、71.4%はアマチュアどまりだった。高校か大学までしかプレーしていない。競技もアメリカンフットボール、アイスホッケー、サッカー、ラグビー、レスリングと広がっている。この研究には、アマチュアの女子サッカー選手で初めてCTEと診断された28歳の例も含まれる。

同時に、この論文はきわめて正直な書き方もしている。152人の提供者は全員が生前に何らかの症状を抱えていた。しかし、そのうち89人、58.6%にはCTEの病理がなかった。死因の第一位は自死、第二位は意図しない薬物過量だったが、CTEの有無で死因にも症状にも差はなかったのである。

つまり「症状がある若い元選手」の集団の中で、CTEがある人とない人を比べても、症状の出方は変わらなかった。マッキーらは結論で、症状の原因は多因子的だろうと書き、頭部衝撃に曝露していない若年の提供者を含めた研究が必要だと明記した。

マッキー自身のコメントは、こうだ。「この研究は、CTEの病理が早くから始まることをはっきり示しています。UNITE脳バンクの若い接触・衝突競技者の40%超にCTEがあるというのは、驚くべきことです。地域の一般的な脳バンクの研究では、一般人口でCTEがあるのは1%未満なのですから」

100年前、ボクサーはすでに「パンチドランク」と呼ばれていた

この病気は、新しくない。新しいのは、それがフットボールで起きるという認識のほうだ。

1928年10月13日、米国医師会雑誌に「Punch Drunk」という短い論文が載った。著者はニュージャージー州の監察医、ハリソン・S・マートランド。これが、この病態が医学文献に登場した最初である。

マートランドは、有名なプロモーターから23人のボクサーの状態を報告してもらっていた。15人が単に「パンチドランク」、4人が施設に入っている。残りは足を引きずる、パーキンソン症候群がある、話すのが遅い、考えるのが遅い、といった記述がされている。彼自身が診察したのは5人だった。

彼が書いた症状はこんな具合だ。足や脚がだらりとする。歩行が不安定。均衡が取れない。リング上でも酔ったように見える。

首がおかしな角度に傾く。片脚または両脚を引きずる。よろめく歩き方。パーキンソン様の無表情。振戦だ。

めまい。難聴。そして、著しい精神の荒廃。

病理については、マートランドは推測しかできなかった。生きている患者しか見ていないからだ。彼が立てた仮説は、単発または反復する頭部・顎への打撃が、大脳深部に多発性の脳震盪性出血を作り、それが後にグリオーシスや進行性の変性病巣に置き換わる、というものだった。この仮説は自分でも「現時点では証明のしようがない」と認めている。神経原線維変化の話は一言も出てこない。

当然である。リン酸化タウという概念が生まれるのは、ずっと後だ。

マートランドは、この状態が一定のタイプの老ボクサーの50%に見られると推定した。そして「一流の、素早く、防御のうまいボクサーは逃れるようだ」と書いた。やられるのは、相手をすり潰そうとして自分も打たれ続ける、あまり器用でないが勇敢な男たちだ、と。

1934年、メイヨー・クリニックのH・L・パーカーが三例を報告した。24歳から30歳の引退ボクサーで、主訴は歩行障害と手の震え。集中力の低下、ろれつ、記憶障害も共通していた。パーカーも剖検がないので病理は分からないと明記している。

1937年、海軍軍医のJ・A・ミルスポーが「dementia pugilistica」、拳闘家痴呆という語を提案した。理由は「パンチドランク」という言い方に侮蔑的な響きがあるからだった。ラテン語にすることで、医学の言葉になったのである。ボクシング界でも受け入れられやすくなった。

1949年と1957年に、マクドナルド・クリッチリーが書いている。1957年の英国医学雑誌の論文では「パンチドランク症候群」という語を捨て、「chronic progressive traumatic encephalopathy」、慢性進行性外傷性脳症という呼び方をした。この時点で、今日の名称のほぼ全パーツが揃っている。クリッチリーは60人以上のボクシング関連の患者を診たと述べ、11例の詳細を書いた。

鋭い指摘が二つある。一つは、人格が変わること。もう一つは、「試合の総数が重要であり、意識を失わされた回数も重要である」という一文。これは、回数と大きさの両方が効くという、まさに現代の理解だ。彼は論文の最後で、医師たちは剖検を始めるべきだと訴えている。

そして1973年、J・A・N・コーセリスらが引退ボクサー15人の脳を調べた。これが四半世紀のあいだ、この病気の定義そのものになった。透明中隔腔または有窓化した中隔、小脳下面の瘢痕、黒質の変性、広範な新皮質の神経原線維変化。オマルの論文を撤回させようとしたリーグの委員会が根拠にしたのが、まさにこの15例である。

皮肉な話だ。100年前から知られていた病気を、100年前のボクサーの基準で測って、「これはその病気ではない」と言った。あいだにある「フットボール選手の脳がボクサーの脳と同じ壊れ方をするとは限らない」という当たり前のことを、両方の陣営が別の方向に使った。

遺族と、選手と、研究者の言葉

ここからは、この20年で残された言葉をいくつか、できるだけそのまま置いておきたい。

デイヴ・デュアーソンは、1985年のスーパーボウルを制したベアーズのディフェンシブバックだった。選手会の中枢にいた人物でもある。皮肉なことに、かつては選手の障害年金の審査に関わり、フットボールと脳損傷の関連に懐疑的な側だったと言われている。2011年2月17日、フロリダ州サニー・アイルズ・ビーチで、50歳で亡くなった。

死の前に、彼は家族にこう伝えていた。自分の脳をNFLの脳バンクに渡してほしい、と。ニューヨーク・タイムズによれば、家族に送られたメッセージには、ほかの元選手たちに見つかったのと同じ損傷が自分の脳にもないか調べてほしい、と書かれていた。彼はここ数か月、自分がその状態かもしれないと心配していた、と近しい人物が証言している。

同年5月、ボストン大学は結果を公表した。アン・マッキーの言葉は短い。「デイヴ・デュアーソンがCTEだったことは、争いようがありません」「彼には古典的なCTEの病理がある。ほかのいかなる疾患の証拠もありませんでした。そして、判断、抑制、衝動の制御、気分、記憶といったものに関わる構造すべてが、重度に侵されていました」。

彼女はこうも言ったのである。

「もしCTEがなかったなら、彼が人生の最後に経験していたあの症状は出なかっただろうし、おそらくあのような形で人生を終えようとは思わなかったでしょう」

記者会見には、デュアーソンの元妻と娘、三人の息子が並んでいた。息子のトレッグ・デュアーソンは、こう言っている。「私たちは、区切りという贈り物をもらいました。この贈り物を、大きな謙虚さとともに受け取ります。愛する人を失い、なお答えのない問いを抱え続けているほかの家族のことを、忘れていないからです」

ジュニア・シーオーは、20シーズンをプレーしたリーグ屈指のラインバッカーだった。2012年5月、43歳で亡くなった。家族は約6週間後、脳をNIHの国立神経疾患・脳卒中研究所に提供したのである。ボストンではなく連邦政府の研究機関に送ったところに、この家族の慎重さが見える。

NIHは複数の外部の神経病理学者を招き、検体の身元を伏せたまま、三人分の脳組織として見せた。判定は全会一致だった。診断は「慢性外傷性脳症の診断と矛盾しない多巣性タウオパチー」。2012年12月18日に検査が完了し、2013年1月10日、家族の同意のもとで公表された。

病理報告書の文面はそっけない。新皮質にタウ陽性の神経原線維変化と神経突起の糸が集簇していること。神経原線維変化が表層に位置すること。血管周囲の巣状病変があること。皮質の病変が脳溝の底に寄る傾向があること。

これらはCTEの診断と矛盾しない。加えて、左前頭葉に、古い小さな外傷性脳損傷と矛盾する瘢痕が非常に狭い範囲にあった。

元妻のジーナ・シーオーは、家族は「頭同士の衝突の繰り返しから来た病気だ」と説明されたと語り、他の人がリスクを知ることができるように話すことにしたと述べている。

クリス・ボーランドは、2015年3月16日、24歳で引退した。ウィスコンシン大学出身、2014年のドラフト3巡目、ルーキーイヤーに49ersの中心になった選手である。契約はまだ4年、300万ドル近く残っていた。契約金の4分の3を返還する可能性もあった。それを全部置いて辞めたのである。

理由は、脳だった。

「正直に言えば、自分の健康にとって最善のことをしたいだけです」と彼は言っている。「調べたことと、自分が経験したことからすると、リスクに見合うとは思えません」「自分は今もこれまでで一番頭が冴えていると感じています。だからこそ、先手を打ちたい。症状が出るまで待っていたら、そのときはもう遅いんじゃないかと心配なんです」

彼は前年のトレーニングキャンプで脳震盪らしきものを起こしている。だが3巡目指名でチームに残れるかどうかの瀬戸際だったので、申告せずに続けた。そのとき考えたという。「自分は何をやってるんだ。危険を学んで知っていながら、これから先の人生ずっと、頭をぶつけて生きていくのか」。

プレシーズン第四戦の前に、彼は両親宛に手紙を書いた。自分のキャリアは短くなると思う、理由は健康だ、と。試合でインターセプトからタッチダウンを返したその夜、手渡した。

父のジェフ・ボーランドの反応は「安堵」だった。「肉体的な罰が終わる日付と時刻が決まった、ということです。16試合のシーズンをやれば、最後には全員がどこか壊れている。毎年、部品か手足をひとつ差し出しているようなものです」。そして二つ目の感情が「誇り」だったという。

「24歳で、こんな決断をする勇気と先見があった、ということです」

ボーランド本人の言葉で、いちばん引っかかったのはこれだ。「自転車には乗れます。でも、自転車に乗る行為そのものが脳の外傷を起こすわけじゃない。転べば怪我をしますが、それは何かがうまくいかなかったときの話です。フットボールは、全部がうまくいっていても危険なんです。

これはこの競技を糾弾しているわけじゃない。好きで、価値があると思うならやればいい。大事なのは、情報を与えられた個人の選択であることです」

サッカーのヘディング、ラグビー、そして戦場へ

CTEはフットボールの話として始まったが、そこで止まらなかった。

2019年10月21日、ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンに、グラスゴー大学のダニエル・マッケイとウィリアム・スチュアートらの研究が載った。FIELD研究と呼ばれる。1900年から1976年のあいだに生まれたスコットランドの元プロサッカー選手7676人と、性別・年齢・地域の社会的剥奪度をそろえた一般人口の対照2万3028人を比べた、後ろ向きコホート研究である。

資金を出したのは、皮肉なことに、イングランドサッカー協会とプロサッカー選手協会だった。

中央値18年の追跡で、元選手の15.4%、対照の16.5%が亡くなっている。ここから先が面白い。

元選手は、虚血性心疾患で死ぬ確率が低かった。ハザード比0.80。肺がんで死ぬ確率も低かった。ハザード比0.53。70歳までは、全体の死亡率も一般人口より低い。

つまり、身体を動かして生きてきた人の健康上の恩恵は、はっきりある。

ところが70歳を越えると逆転する。そして、死因が神経変性疾患である割合は、元選手1.7%に対して対照0.5%。競合リスクを補正したサブハザード比は3.45。認知症治療薬が処方されていた割合のオッズ比は4.90だった。

病型別に見ると差が大きい。アルツハイマー病はハザード比5.07。運動ニューロン疾患はおよそ4倍。パーキンソン病は2.15だ。

ゴールキーパーとフィールドプレーヤーを比べたところ、死亡率では有意差が出なかった。だが、認知症薬の処方はゴールキーパーのほうが少なかった。オッズ比0.41。ヘディングをしないポジションのほうが少ない、という方向である。

もちろん著者たちは限界も書いている。死亡診断書には誤りがある。プロ選手の結果をそのまま趣味のサッカーに当てはめることはできない。前向き研究で確認する必要がある。

それでも、この論文が出た衝撃はかなり大きかった。相手は世界200か国以上で2億5000万人以上がやっている競技だからだ。

制度は先に動いた。アメリカでは2015年11月、集団訴訟の解決の流れのなかで、米国サッカー連盟が10歳以下のヘディングを練習でも試合でも禁止し、11歳から13歳は練習でのヘディングを制限するという方針を出した。米国クラブサッカーは、12歳以下と13歳以下では週に30分まで、選手ひとりあたり週に15回から20回まで、という具体的な数字を課したのである。

試合で故意にヘディングをしたら、相手に間接フリーキックが与えられる。

イングランドでは2020年にヘディングの指針が出て、2021年にはプロからアマチュアまでの全レベルで練習中のヘディングに指針が入った。2022年には国際サッカー評議会の試行を採用して、12歳以下の草の根の試合から故意のヘディングを外した最初の協会になった。さらに2024年から3シーズンかけて、7歳以下から11歳以下までの試合で故意のヘディングを段階的に廃止する規則を導入している。

2024年から2025年のシーズンで9歳以下まで、翌シーズンで10歳以下、その次で11歳以下。あわせて、スローインをキックインやドリブルインに置き換える。ボールが空中にある時間を減らすためである。

ラグビーも動いた。ワールドラグビーは、地域レベルの試合でタックルの上限を肩から胸骨より下へ下げる国際試行を推奨し、2023年から2024年のシーズンにスコットランド、オーストラリア、イングランド、フランス、アイルランド、イタリア、日本、ニュージーランド、南アフリカ、ウェールズなどが参加した。

エディンバラ大学が映像解析で検証したところ、女子の地域ラグビーでは、タックラーの頭同士の接近が29%減り、ボールキャリアーの頭同士の接近が33%減り、頭と肩の接触が48%減ったのである。胸骨より上のいわゆるレッドゾーンでの接触は19%減っている。

一方、イギリスでは学校ラグビーからタックルを外せという公開書簡が、2020年にノウィンスキーらを含む研究者から四か国の主任医務官宛に出されている。ラグビー協会自身が資金を出して行った調査ですら、接触のあるラグビーが非接触のラグビーに比べて身体的な健康上の利点をもたらすという証拠は見当たらなかった、というのが彼らの主張だった。

そして、戦場である。

2016年、「ランセット・ニューロロジー」に、軍の病理学者ダニエル・パールらの研究が出た。爆風にさらされた軍人の脳と、爆風にさらされていない民間人の脳を比べたものだ。慢性の爆風曝露5例、急性5例、衝撃型の慢性外傷5例、オピオイド曝露5例、神経疾患のない対照3例。

慢性の爆風曝露の5例すべてに、これまで記述されていなかったパターンの瘢痕があった。軟膜下のグリア板、皮質を貫く血管、灰白質と白質の境界、脳室を縁取る構造。つまり、密度の異なるものが接する界面ばかりに、アストロサイトによる瘢痕ができていた。パールらはこれをインターフェース・アストログリアル・スカーリング、界面アストログリア瘢痕と呼んだ。爆風の物理学がまさに予測する場所である。

急性の爆風曝露3例では、同じ場所に瘢痕の形成が始まりかけていた。そして衝撃型の外傷、オピオイド曝露、対照の脳には、この所見がなかった。

さらに効いてくるのは、慢性の爆風曝露5例すべてが、生前にPTSDと診断されていたことだ。パールが後の講演で述べたところでは、5例のうち2例には早期のCTEを思わせるタウ病理も併存していた。つまり、爆風は爆風で固有の傷を作り、そのうえにCTEが乗ることがある。

彼の指摘は重い。派遣から帰ってきて、頭痛と睡眠障害と集中困難と記憶障害と易怒性に苦しむ元兵士のなかに、現在の画像検査ではまったく写らない微細な脳の病変を抱えている人がいるかもしれない。それは「メンタルヘルスの問題」という扱いだけでは足りないかもしれない、ということだ。

10億ドルの和解と、そこに混ざっていた「人種補正」

法廷の話もしておかないと片手落ちになる。

元選手たちの訴訟は2012年にペンシルベニア州東部地区連邦地裁で統合された。原告は最終的に2万人規模になる。2013年8月29日、当事者は7億6500万ドルの和解条件に署名した。

ところが2014年1月14日、担当のアニタ・ブロディ判事は仮承認を却下する。理由は、6億7500万ドルの補償基金では、65年という期間と2万人超という規模に対して足りない可能性がある、というものだった。判事が原告に有利な方向で金額を突き返した、珍しいケースである。

半年の再交渉のあと、2014年6月25日に修正版が提出された。最大の変更点は、補償基金の上限を撤廃したことである。今後65年間、有効な請求はすべて支払う。金額の天井がない。

対象となる診断と最大支払額はこうなっている。レベル1.5の神経認知障害が150万ドル。レベル2が300万ドル。パーキンソン病とアルツハイマー病が350万ドルだ。死後にCTEと診断された場合が400万ドル。

筋萎縮性側索硬化症が500万ドル。年齢やNFLでのシーズン数に応じて減額される。見逃せないのは、因果関係の立証が不要なことだ。元選手は、自分の障害がNFLでの脳震盪や亜脳震盪性の衝撃によって起きたと証明しなくていい。

ほかに7500万ドルのベースライン評価プログラム、1000万ドルの教育基金がある。

2015年4月22日に最終承認、5月8日に修正され、控訴審を経て2017年1月7日に発効した。和解プログラムの公表統計によれば、登録された元選手は2万569人。2026年8月時点で支払い対象の裁定は2199件、金額にして17億1038万5705ドルに達している。

ただし、この和解にはもう一段、後味の悪い話がついている。

認知機能の検査結果を評価するとき、神経心理学の分野には「人種ノーム」という慣行があった。黒人の被検者には黒人用の基準値を当てて補正する。もともとは、認知症患者により適切な治療を提供するために1990年代に作られたものだった。

これが和解の支払い判定に使われると、意味が反転する。黒人の元選手は「もともと認知機能が低かった」とみなされるので、同じ点数でも「低下」と認められにくい。同じ金額を受け取るには、より大きな低下を示さなければならない。リーグの歴代の選手の多数派が黒人であることを考えると、影響は小さくない。

2020年8月、元パッカーズのナジェ・ダヴェンポートと元スティーラーズのケヴィン・ヘンリーが訴訟を起こした。人種に基づいて明示的かつ意図的に差別する算式だ、という主張である。判事は訴え自体は却下したが、双方に調停を命じた。

2021年6月2日、リーグは人種ノームの使用を停止し、過去のスコアも人種バイアスがないか見直すと表明した。原告側の主任弁護士クリス・シーガーは、もっと早く動かなかったことを公に謝罪したのである。2022年3月4日には、ブロディ判事が和解合意の修正を承認している。

リーグの説明は、「差別的だと判断されたからではなく、医学の多くの領域で近年疑問視されるようになったから」というものだった。

キックオフは消え、子どもはタックルを習わなくなった

競技のほうも、明らかに形が変わった。

2002年以降、リーグは選手の健康と安全を理由とする規則変更を50以上おこなっている。並べていくと、変化の方向がはっきり見える。

2009年、無防備な選手の頭部や頸部への接触が反則として明文化される。対象の「無防備な選手」の範囲は毎年のように広がっていった。2010年、キッカーやパンター、ポゼッション変更後のクォーターバック、ブラインドサイドブロックを受ける選手が加わる。2012年、クラックバックブロックを受けるディフェンス側の選手が加わる。

2011年、キックオフの制限線が30ヤード地点から35ヤード地点へ移された。同時に、キッカー以外の選手は制限線の5ヤード以内に並ばなければならなくなった。それまで慣習化していた15ヤードから20ヤードの助走がなくなる。キックオフが最も危険なプレーだったからだ。2016年には試験的に、2018年には恒久的に、タッチバック後の開始位置が20ヤード地点から25ヤード地点に移った。

リターンをやめさせるためである。2024年にはキックオフの並び方そのものが作り替えられた。キッカー以外の全員がリターンチームの40ヤード地点に並び、着地帯と設定帯が定義され、フェアキャッチは廃止された。

2013年、ボールキャリアーもタックラーも、タックルボックスの外ではヘルメットの頭頂部で相手に衝撃を与えてはならない、という規則が入ったのである。ランニングバックが頭を下げて突っ込むのが反則になったとき、古いファンからはかなり文句が出たと記憶している。

2018年には「ヘルメットの不適切な使用」が独立した反則になり、頭を下げてヘルメットで相手に接触すること自体が15ヤードの罰則、悪質なら退場になった。

効果を測った研究もある。アイビーリーグは2015年、キックオフが全プレーの6%でありながら脳震盪の21%を占めていることを確認し、2016年にキックオフ地点を35ヤードから40ヤードへ、タッチバック地点を25ヤードから20ヤードへ動かした。

ペンシルベニア大学のダグラス・ウィーブらが2013年から2017年の6万8479プレーを解析したところ、タッチバックの割合は年平均17.9%から48.0%に増え、キックオフでの脳震盪発生率は1000プレーあたり10.93件から2.04件に下がった。他のプレーの変化を差し引いた差分の差分でも、1000キックオフあたり7.51件の減少だったのである。

同じ年、アイビーリーグは練習からフルコンタクトのタックルを全廃している。

子どもの側はもっと早かった。2012年6月、ポップワーナーが全米の青少年リーグとして初めて、練習での接触を全体の3分の1以内に制限した。練習1回あたりおよそ40分までという計算になる。加えて、3ヤード以上離れて正面から全速力でぶつかるブロックやタックルのドリルを禁止した。意図的なヘルメット同士の接触も禁止。

斜めに入る全速力のドリルは認めるが、正面からまっすぐは駄目、という線引きだった。

2015年2月には、USAフットボールが青少年のタックル練習ガイドラインを出し、接触の定義と全接触の時間制限を明示した。ヘッズアップ・フットボールという、タックル姿勢とヘルメットの適合、脳震盪の見分け方を教える教育プログラムは、ポップワーナーを含む全米の青少年リーグの三分の二以上に広がったのである。

2015年12月7日、オマルはニューヨーク・タイムズに「子どもにフットボールをやらせるな」という題の論説を書いた。同じ月に、ウィル・スミスが彼を演じた映画「コンカッション」が公開されている。論説の要旨はこうだ。

子どもは同意の年齢に達していない未成年である。最も脆弱な者を守るのは、社会の道義的な義務だ。人間の脳が完全に発達するのは18歳から25歳くらいである。少なくとも子どもが大人になるまで待ち、リスクについての情報と教育を与え、本人に決めさせるべきだ。大人は、親であれコーチであれ、子どもに代わってこの人生を変えうる決定を下してはならない。

彼は飲酒や喫煙や運転と同じように、高衝撃スポーツにも法的な年齢制限を設けるべきだと書いた。アメリカ小児科学会やカナダ小児科学会の勧告を引き、フットボールを喫煙やアスベストと同じ公衆衛生上の危害として並べた。

この主張は当然ながら賛否を呼んだ。オマル自身、後には「これは児童虐待の定義そのものだ」「いつか、これで児童虐待として起訴する地方検事が出てきて、そして勝つだろう」と言うようになり、科学者としての線を越えているという批判も受けた。彼はまた「何百回、何千回と打撃を受けはじめれば、恒久的な脳損傷に曝露するリスクは100%だ」とも述べている。この言い方は、数字としての裏づけがある表現ではない。

一方、リーグ側の立場も変わった。2016年3月14日、下院エネルギー・商業委員会の円卓討論で、リーグの健康・安全政策担当上級副社長ジェフ・ミラーが、ジャン・シャコウスキー議員からこう聞かれた。フットボールとCTEのような変性脳疾患とのあいだに関連があると思うか。

ミラーはこう答えた。「たしかに、マッキー博士の研究は、多くの引退したNFL選手がCTEと診断されたことを示しています。ですから、その問いへの答えは確かにイエスです。ただし、そこには多くの問いが伴います」

シャコウスキーが遮って、もう一度聞いた。「関連はあるのですか」

「はい。もちろん」

リーグの人間が、フットボールと脳の変性疾患の関連を公の場で認めたのは、これが初めてだった。ウェブスターが検死台に乗ってから、13年半が経っていた。

「病理から行動は説明できない」――研究者が引いた線

この話をするうえで、どうしても慎重に扱わなければいけない領域がある。CTEと、暴力や犯罪の関係だ。

2017年、元ペイトリオッツのタイトエンド、アーロン・ヘルナンデスが27歳で亡くなった。第一級殺人で有罪となり仮釈放なしの終身刑に服しており、別件の二重殺人については死の5日前に無罪の評決を受けていた。遺族は脳をボストンの脳バンクに提供したのである。

同年9月21日、ボストン大学CTEセンターは声明を出した。アン・マッキーの診断は、4段階中のステージIII。第二の神経病理医が確認している。加えて、早期の脳萎縮と、透明中隔に大きな穿孔があった。

11月9日、マッキーは学術会議の場で初めて質問に答えた。ここで彼女が言ったことは、報道のされ方よりずっと慎重である。

「病理を取り出して、そこから行動を説明することはできません。ただ、我々の経験全体として言えるのは、これほどの重症度のCTEを持つ人たちは、衝動の制御、意思決定、攻撃性や衝動の抑制に困難を抱え、しばしば感情の激しい変動や激怒の行動を示す、ということです」

彼女はまた、それまでボストンで解剖した468例のうち、46歳未満でCTEと診断された人の中に、これほど損傷した脳はなかったと述べた。そして、ヘルナンデスは神経変性疾患に関連する遺伝的な素因を生まれつき持っており、それが寄与した可能性があるとも言った。さらに、これほどの年齢の脳を見る機会自体が稀なので、他の27歳のフットボール選手の脳と似ているかどうかについては結論を出せない、と。

この「病理から行動は説明できない」という一文は、線引きとして非常に効いている。CTEがあったから殺したのだ、という言い方は、科学の言い方ではない。逆に、CTEなど関係なかったと言い切ることもできない。分かっているのは、こういう病理を持つ人たちの集団には、衝動制御の困難という傾向が統計的に見られるという、それだけである。個人の行為の説明にはならない。

ノウィンスキーも早い段階で同じことを言っていた。2011年のデュアーソンの件で彼はこう述べている。「単一の行為を一つの病気と結びつけることは決してできません。ただし、CTEの症例の大きな割合が自ら命を絶っています。関連の可能性はあり、探究しなければならないことです」

この慎重さが、報道と一般の受け取り方の側で維持されてきたかというと、正直あやしい。CTEという三文字は、いつの間にか「暴力の説明」として消費されるようになった。研究者たちがそのたびに線を引き直している、というのがこの20年の実情である。

好きだったスポーツが人を殺していた、という事実の飲み込み方

この話を通して見ると、社会の反応の順番がかなり奇妙だ。

まず、否定があった。2006年の撤回要求は、科学的な議論の形をとっているが、実質は産業防衛だった。ただし、それが完全に不誠実だったかというと、そこも単純ではない。コーセリスの四徴という基準は当時としては正当な根拠だったし、臨床情報が薄いという指摘自体は正しかった。

問題は、その正しい指摘を「撤回しろ」という不相応な要求に載せたことと、記録がないのは記録を取っていなかったからだ、という自分たちの責任に触れなかったことにある。

次に、家族が動いた。これが決定的だった。科学が動かしたのではない。ノウィンスキーが遺族に電話をかけ、遺族がサインをした。あるいは遺族のほうから、うちの夫の脳を調べてほしいと言ってきた。

マッキーが「はい、と言ってもらうことが驚くほど簡単だった」と証言している、あの現象である。

なぜ簡単だったのか。答えが欲しかったからだ。「なぜ」を抱えた家族が、数百人単位でいた。40代で人が変わった。金を全部失ったのである。

怒鳴るようになった。子どもの顔を忘れた。そして死んだ。その「なぜ」に、どこの病院も答えをくれなかった。答えは死後の顕微鏡の中にしかないと言われて、それなら送ります、となった。

つまり、この20年の研究の最大の資源は、遺族の絶望である。それが1000を超える検体になり、世界のCTE症例の7割が一つの脳バンクに集まるという偏った地図を作った。研究の精度を歪める選択バイアスの正体は、同時に、この研究がそもそも成立した理由でもある。ここが、いちばん割り切れない部分だ。

そして、社会の側はどう飲み込んだか。

分かりやすいのは、リーグが競技そのものを変えたことだ。キックオフを実質的に殺し、頭から突っ込むタックルを反則にし、子どもの練習から接触を削った。これは大きい。1905年に大学フットボールで18人が死に、当時の大統領が大学の学長たちを呼びつけて前方パスが生まれた、あの規模の変化に匹敵する。

もう一つは、金である。上限のない補償基金。65年間。因果関係の立証を不要にしたこと。すでに17億ドル以上が支払われている。

因果関係の立証を不要にしたということは、法的には「争わない」という選択をしたということだ。認めたわけではないが、争うのをやめた。

三つ目は、個人の選択に押し戻したことだ。ボーランドの言葉がそれをよく表している。「情報を与えられた個人の選択であることが大事だ」。リーグも同じ方向に着地した。規則を変える、プロトコルを整える、情報を出す。

そのうえで、やるかやらないかは本人が決める。

ただ、オマルが突いたのはまさにそこの穴だった。子どもは「情報を与えられた個人」ではない。8歳で最初のヘルメットをかぶる子は、自分で選んでいない。だから年齢制限が必要だ、と彼は言った。この主張の当否は別として、問いとしては消えていない。

2023年の若年者研究で、CTEと診断された63人の71.4%が高校か大学どまりのアマチュアだったという事実は、この問いをさらに重くした。

いちばん扱いが難しいのは、科学がまだ揺れているのに、社会が先に決断してしまったという構造だと思う。

CTEの病理診断基準は2016年と2021年で変わった。生きている人では確定できない。対照群のない便宜標本ばかりで、症例対照研究と呼べる設計はほとんどない。アマチュア経験者を丁寧に見た研究では、確定症例がゼロだったという報告もある。マッキーらは用量反応関係と、代替仮説の不在を根拠に因果を主張し、アイバーソンらは研究設計そのものを疑う。

この論争は現在進行形である。

にもかかわらず、10歳の子はもうヘディングをしない。ポップワーナーの練習では正面から全速力で当たらない。アイビーリーグの選手は練習でタックルをしない。ラグビーのタックルは胸骨より下だ。

これを「科学的根拠が不十分なのに過剰反応した」と見ることもできるし、「被害が大きすぎる場合は、確証を待たずに動くのが予防原則だ」と見ることもできる。実際、サッカーのヘディング制限をめぐる議論では、後者の言葉がはっきり使われている。

私は、この件についてはたぶん後者でいいと思っている。理由は単純で、待つあいだに曝露するのが子どもの脳だからだ。仮に20年後に「あれは過剰反応だった」と分かったとして、失われるのはヘディングの技術習得の機会である。逆の方向に間違った場合、失われるのは人格と記憶だ。賭け金が対称ではない。

最後に、マイク・ウェブスターの話に戻る。

彼は1999年4月に障害年金を申請した。ピッツバーグ大学の精神科教授ジョナサン・ヒンメルホックは6回診察して、「完全かつ恒久的に障害を負っている。NFLでセンターとして受けた複数回の頭部打撃によって生じた外傷性もしくはパンチドランク型の脳症である」と結論した。年金委員会は1999年、5人の医師の診断に基づいて、ウェブスターが繰り返しの頭部打撃によって「完全かつ恒久的に」障害を負ったと認定している。

委員会が雇ったクリーブランドの神経科医も含まれていた。医師たちは彼を「子どものよう」と表現し、認知症の徴候を認めた。

2000年5月8日付の書簡で、年金制度の責任者は弁護士ボブ・フィッツシモンズにこう書いている。委員会は、ウェブスター氏の障害が現役選手であった期間中に発生したと判断した。医学的報告書は、その障害がピッツバーグ・スティーラーズおよびカンザスシティ・チーフスでのフットボール選手としての頭部外傷の結果であることを示している。

つまり、1999年から2000年の時点で、リーグの年金委員会は、フットボールが脳を壊したと認めて金を払っていた。同じころ、リーグの軽度外傷性脳損傷委員会は、そんな関連はないと言い続けていた。この二枚舌は、2012年にESPNとPBSの合同取材で年金関連の文書が出てくるまで、表に出なかったのである。フィッツシモンズはこれを「まさに動かぬ証拠だ」と呼んだ。

ウェブスターの遺族は、それでも満額を受け取れなかった。委員会は、彼が完全な障害に至ったのは引退から数年後だと主張して、減額していたのだ。遺族が訴え、2005年4月26日にボルティモアの連邦地裁が遺族側に勝訴判決を出す。ウィリアム・D・クォールズ判事は判決文にこう書いた。委員会は、自らが雇った専門家のものを含む全会一致の医学的証拠を無視した。

2006年12月13日、第4巡回区連邦控訴裁判所が3対0でこれを支持したのである。

ウェブスターが死んでから、4年が経っていた。

彼の遺灰は元妻と5人の子どもに返された。その脳から取られた組織片が、いま世界中の教科書に載っている図の元になっている。誰も知らない病気の名前を、ナイジェリアから来た当直の監察医が、自宅のリビングで、自腹で染めたスライドから作った。その名前が今、10歳の子がヘディングをしない理由になっている。

100年前、ハリソン・マートランドが論文の中で、自分の仮説は「現時点では証明のしようがない」と正直に書いていたことを、私はときどき思い出す。あの一行から今日まで、ずっと同じ問いが宙に浮いたままだ。何回打たれたら壊れるのか。誰が壊れて、誰が壊れないのか。

答えはまだ出ていない。それでも、この20年で一つだけはっきりしたことがある。分からないまま続けるのと、分からないから手を打つのとでは、20年後に残る脳の数が違う、ということだ。

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