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体が石になっていく島――グアムの村を襲った神経難病リティコ・ボディグと、五十年かけても解けなかった原因の謎

体が石になっていく村があった

太平洋のまんなかに、グアムという島がある。日本からだと三時間半。免税店とビーチとホテルの島だ。そのグアムの南のはしっこ、車で山を越えた先に、ウマタックという小さな村がある。人口八百人にも満たない。湾に面した家が並び、坂の上にスペイン時代の砦の跡が残っている。マゼランが一五二一年に上陸したと言い伝えられている場所でもある。観光バスは来る。写真を撮って、十分で帰っていく。

その村で、二十世紀のなかごろ、大人がばたばたと死んでいた。

死に方が異様だった。まず手が動かなくなる。次に腕が痩せる。舌が痩せて、しゃべれなくなる。飲みこめなくなる。最後は呼吸の筋肉が止まる。頭のほうはまるっきり正常なまま、体だけが自分のものでなくなっていく。別のタイプもあった。こちらは動きがゆっくりになり、表情が消え、体がこわばって、そのうち一日じゅう椅子に座ったまま動かなくなる。物忘れがひどくなり、家族の顔が分からなくなる人もいた。

同じ村で、同じ家系で、その二種類が入り混じって出る。

村の人たちはそれを、リティコとボディグと呼んだ。ふたつでひとつ。リティコ・ボディグ。

これから書くのは、この病気の話だ。半世紀にわたって世界じゅうの神経学者がグアムに押しかけ、原因をめぐって殴り合いに近い論争をして、それでもまだ決着していない。そして皮肉なことに、原因が分からないうちに、病気のほうが勝手に消えていった。

リティコとボディグ――ひとつの島の、ふたつの名前

まず名前の話をしておきたい。どちらもチャモロ語だが、もとをたどるとスペイン語だ。

リティコは、スペイン語のパラリティコ、つまり「麻痺した」から来ている。頭のパラが落ちて、リティコになった。実際、村の人はリーティコと伸ばして発音することが多かった。体が動かなくなる、あの筋萎縮性側索硬化症そっくりのタイプがこれだ。日本ではルー・ゲーリック病の名で知られているあれである。

ボディグのほうがややこしい。語源はスペイン語のボデガ、倉庫とか店とかいう意味の言葉らしい。医療人類学者のヴェレナ・ケックが記録したところでは、ドイツ統治時代のサイパンでボデガを営んでいた男が、この病気の症状を抱えてグアムに戻ってきた。その男のあだ名が、そのまま病気の名前になった。人の名前が病名になるのは学問の世界でもよくある話だが、これは学者ではなく村の噂話が決めた病名だ。

動きが鈍くなり、体がこわばり、しばしば認知症をともなう、パーキンソン病に似たタイプがボディグである。

医学の世界では、この二つをまとめて筋萎縮性側索硬化症・パーキンソン認知症複合と呼ぶ。長い。英語圏の論文ではアルファベットの略号で書かれるが、この記事ではくどくても日本語で通す。一九六一年に平野朝雄たちがパーキンソン認知症複合という名前を与えたときから、この病気は世界の神経学の教科書に載るようになった。

面白いのは、島の人たちが最初から「二つの顔を持つひとつのもの」として扱っていたことだ。医学が両者を別の病気かもしれないと悩み、また同じものだと結論するまで、四十年かかった。村の言葉のほうが先に正解を言っていた、とも言える。

一九四五年六月一日、海軍病理医が書いた一枚の報告

公式な記録の出発点は、戦争が終わりかけていた一九四五年だ。

ハリー・ジンマーマンという病理学者がいた。イェール大学出身で、当時はアメリカ海軍の医学研究部隊の一員としてグアムにいた。島はその前年の七月に日本軍から奪還されたばかりで、村は焼け、道路は壊れ、住民は難民収容所から自分の村へ戻りはじめたところだった。ジンマーマンの仕事は、要するに死体を調べることだった。

彼は妙なことに気づく。チャモロの成人が、筋萎縮性側索硬化症で次々に死んでいる。しかも一か月のあいだに七人。うち二人は解剖して診断を確定した。

筋萎縮性側索硬化症というのは、当時も今も、十万人あたり年間一人か二人しか出ない病気だ。人口二万数千人の島で、一か月に七人。桁が違う。ジンマーマンは一九四五年六月一日付で、海軍医学研究部隊の指揮官あてに報告を書いた。学術論文ではない。ただの月例報告だ。だがこれが、リティコ・ボディグをめぐる半世紀の物語の第一ページになった。

報告は、そのまま埋もれてもおかしくなかった。戦争の後始末で誰もが忙しかった。だが同じ観察をした人間が他にもいた。一九五二年、コーナーという医師が内科系の雑誌に症例をまとめ、一九五三年にはアーノルドとエドグレンとパラディーノが「グアムで観察された五十例の筋萎縮性側索硬化症」という論文を神経・精神疾患の専門誌に発表した。五十例。ひとつの島で。

同じ年、ティレマとウィンベルフが熱帯医学の雑誌に「グアムの風土病としての筋萎縮性側索硬化症」の予備的な疫学データを載せた。

ここまでくると、さすがに本土が動く。

カーランドとマルダーが島に上陸する

一九五三年、アメリカ国立衛生研究所の神経疾患・視覚障害研究所で疫学部門の責任者をしていたレナード・カーランドが、グアムに飛んだ。メイヨー・クリニックのドナルド・マルダーが合流する。この二人が、リティコ・ボディグ研究の実質的な創始者になる。

彼らがやったのは、地味で膨大な作業だった。島じゅうを一軒ずつ回る。村の役場と教会の記録を漁る。死亡診断書を集める。患者を診察し、家系図を書く。当時のグアムには舗装道路がろくになく、南部の村は雨季になると孤立した。それでも彼らは回りきった。

一九五四年、二人は結果を神経学の専門誌に二回に分けて発表する。四巻の三五五ページからと、四三八ページから。タイトルは「筋萎縮性側索硬化症の疫学的調査」。第一報の副題に「マリアナ諸島に特に言及した地理的分布の予備的報告」とある。

分かったことは三つだった。

ひとつ。チャモロの人たちがかかっているものは、臨床的にも病理学的にも、世界じゅうで見られる古典的な筋萎縮性側索硬化症と区別がつかない。妙な変種ではない。

ふたつ。それが、異常に多い。当時アメリカやカナダやヨーロッパで見積もられていた有病率は十万人あたり四人から六人。グアムのチャモロではその桁がまるごと違った。世界の平均のおよそ百倍。南部の村と、隣のロタ島では、さらに高かった。

みっつ。家族の中で固まって出る。患者の三分の一以上に、同じ病気の血縁者がいた。

三つめが厄介だった。家族に固まるなら、まず遺伝を疑う。実際そう考えられた時期がある。ところが妙な点があった。同じマリアナ諸島でも、サイパンのチャモロにはほとんど出ない。カロリン諸島の住民にも出ない。同じ人たちが住んでいるのに、島によって違う。遺伝だけでは説明できない。

カーランドは早い段階で、環境に何かある、と踏んだ。しかもそれは、チャモロの人たちだけが日常的に触れているものでなければならない。

数字が壊れていた

その後の数十年で積み上がった数字を並べると、この病気の異様さが分かる。

一九五〇年代のピーク時、リティコ・ボディグはチャモロの成人にとって最大の死因だった。発症率は、報告によって幅があるが、十万人あたり年間二百人前後。累積の有病率でみると十万人あたり四百二十人という数字も出ている。一九四五年から一九五六年にかけて、大人の死因の首位を占め続けた。

村単位で切るともっと荒れる。二〇二三年に米国科学アカデミー紀要に載った論文の記述を借りれば、一九六〇年代から七〇年代の疫学者の見積もりで、チャモロの筋萎縮性側索硬化症は世界の百倍以上、特定の村ではおよそ千倍に達した。ウマタックはその筆頭だった。北米と比べて四百倍という数字を挙げる資料もある。

一九五〇年代初め、チャモロの成人の死のおよそ一割がこの病気によるもので、南部の高発生村ではその比率が二割に届いたと伝えられている。

村を歩けば患者がいる、という状態だった。実際、後年グアムに住んだ神経学者たちは、「ウマタックでは、どの家にも誰かいた」と書き残している。

男女比はおおむね二対一で男が多く、一時期は三対一まで開いた。ところが一九八二年ごろには一対一になる。発症年齢もじわじわ上がった。一九五〇年から七九年にかけて、発症年齢の下限は二十歳、上限は七十二歳。その平均が男女とも三、四歳ずつ高齢側にずれていった。十五歳で発症した例さえ報告されている。

そして、減った。筋萎縮性側索硬化症のほうは一九五〇年から五四年にピークをつけ、五〇年代の後半から下がりはじめる。パーキンソン認知症複合は男性で一九六〇年から六四年にピーク、女性で一九七〇年から七四年にピーク。どちらも八〇年代に急落した。二〇〇〇年代にはグアムでの多発は事実上消滅し、いま新しい患者はほとんど出ない。

流行病のカーブそのものだった。ただし、感染症ではない。

平野朝雄が見つけた「もうひとつの病」

カーランドたちが最初に見ていたのは、筋萎縮性側索硬化症のほうだった。ところが調査を続けるうちに、別の患者群が浮かび上がってくる。

体が固まる。動作が遅い。表情が消える。手がふるえることもある。そして認知症が来る。パーキンソン病に似ているが、パーキンソン病ではない。当時はまだ有効な薬もなく、後に登場したレボドパを使っても、効きが悪かった。

一九六一年、平野朝雄、レナード・カーランド、ロバート・クルース、シモンズ・レッセルの四人が、脳神経学の老舗雑誌に「グアム島の風土病としてのパーキンソン認知症複合――第一部・臨床的特徴」を発表する。八四巻六四二ページから六六一ページ。これがボディグに医学の名前がついた瞬間だ。

同時に、平野はネイサン・マラマッドと組んで病理側の論文も出した。そこで書かれていたことが、この病気の本当の顔だった。

顕微鏡の中は、もつれた糸だらけだった

死んだ患者の脳を切って染めると、そこには神経原線維変化がびっしり詰まっていた。

神経原線維変化というのは、神経細胞の中でタウというタンパク質がもつれて固まったものだ。アルツハイマー病の脳に出る、あれである。ところがリティコ・ボディグの脳では、それが大脳皮質だけでなく、脳幹にも、視床下部にも、脊髄にも、どこにでもあった。しかもアルツハイマー病の脳につきものの老人斑、つまりアミロイドの塊は、ほとんど見られない。タウだけが暴れている。

さらに気味の悪い事実がある。一九六〇年代から七〇年代にかけて、神経の病気とは無関係に死んだチャモロの人の脳を調べたところ、七割にこの神経原線維変化があった。三十五歳以上の対照脳三百二例のうち七割。しかも、そのうち一割五分は、確定診断されたパーキンソン認知症複合の脳と区別がつかなかった。

症状のない人の脳が、すでに病気の脳と同じ姿をしている。これは研究者にとって悪夢のような話だ。比較のための「健常者」が、島にいないのだから。同時に、この病気が長い長い潜伏期をもつことの、いちばん強い証拠でもあった。

ウマタックという、いちばん小さな村

高発生地域の実態を書いておきたい。地図の上の点ではなく、生活の場としての話だ。

ウマタック、いまの正式表記ではフマタックは、グアム島の南西岸にある。二〇一〇年の国勢調査で人口七百八十二人。島の村のなかで断然いちばん小さい。住民の多くが互いに親戚だ。湾を見おろす丘にヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・ソレダー砦とサン・ホセ砦の跡があり、湾のまんなかにはマゼランの上陸を記念するオベリスクが立っている。碑文には「マゼランはここに上陸した」とだけ書いてある。

歴史は古い。一五六五年にはミゲル・ロペス・デ・レガスピがこの湾に十三日間錨を下ろし、グアムを正式にスペイン領と宣言した。一六八〇年以降はアカプルコから来るガレオン船の寄港地となり、スペイン総督は船が来る季節になるとハガニャからウマタックへ引っ越してきた。要するに、かつては島の玄関だった。

だが十九世紀の後半、船はアプラ湾に着くようになる。ウマタックは静かな漁村に戻った。二十世紀に入っても、この村へ通じるまともな道路はなかった。北へ二、三マイル離れた隣村メリッソとをつなぐ道が完成したのは、なんと一九五七年である。

この孤立が、この村を疫学の実験場にした。同時に、その孤立が村人の食生活を決めていた。

戦争が、ソテツの粉を主食に変えた

グアムは一九四一年十二月十日、日本軍に占領された。以後、一九四四年七月二十一日にアメリカ軍が上陸するまで、二年七か月の軍政が続く。

最初の一年ほどは、比較的静かだったという記録がある。だが一九四三年の秋、海軍設営隊が到着して飛行場の建設が始まると、状況が変わった。翌年二月には満州から陸軍第二十九師団が転用されてくる。島に日本兵が一万八千人を超えて詰めかけた。学校と教会が閉鎖され、成人男性はオロテやティヤンやフィネガヤンの飛行場建設に、女性は農地に駆り出された。食糧は軍が押さえた。海上輸送は潜水艦にやられて途絶えている。

米は入ってこない。

そして一九四四年七月十日、島の司令官が全島民の強制移動を命じる。北はイーゴから西はハガットまで、島じゅうのチャモロが、雨のなかを南部内陸のマネンゴン渓谷へ歩かされた。イリグ川沿いの二キロ半ほどの区間に、一万人から一万八千人が野営した。建物も便所も食糧も薬もない。タンガンタンガンの枝とヤシの葉で小屋を作り、川の水を飲み、食べられるものを森から採ってきた。

アメリカ軍が近づいていたため、煙が立つのを恐れて火の使用が禁じられた時期もある。占領期間全体で千百七十人のチャモロが殺され、一万四千七百人余りが暴行や強制労働や虐殺の被害を受けた。

この二、三年のあいだ、島の人たちは何を食べていたか。

森にあるものを食べた。そのなかで、いちばん量が確保できたのが、ソテツだった。

ファダン――毒を抜くという、家ごとの流儀

チャモロ語でファダン。学名でいえばミクロネシアソテツ。スペイン人はフェデリコと呼んだ。グアムの石灰岩の森にかつてびっしり生えていた、ヤシに似た姿の古い植物である。

雌株の葉の付け根に、房になって実がつく。硬い殻の中に、白い澱粉質の塊が入っている。これがそのままでは強い毒だ。島の人たちはそれを完全に知っていて、毒を抜く手順を確立していた。この手順の話は、後で出てくるすべての仮説の土台になるので、少していねいに書く。

グアム大学が二〇二〇年前後に記録した口述史に、こんな証言がある。ホープ・クリストバルという女性が語ったものだ。

「アルトム山にも、ファムハにも、マネンゴンにも、ソテツはたくさんあった。年寄りたちは熟した実を集めてきて、川べりに埋まっている玄武岩の岩を臼にして、硬い石で叩いて割った。割った実を麻袋に入れて、木の根か岩にくくりつけて、流れの速い川に何週間も浸けておく。叔母たちが『もう毒はない』と判断するまで、そのまま置く。それから引き上げて、ござに広げて少し乾かし、日に当てて干す。

乾いたら、テーブルに固定した鋳鉄の手回し臼で挽く。細かい白い粉になる。密閉した容器に入れて、氷入れにしまった」

もうひとつ、家でやるやり方がある。ロズリンド・ダイダスコという女性の証言。

「実が熟したら、たらいいっぱいに採ってきた。硬い殻は本当に割りにくい。半分に切って、中の柔らかいところを取り出す。それを水に浸けて、勝手口の外に置いておく。母が朝と晩、水を替えた。それを何週間か続ける。水が澄むまで替えつづける。そうやって毒を抜く。それから干す。叔母たちが手伝いに来て、テーブルに留めた手回しの臼で挽いて粉にする。粉は容器に入れて、ティティヤスを作るときまでとっておいた」

ティティヤスというのは、チャモロのトルティーヤだ。粉を水かココナツミルクで練って、バナナの葉の上で平たく伸ばし、コマットという鋳鉄の鉄板で焼く。もうひとりの語り手、ホセ・キナタはこう言っている。「大人しか実を採りに行かなかった。子どもが実の毒や雄株の花粉に触れないようにするためだ。ジャングルで殻をむいて、細かく刻んで、水に浸けた。水は毎日替えて、二週間から三週間。日に干して、容器に入れて保存した。

だいたいは台風が来て食べ物が乏しくなったときのために取っておいた」

ここが重要なところだ。ファダンは、平時には非常食に近い扱いだった。手間がかかりすぎるのだ。実を割るのも、二、三週間水を替えつづけるのも、挽くのも、全部人力である。米や小麦粉が手に入るなら、わざわざこれを作る理由はない。

だから戦争中の状況は、例外中の例外だった。米は入ってこない。店は空。日本軍に作物を供出させられる。一万人が渓谷に野営している。そんな状態で二、三年、島じゅうの家がファダンを主食にした。カーランドは後年こう述懐している。「私の印象では、ソテツ粉の使用は第二次大戦中はほぼ百パーセントだった。一九六五年の時点でおそらくその四分の一に落ち、現在では一割以下だろう。

ソテツの使用の減少と筋萎縮性側索硬化症の減少は、並行しているように見える」

マージョリー・ホワイティングが、台所に座り込んだ

ここで登場するのが、この物語のいちばん地味で、いちばん重要な人物かもしれない。

マージョリー・ホワイティング。栄養学者であり、文化人類学者でもあった。カーランドとマルダーは、太平洋の植物に詳しい植物学者レイモンド・フォスバーグに相談した上で、一九五四年、当時たまたまグアムにいたホワイティングに食生活の調査を依頼した。

彼女のやり方が良かった。統計を取るのでも、質問票を配るのでもない。村に住み込んだ。一九五四年、彼女は一か月ずつ、ウマタックとイーゴという二つの村で暮らした。ウマタックは当時いちばん発生率が高く、道路も通っていない南の村。イーゴは飛行場と病院と、行政の中心地ハガニャに近い北の村。対照的な二つを選んだわけだ。

彼女が何をしていたか。一九六二年二月二十八日、アメリカ国立衛生研究所でカーランドが議長を務めた「ソテツの毒性成分の同定に関する第一回会議」で、彼女自身が語っている。少し長いが、そのまま引く価値がある。

「グアムの神経疾患の原因になりうる栄養要因や毒物は、チャモロの文化的なパターンの何かと結びついていなければならない、と私は考えました。チャモロが使っていて他の太平洋の島の人たちが使わないもの、あるいは、どこにでもあるけれどグアムの人たちだけが違うやり方で扱っているもの。食べ物の組み合わせが悪さをする可能性もある。だから私は、郷土料理のレシピの熱心な収集家になりました。

調理の一段階一段階と、そのすべての変種に注意を払いながら。『店の粉がないとき、代わりに何を使いますか』『第二次大戦中はどうやって生き延びましたか』といった質問をよく使いました。ある食品を食べた直後に急病になったり、何人か亡くなったりした報告も調べました。苦味のあるキャッサバのあとに起きたものもあれば、ソテツの澱粉のあとに起きたものもありました。

どれも、毒があると分かっている植物の浸けかたや下処理が不十分だったせいだと認識されていました。フェデリコを絶対に食べられない人もいます。好きなのに、食べると頭痛がするのです。私が筋萎縮性側索硬化症、村の言葉でリーティコの原因を尋ねたとき、何人かの人がソテツを挙げました」

そして彼女は、決定的なことを言う。

「戦争中の二、三年、女性たちは私に語りました。来る日も来る日も、朝から晩まで、いちばんの仕事は家族のためにソテツの澱粉を用意することだった、と。実を割り、水に浸け、挽く。この時期、米の輸入はほぼゼロでした。日本軍が海岸線の多くを押さえていた。人々は丘の上にいて、在来の食べ物か、夜の漁か、日本軍とのわずかな物々交換に頼るしかなかったのです」

会議では、こんなやりとりもあった。カーランドが「ロタ島の発症率はウマタックと同じくらい高い。ロタは孤立していて、ほぼ自給自足だ。むしろグアムに農産物を供給しているくらいだ。だがその孤立では、サイパンでの発生率の低さは説明できない」と言う。ホワイティングが答える。「サイパンでは、今世紀のはじめにドイツ人がサトウキビ農園を作るためにソテツを切り倒しました。

新しいソテツが手に入るようになったのはごく最近です。それまでは、サイパンに住むチャモロにはグアムからソテツの澱粉が送られていました。親戚に送っていたのは知っています。でもサイパンのチャモロは、グアムに住む人ほど実そのものに触れていなかったのでしょう」

一九六二年の時点で、この人はほぼ全部言い当てている。ソテツ説の骨格は、この会議で組み上がった。ホワイティングは翌年、経済植物学の専門誌に「ソテツの毒性」という総説を書く。十七巻二七一ページから三〇二ページ。ソテツ研究者がいまも引く古典になった。

サイカシンという毒、そして最初の敗北

さて、では毒の正体は何か。

最初に見つかったのはサイカシンだった。メチルアゾキシメタノールという物質にブドウ糖がくっついた配糖体で、ソテツの実にたっぷり入っている。これがとんでもない毒だった。肝臓をやられる。しかも発がん性がある。一九六三年、ラクア、ミケルセン、ホワイティング、カーランドの四人が国立がん研究所の紀要に、グアム産ソテツの実の発がん性に関する論文を書いている。三十一巻九一九ページから九五一ページ。

問題は、サイカシンが肝臓とがんには効くのに、神経にはあまり効かないことだった。

一九六二年から一九七二年にかけて、アメリカ国立衛生研究所は「ソテツの毒性に関する国際会議」を六回開いた。カーランドが旗を振り、世界じゅうの毒物学者と病理学者と植物学者が集まった。ソテツの実、外皮、洗っていない胚乳を粉にして、五種類の動物に食べさせた。中枢神経の病変は出なかった。

第三回会議でダストゥールという研究者が、サイカシンを検出限界以下まで抜いたソテツ粉を食べさせたサルの片腕に、四か月から九か月で筋力低下と萎縮が出たと報告している。ベッツ細胞と脊髄前角細胞の変性、皮膚の萎縮、コラーゲンの変性まで見つけていた。いま読むとぞっとするほど当たっているのだが、当時は誰も追試しなかった。

一九七二年、第六回会議で、決定打が出る。ラットに七十八日間ソテツ由来の毒を食べさせても、神経に見える変化は出ない。ソテツはグアムの病気の原因としては考えにくい、という結論だった。カーランド自身も同じ年、生化学系の紀要に「グアムの筋萎縮性側索硬化症の病因とソテツの神経毒性の評価」という論文を書いている。三十一巻一五四〇ページから一五四二ページ。

十年の集中投資が終わり、ソテツ説は沈んだ。一度目の沈没である。

ベータ・メチルアミノ・アラニンという名の伏兵

ただし、その沈没の前に、伏線が仕込まれていた。

きっかけは、まったく別の病気だった。ラチリズムという。インドやエチオピアで、グラスピーというマメを大量に食べた人に起きる、下半身の痙性麻痺だ。このマメの毒が、ベータ・オキサリルアミノ・アラニンという変わったアミノ酸であることが分かってきた。タンパク質を作らないアミノ酸で、神経の受容体を過剰に刺激する。

ホワイティングは考えた。ソテツにも似たようなものがあるのではないか。彼女は植物生化学者のアーサー・ベルに、ソテツの実の成分を調べてほしいと頼む。ベルと共同研究者のベガが見つけたのが、ベータ・メチルアミノ・アラニンだった。一九六七年四月、マイアミで開かれた第五回ソテツ会議で報告されている。ラチリズムの毒と構造がよく似た、けいれんを起こすアミノ酸。ソテツの実の中に、遊離した状態で存在していた。

だが、ベル自身が五年後にラットで否定的な結果を出す。ソテツ説は二度目に沈む。

ここまでが第一期だ。約二十年。莫大な予算と人手が投入されて、答えは出なかった。カーランドは諦めなかったが、学界の関心は別のところへ移っていく。

一九八七年、サルが歩けなくなった

第二期の主役はピーター・スペンサーである。

彼は「遅い毒」という考え方を持ち込んだ。急性毒性がないからといって安全とは限らない。少量を何年も食べつづけた結果、何十年も経ってから神経が壊れる毒があるのではないか。この発想自体は当時としてかなり斬新だった。

スペンサーたちは、カニクイザルにベータ・メチルアミノ・アラニンを大量に食べさせた。八週間ほどで、サルは運動系の異常を起こしはじめる。錐体路の症状と錐体外路の症状の両方が出た。行動も変わった。解剖すると、大脳皮質のベッツ細胞と脊髄の下位運動神経細胞に変性が出ている。人間の筋萎縮性側索硬化症でやられるのと同じ細胞だ。

論文は一九八七年七月、科学界で最も影響力のある週刊誌のひとつに載った。二三七巻五一七ページから五二二ページ。タイトルは「植物由来の興奮性神経毒に結びつけられたグアムの筋萎縮性側索硬化症・パーキンソン認知症」。

反響はすさまじかった。同誌はこの年の別の記事で「執拗な粘りと霊感に満ちた科学の組み合わせが、グアムの脳の病の謎を解いたように見える」と書いた。神経難病の研究史のなかでも、あれほど希望が膨らんだ瞬間はそう多くない。

三年後、仮説はまた沈んだ

そして三年で崩れた。

一九九〇年五月、マーク・ダンカン、ジョン・スティール、アーウィン・コピン、サンフォード・マーキーの四人が神経学専門誌に論文を出す。四十巻七六七ページ。タイトルが容赦ない。「ソテツ粉中のベータ・メチルアミノ・アラニン――グアムの筋萎縮性側索硬化症とパーキンソン認知症の原因としては考えにくい」。

彼らは何をやったか。グアムで採れたソテツの実から、チャモロの人たちが実際にやる方法で作った粉を三十検体、分析した。結果、処理の過程でこのアミノ酸の八十七パーセント以上が失われていた。半分の検体では九十九パーセント以上が消えていた。二十四時間浸けただけの検体でも九割が抜けていた。

同じチャモロ女性が二年にわたって作った複数の検体を比べると、洗いの丁寧さにはばらつきがあるものの、どのバッチでも最低八十五パーセントは抜けている。最終的な粉に含まれる量は、重量比で約〇・〇〇五パーセント。

村ごとの差もなかった。

計算してみると絶望的だった。スペンサーの実験でサルに与えた量を人間に換算すると、洗っていないソテツを毎日十七、八キロ、十二週間食べ続けなければならない。誰も、そんなことはできない。

この論文が出た時点で、ベータ・メチルアミノ・アラニン説は死んだと多くの研究者が判断した。二度目どころか三度目の沈没だった。

論争は続く。しかし、ソテツ説の勢いは、いったん確実に落ちた。

水の話――紀伊半島から届いた別の仮説

グアムだけの話ではないことも、この頃までにはっきりしていた。

日本には紀伊半島がある。一九一一年、三浦謹之助が「紀伊国尾鷲町附近に本病の多数に発顕するは、如何なる原因に依るものなるか研究を要すべき疑問なり」と書いた。日本の神経学の草分けが、紀伊半島に筋萎縮性側索硬化症が多いことを最初に指摘した文章だ。もっと古い記録もある。一六八九年の『本朝故事因縁集』に「紀州古座庄」の足萎えの話が出てくる。八瀬善郎はこれを紀伊の風土病の最古の記述と考えた。

一九六〇年代、木村や八瀬たちの疫学調査で、和歌山県の古座川地区と、三重県の穂原地区という二つの高集積地が特定される。地元ではこの病気を牟婁病と呼んだ。牟婁郡の病、という意味だ。有病率は欧米の百倍から百五十倍。しかも穂原では、患者の七割以上に家族歴があった。脳を調べると、グアムと同じく大量の神経原線維変化があった。

さらにガジュセックが、インドネシア領ニューギニア西部のアウユとジャカイの人々のあいだにも、同じような多発地を見つけた。西太平洋の三か所。グアム、紀伊、そして西ニューギニア。

八瀬たちが立てたのが、ミネラル仮説だった。多発地の川の水と飲料水を分析すると、カルシウムとマグネシウムが極端に少ない。逆にアルミニウムとマンガンが多い。長年こういう水を飲みつづけると、二次性の副甲状腺機能亢進が起きて、腸からの金属の吸収が増え、骨からカルシウムが動員され、これらの元素が中枢神経に沈着するのではないか。

証拠らしきものは出た。一九八二年、ダニエル・パール、ガジュセック、ラルフ・ガルート、リチャード・ヤナギハラたちが、グアムの患者の海馬の神経細胞のうち、神経原線維変化を持つものにアルミニウムが目立って蓄積していることを、電子顕微鏡と分光分析で示した。一九八四年には米国科学アカデミー紀要に、同じ細胞にカルシウムとアルミニウムが同居している像が載る。一九八六年にはケイ素まで一緒にいることが報告された。

紀伊半島でも、粒子励起エックス線分光による分析で、患者の脊髄と海馬に極端に多いアルミニウムが検出され、その量が神経原線維変化の密度と強く相関し、さらに出生地の川のカルシウムとマグネシウム含量と逆相関した。

きれいな話に見える。だが決め手を欠いた。カルシウムとマグネシウムを欠乏させてアルミニウムを与えた霊長類が、この病気になったという実験がなかったのだ。グアムの川のカルシウムが少ないという最初の報告も、後の測定で確認されなかった。

面白いことに、この仮説はソテツ説と矛盾しない。ミネラルが枯渇した体は、毒に弱いかもしれない。両方とも正しい、という可能性は最後まで残った。

それでも遺伝ではないのか

家族に固まって出るのだから、遺伝を疑うのは当たり前だ。実際、一九六九年ごろまで「純粋な優性遺伝病」という見方が生きていた。

だが、調べれば調べるほど、話が合わなくなる。

一九五七年に症例対照の登録制度が作られ、患者の親、きょうだい、子ども、そして配偶者が追跡された。配偶者は血のつながりのない対照群のつもりだった。ところが、その配偶者にもリスクの上昇が見えた。血縁でなく、同じ家に住んでいた人が発症する。これは遺伝子ではなく、家庭という単位の何かを指している。

移住者の研究がとどめを刺した。カーランドは一九五七年、グアムを離れてカリフォルニアに住んだチャモロが、島の住民と同じ高い発症率を保つことを報告する。何十年も島を離れていてもだ。逆方向もある。一九四〇年代に若い成人としてグアムへ来て、チャモロの女性と結婚し、島の暮らしと食習慣を採り入れたフィリピン人のうち何人かが、来島から十七年から二十六年後に、解剖で確定された病気を発症した。

ただし、一九五〇年より後に来たフィリピン人には一人も出ていない。一九五〇年というのは、ソテツ粉が主食でなくなった年である。

人ではなく、島にいた期間が効いている。しかも、ある時期を境に、その効き目が消えた。

分子生物学の時代になっても事情は変わらなかった。二〇一五年、標的を絞ったゲノム解析が行われ、チャモロの患者のうち何人かでは、既知の神経変性疾患の遺伝子変異で説明がつくことが分かった。ある一族ではひとつの遺伝子の同型接合変異、別の家系では別の遺伝子の変異、さらにハンチントン病の反復配列伸長まで見つかった。つまり、いくつかの家系の「多発」は、たまたま別の遺伝病が混じっていたものだった。

だが、これは全体のごく一部しか説明しない。二〇二三年に行われた全ゲノム解析でも、この病気に固有のリスク遺伝子は出てこなかった。

紀伊半島でも同じだ。穂原地区で複数の患者の全ゲノムを調べても、共通する遺伝子異常は見つかっていない。

そして何より、遺伝病は一世代で消えたりしない。

ウイルス説と、ガジュセックの執念

一九六〇年代、ガジュセックはニューギニア高地のフォレ族のあいだで流行していたクールーという病気の原因を追っていた。笑い病とも呼ばれる、死んだ縁者の遺体を食べる習慣を通じて広がる神経の病気だ。彼は最終的にこれが伝播する因子によるものだと示し、一九七六年にノーベル生理学・医学賞を受ける。

その手法を、グアムに持ち込んだ。

一九六三年から、患者の脳と脊髄と血液を、チンパンジーと八種類のサルに接種する実験が続けられた。百四頭。長いものは接種後百か月以上観察された。ネズミや鳥にも接種し、最低一年、長ければ三年観察した。培養細胞にも植えて、あらゆる細胞株に盲継代した。

何も起きなかった。接種に関係のある病気は、一頭にも出なかった。一九七二年、ガジュセックとギブスは病理学の専門誌に、この十年近い試みの総括を書いている。「疫学的にみれば感染説には十分な根拠を提示できるが、この八年から十年の研究で、それを支持する直接的で説得力のある証拠は得られなかった」。

ウイルス説も落ちた。しかもガジュセックはその後、ソテツ説にも懐疑的な立場を取り、一九八九年には「ソテツの毒性はグアム、日本の紀伊半島、西ニューギニアにおける高発生の原因ではない」と題した文章まで書いている。

一九九〇年代の初め、この病気の仮説はほぼ全部が否定されていた。ソテツも、水も、遺伝も、ウイルスも。そして患者は減りつづけていた。原因が分からないまま、研究対象そのものが消えようとしていた。

サックスがグアムに行った

ここでオリヴァー・サックスが登場する。

一九九三年、ニューヨーク大学医学部にいた六十歳の神経科医のもとに、一本の電話がかかってくる。相手はジョン・スティール。グアムに十二年住み、リティコ・ボディグの患者を診つづけてきた神経内科医だった。スティールはサックスの『レナードの朝』を読んでいた。嗜眠性脳炎の後に何十年も凍りついたように動けなくなった患者たちの記録だ。自分が診ている患者たちと比べてみてほしい、と彼は言った。

サックスは飛んだ。そして、その旅から一冊の本が生まれる。一九九六年刊行の『色のない島へ』。原題を直訳すれば「色盲の島」。日本語版は早川書房から出ていて、大庭紀雄の監訳、春日井晶子の訳。文庫版は二〇一五年に出た。

本は二部構成になっている。第一部は、先天的な全色盲の人が異様に多いピンゲラップ島とポーンペイ島の旅。第二部が「ソテツの島へ」で、グアムとロタが舞台だ。ページ数でいえば第二部のほうが長い。サックス自身、後年の自伝で「『色のない島へ』は多くの意味で自分の本のなかでいちばん好きな本だった」と書いている。

この本の何が良いかというと、病気の記述より、家を訪ねる場面の記述がいい。医者と患者ではなく、訪問客と住人としての距離で書かれている。ジャレド・ダイアモンドが書評で、この本は構成としてはまとまりを欠く、と評したのは正しい。だがそのまとまりのなさは、島で起きていることが実際にまとまっていないことの反映でもあった。

往診の午後

サックスとスティールは、車で南部の村を回った。鶏が道を歩き、ソテツの茂みがあり、スペイン時代の廃墟が残る村を、一軒ずつ。

サックスが書きとめた患者のひとりに、発症してまだ一年半という男性がいる。始まりは、奇妙な不動だった。何かをしようという気持ちが起きない。自発性が消える。歩くのにも、立つのにも、ほんの少し体を動かすのにも、とてつもない努力が要る。体が言うことを聞かない。その不動は恐ろしい速さで進み、一年のうちに、彼は一人で立つことも、姿勢を保つこともできなくなった。

ボディグの重い段階の描写は、読んでいてつらい。口が開いたまま閉じない。唾が流れ落ちる。舌が動かず、しゃべることも飲みこむこともできない。手足が突っ張って曲がったまま固まる。それでいて、認知症を伴わない患者では、意識も思考も言葉も、最後まではっきりしている。自分の体が石になっていくのを、正気のまま眺めることになる。

サックスが感心したのは、島の家族のありかただった。患者は施設に送られない。家にいる。大家族が交代で世話をする。食事を口に運び、体を拭き、椅子に座らせ、話しかける。ある研究者は、チャモロの人たちにとって入院とは「愛する人との別れ」ではなく「愛する人を病院という医療体制のなかへ移動させること」なのだと書いている。この病気には、いまも治療法がない。

レボドパを使えばボディグの症状が一、二時間だけ緩むことがあるが、それだけだ。だから、看る力がすべてだった。

サックスはスティールの顕微鏡も覗いている。黒質の標本。細胞の多くが色を失って蒼白になり、グリアが反応し、色素が散らばっている。倍率を上げると、大量の神経原線維変化が見えた。濃く染まった、よじれた塊が、壊れた神経細胞の中にびっしり詰まっている。視床下部も、脊髄も、皮質も同じだった。神経原線維の変性が、どこにでもあった。

二〇〇二年、オオコウモリという伏線回収

『色のない島へ』を読んだ人間のなかに、民族植物学者のポール・アラン・コックスがいた。太平洋の島々の植物利用を長年研究してきた人だ。

彼はサックスに連絡を取り、ある仮説を持ちかけた。

チャモロの人たちは、ソテツの粉だけを食べていたわけではない。オオコウモリを食べていた。チャモロ語でファニヒ。マリアナオオコウモリという大型のコウモリで、祝いの席のごちそうだった。丸ごとココナツクリームで煮る。そして丸ごと食べる。脳も、内臓も、毛皮も、翼の膜も。

そのオオコウモリが、何を食べているか。ソテツの実である。

もしコウモリの体にソテツの毒が濃縮されていたら。生物濃縮だ。殺虫剤が食物連鎖の上位で何桁も濃くなるのと同じ理屈である。だとすれば、洗った粉から抜けてしまう程度の量ではなく、スペンサーがサルに与えたのに近い量を、人間が一気に摂れることになる。

サックスは、これはありうると考えた。二人の連名の論文は、二〇〇二年三月、神経学専門誌の五十八巻九五六ページから九五九ページに載る。「ソテツの神経毒、オオコウモリの摂食、そしてグアムの筋萎縮性側索硬化症・パーキンソン認知症複合」。

そして翌年、実証が来る。

同じ年の十一月、コックス、バナック、スーザン・マーチの三人が米国科学アカデミー紀要に決定版を出す。百巻一三三八〇ページから。数字を追うと、こうなる。自由生活の藍藻がこのアミノ酸を作る量は一グラムあたり〇・三マイクログラム。ところが、ソテツの根の特殊な部分に共生する藍藻になると、二から三十七マイクログラム。

ソテツの実の果肉部分で平均九マイクログラム、実のいちばん外側の層では平均千百六十一マイクログラム。そのソテツの実を食べるオオコウモリでは平均三千五百五十六マイクログラム。そして、この病気で死んだチャモロの患者六人の前頭葉には、平均で一グラムあたり六マイクログラム。

一段ごとに二桁ずつ濃くなる、典型的な生物濃縮の三角形だった。

さらに二つ、話を広げる発見があった。ひとつは、この毒がソテツ自身の産物ではなく、根に共生する藍藻が作っているということ。もうひとつは、アルツハイマー病で死んだカナダ人二人の前頭葉からも、ほぼ同じ濃度でこの物質が検出されたこと。神経の病気で死んでいない十三人の脳からは検出されなかった。

グアムの風土病の話が、いきなり世界じゅうの神経変性疾患の話になった。

コウモリはいつ、どこへ消えたのか

この仮説がきれいに見えたのは、時間軸が合ったからだ。

グアムにはもともと二種類のオオコウモリがいた。大きいほうがマリアナオオコウモリ、小さいほうがグアムオオコウモリだ。小さいほうは一九三一年に三頭が採集され、一九三四年に新種として記載された。以後、記録はほとんどない。最後に確認されたのは一九六八年、タラゲ岬で狩人が撃った一頭。一九七九年に北部のリティディアン岬で目撃らしきものがあったが、確認されていない。

アメリカ合衆国魚類野生生物局は、この種を絶滅と判断している。

大きいほうも激減した。一九五八年に約三千頭と見積もられていたのが、一九七八年には五十頭を切った。一九八二年に八百五十頭から千頭まで戻ったのは、ロタ島から飛来したためらしい。だが一九八四年の調査では四百二十五頭から五百頭に減っている。

原因ははっきりしている。乱獲だ。ごちそうだから撃つ。戦後、島に軍事基地ができ、現金収入と銃が広く行き渡ると、狩りの効率が跳ね上がった。グアム政府が狩猟制限を設けたのが一九六六年。全面禁止が一九七三年。連邦の絶滅危惧種指定が一九八四年。それでも密猟は続いた。後には外来種のミナミオオガシラという蛇の捕食も加わった。

コックスたちの筋書きはこうだ。戦後、コウモリを大量に食べられる時代が来た。潜伏期は数十年。だから一九五〇年代から六〇年代に発症の波が来た。そしてコウモリが獲れなくなり、法で守られ、食卓から消えていくのに合わせて、新しい患者も出なくなった。

時系列は、たしかに合う。

反論は容赦なかった

だが、この仮説には即座に強い批判が集まった。学問の世界の議論として、その中身を書いておきたい。

第一に、輸入の問題だ。グアムでコウモリが獲れなくなった後、島の人たちは他の島から輸入されたコウモリを食べていた。一九七五年から一九九〇年のあいだに、少なくとも十種、およそ二十三万頭が持ち込まれたという推計がある。輸入のピークは七〇年代後半で、年に二万から二万九千頭。しかも、その六割五分はロタ、パラオ、ヤップからのもので、この三か所はいずれもグアムと同じソテツの分布域だ。

だとすれば、コウモリ経由の曝露は八〇年代まで下がっていないことになる。それなのに発症率は下がりつづけた。

第二に、コウモリの食性だ。この種の主食は果実と花で、森の重要な花粉媒介者だ。ソテツの実の果肉を食べるのは、乾季で果実も花も乏しいときに限られる、という指摘がある。硬い殻を歯で割ることはできない、とも。

第三に、当時の数字そのものへの疑問。一九二〇年から四〇年のコウモリの個体数を示したグラフが提示されたが、その時期のまともな記録は一九三〇年のものくらいしかなく、それも「島の大半で珍しい」と書いていた。

第四に、植物学の側からの、もっと根本的な批判。ソテツの毒の量は、生えている場所、日照、土壌、共生する隣の植物、その株の生活史によって大きく変わる。ところが、この分野の論文はどれも、どこに生えていた何年生の株から採ったのかをきちんと書いてこなかった。それでは濃度の数字に意味がない、と。二〇〇五年、園芸学の専門誌に載ったトマス・マーラーらの論文はこの点を突いている。

第五に、そもそもの毒物学。二〇〇六年、科学週刊誌がこの騒動を特集したとき、記事の副題は「グアムの死の追跡者は、世界じゅうに放たれているのか」だった。同誌に寄せられた反論のなかには、この仮説を「率直に言って、こうもりじみている」と評したものもある。

第六に、臨床側からの最も重い批判。二〇〇八年、ジョン・スティールとパトリック・マッギアが神経学専門誌に「グアムの筋萎縮性側索硬化症・パーキンソン認知症複合症候群とソテツ仮説」という総説を書く。七十巻一九八四ページから一九九〇ページ。彼らの論点はこうだ。ソテツ粉の常食が終わった一九五〇年以降も、この病気はしばらく持続した。原因仮説は、この病気の疫学と病理のすべてと整合しなければならない。

チャモロにほぼ限定されること、家族に固まること、島の中でも地域差があること、減りつつも持続すること、紀伊半島に似た病気があること。そして実験系で再現できること。アルツハイマー病と同じタウのアイソフォーム構成を持つ神経原線維変化を作れること。ソテツ仮説はこれらの最低条件を満たしていない、と。

これに対して、エイミー・ボレンスタインたちが反論する。二〇〇七年に発表した島全体の疫学調査では、成人期初期にソテツを採り、処理し、食べたという経験が、認知症、軽度認知障害、パーキンソン認知症複合のすべてでリスク上昇と有意に結びついていた。二〇〇三年に見つかったパーキンソン認知症複合の患者二十九人は、全員が一九四〇年より前に生まれている。つまり一九四〇年代に毒に触れる機会が十分あった世代だ。

一点集中の曝露だったと考えれば、話は合う。

さらにスペンサーの側からは、主犯はベータ・メチルアミノ・アラニンではなくサイカシンの分解物であるメチルアゾキシメタノールだという主張が出る。この物質は齧歯類の発達期の神経毒として確立していて、小脳に異所性の多核プルキンエ様細胞を作る。同じ細胞が、グアムと紀伊の患者の小脳で報告されていた。さらに試験管内でタウの発現を変え、若いマウスの脳にシヌクレインを溜める。

タウとシヌクレインの両方の代謝を乱せる物質、というわけだ。

そして紀伊半島の研究者たちは、ソテツ説そのものに強い異議を唱えている。牟婁地方ではソテツを食べない。ソテツを常食する奄美大島にこの病気はない。二十六年間グアムのジャングルに潜伏し、ソテツを常食していた元日本兵の横井庄一は、晩年にパーキンソン症状を呈したが、解剖の結果は普通のパーキンソン病で、この病気ではなかった。牟婁病の患者の脳を質量分析にかけても、問題のアミノ酸は検出されなかった。

どの側にも、それなりの根拠がある。それがこの論争のいちばん厄介なところだ。

島の人たちにとって、それは何だったのか

ここまで研究者の話ばかり書いてきたので、島の側の話を書く。

グアムの人たちにとって、リティコ・ボディグは半世紀にわたる「研究対象であること」の経験でもあった。世界じゅうから科学者が来た。血を採られ、写真を撮られ、家系図を作られ、家を訪問され、亡くなった家族の脳を提供してほしいと頼まれた。一九九二年には、患者を含む六十人のグアム住民が、島ではできない検査のために一万六千キロを飛んでアメリカ本土に渡っている。医学的には貴重なデータになった。

だが、これだけ調べられて答えが出ないという状況が長く続いたことも事実だ。研究の社会的・文化的な影響を扱った研究はごくわずかしかない、とグアムの百科事典的なサイトは書いている。

食文化の側から見ると、話はもっと複雑だ。ファダンは「毒のある変な食べ物」ではない。世代を越えて受け継がれた技術であり、家族が集まって働く時間であり、分け合う対象だった。手間がかかりすぎて祝いの席の表の食卓には出ず、裏の台所で料理人たちに配られる、そういう位置づけの食べ物だった。好き嫌いは分かれた。おいしいと言う人もいれば、苦手だけれど敬意から食べるうちに好きになったという人もいた。

処理を短めにして色が茶色く残っている粉のほうが風味が濃くて好きだ、という年寄りもいた。

そのソテツ自体が、いまや絶滅危惧種だ。二〇〇三年に外来のカイガラムシが入って、グアムのミクロネシアソテツは壊滅的に減った。二〇一五年、アメリカの絶滅危惧種法で「危急」に指定されている。グアム大学の研究者たちは近年、この木を植え戻す活動を続けている。植物を守ることが、同時にティティヤス・ファダンを作る技術という文化を守ることになる、という考え方だ。ファニヒも同じである。

かつては森の花粉を運び、祝いの席の主役だったコウモリが、いまは撃つと連邦法違反になる。

疑わしい食べ物として名指しされ、絶滅しかけ、いま保護されている。ソテツとコウモリのたどった道は、この病気の物語のいちばん皮肉な部分かもしれない。

なぜ現れ、なぜ消えたのか――時系列を並べ直す

ここで一度、時間軸に沿って整理してみたい。

十九世紀の記録には、この病気らしきものがすでに出てくる。一八二三年のグアムの死亡記録には、障害を持って死んだ人を指す言葉が出てくる。一八五〇年代、スペイン人統治者たちがソテツの食用を禁じようと提案していて、その理由として急性の中毒と、この食べ物を摂る人の早すぎる老化と短命を挙げていた。一八六五年、フェリペ・デ・ラ・コルテという人物が、ソテツの実の摂取が神経の病気の原因ではないかと書き残している。

二〇二一年に神経科学史の専門誌に載った論文は、スペイン統治時代を通じて安全な処理法の知識が徐々に失われていった可能性を指摘している。一九〇四年のグアムでは、麻痺に言及した死亡診断書が三通見つかっている。

つまり、まったくの新しい病気ではなかった。低い水準で、ずっとあった。

そこに戦争が来る。一九四一年から四四年、島じゅうの家庭で、二、三年にわたってソテツ粉が主食になる。飢えと、強制労働と、ジャングルでの野営。それが終わって、アメリカが戻ってくる。基地ができ、現金が回り、缶詰と米と小麦粉が店に並ぶ。ソテツを二週間水に浸ける生活は、賃金労働と両立しない。一九五〇年ごろ、ソテツ粉は主食の座から降りた。

その一方で、銃と現金がオオコウモリの狩猟を加速させた。一九五〇年代から六〇年代にかけて、コウモリを食べる機会は増え、そして急速に減った。

発症の波が来たのは、その後だ。一九五〇年代前半に筋萎縮性側索硬化症のピーク。六〇年代前半に男性のパーキンソン認知症複合のピーク。七〇年代前半に女性のピーク。八〇年代に急落。

潜伏期を二十年から四十年と置けば、曝露のピークは一九四〇年代の前半になる。戦争のあの二、三年だ。移住したフィリピン人の発症が来島から十七年以上あとに出て、しかも一九五〇年以降に来た人には一人も出ていないという事実も、同じ方向を指す。島を離れたチャモロが何十年も経ってから発症したのも同じだ。

このシナリオは、いちばん多くのことを説明する。だが「毒の正体は何か」という問いには答えていない。ソテツのサイカシンなのか、あのアミノ酸なのか、コウモリ経由の濃縮なのか、水のミネラルの偏りなのか、それらの組み合わせなのか。あるいは、まだ誰も名前をつけていない何かなのか。

研究者たちが半世紀かけて確実にしたのは、「環境の何かだ」ということと、「それはもう島から消えた」ということだけだ。

いま分かっていること、まだ分からないこと

この二十年で、脳の側からの理解は大きく進んだ。

まず、この病気はタウが主役の複合的なタンパク質異常症だと確定した。タウの神経原線維変化が圧倒的に多く、そこにアミロイドベータ、アルファ・シヌクレイン、ユビキチン、そしてティーディーピー四十三というタンパク質の病変が、程度の差はあれ重なる。二〇〇七年から二〇〇八年にかけて、複数のグループがこれを示した。タウの異常は神経細胞だけでなく、オリゴデンドログリアやアストロサイトにも出る。

灰白質にも白質にも出る。これはアルツハイマー病とは違う。

二〇二三年、米国科学アカデミー紀要に衝撃的な論文が出た。グアムの患者と対照者、合わせて二十六人の凍結脳と、アルツハイマー病を含む本土の七十一人の脳を、細胞を使ったバイオアッセイにかけた研究だ。結果、グアムの患者の脳からは、タウとアミロイドベータの両方について、自己増殖する異常構造、いわゆるプリオン型の活性が高い力価で検出された。アルファ・シヌクレインは検出されなかった。

しかも、その活性は孤発性のアルツハイマー病より強かった。この病気は、タウとアミロイドベータの二重プリオン病だ、というのが著者たちの結論である。

同じ二〇二三年、極低温電子顕微鏡でタウ線維の立体構造が解かれた。グアムの三例と紀伊の八例。出てきた形は、慢性外傷性脳症のタウ折り畳みと同じだった。慢性外傷性脳症というのは、繰り返しの頭部打撲で起きるタウ病だ。ほかに同じ形が出るのは、麻疹の後に稀に起きる亜急性硬化性全脳炎くらいしかない。どちらも外因で起きる病気である。

著者たちは、この構造の一致は、グアムと紀伊の病気が外的な要因で起きたという仮説を支持する、と書いている。

それでも、その外的要因が何なのかは、まだ書けない。

もうひとつ興味深い手がかりがある。線状網膜色素上皮症という目の異常だ。症状はほとんどないが、網膜の色素の層に細い線状の跡がつく。グアムと紀伊のこの病気の患者の半分近くに見られ、しかも発症より前から出ている。移動する寄生虫の幼虫が這った跡に似ているという指摘がある。そしてこの目の異常も、病気の減少と足並みをそろえて減った。誰かがこの線をきちんとたどれば、答えが出るかもしれない。

まだ誰もたどりきっていない。

紀伊半島の状況は、グアムと少し違う。古座川では患者が減ったが、穂原地区ではいまも新しい患者が出ている。しかも近年、筋萎縮性側索硬化症型が減る一方でパーキンソン認知症複合型が増えるという、病気の顔つきそのものの変化が起きている。グアムで消えて、穂原に残っている環境要因は何か。それを見つけることが、この病気の謎を解く鍵だと、日本の研究者たちは書いている。

答えの出ない病が、私たちに残したもの

グアムでは、いまリティコ・ボディグの新しい患者はほとんど出ない。近年、島の医療機関で最後の医学的記録が残る患者のひとりが呼吸不全で亡くなったという報道が、この病気への関心を一時的に呼び戻した。

半世紀以上、世界最高水準の研究資源が注ぎ込まれた。六回の国際会議が開かれ、何十頭ものサルとチンパンジーが実験に使われ、何百という論文が書かれ、何人もの研究者がキャリアを賭けた。そして原因は特定されないまま、対象が消えた。科学の敗北のように見える。

だが、そう単純でもない。

この病気の研究がなかったら、いくつかの重要な考え方は生まれていなかった。「遅い毒」という発想がそうだ。ある物質を食べてから、症状が出るまで三十年、四十年かかることがある。この発想はいま、環境と神経変性疾患を結ぶ研究の基本になっている。生物濃縮という毒物学の概念を、公害物質ではなく天然物に当てはめて考えることも、この島の議論から広がった。

タウというタンパク質が単独で、アミロイドをほとんど伴わずに脳全体を壊しうるという事実も、まずグアムで見つかった。そして、症状のない人の脳の七割にすでに病変があるという発見は、神経変性疾患が症状より何十年も先に始まっているという、いまでは常識になった見方の、かなり早い実例だった。

もうひとつ、島の人たちが半世紀にわたって示したことがある。原因も治療法もない病気を抱えた家族を、施設ではなく家で看つづける、その方法だ。サックスが本のなかでいちばん静かに、いちばん強く書いているのはその部分だ。医学が答えを出せなかったあいだ、その空白を埋めていたのは、ずっと家族と隣人だった。

謎は、まだ島に残っている。ソテツはカイガラムシに食われて数を減らし、コウモリは法律で守られ、ファダンを作れる人は年々少なくなっている。かつて世界の百倍の頻度で人が倒れた村は、いまは観光バスが十分だけ止まる静かな湾になっている。

原因は分からずじまいだった。それでもこの島は、人間の脳がどうやって壊れるのかについて、たぶん世界のどこよりも多くを教えてくれた。答えの出なかった問いが、いちばんたくさんの知識を残していったというのは、なかなかできすぎた話だと思う。

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