役目が終わると、火にくべられた絵
東京都立図書館に、江戸の版元が売り出した歌川国芳の大判錦絵が収められている。画題は、鎮西八郎為朝と疱瘡神。分類の欄には疱瘡絵とあり、病を除けるお守りとして、江戸の人びとが買い求めた一枚だ。
疱瘡絵は、疱瘡にかかった子へのお見舞いとして贈られ、治って役目を終えたら、焼き捨てるか川に流す決まりだった。だから現存するものは少ない。赤の濃淡だけで刷られた絵は護符の役目を持ち、病の子の身近に置かれたり、戸口に貼られたりした。
絵に描かれる顔ぶれは、ほぼ決まっていた。倒れてもすぐ起き上がる達磨に、軽いみみずくの玩具、張り子の犬。強さにあやかるための為朝も、定番の一人だ。どれも、疱瘡を軽く済ませたいという親の切実な願いを、目に見える形にしたお守りだった。
正直、紙一枚で病が退くわけがない、と今の目では思う。それでも江戸の親たちは、絵草紙屋の店先で赤い絵を選び、病の子のために買い求めた。なぜ赤なのか。なぜ為朝なのか。残された記録を順にたどって、その理由を探ってみる。
疱瘡は、顔の行く末を決める病だった
江戸時代、疱瘡と麻疹と水疱瘡は御役三病と呼ばれ、一生に一度はかかる病で、しかも死亡率が高く、親たちは無事に通り抜けられるかを何より案じていた。避けて通れない、一生に一度の関門。
疱瘡は、ほとんどの人が幼いうちにかかり、治っても顔にあばたが残って、目をやられて失明する人もいた。見目定めの病という呼び名は、顔かたちの行く末を決める病、という意味だ。疱瘡は見目定め、麻疹は命定め、と対にした言い回しも伝わる。命が助かっても、人生が変わる。
文献に残る古い大流行に、天平7年、735年のものがある。当時は九州の大宰府が外交の窓口で、人の出入りが多く、この地が流行の出発点になりやすかった。左遷された菅原道真や藤原広嗣の御霊信仰とも結びつき、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられた。
独眼竜で知られる伊達政宗も、幼い頃の疱瘡で右目を失ったひとりだ。仙台藩の正史『伊達治家記録』によると、罹ったのは5歳頃だ。目に膿疱ができ、右の眼窩が盛り上がって、目が飛び出したように見えたという。
1974年、再建に先立つ墓所の発掘調査で、政宗の頭蓋骨が調べられた。右目の眼窩に、損傷はなかった。刀や落馬による傷とは考えにくい、という裏づけになる材料だ。
政宗は、失った目を恥じたと伝わる。親にもらった目を失ったのは不孝だという考えから、死後に作られた像や絵には、右目を小さくして両目を入れたものがある。疱瘡が奪うのは、命だけではなかった。顔と目。それが、江戸の親たちの怖れの中身だった。
柱まで赤い毛氈で覆われた部屋
天保11年の春、江戸城の奥で、のちの13代将軍、徳川家定が疱瘡にかかった。当時17歳。容体は軽いと伝わったが、周りの支度はまるで軽くなかった。その様子を、旗本家の未亡人が噂として書き留めている。
側に仕える人は、みな紅色の衣を着ているらしい。疱瘡のときは黒や紫が禁物だから、急いで着替えたのでしょう、と彼女は書く。膳も調度も紅で彩られ、柱までが赤い毛氈で覆われているといい、疱瘡の神を祀る棚の周りも、仕える人々は赤一色だ。見渡す限りの赤。
聞いただけの彼女は、目もくらむ眺めだ、紅葉の山に分け入っても、これほど見事ではあるまいと驚いている。疱瘡の部屋を語る口ぶりは、どこか華やかだ。重い病の見舞いと分かっていながら、浮き立つような調子が文面に混じる。
『御慰言贈帳』という帳面の天保11年の条には、手配の細目が並ぶ。紅摺りの錦絵、つまり赤絵が急ぎで用意され、達磨のような赤い品も揃えられ、包む紙は赤い奉書紙、水引も赤と指定された。緋色のインコを病床の近くで飼う手配まで見える。
人の言葉をまねる鳥なら、寝ている若君の慰めにもなる、そういう期待もあったらしい。加賀藩の史料には、藩主前田家の若君の疱瘡に、将軍家から紅縮緬の大達磨と大みみずくが贈られた、とも記される。部屋ごと赤く染めた将軍家の奥を、ちょっと想像してほしい。
育児書にも、同じ向きの勧めがある。江戸の育児書、香月牛山の『小児必用養育草』は、屏風や衣桁に赤い衣類をかけ、病児にも看病人にも赤を着せるよう説く。理由は、痘の色が赤を好むかららしい。
赤は好物なのか、苦手なのか
ここで首をかしげる点が出てくる。疱瘡神は赤を好むのか、嫌うのか。東京都立図書館の解説は、赤を嫌うという信仰も、好むという信仰も、各地にあったと書く。牛山は好むと説いたが、嫌うから赤い物で追い払う、という土地もあり、同じ赤に正反対の理屈が並んでいた。
由来の説明は、いくつか伝わる。疱瘡の発疹が赤く出れば経過がよい、という経験則。赤は健康の色で、病魔を払うという俗信。生き血を捧げて荒ぶる神の怒りを解く、という意味もあったと考えられている。
玩具にも、それぞれ理屈がある。疱瘡神は犬が苦手だという伝承から張り子の犬が飾られ、倒れても起き上がる達磨には、病もすぐ起き上がるようにという願いがこもる。風車やでんでん太鼓は、軽いものだから疱瘡も軽く済む、という理屈だ。鯛に車をつけた鯛車や、猩々の人形も、疱瘡神除けに使われた。
赤一色で描いた鍾馗の絵も、お守りになった。疫病を追い払う神が疱瘡のときだけは朱に染まり、歌川国貞の錦絵には、題に朱鍾馗とつけたものもある。
絵に書き添える和歌にも、犬が出てくる。「もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり」。犬と達磨を遊び相手にして、荷は軽く、峠は楽に越える。疱瘡を軽い荷で楽に越えたい峠に見立てた歌で、犬が出てくるのは、疱瘡神が犬を苦手とする伝承があるからだ。
老婆の姿の神が来ると、疱瘡は重い
疱瘡神は、疫病神の一種だ。疱瘡の激しいかさぶたから、笠神や芋明神の名でも呼ばれた。特定の祭神はいない。自然石や石の祠に疱瘡神と刻んだ塔が多く、疫病神は異境から入り込むと考えられたので、塔は村の入口や神社の境内に祀られた。
江戸後期の随筆『甲子夜話』には、疱瘡の神にも数種あると書かれている。少年か美しい女が来れば、病は軽く済み、老婆が来ると、痘はひどく重くなるという。
佐賀藩領の村々では、あらかじめ家ごとに、竹の杖に小さな足半をつけておいた。老爺がすでに来ている、という印だ。重い病を運ぶ老婆に入り込まれないための、苦肉の工夫。
絵に描かれる疱瘡神は、老女の姿が基本だ。老人や子どもの姿で小さく添えられていれば、吉兆の意味だった。国立国会図書館の解説によると、疱瘡神が書いた詫び状や、守り札も伝わる。
その札の筋書きが面白い。疱瘡神の力に恐れ入った安倍晴明が、人々の疱瘡が軽く済むよう頼んで、もらった札だという。札には晴明の封印が添えられ、鴨居や戸口に貼って、かからないように、軽く済むようにと願った。
疱瘡神を祀るあいだは、においの強いものや魚、肉を食べない。神が嫌うからだ。疱瘡囃子の賑やかさからか、派手好きで踊り好き、そのくせ怒りっぽい神だとも言われた。
疱瘡神を祀る風習そのものは、民俗学の見方では比較的新しく、江戸時代に成立したものだ。1810年に『断毒論』を出した医師の橋本伯寿は、痘神を祭るのは昔には全くなかったことだと書いた。軽く済んでほしいという俗な情から起きた、近年の習いだと切り捨てている。
八丈島に疱瘡はない、という言い伝え
国芳の絵に戻る。為朝は、保元の乱で崇徳上皇の側について敗れた武士だ。伊豆大島に流され、伊豆の島々を支配したと伝わる。ところが疱瘡絵の世界では、為朝は八丈島の主になっている。史実の流刑地とは、島が違う。
八丈島は、古くから疱瘡のない島として知られていた。理由は為朝にある、と考えられた。為朝の武威を恐れて疱瘡神は島に近づかない、その場面を描いたのが、曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』だ。
浜辺に立つ為朝が、波間に漂う奇妙な翁を見つけて何者かと問うと、疱瘡神の性を持つ者だと答える。為朝は言い放つ。自分が島に来てから、万民を愛し、国中の安全を祈ってきた。おまえも早く去れ、島の人を悩ませるなら、ただでは置かない、と。
翁は為朝の勇気に驚き、二度と島には来ないと誓って去っていった。『椿説弓張月』には、二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない、と書いた証書に、痘鬼が手形を押す場面もある。この手形の貼り紙が、疱瘡除けとして門口に貼られた。国芳の絵の為朝も、疱瘡神から手形を受け取る姿で描かれる。
門口には、ここは為朝の宿ですよ、と先に断っておくように、鎮西八郎為朝御宿と書いた紙も貼られた。子供不在と書いた紙もあった。ここに子どもはいないから、よその家へ行ってくれ、と疱瘡神に訴える貼り紙。
では、実際の八丈島はどうだったのか。島の記録『八丈島年代記』には、疱瘡の流行が何度も出てくる。1463年には、大岡の郷から疱瘡が始まり、本島と小島で672人が亡くなったという。
1711年には、大阪の伝法船が三根村に漂着した。疱瘡を患った水主が引き揚げられて亡くなり、そこから村中に広がって、2年のうちに全島へ及んだ。死者は980人から990人にのぼる。
村境には垣が立てられ、通行が禁じられたといい、村人は家を捨てて山へ逃げ、山に住居を移した。疱瘡のない島どころか、人びとが住まいを捨てて逃げ出す病だった。
島の人の顔がなめらかなのに驚いたのは、1791年に八丈島を訪れた医官の鈴木良知だ。あばた顔は、100人に1人か2人しかいなかったという。疱瘡のない島の話は、寛政年間以降、医家たちの関心も集めた。
国立国会図書館の解説は、こう結ぶ。実際には八丈島にも天然痘が流行したが、為朝にすがる気持ちからか、その神威が傷つくことはなかったようだ、と。
嘉永4年、回向院に運ばれた為朝
1851年、嘉永4年の5月。両国の回向院で、為朝明神の像が開帳された。伊豆の島で疱瘡除けの神として祀られていた為朝大明神が、江戸へ出開帳に来たのだ。この頃に刷られたと見られる、国芳などの疱瘡除けの錦絵も残る。
開帳に合わせて幟の先に達磨やみみずくが取り付けられ、それが疱瘡除けのまじないにも使われた。大きく見開いた目で描かれたみみずくには、疱瘡で目を失わないようにという願いが込められているという。
月岡芳年の『新形三十六怪撰』にも、為朝が疱瘡神を退ける図がある。題は「為朝の武威痘鬼神を退く図」。この絵の読みは、割れている。
白い紙は疱瘡神の詫び証文だという説があり、左上の3人はみな疱瘡神だという説もある。手を広げているのが疱瘡神で、後ろの2人は人間だという読みもある。強い為朝に疱瘡神を倒してほしいと願う、親たちの気持ちの表れと見る人もいる。
疱瘡棚を吊るのは、うちに出ましたと知らせること
駿河国の富士郡では、嘉永元年の冬から翌年の5月まで、疱瘡が近郷を移りながら流行した。前の流行から7年ぶりだった。大宮町のある家の若い父親が、その間の様子を日記に残している。
流行が町に入る前の正月、父親は近所の道祖神や、疱瘡のご利益で知られた神社に祈願している。願ったのは、疱瘡を避けることよりも、軽く済ませることだ。かかるのは前提で祈っていたわけだ。当時の人びとの覚悟が、そこからうかがえる。
3月に入って、長男が発症した。かかりつけの医者と鍼灸医の座頭が呼ばれ、見立ては重症。数日後には全身に痘が広がり、父親は疱瘡棚を吊って、疱瘡神を祭った。
疱瘡棚を吊るのは、疱瘡にかかったと周囲に知らせることでもあった。近所や親類から、見舞いの品が届き始める。病児を慰める絵本もあれば、病が軽く済むようにという語呂合わせで選ばれた、軽焼き煎餅もあった。
発症から15日目に、治った祝いの湯かけの式と祝宴が開かれた。長男の目や口はまだかさぶたでふさがり、本人はかゆがっていたという。家族は、かき壊してあばたが残らないよう、連日徹夜で見張った。
ところが湯かけの翌日、目を離した隙に、子は鼻先のかさぶたを自分で落としてしまった。日記の文字から、父親の悔しさが伝わる。全快までに要したのは、2か月。
町の疱瘡神送りが行われたのは、流行が完全に収まった5月の末だった。見舞いから湯かけの祝宴、神送りまで、疱瘡は共同体がかかわって乗り越える病だったと、この日記を読み解いた研究者は結ぶ。
神送りの形は、土地ごとに違う。桟俵に赤い御幣と餅を乗せて川に流し、神社の鳥居のそばに置いてくる土地もある。村の主婦たちが夜に集まり、鼓を叩きながら村中を囃して歩く疱瘡囃子もあった。
変装して隣村へ米や酒を勧進に行く土地もある。集めた米や酒で疱瘡団子を作り、村中で食べて、神を村の外へ送り出した。疱瘡勧進と呼ばれた習い。
新潟県の中頸城郡には、ハライという風習があった。藁や笹で作ったサンバイシを、発病の1週間後に子どもの頭に乗せる。母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えて、湯をかける。ここでの疱瘡神は、悪い部分を体から追い出す手伝いをしてくれる神という扱いだ。
沖縄では、痘瘡をチュラガサ、清ら瘡と呼んだ。病人には赤い着物を着せ、男たちは夜中に歌や三線を奏でて、痘瘡神をほめたたえた。怒りをやわらげるための夜伽。琉歌には、疱瘡神を賛美して軽く済むよう願う、疱瘡歌という分類まである。
牛の背に乗った子ども
1849年の6月、長崎の出島。佐賀藩医の楢林宗建が3人の幼児を連れてオランダ商館を訪ね、商館医のモーニッケが、右腕に牛痘の痂を接種した。善感したのは、宗建の三男の建三郎だったという。
前の年に持ち込まれた痘苗は、失敗に終わっていた。宗建の進言で、再びバタヴィアから取り寄せた痘痂が、この接種に使われた。
当時は、7日ごとに子どもから子どもへ植え継ぐ以外に、苗を保つ手立てがなかったという。苗は長崎と佐賀を起点に、半年ほどの短い間に、京都、大坂、江戸、福井へと広がった。牛痘は、子どもたちの腕から腕へ、人の足で運ばれていった。
福井藩の町医、笠原良策が京都を出たのは、1849年の11月下旬だ。接種した子どもとその親を、あわせて十数人連れている。雪の栃ノ木峠を越えて、痘苗を生きたまま故郷へ運ぶためだ。福井に着いたのは、11月25日。
大坂では、同じ年の11月7日に、緒方洪庵らが除痘館を開いた。1858年には幕府がその活動を公認して牛痘種痘は免許制になり、江戸でお玉が池種痘所が開かれたのも、この年だ。のちの東京大学医学部の前身にあたる。
外来の予防法を人びとに知らせるため、宣伝用の引札が刷られた。描かれたのは、牛の背に乗った子ども、牛痘児だ。牛痘児は、疱瘡神を退治する。
佐賀県立図書館が持つ『種痘之図』には、疱瘡神が連れている子どもに、牛痘児が種痘をしようとする場面がある。疱瘡神の絵の型を借りて、新しい医術が売り込まれたわけだ。
種痘のあとも、疱瘡神は呼ばれた
種痘が広まれば、疱瘡神は消えた、とはならなかった。駿河の父親は、長男の疱瘡のあとに生まれた子のうち、4人に、入疱瘡と呼ばれた牛痘の接種を受けさせた。別の家の日記には、孫娘に種痘を受けさせ、痘が出た段階で疱瘡棚を吊った記録がある。
研究者は、種痘が受け入れられた理由をこう読む。人痘も牛痘も、当時は予防というより、疱瘡の治療の一つと位置づけられていた。元気なうちに、わざと軽い疱瘡にかからせて治す、という理解だ。旧来の疱瘡の枠組みで理解されたから、種痘は受け入れられた。軽くても疱瘡にかかるのだから、疱瘡神は家に来る。
費用の壁もあった。種痘代は高額で、受けられたのは経済的に恵まれた家に限られたという。
種痘のあとも神送りは続き、兵庫県の丹波篠山では、接種から1週間ほどして、御幣を立てた桟俵に笹の葉や赤飯、水引を供え、道端へ疱瘡神を送る風習があった。大阪府の能勢でも、12日目の湯がけで、赤い紙と赤飯を供えたという。接種の際に、赤い御幣や赤飯、食紅の印をつけた饅頭を供える家も多かった。
牛痘を打てば牛になる。打った所から牛の頭が生える。四つ足で歩くようになる。そんな噂が、種痘に怯える親たちの間で流れた。
幕臣の江川英龍は1850年、自分の子にも種痘を施したと明かし、領内への告諭で、得体の知れない恐怖や噂を打ち消そうとした。愛媛県が1875年、明治8年に出した種痘仮規則も、こうした噂を根拠のない浮説と退けている。
翌日に出された告諭は、親の気持ちに訴える。疱瘡にかかると、玉のように美しい顔が瓦のように醜く変わる。我が子の無事を祈らない親はいないはずなのに、根拠のない流言に迷って、悔しく悲しい目を見る、と。
同じ1875年、錦絵新聞が、ある噂を載せた。疱瘡が流行り、疱瘡神が忙しく人力車で走り回っているという。本所の緑町から浅草まで、14歳か15歳の少女を乗せた車夫が、茅町のあたりで提灯をつけようと、いったん車を置いた、と話は続く。
戻ると、少女は消えていた。紅い紙で作った車賃を立てた桟俵が残っていた。これは種痘にまつわる厄神に違いない、という話だ。
新聞は、この話を事実無根と退けた。種痘の趣旨を守らず、かわいい子にあばたを作り、失明させる愚かさを嘆いた。家の戸に、三人三馬鹿と書いた赤い紙を貼る家まである、と同じ記事は伝える。
1876年には、国が天然痘予防規則を定めた。生後1年以内に1回、その後は5年から7年の間隔で2回の種痘を受ける決まりだ。種痘について流言を発した者への処罰条項まで入っていた。事実上の強制種痘。
神棚に残った赤い御幣
疱瘡は、その後も姿を消さなかった。1946年には、約18,000人の患者と約3,000人の死者が出る流行があった。緊急接種などで収まり、1956年以降、国内での発生は報告されていない。
世界保健機関は、1980年5月8日に天然痘の根絶を宣言した。自然に感染した最後の患者が出たのは1977年で、日本では1976年に、定期の種痘が事実上やめられた。1975年度生まれが、定期接種を受けた最後の世代にあたる。
それでも、疱瘡神は消えたわけではなかった。21世紀に入っても、赤い御幣の疱瘡神を家で祀る例が報告されている。疱瘡にかからずに済んだ感謝の気持ちが残る、と解釈されている。
広島市南区の堀越には、疱瘡神社がある。平清盛の側室、常盤御前の娘が、14歳のときに疱瘡で亡くなり、その地に葬られたという言い伝えが残る。年は1179年と伝わる。
茨城県の土浦市田宮地区には、疱瘡囃子が伝わる。鹿児島県では、入来町と大浦町の疱瘡踊が、それぞれ県の無形民俗文化財に指定された。鼓や踊りで神を賑やかに送る作法は、今も土地の行事として生きている。
東京の神津島には、旧暦の1月14日に、花正月と呼ばれる行事がある。1934年の新聞記事が、その様子を伝えた。子どもたちは、赤い椿の一枝と、団子を刺した枝を手に、塞之神の祠へ向かう。坂道では、しっちりばっちり、ぱっちんこができないように、と口々に歌う。ぱっちんことは、頭にできる腫物のことだ。
祠の前に、赤い椿も白い団子も供えて、黙って拝む。昔は島で毎年のように疱瘡が猛威をふるい、多くの子どもが死んだ。その厄災を免れるための祭りだとも言われ、祠は疱瘡神とも呼ばれている。記事は、祠の前が赤い椿の花の小山になる、と書いた。
